「…………」 打つ手がないというのは、こういう時のことを言うのだろう。 戦略戦術の訓練にも使われるという軍師御用達のボードゲームを前に、一刀は無言を貫いていた。盤上を隅々まで見渡しても、まるで打つ手が見えない。決してこの時点で詰んでいる訳ではないのに、勝つ自分というのが全く見えないのだ。 盤上を見るふりをしたまま、対戦相手の少女を見る。ふわふわの金髪をした少女で、名前を程昱、字を仲徳と言った。以前は程立と名乗っていたのだが、ある日突然『お日様を持ち上げる夢を見ましたー』と言い出し、その日のうちに改名した逸話を持つ、少々風変わりな少女である。 黙って座っていればお人形のように愛らしい少女の顔には、ふふふーと得意げな笑みが浮かんでいる。自分の勝ちを確信し、かつ、こちらが苦心しているのを楽しみにしている顔だ。普通ならば小憎らしく思うようなその仕草も、仲徳がやると絵になる。 何も考えずに仲徳の姿を眺めていたら、それはそれで幸せな気分になれたのだろうけれども、状況が一刀にそれを許してくれなかった。次に打つべき手を考えて五分ほど。いくら気の長い仲徳でもこれ以上待ってはくれないだろう。 一刀は大きく息を吐いた。「……参りました」「まだ打つ手はあるはずですけど?」「速くて五手、遅くても十手で詰みになるだろ。仲徳がこういう所で手を抜くとも思えないし、もう俺の負けさ」「それに気づくのに随分時間がかかりましたね、お兄さん」「気づけただけでも進歩だと思うんだけどなぁ……」 今までの人生の中で、これほど先の物事を考えたことのなかった一刀には、ボードゲームの手を考えるだけでも相当な集中力を要した。こちらの世界に来る前だったらそれこそ考えることもしなかっただろうことを考えると相当な進歩だと思うのだが、超一流の軍師であり、一刀の教育係でもある仲徳達は、そう考えてはくれないようだった。 曰く、それくらい出来て当たり前なのだという。「まぁ、段々持ちこたえられるようになってきてるみたいですし、腕は上がってるみたいですね」「毎日これだけ扱かれて進歩がないようだったら、もう人生諦めるしかないな」 ははは、と意識して笑い声を上げると、仲徳もそれに続いて微笑んだ。どういう意味の微笑みだったのかは、ちょっと怖くて聞けない。 いずれにしても、これで盤上での訓練は終わりである。挑戦者の義務として駒とボードを片付けると、仲徳の履物を用意する。高志宅の縁側を借りての講義であったため、持ち主である高志とその妻に礼を言って辞し、村の外へと向かう。 盗賊に襲われて以来、村は変わった。村の自警団が盗賊を撃退したということで、あの村は安全という噂が広まり、流浪していた民がいくらか定住することになり人口が増えた。今では村の人口も三百人に届こうとしている。 それに付随して、自警団の人数も増えた。流入してきたのはどちらかと言えば非戦闘員の方が多かったものの、それでも力仕事や自警団の仕事ができる人間が皆無だった訳ではない。昨今の国の対応を見て、奴らは当てにならないということを経験で理解している彼らは、自警団参加の誘いに、是非にと言ってくれた。 加えて、三人の軍師の存在がある。 多少軍務経験者がいるだけで、村の自警団は素人の集まりだ。それが普通以上に戦えているのは、普段どう訓練し、有事の際にはどう動くか、それを考えてくれる人間の存在が大きい。彼女ら三人がいるだけで、素人の集団は余計なことを考えることもなく、強くなることに専念することができた。 今となっては、下手な官軍よりも強力とすら言えるだろう。装備が貧弱なことが難点ではあるが、スポンサーのいない民兵としては最高水準であると言っても良い。「今日はどっちが勝つかな」「十中八九稟ちゃんでしょうねー」 仲徳の答えには淀みがない。稟――戯志才改め、郭嘉の真名である――が勝つということを微塵も疑っていない様子だった。 これを聞いた一刀は思わず苦笑を浮かべる。自分も、同じ答えを考えていたからだ。「奉孝は手加減しないからなぁ」 軍略や政治について毎日講義を受けているが、説明したことを理解できない時や設問を間違えた時などは、容赦のない厳しい言葉が飛んでくるのだ。学校には所謂怖い先生というのが一人二人はいたものだが、その誰よりも奉孝は厳しい。 しかし、その教育を悪いものだと一刀は思わなかった。