*若干ながら、性描写的な表現があります。苦手な方は二つ目の区切り以降は軽く読み飛ばすことをお勧めします。
洛陽――その以西が今また動乱の渦に巻き込まれようとしている頃。
洛陽より遙か遠く北の地において、こちらもまた動乱の幕が開けようとしていた。
「とうとう来たか……麗羽」
ひゅう、と一陣の風が城壁の上を駆け抜けて、そこに立つ人物――公孫賛の髪を揺らめかせる。
闇夜を切り裂くように昇りつつある陽光に目を細めた公孫賛は、その煌めきの中に別種のそれを確認する。
ちかちか、と。
きらきら、と。
まるで生きているかのように浮き出ては沈むその別種の煌めきは、しかして、時が進むにつれて、朝日が昇るにつれてその姿を大きくし、その全貌を現していく。
遙かに続く大地の一画を埋め尽くすほどの黄金の群れ。
――反董卓連合軍の総大将を務めた派手好きたる袁紹の軍勢が、今まさに襲いかからんとしていた。
「……ったく、いきなり攻めてくるのもどうかと思うぞ、麗羽。もっとも、そんな細かいことを考えないのは昔からだけどな」
はっきりと言って、自身と袁紹の仲はさほど良くはない、と公孫賛は考えていた。
袁紹は三公などを輩出したこともある名家、対した自分は古くから異民族との最前線で生きてきた一族の出だ。
かねてより顔を合わせれば小馬鹿にされてきたし、嫌いや憎らしいといった負の感情を抱くまではいかなくとも、良い感情を抱くこともなかった。
それでも、真名を預けるほどには親しくなったし、反董卓連合軍においても昔からの付き合いから押しとどめる役として参加もした――もっとも、反董卓連合軍の参加は時流に乗っかったこともあるし、古くの付き合いである劉備の願いもあったのだが。
まあそれは置いておいて、だ。
結局のところ、仲がさほど良くないと自覚しているとはいえ、それでも古い付き合いだ、袁紹の考えるところが理解出来る公孫賛からすれば、今回の行動――自領への侵攻は予想出来ていた。
つまるところ、袁紹は反董卓連合軍における敗北の責を別の勝利にて埋める算段なのだ。
「伯珪様ッ、袁紹の軍勢がこちらに進んできておりますッ」
「もう確認出来てるよ」
袁紹の進撃の理由を思考していると、同じ城壁の上にいた見張りの兵からようやっと袁紹軍発見の報が届く。
遅すぎやしないか、と思わないでもないが、狙っていたのか定かではないが、煌めく陽光に混じっての進撃ならばあの無駄に豪華で派手な金色の鎧は姿を隠しやすいだろう。
まさかな、と思いつつ、公孫賛は報告の兵へ口を開いた。
「兵の配置はすでに完了しているか?」
「はッ。白馬義従はもとより、弓兵、槍兵、歩兵、騎馬隊……その全てが」
「そうか……。厳しい戦いになる、第一班に防戦の用意をさせろ。口上があるかどうかは分からないが、すぐに動けるようにも伝えておけ」
「御意ッ」
敬礼を済ませた兵が、その足を駆けさせて城壁の上から姿を消す。
交代して防衛に回れるようにと分けていた兵、その第一の班に指示を与えるためだろう。
視界の先にある袁紹の軍勢は、視界の中から少なく見積もっても三万は下らないだろう。
控えの兵、輜重、偵察、諸々を含めれば四万に届くかもしれない。
華北の中でも良く富んだ冀州を押さえるだけあって、四万の軍勢を率いてなお、その本拠には防衛の兵を割いているだろうという事実に、公孫賛は少しだけ憂鬱になった。
「はぁ……対するこっちは一万と少し……厳しいどころの話じゃないな、これは……」
白馬で固めて白い鎧にて構成された白馬義従が三千。
その他の騎馬隊が二千。
歩兵、槍兵、弓兵が合わせて五千。
つい先日、抜けていった兵達の穴埋めとして募兵した新兵、訓練兵が二千。
