「ふうむ……動かん、な……」
李確は涼州は石城、その城壁の上から眼下へと視線を飛ばしていた。
陽はすでに明けて久しく、城壁から見下ろす街中においては人々が交差を行きかい、賑わいと活気が満たされている。
なるほど、いつも見慣れた日常の光景である――だが、状況においては日常にはとんと遠い、非日常とも呼べる状況である。
日常の中に埋もれる非日常なのか、非日常の中に存在する日常なのか。
どちらとも取れないそんな状況に思考を働かせて、李確は再び視線を眼下へと――石城から姿が確認できる城外の荒野にて布陣している軍勢へと、視線をやった。
陽も顔を出したばかりの、明け方の時において石城を訪れた西涼連合韓遂が軍勢は、その使者の死を知るや否や、瞬く間に陣を敷いた。
そのあまりにもな手際の良さと素早さに、数多くの戦場を駆け抜け数多の将兵らを見てきた李確でさえ感嘆の声を上げるようなものではあったが、しかして、その迅速さは使者の死をもとより予想していたのではないかと思えるものであった。
「いや……もとより予想しておったのだろうな……。でなければ、あれほどの行軍は出来なかろうて」
また思わずといった形で言葉を漏らすが、それも仕方のないことか、と李確は己の中だけで自己完結をする。
使者の亡骸を送り返した後、まるで元から決められていたかのように石城を指呼の間に捉えられる距離まで後退、その後に陣地を陽が昇りきる前に終わらせるなど、当初からの予定通りなのか、或いは軍兵の練度があまりにも高いかのどちらかであろう。
精強と名高い西涼連合軍の兵の練度が高いことは否めないが、やはりそれだけではないというのが李確としての推測であった。
しかし、解せない。
そう口の中だけで転がして、李確は再度視線を飛ばす。
当初、韓遂軍の使者が亡き者になったときの予想としては、石城二千の兵を城外に誘き寄せるための三千という兵数であり、それに釣られて城外に出てしまえば、まっているのは精強なる騎馬による伏兵と、その後の敗北の身という事実だけだろう――そう思っていた。
であるからして、李確は配下の将兵らには決して打って出ることはまかりならぬ、と厳命していた。
無論、城門も閉じられたままだ。
騎馬という機動力に優れた兵種が主戦力である以上、それを想定した策を考えて、出来る限りの敗因を取り除くのは将として当然のことであった。
であるからこそ、布陣してから何の行動も起こさない韓遂軍に、李確は疑問を抱いていた。
「ふうむ……昼夜問わず、何か変化はあったか?」
「いえ……李確様の命により数名で交代しながら監視していましたが、特に変わった動きというのは……」
「そうか……兵数の増減は?」
「ここからでは細かく確認が出来たとは言えませんが……少なくとも、援軍が来たような気配はありません」
考えすぎだろうか、或いは、こちらが警戒の手を緩めるのを待っているのか。
彼我の兵力を考えれば、現状の兵力では石城を落とせないというのは向こうとしても理解しているだろうし、対策を講じてもいるだろう。
それすらも思い及ばない将が軍勢を率いているのならばさほど危険視することはないのだろうが、しかし、西涼騎馬は警戒するに越したものではない。
であるならば、こちらとしてはこのまま籠城を続けたとしてもとりあえずは問題は無い――そう楽観するのは、あまりにも早すぎる。
騎馬隊というのは、思いの他に維持するのに手間がかかる。
兵の他にも馬のことも考えなければならないのだ、食い扶持が増えるということもあれば、馬の糞尿による衛生面も考えなければならないだろう。
馬もただじっとさせていればいかに駿馬とはいえ、その肉は張りを無くすこともある。
さらには、鞍に馬のための防具、騎馬による戦となれば武具を取り落したことを考えての予備装具など、必要なものはあればあるだけ良いといったものになる。
故に。
はっきりと言って、韓遂軍の行動は騎馬を主力とした軍勢を動かしていく面から考えればあまりにも不適当と言えた。
野戦では抜群の威力を誇る騎馬は籠城する城壁を相手にするにはただでさえ不利であるにも関わらず、それを長期戦に持ち込もうとしているのだ。
李確でないにしろ、軍略を嗜んだことのある将兵ならば誰もがそこに思考を落ち着かせるだろう。
であるならば恐れるに足らず、と断じることは簡単である――しかし、本当にそれだけであろうか。
騎馬が主力ならば籠城するだけで手も出せず帰還する、陣地を組んでいるのもこちらを誘き寄せて少しでも有利な地形に引きずりこもうとする策である――普通であるならばそこで行き着くはずの思考であったが、李確は、もう少しだけそれを前へと進ませた。
