一突き、続く一閃。
敵兵の首元に突き刺された偃月刀が横真一文字に振り切られ、その隣で慌ててそれを防ごうとした敵兵の剣をそれごと叩き折って、その首を刎ね上げる。
繰り出される槍は偃月刀で斬り上げて、体勢の悪さから、後ろに続く兵に始末を任せて彼女――張遼は馬上でありながらも旋風の如く、血潮を跳ね上げながら馬を進めていく。
馬駆ける先に在れば偃月刀の錆とし、馬傷つけんとする者がいれば血潮へと沈める。
まさしく、人馬一体。
そんな有様に感嘆しつつ、俺は声を張り上げた。
「叫べ叫べッ、今こそ攻め時と鼓舞しろッ! 張文遠が来たと全軍に知らしめろッ」
「全軍、一気に攻勢へッ! ここが攻め時よッ、一気に進みなさいッ」
「霞さんは攪乱をッ! 詠ちゃん、右翼が手薄になってるよっ」
「はは、了解や、月っち。――このまま一気に行くでェッ!」
――戦場は、終局を目前とした混沌と化していた。
騎兵の勢いと速度という優位をもって董卓軍を蹂躙しようとしていた西涼軍は、俺と趙雲が率いる遊撃隊の横撃によって脚を弱めてその優位を薄くし。
食い止めたものの徐々に押し込められ始めていた戦場は、後方より現れた援軍――張遼によって、一気にその色を変えていた。
前方に董卓本隊、横に俺、後方に張遼――空いている横には安定の城壁。
兵数は五分に近く、勢いはもはや雲泥の差。
――戦の趨勢は、ほぼ決していた。
「……一刀殿、前に出過ぎですぞ、自重なされい」
「む、ぐ……はい」
「ふふ、戦に滾るは将の性ですからな、無理も無い――が、その身に負傷を抱えていることを十分にお考えられよ」
「……御意に」
「く、はは。それならばよいでしょう」
ざんっ、と振り落される剣戟に身体を反応させながら、鉄と鉄がぶつかる甲高い音に少しだけ安堵する。
眼前に迫る白刃を弾き飛ばした槍の穂先とその主――趙雲が自らを見つめていることから逃れようと視線を外し、それすら関係は無しにと零された苦言に肩を落とす。
戦の趨勢はほぼ董卓軍に偏っている――だが、それをもって油断とするわけにはいかない。
俺は韓遂の手によって負傷したままで、敵軍勢は包囲しているものの初めに予想された総数とは違って、いつその差分が援軍に来ないとも限らないのだ。
流れる清水のように冷やかな瞳を細めた趙雲の視線からそのことを思考に纏めて、俺はふぅ、と息を吐きながら戦場を見渡した。
今この身は、些少であっても武を振るう将ではなく、智をもって戦場を制する将であるのだ、と自らに刻むように胸を部分を拳でとん、と叩いて――ふと、視界の端で奇妙に動く敵軍を見た。
「ん……?」
それは、ただの見間違いだったのかもしれない。
敵軍と言えばそう見えるし、鎧を脱いだ董卓軍と言えばそうとも見えた。
戦場は乱戦の様相を超えて撃滅へと移行し始めていて、剣を投げ捨てたり槍を地に刺したりして降伏の意思を示し始めている西涼兵がちらほらと確認出来ている。
そんな戦場の推移があれば、そういった兵の中にも森の中に逃げ込もうとする者達が出るのは何らおかしくは無いはずである――だというのに。
その奇妙さが、いやに肌を撫でた。
――胸の奥を鷲掴みにするような、そんな嫌悪感。
「……」
「む……如何なされた? もしや、傷が?」
「いえ……そういう訳ではありませんが」
「……気になる点がある、とでも?」
「お分かりになりますか?」
「稟や風と共に旅をしてきたのです、それぐらいのこと、気づかぬわけがない」
「はは、ごもっともで」
郭嘉と程昱なら、この奇妙な風から何かしらを読み取ることが出来るだろうか。
そんなことを考えて、すぐさま思考から追い出して、俺は戦の邪魔にならぬように少しばかり後方へと馬を動かして考えを纏めていく。
戦の趨勢、奇妙な動き、降伏の動きを見せ始めた敵軍。
――決断は早かった。
