「らぁぁッ!」
振り下ろされた剣を槍で微かに撫でた後、馬超はそれを一息に押し返して敵兵の体勢を崩す。
返すままに後方から駆けようとしていた敵兵の首元へ槍を突き入れると、石突によって体勢を崩していた敵兵をそのまま馬上から跳ね飛ばした。
本来、騎乗戦闘というものにおいて落馬というのは死することに近い。
体勢を崩したところを敵に狙われるというのもあるが、何より、間断なく周囲を踏み荒らす馬によって押しつぶされるという危険性があるからだ。
馬上から落ちた敵兵も、苦悶の声もままならぬまま騎馬の放つ砂煙の中へと消えていった。
「せいっ、せいッ、せぇぇいィッ!」
繰り出される槍の横薙ぎを、馬超は身を縮めることで難なくと避ける。
横薙ぎによる風圧に馬超の髪が幾分か巻き上げられるが、それを気にすることなく馬超は眼前から迫ろうとしていた敵兵へと槍を突き入れる。
そうして、敵兵の胸元に槍を突き入れたまま馬超は馬腹を蹴り手綱を操って、愛馬をその馬で一回転させる。
敵兵に刺さった槍はその肉を切り裂き、そして次なる獲物――周囲の敵兵をも切り裂いていく。
その勢いのままに槍を振るった馬超の周りから、敵兵が馬上から地へと落ちていった。
「く、くそっ……ひるむなッ。一気に押し掛かれっ」
「し、しかし、梁興様が討たれた今、ここは一度馬玩様と合流されるために退いた方が……」
「んなこと出来る訳ねえだろッ。馬玩の姉貴に殺されちまうのが目に見えてんだろうがッ。ならここは、あの馬騰の娘を――ぐふァァッ?!」
「じゃまだァッ、そこォッ」
飛びしきる血飛沫に濡れることもなく、髪を振り乱しながら馬超は槍を振りかざす。
一度振れば首が飛び、二度振れば馬は倒れ、三度振れば攻め寄せていた兵は馬を止める。
騎馬隊にとって勢いとはまさしく攻撃力であり、それを止めてしまえばそれは零となるもの。
指揮官たればそれを阻止するものなのだが、その指揮官たる梁興は既に一撃の下に討たれており、梁興の代わりとなる者などその軍勢には存在しなかった。
そうして、馬超は再び槍を振るう。
「しゃああぁぁぁッッッ!」
「ひぎゃぁぁぁッ?! うでが、うでがぁぁぁッ」
腰の捻りを加えた一撃を敵兵の肩へと突き入れて、その勢いのままに一気に切り上げる。
威力と勢いに肩から腕を斬り取られた敵兵がもんどり打って馬から落ちると、ひゅんっ、と飛来してきた矢を軽々と避けた後に馬を飛ばして、馬超は弓を構えていた敵兵を弓ごと両断した。
「ひぃィッ?! と、止まらねぇっ、どうなってやがんだッ?」
「ちょ、おいッ、そこ邪魔だッ! 逃げられないじゃないかッ」
「何おう?! いや、そこの奴が邪魔をして――ぐぶふぁぁァァァッッッ?!」
三度槍を振るって敵を止め、敵中に入りて三度槍を振るってまたこれを止める。
腕が飛び、怒声が飛び、首が飛び、嘶きが飛び、血飛沫が飛び交う。
そんな中でまるで踊るかのように、跳ねるかのように、舞うかのように槍を振るい馬を駆る馬超の姿は、まさしく錦の名に相応しきものだった――。
「……圧倒的じゃないか、我が軍は」
「は?」
「いや、何でもない。ちょっと言ってみたかっただけ」
馬超の渾名の凄味に圧倒されつつも西涼韓遂軍の中にて迫りくる騎兵の槍を剣で切り払い、俺は趙雲に横付けるような形のままにぽつりと呟く。
何て言うか、凄いという以外に表現のしようが無いぐらいに、敵陣にて暴れ回る馬超は凄い。
馬超自身の能力自体は元いた歴史の史実において知っていたつもりではあったし、安定の戦いの折にて存分に知ったつもりであった。
だけど、今こうして目の前で繰り広げられている戦いぶりには驚かされるばかりである。
