それにしても世の中は理不尽だ。おかしい。間違っている。
例えば、何が間違っているかと言えば……そう、例えば、こういうことだ。
愛想笑いを浮かべていたタクシーの運転手が、私を見た途端にその笑みを引き攣らせた。
そりゃあ、私だって分かってますよ?
二メートル近くもある刀を狭い車内に持ち込むのが、非常識だってことぐらい。
後部座席から助手席の前まで、黒い鞘が占領したら邪魔になるってことぐらい。
でも、仕方ないじゃないですか。非常事態なんですから。
そんな、露骨に嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですか。
「本当にすみません」
私は精一杯笑って、しかも明るい声で言った。
ええ、今も後部座席から笑みを送っていますとも。他にどうしろと?
とにかく、世の中にはそんな理不尽なことが多い。
大きなことで言えば、私に付き纏う悪運だって理不尽の固まりだ。
日本には天草式という隠れキリシタンの組織がある。
私は生まれた時から、その頂点たる『女教皇(プリエステス)』の地位を約束されていた。
けど、そのせいで『女教皇』になりたかった人達の夢を潰してしまった。
努力をしなくても成功するほどの才能があった。
けど、そのせいで死に物狂いの努力を積み重ねてきた人達を絶望させた。
何もしなくても人の中心に立てるほどの人望があった。
けど、そのせいで他の誰かが人の輪の外へ弾かれた。
誰かに命を狙われても何故か生き残った。
けど、私を庇うために目の前で大切な人達が倒れた。
飛んできた弾の盾となり、爆風を防ぐ鎧となり。
私を信じて慕ってくれた多くの仲間が傷つき、倒れていった。
私の幸運の犠牲となって、周りのみんなが不幸になった。
なのに、みんながみんな、最期になって私に言うのだ。
貴女と出会えて幸運でした、と。どうしようもないほどの笑顔で、そう告げるのだ。
理不尽だ。
あまりにも理不尽だ。
そういうことはたくさんあった。
ありふれていた、と言ってもいい。
しかし、だ。
これほどまでの理不尽を、これほどまでの間違いを、私は知らなかった。
何がおかしくて理不尽で間違っているかと言えば……そう。
あえて具体的に表現するなら、こういうことになる。
土御門が単独行動に走った!
車内に刀を収めるのに四苦八苦している最中、あの男はふらりとやって来て、
『野暮用が出来たんで、しばしのお別れだにゃー』
さも当然のように美琴達を巻き込んでおきながら、当の本人は姿をくらましたのだ。
ええ、分かっています。分かっていますとも。
あの男がそういう生き物だってことくらい。
風みたいに、まるで掴みどころのない人間だってことくらい。
ですが……むう……何か無性に腹が立ちます。
「美琴」
思いっきり不機嫌な声で、訊ねてみる。
「土御門がどこに消えたか、本当に心当たりはないんですね?」
「え、ええ。もちろん」
「その割に、随分と動揺しているようですが」
目を細めて、隣に座る美琴を睨みつける。
「土御門が何を企んでいるかも知らないんですね?」
「あ、あはは」
「知らないんですね?」
渇いた笑みを浮かべたまま、コクコクと肯く美琴。
これは絶対、何か隠していますね。
でもまあ、いいでしょう。ここは大人しく騙されてあげましょう。
美琴のことです。黙っているのも、きっと何かしらの考えがあってのことでしょうし。
いや、もちろんこれは客観的な意見ですよ?