厳しい先生というのは往々にして学生から避けられるものだが、自分のために身を砕いてくれていることが心の底から理解できると、その厳しい言葉も悪くないもののように思えるのである。 罵倒されるのは荀家で慣れていた、というのもあるかもしれない。蹴りや平手が飛んでこないだけ、奉孝の指導は優しいとも言える。その代わり淡々と厳しい言葉を投げかけてくるのだが……どちらが良いかというのは、好みの問題だろう。 一刀自身は、どちらもどんとこいというスタンスである。自分は精神的マゾなのかも、と疑う一瞬だった。「見えてきた……あぁ、やっぱり奉孝の方が勝ったみたいだな」「風の言った通りでしたねー」 世間話をしながら村を囲う柵の外――村に程違い広場が視界に入るようになると、そこに人垣があるのが見えた。粗末でも手入れの行き届いた鎧を纏った集団――自警団の面々である。 人垣は何かを囲むようにしている。事前に聞いた今日の訓練の内容を加味するに、彼ら彼女らが今日、奉孝の指示で動いていた面々のはずだ。 つまり、勝ったのは奉孝ということになる。仲徳の予想通りだった。「いらっしゃいましたか、一刀殿」 人垣が割れて中から出てきたのは奉孝だ。固い表情の上にメガネをかけた顔が無表情なのはいつものことだが、目じりが僅かに下がっていることから少し得意になっていることが解る。「良い勝負だったみたいだな」「ええ。実に充実した時間でした」 奉孝的には大満足の時間だったようだ。反面、相手になった彼女にとってはどうだったのだろうか……想像するだけでかわいそうに思えてしまうのは、彼女の人格のなせる業だろう。奉孝には口が割けてもいえないことだ。 心中を見抜かれては面倒だ。奉孝に顔が見えないようにしながら、人垣の中に踏み込んでいく。お疲れ様です、と声をかけてくる団員に手を振りながら、中央へ。「ごめんなさい、私のせいで!」 汗に塗れてぶっ倒れている子義の隣で、先のまがったトンガリ帽子を被った少女が必死に声をあげている。精も根も尽き果てた様子の子義は首をあげるのも億劫なようで、目線だけを少女に向けていたが、一刀がやってくるのが分かるとぐぐぐ、と首をあげて、パタリと落とした。「随分こっぴどくやられたみたいだな……」「いけると思ったんですけどねー。いつの間にか包囲されてぼこぼこに」「あわわ、子義さんは良くやってくれました。負けたのは私の采配が悪かったせいです」「そんなことありません!」「先生は悪くないっす!」「俺たちがヘボなばっかりに!!」「先生にご迷惑を!!!」」 と声をあげたのは子義ではなくさらにその周囲で倒れていた団員達だった。子義と同じように五体倒置していた彼ら彼女らは倒れた子義を踏みつけながらとんがり帽子の少女を囲む。 あわわ、という声を最後に見えなくなる少女。その一瞬の後には胴上げされて宙を舞っていた。励ましの言葉は途切れることなく続いている。少女が皆に愛されているという証拠だ。「愛されてるのがよく解る光景だなこれは…」「ああいう愛され方が好みなら、お兄さんも頼んでみては」「いやぁ、俺は普通が良いかな。俺を胴上げするのは皆、疲れるだろうし」 年端も行かない少女があわあわ言いながら宙を舞っているのが楽しいのである。男子高校生が同じことをされていても、誰も喜んだりはしないだろう。「最初はあの性格でどうなるものかと思ったものだけど、随分馴染んでるよな」「特にご婦人とご老人への受けが良いようですね。喜ばしいことです」 逆にその層にはあまり受けが良くない奉孝が言うと説得力もある。それを羨ましいと思う様子があればまだ可愛げもあるが、そんな様子は微塵も見受けられなかった。信頼されていることと、受けが良いというのはまた別の話である。奉孝はきちんと、村の人間から信頼を勝ち得ていた。 だが、奉孝も仲徳も信頼されてはいるが、少女ほどに愛されてはいない。見た目、雰囲気、性格、他人に好かれる愛される要素は色々とあるが、少女はその全てを兼ね備えているように思えた。それらは努力してどうこうなる問題でもない。 少女が愛されるのは、もはや天賦の物と言えるだろう。 少女の名前は鳳統、字を士元と言った。かの有名な――どの程度有名なのか、一刀はイマイチ理解できていないのだが――水鏡女学院の卒業生で灯里の後輩である。ランドセルを背負っていても違和感のなさそうな仲徳よりも小さい容姿であるが、これでも鳳雛という大層なあだ名で呼ばれる一角の軍師である……そうだ。 