「稟、その、なんだ……元気?」 当たり障りのなさ過ぎる一刀の言葉に、棘のある言葉を返すつもりでいた気持ちが萎えていくのを感じた。狙ってやったのだとしたら大したものだが、一刀にそこまでの配慮ができるはずもない。一人で気を張っている自分がバカらしくなって、稟は肩の力を抜いた。こちらの険が取れたのが解ったのだろう。一刀が安堵の溜息を漏らす。「貴殿は相変わらずのようですね、色々な意味で」 それでも、若干の棘があるのは愛嬌というものだろう。不意打ち気味に投じられた言葉に、一刀は一歩後退る。それで溜飲を下げた稟は先ほどよりも幾分清らかな気持ちで周囲を見回した。 あの村で旗揚げ……のようなものをしてから、一刀は元より風や雛里と離れて仕事をしたのはおそらくこれが初めてだ。恋や丁原に不満があった訳ではないが、それでも一抹の寂しさを味わっていたのは事実だった。一刀たちもこんな気持ちでいるのだろうか。そう思うことで寂しさをやり過ごし、見事に当初の計画を達成。やっとの思いで仲間の元に帰ってきたら親友は女の顔になっているし、一刀の周囲に新しい顔が一つ増えていた。 少女の立ち位置からどういう役割なのかは推察することができた。相談もなく! と憤りはしたものの、少女が黄忠の娘であると聞いて稟は納得した。この状況と黄忠の立場を考えれば断る訳にはいかなかったのだろうと、『理性では』納得できる。 黄叙を見る。 稟の目から見ても美少女だ。家事は万能で武もそれなり、胸は薄いが親がああなら将来性は抜群だろう。強いてあげるとするなら学が浅いことが短所として挙げられるが、それも軍師である自分や風と比べてのこと。一般的な教養ならば十分に修めているようだし、一刀の仕事の補佐くらいならば明日からでもできるだろう。傍においておく人間として、これほど都合の良い存在もない。 それだけに後々のことを考えるとよろしくない。立場と年齢を考えると、一刀もそろそろ連れ合いを決めてもおかしくはない時期だ。『家』という後ろ盾がない分、急務とも言える。この時期に黄忠が娘を差し出してきたということは『そういう』意図もあるのだろう。一刀とてそれは認識しているはずで、黄叙自身は特にそれを意識しているはずである。二人が、特に黄叙の側が望めば、すぐにでも関係は築けるだろう。 しかし、である。後ろ盾として黄忠は悪くないが、ここまできたらもう少し上を目指してみたいというのが筆頭軍師としての建前だった。さりとて黄忠よりも上となると、難しくなってくる。悩みすぎて売り時を逃しては元も子もない。 決めるならばさっさと決めた方が良いのは解っているのだが……色々な感情が邪魔をして、本格的な話を切り出すことができないでいた。 そんな状況での黄叙であり、風である。特に風だ。雛里などは一刀の背後に控える黄叙に幼い顔立ちに似合わない胡乱な視線を向けているというのに、風は非常に落ち着いた物腰を見せている。まさに正妻の貫禄だ。女の影がどれだけ見えようと気にしないと言わんばかりである。 いつからそこまで物分りが良くなったのか。いずれ話し合う必要がありそうだが、今は仕事の話だ。「県令の仕事の引継ぎのため、私も付き添うことになったと聞きましたが?」「ああ。文官仕事の引継ぎ調整を稟に頼みたい」「私でなくても良いのではありませんか? せっかく人材も増えたようですし……」 軽く嫌味を口にしながら、黄叙に視線をやる。特に睨んだつもりはないが、視線を受け止めた黄叙はびくりと背中を振るわせた。顔色も良くないようである。胆力は年相応のようだ。腹芸に通じている風でもない。母親は百戦錬磨の貫禄が体中から滲み出ていたが、それを求めるのは酷というものだろう。 だが諸々の感情を別にすればその素直そうな物腰には好感が持てた。だが、それを顔には出さない。最初くらいは苦手意識を持ってもらった方が良い。若く使命感を持っていそうなだけに、頭を押さえつけておかないと暴走する恐れがある。正室の座は、もうしばらく諦めていてもらうことにしよう。「いや、稟じゃなきゃ駄目なんだ。国境で頑張って疲れてるのは解ってるつもりだけどついてきてほしい」 まっすぐな視線を沿えての、一刀の台詞。聞いた瞬間に胸が締め付けられるような思いがしたが、是が非でも自分を連れて行きたい、というのは一刀一人で決めたことではないだろう。しばらく離れていた郭嘉に配慮すべし、という動きが知らないところであったに違いない。 配慮してくれるのは嬉しいが、癪に障らないでもない。 それを顔に出さないようにしながら、稟は澄ました顔で返した。「解りました。出立は明日ということで良いでしょうか?」「助かるよ。ありがとう、稟」「今更気にしないでください。貴殿のために身を砕くのは当然のことです」 そこで、ようやく稟は肩の力を抜いた。一刀も笑顔を浮かべる。明日のことはこれで決まったが、この地においてもしなければならない仕事は溜まっている。代行とは言え既に州牧なのだ。前の州牧が盆暗だっただけに、その改革には早く着手したい。 その気持ちが顔に出ていたのだろう。一刀の笑顔は苦笑に変わっていた。「働き者の仲間を持って、俺は幸せだよ」「そう思うのならば、もっと仕事をできるようになってください。