夕方になった。
ちょっとでも宿題を進めておこうと、俺は一人で数学の教科書を読んでいた。
今、美琴は部屋にいない。買い物に出かけているのだ。
何故かと言うと、冷蔵庫の中身が空っぽになっているからである。
当然ながら、なければ買いに行かなければならないワケで。
あちこち拾い読みするうちに、必要な公式を見つけ出すことが出来た。
美琴に言われたとおり、順番に気をつけて計算してみる。
最初に括弧内の計算を済ませる。掛け算と割り算を優先して、足し算と引き算はその後に。うん、どうにか解いていけそうだ。
シャープペンシルをプリントに走らせる。一枚目を数字と記号で埋め尽くし、二枚目も埋め尽くし、三枚目にかかったところで、ふと思い立って顔を上げた。いつの間にか室内は薄暗くなっていた。
ああ、全く気づかなかった。
明かり、つけなきゃな。それに腹減ったな。
同じ体勢でずっと書いていたので、肩の辺りが痛かった。
明かりをつけようと立ち上がる。と、ズボンのポケットの中でケータイが鳴った。
「やっほー、当麻」
美琴だった。
「どう?順調?」
「あ、ああ。おかげさまでな」
びっくりした。
「そっか、御苦労様。疲れた?」
「疲れたよ。肩もすげえ痛いし」
明かりをつけ、フローリングに腰を下ろす。
「計算問題って、メンドくさいのばっかりなのな」
「宿題だからねえ」
いや、それを言われちゃ元も子もないんだけどさ。
「ね、当麻」
美琴が言う。
「一つお願い、聞いてあげよっか」
「お願い?」
「今日の夕飯は何がいいか言ってみなさい」
俺は色々なメニューを思い浮かべた。
美琴は料理の腕だって抜群なのだ。実に器用で何でも作れる。
麻婆豆腐?
悪くないけど、何か違うな。
生姜焼き?
いや、洋食がいいかな。
ロールキャベツ?
あ、それがいいな。うん、ロールキャベツがいいや。
「そうだな、ロールキャベツが食いたいな」
「よし。その願い、叶えてあげよう」
「終了ーっ!」
シャープペンシルをテーブルに置き、大きく伸びをする。
気がつけばもう七時を過ぎていて、外は真っ暗だった。
「出来た?」
エプロン姿の美琴が歩み寄る。
「ああ、計算問題は全部」
プリントの束を差し出す。
「どれどれ」
受け取ったプリントを美琴はぱらぱらと見て、次に俺を見た。ニコリと微笑む。
「うん。全部合ってる」
「そっか。良かった」
「この調子なら因数分解も今日中に出来そうだね」
「だな。でもその前に飯、食える?」
うん、とプリントを俺に返して美琴が肯いた。
「出来てるよ」
その後は、あっと言う間だった。
ご飯が盛られた茶碗。
赤いトマトとレタスのサラダ。
麦茶が入っているポットに、氷を入れたグラス。
ほかほかと美味しそうな湯気を上げるのは味噌汁と、深皿に盛られたロールキャベツ。
二人分の料理が次々と目の前にあるガラステーブルに並べられていく。
「すげえな……」
何度見ても、その手際の良さにはマジで感心する。
へへえ、と美琴は得意げに笑った。
「ほら、冷めないうちに」
「そうだな。じゃ、いただきます」
俺はロールキャベツにかぶりついた。
むちゃくちゃ美味かった。キャベツはとろとろだし、その中の肉は何かのスパイスが微妙に効いていて、それがホワイトクリームとばっちり合っている。
「この肉、何が入ってるんだ?めちゃくちゃ美味い」
「ホント?美味しい?」
「ああ、めちゃくちゃ美味い」
向かい側に座った美琴は嬉しそうに笑った。
「手間かかってるんだよ、それ。まず玉ねぎを三十分炒めるの。飴色になるまで。それから挽き肉と合わせて、塩胡椒をして、そこにシナモンでしょー、ナツメグでしょー。あとカルダモンのパウダーも入れてるんだ」
「へえ、すげえな」
「当麻、頑張ってるしね。それくらいはやってあげるわよ」
「自業自得なんだけどな、この窮地」
笑いながら、ご飯をかき込む。
続いて、サラダを口へ放り込む。
ドレッシングの風味が素晴らしい。きっと手作りなんだろう。
