「曹孟徳、及び張孟卓、董卓殿に戦勝の祝いを申し上げるものとする」
「同じく孫伯符、及び孫仲謀、戦勝祝いを申し上げる」
「公孫伯珪、劉玄徳、董仲頴殿に戦勝における祝いを申し上げる」
よくもまあ、どのような顔をして言えるのか。
そうした感情が胸の中に溜まりそうになるが、誰に知られることもなく息を一つ吐いて、そういった感情を出来るだけ外へと排出する。
黒いもやがかかっているような気分も幾分かは落ち着いてはみたものの、だからといって、その全てが感情から排せるはずもない。
少しばかりの猜疑心、そして警戒心を抱いたままに、俺は眼下にて頭を下げる六人の少女――後背に控える少女達も含めれば十数人にもなる彼女達へと、視線を向けていた。
陳留刺史、曹操。
兗州陳留太守、張莫。
袁術客将、孫策。
孫策実妹、孫権。
幽州遼西太守、公孫賛。
義勇軍大将、劉備。
そして彼女達の後背に控えるは、曹操の腹心である夏候惇夏侯淵姉妹に、劉備の義姉妹の関羽、孫策の親族らしき少女とその副官らしい少女である。
見目も麗しく、その肩書きからどれだけでも優秀であることが窺い知れる彼女達であるが、であるからこそに、こちらとしては警戒心を――反董卓連合軍に参加していた彼女達に対して疑わないわけにはいかないのであった。
無論そのように警戒することなど、俺でなくとも当然のことであろう。
彼女達を前にして座る董卓、その傍らの賈駆と張遼、徐栄、俺の後ろに控える趙雲など、みな同じように顔を強張らせて彼女達の一挙一動に意識を探らせていた。
「ふう……そのように警戒されては、こちらとしても堅苦しいものがあるのだけれど。もう少し楽にしてもらえないかしら?」
「そんなもん、するなちゅう方が無理な話やろ。特に、あんたらみたいなのが前におるんやったら、なおさらや」
「あら、ずいぶん買ってくれているのね。天下にその名を轟かせた董卓軍からの評価、光栄に至り、ってところかしら」
「亡き江東の虎、孫文台の娘か……なるほど、親が虎なら娘も虎ということだな」
「あら、徐栄だったかしら……母様を知っているの?」
「なに、昔すこしな」
ぴりぴりとした張りつめているだけの空気とは違う、まるで戟が混じり矢と怒号が飛び交う戦場の、その一歩前という空気に知らず湿った手のひらを固く握る。
口を開いた曹操と孫策などは特に気にしたふうでもないのだが、それに応える張遼や徐栄の顔には明らかな警戒が見て取れる。
そもそも、多くの武官文官がいるとはいえ、武将という位の人物は張遼と徐栄、それに趙雲ぐらいである。
それに対して、曹操は夏候惇と夏侯淵がいることに加えて彼女自身の武力も高いであろうし、孫策は以前見た感じでは俺より遥かに強い上に、その妹と副官も強いであろう、さらに公孫賛と劉備にはあの関羽がいるのだから、この場にいる戦力的には不利は否めない。
ともすれば三組が組んで董卓を討ちに来たのか、と思わないでもないのだが、そんな俺の考えを知ってか知らずか、紅蓮の髪の少女――張莫が口を開く。
「そんなに気にしなくたって、別にあなたが危惧しているようなことを起こすつもりは無いわよ、天の御遣い殿?」
「……はいそうですか、と簡単にその言葉を認める訳にもいかないことはそちらとてよくご存じの筈ですが、張莫殿……でよろしかったでしょうか?」
「ええ、張莫で構わないけど……そんなに敵視しなくてもいいと思うのだけれど?」
「よく言うわ。あんた達が月に――私達董卓軍に矛を向けた反董卓連合軍に参加していた、それぐらいはこっちだって知っているのよ」
「け、けどそれは、洛陽の人達が苦しんでいるって話を聞いたからッ」
「そのような実態も無い街に攻め込み、あまつさえ自分達が民を苦しめていれば世話はありませんな、劉備殿」
「ッ?!」
「愛紗、落ち着けっ……趙雲も、相も変わらずのようだな」
