死体を埋める穴を掘る作業は、思っていた以上に憂鬱な作業だった。 まず、現代ほどに道具が充実してはいない。人数分のスコップがあれば簡単に終わる作業でも原始的な道具ばかりでは思うように作業も進まない。慣れない道具で時間がかかれば余分に疲れ、身体も痛みを訴えてくる。 決して鍛錬をサボっていた訳ではないが、この重労働は徹夜明けの身体に堪えた。 次に、やはり死体はグロいし臭い。 現代日本で死体と言えば、綺麗な死体が普通だ。一刀も葬式の時の清められた死体しか見たことはない。 だが、この世界の死体はどれも綺麗とは言い難い。木刀で頭をかち割られた死体がある。身体中に矢を受けた死体もあれば、剣で首を断たれた死体もある。どれにも正視に耐えない気色悪さがあった。 殺し合いに参加したことで死体に耐性ができたのだと勝手に思っていた。死体を埋めるくらい命を賭けて戦うことに比べたら何ということはない。そう思っていたのだが、明るくなってから改めてみた死体は一刀の想像以上のものだった。 だから今現在、一刀の胃の中身は空である。 一方、吐く一刀を他所に子義をはじめとした自警団のメンバーは平気で死体に触れていた。聞けば死体を埋める作業をするのも始めてではないらしい。 自分よりも年下の子供が平気でいるのに、自分だけ吐いていては格好悪い。 そう思った一刀は一層気を引き締めて作業に望んだが、腹の中には何もない。気を引き締めたところで、死体がグロいことに変わりはない。黙々と穴を掘る作業と相まって、一刀の心は沈んでいくばかりだった。「団長、もういいぜ」 村から死体を運んできた村人の声で。一刀は作業を作業を止めた。無我夢中で掘っていた穴は、何時の間にか人一人が横になれるだけの広さになっている。のっそりとした動きで場所を空けると、村人は無造作に穴の中に死体を放り込み、村へ帰っていく。 もっこを担いだ彼らは、村からここまで死体を運んでくる役割だ。一刀他数名は穴を掘って死体を埋める係である。これは、戯志才によって決められた役割分担だ。 小さくなっていく村人の背中を見るとはなしに見ながら、一刀は死体に土を被せていく。死体の胸には一文字に大きな傷が走っている。鋭利な刃物で斬られた傷。単福が斬った賊だろう。 傷は生々しいが、それほど苦しんだ様子がないことから、比較的楽に死ねたのだと解る。 これが落とし穴に落ち、かつ即死しなかった死体であると始末が悪い。身体の欠損もそうだが、彼らは苦しみながら死んだため、夢にまで出てきそうな苦悶の表情を浮かべているのだ。 そういう死体に比べれば、ただ斬られただけの死体など綺麗なものだ。そういう風に割り切れるようになった自分を、少し怖く思う一刀である。「団長、そろそろ休憩にしませんか?」 一刀の気分が限界に近付いて来た頃、作業に区切りのついた子義が声をかけてきた。穴掘り作業を割り振られたのは、自警団の中でも若い連中である。 夜明けを待ってから、単福が中心となって村の周囲を警戒し、それは今も続けられているが、賊の生き残りが戻ってくる可能性もゼロではない。戻ってきた時、対応できる人間が近くにいないと、出さなくても良い犠牲を出すことになる。 戯志才のそういう判断により、村の外で作業する者には、比較的腕っ節の強い人間が割り振られた。よく言えば選抜メンバーである。指揮は一刀。従うのは、昨晩も共に戦ったメンバーだ。子義を始め全員が、一刀に気安く接してくれる。部下というよりも子分のような雰囲気であるが、一刀にとっては背中を預けて戦った、頼りになる仲間たちだ。「そうだな。昼飯にしようか」 一刀の宣言に、団員達から歓声があがった。小躍りしながら穴掘り道具を放り出し、てきぱきと昼食の準備を始める。一刀は作業に区切りをつけると、既に運ばれ野ざらしになっている死体に覆いをかけた。死体を見ながら食事をする神経は、まだ一刀にはない。 食事は直ぐに始まった。一刀は車座になって座る一同の中に足を投げ出して座り、前身の力を抜いた。ふっ、と遠くなる意識を首を振って繋ぎ止める。気を抜くと眠ってしまいそうだ。「団長、どうぞ」 子義が水筒を回してくる。口の開いたそれに口を付け、喉に一気に水を流し込んだ。温く、少し土の味のする水が、何だかやけに美味い。「始めた時はどれくらいかかるのかと思いましたけど、これなら今日中には終わりそうですね」「穴掘りに人を割いてくれて助かったよ。その分俺達が疲れるけど、明日から死体を見なくて済むなら安いもんだし」 一刀の言葉に、団員達もそろって安堵の溜息を吐く。 