ご飯も本当に美味い。料理好きの美琴は、ご飯の炊き方まで色々こだわっているのだ。
流水で洗ってね、それから一時間水に浸して――なんてことを前に話してたっけ。確かに手間をかけたと分かるご飯だ。
――ホントありがとな、美琴。
ガツガツ食べながら、俺はそんなことを思った。
「どうしたの?」
視線に気づき、美琴が首を傾げた。
俺は慌てて言った。
「すっげー美味い」
えへへ、と美琴は笑った。
嬉しそうに、幸せそうに笑っていた。
「ふいー、ごっそさん」
夕御飯を食べ終えると、当麻はベッドにごろんと横になった。
仰向けになり天井を見上げる形で、両手を頭の後ろに組みながら目を閉じる。
「ちょっとー、お行儀悪いわよ」
「へいへい」
むう、右から左に流してるし。なんて思いながら、私は誘蛾灯に誘われる虫のようにふらふらと、無防備な顔を晒す当麻の傍に寄っていく。
普段は飄々とした印象があるけれど、この時の当麻はどこかあどけない。可愛い、と感じる数少ない状況。
私はするりと当麻の目の前へ移動する。
こっちの接近を察したのか、上体を起こす当麻。でも、目は瞑ったまま。
大丈夫。いける。さん、にい、いち。
「うわ、ぎゅうぎゅうだ」
「……おい」
大成功。ベッドに腰かける当麻に、私の身体はすっぽり収まる。
「お前の方が行儀悪くないか」
「何よー、別にいいじゃない」
背中に当麻の体温が触れる。
当麻の息遣いを感じる。
「どうせヤじゃないんでしょ?」
「……うっせ」
くつろぐ私の顔のすぐ右脇に、当麻が顔を寄せた。
わずかに右を振り向くだけで表情が覗けるくらい、近くに。
「なあ、どうして訊かないんだ?」
当麻の声が、耳元で聞こえた。
「何を?」
意味が分からず、私は訊ねた。
次の瞬間、当麻の口から出てきたのはこんな言葉だった。
「俺のことだよ」
「当麻の?」
「俺の記憶のこと」
心臓が突然、跳ねた。
確かに、ドクンと。
「知りたいんだろ、俺がどこまで覚えてるか」
少し間があった。
当麻はきっと待っている。
私の言葉を待っている。
それが分かったから、言った。
「うん、知りたかった。当麻に何があったのか、すごく知りたかった」
何だかんだ言って、当麻は鋭い。
私の微妙な言い回しに気づいた。
「かった?」
出来るだけ、あっさりと言うことにした。
「でも、もういいや」
笑いながら、私は言った。
当麻の過去が気にならない、なんてことは絶対ない。
どんな些細なことだって気になるし、知りたい。だって好きなんだもん。
だけど私には自信があった。
確かに記憶は大事かもしれない。
積み重なっていけば、光り輝くかもしれない。
それでも記憶は一番じゃない。
「当麻がいれば、それでいいや」
湧き上がってくる気持ちのまま、そう言った。
ちゃんと分かってるんだ。一番は当麻だって。
何があっても、そのことだけは決して変わらない。
だから、当麻の過去を知らなくても、私は構わなかった。
そんなことよりも、当麻といられることが大切だった。
この世で一番のことを手に入れようと思ったら、何かを失くしたり落としたりしなきゃいけない場合だってある。
それは払うべき代償だ。そうだ、言い切ってやる。子供の戯言だって切り捨てるヤツがいたら、私はそいつを思いっきりぶっ飛ばしてやる。
この想いを、気持ちを、どうしたら当麻に伝えられるんだろう。
学園都市で三番目に優れた頭脳の持ち主なくせに、私の頭の中には気持ちを上手く表現できる言葉がなかった。
だから私は手を伸ばして、ベッドに投げ出された当麻の大きな手をぎゅっと握りしめた。
これが、この手の中にあるものが、私の一番だ。何よりも大切なものだ。この世界よりも、自分自身よりも、大切なものだ。
気持ちが伝わればいい。
温もりで、それ以外の何かで、伝わればいい。
当麻はそっと握り返してきた。
「ロールキャベツ、すげえ美味かった」
「うん」
「また作ってくれよ」
「うん」
そんなことを言いながら、私達は互いの温もりを感じ合った。