戦に揺れる肢体は、まるで舞うかの如くに跳ね。
振るわれる槍は、花のついた小枝のように。
飛び散る血飛沫は、まるで舞い散る花びらのように。
それほどの中にいても尚汚れぬ様に、俺は錦という渾名の意味を垣間見た気がした。
「なるほど……故に錦馬超、か……」
「おや……もしや、馬超殿に見惚れ申したか?」
「えっ……いや、そういう訳……でもないな」
「おや、これは珍しい。お認めになられるので?」
「……弄り甲斐が無い、って顔をされてますね、子龍殿」
そんな馬超の働きもあり、西涼韓遂軍の勢いは瞬く間に削がれていった。
まあ、それも当然のことだろう。
指揮官たる梁興を一撃に下した上でのあの槍働きだ。
一介の兵からしてみればつい先日まで勝利が約束されていたのに、今目の前に広がるのは明確な死地なのだから勢いなど維持出来る筈もない。
それが出来る将が一人でもいればまた違った話だろうが、そのような将がいるのであれば村での残虐は防がれていただろうし、そもそも旗印も見えないのだからいないと確定して良いだろう。
となれば、後はほぼ確定である。
勢いに乗っていた西涼韓遂軍は、その指揮官たる将の死と馬超の働きによってその動きを止めつつある。
さらには、馬超の働きによって混乱状態に陥っていた西涼韓遂軍の前方と、それに巻き込まれて急に停止させられることになった後方によりますます混乱が深くなっているようである。
悲鳴と怒号が俺達の周囲以外からも聞こえ始め、馬の嘶きは叫び声かのように周囲を埋め尽くさんとしていた。
「……お兄様、好機だよ、これは」
「左様。勢い勝る敵陣の中を突破せねばと覚悟しておりもうしたが、こうまで脚を止められているのであれば、こちらとしても幸いというものでありましょう」
「駆け抜けるは今……ってことか」
「御意に」
「……よし。子龍殿は俺と一緒に右、蒲公英は翆を回収して左だ」
「その後はぐるっと回って後ろの離れたところで合流でいいの?」
「うん、それで行こう」
混乱が混乱を呼び、迷走し、もはや軍としての統制すら失いつつある様を一瞥した馬岱と趙雲の言葉に、俺も視線を素早く巡らせる。
確かに、彼女達の言う通りにここまで脚を止めていればいくら騎馬隊といえどもその只中を突っ切ることも難しくは無いように思えた。
となると、判断したのであれば策は早くに弄するに限った。
後方を窺い見れば董卓率いる本隊が既に指呼の間へと近づいており、俺達の動きを今か今かと待ち望んでいる。
これ以上無いという好機、準備万端な策の中で、俺は程昱と郭嘉が無事に伝令として動いてくれたことに安堵しつつ、口を開いた。
「翆ッ! そのまま左だッ!」
「ッ……ご主人様ッ、けど、こいつら……ッ」
「憤りは分かるッ。けど今はここを切り抜けることを考えろッ、預かりの身で勝手に死ぬことも傷つくことも許さないからなッ!」
「うぐッ…………分かった」
「翠姉様、こっち!」
名を汚された怒りやら何やらで頭に血が昇っていた馬超であったが、さすがに自らの立場には思考が働いたらしい。
そもそも、今の彼女は西涼の馬騰の名代に等しく、董卓軍の人質という立場と同意義である。
勝手気ままに槍を振るい武を奮っても良い立場ではないのだが、まあここで話を分かってくれたということに安堵して、俺は馬超に一度だけ視線を送った後に趙雲へとそれを向けた。
にやにやと含み笑いを隠そうともしない趙雲と視線がぶつかった。
「……おやおや」
「……何か言いたげで?」
「いえ、別に。……さて、ではこちらも行きましょう」
明らかに弄り足りないという顔をしている趙雲にどこか納得しないものを感じつつも、俺は彼女の言葉通りに馬の脚を一気に早める。
