「始まったわね……」 呟く孫策のはるか前方では戦が始まっていた。連合軍が結成されて最初の、董卓軍相手の大戦である。先鋒を任されたのは公孫賛軍の客将劉備、その数およそ四万。これに公孫賛の白馬陣を中心とした騎馬およそ三千と、甘寧を隊長とした孫策軍の新兵部隊五千を加えたものが連合先鋒部隊の総数だ。 約五万という数字は決して悪い数字ではないが、攻める場所は大陸でも難攻不落の関の一つである汜水関。詰めている兵は十万とも言われている。その中には大陸最強とも名高い張遼の騎馬隊も含まれているのだ。守るよりも攻める方が兵士を多く使うというのは常識である。難攻不落の関を相手の半数で攻め落とせというのだから、捨石になれと言われているに等しい。 普通ならば悲観に暮れるところだろう。 だが、劉備はそうではなかった。関を攻める劉備の部隊には悲壮感などなくこの関を抜いてやるのだという気概に溢れていた。必勝の策があるのではないかという疑念に、奉孝はこれで確信を持った。劉備自身の頭のデキについては知らないが、彼女の軍師は『臥龍』諸葛亮。才女の集まる水鏡女学院において、士元を差し置いて主席で卒業した正真正銘の傑物だ。 そんな軍師が何もしないはずはない。どうすれば五万であの関を抜けるのか、周瑜や孫策と共に検討を重ねたが絶対と言えるほどの策はついに出てこなかった。倍近い兵数と、難攻不落の関。これは多少の策ではどうしようもない。関に篭られたらこちらに勝つ術はないのだ。戦うとなればまず、相手を関から引っ張り出す必要がある訳だが、篭城の有利を放棄してまで打って出るなど、普通の神経をしていたらまずありえない。 つけ込む隙があるとすれば、将の一人華雄が猪武者と評判なことだ。彼女は孫策の母孫堅と因縁のある相手で、その勇猛さと突撃バカっぷりは孫策軍の兵にすら知れ渡っている。孫策軍には彼女を引っ張りだすネタがある。誇りを傷つけるような発言であれば猪武者も黙ってはいないはずだ。孫策本人が出て行けば激昂して関から出てくる可能性も格段に上がることだろう。 しかし、孫策はここにいる。劉備軍の中に華雄と因縁のあるような人間がいるとは聞いていない。それに将軍が華雄一人であるのならばまだしも、他に同等の権力を持った将軍、軍師がいるような状況では、その猪武者ですら引っ張り出すのは難しい。劉備のように時間が限定されるのならば尚更だ。 ならば一体どうするのか。「内応する者がいる、ということでしょうか」「郭嘉、何か言った?」「いえ。どうすれば劉備殿の軍があそこまで自信を持てるのかと考えていたのです」「まだ考えてたんだ。軍師って大変ね」「貴女は気にならないの? 雪蓮」「気にならないって言ったら嘘になるけど、そんなの終わってから聞けば良いじゃない。信頼する私の軍師が結論を出せないのに、私一人で考えてもしょうがないし」「貴女の閃きはこういう時にこそ発揮してほしいものなのだけど……その話はまた今度。内応する者と言ったわね、郭嘉」「はい。やはり、今から策を用意するのではどれも確実性に欠けると思うのです」 今から策を弄したのでは間に合わないが、それ以前――連合軍の陣地の到着する遥か前から仕込みを行っていたのだとしたら話は別だ。 劉備が先鋒として指名されたのは偶然ではない。陣地に来る前からある程度諸侯の力関係というのは把握できていただろう。纏まった力を持った武将の中では、自分が一番心もとない。それは劉備にも分かっていたはずだ。一番槍という名の戦力調査に借り出されることも容易に想像できたはずである。戦う場所と仕掛ける時、それさえ解っていれば策も仕込みやすい。「内応できる者を送り込んでおけば、劉備殿が攻めるのに呼応して妨害工作もしやすいのではと」「後々から送り込んだ間者が上の地位に行けるとも思えませんし、離間するにしても董卓軍の上層部は強く結束してると聞きますがー」「何も意思決定に関わる人間を引き込まなくても良いのよ。関内に混乱を起こすだけなら、一兵士でも構わないでしょう?」「へ、兵士を欲しがっているのはこちらもあちらも変わらないと思いましゅ」 検討には、風と士元も参加している。孫策軍の中心部。御旗である孫策を中心に、軍師筆頭の周瑜に次席の陸遜。雇われた自分たちはそのオマケという形だが、護衛の兵士すら少し離れた位置にいるのに声の届く範囲に置かれているというのは、それなりに信頼されているということなのだろう。