「……洛陽、普通に無事だったね」
「ああ。まあ今になって思えば、麗羽の言うことがどれだけ信用出来たにせよ、黄巾の時から洛陽に入っていた董卓の悪い噂が聞こえなかったのは、やっぱりそういうことだったのかなとは思うよ」
「それは、悪逆暴政なんか元から無かったってこと、白蓮ちゃん?」
「まあ、そういうことなんだろうな」
ぎりり、と。
馬が大地を蹴る音に紛れて劉備と公孫賛の声が届く度に、関羽は手綱に握る力を強め、そして歯噛みする。
洛陽を制した董卓を討つためにと起こされた反董卓連合軍、その結成に用いられた檄文は、暴政を敷き民と朝廷に悪逆を働く彼の者を討つべし、というものであった。
洛陽から遠い幽州にて陣を張っていた劉備軍――関羽からすれば、義勇軍という理由もあって諜報網の形成が進んでいなかったがために、檄文にて初めて洛陽の実情を知ったというものであった。
無論、劉備軍が誇る軍師達ならば何かしらの手段を講じて情報は集めていたのであろうが、義勇軍というあまりにも小規模な勢力では単独でそれに参戦することは叶わず、劉備軍は公孫賛の仲介を通じて連合軍へと参戦することとなる。
それはひとえに、主たる劉備が洛陽の民を救いたいという想いが故にである。
だが、目の当たりにした現実は檄文とはほど遠いものであった。
暴政のひとかけらも洛陽の街並みには落ちておらず、民は活力と笑みに富まれ、そして平穏に生きていて。
悪逆非道という言葉は街中はおろか宮中にも見当たることは無く、帝都洛陽は揺らぎ動いてなどいなかったのである。
ともすれば、反董卓連合軍が――自分達が動いたのは一体なんのためだったのか。
漢王朝に戦勝の祝いに赴くこと、洛陽の実態を見ること、北郷一刀と話をすること、それらの目的を持って洛陽へと赴く主たる劉備とは別に、関羽はそれを見極めんがために洛陽へと赴いたのである。
「じゃあ、悪いのは私達だったってこと……?」
「……よく言いにくいことを言えるな」
「え、えへへ……でも、悪いのは私達ってのは間違ってないんだよね……」
「まあ、な……。ただ、私達として言えば、それも檄文を信じて民を救おうとしたからであって……っていうのは詭弁だな。まあ、その旨は董卓にも皇帝陛下にも言ったからな。一応の謝罪としては十分だっただろう」
「……北郷さんと話、しておきたかったなあ」
「天の御遣い殿とか? まあ、私も個人としては話をしてみたかったが……如何せん、ああも忙しそうではなあ。仕方のないことだと諦めるしかないだろ」
「うー……」
そして。
見極めたその結果として――簡潔に言えば――自分達がしたことは意味を成さなかったのだということに辿り着いた。
それどころか、黄巾の乱から続いた混乱からようやっと落ち着きつつあった洛陽の街に、更なる混乱を招こうとしていた行動であったことに関羽は酷く恥じ入ることとなった。
恥じ入り、悔しみ、どうしてこのようなことになったのかを考え――そして、北郷一刀という男に辿り着いたのだ。
別に、北郷を恨んでいる訳ではない。
天の御遣いという彼の呼称こそ眉唾物ではあるのだが、董卓軍との緒戦、汜水関においての攻防、虎牢関を前にした会談において、その名は彼の実力に恥じぬ物だろうということはすで理解出来ている。
汜水関にて一撃を止められはしたものの、武においては関羽からしてみれば考えられぬ程度で、大半が農民上がりの劉備軍では少しばかり抜き出るほどであることも理解していた。
であるからこそ――理解できるからこそ理解出来ないことが、関羽の中で黒いもやのような感情を湧き上がらせる。
汜水関における北郷の言葉――理想を抱いたままに現実に溺れてしまう、その意味にである。