「はっはっはっ、伯珪殿にお褒めに預かり光栄ですな」
いや褒めてないだろう、と軽口を叩こうにも、その場の雰囲気がそれを許してくれそうにもない――いや、軽々と叩く趙雲が怖いもの知らずというか、胆力が凄いんだろうけど。
だがそれでも、こちらまで聞こえそうな関羽の歯噛みの音に、後背に控える趙雲の気配がさらに張りつめたものへと変わるのを感じる。
普段は色々と茶化すような人物であるが、やはり武人ということか。
いつでも飛び出せるように即応の気配が後背で大きくなるのを感じつつ、俺は少し現状を纏めようと思考を働かせることとにした。
戦勝祝いに赴いた。
洛陽の街中において、十字路で出会った少女達――曹操に孫策、劉備からそう聞かされた時は何を馬鹿なことを言っているのかと思った。
董卓軍の勝利は、それが擁する後漢王朝皇帝である劉協の勝利である。
それは対外的なものであるし、細かいこと詳しいことを省けば色々と語弊があるかもしれないが、董卓軍のみならず多くの諸侯がそう思うことは当然のことであろう。
それ故に、反董卓連合軍は偽の勅旨までを流布し檄文を上げてまで、自分達は朝敵ではないということを世間に知らしめたのだ。
朝敵ではないと知らしめる、確かにこれは一応の成功を収めたと言っていいだろう。
その檄文に乗じて名を上げようとした者、勢力拡大の好機とみた者、都の権力を手中にしようとした者、檄文を間に受けて義憤によって起った者、様々であるが、総勢二十万もの軍勢を揃えることが出来たのであるから。
だが、その二十万の兵力もいよいよ洛陽へと辿り着くことは出来なかった。
それどころか、待ち構えていた董卓軍によっていいようにとあしらわれ、汜水関に至る緒戦において散々に打ちのめされ、虎牢関を前にして分裂するに至り、そして退くしかない状況へと持ち込まれて敗退へと導かれたのである。
完全たる敗北に至って反董卓連合軍は解散することとなり、それに参加した諸侯達は各々の領地へと戻って力を蓄えることとなったのである。
ここまでは董卓軍においても解散した反董卓連合軍においても共通の認識だろう。
勝った側負けた側の区別こそあろうが、黄巾の乱から続く大きな戦いが一段落を迎えたことによって、次なる戦いのために国と勢力を富ませ、軍備を増強する段階であるということも、また共通であることは間違いないだろう。
では、なぜそのような時期に戦勝の祝いなのかということなのか――それが、反董卓連合軍に参加していた勢力の、その頂点の人物達が来るのか。
そこまで思考を回した時に、俺はふと考えに至ることとなった。
「ふうん、なるほどね……ようは、自分達は騙されていただけだった……その構図の方が後々には利があるとしたのね」
「まあそれもあるけれど、麗羽――袁紹や袁術のような、己が欲のために権力を欲して兵を動かしたという風聞を嫌ったのが一番かしら。私達は汜水関をわざと譲られた後に撤退しているから、董卓が悪逆非道などではなく清廉潔白な人物だと知って撤退、後に誼を通じたとした方が、民への受けがいいのよ」
「まあ、色々とあるけど私達も張莫の言ったことと大体同じね。悪いとは思うけど、そっちも洛陽に出入りする商人を使って色々としてたみたいだし、お互い様ってことね」
ようは、自分達は民のために立ち上がったのであって、決して己が欲のためではないと知らしめるためである、と張莫と孫策は語る。
董卓は悪逆非道で洛陽の民に圧政を強い、漢王朝を私欲のために専横しているといった檄文を信じたものの、色々と得た情報からそれらは反董卓連合軍総大将である袁紹や洛陽の権力を得たいとした者達の嘘であったがゆえに、連合軍から脱退、董卓に謝罪と共に誼を通じた、という筋書きを作ろうとしたのだろう。
詳細こそ諸々と違い、それぞれの考えと策略政略があるのだろうが、大まかな流れはそういうことであり、それを内外知らしめるためにわざわざ彼女達が洛陽へと赴いたのだと思われる。
