洛陽に着いた一刀を待っていたのは予想を超える光景だった。 董卓が暴虐の限りを尽くしていると信じていた訳ではないが、例えそれが建前であったとしても全ての戦が終わった後には住民にそれなりの歓待を受けると思っていたのだ。 事実、何事もなく話が進んでいたらそうなっていただろう。連合軍が安全に洛陽に入れるということは即ち、権力者の首がすげ変わったことを意味する。 どんなに言葉を尽くすよりも明らかなそれは、民衆の目にこそはっきりと映ることだろう。 次の頭が自分たちであること。 それを民衆に知らしめることが連合軍結成の目的の一つであったはずなのだが……連合軍を迎え入れるはずの洛陽の門は、大火の影響で煤けていた。戦闘のせいか門も激しく痛んでおり、燻った臭いが門の外まで届いていたのを覚えている。 街に入ってみれば見渡す限りの廃墟だった。どういう事情で火災が発生したのか詳しいことは知らないものの、大規模な小火程度と考えていた一刀に、街の数区画が全焼しているという光景はショックなことだった。 住民は遠巻きにしてこちらを眺めているばかり。今すぐ排斥しようと血走っている訳ではないが、決して歓待している雰囲気でもない。こんなはずじゃなかった、と自分でも思うのだ。各勢力の代表者たちは、心の底からそう思っていることだろう。 だが、いつまでも愚痴を零してはいられない。何もしなければ本当に自分たちは間抜けで終わる。ここまでやったのだからせめて何か得るものがなければ。そう考えた諸侯達は、連合軍結成以来、初めて結束を固めた。 門の外に退去すべしと命を出したのは皇帝陛下であるから、まずはそれを解除してもらわなければならない。その交渉のために諸侯は最適な人員を探し、周瑜、荀彧、諸葛亮というおよそ正史では考えられないようなチームが編成され、帝室との交渉に当たった。 非は明らかにこちらにある。宦官を排斥した董卓に少なからぬ恩義を感じていた帝室は連合軍に対して頑なな態度を貫いていたが、董卓が行方不明である今、自らが皇帝であるということ以外に権力基盤を持たない帝室は、新たな庇護者を早急に求めなければならなかった。 こちらでも話がまともに進んでいたら、である。 本来ならば受け入れることに否やはなかったのだ。 それを余計なことが起こってしまったから、遠回りをする羽目になっている。受け入れたい人間と受け入れてほしい勢力。両者の願望は最初から合致していたのだが、それをいきなり口に出しては世の中回るものも回らない。 物事を成すには、手順というものが必要なのだ。 三軍師の仕事はその手順を出きる限り省略しつつ、帝室と連合軍、双方に最大限の利益が齎されるよう、落とし所を探すことだった。 自分の役割というものを熟知していた三軍師の仕事は迅速だった。一ヶ月はかかるかと思われた話し合いを一週間で纏めてきた彼女らは、居並ぶ諸侯を前に、帝室との間に纏めた内容を諸侯に公表した。 一つ。此度の責任の所在を明確にすること。責任を取るべきは、即ち、連合軍の責任者である。 一つ。破壊された街区については連合軍が責任をもって補修し、死亡または負傷した人間についてはこれを補償すること。 他にも細々としたことはあったが、大きく分けると条件はこの二つに集約された。二つ目の条件については本来であればいらない支出ではあったが、一つ目の条件については諸侯にとっては渡りに船だった。 皇帝陛下のお墨付きで、袁紹を排除できるのである。下手を打ったこの状況で功の等級も何もあったものではないが、一番良いところを掠め取る可能性の高い人間を排除できることは、戦後の分配で大きく利することになる。 もはやどれだけ損をせずに話を纏められるかの勝負なのだった。戦が終わった今、仲間の頭数は少なければ少ないほど良い。 当然、袁紹は猛然と抗議したが、反論したのは彼女一人だけとあっては覆すことはできなかった。途中の戦で兵を減らしていたのも禍した。政敵である袁術の軍にほとんど損耗がなかったのも大きい。 交渉役の軍師の中に袁紹軍の人間を入れることができていればまた違う結果になったのだろうが、他の三人と互角に知恵比べをできるほどの人間が、袁紹軍にはいなかったのだ。 結果、袁紹軍は洛陽に入ることなく、保障のための金子を吐き出せるだけ吐き出して、帰り支度を纏めて領地への帰路についた。公孫賛の心配が当たった形になる。諸侯全てが領地から出払っている状況で一人本拠に戻ることは、自衛の面においては甚だ危険であるが、いくら袁紹といえども、兵を大きく減らし金銭的にも大きなダメージを受けた直後に戦に打ってでることはないだろう。 公孫賛が領地に戻り、戦に備えるだけの時間は十分にあるはずである。友人と言えるほどの関係でもないが、既に公孫賛は知己である。袁紹よりは彼女に勝ってほしい。洛陽の空の下、今は遠い地にある恩人のことを思いながら、一刀は大八車を押す現実に溜息をついた。 袁紹軍が排除されたことによって諸侯の取り分は増えただろうが、兵の数も同時に減ってしまったため兵の仕事は余計に増えたと言っても良い。正規兵ですら復興作業に割り当てられている始末である。一刀達新兵は言うまでもなく、作業の中でも比較的キツい仕事を割り当てられていた。 ガレキを撤去しては指定の場所まで運び、その後は家々の修繕である。この時代で最も洗練された都市でもある洛陽だ。修繕については本職の大工がおり、実際の仕事は彼らが行ってくれるが、何しろ補修する面積が広大すぎて、とても本職だけでは手に負いきれない。 木材の運搬、大工の助手などするべきことは山ほどあった。兵はその仕事に忙殺され、管理する立場の人間は兵にそれを割り振らなければならない。その点、一刀の甘寧隊の仕事は他の隊に比べてスムーズに行われていた。仕事を管理している軍師仲徳が優秀であったのが大きい。より効率的に人員を動かせるよう、兵の能力まで見極めて配置する様は一種芸術とさえ言えた。 俺もこれくらいできるようになれれば……と感心すると共に、人間の限界まで挑戦した酷使っぷりには、調練ばかりで体力のついてきた身にも堪えるものがあった。 