理想――劉備の理想が戦の無い笑顔溢れる世を作るということは、関羽のみならず劉備軍に所属する者としては陽の浮き沈みが当然であるかのように知られている。。
傷つき傷つけられることを嫌う劉備らしい理想であり、その理想が尊く、そして光溢れたものだと思ったからこそ彼女に従う者がいるのだし、彼女自身に惹かれた自分や張飛のような人物がいるのだ。
そんな理想に、北郷は口を出した。
戦の無い世を作るために戦を起こし、傷つけ傷つけられるのが嫌いで掲げた理想の果てに兵に殺せ、死ねと命じ、戦の後に生まれる悲しさと苦しみに囚われた者に笑えというのか、と。
そして、自らが親しい者を傷つけられた場合にその理想を貫くことが出来るのか、と。
無論、関羽とて北郷の言いたいことは分かるつもりだ。
劉備の理想と現実のそのあやふやさが危険なことは重々承知している。
だが、理想を追うことによって突き付けられる現実が厳しいことはどうしようも無いことであるし、そこは納得しないと進むことができない。
それに、と思う。
理想を追って現実の壁に劉備がぶつかることがあれば、自らが――関羽含め劉備を慕う者達でそれを支え、共に乗り越えていけばよいのだと。
だからこそ関羽は北郷のことが理解出来ない。
劉備の理想は酷く脆いものであることは関羽とて承知しているし、難しいがために自分が戟を振るうのだということを理解している。
だが、酷く脆く、そして難しいであろう劉備の理想は、故に光溢れ、輝かしく眩しいものである。
尊く儚く、故に劉備は人を惹き付けるのだと思っていた関羽にとって、それに真っ向から疑問を持つ北郷という人物を関羽は理解できないでいた。
故に、関羽は北郷という人物が怖い。
怖いからこそ、関羽は北郷という人物に対して警戒心を隠すこともなく洛陽で彼を前にしたのだが。
それ故に、関羽は北郷という人物をさらに理解出来ずに、その恐怖を深めることとなる。
だというのに。
「北郷、一刀か……」
ちくり。
恐怖と警戒と、疑念を持って零れた言葉に対し、心の奥底――深淵とも呼べる場所が微かに痛むのは何故であろうか。
意識しなければ気にもならない、けれど何故だか気になるその痛みに、関羽は原因が理解出来ない。
そして。
だからこそ、関羽はそれをもたらす北郷一刀が理解出来ないでいた。
**
曹操と張莫、孫策、劉備と公孫賛がそれぞれの所領へ帰っていった、その翌日。
俺はある部屋の前へと立っていた。
本当はこんなことしている場合じゃないんだけど、と背後に立つ三人にばれないように溜息を吐きつつ、俺は目の前の扉へと手を伸ばした。
「三人だと少し狭いだろうけど、とりあえずはこの部屋を使ってくれるかな」
キイ、と軽く音を立てて開いてみれば扉の向こう、三つの寝台が置かれている部屋を俺の後背にいた少女達――テン、チー、レンはまるで値踏みするかのように見渡す。
いろいろとあってようやっと落ち着けた後、洛陽の城の一角、俺の寝室や執務室の隣にあった空き部屋を董卓の許可を得て借りた俺は、そこに三人を案内していたのであった。
「えー。散々に待たせておいて、ちい達にこんな狭い部屋で寝泊まりしろって言うの~。最悪、信じらんない」
「お城の部屋の割には、なんか普通だね~。お姉ちゃん、もっといっぱい色々なものが付いてるのかと思った」
「……まあ、初めはこれくらいで良しとしておきましょう、姉さん達。いきなり押しかけておいてこれだけの部屋を用意してくれたことには感謝しなくちゃ。最悪、奴隷扱いもあったかもしれないんだから」
それまで部屋を見渡してはぶつくさと言っていたテンとチーであったが、レンの言葉に仕方ないか、とばかりに納得してくれたようである。