なるほど、厳しいどころの話ではないな、と公孫賛は今また深い溜息をついた。
「籠城するか、討って出るか…………うう、朱里か雛里がいればいい策も出るんだろうけどなぁ……」
やっぱり私じゃ無理なんだろうか、などと自身の力量の無さを感じつつ、それでも、と過ぎたる日々――過ぎていった劉備との日々に思いを馳せた。
天下に至るみんなが笑顔で過ごせる世が作りたい。
そうした義を掲げ、戦乱に身を投じた彼女のことを公孫賛は眩しいと思った。
そんな理想に惹かれて関羽や張飛などの猛将は集いて軍勢を率い、朱里や雛里――諸葛亮や庖統などの智将は知恵を貸して勝利を彩るのだ。
その勢力は小さいなれど、従っていくには確かな理想に公孫賛自身も羨ましいと思ってしまった。
だからこそ、ではないが、公孫賛は劉備を送り出した。
彼女の理想はここで潰えるものではない、と。
これからの戦乱の中において、劉備の理想こそが人々と民の希望になるだろう、との予想をもって。
まあ、その際に好きなだけ人員を連れて行けと言った時、その理想に惹かれて二千もの兵が引き抜かれるとは思ってもみなかったがな、と公孫賛は言葉に出すことなく心中で涙を流した。
そんなこんなで劉備達を送り出したのはつい先日のこと。
反董卓連合軍の折に声をかけられた徐州牧である陶謙を頼ると言っていたから、二千もの軍勢とはいえ、今頃は青州との境まで行っている頃だろうか。
陶謙の名君たる名は公孫賛とて聞いているから、劉備が腰を落ち着けて勢力を各台するには自分のところよりも適当だろう、と思った後に、彼女は視界の中で煌めく黄金に意識を戻した。
「まあ、無い物ねだりをしても仕方が無いな……。まずは一当てしてみるとするか」
自らが率いる軍より倍以上にも多い敵軍。
その事実に身体の奥底がずっしりと重くなったような錯覚を覚えるが、それでも、確かな足取りで公孫賛は城壁から階段を伝って降りていく。
すでに用意されていた自らの白馬に跨がって背後を振り返れば、白き草原のように広がる白馬義従の威容。
その姿に満足そうに一つ頷いた公孫賛は、気と顔を引き締めて声を上げた。
「城門開けッ。討って出るぞッ!」
**
「おーほっほっほっ。前進前進、全速前進ですわー」
「麗羽様っ、白蓮様が討って出てきましたよッ」
「数はどれぐらいですの?」
「ええっと……多くて一万ぐらい、でしょうか……」
「ならばものの数ではありませんわッ。全力で前進するだけですわッ」
「えーと、姫……少しは戦略とか考えた方が……。白蓮様も太守だから、賊みたいに簡単にいける訳じゃないんだし……」
「あら、何か言いまして猪々子さん?」
「いや、姫がいいんならそれでいんだけどさ……」
「ふう……」
規則正しい土を踏みしめる音が辺りに響く中、一応の主である袁紹とその配下である顔良と文醜の声が耳に届いて、張恰は仮面に隠れた下で人知れず息を吐いた。
此度の軍、その名目は反董卓連合軍において失われた治安の回復である。
反董卓連合軍の敗北によって活発になった賊徒の征伐、と言い換えればそれなりの筋はあるように聞こえるが、その名目だって顔良が体裁を整えたものである。
元々の名目――目的は、公孫賛の討伐であった。
三公四世。
これまで多くの名将、智将、猛将を輩出し、漢王朝において多大な功績を挙げてきた文官や三公を送り出してきた袁家の名は、この時代において絶大なものがある。
張恰自身として言えばさほど気に留めることでもないのだが、名を欲し、声を欲し、富を欲す者達からすれば結構なものなのだろう。
反董卓連合軍の結成の際、袁家に近づく好機と見た諸侯の数が多かったのがそれを表していた。
