黄巾賊残党――冀州で死闘を繰り広げる本隊から離脱し、戦乱を逃れるように南下する集団の頭目は李恒という男だった。黄巾賊内部での位はそれほど高くなく、十万を越える集団において百人隊長を務めていた、その程度の男だ。 元来、黄巾賊はある歌姫三人を崇める集団だった。歌姫が何処へ行きたいと言えば皆で移動し、何が欲しいと言えば略奪してでも調達してきた。それらの行為が行き過ぎたために逆賊、朝敵と断じられ、官軍に狙われることになった。 攻撃を仕掛けられたら、反撃するのが世の常だ。黄巾賊は歌姫のために最後の一兵になるまで戦うことを決意したが、所詮は烏合の衆である。精強な官軍に追われに追われて数を減らされ、残った本体も冀州に追いやられている始末である。 本気で歌姫にほれ込んでいるのなら、彼女らのために戦って死ぬのは本望なことだろう。 だが、李恒はそんなことで死ぬのは死んでもご免だった。 歌姫のための集団である黄巾賊でそういう考えの人間は少数も少数だったが、十万以上の人間が集まれば、そこには李恒のような考えの人間は少なからずいた。そういう連中は旗色が悪くなったのを見ると示しを合わせて黄巾賊を離脱した。 黄巾賊を離脱した段階で、李恒についてきた人間は二百五十人を越えていた。賊徒としてはちょっとした規模である。大多数の官軍の目が冀州の本体に向けられている今が、略奪の最大の好機なのではと李恒は考えた。 まずは黄色の布を外して冀州から離れることに専念した。 そして冀州を出て、大きな官軍の気配がなくなってから、略奪を開始した。黄巾賊にいた頃は頭巾を外すことはなかったが、離脱してからは略奪する時だけ黄巾を巻くことにしていた。 官軍の目を引いてしまっては元も子もないが民衆の間で黄巾の力は絶大である。大した力がなくとも、黄巾を見るだけで逃げ出す者もいるほどだった。 勿論、立ち向かってくる人間もいるにはいたが、二百人を越える武装集団を相手に出来る組織が官軍以外に多くあるはずもない。官軍を相手にすることは徹底的に避け、組織だった反抗をしそうな所も避け、冀州の本体から遠ざかるように李恒の集団は南下を続けた。 しかし、補給の全てを略奪に頼った代償は決して小さくはなった。 小さいながらも抵抗は受け続け、表立って街に寄ることもできない。医術の知識がある者など黄巾本体ならば兎も角、逃げて燻っているような集団にいるはずもない。 怪我をした者、病にかかったものからバタバタと倒れて行き、二百五十を数えていた仲間も、荊州に入る頃には百五十人割り込んでいた。無傷な物は一人もおらず、中には歩くことすら覚束ない人間もいる。 武装集団としての格は地に落ちつつあった。今の状態で官軍に襲われたら一溜まりもないだろう。頼みは数と、全員が武装しているということ。後は腹を空かせている人間が少ないということくらいだ。 士気も低くはない。定期的に行っている略奪が辛うじて、集団の闘志を繋ぎとめていた。他人を殺し食物を奪いそれを貪り食うことで、自分たちが上位の人間だという意識を保っていられた。 それが長く続かないということを、解っていない人間はいない。緩やかに破滅に向かっているのだということを、李恒を含めて全員が理解していた。 だが、今更止まることも出来ない。一度道を踏み外してしまった人間が、元の道に戻ることは並大抵のことではないのだ。 戻るための機会は、何度もあった。黄巾賊を離脱した時に、それから初めての略奪をする前に。どこかの街で、農村で、慎ましく生きることを覚悟できれば、賊に身を落とさなくても生活することは出来たはずだ。 その選択を、李恒達は自らの意思で放棄した。 賊は賊だ。それ以外の何者でもない。 そこに矜持などあるはずもないが、今更他の生き方もできない。そういうロクデナシの集まりなのだ。「頭、あの村変じゃあないですかい?」 そのロクデナシの集団において李恒の右腕を務める男が、今晩の標的である村を視界に納めるなりそう言った。景気が悪いことこの上ない。ギロリ、と思い切り睨みやると、男は萎縮する。 