奴隷扱いという言葉においおいと思いつつも、とりあえずは納得してくれたことにほっと胸を撫で下ろした俺は、さて、とばかりに口を開いたレンの言葉に耳を傾ける。
「それで? 私達は一体何をすればいいのかしら?」
「あー……そうか、雇ったからには働いてもらわなくちゃいけないのか。ええっと、何が出来るのかな?」
「歌なら唄えるよ~」
「というか、それしか出来ないわね」
そういえば彼女達を雇ったんだよな俺。
ここ最近色々な人達を雇ったり、転がり込んで来たり、奔走したりと忙しかったからか、彼女達がいることを既に普通として処理してしまっていた自身に疲れているのかなと思いつつ、彼女達に一体何をさせることが出来るのかとふと悩む。
テンとチーの歌が唄えるという言葉にレンも頷くことから、恐らくではあるが、その言葉は真のことであろう。
この世界――時代の歌ならば漢詩ということになるのだと思われるが、ふと彼女達を見ても、そのような歌という訳では無い気がする。
「歌っていうのは、えーと……とりあえず、聞いてて楽しくなるような、そんな奴と思えばいいのかな?」
「とりあえず、私は唄ってて楽しいかな~」
「黄き――じゃなくて、前に聞いてくれてた人達は喜んでくれてたかな!」
「北郷殿が言われる楽しめるというものかは分からないけど、聞いてくれる人も私達も楽しめるようには唄っています」
「ふむ、そうか……」
俺の基準の楽しめる歌というのは元いた世界で流行っていたような歌であるし、そもそもがこの世界の楽しめる歌の基準とは違うかもしれないのだが、彼女達の言葉と顔の限りでは、どうにも同じ類のようである。
となると、それを基準として何か出来ないかと思ってはみたものの、歌を聴く側でしかなかった俺がどれだけ考えようとも、歌でどれだけのことが出来るかを思いつくなど、到底難しいことは即座に理解出来る。
なれば、歌を聴く側であったからこそ思いつくことがある筈だと思った俺は、ふと思いったったことを呟いてみた。
「ストリートライブ……」
「すとりいと? 何それ?」
「ああいや、俺の国の言葉なんだけど、要は街角で歌を唄うんだよ。街角で唄って、道行く人に聴いてもらうんだ。それでファン――興味を持ってくれる人を増やして有名になった人もいたし……」
「えー。また道端で唄うの~?」
「あの本ももう無いから、有名なんてなれるわけないでしょうし……ちょっと人和、どうするの?」
「あの本?」
「それは気にしないで、こっちのことだから。……でも姉さん達、こうやって住める場所が出来たんだから、それだけでも良しとしておきましょう。……そこで唄えたばお金が出ると思っても?」
本って何のことだ、と気にはなるものの、彼女達の言葉から推測するにただ歌を唄うのが好きなだけでなく、それなりに経験があるというのが見て取れる。
歌というのは、聴いているだけで感情が動かされるものである。
ライブやコンサートなどに行ったことも無い俺が言うのもなんではあるのだが、街角に流れている歌やテレビから流れる歌などは、聴いているだけで楽しくなるものがあった。
それと同じ状況をこの世界でという訳にはいかないが、これまでにも歌を唄ってきている彼女達ならばそれに近いものが出来るかと思った俺は、レンの言葉に頷いていた。
「それはもちろん。そうだな……慰撫というか慰労というか、戦や政争で街の人達もいろいろと疲れているだろうから、三人の歌で励まして欲しいというのが一つ。それと、歌を聴きに来た民からの実情を報告してほしいのが一つ。仕事の内容はそれでどうかな?」
「歌で励ますというのは分かるけど……民の実情っていうのは?」