その士元が灯里に連れられてこの村にやってきて、半年が過ぎようとしている。見た目通り小動物のような士元は多分に人見知りをする性質らしく、最初は誰と会話するのにも苦労していた。 救いだったのは、その性分を士元本人が理解し克服しようとしていたところだ。一刀を始め村の人間は少しずつお互いのことを理解してゆき、そうして士元は感極まった自警団員に胴上げされる程の信頼関係を築くに至ったのである。 奉孝など最初ははっきり物を言わない士元にイライラしている所もあったが、彼女の力量を理解した今では、自警団員を使った模擬戦の相手に好んで指名していた。指揮能力については士元の口下手なところもあってか奉孝に分があるようだが、勝敗表を見る限り、奉孝が七、士元が三ほどの割合で星は推移している。 村内には奉孝の方が圧倒的に指揮が冴えているという印象が広まっているが、数字の上ではそれほど差がある訳ではないように一刀には思えた。意思伝達をもう少しきっちりと出きるようになれば、数字はもう少し拮抗するようになるだろう。「結局今日はどんな模擬戦をしたんだ?」「士元が率いたのが子義を中心とした自警団の若手精鋭十名。私がそれ以外の全員です」「随分ハンデつけたなぁ……それでどれだけ勝負ができたんだ?」「半刻(三十分)ほどでしょうか。本当は直ぐに包囲して勝負を決めるつもりだったのですが、あの少数を良く使っていました」「でも、奉孝が勝ったんだろ?」「これだけ貴殿の言う『はんで』をつけたのですから、私が勝つのは当たり前です。ここまで粘った士元こそが素晴らしい」「で、なんでまたこんな勝負を?」「劣勢の時にどういう指揮をするのか、見てみたかったのですよ。落ち着いて対応できるかどうか、把握しておいて損はないでしょう?」「眼鏡にかなったと見て良いのかな」「申し分ありません。こと戦術に関する限り、士元は天才です。学んだ時間が同じであれば、彼女は私の先を行っていたことでしょう」「奉孝が手放しで褒めるなんて珍しいな」 それだけ士元が凄いということでもある。ここまで、というか明確に褒められた覚えのほとんどない一刀には羨ましい限りだ。「貴殿も、士元に負けないくらい研鑽を怠らないでもらいたいものです」「いつか奉孝に満足してもらえるように頑張るよ」 稀代の軍師殿が満足するのがどの程度なのか……想像すると気分が参るばかりである。 そうこうしている内に胴上げ組も飽きたようで、目を回した士元を地面に降ろし、汗塗れの身体を拭くために水場へと移動していった。奉孝が指揮していた面々は、既に移動している。この場に残っているのは遅れてきた一刀と仲徳、指揮をしていた奉孝に士元、それにまだ動くのが面倒くさいらしい子義の五人だった。「士元、お疲れ様。大変だったみたいだな」「あわわ……」 とんがり帽子の上から頭を撫でると、士元は顔を真っ赤に染めた。真っ直ぐな反応が実に良い。奉孝も仲徳も美少女には違いないが、こういうことをしても奉孝は冷めた目線で、仲徳は何を考えているのか良く解らない瞳でこちらを見返すばかりで実に有り難味がない。「子義も大活躍だったみたいだな」「十人くらいは叩きのめしたはずなんですが、気づいたら袋叩きにされてました。俺もまだまだ修行が足りません」「十人も倒せるなら大したもんだよ」 自警団の面々も毎日鍛錬をしているだけあって、ヘボではない。それを十人も倒せるというのは一重に子義の非凡さを現していた。一刀でも最高に調子が良くて五人が限界だ。子義は現状の自警団では文句なしに最強の使い手である。「次は人数を更に減らしてみますか。一刀殿の指揮でどこまでやれるか」「さらに減らすとなったら五六人だろ? それじゃあもう鍛錬じゃなくて鬼ごっこだよ」 一刀が苦笑と共に言うと、奉孝は解っていますよ、とにこりともせずに言った。彼女なりの冗談だったのは一刀にも解ったのだが、冗談を本気で実行しかねない所が彼女にはある。十倍以上の人間に追い回されるなど、正気の沙汰ではない。 自分が追いまくられるところを想像して、一刀は身震いする。 しばらくは奉孝を怒らせるのは止めよう。一刀はそう心に誓った。「さて、鍛錬も終わったことだし食事にしようか。良ければ皆でどうだ?」 残った面々を見渡して、呟く。最初の頃は子義の家に世話になっていたが、今は一応一刀にも自分の家――小屋が存在していた。