傍仕えができたのですから、余裕もできたことでしょうしね」「微力を尽くすよ」 苦笑を本当の笑顔に切り替え、一刀は言った。「ともかくお帰り、稟。無事に帰ってきてくれてよかった」「改めまして、ただいま戻りました一刀殿。これからも、共に頑張りましょう」 元赴任地となってしまった県への同行者は、予定よりも少なくなった。 引継ぎの中核である一刀と、文官の引継ぎ処理の全てを請け負った稟。それから一刀の傍仕えである黄叙と家族の引越しの面倒を見るためについてきた恋の四人。中核メンバーはこれで全員である。 普段であれば護衛の要もいるのだが、彼は黄忠に目をつけられ州都に残っている。弓を使うという彼を黄忠はいたく気に入ったらしく、滞在している間は彼の面倒を見ることに決めたようだった。弓の指導をしてくれる黄忠を要は尊敬の眼差しで見つめていたが、そんな要を見下ろす黄忠の瞳に、一刀は肉食獣のような光を見ていた。見た目が見た目だけに、取って食われるというのもありえないことではない。 注意を促したいところではあったが、要も男だ。それくらいの判断は自分でするべし、と一刀は関わらないことに決めた。よく考えれば美味しく食べられてしまったとしても、誰も困らない。要も一皮剥けて黄忠も満足する。正にWINWINの関係だった。 要が残った影響というのではないが、武官でついてきた人間は恋以外にいなかった。実働部隊の責任者であるところの霞は、州軍の再編成で忙しく働いている。雛里はそのフォローだ。稟が率いてきた本隊の中には、前の州牧が率いていた軍の捕虜が大勢いた。州牧が個人で動員できる戦力だからといって、その全員が州牧に心酔していた訳ではない。好き放題やっていた彼の評判は子飼いの中でもよろしくなかったらしく、中核だった人員が丁原との戦でほとんど死亡したこともあって、多くの人間があっさりと反旗を翻し、軍に残ることを希望していた。 錬度には疑問が残るものの、最初から頭数が揃っているのは嬉しい誤算である。県とは違い予算も桁違いだ。一から兵を鍛え上げるのも良いが、やはり騎馬の大軍団を指揮したかったのだろう。編成を急ぐ霞の目は、やる気に満ちていた。周倉については指揮下の部隊が全員州都にいるため、県に戻ってもすることがないと霞の州軍再編に付き合っている。 本人は出世などにはそれほど興味がないようだが、クーデター実行部隊に参加していたことで昇格はほぼ決定付けられている。反旗を翻したとは言え現在の州軍の中核をなしているのは『あの』州牧に従っていた面々だ。息のかかっていない人間は少しでも欲しいこの状況で、賄賂や脅しで寝返りそうにない周倉の存在は貴重だった。「最初は頭数を確保するのに盗賊を組み込むなんてやったなぁ」「こんな時代だからこそ使えた手ですね。高い志を持った人間が賊に身を窶し、腐った人間が権力の上に胡坐をかいている。世も末だと頭を抱えたものでした」「そんな世を少しでも是正できたなら何よりだ。後はもう少し、周倉の物分りが良くなれば助けるんだけどな」「それについては地道にいきましょう。下手に動いて離反でもされると、後が怖い」 自他共に厳しい周倉には相変わらず敵が多い。彼女を嫌う人間には一刀の陣営にも数多くいるが、不正を許さないその苛烈な性格は民には非常に受けが良かった。先日など以前までのノリを引きずって兵に賄賂を渡そうとした商人を公衆の面前でを殴り飛ばしている。 賄賂や不正は断固として認めない方針であるので、この行動は陣営の方針をアピールするに当たって非常に有効なものとなっており、『不正を許さない兵』ということで民の支持もうなぎ上りだ。力で締め付ける方針は一刀や稟の主義ではないものの、官憲と言えば腐っているというイメージで凝り固まった民に、不正を許さない周倉の姿は新鮮に映ったらしい。 その周倉のイメージに引きずられて、陣営全体のイメージも良いものになっている。諸悪の根源扱いの前州牧を討ったという事実はあるが、民の意識は移ろいやすい。この辺りで何か心を引き付けるようなことを、と考えていた矢先だっただけに、周倉の行動は渡りに船と言えた。 さて、と気を引き締める。 県庁の執務室、その扉の前である。 少し前までは一刀の仕事部屋だったが、県を空けている間は責任者であったねねがその主となっていた。 つまりこの扉の向こうにはねねがいる。話し合って決めた上での役割分担とは言え、敬愛する恋と引き離す形で仕事を押し付けてしまった決まりの悪さがあるため、顔をあわせ難い。 仕事のデキる人間らしく、仕事とプライベートは分けて接してくれるが恋と親しい関係にある男性ということで目の仇にされているのは否めない。それでも男であるというだけで攻撃的になった荀彧に比べれば大分穏やかな精神性と言えるが、口や足が飛び出してくるのは共通している。 そういう攻撃的な少女は荀彧で慣れているが、今回は幹部連中の中で一人カヤの外の状況である。何を言われるのか想像するだけで気分が滅入った。「できれば俺は席を外したい」「そういう訳にもいかないでしょう。覚悟を決めてください。