荀家滞在一日目。荀彧に連れられてやってきたのは正午を過ぎてからだったから、一刀が部屋に案内された時にはもう、日も大分傾いていた。 それから少しだけ睡眠を取り宋正に用意してもらった地味な服に袖を通し、案内された食堂にいたのは荀昆だけ。猫耳少女の姿はどこにもない。何気なくを装って荀彧はどうしたとやんわりと問うてみたら、気分が優れないとの返答が。 あれだけ罵詈雑言を吐けて、気分が悪くて食事をキャンセルということもないだろう。こちらを傷つけないための荀昆の配慮に感謝しつつ、この世界に来て初めて口をつけた食事はとても美味しく、食後には何とデザートまでついた。油や水が合わずに腹を下すことまで半ば覚悟していた一刀にとっては、嬉しい誤算である。 食後は荀昆と歓談する。彼女からこの異質な三国志の世界の情勢などを教わった後、宋正に荀家を案内してもらった。外の塀を見た時に感じた印象の通りに広大な屋敷は、一回りするだけでも相当な時間を要し、途中で色々と話し込んでしまったこともあって、部屋に戻った時には夜も大分深くなっていた。 夜食でも持ってこようかという宋正の申し出を丁寧に辞し、ふかふかのベッドに勢い良く飛び込む。薄暗い照明の効果もあって、一刀の意識は直ぐに闇の中に落ちた。 滞在2日目。 子持ち人妻の少女に起こされるというレアな体験と共に、一刀の朝は始まった。 時計がないために正確な時間がわからないが、窓から身を乗り出して見た太陽の高さから判断するに、まだ早朝と呼べるような時間と判断できた。 最低限の身だしなみを整えてから、宋正に案内されて食堂へ。流石に一度往復すれば道のりくらいは覚られたが、客人は侍女に案内されるというのがこの世界では――少なくとも荀家では常識であるらしかった。 案内された食堂にいたのはまたも荀昆だけだった。特に客人からの希望がなければ、客人と家人が揃って食事をするのも常識で――と宋正は説明してくれる。 食事は相変わらず美味しかったが、やはりそこに荀彧の姿はない。全ての男に対してあの調子なら、同年代の男と差し向かいで食事をするなど彼女には耐えられないことだろう。顔を見れないのは残念ではあったが、荀彧はこの家のご令嬢であり、自分はただの客だ。 一緒に食事をしたいから次からはそうしてくれ、と言葉にするのは簡単だが、それを口に出来るほど偉い人間でないというのは一刀自身、良く理解している。 荀彧に会いたいのならせめて自分から会いに行くべきだろう、と考えて、荀彧の部屋が何処にあるのかも知らない自分に軽くショックを受けながら、それでも食事は全て平らげ部屋に戻る。 寝台に身を投げ出し、天井を眺めながら気づいた。 客人である自分に仕事があるはずもなく、この世界には学校も試験も何にもない。何をするでもなくダラダラすることなど元の世界ではあまりないことだったが、いざすることがない、という状況は本当に暇だった。 このままでは暇にやられて気が狂う、と思った一刀は早急に元の世界へと戻る手段を探すべく、寝台から立ち上がった。 この世界において一刀は外様で、何も知らないに等しい。何をするにしても人に聞くのが一番なのだろうが、それらしい情報を集めるためにはまずこちらの事情を説明せねばならない。 違う世界から来た。それを信じてもらうだけのことだが、それが難しいことは一晩寝て考えただけの一刀にも解るほど難しいことだった。文明の利器である携帯電話も、充電するのを忘れていたせいで、今はただの金属の塊になっている。 残っているのは制服であるが、珍しい素材というだけでは異世界からやってきたと納得させるには難しいだろう。 彼女達を黙らせるような凄い知識でも習得していれば、と思わずにはいられない。 知っている知識だけでどうにかならないものかと逡巡するものの、その考えはすぐに放棄した。ここは『あの』荀彧の家なのだ。剣道が少し得意なだけの学生に、三国志でも傑物とされる荀彧の一族を黙らせるような物言いがどうしてできるだろうか。 こんなことになるのならもう少し真面目に歴史や政治経済の授業を聞いておけば良かった、と後悔しても後の祭である。 