――――ぴちゃり。
――――ぴちゃり、と流れる血が床へと落ちた。
――――ぴちゃり、と刃を伝って流れる血が、また床へと落ちる。
その流れる血は徐々にその数を増やしていき、そして、それは床に花開いていく紅い華のように床を染め上げていく。
荒い息づかいが――命の灯火が消えゆくようなか細い息づかいではない、荒々しく、その身に滾る何かしらの感情による息づかいが、驚愕に息を呑む音と一緒にその場を支配する。
ふと、俺は――北郷一刀は視界の中で驚愕と涙をその目に浮かべる主を見やる。
何かの覚悟が来なかったからか、或いはそれ故の安堵からか。
その首元に迫ろうとしていた――突き立てられようとしていた剣先から血が流れると、彼女はその血を追って視線を剣に這わせていった。
その彼女の動きに、俺は彼女が――董卓が助かったことを理解した。
その剣先は未だ近い場所にあるとはいえ、ここまで近づいた状態でならば、如何様にも出来るだろう。
この身で守るもよし、董卓の頭一つ上で驚愕の色に染めたままの韓遂の顔を殴り飛ばすもよし、韓遂の剣を奪い取ろうとするもよし。
さてどうしようか、などと考えていると、額を一粒の汗が流れ落ちる。
駆け抜けた熱が発生させたもの――ではない。
冷たい、まるで全ての熱を奪い取ろうかという汗は、額のみならず頬や背中を流れ落ちる。
これは、不味いかもな。
なんてことを思いつつ、背中を流れる汗に身を震わせて――忘れようと努力していた身を裂くような激痛が、走り抜けた。
「うっ……ぐぅぁぁぁぁッ」
「……なッ……き、貴様ッ……」
驚愕の声を上げる韓遂に、痛みから震える唇が自然と笑みを形作る。
まるで挑発してるみたいだ、なんて思わないでもないがはっきりと言えば今の俺にそんな余裕は無い。
――董卓の柔肌に突き立てられようとしていた剣、その刃を握って鍔の部分で押しとどめた俺の左手にその指はまだ繋がっているのだろうかと思えるほどの激痛が襲いかかり、俺の身を震わせる。
俺の左手――その中で刃が走って造り上げた傷から血が流れ落ちて、ぴちゃん、とまた床を濡らした。
なんて無謀、と言えばそこまでだろう。
押しとどめられる保障なんてどこにも無く、下手をすれば俺の指が切れ落ちただけで董卓を守ることも出来なかったというのに。
けれど、あの状況で俺が考えついたのはそれしかなかったのだ。
剣を止める、そのためには――その鍔を抑えれば。
激痛で混沌と化してきた思考で今一度考えてみれば、可能性は低いものだっただろう。
けれど、左手を犠牲にすれば右手を、右手を犠牲にすればこの身を、と順繰りにしていけば董卓だけならば守れた筈だ、と混沌とした思考は一応の決着を付けた。
つつっ、と左手から流れる血が腕を伝ってくる感触に、ふと我に返る。
そうだ、思考に耽っている場合ではない。
驚愕に身を強張らせているとはいえ、目の前には未だ脅威が存在している。
剣こそ抑えることが出来たが、力を入れれば十分に振り払うことは出来るだろうし、何より西涼の雄だ、落ち着く時間を与えてしまえばそれだけでこちらの脅威と成りうる。
ならば、取れる手など限られてくる――それに先んじる、ただそれだけ。
「か、ずと、さんっ……」
「……しゃがめ、月」
「ッ!?」
「ぐぬッ……何を……ッ?!」
混沌としていく思考とは裏腹に、冷水に浸かったかのように落ち着いていく意識の中で、董卓の言葉に応えるように俺は指示を口にすると同時に懐に右手を入れる。
固い、冷たい感触。
制服の上着、その内ポケットに忍ばせるように所持していた尖らせた鉄の棒――苦無を、右手でしっかりと握る。
冷たい苦無に思考と視界が幾分かはっきりとして、その視界の中で董卓がしゃがもうと身体を屈めようとしたのが確認出来た。
