「――さて……と」
とんとん、と誰かが机を叩く音が微かに響いた。
街並みの喧噪は、暗く火を落とす部屋の中にも僅かに響く。
飲めや食えや歌えや、の騒ぎはまさしく不眠で、未だかつて洛陽ですら味わったことのない熱気に当てられてか、賈駆が呟いた言葉は吐息と共に何処か艶めかしい。
粘りつくような闇の中でつつっと地図の上を這う指先は僅かな炎に揺られて色白く映え、ついっ、と上げられた視線がこちらに向けられる。
眼鏡の奥にある瞳はそれまでの酒宴と歓声と勝利の熱気に浮かされて熱っぽく潤み、上目遣いのそれが、俺の中にある何かを刺激した――ような気がしないでもない。
「……何見てるのよ?」
「い、いや……何でもない」
「……?」
「やはり、少し疲れましたね……元気な殿方もおられるようですが」
「おやおや、凛ちゃんは無粋ですねー」
じろり、と賈駆に睨まれて慌てて顔を背ければ、その先にはじと目を向ける郭嘉とにやにやと口元を緩める程昱の姿があった。
常日頃からと同じ対照的な二人は、しかし、その視線の奥が冷ややかなところは同じであった。
戦勝祝い中の城外にて趙雲と手を繋いだまま帰ってしまったのを発見された時と同じような視線だが、あの件は何とか――本の購入やら戦術談義に一日付き合うやらで形で決着が付いた筈だ。
西涼の合流から韓遂の暗殺未遂、果ては石城から安定から長安まで攻め込まれたのだ、戦後処理のことを考えれば今からでも憂鬱になれるが、その合間を取って一日ずつ休みが取れるのだろうか、と頭を痛めたのはつい先日の話だった。
となれば――いや、ああ、まあ、うん、悪いのは俺なんだろうなー、と推測するのは実に早い。
いや、推測というよりは理解と言った方が正しいか。
郭嘉や程昱だけでなく、頬を膨らませた董卓や同じじと目の張遼と馬超、笑いを堪える趙雲と馬岱などが皆一様にこちらを見ているのだ、理解出来ない筈がない。
むぅ、と唸ることは出来るが、男は俺一人で回りは全て女将だ、完全に敵地である。
王方や牛輔がいる洛陽がものすごい恋しくなったのは、秘密である。
それはさておき。
今は軍議――それも、石城を解放しようという戦を目前にまで控えた、その軍議の最中である。
いつまでも話が進まないでは無駄に夜も更けるだけだろう――俺の居心地の悪さが消えることもないし。
そう思って、俺は一つ溜息をついて熱を逃しつつわざとらしく咳をした。
「……話を戻そう」
「……負傷兵の救護は救護と収容は目途が立った、それでいいのよね?」
「ああ。兵と装具の補充は樊稠殿が差配してくれるらしい。洛陽からの負傷兵は安定で休養させればいいってさ。補充して貰った兵の方は明日には再編成が終わるんだったな、霞?」
「うわっ、さらっと無かったことにしよったで」
「まあ、これ以上玩具――おっと、弄るのはよしておきましょう……では一刀殿に次いで報告ですが、安定周辺には西涼軍の残党は見受けられない模様。恐らくではありますが、石城を攻囲している部隊との合流に向かったものかと思われますな」
張遼のじと目や軽口を珍しくも宥めながら、ちらっ、とだけこちらを一瞥して趙雲は地図の上で指を滑らせていく。
郭汜と李堪を成宜の遺体があった場所に残して趙雲と手を繋いで帰ったのは昨夜のことだが、あの白くて武器など握ったことなどないような指と繋いでいたのか、と不意に思い出して身体の熱を上げてしまう。
いかんいかん、と一息ついて熱を吐き出すと、ちらっ、とこちらを窺い見た趙雲と視線があって、にんまりと微笑まれてしまった。
視線の行先というか意味というか、そういったものを見抜かれているようで、報告を終えた趙雲がひらひらと手を振るうと彼女に視線が集まって、次いで、その趙雲の視線の先にいる俺に視線が注がれた。
二度の軍議の中断に、おっほんっ、と賈駆の咳払いに俺は苦笑いで頭をかいた。