「子龍殿、頼みがあります」
「ふむ……。そうですな……戦が終わった後に、一刀殿のおごりで酒が呑みかわせるなら」
「それぐらいのことなら喜んで」
「ふふ、楽しみにしておきましょう。――では」
「はい――子龍殿には、兵を率い頂きたい」
「……ん。ふふ、くすぐったいですぞ、一刀殿」
「こ、これは失礼……」
まるで雷鳴が如く数度突き出された槍によって、周囲にて隙を窺っていた敵兵の尽くは地へと倒れた。
さらに視線を進ませればまだ数十にもなる敵兵がいることだが、それも、こちらの勢いに気圧されて降伏の意思を示している。
自らの周囲にいる兵達にそれらの捕縛を指示しながら、俺はそそっ、と連れ添うように身を寄せてきた趙雲の耳元で指示を下す。
周囲の兵に聞こえては要らぬ混乱を撒き散らすかもしれない、なんてことを考えて、趙雲の耳元で囁くによう行ったそれは、くすぐったそうに身を捩って流し目を向けてくる俺の精神に要らぬ混乱を持ち込んだだけだったりするのだが。
それはさておいて。
とりあえずの動きは決まった。
兵を率いて外れる――それはつまり、目の前にある戦勝から外されるという意味でもあったが、趙雲はそんなことを気にしたふうでもなく、俺が向けた視線の先を一瞥すると一度だけ頷いた。
――動きは早いに限る。
その頷きを確認した俺は、伝令に俺が率いていた遊撃隊は後退して包囲の蓋に徹すること、その動きと趙雲が少しばかり外れるという旨を董卓達に伝えるようにと指示を下して、もう一度だけ頷いた。
戦場を眺める。
俺の考えが正解であるのか、包囲された西涼軍は唐突に水を堰き止めたかと思えるほどに勢いを失い、ぞろぞろと降伏した者達がこちらの包囲から弾きだされていく。
もはや抵抗しているものは数えられるほどで、三方向から囲んでいた董卓軍は既に一つの塊として動いていた。
もはや勝鬨が上がるのは時間の問題。
その後は――。
ふるふる、と頭を振って、油断を頭の中から追い出して、また戦場を一瞥する。
溜息で、一度だけ肩の力を抜いた。
**
「――どけ」
轟、と。
斬るでもなく払うでもなく、叩くでもなく弾くでもなく――ただ純粋な、力の奔流。
たった一言だけ呟いてそれは誰に止められるでもなく振るわれ、西涼の兵に死相を刻む――否、死そのものをもたらしていく。
まるで血を呷ったように赤く煌めく髪を翻して、呂布は次なる撃を繰り出そうと淡々と武器を振り上げる。
「おおおぉぉぉぉッ」
鈍、と。
ただ力の限りに叩きつける力の漲りが、一人の西涼兵を血滴る肉塊へと変えた。
呂布のただ力であるそれとは違い、武という名の下に鍛え磨き上げられたその力を、華雄は存分に振り回す。
金剛爆斧、そう名付けられた武器を小枝の如くに振り回して進むさまは、まさしく獣のようである。
「ふ、はは……ッ。こうまでくれば戦術や策など意味を成さぬ、か……」
そんな光景を。
董卓軍の諸将が武器を振り、たった一撃を下すだけで自らが汗水流して下した策の全てが叩き潰されていくそんな光景に、李堪は苦笑と愉悦混じりに口を歪める。
武は無くとも智で名を残す――そんな一念を胸中に抱いていたのは、いつのころまでだったか。
韓遂軍の将兵となったころか。
馬玩が壊されたころか。
将として軍師として、満足してしまうところまで上り詰めたころか。
それとも――。
「はッ……いかんな、これはいかん。……李汎季が臆病風に吹かれた、などと錫辟(しゃくへき、成宜の字)に笑われてしまうな」
ぐるぐると思考の中に終わらない渦が生まれそうになるのを、李堪は一度だけ深く息をついてそれを払拭する。
土煙と血と臓物の臭いが鼻の奥を突いて眉を顰め、それが幸いしてか李堪は目の前の戦場に帰ってくることが出来た。
――思考に耽っている場合でもなければ、過去を悩む場合でもないな。