医者に簡単にかかることの出来ないこの時代では、疫病などの元になる死体を片付けるのは最優先の仕事だが、同時に落とし穴を埋めなおしたり、荒れた田畑を修繕したり、村の周囲の警戒を続けたりと、しなければならないことは多い。緊急時だからと言って通常業務をサボれるほど、村には余裕がないのである。「明日からは農作業に戻るのかな」「田畑の修繕は今日中に終わるのかね。ちゃんと見ないでこっちに来たから俺全然知らないんだけど」「おかんの話では終わるみたいっすよ。明日からバリバリ働けって念を押されました俺」「じゃあ、明日からは通常営業だな」 はは、と笑う一刀に追従する者、微妙に嫌そうな顔を浮かべる者など様々だ。 農民だからと言って、喜んで農作業をしている者ばかりではない。自警団の中にも剣によって名を挙げて、一角の人物になりたいと考える者がいる。今は乱世。立身出世の道はそこら中に転がっているのだ。「団長が兵を挙げたら俺も参加するんですけどね。しないんですか?」「やるならもっと早くやるべきだったろうなぁ。黄巾の乱はもう直ぐ終わるみたいだし、兵を挙げても戦う相手がいないぞ」「どうせそのうち戦が起きるって大人は皆言ってます」「だからってなぁ……」 子義の声に、一刀の反応は渋い。 下手に挙兵すると言ってしまうと、そのままついてきそうな連中がこの中にもいるのだ。戦に出て戦うことは村を守るために自警団を結成するのとは訳が違う。ついてくる人間がいるということは、その人間の生死にまで責任を持たなければならない。 責任は、誰かが取らなければならないだろう。例えばこの村で挙兵するのならば、自分がリーダーになるだろうことは一刀にも想像ができた。戯志才達が最後まで付き合ってくれる保障がない以上、他に選択肢がないのである。 村には恩義がある。やれと言われたら否やはないが、自警団の面々を率いて戦場で活躍する自分というのが、一刀にはどうしても想像することが出来なかった。 戦いに出る以上、子義達だって死にたくはないだろう。戦功だってほしいはずだ。そんな彼らの要望に答えることは出来そうにないのが、心苦しい。 優秀な補佐――例えば戯志才や程立、単福などが力を貸してくれるのならば別だろうが、彼女らが自分などに付き合ってくれるとも思えない。優秀な人間ならばそれだけ働き口は存在する。 まして、一刀の知る通りに話が進むのであれば、黄巾の乱が収束しても世の中は安定せず、戦乱の世に突入する。このような田舎では世の情報も集まり難いが、旅の軍師ならばある程度の情報は集めているだろう。戦の臭いを感じ取っているのなら、素人の補佐についてくれるはずもない。「俺についてきたっていいことないぞ」「戦が起これば俺達のうち何人かは出稼ぎに行くことになってますからね。俺達だけで行くことに比べたら、団長に面倒見てもらった方が遥かにマシじゃないですか」「子義、お前戦に行くのか?」「行きたいって前から言ってるじゃないですかー」 やだなー、団長、と子義は気楽に笑う。年若いメンバーが集まる中でも一番若い子義が乗り気なことに、世の無常を感じずにはいられないが、この中で武術の腕があり、才能があるのもまた彼である。金や名誉を求めて戦に臨むのならば、子義以上の適任はいない。 嫌々ながら行くというのであれば止めたのだろうが、子義は非常に乗り気である。村に身を置いて経済事情まで知ってしまった今となっては、青臭い人道論を盾に反論することも出来なかった。「だから、戦に行く時は必ず俺も連れてってくださいね」「行く時はな。旅はするつもりでいるけど、戦に参加するかどうかは分からないから約束はできないぞ」「えー、行きましょうよー」 休日、父親に遊園地行きを望む小学生のような軽いノリに、一刀は眩暈を覚える。人道がどうとかは別にして、旅に出る前にこの子には色々なことを教えなければ……と一刀は決意を新たにした。「何か、盛り上がってるみたいだね」 戦に行くという言葉を引き出そうとする子義に難儀する一刀を救ったのは、ハスキーな女性の声だった。自警団員の少女達から、黄色い歓声が挙がる。今村にいる人間の中でこういう扱いをされるのは一人しかいない。擦り寄る子義を引き離しながら、一刀は振り返る。「辺りはどうだった? 単福」「平穏無事さ。馬で少し散歩をしてきただけだったよ。君らは働いてるのに申し訳ないね」「見回りだって必要なことだろ? まぁ、今から村に戻ってもすることは沢山あるだろうからしばらく散歩してた方が、楽は出来たかもしれないけど」「今は凄く仕事をしたい気分だから、それも望むところさ」 まるで舞台上の貴公子のように笑い、単福は馬からひらりと飛び降りる。