一刀の……ではなく、彼の上司である甘寧の軍師である風がここにいるのは、戦についていっても役に立たないからという配慮があってのことだ。 ちなみに士元以外の全員が騎乗しているが、士元は孫策に抱えられてここにいる。愛玩動物のような扱いであるが、本人以外にその扱いを気に留めている者はいなかった。小動物のような愛らしさを持っている彼女がそうされているのは酷く様になっている。軍師としての頭脳も認められてはいるが、孫策が何よりも士元を手元においておきたがっているのは、その愛らしさからだろうというのは今もぎゅっと抱きしめられている士元を見れば分かるというものだ。「問題はどの程度の間者をどれだけの数送り込めたかということですね」 策のために死んでくれるくらいの間者が一人でもいれば、それはとても心強いことだ。生還を前提としなければ、策の幅も広がる。そういう作戦を奉孝は好まないが、全ての軍師がそうだとは限らないし、そうせざるを得ない状況も存在する。天下を狙う者としての劉備の立場ならば、この戦は正に正念場だ。汚い手の一つや二つ使っても勝利は欲しいはずだ。彼女が思わなくても、軍師や周囲の人間が思うかもしれない。組織の長の知らない所で謀略が進んでいる。今の世では、良くあることだ。「うちも今何人か送り込んでるけど、関の警備状況はそれほど厳重でもないそうよ」「十万も兵士が詰めているのだから、当然と言えば当然ね」 流石に出入り自由ということはあるまいが、出入りがないという訳でもない。潜入する機会は幾らかあるし、入り込んでさえしまえば人の波に紛れて情報収集ないし、破壊工作もしやすいだろう。何しろ数が数だ。「間者をもぐりこませることができたとして、貴女たちならどうする?」「私ならば兵糧を燃やします」「井戸に毒でも放り投げますかねー」「冥琳は?」「いっそ指揮官の暗殺でもできれば良いけど、流石に間者にそこまでの能力はないのでしょう?」「明命にできるくらい、と判断してくれれば良いわ」「なら、郭嘉や程昱の言う通り、糧食を損耗させる方法を検討するわ」「でも向こうもそれくらいは警戒してるんじゃない?」「間者を使い潰すくらいの気持ちでいないと駄目ね。情報を集めるつもりなら、破壊工作は諦めないと」「情報を吸い上げつつ破壊工作もできたら良いんだけどね」「そこまで上手いこと世の中回らないわよ」 それもそうねー、と孫策は暢気に笑う。最前線から距離があるとは言え、ここも戦場だ。周囲の兵にも緊張が見え、郭嘉も幾らか緊張はしているが、孫策にそれはまるで見られなかった。この肝の太さは一刀にも見習ってほしいものだ。主の態度は周囲に影響を及ぼす。これだけの美貌を持った孫策がどっしりと構えていれば、それだけで兵は安心して力を発揮することができるだろう。 この主ならば、勝てる、どうにかできる。例え根拠などなくとも、そう思わせることのできる何かが、上に立つものには必要なのだ。今の一刀にはそれが致命的に欠けている。奉孝から見ると物凄く頼りなく見えるのだが、兵は今の一刀でも十分なようで孫策軍に来てから一緒に行動するようになった兵まで、彼によく従っている。 不思議なことに受けも悪くないようだ。どうにも『手の届く所にいる』というのが、彼ら彼女らには重要らしい。どんなつまらないことでも一刀は耳を傾け、一緒になって考え笑ってくれる。奉孝からすれば取るに足らないそれが、一刀の主としての全財産だった。 本当頼りない。頼りないが……これは、一刀だからこそできること、とも思える。 孫策も一度顔を合わせた曹操も素晴らしい主だ。彼女らと一刀を比べたとしたら――比べるのもおこがましいが――多くの人間が彼女らの方を支持することは間違いない。彼女らには凡人を遥かに超越したような要素がある。自分たちとは違う、というのが彼女たちの大前提なのだ。容姿、能力、経歴、出自。どれを取っても、彼女らは非凡だ。武将として一刀が勝つことのできるものは何一つないと言っても過言ではない……まぁ、一つくらいはあるかもしれないが、他の全てで負けているのならば、この場合は無視しても良い程度のものだ。 ともかく、一刀にしかない物もあるにはあるが彼には欠けているものが多すぎる。知も武も他人に頼らざるを得ないのなら、せめて落ち着いてくれれば良いのに何でも自分でやりたがるのだ。 それを向上心があると取ることもできる。弟子としては物覚えの悪さも含めてそこそこに教え甲斐のある人間だが、主としてみると不安ばかりが先に立つのだ。一刀にはいずれ土地を治めてもらうことになる。