だが、反董卓連合軍での敗北は袁紹の領地において決して小さくない動揺を生み出すこととなる。
領地では袁家の威光によって押さえつけられていた賊徒が湧き、袁家に仕える者でもその盛者必衰を予見――或いは恐れた者などは、今のうちにと己が栄華を求めるようになった。
外が荒れ、内も荒れ。
衰えるどころの話ではない、滅びへの道を転がり落ちるように進む袁家の勢いの中、それを打開するには勝利をもって再び威光を示す必要があった――それも、賊徒を相手にするような小さなものではない、諸侯を相手取った大きなものが。
その標的が、後に中原進出ということ見据えて後顧の憂いとなる可能性のあった公孫賛であった。
――無論、そう仕向けたのは張恰自身である。
「……三万以上の軍勢と一万の軍勢……。普通に考えるのであれば、仲達様の言うとおりに勝利は容易いものなのでしょうが……」
袁紹に公孫賛を攻めさせ、これを勝利するように動け。
反董卓連合軍の敗北が北郷一刀の手によって決定的となり撤退の準備を行っていたあの日、仲達――司馬懿からの使いである白装束の者から受けた指示を、張恰は忠実に実行した。
反董卓連合軍の失敗は多くの諸侯を募ったことにあった、故に公孫賛を討ち幽州を治め、その勢いをもって并州を勢力とし、さらに勢いのままに華北全土を平らげた後に洛陽に南下すれば袁本初に敵う者は無いだろう。
中規模な賊軍討伐からの帰還の折にそう伝えたことは記憶に新しい。
反董卓連合軍の際に召し出されてから袁紹の近くにいることが多くなったが、普段の言動はあれでも、こういった実利に絡む話の時は本当に動きが早いと感嘆する。
あれよあれよと言う間に数万の軍勢を編成し、その半数を領地防衛のために残して出発することになったのだから、その力量と手腕――殆ど顔良だが――は見直すべきか、とは思う。
だが――。
「それでも……仲達様には敵わない。袁紹様も、顔良様も……董卓も、北郷一刀も」
今は遠く離れている司馬懿の仮面に半分覆われた顔を思い出し、少しだけ、どきんと胸が高鳴るのを張恰は心地よく思う。
ついっ、と彼とお揃いにとした半身の仮面に触れて、胸の奥の辺りがほわりと暖かくなる。
頭頂部より少し後ろで纏めた蒼い髪がふさりと揺れた。
あの日――絶望しか待ち受けていなかった自身を司馬懿に救ってもらった日と同じ長さに整えている髪。
自らの容姿の中で唯一認めてもらったことのある蒼い髪に一度だけ触れて、ふわりと暖かくなった胸の内のままに、司馬懿は前を見据えた。
視界の先には、城から討って出た公孫賛の軍勢。
その中に見える白い姿形は、おそらく彼の軍勢にて名高い白馬義従だろう。
異民族相手に戦歴を積み上げ、戦場を駆け抜ける白い風。
多分であるが、名声と威光と財力で集めた袁家の軍兵では太刀打ち出来ないだろうと思う。
ただ正面から戦うだけでは勝利は難しいかもしれない、勝利出来たとしても、己が命すら投げ出さないといけないかもしれない。
それでも。
それでも、司馬懿は袁紹の勝利を望んでいる。
彼の意図は分からない、袁紹を勝たせる理由も、その目的も何もかもが。
けれど、と思う。
「迎え撃ちなさい、張恰さんっ」
「全軍……抜刀ッ!」
自身にはそんなもの関係の無いことだ、と張恰は腰から――その左右に携えていた二本の小振りな剣を両手に抜く。
司馬懿が望んだのは袁紹の勝利、自分にはただそれだけ良い。
司馬懿が望んだのであれば、それが決して難しいことであっても、無理なことであっても、不可能なことであっても、ただ実行するだけである。
両の手で司馬懿の願いを叶えられるように、それぞれに剣という力をもって。