こんなはずじゃなかった、というのは諸侯だけでなく、兵にも共通する感情だった。 だが、復興作業も悪いことばかりではなかった。洛陽の住民と触れ合う機会を持つ内に、住民の連合軍に対する視線も柔らかいものになっていったのである。三軍師の流した『悪いのは袁紹である』という噂も効果を発揮しているようだ。何処に言っても犯罪者でも見るような目で見られていたのが、今はそれもなく大分過ごしやすくなっていた。 思い描いていた物とは大分違うが、環境は少しずつ改善されてきている。命を賭けて戦ったのだ。何か得るものでもないとやっていられない。誰かを上に仰いで戦ったことで、兵の気持ちというものが徐々にではあるが理解でき始めていた。 上に立つ人間は、そんな気持ちを持つ兵を使うのである。 最初から上に立っていたら、気づくことはできなかっただろう。生き残ろうと必死で戦った末に得た気持ちだ。無碍にできるものではない。「北郷、ちょっといいか?」 効率よく仕事を回すためにと甘寧直属隊から切り離され、再び北郷隊として井戸さらいをしていた一刀の元に現れたのは、その直属隊の人間だった。暫定副官になったとは言え、立場はまだまだ一刀の方が下である。男の声に一刀はすぐさま直立したが、そんな一刀の反応に男は苦笑を返した。「何もそこまでしなくてもいいんだぜ?」「しかし、礼を失する訳には……」「頭が認めた以上、お前は俺たちの仲間だ。むしろ、お前を狙って扱いているなんて思われた日にゃあ、俺たちの立場が危ういのよ」 お頭の折檻は過激だからな……と呟く男の顔は地味ににやけていた。明らかに殴られるのを楽しみにしている顔である。甘寧直属兵は彼女が孫呉に合流する前からの部下が多いため、孫策よりも思春に忠誠を誓っている人間が多い。付き合いの長い人間が多いこともあり、結束力は孫呉の中でも随一と言って良い。 反面、荒っぽい人間が多い呉の人間の中でもとりわけ荒っぽい人間が多く、風貌も雰囲気もヤクザを通り越して賊そのものな人間ばかりである。一刀もいまだにその雰囲気には圧倒されることがあるが、仲間意識が強いのが救いだった。一度仲間と認めた人間については意外なほどに親身なので、こういう連帯しなければならない時にはとてもありがたい。「何か御用のようですが、俺に何か?」「ああ。実はそこで牢を見つけたんだがな、検分に付き合ってくれないか?」「牢ですか?」 牢というからには罪人が入っているのだろうが、それを見つけたというのも可笑しな話である。 設置する目的上、牢の警備は厳重でなければならない。脱走などされたら意味がないし、囚人を解放しようと敵対勢力が押し寄せてきた場合、これを撃退しなければならない。 現に一刀の知っている洛陽の牢はどこも厳重で、城壁の中にあったり一目でそれと分かるような兵がいたりと、現代日本の刑務所のような様相だった。牢の役割と認識については現代日本と大差ないはずである。「実はな、怪しい奴がいたから適当に締上げたんだが」「聞き捨てならないことを聞いたような気がするのですが」「いいんだよ、細かいことは。でだ、その締上げた奴は実は牢の番人だった訳なんだが、その牢が宦官に反抗した政治犯? の収容所だったらしい」 声を潜めて言う男に、それならばと一刀も頷いた。最初から牢を秘匿しておけば警備や施設そのものに割く費用人員は少なくて済む。見つかってもその時はその時と考えているならば尚更だが、「宦官に反抗した政治犯ならもう二年は牢の中にいるんじゃありませんか?」 宦官を粛清した董卓一派を一掃したいから連合軍が結成されたのだ。牢の中にまだ生存者がいるとしても、その彼もしくは彼女は二年も牢の中にいたことになる。狭い牢の中で過ごすことでも気の狂いそうなことなのに、その中に二年だ。 現代人の感覚では生きていることが不思議なくらいの環境であるが、男が態々話を持ってきたということは少なくとも一人は生存者がいたということなのだろうと、質問してから気づいた。「いや、そもそもそこの収容されてたのは一人だけだ。その一人を数人で世話してたらしい」「なら、さっさと助け出しましょう。二年も牢の中にいたのなら、早く医者に見せないと……」「その辺りが俺達には判断がつかなくてな。解放しても良いもんかね」「そりゃあ……」 勿論だと言いかけて、一刀は言い淀んだ。秘匿された牢に収容されているということなど状況から鑑みて、凶悪犯ということはなさそうだ。個人的な感覚としては解放しても問題ないと思うが、誰が収容されているかというのも問題になってくる。 というのも、それが高貴な身分の人であれば、解放することは大きな手柄となるだろう。それだけで褒美が与えられるかどうかは怪しいが、名を上げる機会というのはいくらあったとしても困るものではない。 折りしも連合軍は失点を回復することに躍起になっている最中である。これが名誉回復の手段となるならば、喉から手が出るほど欲されているはずだ。 強欲な人間。いや、普通の神経をしていても、ここは自分がと手柄を上げることを考えるだろう。 それなのに男は一刀に話を持ってきた。自分が手柄を上げることよりも、その上の人間――思春の名誉を気にしての行動だった。見上げた忠誠心だと感心すると共に、自分がそういう心を持っている人間の一人だと思われていることに、喜びと恐れを感じる。 思春のことは尊敬しているし大事ではあるが、彼女を一番として行動することはできそうにもない。 自分は彼らの信頼を裏切っているのではないか……そんな考えが一刀の脳裏を過ぎるが、答えを待つ男の顔を見てそんなことはどうでも良くなった。 彼らはそこまで深く物事を考えてはいないだろう。仲間だから話を持ってきた。そのくらいの単純な心で、自分を信頼してくれている。 ならば、自分も真っ直ぐな心でその信頼に応えれば良い。信頼を裏切る云々は、主義主張がぶつかった時にまた考えれば良いのだ。「とりあえず、誰が捕らわれているのか見てから決めましょう。そんなに大したことなさそうだったら、俺らだけで大丈夫なはずです」「そうか。まぁ、お頭の手をわずらわせなくて済むなら、それで良いか……」 反応の薄さから、手柄にならない可能性が高いとでも思ったのか、男の声が沈んでいく。