気の弱い男なのだが、それだけにそこそこ目端が利く。李恒は不機嫌な顔を崩さぬまま後続の手下達に止まれ、と手で合図をした。暗がりの中で、二拍ほど遅れて手下達が足を止める。「何が変だ?」「静か過ぎやしませんか?」「日が沈んでるんだから静かでも不思議じゃねえだろう」「そりゃあそうなんですが……」 李恒は正論を言ったつもりだったが、男はまだ何かを言いたそうだった。強く出れば言われたことには従うのに、今日はやけに粘るものだ。気の弱い男がそれだけ食い下がるということは、それなりに自信があることなのだろう。 考えることは苦手だ。こちらの視線を伺う男に話せ、と身振りで促すと、男は嬉々として、しかしひっそりと話し始める。「難しいことはわかりやせん。強いて挙げるなら勘でしょうか」 殴り飛ばしてやろうか、と李恒は思ったが、握り締めた拳は微かに動いただけで、振り上げられることもなかった。 勘に頼って行動して碌な目にあったことがない。それで命を救われたこともあるが、そんな物、片手で数えられる程度しかない。悪い目の方が圧倒的に多いのだ。一度など、勘に頼って行動して別の賊と鉢合わせ、全滅しかけたこともある。 ここまで食い下がってきたのは今回が初めてであるものの、それだけでは男の言葉を信ずるには足りない。 危険が待っている、という言外の主張を真っ向から信じるなら今すぐ進路を変更して、眼前の村には立ち寄らないというのが、正しい選択だ。 しかし、ここで集落に立ち寄らないということはありえない。前に襲撃した村で火を放った時に食料のほとんどが焼けてしまったため、食料は既に底を尽きかけていた。今すぐに餓死するほどではないが、何も口にしないまま長時間移動することは肉体的にも精神的にも堪える。 村を攻めるしかないというのは、男も解っているだろう。それを踏まえた上で何かあると言うのだから、用心せよということか。 李恒はぼりぼりと頭を掻いた。やはり、考えることは苦手だ。「……何人か人をやって調べてこさせよう。待ち伏せなら近くまで行けば分かるだろう。敵がいりゃあ逃げる。調べてなにもなきゃあ、全員で正面から打って出る。それで文句はねえな?」「まぁ、そこまでやってくれるのなら……」 納得はしていない男の顔に、今度は躊躇いなく拳を叩き込んだ。顔を抑えて呻く男を他所に李恒は手下の内、適当な人間を見繕って指示を出した。 軍で言うならば斥候だ。歌姫三人の中に頭の回る奴がいたらしく、本隊にいた頃は本隊を離れ周囲を探るという仕事を良くやったものだ。本職に比べれば児戯のような斥候でも、やるのとやらないのとでは大きく変わってくる。 それすらも李恒は面倒臭いと考えていたが、乗りかかった船だ。やると決めた以上、さっさとやり村に押し入ると、そう決めた。 適当に選び適当に指示を出された部下は、適当にそろそろと村の周囲を調べ、大して時間も経たないうちに戻ってきた。 見える範囲に人影はなかった。一番近い家の戸に耳を当ててきたが、人の気配はなかった。解ったのはその程度のことだ。 面倒くさがりの李恒には、それだけ解れば十分だった。「行くぞ」 短い李恒の宣言に、手下達が続いた。 その村には柵があった。珍しい物でもないが、それが気になった李恒は何の気なしに触れてみた。 木で作られた簡単な柵だった。鉄で補強されてもいない、騎馬にでも攻められればあっという間に破壊されそうな弱い物だったが、作りだけは非常に丁寧だ。最近作られた物なのか、まだ木の匂いがする。「頭、どうされました」 手下の一人に呼び止められて、李恒は柵を気にすることを止めた。 柵があったからと言ってどうにかなるものでもない。侵入者を阻むようには作られていないその柵に、村と外の境界を示す以上の意味はなかった。柵には目もくれず村に入る手下に続き李恒も足を速める。 村はどこにでもある普通の村だった。柵の拵えられた入り口付近には田畑が広がり、人の住むための小屋もちらほらと見える。小屋が密集しているのは村の中央部のようだ。