「……とはいえ、手も出さぬであれば思惑すらも読み切れんな。かといって、打って出るは愚策なり、か……ふむう……如何するべきかのう?」
陣地を組んだことに意味があるのか、騎馬を主力として籠城する石城に攻め寄せていることに意味があるのか、或いは――李確自身を石城に釘付けておくためか。
様々なことに思考を働かせてはみたものの、しかして、それで戦況が動くはずも、変わるはずもなく。
李確としては、めっきり冴えの無くなった自らの智謀に苦笑を漏らしつつ、その視線を洛陽の方面へと移した。
「安定の――郭汜は大丈夫かのう……? あやつ、年老いたにも関わらず見た目だけは幼いからな、血気に逸って無茶をせねばよいのじゃが……」
口では軽く言ってみるも、石城より東――黄巾賊襲来の折に勢力となった安定の街に務める郭汜の能力を李確は疑っていない。
忍の伝令に任せた情報だけで自らが取るべき道は十分に見つけられるだろうし、どう動けば良いのかも任せることが出来る。
ただまあ、李確自身と年が近いくせに童女のような見目のために、自らの外見に惑わされて血気に逸ることがあるのが唯一の傷ではあるが。
悪癖と言ってもいいその傷のせいで起きた徐栄との喧嘩に巻き込まれ、その仲裁に奔走した若き日々を思い出して、李確は知らず溜息をついていた。
「……まあ良い。時々によって適応していけばよいだけのことじゃ……じゃが、このままでは面白くないのう」
何はともあれ、韓遂軍が動かないようであればこちらも動くことは出来ないか、と李確は己の思考を締めようとするが、しかし、韓遂軍に先手を取られてばかりなのも面白くはない、と一人ごちる。
戦とは主導権を握ったほうが優位に運ぶものであるというのは重々承知しているし、洛陽で重要位を任されることになった北郷に送った言葉でもあるのだから、それを自らが実践出来ぬとあれば彼に顔向け出来ぬというものであった。
しかし、先手とはそう簡単に取れるものではないし、易々と相手方が渡してくれるものでもない。
先に動けばいいというものではない、相手方の裏を読み先を打ち、さらにその思考の奥に潜り込むようなものでなければ、策としてなりえなかった。
「……さて」
どうするべきかのう。
李確は、締まろうとしていた思考を再び働かせながら、韓遂軍が陣地を張っている地点をただ思案するかのように、髭を撫でながら見つめていた。
**
「……さて」
そう呟いた賈駆が部屋を――そこに集った将を見渡すのに倣って、俺も同じように部屋を簡単に見渡した。
着替えたのか血潮に濡れていた衣服が真新しいものに替えられている董卓と賈駆に、馬謄からその身を預かった馬超に馬岱、そして俺付きの将でもある趙雲、程昱、郭嘉がこの場にいた。
他の将らは現在も出撃の準備を整えている。
既に時刻が遅いということもあり準備も中々進まないと華雄が愚痴っていたが、それも仕方のないことだと思う。
何より、董卓軍にとっては――というよりは俺にとっては初めての突発的な戦闘である。
これまでは黄巾賊であるとか反董卓連合軍などの戦いにおいては事前に知ることで予め対策などを講じ、準備を整えることが出来ていたが、今回はそういう戦いではないのだ。
戦というのは何が起こるか分らないものだとは理解していたつもりであったが、今回はそれに拍車をかける戦いになるであろうことは容易に想像できた。
「このまま出撃の準備が整っていけば出るのは早くても陽が昇ってからになるけど……出来れば、時間を置きたいわね。……陽が暮れる頃がいいわね。ある程度時間を置きたいわ」
「……なるほど、迎撃する時間を調整するということですね」
賈駆の言葉に答えるように呟いた郭嘉に視線を投げかける。
その視線を特に気にするふうでもなく、郭嘉は視線を机に広げた地図に落としたまま口を開いた。
「丸一日ほど時間をおけば兵には十分に召集の令が届くでしょう。兵が集うのに日中、装備を出撃可能までに整えるのに数刻……そう考えれば妥当な線かと」
「けどさ、それだと少し早すぎやしないか? 兵糧の準備もあれば馬を揃える時間もいるし、何より兵を軍にするには訓練が必要だろ? その時間じゃあそれは難しいんじゃ……」
「そこは石城からの古参の董卓軍兵を集めるのではないですかー? それならば、洛陽からの兵よりも練度が高いでしょうし、何より、故郷を守るという意識にも繋がりますしー」
「はい、程昱さんの言うとおりです」
董卓の言葉に、いやーそれほどでもー、と照れる程昱はとりあえず置いておくとして、なるほどとばかりに俺は腕を組んだ――ずきり、と手が傷んだのですぐに解く。
