――――――。
ソレは――否、ソレらは明けに染まっていく空と大地を切り裂くように、ただひたすらに進む。
夏を目前に控えているというのに空気は冷ややかであったが、火照る身体を冷まし、静めるためには丁度良い加減だ。
ソレらの身体の内側に滾る熱は白い吐息となって夜明けの中に足跡を残していく。
――まるで、後に続く者達に自らの軌跡を示すかのように。
「――はっ」
そんな思考を笑うかのように、ソレらの始まり――先頭の人影が口端を僅かに歪めた。
ある一定の間隔を刻む振動に髪は揺れ、衣服は乱れ、自らの身体が揺れ動くことを気にすることもなく、ただ、人影は前方だけを眼光で射抜く。
陽光に追われて逃げていく夜空を見つめる視線には、様々な感情が入り乱れている。
悲しみ。
怒り。
後悔。
――それらを覆うほどの、戦を前にした高揚感。
やはり自分にはこれしかないのだ、と人影はもう一度口端を歪めた。
「――くくっ」
大地に刻まれる幾多もの四つの足音に、人影はさらに気分が高揚するのを感じた。
大地を駆ける、風を切り裂く――馬と一つになる。
人馬一体、そう呼べるほどの一体感にぶるり、と背筋を震わせながら、人影はその速度を一際上げて、ソレらは鋭い鏃のように陽光を引き離して闇夜を切り裂いていく。
総勢四百。
精強なる騎馬隊が、大地を駆けていく。
**
「……騒がしくなってきやがったな」
火照る身体を裸身としたまま、梁興はにやりと口端を歪めて呟いた。
無精髭の中から放たれる熱く滾った吐息は野獣そのもので、筋骨に隆したその肉体は夜の最中において熱気を放っている。
今、梁興がいるのは寂れた農村の、その村長――だった者の家だ。
仄かに香る生臭さは、決して先ほどまで自らが放っていたものの匂いではない。
ちらり、と視線を向けた先には、泣き叫ぶという表情のまま首が一つ転がっていた。
皺に埋もれた瞳は恐怖と悲しみに彩られており、開かれた口からは血とも涎ともつかない液体が零れている。
顔の右半分は赤く染まる液体――首の無い身体から流れた血溜りの中に沈んでおり、その様が首とその身体がもはや動かぬことを示していた。
「ったく……あいつら、明日には戦があるってことを忘れてるんじゃねえだろうな」
そう呟きながら頭をかくが、梁興の口に重い空気は無い。
寂れた農村は、若者がいたであろう過去ならいざ知らず、もはや聞くことすら出来なくなった数多の声が聞こえていた――それが、日常に関する声ならば、誰もがこの農村を羨んだと思えただろう。
朝日が昇り始めれば、家を預かる女達は一日の支度のために挨拶をしながら飯を作る――自らの四肢を捥がれて尚、自らの娘を案じる悲鳴。
母親が支度を終えれば、何れ女となる娘達が男共を起こすために声を上げる――衣服を剥がれ、数多の男に凌辱され、嗜虐され、喘ぎ、嬌声を上げ、そして絶望のままに上がる悲鳴。
朝を過ぎ、昼を過ぎて、それでも元気に駆け回る男児の朗らかな声――そういう趣味のある奴らによる、痛みと混乱と諦めと絶望の混じり合った、甲高くもどす黒い悲鳴。
女を守り、家を守り、家族を守り、村を守る逞しい男の声――既に物言わぬ骸は、声を上げることはない。
狂宴、恥辱、狂態――暴虐の限りが尽くされた、狂って壊れた宴。
その様に、梁興は傍らの机にあった酒を無造作に口に含んだ。
「……まあ、いいさ。昂ぶってんのは俺も同じだしなぁ」
西涼から発して長安の手前、梁興は陣地を敷くこともなく手近にあった農村を襲撃した。
梁興が率いるは西涼騎馬を主力にした二千五百の兵だ。
寂れて閑散とした農村は騎馬の侵入を防ぐに足りず、畑へと出ていた数少ない男手達は瞬く間にその骸をさらすことになった。
そうして。
邪魔をするものがいなくなった時、二千五百の獣達は村に残る戦利品へと群がった。
深く皺の刻まれた老婆は槍で一突きに。
嫋やかで豊満な身体の女は貪り。
瑞々しい身体と張りのあるその娘達は、身体も心も散々に犯された。
無論、梁興とてそれに伴わなかったわけではない。
物言わぬ村長の骸――それを前にして、その娘を散々に犯し、貪っていたのはつい先刻のことだ。