そうして拵えた双小剣を天に掲げ――。
――張恰は、司馬懿の願いを叶えるために号令を発した。
「迎え撃てぇぇッ!」
ただ願うは、司馬懿の願いの成就。
それだけの想いを胸に秘めて、張恰は公孫賛軍の先頭を駆けていた白馬の騎馬に双小剣を突き立てた。
**
袁紹と公孫賛が今まさにその軍勢をぶつかり合わせんとしている夜明けの時より少し前。
「はぁ……はぁ……ふぁ、んっ、ひゃんっ……はっ、かりん、さまぁ……ああぁぁぁぁッッ」
荒い息遣いが闇夜に染まる部屋を埋め尽くしてる中で、女性特有の甘くて聞くものの劣情を呼び起こす様な嬌声が響く。
びくんっ、びくんっ、と嬌声を上げた女性の身体が数度痙攣するかのように震え、その表情と瞳がとろんとした深く堕ちるほどの甘みに染まるのを、少女――曹操は楽しそうに口端を上げて眺めていた。
兗州が東郡の城において、曹操の寝室とされている一室。
明り取りの油や蝋燭などなく、ただ月と星がもたらす灯りだけが部屋の中を満たしている中で、豊潤に香るのはむせるほどの雌の匂い。
つつっ、と未だ震える女性の肌に指を這わせると、ひくんっ、と蠢くその身体に曹操は思わず舌を舐めずる。
反董卓連合軍の終結から早くも時が経ち、その敗戦による混乱は一応の収束を迎えていた。
反董卓連合軍への参戦が私利私欲からではなく漢王朝の未来を案じて、と早くから張莫を伴って漢王朝皇帝である劉協に顔を通していたのも幸いしたが、何より――いや、元々の予定通りに領内に潜んでいた賊徒が一斉に反旗を翻したことが大きかった。
反董卓連合軍が敗北してしまったことこそは予想外であったが、それに勝利したとしてもその内実がボロボロの薄氷を踏むものであった、と演じて後の不安材料である賊軍を一斉に噴出させようという荀彧の策が上手く行われたのであった。
結果として、領内において曹操に不満を持つ者、ただ貪りたいだけの者らは結託して一様に陳留を目指した。
軍勢の大部分を反董卓連合軍に割き、それも敗北したとあっては軍勢を防ぐことは出来ないだろう、そう思ってのことだったのだろう。
だが、先も言ったようにその賊軍の動きはこちらの予定通りのものだった――もっといえば、上手く誘導した通りであったのだ。
であるならば、襲撃されるというのに防備を疎かにするはずもなく。
反董卓連合軍の参戦するより以前、陳留近くの村々を勢力とするときにそれらを守らんとしていた義勇軍の将らが、別働隊を率いてそれを撃破したのであった。
楽進、李典、于禁。
それがその将達の名であった。
まあ、漢王朝皇帝への謁見、そして敗れてなお賊徒を撃破する気概を買われて、曹操はついに兗州に所属する東郡の太守となり、得難い将らまでをも獲得することが出来たのだから、結果としては万々歳であった。
そして、そうして得た東郡は張莫が太守を務める陳留よりは幾分か小さい街ではあるが、それまで確固たる勢力基盤を持たなかった曹操からしてみれば堂々たる土地である。
小さいなら小さいなりに成長のさせがいがある、なんてことを思いつつ、ふと自分の身体を見てしまったことなどは、すでに幾日も前の話であった。
ただ、一つ残念なことがあった。
新たな拠点として東郡を得ることになったのは喜ばしいことではあったが、そのために配下である夏候惇や夏侯淵、荀彧が忙しくなったのは予想外であったのだ。
いつもならばどれだけ忙しくとも仕事を収め上げ、閨――夜の相手を任せていたというのに、今回ばかりはそうも言っていられなかった。
文字通り不眠不休で働いているものだから、閨の相手を務めさせようとして眠られてしまったのは、凄まじい敗北感であったことを覚えている。