いつになるか解らないが、自分たちが知恵を貸している以上、そう遠くない未来であるのは間違いない。 その時、全ての事柄に目を通し、皆と一緒になって作業をしているようでは身体がいくつあっても足りない。彼のような凡人ならば尚更だ。できること、できないことをきちんと把握し、任せるべきことは他人に任せる。人を使うことをいい加減に覚えておかないと、大成する前に自滅してしまうだろう。 百人隊長をするようになって、人に指示を出すということも徐々に形になってきたようだが、まだ甘い。孫策のようにというのは高望みし過ぎかもしれないが、もう少し、後少しと思うことを止めることはできなかった。「稟ちゃん、鼻血が出てますよー」 風の囁く声にはっとなって鼻を押さえる。掌に慣れ親しんだ血の感触はなかった。からかわれた。そのことに気づいた奉孝はきつく風を睨みやるが、並の兵ならば縮こまらせるような眼光を受けても、風が怯む様子はない。むしろ、頭に血の上ったこちらを見て、楽しんでいる風すらある。ふふふーと笑うその表情が憎らしい。 奉孝が過敏に気にするのにも理由があった。先日、曹操陣営の小生意気な猫耳とやりあった時に広まった鼻血軍師というあだ名である。たかがあだ名と侮るなかれ。奉孝が気を失って意識を取り戻した時に、そのあだ名は陣地内に広まっていた。流石にまだ顔が売れていないこともあって顔と名前、それからあだ名が一致する人間は他の陣営まで含めると少ないが、孫策の周囲にいることを許されている人間として、孫策陣営では顔と名前が売れている。必然的に不名誉なあだ名についても広まっており、すれ違う兵に苦笑を向けられることもしばしばだった。 これについては、誰に文句を言うこともできない。言うとすれば一刀だが、彼に文句を言うのも格好悪いことのように思えた。笑いたい奴には笑わせておけば良い。不名誉なあだ名は実績で挽回すれば良いのだと思うことにして、風については額を小突く程度に留める。「解答が帰ってきたみたいよ」 孫策の視線の先を見ると、遠目に周泰が見えた。間者を統括する立場にある人間で、愛らしい見た目ながら忍の技も使う。その周泰が馬を物凄い勢いで駆っている。只事でない様子に周囲の兵にも緊張が走るが、孫策は緩いままだった。平然とした様子に周瑜が抗議の視線を送るも気にしない。「そんなに慌ててどうしたの明命。汜水関の兵糧が燃えて井戸に毒でも放り込まれでもしたのかしら?」 孫策の軽口はやってくる途中の周泰にも届いた。周泰は馬上で驚きの表情を浮かべると、馬を棹立ちにさせ飛び降りた。軽やかに着地すると、孫策の前に控える。「周泰、ただいま戻りました」「思ってたよりも遅かったけど、どうかしたのかしら」「真偽の判断に困る情報を掴みましたので、その裏を取っていました。遅れましたこと、申し訳ありません」「時間を決めてた訳ではないんだから別にいいわよ。で、汜水関で何かあったのかしら」「汜水関の兵が秘密裏に撤退を始めております。もう、二割ほどの兵が虎牢関に向けて進軍を開始した模様です」「……詳しく話を聞かせてもらえるかしら」 流石に、孫策の顔からも余裕が消える。「詳しい工作の内容については現地に残してきた部下が調査中です。汜水関の兵糧は十箇所以上に分けて保存されていたのですが、そのほぼ全てに破壊工作が実施され、三割が完全に消失、残りの六割も使い物にならない状態になっております」「こっちから火事とかの気配は確認できなかったのだけど?」「兵糧が燃えたのは我々が到着する前のことのようです。消火活動が迅速に行われたようで焼失した分はそれほどでもないようですが、毒物や汚水を使った工作によって汚染されたとのことです。なお、井戸にも毒が投げ込まれており、飲料水の確保にも難儀している模様」「随分と陰湿な兵糧攻めね。どこの誰がやったかまで解る?」「コレに関しては裏が取れておりませんが……おそらく、劉備か公孫賛陣営の間者ではないかと」「強気な姿勢にはこういう事情があったのね」「加えて、汜水関に移送される輜重隊が謎の騎馬部隊に襲撃されて壊滅的な打撃を受けております。これは一月以上前から続いており運び込まれる兵糧そのものが、汜水関には不足していた模様です」「騎馬って言っても、汜水関には張遼の騎馬隊がいるでしょう? 奴らよりも強い騎馬隊が輜重隊を襲ったと言うの?」「張遼騎馬隊が洛陽方面からの輜重隊の護衛についている訳ではないようです。