比較的高い屋根もその辺りに見える。食料なり金銭なり李恒達にとって価値のある物があるとしたらあの辺りだろう。「駄目です。人っ子一人いやしません」 通り道沿いにある小屋は一応探るように指示を出したが、未だに村人を見つけたという報告はなかった。小屋からは食料や服が持ち去られており、勿論金銭もない。「逃げ出したんでしょうかね」「どうだろうな」 手下の一人の問いに、李恒はおざなりな返答をした。 村人がいない。それが全てだ。 殺しを楽しみにしている手下もいるが、李恒の考えは違った。戦わないで済むのならばそれに越したことはない。人を殺すにも体力がいる。必死の抵抗をされれば怪我をしかねないし、場合によっては返り討ちにされることもある。 李恒を始めとしたこの集団はきちんとした訓練を受けた訳でも、黄巾賊の中核をなしていたような、実戦経験を多く積んだ精鋭でもなかった。殺すのに躊躇いがなく、少し腕が立つだけの素人の集団なのだ。 そんな集団にとって力とは数である。百人を超す多数だけが李恒達の武器だ。人的損耗はそれだけ今後の仕事に影響を及ぼし、各々の死期を早めることになる。 人がいないというこの状況は、願ったり叶ったりと言えなくもなかった。 食料が持ち出されているのは痛いが、全てを持ち出せた訳でもないだろう。村の外では野宿していたことを考えると、雨露を凌げる場所が確保できるだけでもありがたい。「中央の家からやるぞ。音は立てるなよ」 小声で指示を出し、集団の中でも腕の立つ人間三人を先頭にぞろぞろと進む。 中央広場はこの規模の村にしては広く、百人を超える李恒達が集まってもまだ余裕があった。手下に指示を出し、目に見える全ての家に張り付かせる。一番大きな家には腕の立つ三人を配置した。 隠れている村人に反撃された時の対処だが、戸に耳を当てて中を探る手下からは『人の気配なし』という合図が返って来た。 息を顰めて隠れているのか、それとも本当に逃げ出したのか。どちらだったとしても、李恒のやることに変わりはない。「やれ!」 李恒の合図と共に、家々に張りついた手下の全てが戸を蹴破って部屋の中に雪崩れ込む。家を破壊する音と、手下達の怒号。村を襲う時のいつもの光景だが、聞こえてくるのは手下達の声だけで、村人の抵抗するような気配はない。 本当に空振りか…… 安堵と失望の入り混じった溜息を吐きながら、李恒は周囲を見渡した。簡単な家捜しを済ませた手下が戦利品を持って飛び出してくる。決して大漁とは言えないが、それでも先日襲った村よりは多くの物を得ることが出来た。 これならば二三日はこの村に滞在してもまだ余裕が持てるだろう。纏まった勢力を差し向けられる前には逃げなければならないが、休息は必要だ。「頭、あの家が……」 腹を満たして泥のように眠る自分を想像し、気分の良くなっていた李恒を、手下の声が現実に引き戻した。あの家、と手下が示す家を見て、李恒は顔を顰める。 腕の立つ手下を差し向けた、目に見える範囲では最も大きな家だった。村の代表が住む家なのだろう。ただ大きいだけでなく、権威を示すように造りがしっかりとしており、服なり食料なり、何か上等な物があるような雰囲気があった。 その家に押し入った手下が、一人も出てこない。他の家に押し入った手下は既に戦利品を運び出し終えて、検分まで始めている。一度で抱えきれないほどの量があるとしても、一人も、全く顔を見せないのはどう考えても可笑しい。(抜け駆けか) 大方、見つけた食料を貪ってでもいるのだろう。手下の浅ましい行動に、李恒は深々と溜息を吐いた。 気持ちは解らないでもないが、飢えているのは李恒だって他の手下だって同じだ。同じ立場だったら李恒だってそうしなかったとは限らないが、抜け駆けは厳しく罰しなければ他の手下にも示しがつかない。「馬鹿ども、さっさと戻って来い!」 争う音は聞こえてこない。住民の抵抗に合っているということはないはずだ。食料なり金銭なりを懐に入れようとでもしない限り、もたもたする理由はない。 李恒の声は恫喝に近い。