「う……ぁ……」
「おおん? なんだ、まだ壊れて無かったか」
その娘が漏らした吐息にも似た声に、驚きにも似たような梁興の声が零れる。
幾度となく放たれた雄のものは娘の奥ばかりでなく全身を白く染めており、その年頃に可愛らしく纏まっている顔は同じように放たれた雄のものが乾いたことによって、酷く匂い立っていた。
こびり付いたその中から、うっすらと開かれた娘の瞳に光が戻る。
無論、光とは言っても希望に向かう類のものではない。
身体を犯され、心を壊され、絶望に埋もれていた中でそこから逃れるためにたった一つ舞い降りた光が――梁興を殺すという光と憎しみこそが、娘に降り立った光だった。
その光を目の当たりにして――自らに向けられて、梁興は背筋がぶるりと震えるのを止められない。
それは自らの命を消し去ろうと狙う者への恐怖――当然そんなものである筈がない。
当然の如く、それは喜悦からくる震えだった。
娘の秘所からは血と雄が混ざり合った桃色の粘体が零れており、その身体は度重なる嗜虐暴虐の類で既に疲労困憊である。
ともすれば、立ち向かうことは愚か、立ち上がることすら難しいであろう身体をもって、その娘が向けてくる濃密な敵意――それを、再び壊せることへの喜悦だった。
混乱と恐怖に歪む娘を壊す快感、それを快楽へと染め上げる愉悦、そこから一段超えてどす黒い濃密な感情――殺意や敵意に似た感情を抱く娘を再び壊すのだという喜悦に、梁興は再び己の中に燻る熱が燃え上がるのを感じていた。
「……まぁ、まだ時間があるからな。存分に可愛がってやるとするか」
へへ、と軽薄な笑みとは裏腹に、獣性に満ちた瞳を娘の身体に向けて、梁興は知らず舌なめずりをする。
壊れるか、壊れないか。
壊れない方が十分に楽しめるのだがと思わないでもない梁興だが、壊れないとなるとまた馬玩が五月蠅そうだな、と辟易しながら娘の肌に手を這わし、舌で舐め上げる。
初めて壊れることなく自身に従い才を伸ばして将になった馬玩だが、どうにも後続のことは許せないらしい。
女の嫉妬という奴か、と自己完結した梁興は、自らの荒ぶるものを娘にあてがいながら、ふと、ある少女のことを思考に浮かべた。
そういや馬玩の奴、馬超のことはいつも目の敵にしてやがったな。
真名に合う緑の衣服を纏う少女――馬超のことを、梁興は脳裏に浮かべる。
母親である馬騰の例に漏れず、意志の強い瞳と高い武力は、自身には及ばないが相当のものがある。
馬を駆る技術も高く、それらを率いての統率も見事であると言って良いだろう――であるからこそ、そんな娘を常々壊してみたい、と梁興は密かに思っていた。
強気な瞳を恐怖と被虐と快楽に壊し、性格を表すように強く結ばれた口に荒ぶるものを突き入れ、母親似の年若い肌の豊満な肉体を思う存分に味わってみたい、と。
もしやすればそれがばれていたのか、なんて女の勘に恐怖しつつ、同じ馬姓ということから何か思うことがあったのかもしれない、と梁興は思うことにした。
――怒ったら怖いんだよなあいつは、と何時かの激怒した馬玩のことを思い浮かべながら。
まあ、それはともかくとして。
馬玩が目の敵にするのはそういった素養を持つ――言うなれば、結果的に壊れない女ばかりなのだ。
馬超にもそういった素養があるのだとすれば。
気と意志の強い瞳が被虐と快楽に歪んでいく様を思い浮かべて、梁興の瞳に宿る獣性が濃くなっていく。
「……楽しみだ。実に楽しみだ……ッ」
唇がいやらしく歪んでいくのを止められないと自覚しながら、それもまた良しとした梁興は、馬超の肉体を思い浮かべていきり立ったものを娘へと突き入れた。
狂辱の宴は、未だ終焉を見せない――。
**
長安郊外にある董卓軍野営地。
洛陽出立後、長安にまで辿り着いた俺達董卓軍は、長安入りをすることなくその郊外に野営地を築いて、一晩過ごすことになった。
洛陽からここまで駆け通しだったので少しでも兵らを休ませてやりたいという思いはあったが、何より西涼韓遂軍の動きが読めない現状下において気を抜くことは出来ない。
賈駆、郭嘉、程昱の長安より少し離れた郊外に陣を組んでこれに警戒すべきだ、との進言を董卓が取り入れた結果であった。