今目の前にあるは戦場で、負け戦で、回りにいるはそんな状況下にあっても我が策を待ち下す将兵達なのだ、と李堪は己を鼓舞するかのようにもう一度だけ息を吐いた。
「うららららら――らぁぁッ」
「ふぅッ――シャアアァァァッッ」
そんな李堪の視線の先で、二人の将が兵を近づかせず、弾き飛ばすほどに激しくぶつかりあっていた。
土煙と血と臓物――そして、それを弾き飛ばすほどの裂帛の気迫の応酬。
馬玩と馬超。
同じ馬姓として馬と草原と風に愛された二人の戦いは、もはや周囲の兵がついていけないほどに苛烈を極めていた。
馬上ということを感じさせぬほどに苛烈で熾烈な馬超の連続突きを、こちらも馬上ということを感じさせぬ、まるで風のようにしなやかに馬玩はよけて、力の限りの突きを繰り出して応酬する。
あまりの威力と速度に薄く舞った土煙が円に刳り貫かれて、それすらも髪にすら掠らせることなく馬超が避けて、距離を取る。
――現状を切り抜ける最上が策は、馬玩が馬超を打ち破ることか。
馬玩と馬超、二人の死闘と呼ぶに相応しい戦いを目にして、李堪はそう戦を結論付けた。
負けは確定的で、今の戦況からすれば逆転の策はもはや考えることすら不可能である。
覆せない絶対の戦況――絶対の敗北。
そこから取れる手があるとすれば、それは逆転を目指すことではなく如何にして敗北の被害を抑えるか、ということであると軍師として定めたのだが。
呂布と華雄に正面を抑えられ、安定の街から出陣した兵によって横を抑えられ、反対側は突如として後方より現れた騎馬隊によって抑えられている状況にあっては、それもかなり難しい注文となっている。
全軍壊滅か、或いは捕縛されるか。
そんな選択肢が頭の中をちらつく中でそれでも手繰り寄せた策は――馬玩が馬超を討ち取り、馬超を討ち取った馬玩が名乗りを上げている隙と混乱に乗じて彼女を囮にして逃げる、などという策であった。
「ッ」
――しかし。
すぐさま、そんな策を頭の中から消去する。
幾度も幾度も浮かぶその策を李堪は必死に思考から消去しては、自らが脳裏に浮かべる最低最悪の策に歯噛みし、唇を強く噛み締める。
軍師としてであれば、馬玩を囮にしてでも己と兵を逃がす策が最上であると考えつくというのに、個人として将兵として、果てる覚悟を決めた自身がそれを拒む。
ヂッ、と馬超の槍がかすめた頬から血を流す馬玩が負けじと槍を振るい馬超の髪を数本だけ宙にさらし、さらなる攻勢を駆けていく――。
――ゾンッ、と繰り出された馬超の槍が馬玩の髪を数本纏めて葬り去った。
「く……ぅっ……わた、しは……」
その光景に、ぞくりっ、と背筋が震えるのを李堪は腕を組むことでなんとか耐える。
宙を舞った馬超と馬玩の髪は既に大地へと落ち切っており、それは二人が操る馬によって滅茶苦茶に足蹴にされている。
――はっきりと言って、馬超は強い。
馬と風に愛されているという点では馬玩も同じだろうが、そこにある意志がもはや別物だと李堪は何処かで理解していた。
それと同時に、馬玩は敗れるだろうということも、また、思考の何処かで理解していたことに李堪は何ら驚くことは無かった。
西涼の名を背負って賊を討たんとする馬超と、自らを壊したものの仇を討つという相反する目的の馬玩。
二人の意志の違いは明確にその武力を分かち、その澱み濁っていた流れを一気に押し流していく。
馬玩のきめ細かい頬に切り傷が増えて、その肩が上下を始めていく。
対しての馬超は、肩こそ息を切らせ始めたもののその姿は傷一つなく、その眼に宿る意志に陰りは一つも見当たらない。
まさしく、錦。
その姿をもって、李堪は事ここに全て敗れたことを悟った。
「……総員、覚悟は決まっているか?」
「へ、へへっ。李堪様のお言葉通り、生きる覚悟は出来てます」
「応よッ。この身命、李堪様の策が通りに動いてみせますぞッ」