馬超の働きにより混乱の境地にまで達している梁興麾下の騎馬隊は、最早こちらの動きを止めるに値しないものでしかない。
ある者は去りゆく馬超の後を追おうとし、ある者は馬超の隣にある馬岱を捕らえようと後を追い、ある者は逃げ去ろうと、ある者はこちらの動きに合わせて道を空けようとしている。
幾人かがそれでもと俺達に対して剣を振りかざしてくるが、趙雲の槍の一突きにて剣を振りかざした勢いのままに後方へと倒れ込んでいった。
「ふむ……名高き西涼騎馬隊と言えども、指揮執る将無くば有象無象と成り果てるか……。存外、詰まらぬものですな」
「というよりは、何処からともなく集めてきたならず者の集まりって感じがするけどなぁ。はっきりと言って、こっちの騎馬隊の方が戦力としては上のような気がする」
「ふむ……確かに、言われてみれば。となると、西涼騎馬隊の名もそれほどでは無い、と?」
「いや……翠と蒲公英の言葉通りなら、明らかに戦力自体は西涼騎馬隊の方が上だろう。そもそも……」
「身なりも装備も各々ばらばらか……。これは――」
「本隊が別にいる、と見て間違いないでしょう」
本隊、というよりは精強と謳われた西涼騎馬隊の噂の元なのだが、梁興麾下の兵を見るに、どうもそれとは違う気がする、というのが俺と趙雲の見解だった。
身に纏う装備は元より、手の持つ武具も拵え等がばらばらであればそれも仕方がない。
さらには、指揮官たる梁興が討ち取られた後の対応――逃げ惑い混乱するその様が、確信にも近い見解を後押ししていた。
となると、本体――噂に名高い韓遂麾下の西涼騎馬隊はここではない何処かにいるということになる。
長安攻めだったであろう軍勢にそれがいないことにも驚きであったが、今そこを追求してもどうしようもないし、答えられる将がいる筈もない。
今ここで問題なのは、西涼騎馬隊が何処にいるかということである。
西涼に控えているのか、この戦場を伏兵として臨んでいるのか――或いは、石城や安定、他の村々を攻めているのか。
しかし、伏兵の存在は忍からは報告されていない。
されば他の街か――そこまで思考を働かせて、わっと湧いた喊声に思考を中断された。
「董卓殿が攻め寄せたみたいですな」
「みたいですね……考えても埒が明かないな。翠達と合流して予定通りに動きましょう、子龍殿」
「うむ、心得た」
一度二度、頭を振って先ほどまでの思考を追い出す。
西涼韓遂軍本隊が別にいる確信は持てても、それが何処にいるのかの確信が持てない以上、これ以上の思考は何かに嵌り込んでしまうだけだろう。
何より、目の前の戦局は常に動いている。
思考と行動、それぞれ別のことを行いながらそれらを両立出来るほど器用では自分のことを認めて、俺は一度溜息をついて周囲を見渡した。
指揮官たる梁興の死、混乱の軍勢を掻き乱していく俺達、止めとばかりに押し潰さんと攻め寄せる董卓軍本隊。
それらを示されて、いよいよをもって西涼韓遂軍が梁興麾下の軍勢は敗走を始めていた。
統率の取れていない軍は脆い、とは賈駆から耳が痛いどころか耳の感覚が無くなるまで言われ続けてきたことだが、こうもそれを示されると胸の奥がずくんと重くなる。
石城の戦い、安定の戦い、反董卓連合軍との戦い、諸々。
そういった戦いの中で梁興のように骸を転がしていたのは自分であったかもしれない、なんて今更ながらの重圧が身体を重くしていく。
――落ち着け。
高く鈍い音を響かせて迫る剣を叩き落とし、その動作と共に胸の中に溜まっていた息を一気に吐き出した。
戦場の中で余分なこと、過分なことを考えている余裕は無い。
今この場では命の遣り取りが全てであり、趙雲や兵の命は俺の手にかかっていると言えるのだ。