「警備隊で治安も良くしてるし俺自身も警邏はしているけど、どうしても目が届かない所は出てくるものだからね。そういったことは民から直接聞ければいいんだけど色々と忙しかったりするし、直接話すのは遠慮されたりもするし」
「仲良くなってお話を聞けばいいってこと?」
「うん、テンの言う通りだよ。歌を唄う日時、場所はそっちに任せるし、必要なものがあったら言ってくれれば揃えるから。報告は……そうだな、三日に一度ぐらいでどうだろう? 最初のうちは色々と大変だと思うから、ある程度の報告が溜まってからでいいよ」
「……報告以外は好きにしろってこと?」
「うん、それで間違いは無いかな」
既に楊奉に頼んで護衛兼監視の忍も付く手筈になっているし、基本行動が街だけならば機密云々の話に触れることも無いだろう。
彼女達の言葉通りに歌を唄えるのであれば街の人達も憩いと娯楽に触れることが出来るし、気を抜ける場所を作ることが出来れば正にこそ働けど負に動くことは無いだろう。
最悪――本当に最悪、彼女達の歌が使えないのであればその報告だけを期待してもいいことだし。
そう思いながら差し出した俺の右手に、幾ばくか思考を働かせていたであろうレンは、一つ頷いて右手をつなぎ合わせてきた。
「雇用契約成立、ということで」
「ええ、よろしくね。所でなんだけど……西涼連合が降伏してきたのに、私達に掛かり切りでいいの?」
「……よく知ってるね」
「待たされていた部屋の外で武官の人が話しているのを聞いたから」
とりあえず三人の処遇が落ち着いたことに安堵すると同時に、もともと初めに彼女達に関わったのは程昱なんんだけどな、と苦労の何故を自らに問いかけてみる。
もっとも、そんなことで答えが返ってくるはずも無く、結局のところは俺が頭を悩ませなければいけないのだが。
最初の時点で郭嘉にでも相談しておけば良かったかなとは思うものの、ふと冷静に考えて、彼女が楊奉と同じ考えに至って宙を朱に染めそうだと思った。
それはともかくとして。
三人の話も済んだことだし少しは落ち着けるか、と思った俺であったが、レンが首を傾げて問いかけてきた言葉に、少しばかり返事に詰まる。
というか、はっきりと言ってそちらのことこそ優先的に考えねばならなかったりするのだが、俺としては中々に頭が破裂しそうで彼女達のことを先に済ませておきたかったというのが大きかったりする。
彼女達のことがあって、曹操孫策劉備のことがあって、西涼連合のことがあって。
こんがらがりそうになる頭の中を整理するために半ば忘れかけていた彼女達のことを優先してはみたものの、整理出来るどころか余計に分からなくなるばかりであった。
一体どんな思惑があって西涼連合は降伏するのか。
ついこの間――とは言っても半年以上も前のことだが、元の世界にいたときは考えるとは思いもしなかったことを考え、思考し、その真意を探ろうとしている自分に、窓から見える青空を見ながら苦笑していた。
**
「……ここはどうかな?」
「む……中々に良い手。……では、俺はここで」
「うむむ…………うむむむ」
パチリ、パチリ。
木材同士が合わさる軽い音を響かせながら繰り広げられる盤上の戦いに、それを成している俺と馬鉄のみならず、傍らで経過を見ている馬岱ですら静かに思考を働かせる。
王を守るように金将と銀将がその周囲を固めれば、香車と桂馬、それに竜王がそれを崩さんと猛攻をかける。
かと思えば、虎視眈々とこちらの王を狙っていた角行が陣地に入ってくればそれを銀将で奪い取り、即座に猛攻をかける布陣を厚くする。
目まぐるしく動いていく戦場は実際のそれよりは遙かに静かであるが、どちらにしても極度の緊張感を伴うことに変わりはない。