大きく息を吸って吐くと、一刀は自分の頬を思い切り叩いた。 過去の自分の不勉強を責めても始まらない。現状、時間は有り余っているのだから、せめてそれくらいは有効に使うべきだ。自分の内を曝け出せないのなら手足と目で情報を集めるしかない。 まずは、書庫だ。 部屋を出ると外で待機していた侍女――宋正とは違うが、こちらも一刀と同じくらいの年頃の少女だった――に声をかけ、書庫に案内してもらう。 途中、中庭の近くを通りかかった時に、鎧で武装した男性の集団を見かけた。全てが男性ではなく中には女性も混じっていたが、この家に着てから初めてみる男性の姿に、一刀は思わず足を止めてしまった。「どうかなさいましたか? 北郷様」「いや、あの人達は何をしてるのかな、と」「彼らですか? 彼らは荀家の私兵です。と言っても、戦争で使うための人員ではなく屋敷の警備を担当しているのですけれど」「そうなんですか」 無感動に答えながら、一刀は彼らから視線を外した。 すると、整列する彼らの前に立ち、何やら指示を出していた男性が、一刀に気づいた。健康的に日に焼け、黒髪を短く刈り込んだ精悍な男で、如何にも武人といった感じの佇まいである。 視線を向けられていることに気づいた一刀が視線を戻すと、その男性は姿勢を正し、深々と頭を下げて礼をした。男の前に整列していた人間たちもそれに倣う。 突然のことに面食らっていると、侍女がくすくすと小さく笑った。 お客様なのですから堂々となさってください、というこの家に来てから何度目かの忠告に感謝しつつ、しかし礼をされた以上はこちらも返さねば、という現代人の強迫観念にかられ、立ち止まって彼らと同じように礼をすると、僅かに先に行ってしまった侍女に追いつくため、僅かに足を速める。 そんなアクシデントはあったものの、書庫には無事に辿り付くことが出来た。 書庫、という名前の通り広大な蔵のような建物であるそれは、一個人が所有する書を保管するには大げさな建物のように思えた。両開きの木造の扉は固く閉められており、その両隣には侍女が二人待機している。 まさか全ての部屋の前に侍女が、と一刀が疑っていると、一刀を連れてきてくれた侍女の少女が、待機していた少女と二つ三つ、言葉を交わす。「中にお嬢様がいらっしゃるようです。宋正様もおられるそうですが……」 お入りになりますか? と問う侍女の少女の声は控え目だった。荀家に仕えているのならば、荀彧の性格、主義主張は知っているだろう。男性が荀彧に会いに行くというのは、それこそ心を削られに行くようなものだったが、欲しい情報は自分で探すと決めたばかりだった。 出だしから躓くのもゲンが悪いし、ここで引き返すのも荀彧にびびっているようで癪である。 肯定の意思を返すと侍女の少女は書庫の扉を叩いて伺いを立てた。入ってもらってください、という宋正の声と、それを制止する荀彧の声が扉の向こうから聞こえる。果たしてどちらに従えば良いのかと視線で問うと、侍女は三人とも一刀のために道を開けた。 その顔には面白がるような笑みが浮かんでいる。荀彧という少女は、侍女にまで愛されているらしい。 侍女達に会釈を返し、入ってくるな! という荀彧の罵声を耳に苦笑を浮かべつつ、一刀は書庫の扉を開けた。 扉を開けてまず目に入ったのは、部屋を埋め尽くす書棚と、そこに納められている『書』である。一刀の感覚では書と言えば紙であるのが当然だったが、この時代紙は貴重品なのか、納められている書物の半分以上は竹簡だった。 部屋の中央は開けたスペースになっており、大量の書を広げられるようにか、大きな机が一つといくつかの椅子が並べられている 荀彧はその椅子のうちの一つ、入り口の扉を正面に見るようにして座っていた。傍らには宋正を従えており、眼前には竹で出来た書と紙で出来た書の両方が所狭しと並べられていた。「おはようございます、北郷様。お加減はいかがですか?」「宋正のおかげで快調だよ。今日は荀彧の世話を?」「ええ。と言っても、それは午前中だけで午後からはまた北郷様のお世話に参りますけれど」「それは楽しみだ」「あら、人妻を捕まえてお世辞を言っても何も出ませんよ?」「お世辞じゃないさ。