自らの骸を想像するよりも遙かに思い重圧――だからこそ、俺はそれを振り払うかのように声を荒げて剣を掲げた。
「一気に駆け抜けて翠達と合流するぞッ。全員、後れずついてこいッ!」
「応ッ」
「はッ」
――とりあえず、うだうだ悩むのは後にしよう。
そう考えて、俺は馬腹を力強く蹴った。
**
「……帰った」
「おう、ご苦労じゃったの」
むわっとした戦気と血の臭いを纏わせて入ってきた男――樊稠に、郭汜は特に気に留めることもなく軽く言い放ち、次いで机の地図に視線を巡らせる。
むむぅ、と眉を潜ませて地図の上に指を這わせ、違う違うと呟きながら頭を振ってはまた地図と睨めっこをする。
その姿に数人の兵――男女半々――が何かを堪えているのに気付きつつも、樊稠は気にすることなく郭汜の隣へと立った。
「……敵の数は相変わらずだ」
「むぅ……二千のまま、ということか?」
「然り」
「うむむ……」
淡々と、しかして郭汜だけが何処か悔しそうな色を声に潜ませながら、樊稠は地図に指を這わせていく。
――総勢二千、それが安定を囲んでいる西涼軍の総数であった。
「はっきりと言えば、不可思議か奇妙か、それ以外の何物でも無いのう」
「左様。……気とすれば楽だが、意図が読み取れぬ」
「さしものお主でも戦術は読み取れぬか?」
「……そも、指揮官たる将がおらぬでは如何とも出来ぬ」
「……おらぬ、だと? 敵将がか?」
「然り」
「確か馬玩と言ったか……こうまで来ると妙手よのぅ。まさか、と思う他しかないわ」
さしものわしも掌よ、と郭汜が笑えば、困った奴だ、と樊稠が口を結ぶ。
そんないつもと変わらぬ姿を見せる二人の将に、彼女達に従う兵達は安堵の表情を見せていた――二人の瞳の奥に宿る真剣味に気づけた兵達は誰一人としていなかった。
現在の戦況は、安定にある幾つかの城門を西涼軍二千がそれぞれ千に満たない兵数に分かれて包囲している状況である。
通常であれば三倍近くの兵数が必要であると言われる攻城戦の筈だが、守勢側であるこちら側の兵数と同数で包囲しているということに、郭汜は安堵の息を吐けなかった。
「……まあ、十中八九、伏兵を用意しておるだろうのう。二千と見せるはこちらが全軍で討って出るのを誘っておるか……?」
「……場所を探るか?」
「斥候か? ……いや、無理じゃろう。このような妙手を打ってくるのじゃ、無論のこと、そう来ることを見越して兵を伏していることじゃろうて。徒に兵を損ずることもあるまい」
「ふむ……ならば、もう一度出てみるか」
「そうじゃのう……今は様子を見ながら小競り合いをするしかないじゃろうの」
侍女から手渡された湯に濡れた手拭で血潮をふき取っていく樊稠からの報告をざっと聞いた郭汜は、その情報を頭の中で高速に処理しながら次なる手を模索していく。
安定の各城門を包囲するのは千に満たない程度であれば、先にも言った通りに安定軍二千で討って出れば撃滅出来ないこともない。
まあ、他の城門の守備を考えれば千五百程度に減るだろうが、それでも、樊稠が指揮を執ればそうそう遅れは取らないだろう。
しかし、それをしてしまえば伏しているであろう兵に攻め寄せられるは確実である。
城攻め三倍の考え方でいくのであれば、西涼軍の二千の後ろには四千の兵が待ち構えていることになる。
さすがにその兵数差を埋められると考えるほど楽天的ではない、と己を評価しつつ、郭汜は樊稠に次なる指示を送るために口を――。
「――――――ッ?!」
「む……どうした?」
「ん……いや、何でもない」
「……そうか」
どうやら、敵にも策略家がおるらしいのう。