決して美琴だから信用するとか、もし相手が土御門だったらどんな手を使ってでも白状させてやろうとかってことじゃないんですよ、うん。
すごい迫力だった。
土御門さんを怒鳴りつけた時より、更にすごい。
半分しか開いていない目が据わっていた。
危うく全部喋ってしまいそうになったけど、どうにか堪えた。
神裂さんの頭を撫でていた、あの時。
気がつくと、私はケータイを手に取っていた。
感情のままに、メールを打つため指を動かしていた。
『ちょっと気になることが』
メールのタイトルは、こんな感じにした。
打ち終えると、それを土御門さんに送った。
つまり、そういうことなのだ。
土御門さんが一緒に来なかったのは、私のメールを読んだから。
そして、私の頼みを引き受けてくれたから。
出来ることなら、説明したい。
私が危惧していることを、全部話してしまいたい。
でも、今はダメだ。何せ当事者がすぐ側にいるのだ。
これじゃあ話したくても話せない。
だから、今は待つしかない。
私の不安は、杞憂に過ぎなかった。
そんな連絡が土御門さんから来るのを、ただ待つしかない。
しばらく走っていると、目に見えて人の数が増えてきた。
下手に目立つと動きにくくなるので、野次馬から少し離れた場所で降ろしてもらう。
「しかし大袈裟ですね。たった一人を相手に半径六百メートルの包囲網とは」
「そうですね」
周囲に気を配りながら、美琴が応える。
「多分、発砲許可が下りたんでしょう」
「なるほど。民間人に流れ弾が当たらないよう気を配ったワケですか」
「でしょうね。表向きは」
「表向き?」
「はい」
肯き、美琴は空を見上げた。
あとを追うように、私も視線を上に向ける。
いつの間にか、テレビ局のヘリはいなくなっていた。
「この包囲網は、言ってしまえば結界です」
「結界?これが?」
びっくりして、そんな声が洩れていた。
「外部と内部を隔離するもの。それが結界の定義ですよね」
驚いた。元々は仏教用語であり、いつからか魔術師が身を守る術の総称となった単語。
それを魔術とは無縁の世界で生きてきた彼女が、ここまで完璧に理解しているとは。
「知ってました?結界って魔術の専売特許じゃないんですよ」
美琴が得意げに微笑む。
「魔術の専門家に説明するのもアレですけど、結界そのものに害はありません」
そう、結界自体に危険はない。
問題は外界と遮断した世界で何を行なうか、ということである。
「まさか……」
「はい?」
「日本の警察機構が秘密裏に火野から天使の力を奪おうと?そんなバカな。上半期の報告では、霊能専門の捜査零課の存在は流言と断じられたはずなのに」
私の言葉を聞いた美琴が妙な顔をした。何だか困っているみたいだ。
「えーっと。そういう次元じゃなくてですね」
「は?」
「単に機動隊の二十三口径が火野の脳ミソ吹っ飛ばす瞬間をライブ中継されんのが困るんだろうよ」
今の今まで沈黙を守っていた上条当麻が、初めて口を開いた。
「色々あるんだよ。政治家ってのはアイドルよりもイメージを大切にする職業だからな」
「色々、とは?」
「さあ?その辺の詳しいことはよく分からん」
ふむ、そういうものですか。
このまま聞き続けても、あまり気持ちの良い話は出てきそうもありませんね。
私は三人の顔を順番に眺めて、
「さて、これからどうしましょう?この程度の包囲網、私とクロイツェフだけなら容易く突破してみせるのですが」
「せっかくここまで来たんです。どうせならみんなで当麻の家まで行きませんか?」
あっさりと。あまりにもあっさりと美琴が言うので、私は面食らってしまった。
「どうやって?」
「そんなの、決まってます」
美琴の顔には、悪戯っ子のような笑みが浮かんでいた。
「そこを通って行くんですよ」
美琴の先導の下、上条当麻の家に向かう私達。
柵を飛び越し、塀を乗り越え、民家の庭から庭へと走っていく。
全ての道路を封鎖している警官隊のすぐ近くを、さも当然のように走り抜ける。
何かの拍子。例えば無線通信に意識を集中したり、物陰から飛び出してきた野良猫の方を見たり、何気なく空を見上げたり。そういった、ほんの僅かな空白を突いて。