生き死にが絡まない分だけこちらの方が気を許せるものであるが、それも、初心者であるにも関わらず的確にこちらを射抜こうとする目の前の馬鉄相手では、難しいものがあった。
「うぐぐ…………うー、参りました」
「ぷっはあ……何とか勝てた」
だがそれも、馬鉄の降参宣言によって終わりを迎えることとなる。
出来るだけ表情を変えないようにしている馬鉄ではあるが、やはり悔しいのか、終局したばかりの盤上の駒をあれこれどれあれと動かしながら、自らの敗戦理由を探そうとしている。
これが軍師の性か。
初めてでこれだったら次は負けるかもしんないな、なんてことを思いながら馬鉄が動かす駒を見ていると、終わったことを確認してもたれかかってきていた馬岱が、口を開いた。
「はー、右瑠ちゃんは凄いなあ。将棋だっけ? 初めてなのにそれだけ指せるなんて。たんぽぽ、まだちんぷんかんぷんだよ」
「基本は戦戯と同じだよ、蒲公英姉。戦戯はそれぞれの解釈であるとか理解によるのが大きいけど、これは北郷殿の言うるーるがちゃんと決まってるからね。覚えて理解すれば、蒲公英姉でも出来ると思うよ」
「……ホント? だったら、頑張ってるーるを覚えるから、一緒に将棋しましょ、お兄様?」
「はい、楽しみにしておきます……ただ、伯瞻殿と指し合うのはまた今度にでもしておきましす……して、此度のこと、どこまで本気なのでしょうか?」
「全部だよ」
危ないところだった、と内心かいた冷や汗を拭いつつ馬鉄との決戦の地――将棋盤を片付けた俺は、さてとばかりに姿勢を正して口を開く。
戦戯は堅苦しく、囲碁も俺の知っているものとはルールが違うということから考案した――というよりは知っている知識から作ってみた将棋ではあったが、馬鉄の反応を見る限りでは意外にも好評だったらしい。
暇つぶしは無いか、という馬岱に街の木工職人に作ってもらっていた将棋盤を見せ、簡単なやり方を馬鉄に教えての実践であったが、こうも好評であれば広めてみるのも悪くはないのかもしれないと思う。
民や将の娯楽にもなるだろうし、簡単な軍略の勉強にはいいかもしれないな。
と、思考を幾分か落ち着かせた俺は、馬岱と馬鉄という西涼連合においても重要な位置にいるであろう少女達が何故か将棋を指し始めたのを視界に収めながら、つい先日――彼女達が洛訪した時のことに思いを馳せた。
漢王朝の真なる臣として涼州を五胡から守ってきたが、此度の戦乱において漢王朝を――ひいてはそこに仕え、これを守らんとした董卓を信じず裏切る形となってしまった。
彼の者と漢王朝にいらぬ混乱を与えたことは涼州を守る身として遺憾であり、また漢王朝を信じきれぬ身では涼州の守りを任せられぬとして、この身命をこれまでよりも深く漢王朝に捧げる所存である。
まあぶっちゃけると降伏宣言ってところかな。
漢王朝皇帝劉協への参洛の言葉を述べた後、董卓を前にいった馬岱の言葉に続けられた馬鉄の言葉は、その場にいた――洛陽にいる董卓軍の主要武将達は、皆一様に驚愕の渦に巻き込まれることになる。
むしろ驚愕という表現では足りないほどに驚き、混乱し、騒ぎだしたその場はまとまることはなく、とりあえず董卓側の意見を纏めなければいけないということで、少しばかりの時間をもらいたいと応えたのが、五日前ということになる。
テン、チー、レンの三人を雇い入れ、曹操劉備孫策を迎え入れ、そして彼女達を送り出したのがつい昨日のことではあるので、うん、こうやってふりかえることができるには落ち着いているみたいだ。
そうして落ち着いていることを確認すれば、俺の問いに対しての馬鉄の答えに思考を働かせてみる。