笑みを崩さない趙雲がやれやれといった顔を向けてくる。
お前が言うな、と口にしたいがこれ以上の中断もさすがに悪いだろう。
はぁ、と諦めたような溜息一つに、からからと趙雲の笑い声が響いた。
「まぁ……何があったのかは今は聞かないでおきましょうかねー」
「……そうしてくれると助かる」
「何かあったと白状しているようなもんよね、それ」
「何かあったと白状しているようなものですね、その行動は」
「むぅ……」
中々軍議が進まないのだが、じとーっと音になりそうな視線を向けてくる程昱に頭痛を抑えていると、何処か納得していないような賈駆と郭嘉の言葉に、董卓の視線が重なった。
何があった、とありありと顔に浮かべて問いただしてくる皆に苦笑していると、もてる男はつらいですなぁ、と他人事のように趙雲が呟く。
お前が言うな、と二度目になる感情を込めて視線を向けてみれば、にやっ、と笑みを深めて再度手をひらひらとした――場の空気が冷やかになった気がするのは、気のせいのままにしておきたい。
「ふむ、では明後日――早ければ明日にでも石城に向けての準備が完了するということだな?」
「そう、だけど……華雄、あんたって……」
「む、どうした?」
「……いや、何でもないわ」
――しかし、華雄にはそういった空気は関係ないらしい。
それまで黙っていた華雄の言葉にがっくりと肩を落とす賈駆とそれに苦笑する董卓といったいつもの光景が出来上がり、それに合わせて張遼や俺達などもいつもの空気へと戻っていく。
――ちなみに呂布と陳宮は軍議には参加していない、宴の熱に引かれていったから今頃は肉まんでも食しているだろう。
ちらっ、一度だけ賈駆がこちらを窺い見たが、既に波は去ったと取ったのか、それ以上の言及はしてこなかった。
「ふう……そうね、それを前提にいきましょうか」
「出立はいつぐらいがいいのかな、詠ちゃん? それによっては、郭汜様達と話を詰めないといけないし」
「すぐにでも――とは言いたいけど、敵の本隊が待ってるだろうって戦に準備不足で行くのはさすがにね……」
「兵の再編と兵装が明日には整うというのなら、やはり明後日あたりではないでしょうか」
「敵さんの出方次第もあるでしょうが、その辺はどうなんでしょー?」
「……ぅん? ……うぇ、あたしッ?」
さて、軍議の続きである。
連戦によって損耗した軍勢の再編成は、先ほども告げたように明日を目処にすることが出来る。
死傷者は決して少ないとは言い難いが、安定の兵は幾分かの不平不満が溜まったままで吐き出す場所が必要だ、と郭シの言葉があったから再編成には苦労していない。
そういった者達に報いてやる時間が今は無いのが残念だが、同じことを呟いた董卓と賈駆ならばいいようにしてくれるだろうと、一人安心して、言葉の流れで馬超――西涼連合軍を良く知る人物へと視線を向けて――。
――こっくりこっくり、と船をこいでい馬超にがっくりとこけそうに成った。
うとうととしていた馬超だったが、はっと顔を上げたかと思うときょろきょろと周囲を見渡して、視線が集まっているのを確認してから話の中心が自分に集まったことを理解したらしい。
うとうとしても話は耳に入っていたらしい――そう感心していると、おば様に怒られて覚えた特技なの、とは馬岱の声。
深くは突っ込まないことにして、話の先を促した。
「え、ええと……多分だけど、残りを率いてるのは楊秋か候選殿、だろうな」
「えーとね、楊秋さんは韓遂おじさんの副将みたいな人で、候選さんは老将って感じの人かな」
「それは厄介そうな人ばかりが残ってますねー」
楊秋と候選。
西涼を調べさせた時の忍の報告では、両人ともに韓遂旗下としてその軍勢の中心人物だった武将達である。
韓遂の軍勢は韓遂を頂点としその二人がそれを支え、これまで戦ってきた李堪や馬玩、梁興などがそれに従う形であった。