賊を相手に大立ち回りをした彼女は旅の人間とは言え村の人気者だ。その容姿振る舞いから少女相手に人気が高く、他の世代相手の態度も如才ない。戯志才や程立と同様に、人の中心に立つことに慣れている風だった。「ご飯は村に戻ったらあると思うけど、一息どうだ?」「いただくよ」 単福はスープの入った椀を受け取り一刀の隣に腰を降ろした。自分の隣に、と席を作ろうとしていた女性団員が、一刀に向けて遠慮なく不満そうな視線を送ってくる。その圧力に一刀始め周囲の男性団員も腰が引けるが、単福はそれを気にした様子もない。 ただ、その強烈な視線の要因の一つに自分が関わっていることには気づいたようで、睨んでくる女性団員達に向けて、ぱちり、とウィンクした。それで視線の方向性は百八十度変化した。 今や熱視線に変わったそれを若干鬱陶しく思いながら、一刀は溜息を吐く。 単福は美人であるから一目を引く。それは理解できる。シャツを押し上げる大きな胸など、男の視線をひきつけてやまない。事実、単福の近くに座る男性団員などは単福の胸元にちらちらと視線をやっていた。単福に構わないで食事を続けているのは、色気より食い気の子義だけだった。 女性団員の単福に向ける視線は、男性団員よりも熱い。何というか尊敬以上の物が篭っているような気さえする。単福が迫ればそのまま行くところまで行ってしまいそうな不安定さが、女性団員にはあるのだった。 普通、こんな視線を向けられれば困るだろうが、単福に動じた様子はない。貫禄すら感じさせるその振る舞いは、こういう視線にさらされることに慣れていることを感じさせた。きっと女学院では毎日がこんな風だったのだろう。「団員に手を出したりはしないでくれよ」「おや、一刀は僕をそんな風に見てるのかい?」「思わないと言ったら嘘になるかな」「正直な男は好きだよ」 ははは、と単福は小さく笑う。それにうっとりとする女性団員に、手を振ることも忘れない。サービス精神旺盛な単福に、やはり一刀は溜息を漏らした。 女性同士のそういうことに一刀も興味がないではないが、村のような閉鎖社会でそういう問題が起こるのはよろしくない。単福が短慮な行動に及ぶとは思わないものの、治安維持の責任者としては釘を刺しておかなければない。 言って守ってくれるかどうかは、神のみぞ知るところである。言うだけは言った。後は単福の性癖がノーマルであることを期待するより他はない。「ところで、戦の話で盛り上がっていたようだけど、一刀、君は挙兵するのかい?」「まさか。何に対して兵を挙げるっていうんだ」「政治や社会情勢に不満が全くない訳じゃないだろ? 黄巾だって元はそういう人間の集まりだったと噂じゃないか。まぁ、実際は違うんじゃないかって話は良く聞くけど、それはこの際どうでも良い。今の時代じゃ誰が兵をあげたって可笑しくはないんだ。君が兵を挙げたっておかしくはないだろ?」「俺はそういう器ではないよ」 単福の目に宿る期待の色から逃げるように、一刀は視線を逸らした。温くなってしまったスープを音を立てて啜る。助けを求めるように視線を巡らせるが、女性団員は相変わらず単福しか見ておらず、何やら難しい話が始まった気配を敏感に感じ取った男性隊員は、話を振られないように視線を合わせようともしない。 孤立無援だった。団員達は戦うことそのものに興味はあっても、戦うための主義主張には大して興味を示さない。きちんと金銭が支払われ、それが人道に大きく悖らないものであるのなら、彼らは文句を言わずに戦うことだろう。主義主張について考えることができるのは、大抵の場合生きることに余裕がある人間だ。「そうかい? 君は良く村の人々を率いていたと思うけどね。自分で思っているよりは向いていると思うよ」「褒めてくれるのはありがたいけどさ。だからと言って、それで英雄になれる訳じゃないだろう?」「最初から英雄とは、随分と高望みをするね」 単福にそう言われて一刀は渋面を作った。生き残ることすら不安な実力なのに英雄とは、確かに高望みが過ぎる発言だった。真面目に上を目指している人間相手ならば、鼻で笑われても可笑しくはない。単福に馬鹿にした様子が見えないのが救いだった。「例えで言っただけだよ。本当に英雄になりたいと思ってる訳じゃない」「目標は大きく高く。それがどんなものであっても、夢を持つのは良いことだよ。それに命をかけられるなら尚素晴らしい」「単福には夢があるのか?」「僕はこれでも軍師だからね。身を立て名を挙げるのは、全ての軍師の夢なのさ」「戯志才や程立もそうなのかな」「ふわふわした彼女は分からないけど、ツンツンした彼女はしっかりとした目標を持ってると思うよ。