いくら数が力の集団と言っても、最低限守らなければならない規律はある。奪った物を勝手に持ち出すのは死罪に近い規律違反だ。それはこの集団に所属している者ならば、誰もが知っていることである。李恒の言葉は、『今ならば命だけは助けてやる』という最後通告に等しい。 だが、踏み込んだ手は出てこなかった。一分、二分。反応を待つ。それでも誰も、一人も出てこない。反応のないことに、流石に李恒も危機感を抱いた。残った手下にも不安が広がっていく。 手下に警戒を促そうと李恒が声を出そうとしたその時、家の中から出てくる者があった。 女だ。きちんとした拵えの金属鎧を着て、腰には剣を佩いている。月明かりしか光源のないこんな夜でも、陰影だけで女性であることが伺える、こんな状況でなければ思わず生唾でも飲み込んでいたろう、中々御目にかかれないほどの美人だった。 その女が、腕に抱えていた物を地面に放る。数は三つ。見慣れた顔がそこに並んでいた。 三つの首に悲鳴を挙げなかったのは、不幸中の幸いだろう。。味方が殺されたことに動揺は広がったが、恐慌は起こさない。それくらいの修羅場は潜っていたことを感謝しながら、李恒は剣に手をかける。 こちらは百人を超える。相手がいくら手練でも一人ならば殺せるはずだ。 時間をかければ怯えが広がり、倒すのに手間がかかるようになる。やるのならば速攻だ。李恒は腕だけで素早く指示を出し、鎧の女を囲むように手下を半円中に広げる。 時間をかければ不安が伝染する。殺すならば早くやるしかない。経験でそれを知っている李恒と手下達は、じりじりと包囲を狭めていく。 忍び寄る死の気配に、しかし、鎧の女の顔に不安はなかった。女は役者のように気障ったらしい微笑みを浮かべると、大きく腕を掲げる。百人を越える元黄巾賊の視線が集まるのを十分に待ってから、女は指を打ち鳴らした。 夜の済んだ空気の中、音が遠く、深く響く。 すると、どうだ。その音に吸い寄せられるように、女の出てきた家から、その周辺からぞろぞろと人の気配が現れ出でた。その数、十や二十では利かない。暗いせいで顔までは解らないが全員が鎧で武装しているのが見て取れる。 李恒は混乱する。 気配は突然現れた。まるで地面から湧き出るように、百人を超える人間が現れたのだ。これだけの人間をどうやって……声に出さずに戦慄するも、それに答えてくれる人間はいなかった。 はっきりとしているのは、今自分たちが圧倒的不利に立たされているということ。どうにかこの状況を打開しなければ、残らず殺されるということだ。「賊軍が、まんまと罠にかかってくれたな」 一歩前に進み出た女の堂々とした振る舞いは、武将のそれだった。一人の将に従う歴戦の戦士のように、女が率いる兵にも士気が満ち満ちている。敗残兵とそれを討伐する兵士。戦の構図はこの時定まった。 勝てない――李恒は一瞬で形勢を判断した。「撤収!」 判断が決まれば、指示を出すのは迅速だ。戦って勝てないのならば、逃げるしかない。李恒の声を聞いた手下達は、我先にと包囲の隙間を目指して駆け出して行く。 その手下達に、女の兵の放つ矢と石が降り注いだ。狙いもつけずに撃たれたようなそれらは誰にも当たらずに地に落ちる物も多くあったが、避けることも防ぐこともせず、ただ逃げるだけの手下達の中には、そんな飛び道具にも当たる運のない人間が何人もいた。「かかれ!」 女の号令と共に、咆哮を挙げながら鎧の集団が突っ込んでくる。第一陣として突っ込んできた人数は両手で数えられるほどの少数だったが、彼らと手下達では勢いが違う。 中でも鎧の女は次元が違った。女が剣を一度振るうたびに、手下の首が一つ飛んでいく。血飛沫の舞う中、剣を振るうその姿は整った美貌と相まって凄絶な魅力を振りまいていた。 鬼神の歩みを止められる者が、、手下の中にいるはずもない。李恒を含めた全員が必死に逃げながら考えることは、自分だけでもどうにか生き延びること、ただそれだけだった。 全ての賊が必死に逃げていたが、ここでこの村に来るまでに負っていた怪我の具合が明暗を分けた。