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No.2120の一覧
[0] ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/01 23:36)
[1] Re:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/02 20:46)
[2] Re[2]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/03 20:01)
[3] Re[3]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2008/09/12 00:45)
[4] Re[4]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 21:15)
[5] Re[5]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/06 22:01)
[6] Re[6]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/23 01:53)
[7] Re[7]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/08/28 01:15)
[8] Re[8]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/03 20:47)
[9] Re[9]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/05 07:46)
[10] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/09/17 09:44)
[11] Re[11]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/07 23:17)
[12] Re[12]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2006/10/29 10:31)
[13] Re[13]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/01/09 06:16)
[14] Re[14]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/02 06:09)
[15] Re[15]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/03 16:12)
[16] Re[16]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/03/08 01:23)
[17] Re[17]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)[ドジスン](2007/05/05 03:44)
[18] ワルキューレの午睡・第二部十節[ドジスン](2007/12/26 07:53)
[19] ワルキューレの午睡・第二部最終節1[ドジスン](2008/02/11 03:51)
[20] ワルキューレの午睡・第二部最終節2[ドジスン](2008/02/11 03:52)
[21] ワルキューレの午睡・第三部一節[ドジスン](2008/02/11 03:53)
[22] ワルキューレの午睡・第三部二節[ドジスン](2008/11/15 07:17)
[23] ワルキューレの午睡・第三部三節[ドジスン](2008/11/15 07:16)
[24] ワルキューレの午睡・第三部四節[ドジスン](2008/12/01 06:10)
[25] ワルキューレの午睡・第三部五節[ドジスン](2008/12/08 17:11)
[26] ワルキューレの午睡・第三部六節[ドジスン](2008/12/08 17:13)
[27] ワルキューレの午睡・第三部七節[ドジスン](2009/04/14 00:40)
[28] ワルキューレの午睡・第三部八節[ドジスン](2009/07/27 00:36)
[29] ワルキューレの午睡・第三部九節1[ドジスン](2009/09/21 01:05)
[30] ワルキューレの午睡・第三部九節2[ドジスン](2010/03/19 02:00)
[31] ワルキューレの午睡・登場人物表/あらすじ[ドジスン](2011/02/25 00:16)
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[2120] Re[10]:ワルキューレの午睡 (舞-HiME)
Name: ドジスン 前を表示する / 次を表示する
Date: 2006/09/17 09:44



4.Edge




 赴任から一ヶ月を経て、高村恭司の授業の評判は実にまちまちである。散見できる法則性のひとつに、彼の授業を「面白い」「個性的」「退屈しない」と認めるものは大方が基礎学力が高いか、でなければ教養はあるのに学力が今ひとつ振るわない生徒である、というものがある。反面「つまらない」「わけがわからない」「自己満足」という至極もっともな評価を下すのは、古典や勉強自体にあまり興味を抱かない生徒である。
 悪貨が良貨を駆逐するのと同様、風聞においても悪評は好評に先駆ける。よって何をどうしたところで、これら生徒の声が早晩保護者や同僚に伝わることを防ぐ手立てはない。特に名門私立ともなれば職員の意識が偏っていることもあり、噂の伝播はよく避けえないのであった。よっていまだに、高村は上役に地味に説教を受けているらしい。

 ――とは、鴇羽舞衣の級友である〝学園の消息筋〟こと原田千絵が自ら社会科準備室に突貫して得た情報である。聞き役に徹していた舞衣は、古典の授業を前にした中休みを一言で締めくくる。

「先生も大変なのね」
「舞衣ちゃん、適当だね」

 苦笑するのは、同じく舞衣のクラスメートの瀬能あおいである。

「だって、終盤趣味に走ってるのは事実じゃない。テスト前の最後の授業なんか、もうやることないからって言ってえんえん安部公房の話してたじゃない。古典関係ないっつーの」
「それはたしかにねえ」と、千絵がいう。

 高村の聖職に対する態度はとうてい真摯とはいえないものの、大喜びで常識のメーターを振り切ろうとする杉浦碧に比べればまだハードルが低いというのが一般的な評価だった。幸か不幸か、〝美人で若い〟という形容詞のつく碧が相手では、地味な高村では印象が薄いといわざるを得ない。
 しかし期末テストを終え、いよいよ創立祭が一週間後に迫ったこの日、右腕を包帯で吊って一年A組に現れた高村は憔悴しきっていた。そのときの姿を思い出したのか、あおいが右斜め上の中空に丸い瞳を向ける。

「そういえば先生、また怪我してたよね。あれなんだろう」
「先月も頭に包帯巻いたりしてたし、意外と粗忽なのかね、カレ」と、千絵が言う。事故とのことだが、具体的な怪我の原因は彼女の耳にも届いていない。「まあ私としては、怪我よりも精神的な疲労のほうが気になったな。あれはきっと、怪我のせいで噂の年上彼女に相当絞られたに違いないよ」
「また年上彼女とか勝手に決めちゃって……。だいたい、そんなの見ただけでわかるわけ?」
「もちろん」己の観察眼を誇るように千絵は頷く。

 高村に恋人がいるというやはり千絵発の情報に、当初は半信半疑だった舞衣である。ところが現在ではやや信に傾きつつあった。その理由は高村恭司の身だしなみだ。変わり映えこそしないものの毎日欠かさずのりの効いたシャツを着込み、ネクタイもいまだ同じものを見た、という報告がないとなれば、確かに同居人の存在が疑わしくもなる。
 この事実を受けて、牽強付会な『高村教諭、世話女房と同棲』説は誕生したのだった。ちなみに単純に意外と几帳面なだけ、というあおいが提示した可能性は、千絵により言下に否定されている。

「いくら高村先生が神経質であっても、よほど病的でない限り怪我をしているときにまでそんな余裕があるとは思えない。そしていいかね舞衣くん、あおいくん。男ができると女は変わる。それは逆もまた真なり」千絵は含み笑いでそう言い、続けてこうも言い放った。「というわけで、私はこの説にはかなーり信憑性があると思うんだよね」
「思うんだよねって、それ千絵が広めてる話じゃないの?」
「うんにゃ。碧ちゃんに聞いた。飲みに誘うと、かならずどっかに電話してるんだってさ」
「あたしはそれで一気に信じる気が失せたわ」
「あ、あたしも……」

 舞衣とあおいが揃って苦笑いすると、まあねと言って千絵は肩をすくめ、話題の転換を図った。

「ところでもうすぐ創立祭だけど、舞衣は誰か呼んだりするの?」
「え? ――うん。弟とか、呼ぼうかなって」
「そうなんだ。でも舞衣ちゃんの弟さんって……」

 あおいが若干声をひそめて、気遣わしげな表情をつくる。クラスメートの中で特に親しくなった彼女と千絵に限っては、薄々ながら舞衣の事情を察しつつあった。

「うん、あんまりからだ、丈夫じゃないんだけどね。でも最近は結構元気だし、順調に行けば二学期からは編入も考えてるからさ。創立祭には遊びに来なっていってあるんだ」
「へえ、それは楽しみだ。ウワサじゃ、弟さんカワイイって話じゃない?」努めて何気なく振る舞う舞衣に、すかさず追従したのは千絵である。「ご来場のあかつきには、ぜひ、お姉さまが品定めしてしんぜよう」
「要らないってば」内心でフォローに感謝しつつ、舞衣。「だいたいどっからそんな話聞いたんだか」
「なになに、舞衣ちゃんの弟さんってそんなに可愛いの!?」

 自称『可愛いものに目がない系女子高生』であるあおいは、やや過剰に食いつく。その勢いに腰を引きつつも、舞衣は不敵に笑った。

「まあちょっとね……ていうか、かなり美少年?」
「……姉バカ」

 ぼそりと呟いたのは、隣席で突っ伏していた楯祐一だった。

「誰がバカですってぇ?」とげとげしく、舞衣は舌を出す。「だいたい、ホントのこと言ってるだけじゃない。あんたもあのとき見たでしょ、うちの弟」あのときとは五月、フェリーでの話である。「自慢じゃないけど文句のつけようがない美少年よ、うちの巧海はっ」
「見たけど、それを平気で言える神経が姉バカなんだっつーの」
「ぐっ」

 もっともな意見だ。舞衣は言葉に詰まった。
 前後して、教室の全部の戸が開かれる。
 高村恭司の到着だった。もちろん、右手は相変わらず吊っている。
 ざわついていた生徒たちは一斉に口を噤み、舞衣もなんとなく居住まいを正して、高村がのろのろと教壇に登る様に注目した。

「今日はまた、昨日までに輪をかけて眠そうだ」

 後席の千絵が、興味深そうにささやく。彼女ほど好奇心旺盛ではない舞衣は苦笑をこぼすだけに止めた。
 肝心の高村は、大儀そうにため息をついてプリントを置くと、

「濃緑なのに黒板とはこれいかに」

 といって白墨を取り、荒い筆跡で大きく、教室内の誰の目にも明らかな二文字を黒板に書き殴る。
『自習』とそれは読めた。
 利き腕でないにしては、それなりに見られた字であった。