指揮する姿や立ち振る舞いに芯が通ってるのを感じる」「それは程立の目標がふらふらしてるってことか?」「つかみ所がないってことだよね。戯志才はほら、解りやすいだろう? 色々な意味で」 単福は口の端を挙げている。こちらの反応を楽しみにしている、意地の悪い顔だ。反射的に問いに答えそうになっていた一刀は、その顔を見て言葉を引っ込めた。衆人環視のこの場で頷くことは、自分の立場を決定づけることになる。単福の言葉は、捉えようによっては悪口だ。自警団員の口から『北郷一刀が悪口を言っていた』という情報が戯志才耳に入れられたら、どんな仕返しをされるか解ったものではない。 昨日の鼻血の一件で弱みというか秘密というか、戯志才の意外な一面を知ったことで距離は縮まったように思うものの、そのせいでもっと遠慮なく物を言われるようになってしまった。今朝も穴掘りに出るまでに、三度も怒鳴られている。 一刀としてはこのままではそのうち殴られるのではないかと気が気ではない。荀彧には良く蹴られたものだが、好きで蹴られていた訳でもない。怪我なく息災で生きたいというのは、英雄になることに比べたら、高望みでもないはずだ。痛いのは誰だって嫌なのだ。「そういうところはかわいいと思うよ」「なら、それは顔を見て言ってあげると良い。きっと、戯志才も喜ぶ」 笑いながら単福は言うが、そんなことをしたらまた鼻血を出して倒れることは目に見えていた。普段はあんなにもキリリとしているのに、色恋やエロい方面にはまるで耐性がないというのだから可笑しな話である。「じゃあ、僕はそろそろ行くよ。ご飯ご馳走様」「もう少しゆっくりしていけば良いのに」「僕だけ油を売る訳にもいかないだろう? 働かざる者食うべからずさ」 単福はひらりと身を翻して馬に跨る。別れを惜しむ女性団員に手を振ることも忘れずに馬の腹を蹴って、村へと歩みを進ませていく。「夢とか志とか、そういう物について戯志才達と話してみるといいよ!」 別れ際にそう言って、馬は加速した。単福の背中はあっという間に見えなくなる。女性団員達の溜息が漏れた。食事のペースもはっきりと落ちている。午後の作業の進み具合にも関わりそうな深刻さに、一刀の不安も募る一方だ。「団長、団長の夢ってなんですか?」「俺の夢ねぇ……なんだろうな」 子義の問いに、一刀は首を傾げた。現代高校生の身に将来の夢というのは、地味に難解な質問だった。「単福!」 作業する村人の集まる中央広場まで馬を進めた単福は、探していた人物の声を聞いた。探す手間が省けた、と一人笑みを浮かべると、急ごしらえの厩に馬を預け、一晩で随分気心の知れたその人物に駆け寄る。「帰りがけに一刀に会って来たよ。あっちの作業も順調なようだね」「それは重畳です。周囲の様子はどうでしたか?」「静かなものだよ。少なくとも、徒党を組んでこの村を襲うような連中は近くにはいないようだ」「それを聞いて安心しました。ですが、警戒だけは怠らないようにしましょう。北郷殿には夜間の警戒を解かないよう、申し伝えるつもりです」「それが良いだろうね。僕も身体は空けておくから、遠慮なく使ってくれたまえよ」「元よりそのつもりです」 相変わらず愛想のない戯志才の言葉を気にもせず、単福は無言で手を差し出す。戯志才は無言でその手に藁の束を乗せた。柄杓で桶から水を汲み取り近くにあった鎧を湿らす。後は屈んで只管擦るだけだ。 一刀が穴を掘るのが仕事なら、これが戯志才達の仕事である。賊の持っていた道具を保存するために、最低限の手入れをしなければならないのだ。武器や防具についた血は腐食の原因にもなる。売るにしても自分たちで使うにしても、汚れと一緒に落として置かなければならない。 眼鏡軍師の隣に屈んで、ごしごしと鎧を擦る。手入れなどしていなかったのか、血以上に土や汗の汚れが目立つ。単福の持っているのは金属鎧と言っても金属を紐でつなぎ合わせただけの粗雑な物であるが、こんな鎧でも使用者のことを守ってくれていたようで、剣や槍で付けられたと思われる傷が幾つも散見される。粗雑な鎧であっても、命を救うことはあるのだ。「ところで戯志才、君は一刀のことをどう思う?」 会話もないのは寂しいと、適当に切り出した話題のつもりだったが、戯志才にとっては適当の一言で片付けられる物ではなかったらしい。ごしごしと鎧を擦っていた藁の束は戯志才の手からすっぽぬけ、単福とは逆の方向に飛んで行き、作業していた村人の顔に直撃した。 ぎゃあ、と悲鳴を挙げる村人に、戯志才は慌てて頭を下げる。村人の顔は汚水に塗れたが、相手は何しろ村を救った作戦の立案者である。