要するに――韓遂亡き後の残党軍、その主戦力が石城を攻囲している、ということなのだ。
そしてそれを率いるはその主武将。
厄介、という程昱の一言が正しいと言えた。
「実戦経験豊富な歴戦の将と老練な将に、精鋭たる騎馬兵ですか……。厄介過ぎますね」
「……こっちが安定まで来てることを把握したとして、その戦力を持ってると仮定するならボクなら正面からぶつかるわね」
「正気か? 我らと相対してるうちに横腹を石城から食付かれるぞ」
「篭城で疲弊している石城には一軍を向けておけば事足りうるわ。或いは、それを態とちらつかせて出てきた所を逆撃、救援に急ごうとしたこちらを襲撃――十分に有りうる」
「こっちがどう動いても、敵さんの主力とはやり合わないかん、ちゅーことやな」
「……そうなるわね」
後手後手に回ってきた戦の集大成である、最後の最後まで後手に回るは仕方が無いといえた。
仕方が無いとはいっても、西涼騎馬兵の脅威は騎馬兵をこれまた主力とする董卓軍からすれば十分に理解しており、これと正面切って戦をすることに、この場に集まる全ての顔が――ただ一つだけを除いて難色を示す。
戦の構えが出来ていなかった梁興のように一当てでは崩れないだろう。
舟を繋げた簡易陸地にて騎馬に河を逆上させる手も既に伝わっていると見た方がいい、安定の通りにはいかぬことだろう。
時間をかけて調略謀略は無理だ、時間がかかり石城が陥落してしまう。
であるならば、取れる算段は一つだけの筈だ。
その一つだけ――正面衝突という策を、将のみならず軍師達までもが口に出せずにいた。
そんな中で――。
「――なら、正面から当たりましょう」
涼やかで、凛とした声が場を震わせた。
将でもなく軍師でもない――当主たる顔で董卓が厳かに、そして確かに口にしたその一言は、場を騒がせるには十分なものであった筈なのに静寂をそのままにする。
その場の誰もが、背筋に震えを覚えていた。
決戦。
その言葉は、もはや逃れ得ない現実として目の前を漂っていた。
**
「――そう……董卓は洛陽から出陣したのね」
「はっ。それに伴い洛陽の警戒が厳重になったとの報告が上がっております」
「何かあったと考えるべきね……天の御遣い――北郷は、董卓と?」
「そのように」
じじっ、と油が焼ける音が静かになった空間に響く。
ゆらり、と揺らめく炎によって空間が僅かに乱れ、そこにいる影が浮かび上がった。
「西涼連合との同盟――実質上は西涼の降伏ですが、両雄である韓遂と馬騰、馬騰の娘が洛陽に入っていたとの報もあります」
「精兵で名高い西涼軍が戦いもせずに降伏だと? 秋蘭、それは本当なのか?」
「どうやら本当のことらしい、姉者」
「黄巾との戦で共闘したことがあるとのことでしたので、その時の実力からのことでしょうか?」
またゆらりと炎が揺らめく。
趣こそ違えど美しいと判ずるに足る二人――秋蘭と呼ばれた蒼の髪の女性と彼女から姉と呼ばれた黒髪の女性。
まるで獣の――猫の耳のような形をした頭巾を被る、先の二人の女性よりも幼く見える少女とも呼べる一人。
夏候惇、夏候淵の姉妹と、軍師の旬彧である。
夜も深いからか、身は整えているものの軍装はなく、平服に近いものを纏っていた。
「詳細はこれからだけど、数倍の兵力差を討ち破ったということだったからその可能性も考慮しておいて頂戴、桂花」
「はっ、了解しました」
「青州から溢れてきた賊の動きはどう、秋蘭?」
「救援要請を受けてから各地に斥候を放っていますが、あまり良い状況とは言えないようです。紅瞬(こうしゅん、張莫の真名)様の陳留郡、我らが務める東郡こそ平穏なものの、奉山郡の辺りは荒らされているようです」
「当然だ、秋蘭よ。華琳様が治めるここが賊なんぞに荒らされる訳がなかろう」
それに私が警邏をしているのだぞ、と自信満々。
子供が威張るように胸を張る夏候惇に、人知れず夏候淵の頬が若干緩んだ。