村民が増えた際に小屋を幾つか建てる必要に迫られ、どうせだからと自分の分も一緒に建てたのだ。 世帯ではなく一人で暮らしているため他の小屋よりも幾分狭いが、少人数が集まって食事をする分には問題はない。奉孝や仲徳を誘って食事をするのも、週に一度くらいの割合で行っている。女性を部屋に呼んだ回数は、この村で過ごした期間だけで、それまでの人生のトータルをあっさりと越えていた。男女関係に限定して言えばこちらの世界に来てからの方が充実しているかもしれない。 これでそれなりの関係になっているのならば文句はないものの、手を握ったりすることもない。実に健全な関係だった。「良いですね。今日は本腰を入れて貴殿に説法でもしようと思っていたところです。風も士元もどうですか?」「稟ちゃんが行くなら風もご一緒しますよー」「わ、私もです」「子義は――」 と一の子分である子義に話を振るが、先ほどまで動くのも億劫そうだった子義の姿はどこにもなかった。何時の間に消えたのかも解らなかった。三人の軍師に目を向けるが、全員揃って首を横に振っている。 誰に気づかれることもなく消えたらしい。難しい話が始まる気配を察したからだろう。ただ食事をするだけならば子義だって喜んでついてきたはずなのだが、相変わらず難しい話に対する嗅覚と逃げ足の速さには並外れている。「まぁ、あいつは今回はいいか。じゃあ今晩はこの四人で――」「お兄さん、どうやらお客さんみたいですよ」 と、移動しようとした矢先、仲徳によってその行動を遮られた。彼女の視線を追う。村をぐるりと囲うように張り巡らされた柵。入り口として設定された場所の向こうから、馬がやってくるのが見えた。 かなり急いでいるようで、土煙の高さが並ではない。一刀達以外にも気づいた村人が何事かと武器を持って寄って来るが、仲徳が何でもないと手を振ると三々五々散っていく。「アレは敵だったりしないのか」「いくらなんでもこんな村に単騎で来たりはしないでしょう。伝令係のように見えますが、誰か急ぎの文の遣り取りでもしているのですか?」 仲徳も士元も首を横に振る。当然、一刀にも覚えはない。荀家のように村の外にも 知りあいはいるが、ここまで急ぎで文を出すような間柄の人間には覚えがなかった。村の誰かに用があるのだとすれば奉孝か仲徳だと思うのだが、彼女らにも覚えはないと言う。 何か良くないことでもあるかもしれない。一刀の心に不安が首を擡げる。 やがて、早馬は村の中に入ってきた。農道を行き、村人達の視線を集めながら騎上の人間はぐるりと周囲を見回し、こちらに目を留めた。 それから真っ直ぐに馬を走らせ、こちらに向かってくる。「俺たちの誰かに用があるみたいだぞ」「荒事になったら一刀殿、対応をお願いします」「まぁそうなるよなぁ……」 そこそこに腕の立つ奉孝はともかく、残りの二人は剣を持ったらそのまま倒れてしまいそうなほどに身体が細い。戦わせるなどもってのほかだ。彼女らのために戦うことに一刀も否やはないが、騎上の人間は軽鎧の上に布を纏って帯剣までしている。その装いは旅なれた……もっと言うならば戦い慣れていそうな人間のそれで、ちょっとやそっとでは太刀打ちできなさそうな気配を感じさせた。少なくとも自分よりは強いと判断する。子義がこの場にいないのが悔やまれた。 馬が一刀達の前で止まる。ひらりと降りてきた人間は、迷わず一刀の前に立った。やはりお前か、とでも言いたげな視線が三軍師から集まるが、ここまで来ても一刀に覚えはない。「俺は北郷一刀。相手を間違えてないか?」「いいえ。北郷一刀殿であるのならば間違いはありません。徐先生より文をお預かりして参りました。お納めください」 声が予想していたよりも高く、女性のものだと知れた。砂塵避けのための覆いを外さないために顔の全体を見ることはできないが黒い髪に黒い瞳と、金髪美少女の仲徳に比べると東洋人然とした容貌をしていた。 差し出された二つの竹簡を手に取ると、女性はひらりと馬上に戻る。少しだけずれた覆いをキツく巻きなおすと、馬上で村を見渡した。「それでは私はこれにて」「お茶くらい出すよ」「ゆっくりしたいのは山々なのですが、これから水鏡女学院にも行かねばなりません。とにかく急げと、徐先生にも言われておりますので」「灯里は今どこに?」「私が最後にお会いしたのは、洛陽の手前でした。