「……本番は明日、か」
ズクンッ、と痛む右腕の包帯を解いていく。
くるくると捲られていく包帯には血が滲んでおり、少しずつその色は濃さを増していく。
一番下――肌に直接触れているそこは真っ赤を通り越して赤黒く染まっており、濃密な血と鉄の匂いが鼻につく。
本当は水で流しながらが良いんだけどなと思いつつも、野営地で清潔な水は貴重であるのでそれも出来ず、仕方無しに微妙に乾いた血や未だ濡れる血に逆らいながら包帯を取って露わになった傷口に眉を顰めて、気を逸らすために思考を始めた。
当初の予定通り、ここまでは問題無いだろう。
周囲の警戒に忍を放ってはいるが、軍師達の予想通りに西涼韓遂軍その先鋒の姿は確認出来ずとの報告を受けたのはつい先ほどのことで、予てよりの予想通りに戦闘が行われるのは明日ということになるだろう。
こちらの想定の裏をかいて速度を上げていればその限りではない、とは程昱の言葉であるが、それとて、こちらが軍を発するという前提条件がなければ成り立たないというのもまた確かだ。
策の成功等を予想しての軍が動いているという可能性から考慮してみれば、韓遂の暗殺が失敗に終わる、という条件を前提にした策など、向こうからしてみれば無意味以外のなにものでもない。
それすらを想定しての可能性もある、と郭嘉が程昱の言葉を補完したものの、結局の所、軍略を囓った者ならば大都市である長安を攻めるには万全の体勢で臨むだろうというのが軍師達の総意であった。
つまりは、である。
どのような戦況、状況においても西涼韓遂軍とぶつかるのは明日以降ということになるらしい。
「ふむ……さて、どうするか――む?」
となってくると、最重要なのは明日という話である。
騎馬を主戦力とした西涼韓遂軍、それを如何にして撃するか、ということである。
西涼韓遂軍がどれだけの軍勢かは分からないが、西涼から長安、洛陽に攻め入ろうとするのであれば当然の如く、それだけの兵力が必要になる。
数百、数千、ということは無いだろうから少なくとも一万以上ではないか、とは俺の予想なのだが、その数ですら董卓軍三千の三倍以上にあたる。
反董卓連合軍の二十万という数字からすれば少ないものだが、それでも、彼我戦力に数倍の差があるというのは明らかに驚異であった。
さらには、制圧後の防衛戦力に回す兵力のこともある。
西涼からであれば石城や安定が一番に攻め入られるのは当然のことだが、そこを抑えられたとしても董卓軍は洛陽を有したままである。
そこにある兵力は並大抵の数ではなく、防衛戦力も無しに抑え続けることは難しいものになるだろう。
故に、防衛戦力を含めた数で言えば――と思考を働かせようとしても、良いように思考は動いてくれず、どうしてもついつい他の方向へと向いてしまう。
――というか、俺の中ではそれどころではないというのが正しかった。
「……やばい。包帯が……」
よっ、ほっ、うぬっ、くそっ。
痛む右手で包帯を脚に押しつけて、くるっと巻いたら一度浮かせてもう一度押しつけて――失敗。
脚の代わりに顎でどうだろう――失敗。
ならば頬――これまた失敗。
そうだ、と思い至って一度全部伸ばしてからならどうだ――ゆるゆる過ぎて失敗。
「ずーん……」
途方に暮れるとはこういうことを言うのだろうな、なんてどうでもいいことを考えつつ、さてどうしたものかと頭を抱える。
――ぶっちゃけ、包帯が上手く巻けません。
自分がここまで不器用だったのか、なんて別の角度で衝撃を受けつつ、けれどもこのままにしておく訳にはいかないし、何よりばれたときのみんなの反応が怖いなんて思ってしまう。
野営地を設置して天幕を宛がわられて、一番に命令されたのが傷の手当なのだが、しかしてそれを無視して――あまつさえ包帯を外したままにしておけばどんな反応が返ってくるかなど想像に難くない。
――うん、きっと怒られるだろうね、冷たい目でじとーっと睨んだ後に溜息をつかれてアンタ馬鹿じゃないの、なんて怒られるだろうね。
お兄さんは馬鹿ですか、とか。
貴殿は馬鹿ですか、とか。
一刀殿は馬鹿で阿呆ですな、とか。