「でも、どうして俺に話を持ってきたんです?」 検分に付き合うことに文句はないが、自分に声をかけるくらいならば思春を直接捕まえた方が話は早い。思春ならば自分が考えつくようなことは考えつくだろうし、手柄を立てるチャンスだったとしても、もっと上手く使ってくれることだろう。「お前がたまたま近くにいたからだよ。お頭は今も探しちゃいるが、軍師先生と一緒で忙しそうだったからな」「こういう事情なら思春も無碍にはしないと思いますがね」「俺もそう思うが、考えるのが必要なことはまずお前と思ったんだよ。俺たちゃ皆、学がないからな」 ははは、と豪快に男は笑う。その言葉は信頼の証でもあったが、その信頼がむず痒い。「何しろお前は我らが副長だ。お頭に話を通す前に、耳に入れておくのは必要だろうよ」「暫定の身分はそこまで偉くありませんって」「暫定だろうと何だろうと、お前は上で俺たちは下だ。頑張れよ、副長。お頭の信頼を裏切らないようにな」 肩をバシバシと叩きながら、男は豪快に笑った。決して副長とやらにする態度ではないが、信頼してくれているのは良く分かる。彼らには表裏がない。良くも悪くも思っていることが顔や態度に出やすいのだ。思春の部下だからこうなったのか、こういう人間だから思春の下に集まったのか知れないが、こういう信頼関係も悪くないな、と一刀は思った。 案内された牢があるという施設は民家に偽装されていた。この地下室に牢があるのだという。怪しい人間を締上げたと言っていたが、そういう事情でもなければ、ここが牢であることに気づくことはないだろう。現に、周囲の住民は突然やってきた兵に何事かと目を向けていた。 民家の中にあるというのも、偽装に一役買っていたのかもしれない。これが刑事ドラマとかならば聞き込みでもするのだろうが、必要なのは周囲の声ではなく、ここにいるのが誰であるのかだ。 男を伴って民家の中に入る。 外観以上に家の中は簡素な作りだった。家具はほとんどなく、テーブルと椅子が一脚。その上には酒の入った椀があった。ここで時間を潰すための暇つぶしの道具だろうが、どうやらここの管理人はあまり仕事熱心な方ではなかったらしい。「締上げたって人はどうしました?」「ふん縛って下に転がしてある。流石にぶっ殺すのは不味いと思ったんでな」「そりゃあそうです」「陸の上じゃ、死体刻んで水に流すって訳にもいかねえからな」 男の物騒な言葉には取り合わないことにした。地下には階段で降りるらしい。石で作られた、中々に立派な階段だった。松明を受け取って、その階段を降りる。腰の剣は自然に抜き放っていた。後ろを歩く男が笑いをかみ殺したのが分かったが、今更取り消すことはできなかった。暗がりから何かでてきたら困ると思っての行動だったが、考えて見れば仲間が確保した場所で、周囲を警戒する必要もない。 況してはこれから行くのは、行き止まりの牢だ。囚人以外に誰もいない場所で、一体何を警戒するというのか。臆病者と笑われなかっただけ、彼らには優しい対処だっただろう。恥ずかしさを押し殺して、一刀はそのまま進む。 たどり着いた地下室は、意外なほどに広かった。階段を下りた先には一刀の足で十歩分の奥行きがあり、右手には牢がある。広さは八畳ほど。想像していたよりも大分広い。 ただ、臭いはいかにも牢という感じだった。虎牢関で董卓軍が連合軍の兵を押し込めていた牢を見たことがあるが、そこと同じような臭いがする。規模が小さい分、臭いもどこかキツく感じた。 ここで二年も過ごすのは大変だろうなと重いながら、牢の中を覗く。奥のほうに、小柄な人影が寄りかかるようにして座っていた。伸びっぱなしの髪が邪魔して顔をうかがい知ることはできないが、シルエットからして女性のようだった。「俺は孫策様配下、甘寧将軍の下で副官をしております、北郷と申します」「孫策?」 か細い声には、意思の力が篭っていた。壁によりかかったまま、女性がゆっくりと視線を上げると青みがかった瞳が見えた。「……小覇王と名高いお方が、何故洛陽に?」「董卓軍を討つために袁紹殿を盟主として連合軍が結成されました。董卓軍は洛陽より撤退。今は連合軍が洛陽外に駐留しております」「難しい状況、ということですか」「理解が早くて助かります。詳しい話は、牢をお出になってからお話します」「助かります。情勢が動いているのでしたら、早いうちに情報を耳に入れておきたい」「失礼ですが、牢からお出しする前に、貴女のお名前を聞いてもよろしいでしょうか?」「分かりました。そちらに行きますので、しばしお待ちください」 ずりずりと、床を這うようにして女性が近付いてくる。足を悪くしているのか動きは凄まじく緩慢だった。時間にして約十秒。部屋を縦断するには長すぎる時間をかけて、女性は格子の傍にまで移動してきた。 臭いが流石に気になったが、女性を前に顔を顰めるようなことは不味いと考えるだけの配慮は一刀にもあった。口を開こうとする女性の声を聞き逃すまいと、腰を下ろす。女性の口は動いていたが、それでも聞き取ることはできなかった。 これでも遠いのだろうか。更に身を乗り出し、格子に耳をくっ付けるほどにすると、「北郷!」 男が警告を発するのと、女性の腕が閃いたのは同時だった。囚人とは、女性とは思えない力で一刀の首を掴むと、強引に引き寄せる。首には何処に隠していたのか、太い針が突きつけられていた。 突然のことに一刀が目を丸くしていると、女性は顔を近づけて、地獄の底から響いてくるような声で耳打ちしてきた。「私が聞きたいのは、一つだけです。嘘だと思ったら殺しますので、そのつもりで聞いてください」「わかりました……」「貴方が手にしているその剣ですが、それは何処で?」 女性が視線だけで、剣を示す。剣は女性に拘束された時点で一刀の手を離れ、床に落ちていた。荀彧からもらった自分には不相応な業物である。「滞在した家の女性が、俺が旅立つ時に餞別としてくれたものです」 噛み砕いてはいたが、何一つ偽りなく答えた一刀の喉に女性は遠慮なく針を突き刺した。深さは約5ミリほど。