これから洛陽を見て周り、それから涼州へ向かうとのことです」「わかった。灯里にはよろしく伝えてくれ」「了解しました。北郷殿も、ご武運を」 拳礼をすると、女性は馬を飛ばして去っていった。土煙が消えるのを待ってから一刀は竹簡に視線を落とす。灯里から急ぎで渡された代物。それがお互いの近況を知らせるだけのものであるはずがない。 軍師たちから視線が集まる。聡い彼女達は、一刀以上に事の重要さが解っているようだった。「とりあえず、何か腹に入れようか。話はそれからだ」 「結託し、菫卓を討つべしねぇ……」 食事を手早く済ませて全員が竹簡に目を通す。二つあった竹簡は全て灯里の直筆で、一つは彼女個人の思惑が書かれたもの、もう一つは既存の文章の写しだった。 一刀の立場からすれば、ついにきたかという思いがある。三国志前半の山場。反菫卓連合軍の結成だ。そういうことがあった、程度の知識しかない一刀に、書面はより具体的な情報を与えてくれる。 集合する場所、時期、洛陽の状況と自分たちの正当性。一刀の世界の史実と同じ物であるのか定かではないものの、現物を目の前にしてみるとどうにも主観的過ぎるように思えた。「菫卓ってのはどんな人?」「姿を見たという話は聞きませんね。涼州出身の幹部が警護しているため、上級の役人でも姿を見ることはできないようです。ただ、側近である賈詡を始め有能な軍師を多数抱え、呂布や張遼など一騎当千の武将を配下に従えていることから、君主としての評価は決して悪い物ではないかと思います」「それなのに皆でよってたかって攻撃するのか?」「宦官の専横を止めることができなかったのが大きな要因でしょう。彼らの行いのせいで洛陽が乱れていたのは事実。それを止めたのも菫卓ですが、止めるのが遅すぎたようですね」「対応が後手になっただけだろ? それで袋叩きにしようぜって提案に皆が賛成するのか?」「大義名分に人は弱いのですよ。回復に向かっているとは言え、洛陽が乱れていることに変わりはなく、また菫卓一人が大きな権力を持っているのは揺ぎ無い事実。名家の人間である袁紹他、今の時代力を欲する者は掃いて捨てるほどいますから、多くの人間は渡りに船と参集することでしょう」「やだなぁ、何かそういうの」 個人の感想としてはそうだが、落ち着いて考えてみると諸侯がそういう反応をするのも解らない訳ではない。出世の機会が悪く言えば暴力的に訪れるこの時代では、これが普通のことなのだろう。そのせいで多くの人が死ぬが、それも時代なのだ。「で、おにーさんはどうするんですか?」「参加……せざるを得ないだろうな、今の状況では」 戦に参加するなど幾ら命があっても足りない。頭脳も武力も自分には欠けていることを十分に実感している一刀は、正直戦などには係わり合いになりたくないのだ。 だが、参加するつもりの何人かが、一刀も参加することを望んでいる。それを断れるような雰囲気ではないし、また、一刀自身も応えてあげたいと思う。自警団を組織して、彼ら彼女らを色々とやる気にさせてしまったのは一刀だ。その責任くらいは、取らないといけない。「参加するならば、私たちも知恵をお貸ししましょう」「感謝するよ。でも、いいのか? 奉孝たちなら、それこそいくらでも働き口があるだろ?」 今の三人は知る由もないだろうが、彼女らは本来、仕える主が決まっている。その何れも三国志の世界では超のつく有名人だ。間違っても凡百の北郷一刀と比較も出来ないくらいの彼女らに仕える機会を棒に振ってまで、付き合うメリットがあるはずもない。 断るならば今だ。一刀の問いにはそんな思いが込められていたのだが、奉孝は何を今更、とにこりともせずに言ってのけた。「貴殿を見限るつもりならば、もっと早くにやっています」「それもそうだ……」「愛想が尽きたらそう言いますから、私達からそういうまで、貴殿は何も心配をする必要はありません。留意しておいてください」「助かるよ。もう、俺からこんな質問はしない」「結構です。では、連合に連れて行く人選ですが……士元、どう見ますか?」「自警団九十一名の中から、若い方を中心に上位十名が妥当なところだと思います。これから戦で治安も乱れるでしょうから、村にも自警団は必要です。それに、徴兵された時のことも考えなければなりませんから、村に人は残さざるをえません」「そんなところでしょうね。