俺が知る中でも石城と安定での黄巾賊との戦いを生き抜き、反董卓連合軍との戦いにおいても生き延びてきた董卓軍古参の練度は高いと言っていい。
董卓軍が洛陽に入ってから――何進と宦官の旧勢力から吸収した兵達とは一線を画していて、吸収してから兵数が増えてからこちらは隊の指揮官や軍の要になる者が多い。
今回はそういった兵を使うのではないか、との程昱の言葉に同意した董卓は、視線を地図から上げて口を開いた。
「恐らくですが、兵数としては三千ほどが限界になると思います。時間を置いて数を集めればよいのでしょうが……なにぶん、後手に回っていますので……」
「それ以上に時間をかけるわけにはいかないってことか……」
今こうしている時にも韓遂の軍勢が迫ってきているかもしれない、その軍勢が石城や安定に攻め込んでいるかもしれないという可能性を考えると、確かに、董卓の言うように後手に回っているのは否めない。
可能性、という話だけで考えるのならば韓遂の軍勢が動いていないという可能性もあるのだが、それもここに集う前、馬謄に劉協を――いや、この場合は劉協に馬謄か――任せる際に確認すれば、それも特考えることに意味の無い可能性であった。
――韓遂ならばまず動かしていると思ってもいいだろうね。
なんたって、あいつはこのあたしに張り合ってた西涼連合軍の雄の一人だ、これぐらいの策謀を張るのは赤ん坊に馬で勝つぐらいに普通だろうさ。
そんな馬騰の言葉を思い出して、俺は一人背筋を震わせた。
馬騰の武力、知謀、統率力を直に目にしたことはないが、その実力は知識として知っているし、情報としても得ている。
その人物がそう断言したのだ、俺達の考えが杞憂である可能性など微塵も感じられなかった。
それと同時に、俺は董卓を守れたことが本当に運が良かったのだと、一人安堵した。
「……陽が暮れる頃に出発、練度の高い古参の兵なら夜通し駆け抜ければ陽が昇りきる前には長安を目にすることが出来ると思うわ。状況によってはそこで休憩、もしくは戦になるでしょうね」
「安定、石城まで一気にいかないのか?」
「無理でしょう。兵が耐えられません」
「もし安定、或いは石城まで兵が耐えたとしてもそこまででしょうかねー。そこで韓遂さんの軍勢と戦にでもなったら、間違い無く負けてしまいますよー」
「郭嘉と程昱の言う通りね。速度、距離、戦が可能なだけの戦力維持のことを考えれば、これが最大限なのよ」
「……なるほど。その限界が長安を境にしている、ということですな?」
趙雲の言葉に賈駆がこくりと頷くと、みんなの視線は地図上へと――そこに記された長安の名へと注がれる。
地図で見るとさほど遠いという印象は抱かないが、実際に洛陽に入る時に通った身からすればかなりの距離があることは実感出来ていた。
慣れない乗馬に尻を痛めたのも良い思い出、なんてどうでもいいことを考えて俺は、ふと思考に湧き出た言葉を口にした――。
「……なあ詠、長安を境にするんだったら、先に――」
「――ああ、あんたの言いたいことは分かってるわよ」
――だが。
俺の言葉は賈駆の言葉――にやりと誇らしげな笑みと共に塞がれることとなる。
まるでお見通しだ、と言わんばかりに口端を歪めるその顔をなんと形容すれば良いだろうか。
どうだ、と視線だけで誇らしげに自慢する賈駆に何とも言えず、俺はただ頭を掻いていた。
「ふむふむ、お兄さんは中々頭が回る方だったのですねー。反董卓連合軍の時は偶然では無かったということですかー。これは評価を上げなければいけませんねー」
「今ここで思いつくのは少しばかり遅いものと思いますが、しかし、一人でそこに辿り着けるとなると……これは、私も見方を変えていくべきでしょうか……」
とりあえず、中々に酷い評価をくれていたらしい郭嘉と程昱の言葉は置いておくとして。
二人の反応からそこに策と思考が行き着いているのだと感じながら、俺はぽりぽりと頭を掻いたままでもう一度地図へと視線を落とす。
洛陽、長安、安定、石城。
洛陽から西に向かって大小様々な街や村の名を地図の上に指を滑らせながらなぞっていった。
「そこね」
そうして。
ある一点に指が辿り着いた時、賈駆の言葉が頭上に降りかかる。
その言葉に指が止まった点――そこに記された村の名に、なるほど、と思う。
確かにここならば、という感情のままに視線を上げると、一つ頷く賈駆と董卓に視線が合った。
「問題は解決したわね? なら……ここからは編成の話よ。郭嘉に程昱、それに趙雲も、今回はいろいろと動いて貰うことになると思うから、何かあれば言って頂戴」
「蒲公英と翠は俺が面倒を見る……でいいんだよな?」
「まあ、それしか無いでしょうけど……面倒を見て貰うの間違いじゃないの?」