ご主人様は馬鹿だよな、とか。
散々に怒られてしまうのが目に見えている――唯一、董卓だけが庇ってくれるかな、と淡い希望を抱いていられる。
だが、俺にはそういったことを悦ぶ趣味は無いので出来ればご免被りたい。
そう決意した俺は、何とか包帯を巻かなければと再び包帯を――。
「――入るわよ」
「うひゃぉいッ?!」
「……アンタ、馬鹿よね」
――包帯を手に取った所で、突然の来訪者に奇声を上げてしまって、しかもいきなり断言されてしまった。
なんてことを考えている俺の手元に視線を飛ばしていた突然の来訪者――賈駆はじとーっとした視線を俺の手元から顔に向けて、その後に溜息を一度ついた。
何故だろう、先ほどの予想が当たったっていうのに、嬉しくも何とも無いのは。
苦々しくも爽やかな虚しさという相反しまくりの感情が、俺の中に渦巻いていた。
「はぁ……大方、一人じゃ包帯が巻けなかったんでしょ?」
「……ごもっともです、はい」
「はぁ………………し、仕方ない、わね」
包帯が一人で巻けない、と衝撃を受けていた時よりも深く重い衝撃を受けていると、ぼそぼそ、と聞こえた賈駆の声に視線を上げる。
何処かに視線を逸らしつつもちらちらと俺の手元に視線を寄越していた賈駆が、とすんっ、と俺の手元が目の前に来るように膝をついた。
「手」
「……え?」
「包帯を寄越せって言ってるの。…………ア、アンタじゃ何時終わるか分からないからしてあげるって言ってるのよ」
賈駆は俺の手から包帯を奪い取ると手を出せと仕草で示す。
包帯なんて一言も言っていないじゃないか、と思わないでも無かったが、無言のままにじっとこちらを見つめる視線は動きそうもない。
ひらひら、と催促するように手を動かす賈駆の真意が分からないままにじっと見つめていると、少しだけむすっとしたような――けれども、何処か寂しそうな声が耳に届いた。
「……ボクが触れるのは、嫌?」
「……そういう訳じゃない。……その、まあ……よろしく」
つまりはそういうことになった。
「……痛みはどうなの?」
「とりあえず、今のところは大丈夫かな。貰った薬が効いてるみたいだ」
「そう……」
一体何用で来たのか、なんてことを問いかける余裕すら無く。
濡れる血で手拭いを濡らして乾いた血を拭い取っていく賈駆の手付きに悲鳴を上げないよう、俺は無理矢理に笑みを顔に貼り付けながら口を開く。
ぶっちゃけ痛いです、なんて心配の眼差しと声を向けてくる賈駆に伝える訳にもいかず、ずくんっずくんっと痛む手に包帯を巻いていく賈駆の手付きへとただ視線を飛ばす。
「この傷でよく戦場に出ようなんて思ったものね。……本当に馬鹿よね、アンタって」
「馬鹿馬鹿と二度も言われてしまったことは置いておくとして……なぁ、よく言われる。ただ、傷があってもなくても役に立つのかと言われたら怪しいものだし、どちらでも一緒のような気はするけど」
「それでも、この傷だと馬を駆るのは大変でしょ? いくら痛まないように乗っても、振動で痛むでしょうし」
「そうでもないよ。白(ハク、北郷の馬)は賢いし、痛まない程度に振動を抑えてくれてるから。詠が思ってるよりは楽だと思う」
白くて細い指がつつっと俺の手を滑り、血の乾き具合を確かめながら手拭いを肌に擦りつけていく。
ちらちらっ、とこちらを窺う視線を感じるのは俺が痛みを感じているかどうかの確認のためだろうか――必然的に上目遣いになる賈駆に、ぐらりと何かが揺らいだ気がした。
「……危なくなったら、ちゃんと逃げなさいよ。後ろにはボク達や華雄もいるんだからね、無理する必要は無いんだから」
するり、ときめ細かな指がまた手の上を滑りながら包帯をくるくると巻いていく。
俺が痛まないよう、傷が悪化しないようにと細心の注意を払いながら巻かれていくのはとうに理解出来ていて、俺としては賈駆の手際に驚きつつも感謝を覚えていた。
それと同時に、俺は賈駆の言葉通りの状況を思い描いてみる。
俺が危なくなる状況というのは、言うまでもなく董卓軍騎馬隊が西涼韓遂軍の騎馬隊に破れるということだ。