殿方なのですから」「なぁ、やっぱり俺いじめられてる? 正直に言ってくれ」「滅相もない。ただ最近私はないがしろにされていた気がするので、この辺りで貴殿に私を思い出していただこうと思いまして」「俺は稟のことを忘れたことはないよ」「それだけふざけたことが言えるのならば大丈夫ですね。では、どうぞ」 道をあける稟に、一刀は深々と溜息をつく。これで少しくらい慌ててくれれば楽をする目もあったのだが、そういう訳にはいかないようだった。自分に女遊びの才能がないことを改めて自覚しながら、一刀は扉を開けた。「ようやく来やがったですか、ちんこ州牧」「枕詞は余計だけど、その分だと事情は知ってるみたいだな」「州内はその話題で持ちきりですからね。それにお前と違って頭の良いねねは、こうなることを予見していたのです」 ほら、とねねが突き出した木簡を受け取る。その五点。さらにねねが示した先には、十個の木簡があった。「お前が外に出ている間の報告はそれに纏めておいたのです。引継ぎについてはやれるだけやっておきました。微調整はお前の仕事です。何か質問はあるですか?」「書くべきことを纏めておいてくれたのなら、俺から聞くことはないな」「そうですか。では、ねねは恋殿のところに行ってくるのです」 話はそれで終わり、とばかりにねねは駆け出し――すれ違い様に一刀の後ろに控えている黄叙に視線をやりながら――足早に部屋を後にした。「仕事が早くて助かりますね」 稟は一刀の手の中の木簡を取り上げ、手早く中に目を通していく。凄まじい速度で内容を確認する稟にパスするため、一刀は机の上にある木簡の山に目を向けた。上から順に番号が振ってある。この順番通りに読め、ということなのだろう。随分と親切なことだ、と思いながら『二』と書かれた木簡を差し出すと、稟は間髪いれずに取り上げた。「三番を紐解いておいた方が良いかな」「まずは一番の木簡に目を通していただけますか?」 稟の口調はにべもない。入れ替えるように最初の木簡を受け取ると、執務机に腰を下ろす。お茶を淹れます、と茶道具に駆け寄る黄叙。稟は木簡を凄まじい速度で読んでいるが、立ったままだ。一刀は机から立ち上がると椅子を持ち出し、黙って稟に勧めた。ありがとうございます、と稟は小さく礼を言い、腰を降ろす。視線は木簡に落としたままだ。夢中で文字を追うその顔は真面目そのもので、アップにされたうなじとの対比は一刀の心を擽った。 小さく溜息をつき、一刀の執務机の椅子に腰を降ろす。稟は二分とかからず流し読みしてしまったが、文字を追うスピードは平凡な一刀には中々の難物だった。「む」 木簡を四苦八苦しながら攻略していると、稟が小さなうめき声を挙げる。一刀が集中しているうちに稟は三番目の木簡を読み終えていた。「何か不都合でもあったか?」「できすぎています。資料の完成度が高すぎる」「それは良いことなんじゃないか? ねねだって優秀なんだし時間だってあった。手伝ってくれる人間だっていただろうし、ありえないことじゃないだろ?」「ねねを筆頭に県庁の文官を総動員したとしても無理です」「……じゃあ質問を変えるけど、どのくらいでき過ぎてるんだ?」「そうですね……ねねが後二人はいないと、この完成度には説明がつきません」「なんだ。じゃあ、同じくらいの力量を持った人間が後二人いて、その二人がねねを手伝ったんだろ? 何もおかしなことはないじゃないか」「そんな知者が市井に何人もいるとお思いですか?」「そんじょそこらにはいないだろうけど、ここにはいるだろ。飛び切り優秀な人たちが『三人』も」 稟はそれでも首を捻っていたが、やがて「あぁ!」と声を挙げた。「失念していました。いや、存在を忘れていた訳ではないのですが、その可能性を無意識に排除していたようです。貴殿に言われるまで気付かないとは……軍師失格ですね」「たまには俺が良い目を見ることがあっても良いだろ。それより、その三人のうち二人が手伝えばこの資料の完成度には納得がいくか?」「問題ありません。そうですか、彼女らが……」 資料に視線を落とす稟の目は真剣そのものだった。軍師として、何か刺激されるところがあるのかもしれない。速読のスピードを更に上げて、木簡を読み進めていく。それにおいていかれないように、一刀も必死に資料を読み込んだ。「そういえば、彼女たちの処遇はどうするのですか?」「好きなようにしてもらうさ。でも、ここに残るって訳にはいかないだろう。董卓殿たちは戻る場所はあるだろうけどまだ情勢が不透明だし、諸葛亮殿は……」 言葉を続けようとして、一刀は視線を彷徨わせる。諸葛亮のまっすぐさを知っているだけに、言葉を続けるのが憚られた。「話は変わるけど、劉備軍はどうだ?」「負けた、という話はまだ伝わってきていませんね。時間の問題だとは思いますが、諸葛亮殿が抜けたとは言え、関羽、張飛の両名が奮闘しているようです。曹操軍も一気に決めようとしているようですが、中々決めきれない。ですが戦況は一進一退ではなく、曹操軍は押し続けています。起死回生の作戦でもない限りは、このまま負けは確定でしょう。我々の予想の通りです」 言葉を結んで、稟は渋面を作る。曹操軍が劉備軍を破って手が空いたら、その目はこちらに向くことになる。