汜水関から十分な距離のある地点で襲撃し、兵糧を奪うなり燃やすなりして速やかに撤退するそうです。護衛部隊もいるにはいたそうですが、彼らのどの馬よりも早く追っても追いつけず、無理に追えば騎射で全滅させられるとのことでした」「その情報は確かなのね?」 董卓軍もバカではない。一度襲われたとなれば、部隊の強化をするだろう。最前線の汜水関の兵は割けないまでも、虎牢関の兵を使っても良い。精強な兵で固めれば早々、兵糧を失うなどという事態にはならないはずなのだが、所属不明の騎馬隊はそれをやってのけたという。話としてできすぎている。確かにこれは周泰でなくとも真偽を疑う情報だった。「兵を十人ほど締上げて確認したので、ほぼ間違いないと思われます」 しかし、周泰は自信を持って頷く。所属不明の騎馬隊に寄る襲撃は、当座、事実であるということだった。納得できなくても、納得するしかない。そういう騎馬隊が存在し、襲撃は成功したのだ。「確認するけど、兵の撤退は今も続いているのね?」「最終的には汜水関を放棄し、全ての兵を虎牢関に移すつもりのようです。汜水関に残った兵糧を考えると篭城は難しく、十万の兵を移動することを考えると、現在の兵糧ではギリギリの線です」「今外に出てる兵は、面子のために戦っている訳ね」 負けて撤退するのも格好悪いが、一度も戦わずに関を放棄するのはそれ以上だ。戦わずに関を完全に放棄し、最小限の兵だけで守らせておけば兵の損耗は少なくなるが、それ以上に軍が軍として立ち行かなくなる可能性が出てくる。戦わずに逃げるような人間が自分たちの上にいるのだと知ったら、果たして民衆はどう思うだろうか。 不満に思い文句を言うだけならばまだ良い。それで利敵行為をされるようになると、戦況が一気に傾いてしまう。 董卓軍としてはたとえ懐事情が厳しかったとしても最低でも一戦は戦わなければならないのだ。その一戦で大打撃を与えられるのならば時間も稼げて言うことはない。士気を維持するのも時間が経てば経つほど難しくなる。既に軍の一部が撤退を始めていることを考えれば、汜水関における戦はこれが最後になる可能性が高い。 つまりはこの戦を有利な状態で終わらせることができれば、自動的に汜水関を落とすことにも繋がる……可能性が高い。汜水関を落としたとなれば、その名声は一気に内外に広まることになる。謀略を行ったという過程こそあまり誇れたものではないが、勝った落としたという事実の前には些細なことだ。「今から突撃すれば、汜水関を落とせるってことかしら」「落とせるでしょうけど、今から動くには理由が必要よ。最低でも袁紹と袁術を納得させられるだけの詭弁を、貴女は用意できるのかしら」 周瑜の反論に孫策は押し黙る。会議まで開いて盟主袁紹が劉備に任せると宣言し、そのように部隊を配置した以上、それを覆すにはそれなりの理由が必要になる。劉備が敗走し追っ手が差し向けられているならばまだしも、戦はまだ始まったばかり。既に関の兵が撤退を始めているという情報も、孫策軍の間者が掴んできた情報で確度の高いものだが、物的証拠は何もない。 動くからには最低でも袁術を納得させられるだけの何かを差し出さなければならないのだ。この場合は『兵が撤退している』という情報がそれに当たるが、バカ正直にそれを告白したところで、こちらに利点は何もない。 じゃあわらわが行くのじゃ、ということになれば、目も当てられない。 抜け駆けを強引に納得させられるような立場にあれば良かったのだが、一応、使われている立場である手前、勝手過ぎる動きは厳禁だ。 結局は、立場の違いが今の状況を生み出したのだ。一番弱いという立場にいたからこそ、劉備はこの千載一遇の機会を生かすことができた。作戦そのものは成功率の低いものだったろう。話に聞くだけでも、この作戦には博打のような要素がとても目立つ。今回のような結果が生み出せたことは、幸運に寄るところが大きい。 だが、幸運を引き込むのも大将の仕事だ。こういう場面で幸運を引き込むことができた劉備はやはり何かを持っているのだろう。「関一つの功績が兵五千か……何だか寂しいわね」「言わないの。関はもう一つあるんだから、私達はこの次にどうにかすれば良いわ」「できたら良いんだけどね……」 立場の弱い劉備が関を落としたとなれば、袁紹のことだ、次は自分がと言い出すに決まっている。彼女の軍は数こそ多いが、質はそれほどでもない。虎牢関には飛将軍呂布がおり、撤退した汜水関の軍もこれに加わる。数だけで倒せるような並の相手ではない。