「というわけで、申しわけないけど今日は自習です」

 予定外の吉報に、生徒たちがざわめき始める。舞衣も嬉しいといえば嬉しいが、どこか腑に落ちなくもあった。なにしろ高村の眼鏡の下には濃い隈取りが表れていて、顔色も優れない。ありていに言って、病人の顔であった。

「プリント終わったら日直、今日はグリーアか、が回収しておいてくれ。で、それをあとで社会科準備室に持ってきてくれるか?」
「かまいません」

 深優・グリーアが抑揚に乏しい音程で了解する。大抵の教師は非の打ち所のない優等生然とした彼女に苦手意識を持つのだが、高村にはまったくそれがない。同窓生にも難儀な、学園きっての才女にわけ隔てなく接するという荒業をごく自然体でこなすのだ。
 舞衣自身は確認したことはないが、二人には事前に面識があるらしい。さらに深優と高村、それに初等部の神童と誉れ高いアリッサ・シアーズを合わせた三人が昼食を囲んでいる姿も、幾度か目撃されている。鑑みて、高村本人というよりはその周辺の顔ぶれに、どうやら千絵の琴線に触れる話題の種はあるのかもしれない。

「それじゃ、悪いけどあとよろしく。あんまり騒ぐなよ」

 と、おざなりに手を振って、高村は足を引きずるように退室していく。その背中さえ褪色しているように見えるのは、茹だる暑さのせいだろうか。
 ぴしゃりと引き戸が閉じられると、ため息混じりのざわつきが教室に染みていった。その中で楯祐一が呟いたひとことは、なぜかはっきりと舞衣の耳を刺した。

「結局、何ものなんだよ、あの人」
「……?」

 声はかけないまま、横目で楯を窺う。頬杖をついた顔はしかめられていたが、前に座っている少女が振り向くと、あからさまに相好を崩した。スケベめ、となぜか面白くない気分で呟いて、舞衣はふと思い出した。
 つい先日のことだ。彼と同じく、浮かない顔で思いつめ、何かを腹の底に溜め込んでいた少女を見た覚えがある。

 舞衣の隣のクラスにいる友人で、アルバイト先の同僚でもあるその彼女の名は、日暮あかねといった。



 ※



 つまり結城奈緒は、派手に動きすぎたのだった。
 風華は発展こそしているが、基本的に人の出入りに乏しい。都市部より、はるかに新陳代謝で劣るのだ。よって過激な行動を繰り返せば、奈緒の顔が売れるのは道理である。チャイルドを利用した追い剥ぎ行為はなぜか表沙汰にこそなっていないようではあるが、その存在は水面下で囁かれ始めている。

 意趣返しを試みようと徒党を組んだ連中に誘き出されたことが、ほんの二日前にあった。
 もちろんすぐさま返り討ちに処したが、愉快な事態ではない。
 なんなく凌いだトラブルとはいえ、まんまと騙された怒りも含め、その夜の奈緒の報復は苛烈を極めた。集団の強みなのか、ジュリアを見てすら角材やナイフを手に向かい来る男の姿を見れば、手加減をする気も失せる。
 とはいえ、奈緒はHiMEである。身体機能もかつてに比べ向上されていた。だから止まった的を落とすような感覚で、命知らずをいたぶるには充分であった。結果奈緒の体には傷ひとつ付くことはなく、怪我人の山が築かれたのだ。
 実を言えば、はじめに血を見た瞬間には、体温が下がる感覚があった。
 しかし腕を振るうたびに苦悶の声をあげ倒れ伏す男たちを前に、体は熱を帯び始めた。
 全能感に酔い痴れて、奈緒はこれだ、と思った。カネなんかどうでもいい。そりゃあるに越したことはないけれど、そんなのよりも、あたしはこっちの方がいい。ずっと楽しい。バカな男、バカな女、バカな大人、バカな世界。それが、この力のおかげで変わった。すっきりした。自由になった――。
 我を失いつつあったのだろう。
 あわや男の一人に取り返しのつかない傷を刻もうとしたすんでで、制止が届いた。

「そのへんにしときなよ、奈緒ちゃん」銀髪の少年。炎凪だった。路地の壁際に詰まれたビールケースに座っている。「それ以上やったら死んじゃうよ、この人たち」
「かまうもんか」と奈緒は夢心地でいった。「こんなやつら死んだって、どうせ誰も困んない」
「きみは困るんじゃない? だって、人を殺したら人殺しだ。犯罪者だよ。いくらHiMEとはいえ、この法治国家でそんな真似はまずいんじゃないかなぁ。まあ、奈緒ちゃんはまだ中学生だし? 意外とその法律が守ってくれるのかもしれないけど、ね。ほら、いつかの人たちみたいにさ」
「――あ?」

 戯れるような言葉の意味するところを悟って、奈緒は思考を停止させた。
 冷や水を浴びせられ、火照っていた全身が急激に冷却される。
 ――知っているのか。
 驚愕に眼をみはって、奈緒は端整な細面を歪めた。
 ――こいつ、知っているのか。
 骨格ごと歯の軋る音と敵意が、口から漏れ出した。

「あ、んた。なんで、そのこと」
「なんのこと?」凪は空とぼける。邪気なく笑い、ワイシャツの胸ポケットから折りたたまれた紙切れを取り出した。「あっれー、おっかしいなぁ。こんなところに、誰かが捨てた葉書があるよ。ええ、なになに。おや偶然、宛名は風華学園女子寮の結城奈緒さまだって。それで差出人は、県立総合病院脳外科の――おぉっ?」

 手心はまるで念頭になかった。殺意を浸透させたエレメントによる糸の乱撃を奈緒は繰り出す。が、慌てふためきながらも転がって、凪は無傷で立ち上がる。

「ヒドイなぁ、いきなり」薄笑いを浮かべ、指先に挟んだ手紙を振る。
「……うるさい」
「こわい顔。せっかく可愛いのに、それじゃあ台無しだ。男の子もいまのきみを見たら、近寄ってこないよ」
「うるっさいんだよッ!」

 半ば叫び、双眸を尖らせる。追撃を仕掛けるために、奈緒はエレメントを凪へと突きつけた。
 しかし、少年の姿はなかった。
 消えたのだ。コマを落としたように。

「え――」

 声は頭上から降ってきた。

「HiMEの力を好きに使うのは、まぁいいよ。今までだってきみみたいな子はいたんだ。げに恐ろしきは人知を超えた能力!――そんなの貰って自分のために何にも使おうとしないのは、この世界じゃ逆に不健全なのかもね。ま、ぼくはそういう子のほうが断然好みなんだけどさ」

 見上げれば、虚空に炎凪の姿がある。浮いているのではなく、灯りの切れた街燈を足場に立っていた。吊りあがった猫のような瞳に、怜悧な光が揺れて奈緒を見下ろしている。うそ寒さを覚え、奈緒は知らず後退した。

「でもね、やりすぎはいけない。あんまりおイタが過ぎると――」

 まばたきの死角にひそみ、凪は再び姿を消した。
 奈緒の背後に気配が生まれる。咄嗟のことに振り向けず、奈緒はただ立ち尽くす。

「お仕置きだ」

 その凄味には、息を呑ませる何かがあった。

「なんなの、あんた」振り返らないままに、奈緒は疑問をぶつけた。「HiMEの何を知ってんの? あたしに何やらせたいわけ? ハ、でもお生憎、あんたが何考えてようと関係無い。あたしはあたしの、好きにやる。命令なんてまっぴらよ。いい? クソガキ。今度あたしの邪魔をしたら、……オシオキされるのは、あんたのほうだよ」
「怖い、怖い」こたえた様子もなく、凪はいった。「まあ、こっちも脅しじゃないからね。実際むちゃが行き過ぎると、かばうのにも限界はある。因果応報って言葉、忘れないようにね。結局は奈緒ちゃんの自由意志だけど、気には留めておいてよ」
「……」
「――あ、そうそう。高村センセになんか言われてたみたいだけど、悪いことは言わないから、カレにはあんまり近寄らないコト。センセ、悪い人じゃないんだけど、なんだかちょっと――ま、いいか。それじゃ、夜道には気をつけてね」
「高村って、アイツが何だって、……」

 ようやく振り向くと、そこにはもう、凪の影さえ残ってはいなかった。
 いや――。
 しわだらけになった手紙が一切れ、落ちていた。苦りきった顔でその紙屑を見下ろすと、奈緒は指を伸ばし、拾い上げる。
 昂揚は完全に消えていた。そうなれば転がる男たちに、玩具としての価値すら見いだせない。

「――吐きそう」

 呪詛を紡ぎ、手紙を破り、捨てようとして思いとどまり――ポケットに納めた。奈緒は病的な眼差しを夜に投げかける。光沢のない闇は残らず彼女の悪意を吸い込む。だがもちろん、何ひとつ返しはしなかった。