謝り倒す戯志才に村人は笑顔すら浮かべて席を外した。顔を洗うための水は、少し離れた所にしかない。「君もそそっかしいところがあるね」「貴殿がおかしなことを言うからです!」「そうかい? 僕は彼を人間としてどう思うかと聞いたつもりだったんだが……」 それ以外の意味に解釈してくれることを期待しての質問だったが、それは黙っておく。案の定、ひっかけられたと気づいた戯志才は顔を真っ赤に染め――その鼻から血がたらり、と流れ出した。「戯志才、鼻血が出てるよ」 指摘をすると、戯志才は藁の束を放り投げ慌てて手拭を顔に当てた。口を手拭で覆ったまま眼鏡の奥から睨んでくる戯志才に、逆に単福は笑みを返す。「妄想逞しいのも結構だけど、考えただけでそれじゃあ先が思いやられるな。君と一生を添い遂げる人間は、苦労しそうだ」「貴殿が心配せずとも結構」 ちーん、と大きな音を立てて鼻をかみ、手拭を放り投げる。赤くなった鼻から、鼻血はもう流れていない。藁の束を拾って再び鎧を擦りだす戯志才に、努めてこちらを無視するかのような意思を感じた。(これはからかいすぎたかな……) 内心で単福が反省していると、戯志才が鎧を持って立ち上がった。鎧についた水滴を手拭で丁寧にふき取っていく。金属部分から綺麗に水分をふき取り終わったら、残りの仕事は村長達、村の年寄り達の仕事だ。 戯志才達が作業している場所から少し離れた場所では、年寄り達が保全の作業を行っている。 取り替える必要のある縄は取り替えて、金属部分には油を差す。鎧や剣はもちろん、自警団が後々使う予定であるが、半分以上は売り払って金に変える算段が立っている。駄目になった作物などの補填としての意味もあるので、村にとってはかなり重要な案件だ。 賊が使っていたようなものであるので買い叩かれるのは目に見えているが、汚れている物を持って行けば、足元を見られるどころか買取を拒否されることすら考えられる。綺麗にしておくに越したことはない。「別に怒ってはいませんよ」 本当かな、と思ったが流石に今度は口には出さなかった。次に鼻血を出されたら、進む話も進まなくなる。 戯志才はまた藁の束を掴むと、新しい鎧を磨き始めた。「北郷殿の話でしたね」「ああ。彼についてどう思うか、一度軍師の意見を聞いてみたいんだ」「軍師として、ですか。私よりも程立の方が良いのでは?」「もちろん彼女にも聞くさ。でも、まずは君からだ」「貴女も話すという条件でなら話しても構いませんよ」「交渉成立だ。では、僕から?」「いえ、私からにします」 柄杓で鎧に水をかけ、藁の束で鎧を擦る。ごしごしという音で、自分の考えを纏めているのか、しばらくの間、戯志才はただ鎧を磨き続けていた。「武も知もそこそこですね。仮に私が人を使う立場だとしたら、彼を使うことはおそらくないと思います。彼くらいの力量を持った人間ならば、今の時代他にいくらでもいますから」「確かにね。弱い訳でも馬鹿な訳でもないけれど、もう少し改善の余地があるね彼には色々と」 本人を前には言えないことでも、軍師相手だとすらすらと出てくる。勿論、他の人間に聞こえないような配慮も忘れてはいない。これは本当に、ここだけの話だ。「ですか、人を率いるということに関しては、見るべきところがあるようにも思います」「それはこの村だからではないのかな。僕らから見ればそこそこでも、この村ではそうではないだろう?」「それを差し引いても、ということですよ。この村にやってきて一月かそこらの彼に対して、村人達は良く彼の言葉を聞き、従っています。全幅とは言わないまでも、大きな信頼を得ている言っても良いでしょう。それは、貴女も感じたことでは?」 ちら、と戯志才が視線を向けてくる。切れ長の目が、単福の心中を見透かそうとするかのように細められていた。 色気すら感じるその視線に、単福は肩を竦める。賊と戦っている最中にも、日が昇ってからの哨戒活動の間にも、村人からそういう言葉は何度も聞いていたからだ。「確かにね。つまり戯志才は、一刀の人間的な魅力に参ってしまったと言う訳か」「そういう纏め方をされると私がただのアホのように思えてならないので、訂正を求めます」「失礼。戯志才先生は、一刀の人間的魅力を鋭い観察眼でもっていち早く見抜かれたと、こういう訳か」「釈然としないものを感じないではありませんが、よしとしましょう。私の思うところは、そんなものですね。貴殿はどうです?」「んー……彼ほど仕え甲斐のある人間もいないと思うかな」「それはまたどうして」「完璧な主なんてつまらないじゃないか。