董卓の首に腕を回していた韓遂は、その動きに釣られるように少しだけ身を屈ませる形になる。
驚愕、そして不意の董卓の行動に一瞬だけなされるがままになった韓遂――その首が、目の前にあった。
躊躇することはない。
「……おおおおぉぉぉぉぉッッ!」
俺が何かを握っていることに韓遂が気付いて、ぎょっと顔を歪ませる。
しかし、遅い。
董卓を放し、剣を離し、身を自由にして後ろへと飛び退こうとする韓遂、その首に向けて俺は激痛からの叫びを後押しに変えて苦無を突き出した。
ずぶりっ、と皮を裂く。
ずぐりっ、と肉を切り裂く。
ぐずぐずっ、と筋肉を引き裂いて――しまった、という感情を出すことなく。
俺は一気に苦無を振り切った。
「ぐッ……あ゛あ゛あ゛ああぁぁぁぁッ?!」
「ぐぅっ……?!」
狙いがずれた、などと舌打ち出来るほど余裕がある筈も無い。
首の皮を切り裂く直前、さすがと言う他しかない動きで身体と首を逸らした韓遂の動きのために狙いのそれた苦無は、その喉を真っ直ぐ突くことは無かった。
しかし、致命傷には違いない。
首の左半分――韓遂からすれば首の右半分を大きく切り裂いたのだから。
一瞬、忘れていたかのように鮮血が肉片と共に宙を舞う。
凄まじいほどの激痛なのか、振り払うように手を振るわれて不意に左手から剣が剥がれ落ちる。
突き刺す様な、神経がずたずたにされているような激痛と共に左手の傷から剥がれ落ちた剣は、カランと乾いた音と僅かな水音を立てて血溜りに落ちた。
その音と同時に、ようやっと一応の危機が去ったことを知る。
同じように振り払われたのか、鈍い音を立てて床に転がる董卓が無事なことを視線だけで確認して、韓遂に目をやる。
首の傷を何とかしようと押さえている両手の隙間から、止めどなく血が流れ落ちていく。
その胸と身体が動くたびに血と呼吸の混ざった粘着質な音が耳に届いて、その音に合わせるように韓遂の身体はふらふらと動いていた。
「がはっ……ぐぅ、おの、れぇ……おのれぇ……」
しかし、韓遂から発せられる気はまだ死んでいない。
状況を打破するためにと身体に活を入れて首の傷をどうにかしようとしている様は、まさしく猛将の名に相応しいものだ。
だからこそ、俺もこれで終わりだなんて思わない。
床の血溜りにて無機質なままの剣を右手で拾い上げる。
左手はもはや感覚がほとんど無い、あるのは激痛だけで、剣を支えるために添えてみても役に立っているかさえ分かりはしない。
それでも、と俺は右手と共に左手に力を込めた。
「……韓遂、さん……」
「ごぶっ……ぐふっ、ふふ……わ、しを、討ったとしても、流れは……止まらん、ぞ」
「……それでも」
血と空気が混じる音に紛れて、韓遂の徐々にか細くなっていく声が耳に届く。
声を発するたびに身体がびくんと震えて、そのたびに塊のような血が零れ落ちていく。
ふらふらの韓遂の身体が部屋の一角にあった小ぶりな机に当たって、がたりと音を立てる。
ふらふら。
ふらふら、と。
身体に当たった机を蹴飛ばそうとでもしているのか、身体を揺らり揺らりと朧気に動かしている。
もはや、目が見えていないのだ。
「一刀さん…………」
「……ああ」
一向に止まる気配の無い血が滴っていく韓遂の衣服は、もはや元の色が分からないほどに赤く染まっている。
血に濡れて肌に張り付いた様は猛将らしい隆々とした筋骨を示していたが、その力の無さはもはや死人のそれであった。
楽にしてあげてください。
言外にそう訴える董卓の視線に、言葉を紡ぎつつ深く頷く。
本当であればこのような行動に出た理由、根拠、先ほどの流れという言葉の真意を問いただしたいところだが、目の前で息も絶え絶えな韓遂にそれを期待するのは酷な気がした。
だからこそ。
「つつあああぁぁぁぁッ!」