 ※



 石膏の白色と血液の赤色が水に溶ける。そして排水口へとまだらに流れ込む。ひとまず血が止まったことを確認すると、高村はプラスティックのコップに汲んだ水で口腔をゆすぎ、顔を洗った。
 真正面の鏡台は、世辞にも健康とは見えないおのれの顔を映じている。ため息を落として歯ブラシを手に取ると、高村は左手でリズミカルに歯を磨き始める。右腕ほど重傷ではないものの、実は左の手首も捻挫している。終始痛みをこらえながらの作業であった。
 授業中、高村以外に誰もおらず静まり返った社会科準備室に来客があったのは、ちょうどそのときである。てっきり深優・グリーアが予定を前倒ししてやってきたのかと思った高村は、ピンク色の歯ブラシ咥えたまま訪問者を出迎えた。
 結城奈緒だった。

「……ぎゅうき」結城、と発音したつもりである。
「なんで歯磨きしてんの」

 と、開口一番奈緒は言った。夜行性らしく、日中は下手に刺激さえしなければ気だるげなだけの瞳が、やや危険な光を放っている。なんだなんだと構えつつ、用件は、と高村は尋ねようとした。

「ぎょうけんは?」
「決まってんじゃない。例のハナシ。聞きにきたんだけど」
「ちょっひょまっへくりぇ」ちょっと待ってくれ、と発音したつもりである。
「……口にモノいれて喋んないでよ」
「うぐ」

 疲労と不眠のせいもあり、高村の思考はやや算を乱していた。とりあえず歯磨きを終えると、タオルで口を拭いて奈緒に着席を勧める。ふてぶてしい態度で腰を降ろす彼女に首を捻りながら、

「なんか飲み物でも飲むか」と高村は言った。
「いらない」
「紅茶、コーヒー、ジュースのどれがいい? あと昨夜準備会が持ち込もうとしたのを没収したビールと梅酒もあるけど、これ生徒に飲ませると馘首になるからアルコールはダメだぞ」
「いらないっつーの」
「じゃあジュースな」
「……」

 自宅では同居人のためにことさら不備を実感しなかったものの、いざ独りでなんらかの作業をこなそうと思うと、片手での準備は存外難儀である。タンブラーに氷と飲み物を注いでいると、不自由なのが右手ということもあって自然と過去のことが思い返された。
 振り切るように、さて、と吐息する。背広の内ポケットから常備している内服薬を取り出し、汗をかきはじめたコップを前に沈思した。薬剤の正体は強度の睡眠薬である。もちろん、医師の処方箋がなければ購入できない種類のものだった。
(鴨がネギしょって、てやつだけど)
 死角から奈緒の様子を窺うと、手持ち無沙汰で準備室を見るともなく見ているようだった。大抵の生徒は職員室に属する場にいれば萎縮するものだが、奈緒にそんな様子はない。役者が違うということだろう。
 高村が個人的に接点を持つ少女は、どこか浮世離れしていることが多い。それだけに、奈緒のような現代的、しかも十代なかばの少女と授業以外の空間を共有するということに、少しの抵抗があった。

 教師と生徒を隔てるのは、年齢差に加え、さらに『立場』である。つまり社会における役回り。同じ空間で酸素を共有しようとも、両者は懸絶する。例外はあろうが、そこを弁えないものは、教師として長く勤めることはできない。高村が履修した教職単位の授業は、『体罰の厳禁』とともにその種の教えを手を変え品を変え一貫して言い聞かせたものだ。
 高村の心象において、結城奈緒はどこか、玖我なつきに近しく感じられた。ふたりとも他者を遠ざけ、自身の領域を重んじる。またコミュニケーションの形式が、攻撃に傾倒している。触れるものには、まず排斥することから始めるのだ。どこか小児的な感性である。
 一方で、奈緒にしろなつきにしろ、HiMEなどとは関係なく、同年代と比べて優れた社会感覚や能力を保持してもいる。また性質は違えど、自ら恃むところが篤い。明らかに違うのは、なつきにとっての防壁が奈緒にとっての武器であるという一点だ。そしてどちらにも共通しているのは、外面的な要素としての秀麗さである。

「身も蓋もないな。これだから美形ってやつは」

 一言ぼやいて、高村は手中にあった水溶性のタブレットとオブラートに包まれた粉末を、残らずコップへと落とした。成分の調整が激しい炭酸ジュースならば、おかしな味もさほど目立たないに違いない。
 これでもう後戻りは出来ない。さっそく鎌首もたげた罪悪感に胸が悪くなる。高村は己の小心を呪おうとして、思い直した。もちろん心がけひとつで何が正当化されるわけではなくとも、些末だろうと悪行に心を慣れさせてはいけない気がした。小心は、だから汚泥の中一点の白なのだ。まったく私的なこだわりから、高村はそれを失いたくなかった。
 さらに砕いた氷を追加し充分にかき混ぜると、トレイを手に何食わぬ顔で奈緒のもとへ戻った。
 黙って差し出されたタンブラーを胡散臭そうに奈緒は見つめるが、十秒もそのままにしておくと、根負けして手に取った。温度差に締め上げられて、氷がからんと鳴いた。
 ガラスの表面に結露した水滴を目の当たりにして、そういえば商店会から差し入れされたチョコレートがあった、と高村は呟いた。案の定、冷蔵庫の奥まった場所に、色紙で包装された上リボンまで添えられた容器が隠されていた。いつの間にか貼られていた『みどりちゃんの』と書かれたメモを引き剥がすと、奈緒に見せて振ってみせた。

「デルレイじゃない」準備室に踏み入れて初めて、奈緒が陽性の反応を見せる。
「食べるか?」
「……くれるっていうんなら、もらう」
「ついてるな、買うと高くつくって話だぞ」
「そのサイズなら、四千円くらいするけど」
「本当か?」手の中の長方形を、高村はまじまじと観察した。「茶請けにしては高級だな。まあ、いいか」

 中身にはカカオの香る、見るからに高級といったチョコレートが十個並んでいた。単価四百円の計算である。その内ひとつを恐る恐るつまみ、一口に行くべきかそれとも味わうべきかと扱いあぐねていると、

「それで、バイトの話だけど」早々とひとつ平らげた奈緒が、やおら口火を切った。

 値踏みの視線を真向から受けとめて、高村は椅子に深く座りなおした。

「そうだな。まず確認しておこう。俺のところに来たってことは、少なくとも話を聞く気にはなった、ってことで構わないか?」
「念のため言っておくけど、まだ信じたわけじゃないから」
「わかってる。まあ、そう構えないで、話を聞いて判断してほしい」

 そこまで言うと一度眼を閉じて、高村はどう交渉するか、一寸黙考した。この段階で結城奈緒がこちらの話に乗ってきたのは、正直なところ意外である。可能性としては考慮していたものの、もう二手三手絡める必要があると判断していたのだ。結局その場では妙案浮かばず、正攻法で攻めようと決意した。

「順を追って話をしようか。俺が結城に頼みたいことってのは、護衛だ。これは言ったな、確か」
「聞いたけど、いったい何から守れっていうわけ?」
「オーファンだ」小細工は放棄して、単刀直入に高村は告白する。

 コップの口に唇を寄せていた奈緒が、眼を真丸に開いた。

「……どういうこと?」
「どうしても調べたいことがあるんだ。だけど、それを進めようとすると必ずオーファンの邪魔が入る。だから、オーファンを退治できるHiMEに守ってもらいたい。それで、その間に俺は用事を済ませたい。要はそれだけの話だ。報酬が大きいのは、危険手当とそして口止め料、あとはそれだけ重要な調査だって思ってもらえればいい」
「ふうん。それでごせんまん、ね」
「ああ。耳を揃えて五千万かっていうと微妙だけど、とりあえずそのくらいまでなら出せる。もちろん、一括ニコニコ現金払いってわけにはいかないから、受けてくれるならいくつかに分割して渡すことになるけど」
「それは今はいい。現物がなきゃ意味ないし。それよりさ」

 疑わしげな眼差しが、鋭くなる。一切の虚偽を見逃すまいとでもいうように。

「その、調べたい事ってのはなに?」
「色々ある。総括すると、HiMEのこと、オーファンのこと、そしてこの土地、つまり風華学園のこと、だな」
「……HiMEだとかオーファンだとかは、まあわかんなくもないけどさ。このガッコ叩いてどうすんの。何があるわけ」
「何がある、って」思わず、高村は吹きこぼした。「あからさまに怪しいだろう、この学校。HiMEを集めて、起きた事件をことごとく世間の目から隠して、オーファンの存在だって公表もしない。まだまだあるぞ」
「そういうことじゃなくて」やや苛立ちを見せて、奈緒。「どういう意味があるのか、ってこと」
「それについては、もうちょっと話を遡らなきゃならないかもな」待っていたとばかりに高村は軽く笑む。「まず結城に聞きたいんだけど、君はHiMEについて何を知ってる?」
「何をって……超能力みたいなもんでしょ」
「ロマンだよな、超能力。だけど、そんなに生易しいもんだと思うか? スプーン曲げたり透視したりするようなレベルじゃないぞ、HiMEの力はさ」唇を湿して、高村は続ける。「玖我なつきの話によれば、高次物質化能力、がHiMEの訳らしい。読んで字のごとく、〝なにもない〟を〝もの〟にする能力ってわけだな。これは簡単に言ってるけど、とんでもないことだ。超能力、の一言で納得するのは、ちょっとどうかと思うぞ」
「別に。テレビの中身を知らなくても見れるのと一緒じゃん」