指揮官として前線に向かうのだからそういった状況もあるのだろうが、馬超がいて馬岱がいて、趙雲が副官としている状況の中で危なくなる状況というのは間違いなく打ちのめされた時ぐらいだろう――俺が反董卓連合軍の華雄の時のように大馬鹿になっていなければ話は別だが。
と、一人心の中で涙しながら、それでもと思考を働かせていく。
西涼韓遂軍は攻め側の勢いに任せて攻め込んでくるだろうから、その勢いを利用してわざと騎馬隊を破らせて華雄に防ぎ止めて貰い、それを一気に包囲出来ないだろうか。
しかし、それでは本隊の負担が大きすぎて――戦力差が劣っている状況であれば一か八かの賭けになってしまう。
ううむ、何かいい手は無いだろう。
それこそ、例えば相手が指揮も難しいほどに混乱していれば――。
――と考えたそこで、俺はいつのまにか大きくなっていた賈駆の声に気付く。
「……ちょっと、ボクの話を聞いてる――」
「……えっ、なに、聞いてる――」
――ちなみに、この時気付いたことだが。
俺は、賈駆の手元に視線を向けていた影響からか、そのまま視線を下げて俯くように思考に嵌っていたらしい。
頭の上から声を掛けられているということに気付いたこと、気付いた時には自分の脚が視界に映し出されていたということから、それは間違い無いだろう。
とまあそんな訳で。
賈駆の言葉に反応した俺は視界をふと上へと上げて――。
「――――え?」
「――――よ?」
――その視界一杯にいつもの不機嫌そうな瞳を驚きに開いた賈駆の顔があった。
言葉を紡ぐと共に放たれた微かな吐息は俺の唇を少しだけ優しく撫でて、その吐息の発生元――賈駆の唇が近いということを教えてくれる。
少しでも動けば唇が触れてしまう程に近いという現状に、動いてしまえ、と何処かにある悪戯心がざわざわと蠢き出す。
賈駆は女の子の中でも可愛い部類に入る。
董卓は守りたくなるような可愛さであるが、それとは少し違った、けれども確かな可愛さを持つ賈駆が――その小振りで可愛らしく潤った唇が目の前にあるのだ。
悪戯心がとくんっ、と胸を高鳴らせる。
――けれど。
何かが違うのだと。
何かが駄目なのだと、俺の中にある何かが声を上げるのもまた事実で。
その声が段々と大きくなっていくと、忘れかけていた手の痛みが俺の心と思考を現実へと引き戻すことになった。
「……ふぅ」
ようし、どうにか落ち着け俺、落ち着け。
こんなことを思っている時点で冷静でないことは分かっているが、どうにもこういった手順は必要だと思う。
思春期のように高鳴る胸は徐々に治まりつつあり、ずきんっ、と手が痛む度に現状が頭の中に入り込んでくる。
……俯いていた俺が痛みを我慢しているとか話を聞いていないとか思った賈駆が俺の顔を覗き込もうとして、たまたま反応した俺がそこに顔を突きつける形になったとか、そういうのだろうな、よし俺は冷静だな、うん。
全然冷静になれてはいない人の言動を行いながら、もう一度溜息――とした所でビクンッ、と賈駆の身体が震えた気がした。
――そういえば、と俺は再び現状を冷静に判断してみる。
俺の視界一杯には驚愕に――それと色を徐々に赤くしていく賈駆の顔。
いつもの不機嫌そうな瞳からは想像も出来ないほどに澄んだ瞳はとても綺麗で、一対の宝石であると真顔でも言えるほどだ。
ふるふると震える唇から漏れ出る吐息は優しく俺の唇を撫でて――と、ここで俺は思い至ることになる。
――俺が吐息を感じるということは賈駆もまた同じである、と。
「…………」
「……」
驚愕に染まっていた賈駆の顔と瞳が羞恥へと染まり、次いでまるで湯が沸くように怒りへと染まっていくのを目の前で確認する。
白色から桃色、次いで赤色と。
くるくると表情が変わっていく賈駆に可笑しさと可愛らしさを感じてはみたものの、どうにも、このままいくと良くないことが起きるような気がしてきた――主に俺の身について。
これまでの体験談からいけばこの予感は良く当たると思うのだが、迂闊に動いてしまえば何やら一撃で仕留められてしまいそうなほどの重圧に、動くに動けない。
「……」
「…………」
それほど長くは無かったのだろうが、永遠とも思える時間が、お互いが無言のままに過ぎていく。