「ご指示をッ」
「ご指示をッ」
だとすれば、次なる策を下すは早い方が良い。
戦は負け、馬超と馬玩の一騎討ちも負け、そうなってくれば逃げるしか他は無い。
負けぬと決めた、守ると決めた、果てると決めた――その覚悟。
その定めた覚悟が敗れるがなんと早いことか、と李堪は苦笑気味に自らの指示を待つ兵達に視線を回した。
幸いというか、呂布と華雄が率いる董卓軍は安定の解放のためにそこから出撃した安定軍との合流を最優先しているし、後方から奇襲してきた部隊はこちらを抑え込む動きに終始している。
馬超から指揮権を預けられた馬岱はまだ慣れていないのか、或いは馬超のことを心配しているのか、その動きが若干鈍い――付け入る隙は、そこにあった。
「となれば、だ……」
反対側にて董卓軍と当たっているであろう成宜まで気が回らないのは残念なことだが、あいつのことだ、自分よりもよほど上手く立ち回っているだろうことは容易に想像できる。
もしやすれば、なんて思わないでもないが、過度な期待は禁物だとばかりに李堪は頭を振って視線を戦場――馬玩と馬超へと向けた。
馬玩が馬超を打ち破ることが出来れば、馬岱はさらなる混乱をもって戦場をかき乱してくれることだろう。
そうなれば戦場から撤退することはかなり容易になる筈である――が、それはすなわち、馬玩が馬超に敗れた時は全てが終わるということでもあった。
機動力の要である騎馬隊の指揮は馬岱で覚束ず、その上をいく馬超は馬玩に止められている。
その止めている馬玩が敗れれば馬超は一気に矛先を変えてこちらを攻めて来るだろうことは、容易に想像できた。
だからこそ。
だからこそ――李堪は馬玩の一騎討ちの援護に回ると決めた。
「全軍ッ、馬岱率いる騎馬隊に一気呵成に攻めかかれッ! 我らが生きるために馬岱を打ち破るのだッ!」
「え、ええっ? わわッ」
馬超から指揮を預けられた馬岱。
彼の者を攻めれば馬超のことだ、きっとそちらの方に意識が向くはずである。
その時こそ、馬玩が馬超を討つ絶好の好機であることは想像に難くなく――その時こそ、西涼軍がこの戦場を離れられる唯一の機会であるのだ。
だからこそ、それを李堪が口に出さずともその麾下の兵達は皆一斉に馬岱に向けて殺到を始めた。
皆が皆、ここが文字通り生きるか死ぬかの正念場であることを理解しているのだ。
――すまぬ。
軍師として将として、そのような戦場に兵を招き入れたことにぽつりと一言だけ李堪は呟いて、そして剣を掲げた。
その視線の先には敵将――馬岱。
馬超には劣りはするもののその性は生粋の武人である彼女に、軍師たる自分が斬りかかろうとするその可笑しさに李堪は苦笑し、そして馬を駆けさせた。
「馬岱ッ、その首、貰い受けるッッ」
「むむっ、負けないんだからッ」
奇しくも。
李堪と馬岱。
馬玩と馬超。
それぞれが鉄と鉄のぶつかり合う甲高い音をさせたのは、ほぼ同時であった。
**
「……負けちゃったわねぇ」
成宜は心の何処かで推測していた事実をぽつりと呟く。
李堪と別れ際に負けると述べたものの、そのまま負けるつもりなど成宜には毛頭無かった。
騎馬の勢いに任せて董卓軍を正面から突き抜けて、李堪が防いでいた董卓軍別働隊の後背を突いて瓦解させ、しかる後に董卓全軍を打ち破る。
たったそれだけのこと。
たったそれだけのことをすれば勝てる筈だと分かれた後に策を練り指示を下し――それでもなお、こちらの上をいった董卓軍の横撃によって勢いは挫かれて敗北を決めつけられた。
その敗北に落ちた戦場は、既に後方にあった。
董卓軍が横撃――奇襲に用いた森の中にあって、茂みの中からでは戦場の喧噪しか確認出来ない。
将も兵も、その姿は確認出来ず、その生死さえ不明である。
自らの周囲に侍るは数人の親衛隊のみで、その姿でさえ疲弊と損耗と血泥に塗れていた。