 得たりと、高村は奈緒の言葉に大きく頷いてみせた。

「そう。まさしく、インターフェースの問題だ。エレメントやチャイルドを生み出す仕組みがテレビだとすると、結城や玖我、それに美袋はリモコンってことになる。HiME能力者は、生まれつきチャンネルの回し方を知ってるんだ。ということは、能力者以外でも、その方法さえわかれば同じ超能力者になれるかもしれない」
「……」

 奈緒は既に白眼である。若干呆れられていると自覚したが、興が乗ってきたところだ。構わず高村は喋りつづける。

「だから、もちろんそんな便利な力があれば、当然研究してる人たちもいる。そうして解き明かされたHiMEの原理はこうだ。能力はなぜか日本人の女性、しかも十代前半から二十代前半の年代にだけ見られ、さらにこの発現にはR25と呼ばれる遺伝子が関わっている、と。そしてエレメントやチャイルドという存在は、能力者が潜在意識に飼っているアルター・エゴである、と」
「それ」奈緒が言った。「初耳だけど、実際なんもわかってないのとどう違うのよ」
「鋭いな、結城。その通りだ。実際は、なにひとつわかってなんかいないのさ。少なくともこの説明じゃ、肝心なところは判らないままだ。エレメントも、チャイルドもオーファンも、もちろんHiMEの仕組みそのものについても」高村は苦笑して、指摘の正しさを認めた。「このR25ってのは近年までジャンクDNAとされていた。が、研究によりこんな役割が……ってもっともらしい論法に騙されるわけだ。玖我なんかは鵜呑みにしてるみたいだが、理系脳の弊害かもな。健全だってことでもあるんだろうが」
「……」

 話す間にも、奈緒はふたつみっつと高級チョコレートを口に放り込んでいる。瞳はやや眠たげに、とろんと潤んでいた。

「この論説は、オーファンの存在を無視している。結城も知ってるだろうが、オーファンとチャイルドっていうのは同じものだ。本質的にどうのなんて話じゃなく、一から十までそっくりだ。違うのは、HiMEを主に戴くか、戴かないか。それだけでな。同時に、HiMEの力とは、チャイルドの力とも言い換えることができる。よって、オーファンを解き明かすということはHiMEの正体に迫るために欠かせない手順でもあるわけだ。そもそも、高次物質化とはどういった現象なのか? 力学的な法則は俺にはわからない。相当な科学者にだって、しかしわかっていない。マテリアルのイリアステル。仲介を担うHiME、すなわち巫女が――結城?」
「……あに?」はっと顔を上げた奈緒の呂律は怪しい。首の座らない赤子のように、頭部が揺れている。「……え、なに、コレ……なんか……」
「なんだ、これからだってのに眠いのか。連日連夜夜遊びしてるからかな」高村はいった。「それともこのチョコレートのせいかな? ウィスキーが、ちょっときついみたいだけど。まあボンボンで酔うやつなんてそうそういないか。って、おい結城、結城?」

 名前を呼んでも、反応はない。なぜならば、奈緒はすでに意識の大半を夢中に遊ばせていた。目元の震えは睡魔への抗いか。しかし奮闘むなしく顎が完全に落ちれば、あとは呆気なかった。高村のデスクに腕を枕に突っ伏して、寝息を立て始める。
 高村は五分待った。
 その間に、奈緒は完全な眠りへと落ちていた。

「不眠症って話なのに、睡眠導入剤の常用者ってわけじゃないみたいだな。じゃあちょっと量が多すぎたか。……効き過ぎな気もするけど、処方は守ったからまあ大丈夫だろう。……たぶん」

 後頭部を見おろしながら呟くと、準備室の戸を施錠して、高村は準備に取りかかる。
 手早く三角巾を脱ぎ、高村は奈緒の腰と足へ両手を回した。軽い、と彼は思った。彼女がまとう色気の萌芽とでもいうべき雰囲気からはかけはなれた、細い、肉付きに欠ける体つきだった。そのまま、脱力した肢体を来客用のベンチシートに乗せる。目ざめる気配はまるでなかった。活力に溢れる若い肌だからこそ見た目には気付きにくいが、奈緒の精神はともかく肉体は、やはり充分な眠りを欲しているのだろう。なにしろ成長期である。

「しかしまるっきり変質者だな、これは」

 自嘲の呟きは、緊張を紛らわせるための軽口でもある。高村はさらに間断なく行動した。ロッカーに置いた自前の鞄から、数枚の用紙とポーチを取り出す。ポーチの中身はアンプルと注射キット、そして用紙の内容は九条むつみ謹製の注文状である。
 慣れた手つきで人差し指大の注射器を左手に持つと、高村はケースに密封された替え針をその先端に取り付けた。脱脂綿にアンプルのオキシドールをふりかけ、針を拭き、奈緒の腕を取る。露出した二の腕にゴムチューブをそっと巻きつけ、白い肌に血管が容易に透けて見える関節の継ぎ目を、やはり脱脂綿で消毒した。血行の促進のためというよりほとんど儀礼的に、皮膚を指で叩く。そして完全にポンプを押し切った針を注射し、採血した。赤黒い静脈血が、見る間に注射器の中へ吸い込まれていく。目方で一杯になったところで、静かに針を引き抜いた。その間、奈緒は声どころか表情も変えなかった。

「エレメントも出してくれるとありがたいんだけど」傷口を拭きながら、安堵ともに呟いた。「そこまで行ったら望みすぎか」
 
 キットを再びポーチにしまうと、緊張が解けたせいか、額に汗が滲み出した。時計を見ると未だ終業までには間がある。無防備に眠る奈緒を前に、高村は考え込んだ。打てる手は打っておくべきだ、と自分を納得させるようにひとりごちた。
 と、妙案がひらめいた。
 これはやるしかない。そんな気分が彼の背中を押した。
 いにしえにいう、魔が差した瞬間である。

「よし」

 準備室には、仮眠する教師のためにということなのか、なぜか寝具が一式そろっている。かといって仮眠室に相当するようなスペースはないので床で雑魚寝かシートの上かということになるのだが、今はそのあたりは考えずとも差し支えない。部屋の隅の収納から布団を運び出すと、高村は床にそれを敷いた。
 弾むような足取りでシンクへ向かい、コップに水を汲む。取って返し、実に楽しそうな顔で寝そべる奈緒の尺を布団と比較すると、おおよそ腰の位置と思われるあたりに、コップの中身を撒いた。当然、布団の綿は見る間に水分を吸い込み、染みは立派な世界地図となった。
 そして、仕上げである。高村は再度奈緒の体を抱え上げた。貴婦人にもそうはしないだろうという丁重な手つきで、少女の体を染み付きの布団に寝かせる。さらに様々な角度から検証し、いかに迫真の『寝小便した結城奈緒(15)』の画を作り上げるかに腐心した。納得の構図が出来上がると彼は満足そうに頷き、あとは無表情に私物のデジタルカメラで艶姿を激写した。無断の採血などよりはるかに犯罪的な男の姿がそこにあった。
 十枚ほどアングルを変えて撮影すると、高村はデジタルカメラと仕事用のノートパソコンとをUSBケーブルで接続し、データを余さず退避させた。さらにノートパソコンから自宅のパソコンのアドレスにバックアップしようとして、さすがにそれはまずいと思い直す。結果、一度だけプリンターを稼動させたあとで、高村は全てのデータを消去した。要ははったりさえ効けば問題ないのだ。

「保険、保険」と言い訳がましく口にした。

 証拠を処分し終えると、計ったようにチャイムが鳴った。深優・グリーアがプリントを持って来訪する予定を思い出し、彼は慌てて部屋を出た。



 ※



 短い中休みの合間である。社会科準備室がある棟は、静まり返っていた。足音ばかりが規則的に響いている。
 深優・グリーアが課題を抱え廊下を歩いていると、常よりも心拍数が高い高村恭司が、どこか浮ついた調子で向かいからやってきた。

「やあ、悪いな。問題はなかったか?」
 深優は頷く。「隣のクラスから一度クレームが来ましたが、概ね平穏な授業風景でした」
「まあ、そんなものか。こっからは俺が持っていくよ、プリント。ありがとう」
「しかし、先生は怪我をしていますが」冷めた目で深優は指摘する。「指、手首、肩の刺傷が総計十八針。さらに右尺骨の亀裂骨折に左手首の捻挫。これはデータベースに照らし合わせても重傷にカテゴライズされます。安静にするべきではないでしょうか」
「男だから、平気なんだよ」高村は苦笑する。
「ジェンダーの差はこの場合無関係かと思われますが。精神論は、常に有効とは限りません」
「いいから、いいから。深優は女の子だろ」