曹操が天下を狙っているのは、もはや公然の秘密である。領土拡大を目指し、こちらに対し何らかの行動を起こしてくるのは目に見えていた。「領土の南方が手薄になっている袁紹を攻めるってことはないか?」「聞き及んだ曹操殿の性格を加味するに、火事場泥棒のような真似はしないはずです。やるならば正面から。それが彼女の美学なのでしょう」「相対的弱者に上から目線で美学も何もないもんだ」 とは言え、立場が弱いのは事実であるから仕方がない。協力しないならば敵とみなすというのは、逆に言えば味方でいる限りは力を貸してやるということでもある。一刀だって、曹操の性格は聞き及んでいる。あの荀彧がほれ込むような存在だ。完璧主義で、高潔な人間に違いはない。 何の制限もない状態ならば、一刀も曹操と協力することに吝かではないのだが……今度は曹操とはまた別の問題が河水や長江の向こう側にも存在するのである。 孫策もまた天下に雄飛する時を狙っている。一刀たちには彼女らの下で世話になっていた時期があった。代行とは言え并州牧になったということは、彼女にも伝わったことだろう。そろそろ同盟の話を持ってこられるのでは。稟たち軍師が懸念しているのはそこだった。 対等の同盟を組めるのならば良い。 しかし州牧代行になったとは言え、一刀はまだ并州を平定しているとは言いがたく、仮に平定できていたとしても組織力の差は歴然としていた。軍事同盟を、と向こう側から提案されたら、受けた恩義のこともあり一刀には断る術がない。「孫策殿は、もうそろそろかな」「できれば放っておいてほしいというのが正直なところです。彼女には大きな借りがありますが、同様に大きな貸しも作っています。それで相殺、対等にしてほしいものですが、その辺りは先方の胸三寸ですね」 こちらに組み込む、と大きく出られたら一刀にはそれを突っぱねるだけの体力がないのである。孫策の人となりはそれなりに知っているし、これまた協力するのに抵抗はないのだが、ここまでついてきてくれた稟たちのことを考えると、ここで頭を抑えられるのは色々と面白くない。 せめて対等な同盟関係を結べれば良いのだが、それは弱者であるこちらではなく、強者であるあちらが決めることだった。逃げることはできない。運命の時は刻々と迫っているのである。「仮に孫策殿と同盟したとして、曹操軍を撃破できると思うか?」「戦の開始時期をこちらで調整する必要があるでしょう。孫策軍の主力が足止めをされたら、その間に我々の命運は尽きます」「だよなぁ」 孫策と強固な同盟を結べたとしても、距離の問題はどうしようもない。孫策の本拠地は河水と長江の向こう側にある。時間的な余裕もあるから、よーいどんで戦が始まるのならば、孫策に対する備えをしつつ速攻で曹操軍はこちらを攻めてくるだろう。恋や霞など優秀な将軍はいるが、物量と錬度の差はどうしようもない。 やはりまともに戦えば敗北は必至だ。 どちらに行っても困難な道が待ち受けている。北郷軍の前途は多難だった。「策がない訳ではないのですが……」 その割に、稟は乗り気でない様子だったが、手があるというのならば、どんなものであれ聞いておきたい。考えるのは彼女ら軍師だが、決めるのは一刀の仕事なのだ。取れる選択肢は、把握しておくに越したことはない。 一刀が無言で続きを促すと、稟は諦めたように大きく溜息をつき言葉を続けた。「公孫賛殿と結んで、袁紹を討つのです。今袁紹軍は大きく北に動いており、公孫賛軍を押し込もうとしています。主力はほとんどが北に行っており、冀州南部は非常に手薄になっているはずです。錬度の高い兵が残っているのは州都近辺くらいのもの。并州の地ならしが済んだ後ならば、州の南を押さえるのはそれほど難しいことではありません」 稟の言葉に一刀は小さく息を漏らした。東を曹操に、南は政治的な問題で手を出すのが難しい地域であるから、その両方と事を荒立てずに領土拡充をするには、袁紹の土地を掠め取るしかない。それほど労せずして冀州の南を取れるのであればこれ以上のことはない。「地味に現実的じゃないか。何が問題なんだ?」「問題なく勝てるのは、おそらくその辺りまでです。何しろ公孫賛殿が劣勢を覆す見通しが立ちません。幽州を押さえたら、袁紹軍はそのまま南下してきます。錬度こそ我々が勝っていますが、彼女らには凋落の一途をたどっているとは言え名門袁家の名声があり、豊富な資金力があります。物量で押されたら我々には対抗できません」「戦争は数だって偉い人が言ってたもんなぁ……でも急いで攻略して、公孫賛殿の軍と協力して、袁紹軍を挟撃できれば?」「北の袁紹軍を討つには、州都を攻略する必要があります。北の袁家の本拠地であり非常に堅牢です。攻略するには策を弄する時間が必要になります」「落とせないって訳じゃないんだな?」「可能か不可能かと言われるならば、可能です。そこから先に続かなくても良いのであれば、ですが。ともかく、現状の戦力、資金力、その他政治的な要因によりこの作戦は全く持って現実的ではないのです」 公孫賛のことは助けてやりたいが、そのために仲間を危険に晒す訳にはいかない。こんな時代である。