痛む左手を叱咤して、腰だめに構えた剣を韓遂の身体の中心――。
――心の臓目がけて、剣を突き刺した。
**
「つつあああぁぁぁぁッ!」
何かに耐えるような、それでいて力を振り絞るような声が聞こえた後、ドンッ、という鈍い音に、賈駆は駆けていた脚に急制動をかけて咄嗟に振り返った。
視界の中は未だ暗闇だ。
廊下の端々に置かれている灯りの蝋燭は既に燃え尽きており、闇夜を照らすは星月だけだというのに、その中で賈駆は声と音の出所を気配で探った。
軍師とはいえ、賈駆とて将の一人である。
物事の気配を探ることぐらいは出来るし、暗闇以外で与えられる情報といえば虫の細い鳴き声ぐらいだ、人が動く気配を追うことぐらいはどうということはない。
――そんな時、ふと賈駆は鼻を鳴らした。
「これは、この匂いは……まさか、血ッ?!」
僅かに香る戦場で嗅ぎ慣れた匂い――人の血の匂いに、賈駆は冷や水を浴びせられたかのように背筋を震わす。
先ほど感じた不安が。
董卓が韓遂に害される、という不安が否応なしに賈駆の中で大きく育っていく。
嘘だ、そう叫びたいのを我慢して――未だ董卓が無事ならば韓遂を刺激してはいけない、と思って、賈駆は気配と匂いを頼りにゆっくりと、しかし急かされるように脚を進めていく。
嘘だ、嘘だ、嘘だ、そんなことは無い、そんなことはあってはならない。
暗闇の中で確かに香る血の匂いは、歩みを進めていくたびにどんどんと濃いものになっていく。
それと同じくして不安がどんどんと大きくなっていき、それに比例して歩みが速くなっていくのを賈駆は気付かない。
――そして。
「……っぁ……ぁぐぅ……」
「一刀さんッ」
ある部屋から――扉の留め具が外されている部屋から聞こえた声に賈駆は駆けて、その扉を開け放った。
途端に鼻に付く、むせるような血の匂い。
僅かな暗闇の中に、探し求めていた董卓の姿と、彼女が身体を支える北郷一刀の姿。
そして。
壁際にて力無く崩れ去り、その胸に剣を生やした韓遂の物言わぬ身体があった。
「月ッ、一刀ッ、大丈夫なのッ?!」
物言わぬ崩れ落ちた韓遂――恐らくは骸だろう。
左手を抑えて苦悶の表情を浮かべる北郷一刀。
涙を浮かべながら北郷に寄り添って彼を心配する董卓。
その三者三様の姿を見て、賈駆はすぐさまに結論に達する。
――北郷一刀が董卓を韓遂から救ったのだ、と。
細かな流れや状況などはさすがに推測でしかないが、董卓を助けた北郷が韓遂を討ち、その際に傷を受けたのだと意識が及ぶ。
最悪の状況――不安は免れたのだ、と安心すると同時に、北郷が浮かべる苦悶の表情が酷いということについ声を上げた。
「あッ、詠ちゃんッ、一刀さんが……一刀さんがッ」
「……大丈夫、だよ、月……こんなの、かすり傷、さ……ッぅ」
「……ちょっと見せてみなさい」
額に大粒の汗を浮かべて、何が大丈夫だというのか。
喉の奥から零れる声は痛みが混ざっているし、その表情には血の気が無い。
あからさまに我慢しているのが見てとれた。
この馬鹿、なんて思わないでもないが、とりあえず今はそのような軽口を叩いている場合ではないだろう。
震えながらも見せられた北郷の左手――手の平から指からが裂けて血が流れる様に、知らず賈駆は眉を顰めていた。
「指は……うん、ちゃんと繋がってるわね。大方、剣の刃でも握ったんでしょ」
「は、は……よく、分かったな、詠」
「傷を見れば大体はね……やっぱり、韓遂が?」
「うん……韓遂さんが、その、私を討とうとした時に一刀さんが助けてくれて……その時に」
「はぁ、全く……声を上げるなりなんなりして、まずは助けを呼ぼうとは思わなかった訳?」
「はは、いや、そのな……うん、悪かった、ごめん」
痛みで震えて強張っている北郷の左手を、半ば無理矢理に動かしてみる。