 と、高村は深優の腕からプリントの束を取る。これ以上の進言は個人の主義主張に関わるものだと了解し、深優は口をつぐんだ。そしてこの場合いうべき言葉を検索する。

「……ありがとうございます」
「どういたしまして」なぜか嬉しそうに、高村は返礼した。「それより、聞きたいことがあるんだけどさ。この学校に山岳部ってあったっけ?」
「山岳部……ええ、あります。ただし活動はあまり活発ではないようですが」
「いや、あるなら問題ない。そうか、あるか。部室の場所とか、わかるか?」
「ええ」

 深優はよどみなく部室棟の中から山岳部が占めるスペースを挙げる。高村はそれを一度でおぼえ、今度は彼がありがとうと言った。いえ、と深優は答える。

「それじゃ、またあとでな」

 踵を返しかけた高村を、深優は必要最低限の音量で呼び止めた。

「高村先生」
「ん?」
「対象がもうひとり捕捉されました」深優は単純明快に事実のみを告げた。「そして本国からの指令です。近々、まずは一騎を落とせと。プロジェクトもその方向で修正を図ることになります」
「……ここでそんなこと話していいのか?」苦慮に分類される表情で、高村がうめくようにいった。

 深優は肯う。

「盗聴の心配はありません。詳しいことは後ほど、お父さまからうかがってください」
「――そうか。わかった」瞳を閉じ、開くと、高村は軽い調子で言った。「なあ、深優。実は創立祭の慰労会のロケハンを頼まれててさ、それで明日か明後日あたり美星海岸に下見に行こうと思うんだけど、深優もアリッサちゃんと一緒にどうだ?」
「海、ですか。私と、アリッサお嬢さまと、あなたで?」
「そう。三人で」

 深優は真意を探るように、レンズの奥の瞳を見つめ返した。高村は動じない。

「そんな場合ではないでしょう」理知的な返答は、常の彼女のものだ。
「こんな場合だからこそ、だよ」それもまた、常の彼らしい答えだった。
「アリッサさまのご予定は、ご本人が――」
「きっといいって言うさ、彼女なら」
「……」

 確かに、あらゆる演算は二つ返事でのアリッサ・シアーズの了承を支持している。だが〝なんとなく面白くない〟ものを感じて、深優はつっけんどんにいった。

「でしたら、私からあなたとお嬢さまに何か申し立てる意思はありません」
「じゃあ、決まりな。詳しいことが決まったら、電話する」

 そう言って彼が立ち去ったあとも、しばらく深優は動かずにいた。不可思議な心の動きというものに、彼女は戸惑っていたのだ。
 高村恭司。主人が心を許し、自身への接し方も他と一線を画す男に対し、深優は不明瞭な『感慨』をしばしば持て余す。それは彼女がアリッサに寄せる暖かな感情とは異なる、二面性の想いである。
 深優の知らない深優を、彼は知っている。
 知るはずのない彼を、深優は知っている。
 未発達のプログラムが綾を成す。格子模様に翻弄されて、まだしばらく、深優はその場に立ち止まって『いたかった』。



 ※



 結城奈緒が目を醒ますと、そこはベッドの上だった。

「え?」

 驚きもあったとはいえ、抵抗なく目蓋が開いたのは実に久しぶりである。十時間も眠ったかのような熟睡の感覚に忘我して、奈緒は布団の中で寝返りを打つ。
 横臥する薄暗い空間には見覚えがあった。シングルベッドを囲むパーティションにかかったカーテンにもだ。紛れもなく、彼女が授業をたびたび抜けてもぐりこむ保健室の寝台だった。

「なんで……」

 記憶が繋がっていない。不安な面持ちで、奈緒は腕を眼前にかざした。独特の空気と体内時計が、時間帯の深いことを彼女に教えていた。冴えながらも快眠に名残を惜しみつつ上半身を起こし、携帯電話で時刻を確認すると、既に午後七時を回っていた。放課後どころか、いつもならば寮か町で暇を潰している時間帯である。
 鼻腔をくすぐり食欲を刺激する化学調味料のにおいを嗅ぎ取って、奈緒はベッドから足を下ろしカーテンを開けた。そこにいたのは、保険医の鷺沢陽子ではなかった。染髪した長めの髪をアップでまとめた薄着の女が、カップラーメンを前に手を合わせている。

「お、起きたか」女、杉浦碧は奈緒の視線に気付くと、にっと笑った。「ごめんね、創立祭の準備で怪我した子が出とかでさ、陽子いま付き添いで出てるから。んで、あたしが替わりに留守番してるのー」
「はあ」

 一度保健室に居合わせた碧に仮病を看破されて以来、独特の性格とあいまって奈緒は彼女を得手にしていない。なおざりに返事して、奈緒はさっさと場を辞そうとした。なぜ保健室にいたのかはわからないが、碧と二人きりで留守番などごめんだった。

「それじゃあたし、帰ります」
「あ、ちょっと待った待った」麺を啜りながら、碧がはふはふと吐息した。「結城奈緒ちゃんでいいんだっけ? キミのこと、恭司くん、ていうか高村先生ね、が運んできたんだけどさ」

 高村恭司。
 眠る前の自分が誰といたかをすぐに思い出し、奈緒は血の気の下がる思いを味わった。ほぞを噛み、咄嗟に着衣の乱れを確認する。異常はどこにも見あたらなかったが、何をされたかわかったものではない。なにしろ奈緒は眠ってしまったのだ。その間のことは、高村にしか知れない。
(よりにもよって、男の前で!)
 強張る奈緒の胸裏を見透かしたように、碧は落ち着いた笑みを浮かべた。 

「過剰反応だなぁ。大丈夫だって、恭司くん人畜無害だから。せいぜい面白いイタズラされてるくらいデショ。落書きとかさ。これに懲りたら、無防備にオトコのコの前で寝たりしちゃ、もうダメだよー」
「……っ」

 落書きと聞いて、奈緒はポケットの手鏡で顔を確認する。碧があっけらかんと言った。

「なぁーんにもないよ。今のはたとえだよ、たとえ」
「……帰る」
「だから待ってって。美少女なのにせっかちだなー、奈緒ちゃんってば。実は、話があるから目覚ましたら待っててもらうように言っといてって頼まれてるんだ。恭司くんも陽子たちと一緒に病院行って、もうちょっとで帰ってくるだろうし、悪いけど待っててくんない?」
「いやです」

 答えて、奈緒は上履きに足を通す。誰が持ってきたものか、私物のポーチは空いたベッドの上に置いてあった。これで教室に寄る必要はなくなったというわけだ。カップを手放さない碧を一瞥すると、足を出口へと向けた。
 戸が開いた。

「戻りました」高村だった。鷺沢陽子ともうひとり、中等部の生徒らしき詰襟姿を伴っている。「やあ。結城。目を覚ましたか」
「……どーも」

 毎度なんてタイミングの悪い男だろう。心中ひそかに毒づきながら、奈緒は高村を眇めた。チョコレートを食べてからの記憶がどうにも曖昧なことが不審だった。ありえないとは思うが、一服盛られた可能性も否定できない。また、『何もされていない』という碧の弁も到底信じられなかった。
 結城奈緒は、潔癖症というわけではない。性にうといわけでも、それそのものを毛嫌いしているわけでもなかった。彼女はただそれらを見下げているだけだった。そして自身を取り巻いて離れない負の感情の全ての行き場として、まともに頭を働かせばありえそうにもない、甘い話に食いつく愚かな男を置いていた。
 奈緒は知っていた。成熟に遠い女の春をめあてに大枚をはたく男が巷に溢れていることを。そしてその種の男が自分を前にどれほど好色そうな顔をするかを。無害そうな顔をしていたところで、高村とて肉と欲とをそなえた汚らわしい男には違いない。意識のない、無抵抗な自分を前にして、高村が何を思い、見、触れたのか――想像するだに総毛立つ。軽蔑と敵意をあからさまにしかけて、しかし奈緒は何とかそれを抑制した。授業を抜けわざわざ高村のもとに向かったのには、それなりの狙いあってのことだ。今だけでも、表面的に大人しく振る舞っておかなければならない。
 高村の背から顔を出した陽子が、ずるずるとスープを飲み込む碧を見て、眉を吊り上げた。

「杉浦先生! 保健室でそういうの食べないでください! においが残るでしょう、においが!」
「ええ? どうせ消毒液くさいじゃんこの部屋。中和、中和」
「とんこつのにおいのする保健室なんて近寄りがたいわよ! 食べるなら外で食べて!」
「今食べ終わりまぁす」
「あの」