一瞬だけ感じたぞわりとした寒気に、頭の奥底がちりちりと焼け付くように痛む。
頭を覗かれている、思考を手に取られているような――実に懐かしい感覚に、つい口元が緩んでしまうのを、郭汜はさして気にすることもなく顔を上げる。
――かつて、董卓の父であった先代が石城太守として赴任した当時、彼の経歴から権謀術数の塊が洛陽から石城へと持ち込まれた。
換言虚言は当たり前、女を用いた誑かし、毒を用いた暗殺未遂、果てには賊徒の扇動、等々。
それらに対処し、対応し、対抗し――そして今という勝利を掴んできた過去を思い出して、郭汜は全身の血が熱を帯びるのを感じた。
「くく……ここまで熱くなれそうなのは、詠達に謀略を仕込んで以来かのう。久々に熱くなれそうじゃ」
どうやら、敵将は自身と同じ輩らしい――そう、空気で郭汜は感じた。
敵を測り、図り、そして謀る。
自身と同じ方面に長けている将が相手である、その事実に郭汜は隠すこともなく獰猛な笑みを浮かべていた。
――董家先代の石城太守着任の折にて数多の権謀術数を払い、返したと洛陽は漢王朝内にて恐れられるが一人、『謀師』と呼ばれた郭汜は、じっと地図を睨んでいた。
**
「くふっ……くふふふっ」
「……何が面白いというのだ、痘朴(とうほく、馬玩の字)? そもそも、何故お前はここにいる?」
「あたくしが指示したからですわぁ、汎季(はんき、李堪の字)さん」
「錫辟(しゃくへき、成宜の字)? ……また謀略か?」
「ええ、その通りですわぁ」
「……」
明るい栗色の髪に意志のある眉、整った顔立ちは馬玩、字は痘朴。
赤や黒を基調とした煌びやかな衣服のみを纏ったは成宜、字は錫辟。
黒の長い髪を頭頂部で纏め、意志の強い瞳を持つは李堪、字は汎季。
安定から望む視界には映り込まないよう台地を影にした西涼軍の陣地内において、三人の見目麗しい女性が一同に集う。
何処か濁った瞳をしながらも可愛らしい印象を抱く馬玩、気怠い色香を放つ成宜、真面目な印象と整った肢体が印象深い李堪。
それら三人が並んでいれば、見るは桃園のように華やかである――ように思われた。
だが、どうだ。
壊れた――否、壊れている笑みのままの馬玩に何やら悪巧みをする成宜、それを快く思わない李堪の醸し出す空気は桃園とはかけ離れていた。
それはまるで戦場のようで。
そんな空気を前にして、彼女達の回りにて情報や報告を受け取る武官達は何かを恐れるように彼女達から離れていた。
「安定に務める郭汜は謀師と呼ばれて洛陽から恐れられていたらしいんやで? そんなお人を相手に真面目に戦う方がどうかしてるわぁ」
「くふふ……くふ」
「それで相手と同数の兵、しかも将無しで包囲させているのか? ……確かに、謀略に長けた将ならばそこに何かしらの意図を感じとって身動きが取れなくなるやもしれぬが……」
「まあ身動きが出来なくなるようにするのも目的ですけどなぁ……いっちゃん良いのはじたばた身動きしてもろうことですなぁ」
「……物資の消耗を早めるのか?」
「左様で。こっちの思惑知ろ思うて身動きしてもらえば、馬なり兵なりでいろいろ消耗してもらえるからなぁ――突き詰めれば、阿鼻叫喚の出来上がり、ちゅうことやなぁ」
「阿鼻叫喚……くふふ……良い響き」
兵糧攻め。
そう口にするのは簡単なのに、そのあまりにもかけ離れた策の内容に、馬玩と成宜は恍惚とした笑みを浮かべ、李堪は嫌そうに眉を顰めた。
兵も馬も、活動するためには糧が必要である。
馬は動かした分だけ糧をもって補給しなければならいし、その維持にも物は必要である。
兵に至っては言わずもがなで、武装に兵糧に衛生物質など、様々なものが必要なのだ。