李恒を始め、比較的負傷の軽微な者が逃げる集団の先頭を走るようになり、重い怪我を負った者が後列に追いやられる。足の遅い人間を省みるようなことは誰もしない。 逃げ遅れた手下は鎧の女に首を刎ねられ、あるいはその兵に剣で斬られて命を落としていく。手下達の断末魔が、李恒の足をさらに早くした。逃げなければ殺される。それは呪詛のように李恒の、賊達の心を埋め尽くしていった。 その呪詛に拍車をかけるように、李恒の耳に轟音を届いた。 走るペースを緩めないまま振り返ると、今さっき李恒達が通ったその場所に、土煙が立ち込めていた。煙に遮られてその向こうは見えないが、痛みに呻く手下の声と、さらにその向こうに剣戟の音が聞こえる。 女とその兵は煙の向こうで足を止めたようだが、まだ生きているはずの手下達も追ってこない。敵地の中で走りながら、李恒達は孤立した。「ちくしょう!」 腹の底からの咆哮が、夜の空に響く。『土煙』で分断されたことで、李恒についてくる人間は三十人ほどになった。自分についてくる人数が減ることが、まるで自分自身の命が削られていくことを意味しているように感じられ、平静を欠いていた李恒の心はさらに不安定になる。 とにかく外へ、外へ。田であろうと畑であろうと構わずとにかく一直線に村から出ようと李恒達は走る。 背後の怒号もいくらか小さくなった頃に、李恒達は村の柵を越えた。ここから先はなだらかな道が暫く続き、一時間ほど道を行くと野営をしていた森がある。 そこには僅かではあるが食料があり、負傷してはいるが仲間が残っている。 そこまで逃げれば。李恒達の思いは一つになっていた。身体は当に限界を超えていたが、足が止まることはない。身体の限界を超え、精神の限界を超えても、死にたくないというその本能によって足は動き続けていた。「いまだ、撃て!」 降って湧いた女の声に李恒が足を止めなかったのは、奇跡と言って良いだろう。敵襲の気配を感じた手下達のほとんどはその場で足を止めてしまう。一度止まると、限界を超えた身体は動いてはくれない。飛来した矢を成す術もなく受けて、一人、また一人と打ち倒されて行く。 矢を撃った敵は弓を捨て、武器を持って駆けて来る。矢を受け足を止めた手下達に、それを受け止めるだけの気力は残っていない。槍で剣で背後で手下達がばたばたと討たれて行くのを聞きながら、李恒と生き残った手下は足を止めずに走り続けた。 その前に十数人の集団が現れた。農民が見よう見まねで武装したような貧相な集団だが、全員がこちらに向けて弓を引いている。「撃て!」 集団の先頭に立った男の合図で矢が一斉に放たれた。李恒は咄嗟に剣を抜き放ち矢を払い地面に転がる。それが出来たのは李恒を含めて五人だった。走らされて疲労の極地に達していた手下達は矢を受け、崩れ落ちるように倒れていく。 眼前の集団から咆哮が上がった。戦う気に満ち溢れた集団が武器を手に勢い込んで駆けてくる。 若い人間が目立つ。男が多いが女もいた。二十を越えている人間はその中に一人もいないだろう。先頭を駆けている男が頭目のようだった。 こんな小僧どもに殺されるのか…… そう思った瞬間、疲れた李恒の身体に力が戻った。これが最期の戦いになる。腹の底から雄叫を上げ、自分を鼓舞した。 死ぬのは別に、それで良い。 だが、黙って殺されるのは我慢がならない。ここで死ぬのだとしても一人でも多くの人間を殺す。 先頭の男を追い越して飛び出してきた少年に、李恒は剣を叩きつける。 小柄な少年は急停止し、自らの剣で李恒の剣を受けながら地面を転がった。空いたスペースに先頭の男が駆け込み、剣を振るう。 細身の身体の割りに、良い一撃だ。二合、三合と打ち合う。その隙に少年が起き上がった。一緒にかけてきた他の仲間は、背後の集団を相手にすると決めたようで、李恒の脇を通り過ぎて行く。 相手は子供二人。不満はあるが、相手に不足はない。 少年が剣を突き込んでくる。男の攻撃よりもずっと鋭い。農村に住んでいる子供が放てるような攻撃ではなかった。