それにふんと鼻を鳴らす旬彧、といういつもの光景に、彼女達の頭上――彼女達よりも少しだけ高い位置にある台座から、一人の少女が立ち上がる。
薄暗い炎だけの空間の中において、それでもなお輝かんばかりの黄金色に輝く髪は二つに纏められており、何時如何なる時でも完璧、という表現が正しいようなその姿は一郡の太守なれどまさしく王の威風を漂わせている。
軍装を纏っていないために飾りの少ない平服ではあるが、それでもなおまき散らかされる覇気は隠すことなく空間を満たしていた。
その覇気を、少女――曹操は膨張させた。
瞬間、今が夜更けであるということを忘れてしまうほどの存在を感じて、三人は一様に頭を下げた。
主たる曹操の、決断と指示を待ち望むかのように。
「桂花、公孫賛を攻めている麗羽の動向はどう?」
「守備兵を残しただけで、こちらはあまり警戒していないと思われます。少なくとも、侵攻はしてこないものと」
「戦況は?」
「袁紹が押しているようですが、公孫賛の元にいた劉備が公孫賛に助勢したらしく、やや拮抗しているとのことです」
「そう……春蘭、陽が昇りしだい兵を集めなさい。連合軍以降に参軍した新兵を中心にして頂戴」
「はッ、経験を積めるように古参の兵とある程度混ぜるように致します」
「ええ、それでお願い……秋蘭、紅瞬に東郡以東の賊徒征伐へ向かうことを伝達。加えて、青州の各太守に曹操が援軍に向かうことを伝えて頂戴」
「御意に。紅瞬様が合流を望まれたら如何しましょう?」
「許可するわ。けれど、董卓が洛陽から離れたとはいえ油断は無いように、と」
「はっ」
「結構。桂花は引き続き董卓と麗羽の動向に注意しつつ、兵糧などの後方支援準備と軍編成を春蘭と練って頂戴。必要であれば紅瞬と伝達を密にしても構わないわ」
「御意にございます」
ひらひら、と。
まるで熱に浮かされたかのように揺らめく炎の中に羽虫が迷い込む。
一瞬のままに炎に巻かれて焼かれた羽虫は、そのまま少しばかりの炎を灯りとしたままちりぢりに闇夜に溶けていく。
その様が、まるで黄金の粒子が曹操から放たれているようで。
黄金の髪に映える粒子を嫌うことなく、曹操はそれを楽しむかのように覇気を吐き出した。
「出立は三日後。東郡以東に蔓延る賊軍を制圧し、可能なようなら青州も一気に呑み込むわ。各員、奮起しなさいッ」
「ははッ!」
曹操、動く。
大陸各地の動乱の色濃さがますます増していく中、一郡の太守でしかない少女の動向はさしたる注目は集めなかった。
反董卓連合軍を破った董卓、北方の雄である袁紹。
この二勢力の動向が、民草の耳や目をさらっていたからである。
だが、彼らは知ることになる。
兗州にて賊軍相手に奮戦していた義勇軍を旗下に治め、青州に蔓延る黄巾残党をその非戦闘員ごと吸収し、一気に勢力を拡大するその少女の名を。
――後に覇王と呼ばれる、英雄の飛躍の時であった。
**
「く」
――そうして。
「くく」
西に董卓が決戦を望み。
「くく――は」
北に袁紹が公孫賛と劉備に争い。
「は――ははは」
東に曹操が覇を唱えんと動く――その時を。
その瞬間の到来を待っていたかのように。
「は――くく、はははははははははははッ」
半面を白い影で覆った男は狂おしそうに嗤った。
何度も、何度も。
何度も、何度も――久しぶりに声を上げるかのように。
仮面に覆われた半顔のみならず、その仮面の形すらもを歪めるかのように。
「は、ははッ。――ああ、これでようやく始められる」
笑って、嗤って、哂い倒して。
男は――司馬懿は、これで始められるのだ、と再度小さく呟いて。
夜が明けゆく大地――その彼方にて陽光に煌めいて蠢く影に、再び口端を吊り上げていた。
**
「……」
そうして、夜が完全に明けた空に一度だけ俺は視線を向けた。