小さな痛みと共に血が出るが、刺されたという事実に一刀の背筋は凍った。死んだかも、という感覚が後からやってきた。生きてることを実感するとそれ以上に全身に汗が沸いてくる。「嘘を言わないでください。その剣の持ち主は、男が死ぬほど嫌いなはずです。貴方が男性であるのなら、持ち主から剣を貰ったなど考えられません」「い、いや、嘘じゃありません。俺は確かに、その女の子から剣を貰ったんです!」「じゃあ、その女の子の特徴を詳細に述べてください」「猫耳頭巾を被った背の低い吊り目の女の子でした!」「その少女に不埒なことをして剣を奪ったと?」 今度こそ本気で刺してきそうだと確信した一刀は、全てを話すしかないと直感し、覚えている限りのことを全て話し始めた。荀彧との出会いから、荀家での生活。特に荀彧がどんな少女で何を言われた、何をされたかなど事細かに話して聞かせた。素面であれば恥ずかしくで地面を転がるようなことまで口にしたせいで、一緒についてきた男など、仲間が刃物で脅されているのも忘れてニヤニヤし始めていたが、それを気にするような余裕すら一刀にはなかった。「……そういう訳でその女の子の家を出る時に、俺はこの剣を貰ったのです」「わかりました。では、これが最後の質問です。貴方にその剣をくれた、その女の子の名前は?」「それは答えられません」 今までの狼狽が嘘のように、一刀ははっきりとそう答えた。女性の腕に力が篭る。「言わなければ、殺しますよ?」「死んでも言わない。貴女の素性がはっきりとしない限り、あいつのことは話せない。貴方があいつの害にならないなんて、誰が言えるんだ?」「……いいでしょう。貴方のことを信じます」 針をその場に落とし、女性は跪いて頭を下げた。「無礼をいたしました。この身についてはご随意に」「いや、別に良いんですけどね……」 少なくとも、この女性が荀彧の関係者で彼女のことを好いていて、それなりに人格者であるらしいということは分かった。解放する分には問題ないだろう。手柄がどうとかいう話は、何だかもう面倒くさくなってきた。命を盾に脅された後には、全てのことはどうでも良く思えてくる。「鍵、ありますか?」「いいのか?」「あー、何かもういいんじゃないっすかね」 投げやりな一刀の態度に、男は特に突っ込むことはなかった。牢の鍵を外し、女を外に連れ出す。とりあえず医者の所に連れて行くと言い残して連れられていく際、「私のことについてはいずれ。改めてうかがわせていただきます」 名も知らない女性はそういい残して去っていった。その背を見送りながら、剣を拾い上げて鞘に納める。 この剣一つで何だかどっと疲れたが、休む訳にはいかない。 仕事はまだまだ腐るほどあるのだ。 「どうしたもんかな……」 牢の一件から三日後、一刀は自分の執務室として割り当てられた民家で途方に暮れていた。 時刻は夜。復興作業は一時中断され、警邏の仕事がある人間以外は街に繰り出すか床についている時間に一刀の周囲には三人の軍師が勢ぞろいしていた。子分の子義は、難しい話がされると直感し姿を消している。 直感の鋭い少年であるが、今日はそれが抜群に冴えていたらしい。彼女らと過ごすようになった随分時間が経ったように思うが、今日のこれはとびきり深刻な問題だったからだ。「どうしたもこうしたもありません。これは天の与えた好機。貴殿はこれを、自ら活かすべきです」 そう主張するのは奉孝だ。眼鏡の奥の切れ長の目を細めて詰め寄る彼女はいつも以上にぴりぴりとした雰囲気を纏っていた。視線の先には、机の上に投げ出された物がある。 井戸さらいの中で子義が見つけてきたものだ。土で汚れてはいるが、拵えは上品な布袋に収められた『それ』がこの状況の原因だった。中身は皆で確めた。 伝国の玉璽である。真贋の判断はつかなかったが、材質から本物だろうと結論付けた。皇帝が書類の決裁などに用いる、始皇帝の時代から伝えられる、国宝の一つである。 これを持つものが天子たる資格を有するとか。要するに、権威付けのアイテムの一つだろうというのが一刀の認識であったのだが、これの扱いを巡って軍師の意見は割れてしまった。「それは不味いと思いますけどねー。今のお兄さんにコレが扱いきれるとは思えません。それならこれを売り渡して、先立つものを確保する方が良いと思うのですがー」 間延びした声で淡々と語るのは仲徳だ。玉璽を自ら運用すべしという奉孝とは逆に、さっさとこれを手放すべきと主張している。 どちらも、正しいとして譲らないのだ。お互いに自分の論理を展開しては、思い出したようにこちらに話を振って来る。展望の話については高度すぎてついていけないため生返事を返すしかないのだが、普段であれば説教の一つも飛んでくるそんな態度も気にならないほど議論は白熱していた。 置いてきぼりを食らっている感が否めない。軍師だけれど話に乗り遅れた士元と一緒に、言い争いを続ける二人を呆然と眺める作業にはそろそろ飽きてきた。「結論、でるのかな……」「さぁ、私にはちょっと……」 手持ち無沙汰だった士元は今、一刀の近くに佇んでいる。思春の真名の件で距離を置かれていたが、いつの間にかそれもなくなったようだ。顔を見る度に顔を背けて頬を膨らませる士元は、その小さな体格も相まって非常に可愛らしく、頬をつついて遊ぶのがそれはそれは楽しかったのだが……仲が修復されたのならば、それに勝ることはない。惜しいことなど何もないのだ。「士元はどう思う?」「私は暫く温存して、一刀さんが自分で使うのが良いと思います。今から使うというのは、あまり良い方法だとは思いません」「でも、奉孝がそう主張してるってことは、あいつには上手く使う算段があるってことでもあるんだよな」 それが簡単か難しいかは別にして、奉孝がそう主張する以上それは可能なことなのだろう。天子の証たるものを使えば、一気に勢力を拡大できるし、何より大義名分がつく。今後を大陸に覇を唱えるならそれも良いように思えるが、今の自分についてくる兵はほとんどいない。玉璽を使うタイミングを誤ればそれこそ一瞬に、舞台からの退場を迫られるだろう。 奉孝の方法は実に綱渡りに思えるが、奉孝ならばそれを舵取りできるようにも思う。 