強い者が生き残り、弱い者が淘汰されるのは『自然』なこととは言え、民のことを何も考えない、あの袁紹が公孫賛を押しのけてまで生き残るというのが、一刀には癪に障った。「曹操殿と結べば、公孫賛殿が負ける前に袁紹を討てるか?」「それこそ本末転倒です。あちらの都合の良いように使い潰され、美味しいところだけ持っていかれるに決まっています」「世の中上手くいかないもんだな」「その通りです。だからこそ、少しでも上手く行くようにできる限りのことをしておくのです。まずは一刻も早く并州を平らげること。貴殿に寝ている暇はありませんよ」「お手柔らかに頼むよ」 そう頼んだところで手加減してくれるような稟ではない。彼女の要求はいつもハードで、しかし、頑張ればできないこともないギリギリのところを突いてくる。文句を言おうと思ったことも一度や二度ではないが、その稟は自分の倍は仕事をしている。その上でこちらの面倒まで見てくれているのだから、大きな顔などできるはずもない。 会話が途切れたタイミングを見計らって、黄叙がお茶を運んできた。椀を置く。自分よりも大分幼いこの少女の完成された所作を見て、一刀は思わず溜息を漏らした。どれほどの教育を受けてきたら、ここまでのことができるのだろうか。黄叙くらいの年に自分が何をしていたのかを想像して、一刀は苦笑を浮かべる。竹刀を振り回し遊ぶことしか考えていなかった気がする。 椀を口に運ぶ。やはり、美味い。自分で淹れてもこうはならないだろう。『美味しい』という言葉が自然に口をついて出ると、黄叙は花が咲くようににっこりと笑った。喜怒哀楽がはっきりとしているのも、非常に好ましい。「ふむ。これで貴殿も、美味しいお茶には困りませんね。おまけに黄叙のような美しい傍使いも得た。今がこの世の春なのでは?」 稟が意地の悪い笑みを浮かべている。機嫌は心持ち下降しているが、これはからかっている時の顔。一刀は付き合いの長さからそれが解ったが、稟をあまり知らない黄叙はその言葉を真に受けて、照れていた。純朴なその反応は非常に好ましいものであるが、この場、この状況で稟を相手にそういう反応は良くなかった。 その言葉が嬉しい。喜怒哀楽のはっきりとしている黄叙が、今嬉しいと思っていることは誰にも解った。稟は頬杖をつきながら、黄叙のことを眺めている。眼鏡の奥の切れ長の目は、報告書を読む時のような無感動さを持って黄叙を観察していた。 稟はもしかして黄叙のことが嫌いなのだろうか。今更な疑問を一刀が持ち、それを口にしようとした時、稟は一刀の行動を制するように片手を挙げた。そうして、瞳をゆっくりと閉じる。目を開けた時にいたのは、いつもの稟だった。 機先を制された一刀は、脱力して椅子に背中を預けた。大きく溜息をつく。胸の中にできた蟠りは、全て出て行ってはくれない。「仲良くな」「解っていますよ。一刀殿は本当に心配性だ」 稟が笑みを浮かべる。黄叙を観察していた時とは違う、慈愛に満ちた笑み。普段冷たい印象のある稟が、こういう顔をするととても安心できる。毒気を抜かれた一刀は、稟の言葉を肯定するように小さく一つ、頷いた。 誘導されたのだ、と気付いたのは執務室の扉がノックされた時だった。 稟は報告書を読む作業に戻り、黄叙は傍仕えの常として一刀の後ろに控えている。一体どれほど呆けていたのだろうか。聞いて見たい気もするが、誰に聞いても恥ずかしい思いをしかねない。「どうぞ」 稟の顔も黄叙の顔も見ないようにして、一刀は来客に応じた。「お邪魔するわよ」 入室してきたのは、先も話題に上った少女だった。小柄な身体に勝気な瞳。これでかの董卓軍筆頭軍師であったというのだから恐れ入るばかりである。小柄すぎるその身体を見れば本当にこの女の子が、と疑問に思いことも間々あるが、その目を見れば誰もが納得するだろう。 全てを見通さんとする意志力に溢れたその目は、無軌道な若さだけでは説明できない説得力に満ちていた。 その輝きに隠れるようにして、もう一人少女がいる。いつもの取り合わせだと思っていた一刀は、肩口で綺麗に切りそろえられた髪とベレー帽に僅かに意表を突かれた。 諸葛孔明。歴史に疎い一刀でも知っている名を持った『伏龍』とあだ名される少女がそこにいた。諸葛亮が自分から顔を出しに来ると思っていなかった一刀は彼女の姿に驚きの表情を浮かべるが、すぐにそれを引っ込め笑みを浮かべた。「お二人とも、ようこそおいでくださいました」 振り返ると、黄叙は既に二人分のお茶の準備を始めていた。気の利いた傍仕えに感心しつつやってきた二人に椅子を勧める。「ちなみに月は今日来ないわよ。引越しの準備で忙しいから」「やはりこちらから離れますので?」「当然でしょ。お前や恋がいるからここに厄介になってたんだもの。お前達が移動するなら、僕達も移動するのは当然でしょ?」「立ち入ったことをお聞きしますが、故郷の情勢は現在どのような」「……以前に比べれば大分マシになったわ。袁紹が公孫賛と戦を始めたのが何より大きいわね。并州の袁家勢力はほとんど北に行っちゃったから、残りは精々司州に残ってる連中のみ。南の袁家も孫呉に負けたみたいだし、そろそろ良いかな、とは思うんだけどね」 それでもまだ危ないと賈詡は判断したようだ。