暗く濁った雲が晴れ渡っていた天の支配を始めていく――そんな変化に併せるかのように、石城を取り巻く環境は激動の時を迎えていた。
「……完璧な布陣ね、惚れ惚れするわ」
「引くに易く、守るに固く、攻めるは強し。騎馬隊のお手本とも言える布陣ですね」
「何の、月様。我が武と精鋭たる兵ならばあのような騎馬隊、物ともしませぬ」
石城を攻囲していたであろう西涼軍は、その攻囲をほぼ解いた状態で大きく羽を広げた鳥のように布陣しており、その片翼が攻囲と言うほどではないにせよ石城を押さえ込むかのように形を変えていた。
鶴翼の陣、と呼ぶものである。
騎馬の威力でもある突撃力を最も活かす陣というものではないが、機動力を絡めた包囲攻撃を行う上でこれ以上の布陣は無いだろう。
騎馬を主戦力とする西涼軍からすれば賈駆と董卓の言葉通り、最適解たる布陣である。
――華雄はいつものことだ。
それに対して、こちら――董卓軍の布陣はつい先ほど完了した。
西涼軍がすでに布陣を終えてこちらを待ち構えていたことは、先行して偵察していた忍の報告として知り得ていたので、幾分か戦場になるであろう地域より前にて布陣を行いそのまま前進、という賈駆の指示に従った形である。
石城が攻囲されたままなら数瞬すら惜しんで突撃あるのみだったかもしれないが、一応とはいえ攻囲を解かれているのならばそれに無策で飛び込むは愚策であった。
故に、董卓軍は巧遅という策を取ったのだ。
「やぁっと存分に暴れられるでえ。慣れんことすんは肩が凝るわ」
「暴れるだけでは駄目だということは……分かって頂けないのでしょうね」
「稟ちゃーん、そろそろ慣れた方がいいと思いますよー?」
「暴れるだけ、だめ……石城も守る」
「恋殿の言う通りなのですよ、霞!
布陣する前を叩かれる、という気憂を排しての進軍は思いのほかに重圧を感じるものであったが、ここまでの連戦にも関わらず兵達の中にはそういった空気は感じられない。
長駆と連戦に続き、大陸最強とも言えるだろう騎馬軍団との戦を目前に控えてなお疲弊悲壮の類は感じられず、溢れんばかりの闘気が士気を高揚させていた。
その理由は――誰もが答えるであろう、石城を解放するためだ、と。
暗殺未遂から始まり、長安襲撃を阻止し、安定包囲軍を撃滅せしめ、そして最後に石城を攻囲していた軍勢との決戦を控える。
――そんなもん昂ぶらん方が可笑しいわ、とにやりと笑った張遼が全てを物語っていた。
「だからって、固くなり過ぎちゃ駄目だよ、お姉様?」
「わ、分かってるよっ」
「ほんとーにぃ? また猪みたいに突出されたら大変だからね」
「た、蒲公英、お前ッ」
だからこそ、交渉の場も口合戦の場も必要ない。
こちらの姿を確認した西涼軍はその足を動かし始め、それを確認したこちらもまた、誰ともなく武器を構えた。
――空気が一気に張りつめて、背筋にぞくりとした何かが這いずり回った。
「――石城の様子はどうなっていますか、一刀さん?」
「忍からの報告では、攻囲解除の報から軍備と状況の確認を行っているらしい。じきに援軍到着の確認もしてくれると思う」
「――分かりました。稚然(李確の字)に機を見て動いてください、と」
「忍に伝えておくよ」
「……それと、もう一つ」
「……」
「――ありがとうございます、と」
「……ああ」
その空気に合わせるかのように、董卓が息を吐いた。
深く、深く、深く――。
すぐにでも石城の状況や李確殿の状況を確認したいだろうに、それでもそれを押しとどめるその様につられて、俺も言葉少なに答えた。
それでも。
たった一言のありがとうに込められた想いは伝えるように、と。
持ちこたえてくれた、守ってくれた、その全てのありがとうを伝えてあげるために。
再度息を――号令をかけるために口火を切る董卓の影に隠れて、俺は忍へと指示を出していた。
西涼韓遂の乱、石城の戦い。
――決戦の時である。