二枚看板の二人が奮戦したとしても、敗走するのは手にみて取れる。 自分たちの課題は、いかに敗走する袁紹軍を上手く処理し、かつ、敵に相対することができるかということだ。それには袁紹軍や袁術軍以外の軍との連携が必要になってくる。建前上の盟主ではあるが、心中では誰もが袁家の味方な訳ではない。いずれ敵になる勢力ならば兵力は削いでおきたい。そう考えているのは孫策だけではないのだ。「孫策様、曹操殿に使者を出されてはいかがでしょうか」「んー、恩売ったばかりの劉備や公孫賛の方が良くない?」「劉備公孫賛勢力はそれとして、他に名前と顔を売っておくのも良いのではないかと。いずれ覇を競う相手ならば、その情報は少しでも多い方が良いはずです」「それも一理あるわね……いいわ。貴女の案を採用する。冥琳と一緒に、上手いこと話を纏めなさい」「御意」 その時、遠くで声が聞こえた。前線の情報を集めるべくそこかしこの陣営で伝令が動き始める。 戦が動き始めた。「散るな! 小さく固まれ!」 自らの指揮する部下達に大声で指示を出しながら、自身も剣を振るい道を拓いていく。関羽、劉備、張飛の部隊が汜水関へと仕掛け門から迎撃の軍が飛び出してから既にニ時間は経過しただろうか。初の大戦に緊張してた身体も興奮で解れていた。顔にかかった返り血を袖で拭いながら、自分の下に再集合した部下をぐるりと見回す。「団長、百人全員います」 点呼の報告をするのは副長の子義だった。数を数えるのも怪しい子義だが、報告をあげるくらいならばミスもしない。最初はあまりのアホの子ぶりに団員からも不満ではなく不安の声があがったが、部隊内で一番の剣の腕に加えて百発百中の弓、誰にでもそこそこ礼儀正しく何より一刀の言うことには素直に従ったため、次第に不安の声は小さくなった。 子義の仕事はあがってきた報告をそのまま一刀に伝えることと、一刀の指示をそのまま部下に伝えることである。役職こそ与えられているが、その仕事はアホの子でもできるものだ。必要なのは認められているということだけ。その点、子義は上手くやっていた。腕っ節とその性格で、彼を嫌う者は部隊の中には一人もいない。「まだ一人もかけてないのは多分奇跡だな」「団長の指揮が良いんですよ」「持ち上げてくれるのは嬉しいけどそれはないな。指揮がどうのと言うなら、甘寧将軍だろう」 新兵五千人の指揮をしつつ直轄の千人隊まで動かす甘寧の手腕は一刀の目から見て並ではなかった。強面の直属兵と共に戦場を動き回り、兵を手足のように動かしては自分も剣を振るい続ける。自分でも相当な数の敵を斬ったつもりでいたが、甘寧は優にその五倍は斬っているだろう。強面軍団の技量もそうだが、甘寧の技はさらに群を抜いていた。一日に何度も吹っ飛ばされたことから理解していたつもりだったが、実際戦場で敵兵の首を何度も跳ね飛ばすのを見て、その考えを改めるに至った。 安っぽい表現ではあるが、あの人は化物なのだというのを実感した。 鐘の音が聞こえた。音の間隔から指示の内容を理解する。甘寧本隊から発せられたおおまかな指示を伝える信号だった。「本隊の所に集合だ。分散せず、纏まっていくぞ」「了解しました。本隊まで移動!」 子義の声に従って北郷隊が移動を始める。先に突破してから敵の姿は近くにはない。本隊から少し離れて動いていたが、百人隊が大きく離れることなどほとんどない。再集合の目印となる甘の旗を目指して、只管に駆けていく。「団長、あれどうします?」 それに最初に気付いたのは子義だった。子義の指差す方には、同じ甘寧千人隊に所属する百人隊の姿があった。ただし、進軍速度が非常に遅い。北郷隊が駆け足で移動しているのに、彼らは並足だ。戦場での移動にしては不自然なまでに遅い。負傷者が多いのだろう。先頭を行く人間すら具合を悪そうにしているのが見て取れた。 子義が気付いたように敵も気付いたようでのろのろと移動するその百人隊に目を付けた敵の一団が、彼らに向けて移動するのが見えた。味方に比べて敵は元気なものだ。あれは自分の獲物だといわんばかりの駆け足で、味方へと迫っていく。味方は敵の集団に気付いたが進軍速度は上がらない。このままでは追いつかれ、殲滅させられるのは時間の問題だった。 これに関して、本隊からの指示はない。気付いていないのか、本隊からは再集合の鐘が鳴り続けていた。お伺いを立てるような時間はない。彼らをどうするのか。決断するのは自分の意思だ。 一刀は唸るように溜息を吐いた。「隊を二つに分ける。