どちらが良いかというのは自分が結論を出さなければいけない問題なのだろうが、それにはまず軍師が結論を纏めてくれないことには話もできない。エキサイトしている二人に、割ってはいることはできそうにない。もう夜も遅いのだが、議論はまだまだ続きそうだった。 明日も仕事がある身としてはもうそろそろ終わりにしたいのだが、この争いに割ってはいる勇気を一刀は持ち合わせていなかった。 誰か救いの神でも現れてくれないものか。そう思い続けて二時間少々、神はいまだに現れてくれない。いい加減待つのにも飽きてきた一刀は、何となく腕を伸ばして士元の帽子を取り上げてみた。 あー、と士元が小さく声をあげて帽子を取り返そうと身を乗り出してくる。その小さな手の届かないよう、腕を伸ばして高く掲げて見せた。飛び上がれば届くかもしれない。そんな距離であるから、士元はぴょんぴょん飛び跳ねて限界まで手を伸ばす。目の前でひらひらと揺れるスカートが地味に楽しい。これを続けていると癖になりそうだ。 適当な所で帽子を士元の頭に戻し、腰を抱え上げて膝の上に乗せる。士元は悲鳴を挙げそうになったが、一刀が唇に指をあててしー、と口を鳴らすと途端に静かになった。その代わり、顔は耳まで真っ赤である。 言い合いをしている二人に気づかれたくないのか、士元は息を殺すようにしてじっとしている。 今なら、何をしても許されるのではないか。そんな邪悪な考えが一刀の中に沸きあがる。 そっと、お腹に手を伸ばしてみた。身体を抱え込むようにして抱き、指で擦るようにしてお腹を突付く。ひゃ、と空気が漏れるよな声をあげる士元だったが、逃げたりはしない。何かの使命感にでも駆られているのか、ここで耐えることが自分の仕事とでも言うように目を固く閉じて一刀からの行為に耐えているのである それに調子に乗った一刀は、より一層士元のお腹を撫で回した。身体は小さいだけあってどちらかと言うと痩せぎすな士元であるが、さすがに女の子。お腹周りは実にぷにぷにしていて気持ちが良い。突付いて見ても撫でてみても手触りが良く、これならいつまでも触っていたいと思えるほどだった。 たっぷり服の上から堪能した後、ふと服をまくって直接触りたいという思いに駆られる一刀だったが、今更ながら『そこまでしていいのか』と思い逡巡する。 そもそも、今の時点でもセクハラではないのか。 いや、相手が嫌がっているのならばともかく今の士元は恥ずかしがっているだけで嫌がっているようには見えない。というのも、加害者側からの勝手な言い分のように思える。士元の性格なら、嫌だと思ってもすぐには言い出せないだろう。直接顔を見てということにならば尚更である。 士元はもう声を出さないことに一生懸命で、こちらを見る余裕すらない。そんな風に頑張っている士元を見ると自分が最低の人間のような気がしてきて心が萎えかけるが、士元のお腹はとても気持ちが良かった。 触っているのもお腹であるし、ギリギリセーフなのではあるまいか。別におっぱいに触れたりスカートの中に手を突っ込んだりしている訳ではない。これが奉孝を相手にしているならばお腹であっても犯罪臭が凄まじいが、士元は知識はともかくとして見た目は幼い。客観的に見れば兄妹が戯れているように見えなくもないだろう。 だからこれはセーフ、セーフなのだ…… もはや自己弁護なのか客観的な分析なのかすら分からなくなってきたが、それでも一刀は士元を手放さなかった。でも、お腹を触るのはほどほどにする。地獄から脱出できたことに士元は溜息を漏らしたが、それをどこか不満そうに感じるのは男の勝手な思い込みだろうか。 その可愛らしい反応に満足しつつ、帽子の上から士元の頭に顎を載せる。 これほどいちゃいちゃしても、二人の軍師の討論は終わることはない。これは徹夜になるかな、と一刀が覚悟を固めた矢先、小屋の扉は叩かれた。 瞬間、二人の言い争いがぴたりと止まる。自分たちのこれからについて大事な案件であるが、その中心には玉璽がある。これを北郷一刀が持っているということを誰かに知られるのは如何にも不味い。視線で玉璽を隠すように指示すると同時に、膝の上に据わっている士元が目に入った奉孝はそのまま怒鳴ろうとしたが、客人の前でそれは不味いと重い留めた。 それでも頭に上った血はどうすることもできず、行き場を失った感情は鼻血として表れた。ああ、と慌てながら血をどうにかする物を探す奉孝を他所に、仲徳は人形のような愛らしい顔に薄い笑みを浮かべている。 これが氷のような視線であれば畏まるばかりだったが、その視線には生暖かい物を感じた。次は自分の番だと言っているのが、聞こえるようだ。「どうぞ」 一刀が告げると同時に士元は膝から飛び降りた。そのまま距離を置こうとして転んでしまうのを、手を差し伸べて助ける。ありがとうございましたっ、と言いつつ飛び退る士元は、いつになく俊敏な動きをしていた。そのまま部屋の隅でこちらを伺いながら、ぷるぷると震えるその姿はウサギのようでかわいらしい。「失礼します」 そんなカオスな部屋の中と関係なく、訪問者は扉をあけた。 部屋に入ってくると彼女は部屋をぐるりと見回す。鼻血と格闘している奉孝と、微笑む仲徳。部屋の中で縮こまっている士元に、ただ突っ立っているだけの一刀。何も知らない人間がみたら、一体どう思うのか…… 体面を気にするならば言い訳でもした方が良いのだろうが、良い知恵が浮かばない。そういう誤魔化しは奉孝の役目なのだが、彼女は今鼻血と格闘していて忙しい。士元はテンパっているし、仲徳は協力してくれそうにないどころか、何か言わせたら余計に状況をかき回しそうな気さえする。 自分で何とかするしかない。一刀はない知恵をめぐらし、しかし、一瞬で結論を下した。「ようこそお越しくださいました」 即ち、なかったことにする。こちらから触れなければ相手は触れてこないだろう。今のこの状況を見てどう思うかまでは干渉できないが、そこまでは知ったことではない。どうせ呂布を退けたという、分不相応な噂で困ったばかりだ。これに何が加わったところで、怖い物は何もない。