「ふぅむ……さて、と」
自らの身には傷も怪我も無かったが、やはりというか、長期の籠城戦とから敗北という疲労は隠せることなく、身体を覆っている。
脚は重く、ともすればこのまま清流流る小川のほとりにて眠りたいなどと思うが、しかし、そのようなことをしている場合ではないと自らの身体に活を入れた。
この敗北を、石城を包囲している西涼軍本隊に伝えなければならない。
伝令は既に発したがそれもどれだけ辿り着けるかは分からず、しかも策の失敗を伝えるためのものだ、どこまで信じられるかは定かではない。
もしその伝令を信じることなく包囲を続けた結果、今こうして安定を解放した董卓軍がまた石城解放のために発した軍と戦闘になることは想像に難くない。
連戦連勝と石城という董卓故郷の解放からなる士気の高揚と安定の兵を含めた数的優位。
西涼軍の敗北は日の目を見るより明らかであった。
だからこそ、成宜は戦場を抜けて石城まで辿り着かねばならない。
無事に、とはいかないまでもどうにかして――。
そう決断した成宜は、喧噪が木々の合間から漏れ聞こえる程度の場所にて、従う兵へと指示を下した。
「ぬしは他二人を連れてここを中心として周囲を索敵せよ、敵を見つければ一人が盾となりて二人が万全の伝令となりてそれを報せぃ。他の者はあたしに続いて同じように敵が現れれば一人が壁となり盾となりてあたしを守りなさいな」
「……」
指示は簡潔――盾となって死ね、ただそれだけである。
一心となれる馬はなく、道程は敵勢力圏内で、兵も少数。
決死行であることは疑わず、成宜は自らの身命を最優先するべし、との指示を下して森の中を行こうと脚を踏みだし――。
「――ぐ?」
――ずんっ、と鈍い痛みと熱い衝撃を、右脇腹に覚えた。
「――か……はっ?」
じくり、と身体の奥が悲鳴を上げる。
衝撃に押されて吐き出されたのか、肺の中から空気を全て押し出したかのように身体は重く感じ、視界はまるで強風に煽られた水面のように歪められていく。
――何が起きたか、理解出来ない。
理解出来ないまでも、その痛みが身体の自由を失わせていき、歪む意識と視界いっぱいに広がる地が、自らが倒れたことを知らせていた。
ごぼっ、と胸の奥から上り詰めた何かが咳とともに吐き出され、視界の縁を赤く染める。
ずくんっ、ずくんっ、と。
もはや誰であったか思い出せない男に乙女の純潔を捧げた時のような痛みは、けれどその時より遥かに大きく、胸の奥から何かを――血をせり上がらせた。
「ぐ、ごほっ……げほっ……」
三度四度、咳き込んでは視界に映る大地に赤き血を染みこませていって、そこでようやく自らが刺されたことを成宜は理解した。
無意識にやっていた手はぬるりとした熱い血に濡れており、その傷からは止まることなく血が溢れ出てくる。
傷はそこまで深くはない――が、かといって放って置いてもいい傷でもない。
ならば処置を、と思わないでもないのだが。
指示を下そうとした成宜が地に伏しながらも振り向いた途端、その身体は仰向けへと移されていた。
それを成した者の手には、血に濡れた剣がある――自らが連れていた兵の一人だった。
「ぬし、ら……ご、ほっ……」
「こ……このままだと、俺等まで殺されちまうッ」
「成宜様の……あんたの首さえあれば、俺等は見逃してくれるかもしれねぇ」
「あんたの命令でただ死ぬぐらいなら……俺等は……」
今こうして見返してみて、自分に従っていた兵が五人であったことを初めて成宜は知ったが、その五人ともが剣を抜き、自らへと暗く淀んだ瞳を向けていた。
戦の後に少しでも多く良い恩賞にありつこうとする、そんな者の目だ。
「ご……はぁ、くはっ……ぁ」
泥のように重く、血のようにぬめりつく瞳を前にしても、成宜としてはどうしようもない、というのが歪む意識の中で定めたたった一つの理解だった。