恋、霞の助力がアテにできない以上、自軍の戦力と合流するまで危険はできるだけ避けなければならない。董卓たちのためならば兵を貸すことになっても構わないが、それでは無用に目だってしまう。司州を通過する前に捕捉され、大軍団で包囲されてしまったらそれでおしまいなのだ。 自軍を呼び寄せるという選択肢を排除して考えるなら、袁家が壊滅的な打撃を受けるか、襲われる心配のない安全なルートでも開拓しない限り高い安全は確保できないだろう。公孫賛が戦に勝てばそれもかなり早期に達成できそうではあるが、情報を聞くにそれも難しい。賈詡や董卓の滞在は、今しばらく続きそうだった。「それにしても、お前も随分優秀な軍師を拾ったものね。この娘が『あの』諸葛亮だって聞いた時は、本当に驚いたんだから」 隣に立つ諸葛亮を、賈詡が眩しそうに見つめる。その視線を受けて、諸葛亮は小さくなる。雛里に似て、仕事が絡まない場で人と接するのは苦手らしい。 それにしても、と思う。勝気な性格の賈詡が素直に他人を認めるのは珍しいことのように思えた。恋や霞のように武将であるならまだしも、諸葛亮は賈詡と同じ軍師であり、どちらも背丈はかなり小さいため見た目では判然としないが、おそらく諸葛亮の方が幾分年下のはずである。 一刀の経験上、軍師というのは頑固な人間が多い。彼我の実力差を正確に判断するのも力ある軍師の条件であるが、それを公然と認めることができるかというのはまた別の問題である。稟も風も中々人を褒めるということをしなかったし、孫呉の周瑜は厳しい性格だった。荀彧などは言わずもがなだ。賈詡も多分に漏れずにそういうタイプに思えたのだが、諸葛亮の才覚はその流儀を翻すほど洗練されたものであったらしい。「拾ったという訳では。縁あってお世話をさせていただいている、というだけです。俺としても諸葛亮殿に仕事を手伝っていただけて大変感謝しています」「あら。僕には感謝していないの?」「もちろん、賈和殿にも感謝しております。董白殿にも、よろしくお伝えください」 偽名が自然と口にできたのは、我ながら僥倖だった。聡明な諸葛亮のことだから、このお下げの少女とその友人の正体について既に気付いているのかもしれないが、それと公然と存在を認めるのは意味が大分異なる。公の場では偽名で通すというのは、北郷軍幹部全員の方針である。「一仕事終えて、随分如才なくなったわね。これも州牧代行になった影響かしら?」「自分としては結構な大ニュースのつもりでいるのですが、皆が知っていることなのですか?」 賈詡はニュース? と一瞬首を傾げるが、文脈からどういう意味なのか確信を持ったのだろう。それについては特に問い返すようなことはせず、面白くなさそうにおさげを指でいじりながら、答えた。「最近はどこもかしこもお前の話題で持ちきりよ? 浮浪者から身を立て名を上げた男だって」「浮浪者は酷いですね」 賈詡の物言いに苦笑を浮かべるが、身元の洗いようがないのだから仕方がない。どれだけ優秀な草を雇ったとしても、辿ることができるのは荀家を訪れる直前まで。それ以上の経歴は誰が何をしても出てこないはずだ。「色々な噂があるわよ? どこぞの高貴な血筋のご落胤とか、酷いのだと天からの御使いなんてのもあったわね」「悪い冗談です」「全くね。まぁ、今の境遇に驕らず精進を続けること。お前本人はともかくお前を支えてる人間は皆、文句なしに優秀なんだから。皆の頑張りに恥じないようにしなさい」「肝に銘じておきます」「よろしい」 うむ、と偉そうに頷いて賈詡は場所を空ける。一刀の視線は自然と、もう一人の方に吸い寄せられた。「改めまして、ありがとうございました。諸葛亮殿に手伝っていただけて、大変助かりました」「北郷さんにはお世話になりましたから、これくらい当然です」 小さい体相応の細い声。伏目がちの視線は小動物を思わせる。雛里も大概に人見知りをするが、諸葛亮のそれも中々のものだった。視線を合わせようとすると、つい、とそらされる。面白がって追おうとすると本当に泣きそうになることは、州都に攻撃をかける前に嫌というほど思い知った。 諸葛亮のような小動物系の美少女に泣かれてしまうと、ダメージも大きい。視線を逸らされ、癖で追おうとしてしまった自分をしっかりと戒める。彼女は仕事を手伝ってくれた恩人で、雛里の親友だ。間違っても悪戯に泣かせて良い相手ではない。 背後に刺すような視線を感じる。稟だ。肩越しに振り替えると、稟が鋭い視線でこちらを見ていた。短く、手で合図。何か取り決めがあった訳ではないが『誘え』と言いたいのだということは、何となく解った。劉備の陣営を放逐されたことで、諸葛亮は今だフリーである。ここにいるということが明かされていないからまだ誰も声をかけていないが、彼女ほどの軍師であればどこの陣営からでも引く手数多だろう。 こうなるように仕向けた曹操ですら、声をかけてきてもおかしくはない。北郷軍も力をつけてきたとは言え、地盤のしっかりとしている他の陣営に比べると心許ないのは事実。諸葛亮を勧誘するチャンスは、他陣営に所在が割れていない今しかないのである。 