 戯れあう碧と陽子を前に居づらそうにしていた詰襟の生徒が、高村に向かって軽く手を挙げた。

「なんだ、尾久崎」
「オレ、そろそろ作業に戻ります。わざわざ病院まで手間かけさせてスイマセンっした」

 尾久崎と呼ばれた生徒は、長髪をうなじでひっつめにした、声や細身も合わさってユニセックスを思わせる顔立ちをしていた。ただし物腰や言葉遣いは非常に体育会系で、どことなく不均衡を連想させる佇まいである。

「いや、こっちこそ個人的な用事に付き合ってもらって済まない」腕を吊ったままで、高村が器用に肩をすくめた。「ただの打ち身でよかったよ。そっちも大事にな。ああ、それと……」
「はい?」
「俺が言えた義理でも筋でもないんだが、もしよかったら、暇なとき、近くに立ち寄ったときでいいから、彼のところ、遊びに行ってやってくれないかな。俺はこれからちょっと忙しくて足を運びにくくなるだろうし、どうも、尾久崎ともっと話したがってたみたいなんだ」
「はあ。えー、あー……」合点が行かないという顔で、尾久崎が頭を掻いた。「別に先生の親戚ってワケじゃねーんですよね、あいつ」
「友人というか、同好の士というかだな。ダメか?」
「まあ、別にオレは構わないですけど。暇なときでいいっていうんなら」
「そうか」と高村が破顔した。「じゃあ、頼むな」
「……うッス」

 頷くと、失礼しました、と一礼して、颯爽と姿を消してしまう。どさくさに紛れてそれに倣おうとした奈緒を、高村が呼び止めた。

「どこへ行くんだ?」
「帰るに決まってるじゃん」奈緒は答えた。「もう七時でしょ」

 ふーん、と呑気な相槌が打たれるのを待たず、奈緒は高村の傍らを通り過ぎて保健室を出た。常の消灯時間は過ぎているというのに、校内ではあちこちにまばらな灯りが見て取れた。電球のフィラメントが燃え尽きたにも関わらず交換せず、歯抜けになってしまった電光掲示板の面影がそこにあった。
 創立祭の準備で居残りをしている生徒がいるのだろう。報酬もないのに進んで労働に身を投げ出す彼らを、奈緒は馬鹿馬鹿しいと思った。連中は浪費される時間を青春などと名付けて重宝がっている。無駄は無駄だ。一年後だろうと十年後だろうと価値は変わらない。今にしかできないことだからと、鬱陶しい連帯感に身を投じる気にはとてもなれなかった。今にしかできないことは他にも山ほどある。我意を通す力としてのHiMEを得た今となっては、いっそう強くそう感じていた。
 窓外では車からバッテリーを引いた照明が晧々と光っていた。屋台や舞台の設営に、生徒のみならず業者や付近の商店街の人員までが駆りだされているようだった。大声で指示を交わしあう熱気の渦がそこにあった。思いのほか手際良く彼らは動き回り、着々と祭りへ向けて準備を整えているようだった。奈緒は冷え冷えとした目で彼らを見おろすと、開いた窓から香るにおいに小鼻をひくつかせた。どこかで線香が燃えるにおいがしていた。虫除けのために焚いているのだろう。窓を閉じ鍵を閉めると、彼女は再び歩き出した。
 ずいぶん長く寝たせいか、いつも夜が深まるにつれ意識を蝕む不眠への憤りは薄かった。つまり暴力でそれを発散する必要も今夜はないのだ。そもそも『釣り』の仕込みをするにも今からでは遅すぎる。創立祭の前準備として明日の授業が午前中で終わることを思い出し、では久しぶりにひとりでレイトショウにでも足を伸ばそうかと思いたった。が、その計画は早速断念せざるを得なくなった。
 昇降口に高村がいた。
 下駄箱に上履きをしまいローファーを取り出し敷居をまたぎかけた奈緒は、その男の姿を見ていぶかしげに目尻を伸ばした。

「なにしてんの。ここ中等部だけど、先回りしたわけ?」
「ああ、保健室じゃ言いそびれたけど、結城にバイトの話。急で悪いけど、今からはどうだ? 体験ってことでさ。下見だから二、三時間で済むと思うんだけど」

 そういえば、と奈緒は思った。報酬五千万。とても信じられないギャランティー。昼はまさにそれについての話をしていたのだ。その際に突っ込んだ説明を受けたのかもしれないが、聞き流していた事もあってほとんどおぼろげにしか記憶はなかった。

「たしか、オーファンからセンセイを守るってやつ? なら、今夜はパス。ダルイし」
「あいにくと、そんなにノンビリ構えてる暇もなくなってな。結城なら夜更かしはお手の物だろ?」
「メンドくさいっていってんだけど?」
「金は払うよ、ちゃんと。さすがにすぐに五千万とはいかないけどな、手付ってことで」

 付け足された最後の台詞を、奈緒は不快に思った。金で易々と動く人間だと勘違いされるのは気に障る。しかしそんな矜持とはべつに、奈緒はしっかりと金銭の価値を知ってもいた。自由に――思い通りに生きていくために、実際それは何より有用な力なのだ。ことによると、HiMEよりも。
 高村は、静かな面持ちで奈緒の答えを待っていた。格好は夏が盛んになっても変わらない、いつもの背広にシャツにネクタイとスラックス。保健室と違うのは、ショルダーバッグを提げている点だけだった。

「……いくら?」

 あまり期待せず奈緒は尋ねた。この期に及んでも、高村にそれほどの資産があるとは思えなかった。数千万単位の貯蓄など、一流企業に定年まで勤めて得られるかどうかだ。奈緒個人の才覚によらず、金を持っている人間は得てして『そう』である雰囲気を発散せずにいられない。玖我なつきや生徒会長といった、校内でも目立つ人間を見ればすぐに判然とする。徹底して隠そうとでもしないかぎり、着衣、装飾、物腰に体型その他諸々が、富める気配を漏らしてしまう。そして、高村にはそれがない。手付などと断ったのが何よりの証拠である。
 いいところ一万から五万、相当奮発して十万だろう。あまり安く見られてはたまらない。奈緒は挑戦的に高村を見上げる。

「いくらよ」と再び聞いた。
「百万」と高村はいった。
「ひゃく?」

 高い声で鸚鵡返しにして、音にせず奈緒は「え」と呼気を漏らした。

「……え? マジ?」
「マジ。というか、本当だぞ」高村がポケットから無造作に厚みのある茶封筒を取り出した。「前金で三十万。無事にことが済んだら残り七十万を支払う」

 奈緒の答えを待たず、高村は封筒から札束を取り出した。ためらいもなく封を切り、真新しい紙を数え始める。高村に見えない位置で手の甲を抓りながら、奈緒はさすがに気後れして問うた。

「センセイ、マジでお金持ちなの?」
「……きゅう、三十、と。いや、そういうわけじゃない。ないけど、ま、結城には関係ないことだ。そうだろ? 心配しなくても、偽札じゃないからさ。ほら、さっきディスペンサーからおろしてきたから明細もあるぞ」

 手渡された三十枚の一万円札を、奈緒はなぜか検める気にならなかった。本物なんだろうな、という確信があったからだ。そして皺の寄った明細票を目にして、決して大げさではないため息をついた。
 まず預払金額三十万円が三枚。最後の一枚だけが十万円だった。そして残高には51,170,000という数が印字されていた。奈緒は目をみはり、大きな数字を覚え始めた子供のように、一の位から丁寧に桁を数え始めた。
 五千万、確かにあった。トリックやごまかしではない。
 ――マジ? これ貰えるわけ?
 内心でもう一度繰り返した。三十万円を握る手が汗ばみ始めた。日常を遥か下方に振り切るレートに、培った金銭感覚が揺らぎつつあった。金では動かない。そんな奈緒の思惑を一息に飛び越す現実が、淡白にそこに記されていた。
 十万を越える金を財布に入れて奈緒の毒牙にかかった人間が、皆無だったわけではない。それでも狩りにおける奈緒の狙いは、あくまで釣った男を一方的にいたぶることにある。幾度か出会い系サイトを股にかける内ほどほどにダンピングしたほうが食いつきがいいことを悟ると、奈緒はBBSに書き込む『お小遣い』の平均値を大胆に下げていた。はした金で中学生を買おうなどという人間ならば、気兼ねなく痛めつけられると思ったのだ。しかも収入があっても、大半は買物によって右から左へ散財され、貯めるといった発想はあまりなかった。だからもちろん、奈緒はこれほどのまとまった現金を目の当たりにするのは初めてである。
 ふと、彼女は考えてしまった。もし、本当に、高村から言い値のすべてをせしめ取ることができれば?
 いくつかの未来像が脳裏に去来した。何が欲しい、買えるといった卑俗な希求ではそれはなかった。使い方さえ誤らなければ、丸ごと変えられる、それだけの力が金にはある。無味乾燥なこの数字の羅列はそれだけの魔力を持っている。
(病院だって、もっといいところに)
 と反射的に考えかけ、慌てて奈緒はかぶりを振った。そんなことに使うはずがない。奈緒が思う自分はもっと孤高で、自由で、思うがままに生きる存在だ。
 思考を落ち着かせるために、深呼吸した。体育の授業でさえ、最近は久しくしていなかったことである。
(――よし)
 それを何度か繰り返すうち、動悸も治まりはじめた。下駄箱という、およそ大金に不釣合いなシチュエイションに身を置いているのは幸いだったかもしれない。金銭の現実感は、毒だ。大人びていようと斜に構えていようと関係なく、回りきれば酔う。アルコールと同じである。
 生唾を飲み込む奈緒を見て、高村がいった。