結果として、体調のことも考慮してか普段から相手をさせている三人をその役目から一時的に外して、曹操が愛でるためにと編成していた親衛隊の中から一人二人ほど美味しく頂いている訳であった。
「けれども……なんか物足りないのよね……」
ひくんっ、ひくんっ、と指を肌に滑らせるたびに身体のいろいろな部分を震わせる女性――親衛隊の新参の女性兵士で曹操直々に指名した――から視線を外しつつ、曹操はぽつりと呟いた。
虐め甲斐が無いといえばそれまでだし、ただ欲求が満たされていないだけといえばそこまでだろう。
荀彧などは相当の虐め甲斐があるものだし、夏候惇は夏侯淵と共に虐めてやれば欲求が満たされ、夏侯淵は女性同士の逢瀬を心行くまで楽しむことが出来るのだから、それも仕方のないことなのかもしれないが。
「まあ……今は仕方が無いわね……。ふふ……今は、こちらで楽しむとしましょうか……」
「……ひぁっ、か、かりんッ、さまぁ……ッ」
「……失礼します」
まあ、忙しいのも今だけでもう少しすれば落ち着くとの報告も来ていることだし、無いものをねだってもしょうがない、と曹操はつい今しがたまで身体を重ねていた女性に再び覆いかぶさる。
その胸に手と指を這わせ、その肌に唇と舌を落とし、その下腹部に快感をもたらしていく。
そうして。
決して男に曝け出したことのない女性の秘密の部分に曹操が再び指を這わせようと――その肉に指を埋めようとした時、閉じられた扉の向こうから聞きなれた声が耳に届く。
荀彧の声だ。
「……何か用、桂花? 混ざりに来たのかしら?」
「いえ……北に放っていた偵察が戻ってまいりました」
「……すぐ行くわ。ふふ……残念だけど、今日はここまでね」
「ふぁ……はいぃ……」
「うふふ……可愛い子。部屋に帰っても、きちんと温かくして眠るのよ?」
ぴくんっ、と身体を震わせてとろりとした表情の女性の頬に一つだけ口づけを落とす。
軽く息を呑む吐息と少しだけ身体を震わせるその様は、未だ劣情を内部に燻らせているかのようであったが、残念ながらこれ以上可愛がっていると必要な時間が取れなくなってくる。
まだ可愛がりたくなる衝動を息を深く吐いて殺しながら、曹操は寝台の横にある椅子にかけていた薄布をその裸身に纏う。
熱る身体に冷たくなっていた薄布を心地よく感じながら、曹操は寝室の扉を開けた。
「……」
「あら、妬いてるの、桂花?」
「……意地悪です、華琳様は……。妬いていると私がお答えになると知っていて、なお質問されるのですから……」
「ふふ……羞恥で顔を赤らめながらも答えてくれる桂花が好きよ。……さて、それで?」
扉を開けた向こうで、荀彧が顔を顰めるのを曹操は目にする。
常の荀彧であれば曹操が――しかも裸身の姿で前に現れれば、すぐさま感情を興奮とさせてきそうなものなのだが。
そこまで考えて、曹操は自身が纏う女と雌の匂いにふと気づいた。
そして、荀彧の視線が閉じられていく寝室の扉の内側――正確に言えば、その寝台で身体を起こしていた女性に向けられているのを理解して、なるほど嫉妬か、と微笑んだ。
だからこそ、荀彧もまた曹操に気付かれているということを前提に話を進めていくのだが。
如何せん、今はこのような場合ではない。
北に放っていた――曹操の領地より北に位置する冀州の様子を探っていた偵察が返ってきたという報告の先を、曹操は荀彧に促した。
「報告によれば、袁紹は三万程度の軍勢を率いて本拠を出立……その進路を北にと取ったそうです」
「三万程度、か……麗羽は確か五、六万程度の軍を擁していたわね」