本音を言えば、一刀だって欲しい。能力の高さは一刀が認めるまでもなく誰もが認めているし、何より雛里の親友だ。元々は、共に同じ主君に仕えようと約束を交わしていたという。それを、一刀が横紙破りをする形で雛里を浚ってしまった。雛里がいれば、劉備から放逐されることもなかったかもしれない。そう考えると、今の諸葛亮の境遇には、一刀にも責任があると言えた。 そこまで考えなくとも、女の子が困っていたら助けてあげたいと思うのは男として自然なこと。それが美少女であるのならば尚更だ。 だが、劉備と仲違いをして現状に至っていることを考えると、早急に引き込むのもどうかと思える。 諸葛亮はあの性格で、現状かなり打ちひしがれている。加えて親友の雛里が既にいることを考えれば、強く押せば同意してくれるのは想像に難くない。他者の邪魔が入らず時間をかけても良いのなら、いずれ諸葛亮は『落ちる』だろう。稟が今すぐ引き込め、と躍起になるのも解るのだが、ここで引き込んでしまうと仲直りの機会を潰してしまう。劉備と関係が修復できましたからあちらに戻りますというのは、いくら何でも通らない。 軍師でないから仲直りはできないとは言わないが、元の関係に戻ることは大きく阻害される。一刀にとってそれは望むところではなかった。 しかし、個人的感情で見逃すには諸葛亮の才能は惜しい。稟や賈詡が手放しで認めるほどの才能を他陣営に取られるのは、損失どころかもはや害悪である。 組織のことを考えたらここで引き込んでおくべき、というのは理解できるのだが……瞑目し、一刀は深々と溜息をついた。「今後の身の振り方がお決まりでないようでしたら、俺と一緒に来ませんか? 雛里たちも貴女に会えるのを楽しみにしていますよ」「ご迷惑ではありませんか?」「とんでもない。雛里たちの友人であるならば、俺の友人です。諸葛亮殿さえ良ければ、いつまでもいてくださって構いませんよ。それで手持ち無沙汰になるようでしたら、また今回のようにお手伝いいただけたら幸いです」 迂遠な物言いではあったが、勧誘されているということは伝わったことだろう。隣で聞いていた賈詡の顔にも僅かに緊張が走る。陣営の仲間ではない賈詡からすれば他人事だが、諸葛亮ほどの人物の進退は気になるようだった。興味がないふりをして視線を逸らしながらも、耳はこちらに傾けている。気にしているのが一刀の目から見てもまる解りだった。 諸葛亮がそっと帽子を降ろす。視線は床に向けたまま。物憂げな顔をしているのが、見下ろす一刀の位置からでも解った。やはり早まっただろうか。幾分、責めるような調子で稟を見るが、彼女は『行け!』とこちらを煽ってくる。やるのが他人だと思っているせいか、いつも以上に攻撃的である。仲間の猛プッシュに辟易としながらも、それを顔に出さないようにして一刀は諸葛亮の返事を待った。 順当に考えるならば、返事はこの場で保留。考えておきますくらいが、最も無難なやり方だろう。やる意味はあったのか、という程度の結果であるが次に繋がったと考えれば悪くない。こちらが必要としているということを明確に口にした。その事実がお互いにとって大事なのだ。「…………わかりました」 だが、耳に届いた諸葛亮の言葉に、一仕事終えた気分でいた一刀は自分の耳を疑った。想像していたよりも大分前向きな返事である。仕官しても良い。そういう意味にも取れる発言に、背後で稟が身を乗り出すのを感じる。 周囲の温度が上がったのを肌で感じ取ったのだろう。諸葛亮は俯いていた顔をあげて周囲を見回した。おっかなびっくりな仕草に比して、瞳は澄んだ湖水のように落ち着いている。「お手伝いさせていただきます。ただ、きちんとした返事をするには、もう少し時間をいただけないでしょうか」「勿論です。どうぞごゆっくり、お考えください」 一刀が言葉を結ぶと、諸葛亮は一礼して逃げるように部屋を後にした。その背を見送りながら、賈詡がはぁー、と深い溜息を漏らす。「このまま話が決まるんじゃないかと冷や冷やしたわ。でも後一押しで倒れそうね。強く迫ればあの場でも決まりそうだったけど、どうして踏み込まなかったの?」「女性の弱みに付け込むようにして話を決めるのは、どうかと思ったもので」「時には強引な方が良いものよ? お前にとっても、諸葛亮にとってもね。劉備に心酔してたのは見れば解るけど、それと幸せになれるかは別問題だしね。お前のとこだったら鳳統みたいな同窓生もいるんだし、のびのびと仕事できるでしょう。本人もそれを解ってるからこそ、あんな期待を持たせるような態度をしてるのよ」「私も同意見です。こういう時にこそ、ある種無遠慮とすら言える踏み込みを期待していたのですが……」 稟の視線はどこか冷たい。この場で話を決め切れなかった非難が視線からありありと感じられる。「悪かったよ。でも、実は後悔はしてない」「私も解っていますよ。それが貴殿の良さであると、今は納得しておくことにしましょう。脈がそれなりにあると解っただけでも今回は収穫です」「前途洋々って訳にはいかないのね。肩書きの代行もしばらくは取れないだろうけど」「自分としてはさっさと取れてほしいものなんですがね」 権限としては基本的に同じものであるが、代行の一言がついているだけで既に大小様々な不都合が出始めている。