「うぐっ」
先ほどまでの誇らしげな顔とは一転して、何処か呆れたような顔を向ける賈駆に心と共に傷の塞がらない手がズキリと痛む。
要するにはお目付役ということなのだが、怪我をしている俺がそのような――いや怪我をしてなくても出来るかどうかは分からないが、馬超と馬岱を止めることなど出来よう筈もない。
むしろ、戦場においていえば怪我をしている俺は邪魔者以外の何者でも無いのだが、馬超と馬岱は汚名を雪ぐために戦場へ出なければならず、そのお目付役として俺が――不本意というか嬉しながらというか何というか、馬超の婿候補として彼女の手綱を握る役割を担う俺が戦場へ出なければならないことは、もはやどうしようもない事実と現実として存在していた。
となると、手が痛いなどと――心が痛いとも――言っていられない。
何より、現状はそう言うことを許してはいないし、そんな余裕も無いのだからどうしようもない――だからこそ、使える手は使うに限るのである。
「馬超と馬岱は先駆け、その指揮はこいつ。その後ろで月とボクが本隊を率いるわ。華雄なんかもこっちね」
「ふむ……我々は――いや、面倒なことは無しでいくとしよう。時間も無いことだしな……我々は北郷殿の指揮に従う、ということで良いのかな?」
「ええ、話が早くて助かるわ、趙雲。この馬鹿が馬鹿なことをして馬鹿な怪我をしたせいで戦場で死なれても困るからね、その護衛――まあ副官という立場で従って頂戴」
「詠ちゃん……一刀さんは私を助けてくれたんだよ? それなのに、馬鹿って……」
「うぅ……わ、分かってるわよ、月」
「まあとりあえず……頼めますか、子龍殿、奉考殿、風?」
――素直ではありませんな、なんて趙雲の言葉に顔を赤める賈駆はとりあえず見なかったことにするとして。
指揮――俺のあれが指揮と呼べるかどうかはともかく――を執るぶんには少々怪我をしていようが大きな問題は無いだろうが、いざ戦闘になってしまえば指揮を執るだけで無いのが戦である。
剣を取って敵を討つこともあれば、盾を取って矢を防ぎ、馬を駆るにも落馬することすらあったりする。
そういった事態に直面した場合、怪我の身である俺が真っ先に狙われる可能性は否定出来ないのだ。
しかし、戦場ではそういった可能性らを避けて通るのは不可能に近い。
ならば使える手――洛陽に来てからこちら、武官文官としての副官としてあった趙雲、郭嘉、程昱の三人を使うのに躊躇は無かった。
「……ふむ。まあよろしかろう……稟、風?」
「……仕方ないでしょう。そもそも、私達は雇われている身、否と言える立場ではありません」
「風も問題は無いですかねー。……ちなみに稟ちゃん? そのようなことをここで言っても良いのですかー? 後でお兄さんの閨に呼ばれて、あれやこれやと命令されるかもしれませんよー?」
「いやしないよ――本当にしないから汚らわしいものを視界に入れてしまったみたいな顔は止めて欲しいんだけど、詠。……あと月、泣きそうな顔をしないでくれ」
「……ぷっふぅ」
数瞬後れていつものように赤い鮮血を鼻から撒き散らす郭嘉を話の中心に据えることなく、俺はとりあえず三人の承諾が得られたことにほっと胸を撫で下ろす。
はっきりと言って、趙雲の武力は頼りになるし、郭嘉と程昱の知謀はいざ戦に臨んだ時には俺などよりも勝利への道筋を明確に照らすことだろう。
事前に策を巡らせることが出来ないためにその知謀や策略は万全では無いだろうが、それでも俺より頭が回ることは当然なのだから、本当に頼りになる存在であり、心強い。
ともすれば伝令、斥候として従軍させる予定の忍の指揮権を任せてもいいし、いっそのこと部隊の指揮を丸ごと任せてもいいかもしれない。
彼女達に対するそれだけの信頼が、俺の中に育っていることに、俺は思わず笑みを零していた。
まあ、鼻血を出したりその介抱をしたりそれを笑ったりしている趙雲達を見ていると、それも尚早だったのではないかと思わないでもないのだが。
それでも、そんないつもの姿にどうしようもない頼りがいを感じていることに気づいて、俺はやはり笑みを零していた――。
――口を開くことの無かった馬超と馬岱の笑い声だけが聞こえない、ということに触れることもなく、そうして軍議は解散となった。
**
そうして。
当初の予定通りに韓遂による暗殺未遂から陽が明けて、そしてまた暮れる頃に董卓軍は出陣することになった。
騎馬三百、歩兵二千二百、総勢二千五百の董卓軍は、夕暮れの大地を引き裂いて一直線に長安にまで駆けることになった。
その先駆け――騎馬三百の指揮を執ることになった俺の横、何処か思い詰めたように馬を駆けさせる馬超と馬岱が、印象的だった。