李恒の想像を遥かに超える速度のその一撃は、李恒の腹部を浅く裂く。それと共に生命力が失われていくのを感じ、李恒はさらに激昂した。 雄叫びをあげる。獣のようなその咆哮に、男と少年は思わず足を止めた。それを見逃す李恒ではない。 剣を振るいながら、身体ごと少年に突っ込む。体重の軽い少年は成す術なく吹っ飛ばされ地面を転がった。 残された、男の方に向き直る。 少しは怯えているかと思ったが、男は随分と落ち着いていた。剣を正眼に構え、左足を大きく後ろに下げる構えで、右に左に小刻みに動いている。 人と戦うことに慣れているようだ。淀みなく動いているが、随分とお行儀が良い。人を殺したこともないのだろう。剣を持つ腕には固さが見て取れる。 これならばまだ、少年の方が強いかもしれない。こいつにならば勝てる。李恒はそう確信した。 大きく吼えて、剣を打ち込む。細身の男に腕力では負けるはずもない。力を込めた攻撃を数度打ち込むと、力負けした男の剣は軽々と弾き飛ばされた。返す刀で首を狙う。殺った――李恒がそう思った瞬間、男は迷いなく地面に身を投げ出した。 行き場をなくした剣は地面を穿つ。腕に走る衝撃に李恒は顔を顰めた。 男は地面を転がって距離を取る。その時には吹っ飛ばされた少年も復帰していた。目には怒りの炎が灯っている。吹っ飛ばされたことを根に持っているらしい。男よりも遥かに鋭い動きには、やはり天性の物が感じられる。 このまま修行を続ければ、きっと一角の剣士になることだろう。その才能が、酷く癪に障った。 殺すならこの少年だ。ただの人間を殺しても面白くない。何が何でも殺す。刺し違えてでも殺す。 そんな李恒の前で、少年は口の端を挙げて哂った。こちらを小馬鹿にしたその笑みに、李恒の頭に血が登る。 李恒が、雄叫びを挙げる。剣を構えた少年は――剣を放り出し、倒れこむようにして地面に伏せた。 何故―― そう思った李恒の背中に、鋭い痛みが幾つも走った。口から血がごぽり、と溢れる。痛みを堪えて振り返ると、そこには弓を構えた男の仲間達がいた。李恒の手下は血溜まりの中に横たわり身動ぎもしない。 弓を構えた連中の先頭いるのは、眼鏡をかけた釣り目の女だった。見るからにいけ好かないその女は、見た目の通りのこちらを見下すような口調で、言った。「まさか卑怯などとは言いませんよね?」 腹部に熱が走る。少年の剣が李恒の腹を貫いていた。溜まらず剣を取り落とし、地に膝を落とす。目の前に少年の首がある。最後の力を振り絞り、その首をへし折ろうと手を伸ばすと、少年は剣を残して大きく跳び退った。「団長!」 少年の声を受けた男が、剣を持って戻ってくる。男の腕には不相応の一目で名剣と分かるそれを振りかぶり、低く小さな声で呟く。「悪く思わないでくれよ」 それが李恒の聞いた最後の言葉だった。 振り下ろされた男の剣は李恒の鎖骨を裂き、流れ出した血は地面を真っ赤に染めた。薄れていく意識の中、最後の力を振り絞って李恒は顔を上げる。 自分を殺した男の、今にも泣き出しそうな顔が目に入った。 流れそうになる涙を必死に堪えて自分を見下ろす男に、李恒は笑みを浮かべる。憎まれ口を叩く力すら残されてはいなかった。口から大きな血の塊が溢れる。 だから、李恒はただ男を見つめ続けることにした。男がこれからの人生、自分の死によって少しでも苛まれるように。目を逸らさずに、ただじっと男の瞳を見つめる。 喚き散らしてくれれば、溜飲は下がった。そういう醜態を見るがための行動だったが、男が涙を流すことはついになかった。(つまんねえ人生だった……) 誰にも聞こえることのない文句を心中で呟きながら、李恒の人生は終わった。二次創作なのに原作キャラの名前が一回も出てこない……当初の予定ではこの後に一刀と戯志才の遣り取りが入って事後処理編に突入する予定でしたが、それでは流石に不味かろうということで話を分けました。今回が賊視点のお話。賊視点なので一方的にやられています。次回が一刀達視点の種明かし編です。よろしくお願いします。