「はい。密偵の報告では六万五千、戦力と数えない新兵、訓練兵は二万程度とのことですので、実質的に戦力の半数近くを動かしたことになります」
「そう……それだけ大々的に兵を動かしたとなると……」
「恐らくは、北の公孫賛ではないかと……」
北――袁紹が擁する冀州の地は、古来より多くの英雄が覇を競って争ってきた地である。
数多の兵の血が流れ、幾多もの民がその血をもって大地を耕して田畑とし、開発されてきた、言うなれば由緒ある地でもある。
そんな地であるのだから、袁紹の軍勢は彼の地を統べるとあってもかなり多い部類に入る。
一万二万程度の兵を持つ太守、それらを統べる冀州牧となったということはつい先日に洛陽で聞いたが、まさか一度の出征で三万もの軍勢を動かすようなことが来るとは、というのが素直に驚きである。
反董卓連合軍の総大将であった袁紹はその敗北の影響が一番に大きいと思っていた、それは密偵や偵察から入る賊軍噴出の情報から間違いないだろう。
しばらくの間はそれらにつきっきりで勢力拡大など到底無理だろう、と思っていたのだが。
そこまで大々的に兵を動かせるほどまでに領地を落ち着かせることが出来たというのであれば、少々袁紹の評価を間違っていたのではないか、と曹操は思うことになる。
しかし、それはそれだ。
袁紹が北へ向かったというのであれば、恐らくその目標は幽州に勢力を築く公孫賛だろう。
彼女もまた幽州全体に指示を出せる幽州牧となった、というのは聞いたことがあるが、元々洛陽より遠く離れた僻地である、その戦力には限界があるだろう。
それに、公孫賛の主戦力はなんといってもその騎馬隊であり、中でも、白馬に白き鎧にて編成された白馬義従の名は轟いている。
だからこそ、戦力には限界がある。
騎馬の維持には思ったよりの資金や物資が必要だからだ。
騎馬の状態を良好に保ち、騎馬兵の装備を整える、これだけでも凄まじいほどの資金が必要なのだから、通常の歩兵に割ける分はあまりにも少ないだろう。
故に、曹操は――これは荀彧も同意見であったが――公孫賛の軍勢の規模は一万と少し、多くても二万程度だろうと予測していた。
対しての袁紹は三万。
曹操の脳裏に、閃きが走る。
「桂花……先日の鮑信からの使者、まだ返してはいないわよね?」
「はい。華琳様の指示通りに城の離れにて居留させていますが……華琳様?」
「夜明けに使者を出して頂戴。要請の旨、了解したと。ついては詳細を詰めたいので城へ来るように、とね」
つい先日、兗州と青州の境にある済北国の太守である鮑信よりある要請が使者によってもたらされた。
鮑信といえば儒教にて名を成した一族の出で、鮑信自身も寛大で節義を弁えているからか、多くの民から慕われているという。
その鮑信からの要請――それは、青州にてこれを乱す黄巾賊残党の討伐であった。
青州は古く光武帝の時代に赤眉賊の根拠地となるほどに治安が悪く、それを狙ってか多くの賊が闊歩する無法の地として現状に至っている。
漢王朝からも多くの兵が差し向けられはしたが、そのたびに官軍は大敗を喫することとなり、その無法は最早止められない状況にまで陥っていた。
そして、その無法の中でも一大勢力が、黄巾賊の残党であった。
黄巾賊の残党兵三十万、非戦闘員は百万はくだらないというほどに大規模な賊軍は、見方を変えれば青州を支配する勢力でもある。
その青州黄巾賊が、兗州に進出してきて鮑信の済北国を脅かしているというのだという。
しかし、曹操は兗州でもそれほど大きな街ではない東郡の太守でしかない。
兗州全体の問題となれば兗州刺史が動くのが普通であるのだが――。
――その兗州刺史であった劉岱が青州黄巾賊に敗れて討死しているのであれば、話は別であった。