宋正みたいな女の子に世話されたら、男は誰だって嬉しいもんだよ」「あんた達、バカな話をするなら外でやってくれない?」 努めて会話に入らないようにしていた荀彧が、汚物でもみるような目を向けて言う。あんた達と言ってはいるが、邪険にされているのは一刀一人で、視線には殺気すら篭っていた。 相変わらずの荀彧の調子に、これでなくちゃ、という言い知れない興奮を覚えつつ、一刀は荀彧と机を挟んで向かいの椅子に腰を降ろした。視線に篭る殺気が一段と強くなったが、それには取り合わない。「荀昆さんから就職活動中って聞いたけど、仕官の希望先とかあるのか?」「お嬢様は曹操様の所で仕官を希望されておられるようですよ。今朝方その旨を記した竹簡を曹操様の下に送りましたから、しばらくはその返答待ちでございますね」「じゃあ、曹操……様のところが第一希望ってこと?」 呼び捨てにしようとした所で荀彧が傍らの竹簡に手を伸ばすのが見えたため、慌てて様を付け足す。間に合ったか……と質問が終わったところで一刀は荀彧を見やったが、彼女はこちらに聞こえるように舌打ちをすると、竹簡から手を離した。 曹操を呼び捨てはNG、と一刀は心の中に強く刻んだ。「ええ。先ごろまでお嬢様は冀州の袁紹様のところに仕官なさっておいでだったのですが、その方が、その……あまり聡明な方ではなかったようで……」「はっきりと愚物と言っていいわよ、あんな奴」 書からは視線を上げずに、荀彧が吐き捨てるように呟く。こちらの会話に割り込んでくるとは、よほど袁紹とやらに思うところがあったのだろう。自分と相対する時ほどではないものの、書を読み進める荀彧の顔には、はっきりとした苛立ちが見てとれた。 荀彧が女性である以上袁紹も女性であると思うのだが…… 男以外にも、荀彧が嫌う物があるようだった。「ところで北郷様は書庫へどういったご用件で?」「記憶を取り戻す助けになればと思ってね。とりあえずこの国の民話とか説話を集めた物を読んでみようと思ってきたんだけど」「それでしたら、私がいくつか見繕って参りましょう」 少々お待ちください、と宋正が席を立ち、書庫の中に消える。扉の外に侍女が二人、書庫の中には一刀についてきた侍女が一人待機している。決して二人きりという訳ではなかったが、荀彧と出会った時以来の思いがけない状況に、一刀の心は躍った。 聞いてみたいことは山ほどあったが、椅子をこちらから九十度横に向けて、視線を合わせようとしない荀彧からは、話しかけるな、というオーラがこれ見よがしに漂ってきていた。 それをおして声をかけようと思うほど、一刀もチャレンジャーではない。出て行け! と言われないだけマシなのだと思うことにして、静かに宋正が書を持ってきてくれるのを待った。「お待たせいたしました。とりあえずこれらなどいかがでしょうか」 宋正が腕に抱えて持ってきたのは竹簡だった。編まれたものが三つ。それを一刀の前に置くと、定位置である荀彧の傍らに戻る。「国内でも有名な民話、説話を集めた物をお持ちしました。ただ、こういった類の書物はあまり当家の書庫にも数がございませんので、これ以外にご入用の際は侍女に声をおかけくださいませ」「これだけ書があったらそういう話もありそうなものだけど、ないの?」「書庫に来てまでそんな物読もうなんて考えるのは、頭に精液の詰まってるあんただけよ」 書から視線を上げぬままに、荀彧が吐き捨てるように呟く。出会って一日なのにそれをいつも通りと思ってしまう辺り、この環境にも慣れているのだな……と感慨深い物を感じながら、一刀は書物に視線を落として――その動きを完全に止めた。「どうかなさいましたか? 北郷様」 不自然に動きの止まった一刀を、宋正が不安そうに見つめてくる。書物を読み始めて動きを止めたのだから、それに原因があると考えるのが普通である。書物を持ってきたのは宋正だ。何か不手際があったのかと近寄ってくるが、一刀は書から視線を上げなかった。 書物には、文字が書いてある。文字だけで挿絵などはない。三国志の世界なのだから、用いられているのは当然漢字であるのだが、そこには漢字『しか』なかった。ひらがなは愚か、レ点も何もない完全な白文である。