十名という数字は参集する諸侯が集める兵の数を考えると寂しい限りではありますが……」「その辺りはお兄さんに何とかしてもらいましょう」「俺は兵の出てくる魔法の壷なんて持ってないぞ」「私達も貴殿に面妖な力があるとは思っていません。貴殿に使っていただくのは口です。諸侯に合流するまでの間、共に戦う人間を言葉で勧誘してもらいます」「何でそんなことを……」 既に決まっていることをすらすらと読み上げるような奉孝の調子とは逆に、一刀の声は僅かに掠れている。一緒に戦おう、と言葉にすれば簡単だが、口にするのは難しい。第一、何を言って誘えば良いのか全く思いつかない。「何事にもはったりというのは重要です。十名が百名になった所で万の兵を指揮する諸侯には誤差も良いところでしょうが、何事も少ないよりは多い方が良い。それに、人を前に何かを話すというのは中々あることではありませんからね。将来のことを考えれば、練習をしておいて損はないでしょう」「俺の将来設計まで考えてくれるのはありがたいけどさ、それで兵が集まると思うか?」「そんな弱腰ではいけませんよ。貴殿の仕事は、兵を集めることです。必ずやる、そういう気持ちで臨んでください」「……努力はするよ」 そう答えるのが精一杯だった。疲れた顔をしている一刀に、士元ががんばってください、と小さく囁く。素直な励ましが実にありがたい。とんがり帽子越しに頭を撫でると、あわ、と声をあげるのも面白い。「そんなお兄さんにはお仕置きですよー」 調子に乗って士元の頭をぐりぐりやっていると、口に飴が突っ込まれる。適当に狙ったのか思い切り前歯に当たり、地味に痛い。いつも舐めている飴をぐりぐりと口中に押し込む仲徳の瞳はいつも通りに平坦な感情を映し出していたが、微妙に機嫌が悪いようにも見える。 いつも以上につかみ所のない表情をした仲徳に、一刀は何と返して良いものか解らず、とりあえずといった感じで、口中の飴に歯を立てた。子供向けのチープな甘みが口の中に広がる。 これも間接キスになるのかな、などど、溶けた糖分以外の液体で濡れた飴をしゃぶりながら仲徳を見ると、彼女はもう一刀のことを見ていなかった。どこから取り出したのか新しい飴を口に咥えて、車座になった一同の中央に置かれた竹簡に視線を落としている。 自分だけ意識するのもバカらしいな、と思いなおした一刀も、竹簡に視線を向ける。「連れて行く人間は決まったとして、集合場所まで行くのか?」「それに何か問題があると御思いですか?」「そりゃあ……あるんじゃないかな」 奉孝の視線が教師のそれになっていることに気づいて、一刀は僅かに言い淀んだ。これは、試されている。間違った答えを言ったらいつもの冷たい視線でじっと見据えられた末、静かに罵倒されるだろう。それも正直悪くはないが、ここはできれば正解したい。 一刀は思考を巡らせ、正解を探す。「集合場所まで行くと不味いと思う。まず、有力者が集まってる中でまだ兵を集めてると思われるのは良くない。兵が欲しいのは皆同じだろうけど、この期に及んで自分の力に自信がないと思われたら名前に傷がつくから、積極的に募兵はしてないだろう」「ですが名誉のために使える兵を使わないというのも愚かな話でしょう。そうでない人間もいると思いますが?」「だろうな。だから、集合地で採用された兵は集団の盟主の預かりになると思う。盟主は多分、袁紹だろう?」「集まるだろう人間を分析する限り、十中八九彼女になるでしょうね」 奉孝の顔には苦々しい色が浮かんでいる。一刀は荀彧から袁紹は愚物であると聞いていたが、奉孝もその噂は聞いているのだろう。もしかしたら、本人に会っている可能性もある。 いずれにしても、愚物という荀彧の評価は間違ってはいないようだ。「盟主の預かりにして、集団全体の兵として運用されるだろう。そうなると、その役割は死兵だ。特別危険なところに配置されて、死ぬことが前提に運用される。これはとても良くない。特に、俺たちのように弱小勢力だったら尚更な」「では、貴殿はどうするのが良いと思うのですか?」「集合場所が駄目なら、そこに着く前の諸侯を捕まえるしかない。問題は誰を捕まえるかってことだけど……」 ここで一刀は言葉を切った。案を出したのは良いが、誰がどの程度有力なのか、一刀の頭には入っていない。政治や軍学についての講義を受けてはいても、現在の情勢についてまでは頭が回っていないのだ。 ここまで答えれば少なくとも及第点は貰えるはず。