傷に関してはいまいちな知識しかないが、あまり動かさないほうがいいと知ってはいても、実際にその手が無事かどうかを確認しておかないと気分的に落ち着かない――もちろん、董卓のである、断じて自分のではないと賈駆は誰ともなしに言い訳する。
それはともかく。
無理矢理に動かされた北郷の左手は、その痛みに耐えきれなかったのかピクリと動いた。
動くということは、傷さえ塞がってしまえばどうにかなるということだ。
そう安心した賈駆――いやいや、董卓から視線を外しつつ、賈駆は韓遂、その骸に視線を動かした。
胸の中央にて刺し貫かれた剣は心の臓を貫いているのか、その傷口からは闇夜に紛れてどす黒い血が溢れており、それが致命傷であると一目で分かるものだった。
その血溜りに力なく落ちる両の手にはべっとりと血が付いていて、ふと胸からの傷で濡れたものだと思うが、それも韓遂の顔――その下にある首の部分を見て違うと気付く。
大きく切り裂かれた首の左部分。
その傷口は見るからにずたずたなものであり、切り裂いたというよりは、どちらかというと引き裂いたというに近い。
きょろ、と視線を動かしてみれば、北郷が最近になって携帯し始めた先端を尖らせた鉄の棒――苦無と言うらしい――が落ちていた。
なるほど、あれか。
「まあ、何はともあれ二人が無事でよかったわ。かず……馬鹿の傷の手当もあるし、韓遂の思惑のこともあるし、さっさと――」
「――それじゃ駄目だ、詠……ッ。それじゃ遅いんだ……ッ」
韓遂の思惑――恐らく権力を狙ったものだろう――のことも気になるが、まずは北郷の傷の手当が先だ。
繋がっているということは確認したが、見るからにその傷は深く、実際に元通りに治るかどうかは賈駆には判断がつかない。
出来る限り早急に医者――名医と呼ばれる医者に診てもらったほうがいいだろう、と思って賈駆は口を開く。
一刀、と北郷のことを呼びそうになってしまったことに慌てて言い直した賈駆だったが、北郷と董卓の張りつめたような表情に、すぐさま意識を締め直してその理由を二人が放つのを待った。
そして。
その理由を聞いた時、賈駆は自分が油断していたということに気付く。
まさしく、油断。
この戦乱の世において安息の時など無いというのに、軍師たる自分が。
この賈文和たる自分が意識と思考を思い至らせていなかったという事実に、彼女は気付くこととなる。
即ち。
董卓と北郷は言ったのだ――。
――韓遂の軍勢が動いている、と。
**
洛陽より遠く、石城よりほど近い地、安定。
かつて董卓軍が黄巾賊の手より彼の地を守って以来、安定の地を守ってきた城内に緊迫した空気が満ちていた。
「……そうか。石城が攻められておる、か……」
「はっ」
目の前にて跪く忍の男に視線を落としながら、簡素な鎧を着た女性――郭汜(かくし)は手に広げた文書に意識をやる。
郭汜、字は阿多(あた)。
李確の幼馴染として共に董家に古くから仕え、董家先代の奥方が師事したほどの勇将として知られている人物である。
しかし、である。
李確と歳が近いというのにその髪と肌には艶が存在しており、その容貌は年相応に老婆というよりは、童女というに近い。
幼げな董卓と並べて見ると姉妹ですら通りそうな人物は、しかして、眉間に皺を刻む形で文書を見やる。
――北郷一刀が初めて見た時に呟いたろりばば、という名称よろしく、その姿はどこか可愛らしい。
しかし、その身に纏う雰囲気は本物であった。
「万右(まんう)、貴殿は韓遂と同郷の出であったろう? このような行いをする者であったか?」
「……否。奴は漢の臣下、弓引くことはすまい」
「ふむ……となれば、配下の暴走もあるか。……いや、或いは我ら董卓軍から漢王朝を救おうとしているのやもしれん」