「夜分に恐れ入ります」 そう言って、女性は静かに頭を下げた。その仕草一つが恐ろしいまでに様になっている。歩き方、頭の下げ方まで洗練された、明らかに自分とは住む世界の違う人間の雰囲気に、一刀だけでなくその場の全員が姿勢を正した。 頭を上げた女性はそんな面々を見渡し、にこやかに微笑んだ。その微笑すら、今まで見たどんな人間よりも高貴な物を抱かせる。 身長はそれほどでもない。奉孝よりも少し小さいくらいだろう。当然、自分よりも小さい。足が悪いのか杖をついているが、背筋そのものはしゃんと伸びていた。元々足が悪いのではなく、何かの事情で足を悪くしているようだ。裾を地面に引き摺るくらいの長衣を着こんでおり指先と首から上以外の肌は全く見えない。緩い癖のついた髪は肩口を過ぎた辺りで切り揃えられており、フードのような頭巾の上に広がっている。 青い瞳はたれ気味で顔立ちは優しい。十人の男に問えば、十人が美人と答える顔立ちだろう。これでボリュームがあればパーフェクトだったのだろうが、そこは残念ながら贔屓目に見ても普通以下だった。 ぺったんことまではいかないものの、膨らみがあると辛うじて分かる程度のものである。 しかし、それを残念とは思わせない雰囲気があった。スレンダー美人とでも言えば良いのだろうか。女性っぽい身体つきをしていないことを、マイナスに思わせない、そんな雰囲気が女性にはあった。 その柔和な微笑みに、一刀の記憶が刺激される。この瞳を、つい最近どこかで見たような…… 思考に結論が出ない内に、女性は解答を口にする。「先日は、お世話になりました」 その言葉に、目の前の女性が牢の囚人だったことに思い至る。それでも、あの時の汚い格好をしてた女性と目の前の美人が結びつかない。 当然、三軍師は彼女のことを知らない。大したことではないと思っていたので、報告もしていなかったのだ。一刀にとっては再会であるが三軍師にとっては突然の来訪で、しかも一刀の知りあいであるという。女性の言葉からその事実を理解した三軍師は『またか……』という顔で一刀に視線を送ってきた。 何も悪いことはしていないはずなのだが、この後ろめたい気持ちはなんだろうか。「どうやってこの場所を?」「身分と名前を名乗られたではありませんか。それを覚えておりましたので、人に聞いてこちらまで」「そうですか……あー」 女性の名を呼ぼうとして、それを知らないことに思い至った。牢の中で相当会話したような気分になっていたが、思い返してみればあれは自分が一方的に喋っていただけだった。 こちらが名前を知らないということは、その態度だけで伝わったらしく女性はたおやかに微笑むと、優雅に腰を折った。「改めまして。私は荀攸、字を公達と申します。以降、お見知りおきを」 肩を怒らせながら荀彧は夜の洛陽を歩いていた。共周りはなく一人である。時の人曹操の筆頭軍師にしては無用心にも程がある行動だったが、これには一人にならなければならない理由があった。 行く先は孫策軍の陣営である。曹操軍に所属する荀彧には、聊か足を踏み入れ難い場所だ。無論、公的な用事があるのならば誰憚ることはない。主の命令であれば、どんな場所にでも行く覚悟が荀彧にはあった。 しかし、今回は全くの私事である。 しかも、理由はどうあれ男を尋ねるのだ。これが噂で広まったら荀彧の人生はお終いである。身命を主に捧げたというのによりによって男に懸想したと勘違いされたら、死んでも死に切れない。 これがバレたらそれこそ破滅である。ならば最初から堂々と行った方が安全だったと今更にして思うのだが、男に会いに行きますと口にすることは、死んでもできなかった。 どうあっても、隠れていくしかないのである。道を行きながら、荀彧は羞恥と怒りで顔を真っ赤に染めていた。 どうして自分がこんな思いをしなければならないのか。 それもこれもあの精液男のせいである。あの男があの時、さっさとこちらに来ると言っていればここまで手間をかけなくても済んだはずなのだ。郭嘉の邪魔があったとは言えあの時に決着がついていれば、間男のように人目を忍んで夜道を歩くこともなかったのに。 考えていたら、また怒りが湧いてきた。 口を酸っぱくして何度も言ったのだ。お前の腕は大したことないから戦には出るなと。氾水関の前では平手打ちまでして説教したのに氾水関では撤退の遅れた味方を援護して孤立しかけ、虎牢関では隊長である甘寧を守るためにあの飛将軍呂布の前に身を投げ出したという。正気の沙汰ではない。いや、頭がおかしいとしか思えない。 自分の力量が解っていない訳ではないだろう。実家にいた時からあの男は愚かではあったが、無知でも無能でもなかった。物事を理解するだけの最低限の知恵は持ち合わせていたのだ。 だからこそ、再会した時には小間使いに取り立ててやろうと思ったし、今もそのために歩いているのである。 何であんな男のために、というもう何度目か知れない疑問が荀彧の頭に湧くが、その疑問にも結論は出ていた。 どうしようもなく愚かで精液男であるが、あの男が命の恩人であることに変わりはない。忌々しいことに実家での覚えも良いし、引き上げる機会があったのに袖にしたと実家に伝われば、それこそ実家から何を言われるか分かったものではない。 機会があれば続けるつもりではあるが、これが最後の機会となるだろうことは荀彧にも察しがついていた。お互い洛陽から去ることになれば、これが今生の別れとなることだって考えられる。こちらが連絡を取ろうと努力しても、あの馬鹿が戦場に出ることをやめなければ、そのまま死に別れということもないではない。 今日は何が何でも、話に決着をつける。郭嘉や他の連中がいるだろうが、そんなものは知らない。敵方を論破できなくて何が軍師か。 意気込んでいるうちに、目的の場所についてしまった。中からは女の声が聞こえる。 時刻は一応、深夜である。あの精液男のことであるから、そういうコトに及んでいることもあるだろうが……と思い至って、荀彧の動きが鈍いものになった。 別に一刀がどういう女と付き合って孕ませようが知ったことではないが、好き好んでその現場に踏み入ろうとは思わない。 