「なんだ、びっくりしちゃって。強盗やる割に、結城も意外と小市民だな」
「だ、誰が。たいしたことないっての。それくらい」と答えるのがやっとだった。
「そうか? 俺はこんな大金持ち歩き慣れてないからさ。ここまで来るのでも引っ手繰りにあったらどうしようかって、ずっと頭から離れなかったよ。学校内なのにな」
「……あ、そう」
「で、どうだ」高村が奈緒を窺う。
「な、なにが?」
「だから、仕事。俺の護衛。ちなみに場所はこの学園の裏山な。十中八九オーファンが邪魔立てするだろうけど、やる気になったか?」
「ああ……」

 本音をいえば、この時点で既に否やはなかった。ただ現金を見せられて飛びつくのでは、そこらの尻の軽い女と変わりないのではないか。そんなプライドが、彼女に頷くことをためらわせていた。だから次ぐ高村の台詞は、たとえ意図的なものだったとしても最後の一押しになった。

「それともやっぱり、オーファンは怖いか」
「ハッ、まさか」反射的に奈緒は答えていた。「チョロいよ、オーファンなんて。雑魚じゃん」
「よし。そうこなくっちゃな」高村が笑った。
「げ」

 ――乗せられた。と自覚した。
 が、頷いたものはしょうがない。毒気を抜かれて、奈緒は吐息した。どう見ても財布には入りきらない札束を、慎重にポーチに突っ込む。それを見た高村が、怪訝そうに言った。

「それじゃ教科書とか入らないんじゃないか?」
「え? あぁ、だって持って帰んないし」
「……結城。期末どうだった?」
「それより、裏山行くんでしょ? いってやろうじゃない」
「あ、ああ」

 大股で歩き出しながらも、足下がどこか浮ついていた。校門に向かって生温い夜風を細い肩で切りつつ、奈緒は思考を回す。
 律儀に高村の言う『仕事』を全うする気など毛頭なかった。都合良く、向かうのは人気がまったくないオーファンの巣窟である。
 後金だけではなく、今夜中に全てを貰い受ける手段はないだろうか。奈緒は思惟に沈んでいく。いつものやり方では強引過ぎる。何より暗証番号の問題がある。かといって言質など信用できない。どうにかできないか、どうにか――。
 爪を噛む。高村の足音は背後にある。重たげに揺れるショルダーバッグの衣擦れを耳にした。そういえば、と思い出す。高村は調査をするといっていた。そのため奈緒にオーファンを退けてほしいと、依頼してきたのだ。

「だったら……」

 奈緒は足を止め高村を見た。意識せず、微笑が頬を緩める。

「どうした?」
「――なんでもない」

 風華学園に燈る非日常の明かりに、彼女の影が長く伸びていた。



 ※



 煙草と酒と猥談を奪えば何もかもがなくなりそうな場所に彼女はいた。人との待ち合わせだった。見た目に反し待ち人は時間に几帳面な男だったから、早く着きすぎたのは彼女の方である。おかげでいつも通りノンアルコールのスパークリングウォーターを注文したあとで、彼女は十分ほど店内のあちこちから飛ぶ不躾な視線に耐えねばならなかった。
 午後八時。定刻きっかりに男はやってきた。面長に縁の丸い帽子を目深に被った猫背の風体はいつも通りだ。男は女の姿を見つけると、断りもせず隣に腰掛けてきた。きついニコチンが香った。女の長い黒髪にそれは臭いを残さずにはいられない。かといって、まさかバーを禁煙にしろなどとも言えるはずがなかった。

「久しぶりに関東まで出張った」と、男は言った。「まあそのぶん収穫はあったが」
「例の件か?」

 体躯の線も露わなライダースーツの女、玖我なつきの問いに、男が肯う。二人が並んで座るのは月杜町内にあるショットバーのカウンターだった。にもかかわらず、視線は一定して前方に向いたまま、互いを視界の端にさえ映そうとしていない。傍目には奇異なカップルだが、そのバーではありふれたことなのか、数分も経てば特別な注意を寄せるものはいなくなった。
 男は通称をヤマダといった。合法非合法を問わず情報を取り扱うことを生業にした、いわゆる情報屋である。実際にそんな商売が成立するかはともかく、なつきの認識においてはそうなっている。経験上、彼よりも確実性があり、かつなつきの需要を満たすような同業者はいない。そんなヤマダと交わす、月に一二度の短いやり取りは、もう半年以上も続いていた。

「で、黒だったのか、それとも白だったのか」
「グレーだ」

 臆面もなく言い放ったヤマダの横顔を、なつきの冷えた目が射抜いた。

「なに?」
「まあ聞けよ。言っただろ、収穫はあったと」

 咥えた煙草に火を点けると、ヤマダは懐からプラスティック製のケースを取り出し、机上を滑らせてなつきの手元へ送った。

「これは?」
「レポートだな。あんたが欲しいといってた高村恭司についての詳細な情報は、大方そこにある」
「面倒だ。口頭でも頼む」
「ま、そう言うとは思ったさ」ヤマダの鼻腔から煙が立ち昇る。ズボンのポケットから、使い古された黒革の手帳を取り出した。「始めから行こうか。定石どおり、とりあえずは本籍を当たったよ。これは父方の実家だった。が、祖父母は既に死去。母方についても同じだが、違うのは母系に身寄りがもうないらしいってところだな。いわゆる、お家断絶。となると婚姻が婿養子じゃなかったのが妙といえば妙だが、今日びそれほど珍しいことじゃない。――父方の実家に話を戻すと、今はここに親戚が住んでる。高村姓だったし、何の変哲もない一般家庭だ」
「それで」

 なつきはいつか高村恭司が語った神社について、聞こうとして思いとどまる。理由は特になかった。強いて言えば、それはごく私的な事柄であるという気がしたからだ。

「一応小学校まで遡ってはみたが、履歴書にあった経歴に嘘はない。当時の同級生も高村を覚えていたし、特徴も合致した。女は特に覚えが良かったよ。どうも、ぼっちゃん面の割にけっこうモテたやつみたいだな。しかしハーフだとかいう綺麗どころの幼馴染みがいてこいつと恋人関係だったから、特に浮名を流したわけでもなかった。カタブツだな。ちなみにこの恋人だが、高村と交際中に、これは完全な――人為的じゃないという意味でだ、不慮の事故で、死んでる」
「……余計なところはいい。本題に入れ」

 恋人が故人というくだりで、なつきはひそかに眉をひそめた。穿鑿によって掘り出してはならない他者の過去を覗き見た。そんな罪悪感が胸を過ぎったのだ。

「今から三年、いやそろそろ四年前になるのか」涼しい顔で、ヤマダは続ける。「丁度、大学二年から三年の時だ。ここから、高村の不幸は始まってる」
「不幸? 穏やかじゃないな。恋人が死んだ、という話か」
「いや、それは高校時代だな。十六かそこら――じゃあ高校時代から、と言い換えてもいいのか。ともかく、高村が所属している大学の考古学専攻、そこには当時アマカワ教授っていう、その筋じゃなかなか知られた学者がいた。学会では爪弾きだったが、生徒の人気はあるってタイプ。変わり者の研究者だ。……で、この天河ゼミに引っ付いて研修に出かけた先で、事故が起きた」
「……交通事故か」ふと重ね合わせている自分に気付き、なつきはかぶりを振る。
「ああ。旅行二日目にゼミでチャーターしたバスが、国道で横転したんだ」とヤマダは頷く。「重傷三名。軽傷八名。死人はもっけの幸いでゼロ。とにかく誰も死ななかったのは奇跡だっていうくらい相当大きな事故だったらしくて、現地新聞の地方版にも小さく載った。それによると、警察が運転手に聴取した所、こうこたえたそうだ。『大きな獣を轢いた』ってな」
「ケモノ? シカかイノシシか何かか」
「さてな。それについちゃ、結局、正体はわからず終いだった。問題はこの後だな。公私混同もいいところだが、なんとこのゼミ旅行には天河教授の子供がついてきていた。名前をサクヤっていって、当時中学に上がったばかりの一人娘だった」
「ということは、今は……わたしと同じ学年か」
「生きていれば、そうだ」
「生きていれば」となつきが繰り返す。
 吸い終えた煙草を灰皿でもみ消して、ため息交じりにヤマダは言った。「天河朔夜は、この旅行先で失踪している。事故の翌日だ。それっきり、今に至るも見つかってない」
「……なにがあった?」