一刀が奉孝を見る目には、縋るような色が込められていた。雨の中で濡れる子犬のよう……であったのかは定かではないが、一刀の祈りが通じたらしい奉孝は、大きく溜息をついて『まぁ、いいでしょう……』と小さく答えた。「誰を頼るかというのは重要な問題ですが、集まるであろう面々を考えると自ずと答えは見えてきます。まず袁紹、袁術です。兵力、財力と申し分のない存在ですが、彼女らにあるのはそれだけです。平民の兵など使い捨てられるのがオチでしょう。身を寄せても良いことはありません。それは私が保証します」「それは頼もしい」「続いて北の公孫瓉に、西の馬家ですが彼女らの主力は騎馬兵で、我々が入る隙はありません。歩兵も必要とされはするでしょうが、腕に自信がなければ騎馬の活躍に埋没してしまうでしょう。より活躍をしようと思うなら、避けるべきです」「なら曹操か?」 その名を口にした一刀の脳裏に浮かぶのは、以前世話になった荀彧だった。曹操の所に仕官したというが、彼女のことがあっという間に出世して重要な位置にいることだろう。同じ陣営に属することがあれば、会う機会もあるかもしれない。自分から曹操の名前を口にしたのは、そういう期待もあってのことだった。「傑物との誉れ高く、厳しくも公正であると聞いています。私個人の好みからしても、曹操殿の所に身を寄せるのに否やはないのですが……」 珍しく、奉孝は言い難そうに言葉を切ったが、それも一瞬の間だった。小さく咳払いを一つして言葉を続ける。「曹操殿の兵は既に精強であると聞きます。我々が今更行ったところで入り込む余地はないでしょう」「それじゃあ俺達が向かうのは……」「孫策殿の軍、ということになりますね。袁術に頭を押さえつけられているせいで兵力が不足しており、気風からして民兵であったとしても悪質な差別を受けたりはしないでしょう。集合場所以前に合流するというのも、位置関係から問題ありません」「なら、その方向で行こう。いつ出発する?」「早い方が良いでしょう。早急に荷物を纏めて、一両日中には出発です」「了解。それじゃあ早速皆に伝えてくるよ」「明日でも良いのではありませんか?」「早い方が良いだろ? 子義とかまだかまだかって言い続けてたくらいだし、準備はしてたにしてもいざとなると時間もかかる」「解りました。では、士元、一刀殿に着いて行ってもらえますか?」「わ、私がですか」「全員で行くのも騒々しいですからね。それに私や風が行くよりも、貴殿が行った方が受けも良いはずです」 沈黙が部屋に訪れた。これが笑い所なのかどうか、一刀には判断がつかない。士元も難しい顔でうー、と唸り一刀を見上げている。「じゃあ、士元と一緒に行ってくるよ。奉孝達はこれからどうする?」「一度小屋に戻ります。風と意見を詰めておきますので、何かあるようだったら遠慮なくいらしてください」「了解。それじゃあまたな」 士元の手を引いて、一刀は小屋を出る。最初に向かうのは村長高志の家だ。前から伝わっていたと言っても、自警団員が減るということは村の安全にも関わる話である。まずは彼に話を通さなければならないだろう。「一刀さん、難しい顔してます」「いよいよ旅立つことになるからかな。何だかんだでこの村にも長居しちゃったし、出て行きますというのは、何となく言い出しにくいんだ。そういう意味じゃ、士元がいてくれて助かったよ。おじいさんおばあさんに受けが良いもんな。頼りにしてる」「が、がんばりましゅ!」 噛んだ。うぅ……と口元を押さえて呻く士元を見て、一刀は声をあげて笑った。 「おいねーちゃん、話が違うぜどういうことだ?」 宝譿の地味に座った声に、奉孝は静かに溜息をついた。 孫策の軍に合流するということで話は纏まったが、事前に風と相談した時には曹操軍とどちらにするか、四人で話し合うということになっていた。それを勝手に話を纏めたのだから、宝譿――風と言えども一言くらいは言わなければ気が済まないはずだ。 元々、どちかに相談して決めようというのは稟が自分で発案したことだ。どちらでも良いという意見だった風はそれに追従していた形になる。どちらでも良いと主張していた以上、話が代わったところで風に損はないが、稟が自分で意見を翻したという事実は、風の興味を引くには十分だった。 風のぼんやりとした瞳の奥には、正直に理由を話すまで梃子でも動かない、という意思が見て取れた。