目にしてしまったら目が腐り落ちるかもしれない。そうなってからでは遅いと、扉に耳をあてて中の様子を伺ってみる。男の声に、女の声が四つ。男は当然一刀であるが、女の声は誰だろうか。 一刀とつるんでいる軍師は三人であることは調べがついている。以前言い合った『神算の士』、鼻血軍師の郭嘉とその友人である程昱。それから名門水鏡女学院の卒業生『鳳雛』の鳳統。いずれも傑物と名高く、引く手数多の人間だった。 それがどういう経緯であの男とつるんでいるのか。同じ軍師として興味がないではないが、それは今はどうでも良い。問題はもう一人の声である。一刀とて、いつも四人でいるとは限るまい。誰かが欠けることだってあるだろうし、逆に誰かが加わることだってあるはずだ。 誰とつるもうと関係はない。そのはずなのだが……いつもの怒りとは全く逆の、言い様のない不安が荀彧の心を支配しているのである。 どうにも、最後の声を聞いたことがあるような気がしてならないのだ。 それも、良く知っていて、できれば係わり合いになりたくないような、そんな声。 それは誰だと考えて……脳裏に思い浮かんだ相手は一人しかいなかった。ここは洛陽である。奴が現れてもおかしくはない―― もはや躊躇うだけの時間も惜しい。誰何の声をかけることなく、荀彧は扉を開け放った。無礼は承知であるが、事は一刻を争うのだ。手遅れになってからでは何もかもが遅い。口にされては不味いことを、あの女は色々と知りすぎている。「あら、お久し振り」 こちらの顔を見て、その女はたおやかに微笑んだ。純粋にこちらとの再会を嬉しく思っている、表裏のない笑顔だ。 それがまた癪に障る。突然の登場に呆然としている一刀や三人の軍師を他所に、部屋を横切って女の腕を取る。そのまま外に連れ出そうとしたが、これには女も抵抗した。苛立ちながら視線を向けると、女は顔に困惑の色を浮かべていた。。 まずは事情を話せと、視線で言っている。 その顔に頭に血が上った荀彧は一切合財をぶちまけてやろうと口を開きかけるが、最初の一語を発するより先に脳裏に閃くものがあった。女の目を見る。自分を真っ直ぐに見つめている目には、困惑も逡巡もない。何一つ予定から外れたことはないとでも言いたげなその瞳に荀彧は自分が乗せられていることに気づいた。 急速に頭が冷えていく。大きく溜息をついて身体の中の熱を追い出すと、荀彧は改めて女の腕を引っ張り退出を促した。 女が苦笑を浮かべる。初めて予定が狂ったとでも言いたげなその顔に、荀彧は軽い満足を覚えた。部屋の中に視線を向けると、一刀が何か言いたげな顔をしているのが見えた。 その顔を見て、逆に荀彧は言葉をかけることをやめた。自分から言い出すのはやはり間違っている。どれだけ分不相応な場所であったとしても、この男は自分で決めてそこに立っているのだ。 それを邪魔するような権利が自分にないとは言わないが、無理に連れ出すのは美しいことではない。かじりついてでもこの男を孫策陣営から引き抜くことは、それこそ、自分も名誉を犠牲にするだけの理由が必要になるだろう。 一刀の評価は最初に比べれば上がったろうが、陣営の壁を越えてまで引き抜く理由にはならない。重く用いるのならばそれでも角は立つまいが、他の三人ならばともかく一刀は精々現状維持か小間使いに格下げである。 頭の緩い一刀はそれでも納得するかもしれないが、これに孫策や周瑜が難色を示すのは目に見えている。それを論破してこその軍師であるが……それも今はもういい。 今度は女も抵抗しなかった。一刀達に短い別れの挨拶を済ませ、荀彧に従って部屋を出る。こつこつという女の杖を突く音が夜道に響く。「足、悪いの?」「二年ほど牢にいたからちょっと弱っているの。しばらくすれば問題なく回復するって、お医者様も言っているわ」「そう……牢!?」 聞き捨てならない単語に思わず声を荒げて聞き返すが、女は涼しい顔だ。「牢よ。ちょっと権力闘争で下手を打って二年ほど幽閉されていたの。それを助けてくれたのが一刀さんだったのよ」「初めて知ったわ……お母様はこのこと知っているの?」「私から知らせたことはないけれど、察しはついてると思いますよ」 実家に引き下がってはいるが、智の荀家を担う人間である。世の情勢には目を光らせているし、智者の情報、特に一族の人間の安否については念入りに情報収集しているだろう。中でもこの女は洛陽で宮仕えをしていた。政争の援護はできなくとも、牢に入れられたとなれば彼女の耳に入らないはずはない。 そんな中自分に話が回ってこなかったことに納得がいかなかった荀彧は、歩きながら女から事情を聞きだす。幽閉された牢が秘匿されたものであり、関係者のみがその存在を知っていたこと。牢を管理する人間も管理せよという指示しか受けておらず、その背後にいたのが十常侍ということも知らなかったこと。おかげで彼らが失脚し収監する意味もないのに牢に捕らわれ続けていたこと等々。 不幸な出来事が重なった人生だった。本当に一刀に発見されなければ、今でも牢に捕らわれたままだったろう。軍師としての女は掛け値なしの優秀な人物だったが、政争に負けるというのはこういうことなのだと思い知る話だった。 自分に関係ないことだと言い切ることはできない。今は曹操軍の筆頭軍師を実力で勝ち取っているが、それを蹴落とそうとする人間だって出てくるかもしれない。明日は我が身と思うと、軽々に女を扱うこともできなかった。「でも、復帰できたのなら良かったじゃない」「ええ。でも陛下にはしばらく療養しなさいって言われてしまったけど」「そう言えばあんた、陛下の教師だったのよね。私はお会いしたことないけど、どんな方なの?」「聡明な方よ。こんな時代でなければ、名君として歴史に名を残していたかもしれないわ」 皇帝陛下のことを語る女には、喜色が浮かんでいた。言葉の一つ一つに主に対する愛情が感じられる。優秀であることを喜ぶ以上に、その陛下に対して忠誠を誓っているのだろう。荀家の人間はどうも同性に大きな愛情を抱く傾向があるが、この女もその例に漏れないようだった。「機会があったら、桂花ちゃんのことも紹介するわね」「そうね。