 話題が話題である。声は自ずと押し殺された。

「さて――当事者の話を追えたのはここまでだ。こっから俺の推測が雑じるが、構わんか」

 ヤマダ本人は得体の知れないところがあるが、その能力にはなつきも一目置いている。黙したまま、目線で続きを促した。ヤマダは二本目の煙草を飲み始める。

「そんなことがあって、旅行は当然中止になった。そもそも事故があったしな。けが人以外はそこで解散。軽傷者のなかには天河教授もいたらしいが、いたってぴんぴんしてたって話だ。しかし、さすがに娘が旅先で行方不明ともなれば、血相を変えて探し回ったらしい。ゼミ生を帰しても、自分は残るって勢いでだ。当時天河は家を買っていてな、どうも研究との兼ね合いもあったようだが、先々はその土地に引っ越す予定だったようだから、居残ろうと思えばいくらでも残れたんだろう」

 一息置いて、

「とんだ災難だってことで、学生のほとんどは骨折なんぞした重傷者含め、真っ直ぐ家路についた。ただひとり、いなくなった天河朔夜の家庭教師をしてた学生以外は。それが――」
「高村、か」
「御名答」無感動にヤマダは言う。「高村恭司だ。責任感が強いのか、点数稼ぎしようとしたのか、恐らくは前者だな。周囲の人物像にも合致する」
「娘の失踪に高村やその教授とやらが関わっている、という線はないのか?」
「ない」
「なぜ断言できる?」
「アリバイがあるからだ。ついでに、教授にもな。第一、警察は甘くも無能でもないさ。少なくとも最初に天河朔夜が消えたとき、高村は怪我をした同じゼミの人間を見舞っている最中だった。――そして、一週間ほど天河と高村は現地に居残った。その間の仔細は不明だが、まあ必死になって捜索したんだろう。しかし、七日目になって二人は突然、地元に戻った。飛行機でな」
「娘が一人で先に戻っていたというオチか?」言ってから、「ああ、いや、まだ見つかっていないという話だったか。となると、どうなる?」
「わからない。そこまでは俺の仕事じゃない」ヤマダは小さく両手を挙げた。「その五日後、高村恭司の両親が死んだ。本人も生死の境を彷徨うほどの重傷を負った」

 なつきは眼をみはり、手先でもてあそんでいたスパークリングウォーターのグラスを、危く取り落としかけた。

「…………なんだって?」
「そして翌日、天河教授の死体が発見された」淡々とヤマダは事実を積み重ねていく。「詳細はやはり、不明だ。今じゃ高村家はとっくに売り地。教授の事情なんて学生が知るはずもねえ。もっとも、ちょっと調べただけで不可解な点は多々出てくる。たとえば死因だ。当時の日付からさらった新聞の訃報欄では、それぞれ事故死、心不全による急死となってるんだが……ところが近所じゃ、高村夫妻は強盗に殺されたって話もちらほら聞いた。教授に至っては、いなくなった娘以外じゃ身寄りもないのに、密葬だなんていって誰もその後を知らない。ただ墓だけがある。ご立派な、墓石でな。今でも研究者仲間や教え子はそこを参るらしいが――これは余談だ」
「つまり」乾いた声でなつきはいった。「隠蔽された……と考えて間違いないんだな」
 ヤマダが頷いた。「確証はないが、ずさんなのは確かだ」

 気を落ち着けるため、なつきは深々と息を吐いた。眼を閉じると、鴇羽舞衣がチャイルドを召喚した一件で見た、高村恭司の躯の傷が浮かび上がってきた。鍛えた体躯と不釣合いな、ひとつの体に刻むには大きすぎ、多すぎた傷痕。あれは、その『事故』のために出来たのだろうか。
 死。となつきは思わずにいられなかった。家族が死んだ。あるいは殺された。骨が軋むような痛みを覚えた。それは同情なのかもしれず、追憶なのかもしれなかった。

「高村は。高村恭司は、それでそのあと、どうなった……?」
「一時期は相当危ない所までいったようだが、知ってのとおりなんとか持ち堪えた。しかし、退院には三ヶ月、全治にはさらに数ヶ月かかる大怪我だったらしい。障害が残ったとか胃を全摘したとか小腸を二メートルばかし切ったとかいう話だが、さすがにカルテには手が出せなかったから、これも詳細は不明。担当医も何もさっぱりわからなかったしな。ともかく――大学もその年度は当然休学して、ドミノ倒しの留年は避けられなかった。そして退院後、都合一年近く、高村の足取りは途絶える」

 なつきは口を挟まず黙考した。ヤマダが途絶えたと口にした以上、それは空白の時間なのだ。当事者以外に全容を知るすべはないだろう。
 ヤマダが手帳をめくる。

「入院中も、高村の身辺は慌しかった。保険屋やら、自称親戚やら。ノンキに学生やってる時分に親が死んじまえば、そんなもんだ。しかし二親とも四十台で共働きだったってこともあり、事件後高村には相当な死亡保険金が支払われてる。俺のカンだが、相続分と合わせれば、控除申請ぎりぎりってところかな。つまり、数千万ってとこだ。さらにさっさと家も売り払った。治療費だの葬儀の費用だの税金だのでどれだけ残ったかはちょっとわからんが、それでも男一人が当面生きてくぶんには、相当なお釣りがくるだろうな」

 何の慰めにもならない注釈だった。なつきは前髪をかきあげ、苛立たしげに歯を鳴らす。他人のプライベートを暴く自分と、そして何かわからない不幸の根源のようなものに対する憤りが、彼女の胸裏で吹き荒れていた。白磁のような肌が紅潮し、グラスを握る指は白んでいた。やがて長く細い息をつくと、なつきはヤマダに眼を向けた。

「……それでも、院生になったということは復学したんだろう。住む場所は必要なはずだ。こちらに来るまでは、どこに住んでいたんだ?」
「六畳一間、家賃四万円のアパートに住んでた。質素なことだな」手帳の頁を戻しつつ、ヤマダは鼻を鳴らす。「ただし、今年の五月でそこも引き払ってる。風華学園に赴任するまでの一ヶ月は、あっちこっち飛び回ったり人の家に転がり込んだり。女の部屋に間借りしてたってウワサもあったが」
「あいつに女? ありえないな。あんなデリカシーのないやつ」わけもなくなつきは否定した。しかしヤマダが意外そうに唇を曲げているのを見て、「んっ、大筋はわかった。さすがだな。他に気になることは?」
「蛇足かもしれんが、キャンパスでの話だな」ヤマダは追及しなかった。ただ、かすかに笑ったように見えた。たいへん珍しいことである。「一年経ってふらっと大学に戻ってきた高村は、少し印象が変わっていたらしい」
「それは、それだけの体験をすれば人間なんて変わる」我が身に照らし合わせて、なつきは沈鬱に呟いた。
「まあ、そうだな。評判としてはこんな感じだ。『前より砕けた』『付き合いが悪くなった』『ふっきれた感じがした』『ときどき怖いことがある』『真面目なやつだったのに、授業にあまり出なくなった』『体を鍛えているようだった』。そして、『年上の女性と付き合いがあるらしい』。……実際、一年の音信不通の間に以前の交友関係はまとめてご破算にしちまったようだし、どこまでアテになるかはわからんがな」
「そんなものだろう」なつきはまともに取り合わなかった。「ワイドショウと同じだ。得てしてそういう連中は、表面上の印象しか語らない」
「異論はない」とヤマダは言った。「依頼の総括として私見を述べさせてもらおうか。高村恭司は、あんたが追ってる連中では、恐らくない。その点で白だ。しかし、ほぼ確実に、その〝連中〟に敵対的な勢力に抱き込まれている。それがどこかはわからんし関わり方もどの程度なのか、現段階ではわからない。しかし、その点では黒だともいえる。だからこその、グレーだ」
「……わかった。そうだな。話を聞いた今では、わたしも同意見だ」

 それは、同時に確信に近い思いでもあった。薄々気取っていたことだ。高村恭司はなつきの敵、〝一番地〟ではない。もし関わりがあるとしても、それは恐らくなつきと似たような関係性だと。つまり、敵対か、それに近い立場にいるということだ。
 背景は不鮮明だったが、それはあまり問題ではない気がした。ヤマダの話を聞く限り、四年前の高村は紛れもなく一般人でしかなかった。よくある、平凡な大学生に過ぎなかった。それが変化せざるを得なくなったのは――。

「天河教授とその娘と行った、旅行か」

 発端はそこにある。考古学。少女。不自然な失踪。不合理な帰還。整頓されていない死因。欺瞞。韜晦。思考が加速する。そして直感と経験則により、瞬時に迫真の位置にまでなつきは推測を進めていた。重要なピースが半分ほど足りないが、その内の一つはこの場で回収できる。

「その旅行先を、意図的にぼかしたな?」ヤマダを見てなつきは目を細める。「言い当ててやろうか。天河ゼミがやってきて、事故に遭い、天河朔夜が消えた土地。それは――」

 とん、と指先がカウンターに落ちた。


「――風華ここだ」





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