古文の授業ですら中々お目にかかれないような物が、一刀の眼前に当たり前のように鎮座していた。 国語の成績は並でしかなかった一刀に、補助なしの白文など読めるはずもない。言葉が通じるということで油断していた。世の中それほど甘くないらしい。 さて……字が読めないということを、一体どうやって伝えたものだろうか。正直に告白するのが一番良いのだろうが、持ってきてくれと頼んだ手前、自分から告白するのは恥ずかし過ぎるが、読めないということをいつまでも隠し通せるはずもない。 読んでるふりで誤魔化すのにも限界があるし、何より死ぬほど空しい。加えて情報収集しようと言うのに文字も読めない状況が続くのも不味かった。 聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥、という言葉もある。恥をかかねばならない時というのは、年端もいかない一刀の身にも確かにあるのだった。一刀は意を決して宋正を見つめ、「どうも俺は、字が読めないようです……」 身を切るような一刀の告白は流石に想定外のことであったらしく、宋正は呆然と一刀を見返した。隠していたエロ本を母親に暴かれた時のような気まずさを一刀が味わうなか、救世主のごとく現れたのは荀彧の心の底から他人を見下したような、冷たい声だった。「あんた、死になさいよ」「いやはや、面目次第もない……」「孕ませ男のくせにあれこれ偉そうなことを言っておきながら、文字も読めない? はっ、とんだ間抜けもいたものね。言って見なさいよ、生まれてきてごめんなさいって」「文若様、何もそこまでおっしゃらなくても」「智の一族たる荀家の屋敷に、文字も読めないような男が入ったのは初めてでしょうね。一族に名を連ねるものとして、恥ずかしいったらないわ」「おっしゃる通りです、はい」 体を小さくしながら、荀彧の文句というか罵詈雑言を受け止めつつ、一刀は助けを求めるように宋正に視線を送った。こちらの弱みを得た荀彧は、ちょっとやそっとのことでは止まりそうにもない。これを止めるには宋正の力が必要だったが、彼女の力を持ってしても、荀彧のマシンガントークに割ってはいるのは至難の業のようだった。 興奮で高潮した荀彧の頬を見ながら、一刀はこれからの自分について考える。 文字を読めないという弱点は、早急に克服しなければならない。 そしてそれは荀家にいられる間にやる必要がある。荀昆はいつまで滞在しても良いと言ってくれたが、そんな社交辞令を本気にするほど一刀もアホではない。精々荀彧がこの屋敷にいる間、滞在できるのはそれが限界だろう。 既に曹操に連絡は送ったというから、どんなに滞在を引き伸ばしてもその返事がくるまでが一刀のタイムリミットだ。 それまでにこの世界で生きていく方法をある程度は身につけないと、何も出来ないまま死ぬ可能性が非常に高くなる。 そうならないためにはこの荀家で、習得できるだけの技術を習得しておかなければならない。法律、軍事に経済、それと荒事をある程度解決できるくらいの武力である。剣の腕には聊か自信のある一刀だったが、それもこの世界ではどれだけ役に立つか解らない。 今の一刀には知らなければならないことが多すぎるのだ。荀彧の罵詈雑言を聞くのも、それはそれで楽しみであったが、時間を無駄にはできない。「文若様、北郷様も反省しておられるようですし、もうその辺で」「……まだ言い足りないけど、功淑がそこまで言うなら」 宋正の忠言、その効果は抜群だった。興奮はまだ冷めていないようだが、荀彧は宋正の言葉を受けて椅子に座り直した。 しかし、そのまま書に視線を戻すようなことはせず、その釣りあがった視線は一刀に向いたままである。殺気の篭った視線が、改めて一刀を貫いた。「で、どうすんのよこれから」「どうするって言うと、どういうことだろう」「精液男は本当に察しが悪いわね! 文字を読めるようにするのかってことでしょう!? うちに逗留するのに、まさかそのままでいるつもりなのあんたは!!」「いやいや、滅相もない」 文字が読めようと読めまいと、逗留させる側には何も不都合はないと思うのだが、名誉や格式のことを持ち出されると庶民の一刀は弱い。