ほどよく欠けたところがある方が、自分の仕事があって良いだろう?」「そう思えるのはかなり特殊だと思いますが……言わんとしていることは理解できます」「でも、仕える判断をするにはもう少し時間が必要かな。君のように腰を据えられたら良いんだけど、今の僕には少々急ぎの用事があるものでね」「急いでいるのに油を売っていて良いのですか?」「義を見てせざるは勇なきなり。これくらいなら、先生も許してくれるさ」「水鏡女学院に戻る予定だったのですか?」「世の情勢を調べて報告せよと、先生から仰せつかってね」 実際は水鏡先生本人が回る予定であったらしいのだが、それは現在の生徒と教師総出で止められたのだと言う。それも当然だ。先生が優れているのは知の分野だけで、身を守る武の方はからっきしなのだ。 学院に集まる人間は教師まで含めて、知に重きを置く人間が多く、単福のように武にまで手を出す人間は少数派である。学院に名を冠するような人を乱れた世に送り出す訳にはいかないと考えるのは、当然のことと言える。 そんな事情もあって、自分の身を守れる程度には武に自信があり、旅慣れている単福に話が回ってきたのだった。学院を卒業してからも放浪を続け、主を定めていなかったが故の依頼でもある。 傑物と噂される人間は一通り見定め終わった後であったため、里帰りのつもりで引き受けた依頼だったが、今では受けて良かったと思ってさえいる。 断り、主を決めていたら、この村を訪れてはなかっただろうし、戯志才や程立、一刀に出会うこともなかった。彼女らに出会えたことは、学院を卒業してからこっち、一番の幸運であるとさえ言えた。「だから、君とはもっと色々と語り合いたいのだけど、残念だが時間がない。作業も今日中には一区切りつきそうだし、明日には旅立とうと思っているよ」 それから先は、また旅に出て見ようと思っている。これから世は乱れ、軍師の必要とされる場は増えるだろう。また戦になれば、これまで見つけることの出来なかった英雄の資質を持った者達が出てくるかもしれない。 主を決めるのは、それらが出揃ってからでも良い。最悪、学院に戻って勉強の日々に戻るのでも良いのだ。人事を尽くせば、天命が待っている。急いてもきっと良いことはない。「急な話ですが、目的があるというのならばそれも仕方ありません。水鏡先生には貴女の弟子を引き止めて申し訳ありませんでしたと、よろしくお伝えください」「時間が取れるようだったら、訪ねてみると良いよ。聡明な人間を先生はこよなく愛される。君や程立ならば、きっと歓迎されるだろう」「北郷殿ならば、どうでしょうね?」「どうだろう。何しろ僕の先生だ。教え甲斐があると奮起されるかもしれないよ?」「北郷殿が女性でないことに、感謝しなければなりませんね」 戯志才が冗談で結んだところで、単福も一つ、鎧を洗い終えた。戯志才と同じように水滴を綺麗にふき取り、村の子供にそれを預ける。年端もいかない、少年だか少女だかも一目には判断のつきにくい童は、二人、三人で協力して鎧を年寄り達の下へ運んでいった。「さて、次は貴殿の番ですよ。北郷殿について思うところを述べてもらいましょうか」「語ることについて否やはないけれどね、もう直ぐ食事の時間のようだよ?」 眼鏡をキラリと光らせて凄んでみせる戯志才の背後を示す。炊き出しを行っていた村の女性達が、昼食が出来たことを触れ回っていた。穴掘り班以外の全ての昼食を賄っているため、かなりの量である。 村の内部で作業をしていた者は皆手を止め、食事をするために集まっていく。戯志才も単福もそれに加わらなければ、食事はできない。椀だけ持ち出し離れて食べるということはできそうになかった。有名人である単福や戯志才が、村人達から逃げられる道理もない。 既に程立は村の子供達に腕を捕まれ、あれやこれやと質問攻めにされていた。いつも飄々としている程立が慌てている。珍しい物をみた、と戯志才と単福は顔を見合わせて笑った。「見送りはこの辺りまでで良いよ」 馬に乗って村から離れて三キロほどの位置で、単福がそう切り出した。指示に従って馬が足を止め馬上で単福が揺れる。単福の頭を離れた帽子を一刀がキャッチできたのは偶然だった。 埃を払って帽子を返すと、単福は珍しく照れくさそうに笑った。「悪いね。仕事があるのに付き合ってもらって」「恩人を見送る以上に大事な仕事があるもんか」 一刀の言葉に、単福は笑みを深くして帽子を被りなおす。賊と戦った時のような勇ましい鎧姿ではなく、動きやすい旅装束だ。シャツにパンツ、水鏡女学院の制服を羽織り、頭にはトレードマークのソフト帽。出会った時と同じ装いの単福がそこにいた。