とはいっても、そこまで難しいことではないのだが、そこがまた難しいという難儀な思考である。
降伏宣言はどこまでが本気であるのか。
それに全部であるという馬鉄の答え、それがどこまで本当であるのかというものであったからだ。
「んー、お兄様も中々に難しい性格してるよねー? 全部だって言われたんなら、そのまま受け取っておけばいいのに」
「いや、だからといってその全部を真に受けるのも難しいですよ……。ただ、伯瞻殿もそう言うということは、いよいよをもって真みたいですね」
「さっきからそう言ってるじゃないですか、北郷殿……ああそういえば、私もお兄様とか呼んだ方が良かったりする?」
「いえ。これまで通りで」
「むー……いけず」
自らが使者であることを思ってかところどころ不思議な敬語を控えさせた馬鉄の言葉に、俺は思わず苦笑する。
話を聞けば馬岱は馬騰の姉の子であるらしく、馬岱よりは馬騰直系であり実質的な彼女の言葉を伝える使者たる自身の言動がどれだけの影響を及ぼすかを考えてのことだろうと思う。
お兄様って呼んだ方が私としても楽なんだけどなー、などとチラチラこちらを窺う馬鉄に、こちらが本当の彼女なんだろうな、などと思ってしまう。
以前、ここ洛陽の城中においてもの静かな馬休と一緒にいた彼女のままであることに、俺は不思議と嬉しく思っていた。
「さて……降伏の話が本当だということは後で報告しておくとして。馬騰殿――というよりは、西涼はこれからどう動くんですか、伯瞻殿、元遷殿?」
「うんとねー、とりあえずは降伏宣言受諾の話が纏まったらそれを持って帰って、その後に叔母様や文約おじ様が洛陽に来るって感じかな」
「漢王朝に兵権を返す――ようは降伏なんだけど、表向きはそうだから少数の兵を連れてはくるんだけどね。そこで本格的に話が纏まれば、あとはよろしくって感じなんだけど……ねえねえ、北郷さん?」
「ん?」
むー手強い、などと呟いている馬鉄は今のところ置いておいて。
文約という字に聞き覚えが無かったが、馬岱が敬称をつけて呼び、なおかつ馬騰と同列に扱っていることから、西涼連合の雄で馬騰と肩を並べる韓遂だと当たりをつける。
韓遂といえば後々に馬超と組んで曹操と争うも、曹操配下であった賈駆の離間の計に嵌り降伏する人物だったように思う。
西涼でよく反乱を起こしていたという人物であったことから危険な人物かと緊張するが、いくら賈駆がいるとはいえそれに相対するのは董卓である。
あの賈駆が董卓を裏切ることなど無いことだと断言出来るし、そもそもの歴史とは違うことから、そこまで気にするものでもないかと俺はその感情を一度頭から追い出すことにした。
それに伴い、馬鉄からの言葉に耳が引かれる。
北郷殿ではなく北郷さんという呼び名から、恐らくは西涼の使者ではなく馬鉄本人の言葉なのだろう。
頭頂部の右に纏めた髪をぴょこんと揺らしながら、彼女は口を開いた。
「えっとね、西涼が降伏って形になったら私――と蒲公英姉様も北郷さんと一緒に戦うことになる訳じゃない?」
「まあ、恐らくはそうなるんでしょうね。降伏という形とはいえ、西涼連合の軍兵、特に騎馬隊は精兵です。それを指揮することに長けた馬家や他の将の方々とは一緒に戦うことになると思いますよ」
「うんうん、そうだよね。だからね、一緒に戦うことになるから――ううん、それもあるけど、これは証として受け取って欲しいの」
「証?」
「うん。北郷さんが最初に私達の言葉を信じられなかったのは、私達が北郷さんのみならず董卓さんを裏切ったことにあると思ったんです。でも、これから一緒に戦うことになるのなら信じて欲しいし、信頼して欲しいんです。だから預けたいんです……真名を」