「……然り、かもしれん。……稚然は?」
「儂と同じ意見のようじゃ。本腰を入れておろうから十分に警戒せよ、とな」
「……兵を揃えておこう」
「うむ、頼む」
そんな愛くるしくも厳格な雰囲気の郭汜に、武骨な鎧を纏い顔に大きな傷を負った男――樊稠(はんちゅう)が近づく。
樊稠、字を万右。
李確、郭汜と同じく古くから董家に仕える将であり、その口数少なくも実直な姿と常に前線へと出る武勇に兵からの信頼は高く、また、華雄に用兵を授けるほどの将である。
董家の重鎮とも呼べる二人を董卓本拠である石城と長安の間に位置する安定に配するは、如何に彼の地を重要視しているかを読み解くに、容易くさせるものであった。
その樊稠が副官を連れて場を後にすると、郭汜は傍らの卓に広げていた安定周辺の地図に視線を落とす。
天の御遣い――北郷一刀が考案、設立した諜報機関が製作したものだが、これが実に実用的で効果が高いものであったことは記憶に新しい。
初めこそ、こちらの頭を痛めていた賊を雇い入れると言った時には狂ったか、と思ったものだが、いざ諜報機関が始動するとそんな意見もすぐさまに覆すこととなった。
役に立つのなら、効果があるのなら、と次々と新しい策を講じていく北郷に息吹を感じたとともに、自らが十分に老いたことを感じたこともあった。
――もっとも、童女のような姿をした自身が言ったところでどうかと思わないでもないが。
それはともかくとして。
今は迫る脅威――西涼連合が雄、韓遂の軍勢への対処である。
石城が攻囲される直前に李確が発した忍によってその脅威は安定に届くことになったが、彼の軍を前にしての推測からはじき出された戦力差で言えば、この安定の兵ではとてもではないが打ち勝つことは難しいだろう。
「韓遂が軍勢は一万……対するこちらは二千に及ばない、か……。ふむ……さて、どうするかのう」
李確が推測した韓遂軍の総数に、郭汜も恐らくはその程度であろうと思う。
石城を五千ほどの兵が狙っているとすれば、と李確は言うが、城攻めという観点から考えてのことと後々のことを考えればそれぐらい用意しているのが普通だろう。
何せ、洛陽には数万以上もの兵がいるのだ。
たかだか数千の兵で石城なり安定なりを落したとしても、防備の減少したところを奪い返されでもすれば目も当てられないだろう。
となれば、それに備えての兵力もいる――その最低が一万ほどだろうと郭汜は踏んでいた。
「やはり籠って守るが正当、か。李確は安定に数千、長安に数千としておるから、あやつの言を信ずれば守り勝つことも出来ようが……ふむ、はてさて」
しかして、石城や安定よりも重要するべき地は他にもある――長安だ。
古来は都として、今現在は洛陽の副都として存在するその地は、言うまでも無く石城や安定よりも重要視されるべき地である。
董家の本拠である石城、そこと長安を結ぶ地である安定を抑えることは確かに重要であろう。
しかし、古来は都であった長安を抑えるということは、洛陽を抑える勢力に対して、その位置関係から喉元に剣を突きつけたに等しいものがあった。
郭汜が韓遂の狙いが石城や安定でもなく長安を抑えることか、と疑うのも無理も無い話である。
だが、それも全てただの推測、憶測でしかない。
やはり戦の機敏は戦場でなくては感じることは出来ぬ、とばかりに郭汜は席を立つ――それを待っていたかのように、郭汜の耳に急報が飛び込んだ。
「遠くに軍勢を確認、旗印は紺地に真紅の『馬』の一文字ッ! 西涼の――韓遂が配下、馬玩の軍勢と思われますッ」
来たか。
そう口にすることはなく。
しかして、その童女のような容貌にはあまりにも不似合な、勇将たらん獰猛な笑みを顔に張り付けながら、郭汜はまるで幼子のように瞳を輝かせていた。