指揮は子義。俺が当たるのを見て、反対側から突撃して敵を割る。合流したら、それからは俺が指揮する」「了解しました。一から五隊、俺について来い!」「六から十隊は俺に続け!」 決めたら迷わない。言葉にしたらその通りに行動せよ。甘寧に殴られながら覚えたことだ。人に指揮する者が迷っていては、ついてくる人間の立場がない。心中でどう思っていたとしても、それを顔と行動には出さないことだ。 仲間を率いて駆け足で目標に迫る。僅かに敵の方が早い。逃げ遅れた味方の最後尾と敵が接触する。味方は仕方なく応戦するが万全に近い敵との戦力差は火を見るよりも明らかだ。このままでは全滅させられる。悲壮感漂う味方を鼓舞するように、一刀は雄叫びを上げた。それに、五十人の部下も追従する。 意識をこちらに向けた上で、側面から突撃する。反撃の態勢が整うよりも先に、一方的に攻撃を開始。一人、二人と斬り伏せたところで敵の体勢も整う。腰を据えて迎撃しようとこちらにしかと意識を向けるのが解った。援護された味方は礼を言うのもそこそこに、本隊の方へと移動を開始する。相変わらず動きは遅いが、時間は稼ぐことができた。 後は無事に本隊と合流できるよう、祈るより他はない。 さて、問題はこちらだ。体勢を整えた敵は目標をこちらに変え、ごりごりと押して来る。装備からして董卓軍の正規兵のようで、一人一人の錬度もこちらより上だった。一刀も先頭に立って奮戦するが、じわりじわりと押され、後退する。これは本当に不味いか、一刀の背中に冷や汗が流れたその時、敵部隊の向こう側で雄叫びが上がった。 子義の声だ。後背を突かれた敵に動揺が走ったのを、一刀は見逃さなかった。雄叫びを上げ、味方に再度突撃を指示する。挟撃された敵部隊は浮き足だち、体勢を崩していた。錬度で勝っていても、こうなってしまえば関係ない。動揺している人間を狙い定めるように、一人、また一人と協力して打倒していく。「ご無沙汰です」 返り血を頭から浴びた子義と、ほどなくして合流した。全体の指揮を再度預かり、体勢を整える。攻撃の手を止め、本隊に背を向ける形でしかと腰を据える。敵部隊はこれ幸いとこちらから距離を取り、体勢を整えた。いくらか殺したはずだが、全体として見るとそれほど減っているように見えない。逃げてくれればシメタものだったのだが、敗走する気配もなかった。 逃げるか、戦うか。考えるまでもない。「本隊に合流する。全速転進――」「団長、待ってください。何かヤバイのが来ます」 子義の声に、一刀は命令を中断した。彼の指し示す方向に視線を向けると、そこには土煙が。 大規模な騎馬隊だ。少なくとも五千はいるだろうか。そんな規模の騎馬隊が高速でこちらに向かっていたのである。先頭近くを走る馬が隊の旗を持っていた。紺碧の地に『張』の一文字。そこにいるのが誰なのか、誰の指揮する騎馬隊なのか、瞬時に理解してしまった。「張遼が来たぞ! 全員下がれ!」「下がるんですか? このまま本隊に合流した方が」「いや、無理だ。俺達が合流する前にあの騎馬隊に襲われる」 張遼騎馬隊と、一刀から本隊を結ぶ直線の距離はおよそ500メートル。馬が時速60キロで走るとしても騎馬隊が通り過ぎるよりも先に本隊に合流することはできない。 しかも、こちらは一直線に走らなければいけないのに対し、向こうは方向をある程度調整することができる。えっちらおっちら走っている時に側面から騎馬隊の突撃を受ければ全滅は免れない。「やってみませんか? 騎馬隊が通り過ぎるよりも先に、本隊に合流できるかもしれませんし」「どうして無理か説明するためにはお前の嫌いな数字を使う必要があるぞ?」「無理なものは無理ですよね。俺、今わかりました」「解ってくれて嬉しい。ちなみに合流するためには俺達全員が最低でも馬以上の速度で走る必要がある」「そんな人間いるはずないですね」「世の中広いからな。甘寧将軍とか、馬以上の速度で走ったとしても俺は驚かないぞ」「それは見たいかも。走る時には俺にも教えてくださいよ」「ここを何とかできてから考えることにしようか。さっきの敵部隊を追うぞ」 騎馬隊がやってくるのと反対方向に逃げたとしても的になることには変わらない。被害を受けないためには騎馬隊の進行ルートから離れる必要があるが、その方向には先ほど交戦したばかりの部隊がいる。そちらに逃げれば再び交戦するのは明らかだ。 しかし、そちらに行くしか生きる道はない。張遼騎馬隊の前に出るよりは、まだそちらの方が生き残る可能性は高いだろう。