「まあ、蒲公英達なりのけじめって意味もあるし。……それに、翆姉様だけ真名で呼ばれてるってのもずるいと思うし」
「それは…………いや、分かった。その……受け取らせてもらってもいいかな、二人の真名を?」
信じたから真名を預ける、ではなく、信じてほしいから真名を預ける。
そう言う馬岱と馬鉄にそれは違うのでは無いか、と言うことは簡単であろう。
そもそもの話として、俺は二人のことを何かしらで疑っている訳ではないし、元々が信じているのであれば真名云々の話は特に必要の無いことである。
降伏の話にしたって、信じられなかったというよりはその真意が掴みきれなかったというだけなのだ。
それをもってして、信じていない訳ではない。
そんな単純な俺の考えなど、目の前の二人は既に至っていることだろう。
それでもなお。
そう願い、そして見つめてくる二人の少女の問いに、俺が首を横に触れる筈も無く。
強張りそうな顔を無理矢理崩した笑みを、彼女達に向けていた。
「うん。姓は馬、名は岱、字は伯瞻、真名は蒲公英! これからもよろしくね、お兄様」
「姓は馬、名は鉄、字は元遷、真名は右瑠! 翆姉様と蒲公英姉様ともども、よろしくね、えと……一刀さん!」
「ああ、こちらこそよろしく。蒲公英、右瑠」
ただ。
そうして向けられた爛漫な笑みに、俺も思わず笑顔に崩す。
恐らくではあるが、彼女達は彼女達なりに重荷を背負っていたのではないかと思う。
西涼がいらぬ混乱と嫌疑と騒乱に巻き込まれないように。
そうして同盟を解消したのは董家側からとはいえ、結局のところ西涼は面倒事に巻き込まれないようにとそれを承諾した。
自身を守り、率いる勢力を守り、そこに集う兵と民を守り。
そうした馬騰の姿勢を批判することは俺には出来なかったし、元々の勢力地が涼州になる董卓もそれをしようとはしなかった。
だが、馬騰の側――あの真っ直ぐに育ったであろう馬超や、その妹や従妹の馬鉄馬岱はそれをどう思っていたことだろう。
俺の安直な予想であれば、きっと董卓軍にやましいことなど無いと憤慨し、自らの力では何も出来ないことを悔やんだのではないかと思えた。
だからこそ。
今回の降伏によってようやく肩の荷が下ろせたような笑みの少女達に、俺は何も言うこともなく、笑みを浮かべた。
想い想ってくれる、そんな心優しき少女達に、ありがとうの思いをのせて。
**
「――お久しぶりです、馬騰殿。そして初めまして、韓遂殿。ようこそ、漢王朝帝都洛陽へ」
そうして。
いつかのように、俺は洛陽城門にて一人立つ。
眼前に進み出てきた数人に僅かばかりに頭を下げながら、その人を観察するかのように。
「ふふ、随分久しぶりになったね、天の御遣い殿。元気にしてたかい?」
颯爽と。
軽やかに馬から降りた女性――馬騰は、こちらを少しばかり探ったのちににこやかな笑みをその顔に張り付けながら。
「……元気にしてたか……その、ご主人様」
びくびくと。
何処か居心地の悪そうにこちらを窺う少女――馬超は、それでもなお俺に怪我が無いことを確認すると、どこか安堵したような笑みを浮かべて。
そして。
ガシャリ、と重厚な鎧が擦れ動く音を響かせながら、老齢な雰囲気を匂わせる男性――韓遂が、その足を大地へと下ろす。
「ふむ……お初にお目にかかるかな、天の御遣い殿よ。我が名は韓遂、世話になる」
馬騰。
韓遂。
多くの諸侯が参加する西涼連合軍の中においても、実質的にそれらを束ね、指揮する二雄が洛陽へと到着する。
全面降伏という案件を持ってきた彼の者達を迎え入れるために、俺は一つ息をついて気を静め、もう一度ゆるりと頭を下げた。
「では、案内いたします……漢王朝皇帝劉協様の下へ。そして我が主、董仲頴の下へと」