正直に話すのは恥ずかしい話ではあるが、それなりに長い付き合いである風の追求から逃れられるとも思えない。 溜息と共に、稟はこの場で恥をかく覚悟を固めた。「曹操殿は才人を愛されると聞きます。私や風、士元も彼女と知己ではありませんが、共に仕事をすればきっと重く用いられることでしょう」「大きくでましたねー」「事実ですからね。ですが、一刀殿はそうはいきません。見所があるといっても、現状、彼はそれほど使えるという訳ではありません。いくら曹操殿と言っても、一刀殿を重く用いるということはしないでしょう」「風達が仕官する代わりに、という条件を付けることもできると思いますけど?」「臨時雇いならばまだしも、公正な曹操殿が実力不相応な地位を好んで用意するとも思えませんし、何よりそういう配慮は一刀殿のためになりません」「尤もな意見だと思いますけど、それは孫策軍でも同じことですよ。力を示せば今の時代、自分のところに仕官を勧めるのは当然のことです。曹操殿が公正で才人を求めるという要素はあるにしても、風たちからすればそんなの、大した差ではないと思います。それでも稟ちゃんが意見を変えたのは、もっと他のことが原因だと風は思うのですが……」 どうですか? と首を傾げる風に、稟は瞠目した。風にしては珍しく深く突っ込んでくる。言いたくはないのだが、言わなければならないようだ。 本当に恥をかく覚悟を固め、稟が口を開く――「まぁ、稟ちゃんも乙女ですからね」 解ってますよー、と言った顔で風が顔を逸らした。ふふふーと笑うその顔に、覚悟が肩透かしになった稟はカチンときた。「下種な勘ぐりはやめてください。私の何処が乙女だと?」「お兄さんがお世話になった軍師さんが、曹操殿の陣営にいるから遠ざけたいと思ったんですよね?」 事実そのままを言い当てられて、稟は押し黙る。 確かにその言葉だけを見れば、乙女と言われても仕方がないが、自分の中にそんな感情がないことは稟本人が良く理解している。風が期待しているような、男女の感情などあるはずがないのだ。「稟ちゃん、鼻血が出てますよ」「貴女のせいですよ!」 風は懐から布を取り出すと、なれた様子で鼻をかむように促してくる。ちーん。鼻の奥に溜まった血を残らず出し切ると、意識も幾分すっきりとした。「一刀殿の思想の行く末を見てみたいと思いました。それは貴女も同じはずです。ですが、一刀殿が自分の意思で寄る辺を決めてしまうと、彼の思想を実現することは難しくなってしまいます。曹操殿は強烈な個を持たれたお方、きっと一刀殿もそれに従ってしまうことでしょう」「だから、お兄さんが好き好き言っている人とは、なるべく接点を作りたくないということですね」「好き好き言っていた記憶はありませんが、一際興味を持っているのは事実でしょう。一刀殿の話と噂を総合する限り、例え顔を合わせることがあっても、陣営に引き込むような誘いをしてくるとは思えませんが……」 荀家に居た一月の間も、基本的に罵詈雑言を浴びせられて過ごしたという。それも悪くはなかったよ、と静かに笑う一刀に、稟は特殊な性癖でもしているのではないかと疑い一度鼻血を流したものだが、殴られたり蹴られてり罵られて性的興奮を覚えるような特殊性癖はないと判断するに至った今では、そこそこに仲の良い異性の友達くらいの認識をしている。「思えませんが、それでも誘ってくることがないとは言えません。ですから孫策殿の陣営に参加しようと思ったのです。勝手に言い出した事に関しては謝罪します」「別に良いですよ。風はどっちも良かった訳ですから」 風には本当に気にした様子はない。勝手をしたことを怒られることが心配ではあったが、そんな様子もない。それに稟は心中でそっと、安堵した。あの場で風に反対されていたら、話はもっとややこしいことになっていた。 最悪、一刀本人が曹操陣営に行きたいと言い出したかもしれない。結果、話し合いになれば稟が自分の意思を通しただろうが、自分の意見が通らなかったという事実は残る。無駄な対立がなくなったのはありがたいことだ。 話はそれで終わりと、風はそれきり何を言い出さず黙々と飴を舐める作業に戻った。風が会話を切り出してくる様子はなく、沈黙が苦になっている様子もない。その沈黙が稟には辛かった。(やはり怒っているのでしょうか……) いくら風相手でも、それを直接聞くのは憚られた。 居心地の悪い空気は、一刀と士元が戻ってくるまで続いた。