自らは腹を突かれ、溜まっていた疲弊と傷が重なってもはや自分の身体ではないかのように重い。
そんな有様で首を斬られることを防ぐことが出来ようか、などと思って――成宜は全てを諦めたかのように全身の力を抜いた。
森の木々からのぞく空を仰ぎ見るように――いつかの草原で見た空を求めるかのように、両手両足を投げて大の字で寝そべる。
衣服は血と泥で汚れて、常からは見るも無惨に乱れている。
露わになった脚は太腿まで現れ、土のついたその様が嗜虐心を煽る。
傷を確かめるように動いた腕によって胸元は今にも零れそうで、流した血の多さの分だけ色白く艶めかしい。
そんな姿を自らが視認できるはずも無く。
それでも、それが空を見る時の格好であるのだ、と誇示するように咳き込みながらも一つ息を吐いて。
歪み霞んでいく意識の中で、自らの肌に触れる熱を感じた。
「ひ、ひひ……首もってく前に、少しだけ楽しんでも」
「あ、ああっ……そうだ、そうだッ」
「いつもいつも扱き使われてきたんだッ、今ばかりは俺等が上でも問題ねぇッ」
「いつもいつも誘うような格好をしやがってよぉッ」
泥のように重く、血のようにぬめりつく視線が全身を舐め回し、そこに獣のような欲が生まれるのを、成宜はごぼりっ、と血を吐き出しながらどうでもいいと一瞥する。
自らに残された灯火は今にも消えそうなほどに儚くて、兵達が行おうとしている行為に抗う気力も術も無い。
歪む視界は空を移して、その端で下卑た笑みを浮かべる者達など、もはや気に留める気力も無かった。
そんな瞳を、成宜はそっと閉じる。
朧気に肌を撫でる熱と感触はもはや自らの意識から遠いもので、瞳を閉じればそれは自分のものでは無いように思えた。
これから獣欲が如くの陵辱の目に遭おうというのに、その様は実に自然なもので。
自然ながらもその不自然さに、それをこれから壊すのだと、汚すのだという行為に興奮しているであろう兵の姿は、もはや認知出来ないままだった。
自らのものか、或いは獣欲と興奮に染まった兵達のものか。
荒々しい息は段々と収まっていき――。
――ある日の草原のように、眠るような静寂だけが成宜の意識を埋めていった。
**
「せいせいせい、せいやぁぁッッ」
「シャッ、シャア、シャアァァァッッ」
鈍く、鋭い。
冷たく、温い。
緩く、速い。
そんな相反する印象を馬玩の撃に抱きながら、それを髪一重で避けて馬超は愛槍――銀閃を繰り出していく。
ボッ、と空気を突き破る音が耳元から聞こえ、さらりとその奔流に巻き込まれて自らの髪が数本宙を舞うのを視界の端に留めながら、それをさして気にすることもなく、槍を突き出す。
「馬超ォォゥゥ、馬超ォォォォォッッ」
「はっ、獣みたいじゃないか」
まるで人馬ではなくそれ一体が全く別の獣のような動きをしながら迫る馬玩の槍を回避して、馬超はちらりとだけ戦場を見やる。
戦場は、もはや終息へと動いていた。
董卓軍が西涼軍を囲み圧し潰すように動いており、組織だって抵抗している西涼軍はそれを破り切れずにただ数を減らしていた。
西涼軍の中に翻る旗から、その指揮は李堪が取っているのだろう。
韓遂麾下の中でも頭が良いほうで、底意地の悪い方に良い成宜と組んで謀略策略の方面で韓遂を支えていたと覚えている。
味方とすれば直情型の多い西涼の中では頼もしくて、敵にすれば恐ろしいだろうな、なんて考えていたけれど、それも、結局のところは数と質によって敗北の色を濃くしていた。
「え、ええっと、右向け右ー!」
そんな崩れゆく西涼兵が殺到する最中で、従妹である馬岱の間延びしたような声にどことなくほっとする。
いつもは生意気盛りで武人や将としての心構えというものが分かっているのか怪しい奴だが、それでも、自らの妹分であるならば大丈夫だと信じている。