「さっきの連中とまた戦うぞ。全員準備だ」「団長。弓を使っても良いですか?」「交戦までに何射できる?」「十回はやれます」 敵部隊との距離は100メートルもない。こちらに気づいた敵部隊も移動しているので、ぶつかるまでの時間は多くはない。話している間にも子義はどこかで拾った弓に矢を番えていた。走りながらで不安定であるはずなのに、狙いを定める上半身は定まって動かない。敵の雄叫びが耳に響くような距離になって、子義は第一射を放った。劣悪な条件が重なった中で放たれたはずのその矢は、しかし、敵部隊の先頭を走っていた兵の眉間に吸い込まれる。血を吹き上げて倒れる敵兵。いきなり倒れた味方に、敵部隊の動きが止まった。止まっている的など、子義にかかっては造作もない。 立て続けに放った矢は五射目まで一矢で敵兵を討ち取った。このまま全員とばかりに子義は射撃を続けるが、矢で射られていることが解ると流石に敵も対応を始めた。簡素ではあるが盾を用意して、矢を防いだのである。良い弓、良い矢を使っていれば子義の腕ならば薄い盾など貫いていただろうが、拾った弓矢ではそうもいかない。 舌打ちをして悔しがりながら、弓を放り捨てて抜剣する。敵兵はすぐそこだ。 部隊の先頭が、ぶつかる。正規兵だけに押して来る力が凄まじい。人数がこちらの方が多いのに既に押されていた。これ以上押されたら死ぬ。それぐらいの気持ちで一刀は踏みとどまり、仲間に檄を飛ばした。雄叫びをあげ、自らも剣を振るう。荀家を出る時に、荀彧から譲り受けた剣だ。仲間が支給品を使っている中で、一刀だけが自前の剣を使っている。 かなりの人間を斬り武器を受け止めたはずだが、見た限り刃毀れ一つもしていない。元の持ち主に似て、根性の座った剣である。 この剣を使っている以上、無様に負ける訳にはいかない。ここで死んではこの剣を誰とも知らない人間に回収されるかもしれない。そんなことは死んでもご免だった。 この剣は、俺のものだ。 そう思うと力が湧いた。この剣を持つ限り、無様な戦いはできない。一刀の意識が澄み渡る。 正面、髭面の男。頭から被ったらしい返り血が、風に乾いているのが見えた。目が合う。男がニヤリと笑った。こいつになら勝てる。そういう顔だった。やってみろ。振り下ろされた剣を渾身の力を込めて払う。侮っていた男の身体が僅かに流れた。返す剣を降り降ろす。首筋を狙った一撃は、男が大きく飛びのいたことで避けられた。 だが、今は乱戦だ。男の後ろにも兵がいる。大きく下がっても十分に下がることはできない。男の体勢が整うよりも先に斬りつける。僅かに体勢を崩していた男は剣を受け切れなかった。弾き損ねた剣が、男の首筋を浅く割く。噴出した血が一刀の顔にかかった。 鉄の臭いに血が沸き立つが、致命傷ではない。間に剣が割って入ったことで威力が殺されている。 だが、斬られたという事実は男を動揺させた。楽に倒せると思っていた相手からの思わぬ反撃。戦場では一撃が致命傷になりうる。攻撃を通してしまったということは、その一撃で殺される危険もあるということだ。僅かな逡巡の後に、男から油断の色が消えた。今まで以上に冴えた、力の入った攻撃が一刀を襲う。 三合受けて、悟る。この男は自分よりも強い。十回戦えばおそらく九回は男が勝つだろう。経験も腕力もおそらく体力も向こうの方が上。正攻法で戦ったところで勝ち目はほとんどないが、これは戦であって試合ではない。 六合目。男の剣を受けた時、横合いから差し込まれた剣が男の首を割いた。今度こそ勢い良く噴出す血を浴びながら、一刀は踏み込み男の首を刎ねる。舞い上がる首には見向きもせず、力を失った男の身体をせめて敵兵の邪魔になれとばかりに思い切り蹴飛ばす。「ありがとう子義」「どういたしまして。でも、ヤバいですね団長」「ああ、不味いな」 ゆっくり言葉を交わす暇もない。新たに襲い掛かってきた敵兵の剣を受け止めながら、戦いの趨勢を試算する。大局的に連合軍と劉備軍どちらが勝つかは知らないが、今のこの局面だけで判断するのなら、北郷一刀の運命は割りと差し迫った所まできていた。 子義の活躍で敵の数を減らすことができたが、それでも有利不利は変わらない。このまま続ければこちらが全滅するのは火を見るよりも明らかだ。 張遼の騎馬隊を避ける際に深く踏み込みすぎたせいで、本隊との距離はさらに離れてしまっている。他の百人隊は既に合流してしまっているのか、自分たちがしたように助けに来てくれる気配はない。 