顔を真っ赤にして怒鳴る荀彧に、平身低頭。とにかく頭を下げてやり過ごす。「――アホに助けられたなんて、あたしの沽券に関わるのよ。ここにいる間に、あんたには学問を修めてもらうわ。言っておくけど、拒否は許さないわよ? 嫌だなんて一言でも言ったら、股間の汚らしい物をそぎ落として口に詰め込んで、往来に放り出してやるから」「荀彧様の仰せの通りに」 必要以上にぺこぺこする、というのは荀彧的には正解だったらしく、気を良くした様子の荀彧はない胸を逸らして、大きく息をついた。そのまま視線を彷徨わせ、「功淑、あんたこの精液男に教育を頼めるかしら」「私が、でございますか?」「あんた、この孕ませ男の世話係なんでしょう? その間、椅子に縛り付けてでも勉強させてやりなさい。私が曹操様の所に行くまでの間に、読み書きはもちろん、せめて初歩の学問くらいは理解させておきなさい」「いや、そんなハイペースはちょっと――」「言い訳は聞かないわ。私の言うことには『はい、喜んで』とだけ答えなさい。一週間後に成果を確認しにくるけど、その時までに書が読めるようになっていなかったら、屋敷から叩き出すからね、覚えておきなさい」「……はい、喜んで」 よろしい、と荀彧は鼻を鳴らし、書に視線を落とした。話は終わりということらしい。 一刀は持ってきてもらった書を抱えたまま、たったいま教師の役を拝命したばかりの宋正に視線を送った。いきなり仕事を増やされた形になる彼女は、しかし嫌な顔を一つせずに微笑むと、荀彧に断りを入れ、一刀を促した。 宋正に伴われて書庫を出ると、待機していた侍女からご武運を、と声をかけられた。礼を言うと微笑みを返され、手まで振ってくれる。割合的に女性からかけられる言葉のほとんどが罵詈雑言で占められていただけに、そんな普通の対応が涙が出そうになるほど嬉しい一刀だった。「申し訳ありません。北郷様はお客様ですのに……」「いえ。文字を学ばなければ、というのは俺も思っていたことです。むしろ機会を作ってくれた荀彧には感謝していますよ」「そう言っていただけると助かりますわ」「ついでと言っては何ですけど、剣の指導とかもお願いできませんか?」「奥様に許可を得た後ならば。でも、北郷様がお望みなら奥様も許可をお出しにならないということはありませんでしょう。折角ですし主人には私から話をつけて参りますわ」「宋正さんのご主人っていうのは、この屋敷でなにを?」「この屋敷の警備の責任者を務めてますの。この時間ですと、中庭で部下に指示を出していたはずですが、おみかけになりませんでしたか?」 見た! と思わず叫びそうになった一刀は、慌てて自分の口を塞いだ。その脳裏浮かぶのは書庫に行く前に見かけた男性である。 あれが、宋正の旦那様? そういう知識を持って改めて考えると、見かけただけの人物も特別な人のように思えてくるから不思議だった。 その男性、警備の責任者というからにはそれなりの年なのだろう。一刀の目から見ての話ではあるが、どんなに少なく見積もっても自分と一周り半は離れているように思えた。実直で真面目そうな印象も受けたが、それはこの際どうでも良い。 問題はその男性が、眼前にいる自分と同じくらいの年頃の少女の夫で、その間には子供までいるということだった。年の差カップルにも程があるだろう、というのが正直な感想である。 随分間抜けな顔をしていたのだろう。宋正がこちらの顔を見て噴出すのを見て、一刀は視線を逸らした。歩きながらだったので、既に今朝、男性を見かけた中庭が見える位置まで差し掛かっている。 そこにあの男性がいれば、と期待を込めて視線を巡らせるがそこに人の姿はなく、庭師の手によって見事に整えられた庭園があるばかりだった。「警備も鍛錬はしますし、声をかければそれに混ぜてももらえるでしょう」「ありがとうございます。と言っても、ついていけるか心配ですが……」「加減するように伝えておきますわ」 くすり、と笑う宋正は、一刀の抱えた書を一つ摘み上げて、微笑んだ。「さぁ、まずは北郷様の子孫繁栄を守るために、読み書きの勉強をしましょうか。文若お嬢様の区切られた期間は一週間。あまり時間はありませんよ?」