「急に言い出さなければ、もっと盛大に見送れたんだけどな。子義とか残念がってたぞ。もっと面倒みてもらいたかったって」「少し見ただけだけど、彼は筋が良いね。特に弓だ。いずれ大陸でも指折りの実力者になるはずだよ。君に懐いているようだから、上を目指すのならば手放さないことを薦めるよ」「進路は子義が決めることで、俺が関知するところじゃないさ」「黙って俺について来い、というくらいの甲斐性が、君に必要な沢山の物の一つだろうね」 からかうような単福の笑みに、一刀は視線を逸らす。欠けた物が多いのは一刀自身が一番理解していることだ。策を考える頭も剣の腕も、戯志才や程立、単福に遠く及ばない。せめて何か一つでもと思うが、およそ政治、戦に関わることで彼女ら三人に勝てそうなことはいまだに見つかっていなかった。「風達がいますから、お兄さんのことはご心配なくー」 単福と一刀の間に、程立が馬ごと割り込んでくる。励ましの言葉が、地味に落ち込んでいる身にはありがたい。少女に庇われている自分、と客観的に見ると死にたくなるが、女の子に遅れを取ることなどこの世界にきてからは日常茶飯事だ。この程度を気にしていたら、とっくに荀家で死んでいる。「君なら大丈夫だろう。僕の分まで一刀をしっかり教育してやってほしい。どこかの鼻血軍師殿では、聊か心配だからね」「…………」 普段ならば憎まれ口の一つも放つ戯志才が、今は暗い雰囲気で沈黙していた。雰囲気だけでなく、顔色まで悪い。一刀達の会話が聞こえていないはずもないのだが馬の上でぐったりとしたまま動こうともしない。正直、馬に乗ってここまで来れたのが奇跡のような有様だった。「あまりからかわないでやってくれよ。二日酔いと出血多量で二重の苦しみを味わってる最中なんだ」「どうせ酔った勢いで――ってその先でも想像したんだろう?」「うっ……」「だからやめなってば……」 戯志才は口ではなく、鼻を押さえて体を折り曲げる。こんな状態で鼻血を出したら、本気で生死の境を彷徨いかねない。短い付き合いの一刀でさえ、心配なのだ。生まれた時から自分の身体と付き合っている戯志才は、普通に命の危険を感じているだろう。 戯志才がこうなっていることには、昨晩のことが影響している。 単福に薦められて戯志才、程立と今後について話し合う機会を設けたのだが、何故か村人達が気を利かせて、誰の邪魔も入らない一軒家と酒、それから人数分の椀を用意してくれた。 村人の意図を一目で察したのは一刀だけだったらしい。そういうことにはならないと婉曲に断りを入れたのだが、村の大人たちはそれを照れ隠しと思ったらしい。若いんだから頑張ってください、と逆に励まされた一刀は、どうしたものかと首を捻りながら二人と共に小屋に入った。 この時、単福は高志の家に呼ばれて席を外していた。彼女がいればまた違った展開になったのかもしれないが、後悔先にたたずである。 何事もなく終わらせるには、真面目な雰囲気で乗り切るしかない。一晩中戯志才の罵詈雑言を浴びる覚悟で一刀がいると、程立が普通に酒を注ぎ始めた。戯志才もそれを拒まない。一刀がそれを断ることなどできるはずもなかった。 そのまま暫く酒飲みが続き、十分もした頃だろうか。ただ酒を飲むことに専念していた戯志才がふと視線を巡らせたのである。小屋の中には何があるでもない。一刀達三人と、酒と椀。後は一組の布団と、三つの枕があるだけだった。 布団といっても現代日本にあるような上等なものではないが、明らかにそういう類の配慮がされた寝具がそこにあると認識できさえすれば十分だった。 その時始めて寝具一式の存在に気づいた戯志才は、酔ったその状態よりもさらに顔を真っ赤にし、漫画のように勢い良く鼻血を流した後、急な出血のため気持ち悪くなって顔を青くし、最後に胃の中身を吐いてからその場に気絶した。 その有様に、程立すら目を点にしていたことを良く覚えている。鼻血とゲロのコンボに一刀は女の子に対する幻想がガラガラと崩れていく音を聞いたような気がした…… 戯志才の調子が悪いのはそんな事情なのである。「彼女を身近に置いておくのは中々刺激的な毎日になることだろうけど、くじけないようにね」「頑張ってみるよ」 差し出された単福の手を、一刀は握り返した。「さて、名残惜しいけれどそろそろ行くよ。次会う時まで達者でね、三人とも」「単福も元気で」「おげんきでー」「…………」 戯志才は力なく手を振るだけだった。苦笑を浮かべて、単福は馬の腹を――蹴る前にもう一度振り返った。「一刀、君はどんな世を作ってみたい?」「何を言い出すんだいきなり」「何となく聞いてみたくなったのさ。