ならば、本隊に伝令を出して援軍を求めるべきだろうか。考えてもすぐに結論はでなかった。 まず、援軍を出してくれるかどうかが微妙なところだ。百人隊一つを助けるために本隊の戦力を甘寧が割いてくれるか、一刀には判断がつかなかった。それに援軍を出してくれるとして、そのためにはこの窮状を伝える伝令を出さなければならない。その伝令が無事に本隊までたどり着いたとして、全て歩兵で構成されている本隊から援軍がやってくるのはそれからだ。 その往復分の距離は一キロを越える。援軍も即参上という訳にはいかない。援軍を待つのならば人がそれだけの距離を走る時間を耐えなければならない。しかもそれは、最高に上手く事が運んだ場合の試算だった。こちらの戦力を削って伝令を出した結果、援軍は出さないという決定を出される可能性も否定はできないのだ。 それなら最初から背中を見せて逃げた方が上手く行くのではないか。多少では済まない犠牲が出るだろうが、確実に本隊との距離は縮まる。距離が近ければ近いほど生存確率は上がるのだ。 留まるか、引くか。考えている間も、敵兵は攻撃の手を緩めてはくれない。考えれば考えるだけ味方は傷つき、倒れていくのだ。あまり時間を割くことはできない。 全力で撤退する。一刀はそう決めた。殿を自分と子義他、腕の立つ人間で務めて他の人間を可能な限り遠くまで逃がす。これならば生き残る頭数は多くなるだろう。反面、残った人間はより地獄を見ることになるが、逃げつつ戦うのだから留まるよりは楽なはずだ……と強引に自分を納得させる。腕の立つ人間を集めた十人隊を二つ残し、残りは全て本隊に向けて全力疾走。 生き残るにはこれしかない。一刀は覚悟を決めた。 その命令を全員に伝えるため、隣で奮戦する子義に声をかけようとしたまさにその時、敵の勢いが大きく弱まった。敵兵が近付いていることを誰かが叫んでいる。聞き覚えのない声であるから、おそらく敵兵の誰かなのだろう。 味方の援護だ。一刀の腕に力が戻った。「押しまくれ!」 これはチャンスだ。生き残るための絶好のチャンスなのだ。腕に今まで以上の力を込めて、剣を振るう。新手に気を取られている敵兵は先ほどまでよりもずっと簡単に討ち取ることができた。 敵兵の向こうに、彼らの言う新手の姿が見えた。白馬の騎馬隊だった。少なくとも五百はいるだろうか。全てが白馬で統一された騎馬隊が敵兵に向かって突っ込んでくる。先頭を駆けるのは、白い鎧を着た女だ。手綱を持たずに馬を操り剣を振るっている。彼女が一つ剣を降る度に、敵兵の首が飛んだ。精強な騎馬隊である。先の張遼騎馬隊にも劣らないだろう。数は少ないが、それだけの圧力を一刀は感じた。 味方としてこれほど頼もしいものはない。相対する人間からすれば、これ以上の恐怖はないだろう。留まれば死ぬ。それを悟った敵兵たちは一刀たちの部隊には見向きもせず、散って逃げ始めた。「今度こそ転進だ! 本隊に合流するぞ、走れ!」 一刀の声を受けて子義が命令を復唱する。それは直ぐに部隊全員に伝わった。生き残った人間は全てその命令に従い、本隊に向けて駆け出していく。敵兵の追撃がないのを殿で確認しながら、一刀は駆ける。 本隊までは何も遮る物はなかった。次の敵軍に向けて移動している最中の本隊ではあったが、合流したこと、それから状況の説明のために甘寧の元へと急ぐ。「遅かったな」 いつも通り甘寧は仏頂面だったが、いつも以上にイラついているように見えるのは決して気のせいではないだろう。本能が近付くことを拒否しているが、仕事上そういう訳にもいかない。敵兵に挑む時よりも悲壮な覚悟を決めて、一刀は甘寧の前に立った。 拳が飛んでくる。一発目は顔に。吹っ飛ぶのはどうにか堪えたところに立て続けに腹部に二発。流石に蹲ってしまう一刀に、甘寧は溜息を漏らした。「参集に遅れたこと、命令に背いたことは重大だが、味方を救ったことに免じてこれで済ませる。これ以上の処分はない。部隊に戻れ」「ありがとうございます」「二度は言わんぞ。さっさと行け」 どこか照れた様子の甘寧に頭を下げ、一刀は部隊に戻った。 劉備の部下関羽が汜水関を落としたと報告があったのは、それからさらに二時間後のことだった。張遼は自らの部隊と共に虎牢関に向かい、華雄は公孫賛客将の一人である趙雲との一騎打ちに破れ、公孫賛軍に約一千の配下と共に降った。 大半の人間の予想を覆して、汜水関での戦は一度で終わり、劉備はその勝利によって名を売ることに成功したのだった。