機会があったらね」 帝室との関係は作っておくに越したことはないというのが荀彧の考えであるが、主は独力での大陸制覇を考えている。諸侯との同盟ですら躊躇いがちであるのに、いまや権威しか持たない帝室では首を縦には振らない可能性が高い。皇帝陛下が優秀であるというのならば尚更だ。大きな権威が力を持つようになれば、いずれ大きな敵になることだろう。 主は強大な敵を自ら打ち倒すことに喜びを見出す人間であるが、態々英雄の芽に水を与えるほどに酔狂でもない。気のない返事は余計なことをするな、という釘刺しの意味もある。「それはそうと私の方こそ驚いたわ。桂花ちゃんが男性にときめいてるなんて」「ちょっと待ちなさいよ! どこからそんな話が出てくるって言うの!?」「だって、私の上げた剣を彼に餞別であげたんでしょう? 男性と話をするのも嫌がってた桂花ちゃんが、家庭教師までしたって聞くし、これはもしかしたらもしかするかもって考えるのも、仕方のないことだと思うの」 まるで実家の女中や母のような論理に、荀彧は髪を掻き毟って唸り声をあげた。この手の誤解は曹操軍に就職してからは無縁のものだったはずだが、郭嘉とやりあって以来、噂として荀彧に付きまとっている。鼻血の印象のせいで切っ掛けを覚えている人間は少ないが、主をはじめ、多くの人間が諍いの原因が一人の百人隊長であることを記憶していた。 曹操軍では男嫌いということで通している。内外にそれは知れ渡っているため、曹操軍の中であっても声をかけてくる男性は皆無に近い。そんな人間が男を間に挟んで、他の勢力の軍師と言い合いをしたのだから、話題に上らないはずはない。 口さがない噂だって、何度握り潰したか知れない。言葉にした以上の意味はなく、含むところもないのだから下種な勘ぐりをされるのは迷惑以外の何ものでもないのだが、身から出た錆であるため誰に当たることもできない。主が生暖かい視線を向けてこないのが唯一の救いではあるが、それが配慮されてのことだとしたら死にたくもなる。 一刀のことは、荀彧にとってできる限り表には出したくないことなのである。こっそりと一人でここにきたのもその一環であるし、引き抜きが成功していたらさっさと処理を済ませて、人の話題にも上らないようにする手はずだったのだ。 それもこれも、こういう話を誰かとしないための配慮だったというのに……この女はあっさりと、それを最悪の形で踏み越えてきた。「やめてよ気持ち悪い。あんな精液男とは何もないわ」「ないの?」「ないに決まってるでしょ!?」「天邪鬼な桂花ちゃんの言葉だから信じ難いのだけど……でも、今回は信じることにするわね。話してみたけど、あちらも桂花ちゃんの良い人というには、ちょっと距離を感じたもの」「……あの男と何を話したの?」 ときめいたりはしていないが、距離があるという表現にはひっかかりを覚えた。こちらが遠ざけるのは良いが、あちらが遠ざかるのには抵抗があった。食いついてきた荀彧に女はにやにやと厭らしい笑みを浮かべるが、それには取り合わない。「大したことは話してないわ。助けてもらったお礼と、近況報告。困ったことがあったら頼ってくださいねというお願いをして、後は桂花ちゃんについてあることないこと話そうとしたところで、桂花ちゃんがきたのよ」「どうしてあんたはそういう余計なことを……」 まさか嘘八百を並べ立てることもなかろうが、面白可笑しく脚色して話すくらいは、この女ならやりかなない。知られて困るようなことは何一つないものの、それをあの男の耳に入れるのは虫唾が走った。話す前に止めることができたのならば、僥倖である。「私については何も話してないのね?」「一つだけ。私が一刀さんと話す切っ掛けになった剣の来歴については話したわ」「……そう」 それもできれば耳に入れたくないことではあったが、女から貰ったアレを一刀に贈ると決めたのは自分である。後ろめたさも少しはあるから、強く言い返すこともできない。「あと、銘を知らないみたいだったから教えてきたの。一刀さんに伝えられたのは、誓ってそれだけよ」「銘なんてあったの?」 手渡された時にはそんなことを知らされもしなかった。あの剣について知っているのは、女が大枚を叩いて洛陽一の鍛冶師に『とにかく頑丈で折れない剣を』と注文を出したということだけである。そのせいで女性が持つには無骨で飾り気のない剣になってしまったが、元来剣に興味のない荀彧には、それも気にならないことだった。 それ以上のことは実家の人間も知らないだろう。使っていれば剣を分解して知ることもあったろうが、剣を持ち歩くということを考えもしなかったから実家の蔵に死蔵していたし、蔵から出たらそれは一刀の手に渡ってしまった。 こうしてこの女が言い出さなければ知る機会もなかっただろう。既に自分のものではなくあの男のものだが、興味がないと言えば嘘になる。「あの剣は『銀木犀』よ。桂花ちゃんにちなんだ名前にしたの。そんな剣が一刀さんの近くにあるんだから、私も嬉しいわ」「気持ち悪いこと言わないでよ……」 想像するだに気持ち悪いことであるが、あの剣は既に一刀のものである。今更どうこうすることはできないし物にまで文句を言っていたらキリがない。あの剣――銀木犀については気にしないことにして、荀彧は歩みを進めた。 既に岐路である。曹操陣営に帰らなければならない荀彧はここで左に折れなければならない。記憶にある限り、この女の屋敷はこの大路をこのまま真っ直ぐだ。「今日はこれでお別れね。時間があったら、手紙でもちょうだいね」「今度幽閉される時は、誰かに助けてもらえるように配慮しておきなさいよ」 一族の中でも傑物と名高い軍師だ。落ち目の帝室に仕えてはいるが、その知性は失われて良いものではない。曹操軍の利益に反しない限りであれば、荀彧も最大限の協力をするつもりでいた。目を逸らしながら言う荀彧に、手を合わせて嬉しそうに微笑む。 そんな年上の姪の顔を見るのが恥ずかしくなった桂花は、努めてぶっきらぼうに別れの挨拶を口にした。「それじゃあね、橙花。また会う時まで元気で」明日の地主のためにその1。今回は助走編で、次話でジャンプとなります。