君ならきっと、面白い世界を作ろうとするんじゃないかってそんな予感がするんだ」「俺が世の在り方を決められるようになるとは思わないけどな」「だからこそ聞いてみたいんだ。北郷一刀、君はどんな世界を作りたい?」 どうでも良いとはぐらかそうかと考えたが、単福は逃がしてくれそうになかった。ふざけた調子で聞いていても、瞳は答えるまで逃がさないという、強い意志を持っていた。答えない訳にはいかない。 しかし、どんな世界を作ってみたいかなど考えたこともない、ついこの間まで北郷一刀はただの高校生で世界の行く末などに関わっていなかった。 それが何の因果か可笑しな世界に飛ばされた。そこでも勿論世界の行く末などには関わってなどいないが、ある意味元の世界よりも充実した生活を送っている。 帰ることを諦めた訳ではない。元の世界に未練はあるし、やりたいことだってある。便利の中で暮らしていた一刀にとって、この世界は不便の連続だ。戻れることなら今すぐにだって戻りたい。 だが、世界全体から見れば取るに足らない物とは言え、北郷一刀はこの世界に関わってしまった。乱れた世がこれから更に乱れ、戦乱の時代に突入することだろう。 そこでは多くの物が壊れ、多くの人が死ぬ。そういう人達のために、何か出きることがあるのではないか……賊の死体を埋めながら、一刀はそんなことを考えた。 自分に何が出きるかしれない。才能がないとは荀彧に太鼓判を押された。世界を変えようなどと高望みをする訳ではないが……「人が天寿を全うできるような世界にしたい」「その心は?」「戦で人が死ぬなんて馬鹿げたことだと思う。やっぱり人間は、やりたいことをやりたいだけやって、それから死ぬべきだ。生きるために生きるとか、生きる糧を求めて命を賭けるとか、そういうのって寂しいだろう?」「これから戦乱の世になるというのに、君は戦を否定するのかい?」「戦うことは必要だろう。戦う人達にはそれなりの理由があるってのも解るんだ。俺の国は平和だったけど、世界にはずっと戦いがあった。幾ら世界が満たされても、戦ってのはなくならないと思う。でも、それを極力減らすことは出きると思うんだ。だから、俺に世界を差配する力があるなら、人が生きるだけ生きて、それから死ねるようなそんな世界を作りたい」「そのために戦う。君はそう言うのかい?」「機会があったらね。大それた話ではあるけど、やれるならやってみたいかな」 少女を相手に夢を語るのは、思いのほか恥ずかしい。これで笑われでもしたら一刀はしばらく立ち直れなかったろうが、単福も隣にいた程立も笑わずに聞いてくれた。 一刀の言葉を噛み締めるように、単福は目を閉じる。「いい夢じゃないか。軍師の活かし所は少なくなるだろうけど、そんな世界になるのなら、僕は見てみたいと思うよ」「ありがとう。最初から他力本願ってのは格好悪いけど、単福の力が必要になったらその時は頼らせてもらうことにする」「徐庶だよ」「……ん?」「僕の名前だよ。気づいてたとは思うけど、単福というのは偽名なんだ。僕は徐庶、字は元直という。そして、真名は灯里(あかり)だ。僕のことは、これからそう呼ぶと良い」 一刀は二度驚いた。 偽名の代わりに出てきた本当の名前が、聞いたことのある名前だったこと。 そして、最後にあっさりと真名が告げられたこと。 荀家で聞いた。真名とは、本当に信頼のできる相手にしか許さない物だと。姓名しか持たない一刀にとっては馴染めない物だったが、真名を軽々しく口にすることの危険さは、荀家でも散々説明された。 その真名を呼ぶことを許された。この世界に来て初めてのことだ。単福……灯里の言葉を自分の中で吟味し考え、ようやく一刀が口にしたのは、「ありがとう」 ただ、それだけだった。返礼に何かを出せる物もない。信頼の証として真名を預けてくれたのならば、こちらもそれを返すのが礼儀のはずだが、一刀には真名がない。信頼に応えるものとして一刀が用意できるのは言葉だけだった。 言葉だけの返礼に、灯里は笑顔を浮かべてくれた。受けいれてくれてありがとうと言葉を添えて、帽子を目深に被りなおす。頬が少し染まっているのが見えた。少し、照れているらしい。「最後に夢を聞かせてくれた君に贈り物をしたい。戯志才と程立がいるのなら必要ないと思っていたけど、君が高い志を持っているのなら多くあっても困るものでもないと思い直した。ただ、二つを得るのはやりすぎとも思う。だから君に決めて欲しい。どっちもかわいいことは僕が保障するよ。だから気楽な気持ちで、思ったことを口にしてくれて構わない」「臥龍と鳳雛、どっちが欲しい?」