だからこそ、あいつならば任せられる、と一つだけ息を吐いて、馬超は馬玩を見据えた。
――李堪の最後の策の一つが、崩れた瞬間でもあった。
「もう終わりだ、馬玩……元仲間の頼みだ、降伏するなら命だけは助けてやる」
「きき、かか……梁興様は、何処? 何処、何処ッ、何処ォォッ」
そんなことは露知らず、馬超は馬玩へ槍の穂先を向ける。
交じり合うは殺気籠もる視線で、間にあるは色濃い殺気に当てられて毒気を孕んだ空気。
馬超に、もはや裏切られたという怒りも西涼の名を乏しめたという憤りも無い。
この辺が単純である、と母親に弄られる由縁であるのだが、洛陽を出て長安付近にて梁興を討った時にあった怒りは、ここに馬で駆けてくる間に綺麗に精算されていた。
だが決して怒りそのものが消えた訳ではない。
ただただ綺麗に精練され、静かな殺気となって放っているだけだ。
「……」
「何処ぉ……梁興さまぁ……くか、かかか」
痙攣するかのように身体を震わせる馬玩に、馬超は瞳を細めた。
――混乱渦巻く戦場の最中において馬超と槍を合わしているというのに、馬玩は身体を震わせては時折思い出したかのように周囲を見渡して、梁興の名を呼んだ。
壊れている。
摩耗している。
腐っている――手遅れな、状態。
それが、酷く滑稽で、酷く悲しいものに見えたのだ。
「馬玩……」
「……馬超……梁興様は、梁興様は……ぁぁ……」
だからこそ、馬超は槍を静かに構える。
向けられた殺気と気配によって再びこちらを見据える馬玩に、その槍の穂先を向けて――言葉に出さず、表情にも出さず、誰にも知らせることはなく。
ただ一度だけ、泣いた。
「……くか、くく」
ねっとりと粘つくような殺気を意に介することなく、馬超は一つ息を吸って、それを大きく吐いた。
たったそれだけで喧騒溢れる戦場の中にあるにも関わらず、その全てが遠く静かになっていく感覚。
自分の呼吸の音が酷く大きい。
かちゃり、と槍を握り直した音が頭の中に響いて、馬玩の壊れた笑い声がそこから洗い流された。
緩やかな風が頬を撫でていくような感覚に、かつて彼女と共にあった戦場の匂いが混ざった中で――。
――馬超は、ただ一瞬の間に馬を駆けさせた。
「……これで、終わりだ――馬玩」
緩やかにも感じられる、その瞬間。
実際には数瞬程度であるのに、終わってみればその時間が凄く長く感じられた。
にも関わらず、たった一度の交差はたった一瞬の交差のように短くて。
「……馬、超…………」
図らずも、梁興と同じく一合のもとに斬り捨てた馬玩が馬からずり落ちて地に落ちるのを、音だけで感じ取れた。
遅れてわっと湧いた戦場の喧騒が静かに感じられていた周囲を打ち砕き、耳を打ち、身体を震わせ、砂と血と風の匂いを届かせてくる。
そんな中に混じって呟かれた自らの名前に込められていた意味は、何だったのだろう。
驚愕か。
困惑か。
恐怖か。
或いは――解き放たれる安堵か。
じわり、と広がっていく血に埋もれていく馬玩はぴくりとも動くことはなく、馬超がその答えを聞くことは永遠に失われることになった。
しかし、事実は事実として受け止めなければならない。
答えを聞くことが出来なくなったことも、敵将となっていた馬玩を討ち破ったことも――ただ馬超の一撃を抵抗することなく受け入れた、その姿も。
その何もかもを受け入れて、それでも隠せぬ胸の内の全てを吐き出すかのように馬超は咆哮した。
「敵将……敵将、馬玩、この馬超が討ち取ったァァッッ!」
それは或いは慟哭で。
獣の遠吠えのように、戦場の隅々まで響いてそれを伝えた。
そうして。
「……終わった、か」
その咆哮に溶けるような事実を耳にして、戦場にあった李堪は瞑目したまま空を見上げて剣を力なく下ろす。
その姿は、安定を巡る戦の終結を表現するに十分なものであった。