しかも、美琴は警官に隙が生まれるまでじっと待ち続けているワケではない。
まるで計ったように、美琴が走り抜ける瞬間と警官に隙が生まれる瞬間が重なるのだ。
「むう……」
一般人がジョギングする程度の速さで走っているにも関わらず、私達三人を引き連れて包囲網を難なく突破していく美琴。
その事実に驚いたが、更に驚いたことに、上条当麻が何故か得意げに笑っていた。
「美琴は能力者の中でも別格の電撃使いなんだ」
「美琴が?」
「電磁波を使った空間把握も得意でさ。半径六百メートルぐらいなら髪の毛一本だって見逃さないんだぜ」
まるで自分のことのように自慢している。
「それにさ。電磁波だけじゃなくて、アイツ、磁力や高圧電流まで操れるんだ。応用力も半端じゃなくてさ。電気の扱いに関しちゃ、アイツの右に出る奴は絶対いないね」
へえ、と唸る。
「すごいですね」
心底から感心して呟く。
上条当麻は嬉しそうに笑ったままだ。
「だけどアイツ、そういうの全然鼻にかけたりしないんだよ」
「美琴らしいですね」
「どんなに強くて、頭が良くて、学園中の注目を集めても、アイツはアイツらしさを絶対に崩したりしない」
上条当麻の言葉に、黙ったまま肯く。
おそらく、それこそが美琴の強さの根源。
能力者としての実力なんて関係ない。
他者とかけ離れた力を手にしながら、それでも己を見失わない心の強さ。
『大丈夫』
声が、蘇ってくる。
『私、不幸なんかに負けませんから』
嬉しかった。本当に嬉しかった。
生まれた時から高い地位を約束されて、周りの全てに慕われて。
それでも、私は全てを捨てた。天草式から身を引いた。
自分を信じてくれる人達が不幸になるのを止めたかったから。
いつまでも一緒にいたかった気持ちを殺して孤独を選んだ。
そんな私に、美琴は人としての温もりを思い出させてくれた。
共に歩いてくれると言ってくれた。
だからもう、逃げたりしない。
今度こそ、自らの意思で大切なものを守ってみせる。
警官隊の包囲網を越えると、しばらく人の姿は見えなかった。
だが、走り続けると今度は装甲服と透明な盾に身を包んだ物々しい面々が現れた。機動隊の人間だ。
『御使堕し(エンゼルフォール)』の影響で、赤ん坊や御老人の姿をした者も混じっているため所々が珍妙に見えてしまう。
美琴が立ち止まり、路上駐車の車の陰に隠れる。私達三人もそれに従う。
「うーん。ここから先はちょっときついかなあ」
「お前でもか?」
「機動隊が当麻の家の周りにびっしり張りついてるのよ。でもまあ、打開策がないワケでもないんだけど」
「まさか強行突破とか言わないよな」
「あれ、分かっちゃった?」
「勘弁してくれよ。んなことしたら俺達全員、洩れなくお尋ね者だぞ」
「だよねえ」
美琴が苦笑いを浮かべた。
やっぱりそうだよねえ、なんて言って、ずっと苦笑いしている。ちょっと変な感じだった。
困り果ててしまうなら分かる。だけど、どうして苦笑いなんだろう。
窮地に立って、それでも何故、いつも通りでいられるんだろう。
普段とさして変わらないやり取りを上条当麻と繰り広げる美琴。
そんな姿を間近で見ていると、今までの自分がバカらしく思えてくる。
「打開策は他にもあります」
決定づけられた運命を、ただ呪うだけだった自分が。
「認識を他に移す、という手法を取るのはどうでしょう」
諦めて、全てをあるがままに受け入れてしまった自分自身が。
「認識を?」
「他に?」
揃って疑問符を浮かべる二人。
全く、こんな所でも息が合っているんですね。
「つまり機動隊に、上条宅とは全く違う家を上条宅だと誤認させれば良いのです。そうすれば、本物の上条宅で何が起ころうとも機動隊には異常を察知されません」
流れには逆らわない。
それが私なりの生きる術。
数々の悲劇を経て、辿り着いた一つの結論。
でも、美琴に会って、彼女と触れ合って。
生まれて初めて、運命に抗ってみようと思った。
「出来るんですか?そんなこと」
「もちろん」
先程のお返しとばかりに、ニッと笑ってみせる。
「私を誰だと思っているんです?」