今回、急襲する形で安定に迫った結果、恐らくではあるが安定の備えはさほど充実しているとは思われない。
であるならば、兵糧攻め――そして同数の兵を囮にしての物資消耗を促進させるという策は、確かに確実であると言えた。
さらに兵糧攻めとして恐れられるのは、守勢側の身内から崩れかけないというところにある。
先の見えぬ籠城戦、奥の見えない心理的駆け引き、ただ減っていく兵糧からの恐怖、疑心暗鬼――そして崩壊。
その崩壊が身内の将か、或いは民の暴発かは分からないにしても、その先に待っているのは血で血を洗い、血に濡れた大地を持つ安定の街になるだろう。
そう口上して、成宜はぞくぞくと背筋を震わせ、馬玩は嬉しそうに笑みを深めた。
「……けれど、そう簡単にいくのか? お前の話だと相手は謀師と呼ばれるほどに謀略に優れているのだろう? 軍略と謀略は違うとはいえ、看破されればこちらが危ういぞ?」
「故に、伏兵として隠れているのよぉ。成果を見せなければ内から崩れるのを知っているでしょうし、将がいないと見れば討って出てきやすいでしょう? それに、馬玩の兵達だもの……簡単には壊れない、でしょう?」
「くふ」
「焦れて討って出てきたところを一気に押しつぶす……いや、その間に他の城門に構えている兵に攻め寄せさせるか?」
「ええ、ええ。汎季さんも良く考えていらっしゃるわねぇ」
「これでもお前達と同じ軍師の端くれでな。少しは功を上げねばならんだろう?」
李堪自身としても、徐々に惨たらしく死へと近づけていく成宜と馬玩の策に思うところはあっても、その有用性自体は認識していた。
知略と知略をぶつけ合うことこそが軍師、と李堪は常々思っているが、成宜達の策は少ない損害で大きな成果を上げるものであるのだから、軍師としての立場からすれば何も言うものは無かった。
であるからこそ、李堪は一度だけ深い息を吐いた。
「四方に斥候を放ち、敵の増援を探らせることにしよう。短期決着を望まないのであれば、敵の戦力が増えるのを止めるに越したことは無い」
「あらぁ、敵の増援がこちらより多い場合はどうするというのぅ?」
「その時は包囲している戦力を引かせればいい。それに食付いて討って出てくれば、そこを一気に強襲すると同時に城の中に雪崩れ込めばよかろう?」
「くふ……その後、城門を閉めればそれでいい……くふふ」
「食付いてこなければそこで退く、ということねぇ?」
「うむ。……まあ、韓遂様の策が行われていれば安定への援軍など有り得はしないのだが、な……」
しかし、と李堪は思う。
油断と慢心、そして服従すると思わせるために単身洛陽へと赴いた韓遂が董卓を討ち、その混乱をもってその勢力を攻め抑える。
なるほど、自身よりも大きな勢力を相手にする時や、小さな勢力をそのまま併合する時には有効な手であるだろう。
だが――それは、最低でも頭を押さえなければならないということでもある。
あるいは、逆に頭を押さえられたとしたら――。
そこまで考えて、李堪は頭を振った。
今この場で考えても仕方の無きことか、と。
そもそも、策は既に現段階まで動いてしまっている。
いくら――いくら李堪が韓遂の策に不安を覚えていたとしても、人も軍も時も止めようのない段階まで動いてしまっていては、もはや止めることなど不可能であった。
「そも、ここで止まるは汚濁か……清流目指すならばただ流れるしかないのだろうな……」
ぽつり、と呟いて安定を遠く見つめる李堪に並んで、馬玩と成宜も視線を送る。
慌ただしく蠢くその城壁――その奥にいるであろう謀師との知略合戦に挑みかかるように。
――奇しくも、城壁と空を超えて三人の視線と郭汜の視線がぶつかり合ったのは、同時であった。