「兗州刺史は討たれ、兗州牧も任命されていない今、動けるのは兗州の一太守でしかない私や紅瞬ぐらいでしょうね。……どれぐらい集められそう?」
「……かつてより華琳様に仕えてきた兵、東郡にて新たに徴兵し錬度を高めた兵、それに紅瞬様の陳留の軍勢を揃えて……総勢で三万五千ほどかと」
「そこから北、南……そして西の洛陽の抑えの兵を残したとして、どれぐらいの兵になりそう、桂花?」
「万全を期するならば漢王朝に上奏し、官軍として出征すれば総勢を。……ですが、兗州だけの軍勢となりますと……二万」
「なるほど……二万対三十万……勝算はあるのかしら?」
「華琳様が望まれるのであれば、絶対の勝利を」
荀彧に言葉を投げかけながら、熱の昇っていた頭を冷やしながら思考を働かせていく。
北――袁紹は公孫賛に向けて軍勢を動かしたが故に、こちらには手を出してこないだろう。
それまで領内各地において反乱を抱えていた状況であったのだ、恐らくは、そこまで余裕は無いだろう。
南――豫州はそこまでの情報は入っていない。
袁術が興味を伸ばしているらしい、との情報こそ仕入れてはいるものの、今の所は大規模な賊であるとか、大きな行動があると聞いた話ではない。
州をまとめ上げそうな確固たる勢力がいるとも聞いていなかった。
そして西――洛陽方面は、驚くほどに静かであると張莫から報告が上がっていた。
反董卓連合軍と董卓軍との会談において汜水関が董卓軍に返却されてから、彼の関に軍勢が終結しているらしき気配がないのである。
関として機能する必要最低限――賊を迎え撃てる程度――の軍勢はあるらしいが、それもそれだけで、討って出る訳でも、こちらを警戒するでもないらしい。
詳細は不明だが、危険視するほどではない、というのが張莫の見解だった。
さて。
北、南、西に問題が無いのならば、後は東の問題を片づけるだけである。
兵力でこそ明らかな差はあるが、錬度と将兵の質を考えれば苦戦は考えられなかった。
さらには、目の前で絶対の自信をその瞳に宿しながら膝をつく荀彧の存在もある。
彼女が絶対の勝利を授ける、というのであれば、それに相当する策があるのだろう。
将としてその智謀と存在を頼もしく思い、女として愛するべき少女の気高しさを嬉しく、そして可愛く思い、曹操は知らずのうちに口元を笑みで浮かべていた。
そして。
一週間の後に、曹操は軍勢を率いて東郡を出立する。
その軍勢には夏候惇と夏侯淵の夏候姉妹、軍師である荀彧、新規に曹操軍に編入された楽進や李典、于禁の姿があった。
陳留からも太守である張莫が一万余を率いての参戦となって、曹操軍はその数を二万五千にまで膨れ上がらせることとなる。
黒を基調とした鎧にて編成された彼の軍兵らは整然とし、その威容を見た者はまるで彼の項羽の軍勢であるかのようであったという。
覇王。
曹孟徳という少女に、新たな名が付いた時でもあった。
**
こうして。
洛陽を巻き込んだ争乱が董卓軍を襲う中、華北の地においても動乱の風が吹き荒れようとしていた。
公孫賛。
袁紹。
曹操。
その動乱の中心となるであろう諸侯達は、動乱が始まらんとしていたこの時すでに、ある程度の予測を立てていたことだろう。
華北の有力者たる袁紹が幽州の公孫賛を討ってその勢力を広げ、曹操は東と南に勢力を拡大して、華北における最大勢力は袁紹と曹操になるであろう、と――。
――今はまだその名を歴史に現さない、誰ともつかぬ者が立てたであろう道筋に沿って。
しかして、そんな予想と道筋は、一人の少女の決意によって覆されることとなる。
その少女の名は劉備――劉玄徳といった。