どうせ正式な立場ではないと一部の文官などに舐められているのが、大きいだろうか。出自が不確かで後ろ盾もまだはっきりしていない身ではそれも当然かもしれないが、上から下への命令の伝達が遅れたり、聞かれなかったりするような事態はどうしても避けたい。 できる限り早い段階で代行の肩書きは取っておきたいのだが、そういう認可を出すのは基本的には国家における政治の中枢である洛陽だ。「僕も随分と連中には苦労させられたわ。他所の人間が栄達するのが好ましくないみたい。よほど強力な一声でもない限りは、すぐには動かないでしょうね。十常待がいたころよりは随分風通しも良くなったみたいだけど、体質ってのはそう簡単には変わらないわ」「でも、もしかしたらささっと認可が下りるかも」 期待を込めた一刀の言葉が、賈詡にばっさりと斬り捨てられた。「ないわね。もしお前の言うすぐ……そうね、僕たちが州都につくまでに認可が下りていたら、お前の愛人になってやっても良いわ」「流石にそれは……」「それだけ可能性が低いってことなの! どうせすぐには下りっこないんだから、黙って受けておきなさい」「賈和殿がそう仰るなら俺に異論はありませんが……」 それでも一刀は言いよどむ。こういう時に適当な提案をすると、後で痛い目に合うというのはセオリーでもある。特に運気が下がっている時はロクなことを言うものではない。相国となった董卓の腹心として洛陽で辣腕を振るっていた人生の絶頂から一転し、連合軍に蹴落とされてからまだ一年しか経っていない。もう一年と取ることもできるが、現状を見てみると運気が上向いているとは言い難い。人事を尽くしても天命は応えてくれるとは限らないのだ。 乗り気でないのが顔に出ていたのだろう。賈詡はそこで話を一方的に区切ると、足音も高く部屋を出て行った。「適当に頷いておけば、やり過ごすことはできたのでは? どうせ賈詡殿の冗談でしょう。貴殿が気にすることでもないと思いますが」「俺が気にしてるのは『もし』の場合だよ。仮に、万が一本当に認可が下りたら、きっと賈詡殿は困ると思うんだ」 頭が回る上に、あの性格だ。冗談で口にしたことでも、条件が満たされれば賈詡は意地でも守ろうとするだろう。その場合、守られる内容が良くない。「どうして賈詡殿は愛人なんて言い出したんだろうな」「自分個人でかけられるもので、最も重い物が自身というだけのことでしょう。それだけありえないことだ、という自信の表れでもありますが」「もし本当に認可が下りたら、俺どうしたら良いのかな」「愛人にすれば良いのではありませんか? 曹魏の性悪猫耳のこともありますし、ああいう小柄で気の強い女性は貴殿の好みでしょう?」 そうなんですか!? と横で聞いていた黄叙が驚愕の視線を送ってくる。それは無視して、一刀は稟に視線を返した。今日の稟はどうも絡んでくる。特に女性の話題については過敏だった。ヤキモチを焼かれていると考えるのは、自惚れだろうか。考えていて恥ずかしくなってきたが、稟が恋と一緒に本体を離れ、難しい仕事をしてくれたのは事実だ。それに報いるようなことを、一刀はまだ何もしてない。 混乱する頭を落ち着けるように、一刀は大きく息を吐いた。「州都に戻るのはいつになる?」「ねねが準備を進めてくれたようですから、必要なのは挨拶周りくらいでしょう。今日使いを出して明日その全てを回り、明後日に出立というのが無駄のない行程かと」「それでも急ぎすぎな気はするけど、まぁ良いか。ということは、今晩は少しは余裕があるってことで良いんだな?」「ねねが纏めてくれた書類を読み微調整をする必要がありますが、それが終わればまぁ……早急に処理しなければいけない案件はありませんね」「じゃあ、今晩食事でもどうかな。俺と稟と二人で」 眼前の稟は一刀の言葉に視線を上げた。その顔に一瞬喜色が走るが、即座に消える。努めて仏頂面を維持した稟は、咳払いをして視線を逸らした。「一刀殿と二人で……ですか?」「ああ。もちろん、俺のおごりで」「…………聊か取ってつけたような感はありますが、今回は騙されましょう」「ありがとう。稟」「ではそれまでに仕事を片付けましょうか。仕事に追われて、せっかくの予定を不意にしたくはありませんからね」 稟はそういうと、壁際に控えてやり取りを見守っていた黄叙にいくつもの指示を与えた。いきなり切り出されるには膨大なその量に黄叙は目を回すが、きちんと稟の指示を復唱し部屋を出て行った。メモを取りさえもしなかった。一刀であれば今の半分は忘れていただろう。流石にあの黄忠が是非にとねじ込んでくるだけのことはある。 ともすればいつまでも黄叙の去った方を見つめていそうな一刀だったが、稟のこともある。慌てて視線を戻し、木簡に視線を落とした。稟は執務机の対面に椅子を持ち出し、そこで足を組んで木簡を読んでいる。その速度は相変わらずで視線は厳しいものだったが、雰囲気は大分柔らかくなっているように見えた。 桃香軍の情勢を書く予定でしたが、シナリオの順番を考えたら孫呉の方が先でした。 次回孫呉の人たち再登場。さあ思春の人生はどうなる。