キッと睨みつけられるような視線を真っ直ぐに見つめ返して、微動だにしないままに時が過ぎていく。
さてどうしたものか、とまた溜息を吐けば、ぴくんっ、と震えた後に色の濃さが増していく賈駆の顔。
その様が湯が沸き立つ寸前のものに思えて、あっやばい、なんて思った時にはすでに手遅れであった。
「……ッ!」
がばっ、と。
まるで獣やら何やらを目にしたような反応のままに後ずさる賈駆に、ついつい身体を震わせてしまう。
常の彼女を知っているからこそ手でも飛んでくるのかと思ったが、どうやらそのようではないようだ――代わりに飛んでくるのは射抜くような冷たい視線だけれども。
けれど、頬やら首元を赤くしている賈駆は何処か可愛らしくて。
睨みつけられているという現状であってもそう思える余裕があることに、俺はついつい笑いそうになった。
「……とッ、とりあえず終わったから、ボクはもう行くわね。き、傷が痛むようなら兵を捕まえて薬を持ってきて貰いなさいよ。包帯を変えるのなら衛生担当に言えばいいから。後は、えっと、その……これ、持っていくわねッ」
賈駆の言葉に手を見てみれば、確かに綺麗に巻かれた包帯がそこにはあった。
丁寧に、傷が痛くないようにと巻かれたのか、感触を確かめるように手を動かしてみても、傷が痛むだけで包帯がどうのという訳ではない。
賈駆にこのような技術があったことに驚きつつも古い包帯は何処に、と探してみれば、賈駆の手の中には朱色の混ざった白い塊があった。
どうやら衛生担当へと持って行ってくれるつもりらしい。
血に濡れた包帯は不衛生故に後で自分から持っていくつもりだったのだが、と視線を飛ばしてみれば、その視線に気づいたのか、賈駆は軽く手を振るだけでその包帯を俺の視線から外した。
「……ええっと……ありがとうな、詠」
「べッ……別に、あんたが気にすることじゃないわ。この後、衛生担当に指示を出しに行くからそのついでよ、ついで」
「そっか……でも、ありがとう」
「……ふん」
傷の手当と、古い包帯のことと。
両方のことについて礼を言えば、少しだけ落ち着いて、けれど何処か照れたように顔を背ける賈駆が可笑しく、そして可愛らしくて、いよいよ耐えきれなくなってついつい破顔してしまう。
声に出して笑うことこそ無かったが、口元と頬の筋肉がだらしなく緩んでいる――そんな俺の笑顔が気に入らなかったのか、じとー、とした視線を向けていた賈駆は、出ていこうと進めていた脚を止めて、一つ鼻を鳴らして振り向いた。
「……無理すんじゃないわよ」
「ああ、分かってるよ。何かあったら詠を頼りにさせてもらう」
「…………ばか」
そうして。
ぽつり、と一言呟いた言葉を最後にして振り返ることなく、賈駆は天幕からその姿を消した――。
「……ああ、そういえば」
そうして、賈駆の姿が天幕から消えて少ししてから。
俺はふとあることに気が付いた。
いや、気が付いたというよりは思い出したに近いのだが、誰もいないということもあってか、俺はついついその疑問は口にしていた。
「詠のやつ……一体何の用だったんだろう……?」
よくよく考えれば、賈駆は結局の所、俺の包帯を変えるだけで帰ってしまったことになる。
もともと何かしらの用件で訪れたことは間違いないと思われるのだが、その用件を果たさずして帰ってしまったことに、何となしに俺は気まずいものを感じた。
あの賈駆が用件を果たさずして帰るだろうか、なんて思ったものだが、戻ってこないところを見るとそこまで重要では無かったのかもしれない。
重要な案件ならすぐに戻ってくるだろうし、忘れていたことを認めるのが恥ずかしくて、なんて感情を押し殺すのが賈駆である。
となれば、そこまで重要な案件では無かったのだろうと俺は当たりをつける。
――それと同時に、ふと賈駆の用件に推測があたって、まさかな、と俺は首を振った。
「……まさかな」
それこそ、本当にまさかの話である。
――元より俺の傷を心配して来てくれた、なんて。
まさかまさかと想いつつも苦笑とも取れる笑みを顔に浮かべながら、俺はこれからの進軍経路を確認するために趙雲達を呼び出すことにしたのであった。