彼女達がわざわざ訪洛したのは、一文官を使わずに勢力の頂点が赴くことでそれだけ本気度を知らしめることも狙っているのかもしれない。
まあ、その他にも色々と用事もあるのだろうが、それが――反董卓連合軍参加においての謝罪が主目的であろうことは、俺とて理解出来たのである。
それと同時に、洛陽出入りの商人――に扮した忍者の存在を知られていたということに、内心ぎくりとする。
どの勢力だって自分の支配下に間者が潜むのは望ましくないだろうが、忍からの報告にはさほど警戒されていない、とあった。
純粋に情報攪乱を用いての策などを警戒していないだけかと思っていたのだが、その見通しも甘かった――甘すぎたようだ。
俺が楊奉を通じて忍に依頼したのは、董卓が清廉潔白であるという噂を流すことと、反董卓連合軍に参加する諸侯達の動向を確認するということだったのだが、その存在の認知を今こうして聞けば、それも失敗だったかと思う。
「まあ、思春――うちの甘寧からの報告では特に害は無かったから放っておいた訳だし。流された噂にしても、参加している時こそ鬱陶しかったけど、今となれば今回のことで随分と助かったしね。別に気にしなくていいわよ?」
「軍師からしてみれば大層困ることだということを理解して欲しかったわね、雪蓮」
「まあね。機密を探る訳でもなく噂を流したことと、こっちの大まかな動きを探っていただけみたいだから私達も放っておいたし、孫策の言うとおり害があった訳でもないし。まあ、軍師様が大変気にしていただけだったかしら、華琳?」
「ええ、そうね。桂花が大層気にしていただけだったわね」
「あう……ね、ねえねえ、白蓮ちゃん。そんな話知ってる?」
「うっ……い、一応、その可能性があるかもしれないって朱里と雛里からは聞いたような気もするが……いやぁ、どうだったかな」
孫策と周喩の言葉に孫権の傍らに控える少女――恐らく彼女が甘寧かその知り合いなのだろう――の肩がぴくりと動けば、張莫と曹操は何かを思い出すかのように笑いを堪えている。
劉備と公孫賛はそんな事実を気にしたこともないみたいだが――まあ、ぶっちゃけると彼女達の所には忍がいなかったのだからそれも仕方がない。
劉備は総勢数百の義勇軍ゆえに顔を良く知り合っているだろうから、新参として紛れ込ませるわけにもいかないし、そもそも商人に扮し民を通じて噂を流そうにも基盤となる居が無いからそれも難しい。
公孫賛の本拠にも忍の派遣は行われたらしいが、そもそも距離が遠すぎて反董卓連合軍結成に間に合わなかったというのが正解である。
解散終結した後はそこまで気にしていないのか、或いはそれだけが行える人材がいないのかは不明であるが、この場から帰ったあたりで報告を受けるのではないかと、どうでもいいことを考えていた。
決して軽視していた訳ではないので、どうせ私なんか、と落ち込まないで欲しいと思う。
「さて、と……それじゃあそろそろお暇しましょうか、紅瞬」
「あら、別の案件の話はもういいの? それが主目的だって桂花から聞いたような気がするんだけど」
「別に問題は無いでしょう。天の御遣い殿自らが警邏をしていることだし、何かあれば私達がされた時みたいに即座に対応するでしょうしね」
ぺろり、と。
何故か視線で全身を舐められたような感覚を曹操に覚えながら、彼女の言いたいこと――ようするにお手並み拝見ということだろうが、それに思いを馳せる。
張莫の言葉から察するに、どうやら自国領内だけではどうにもならないことを伝えようとしていたのであろうが、記憶を少々辿ってみても、俺と曹操達が絡む話でそういった案件は思いつきそうもない。
反董卓連合軍に関することかと思いを馳せても、何にも思いつかないものだ。
では、曹操と張莫の領内――陳留のことでは無いのだとしたら、推測される地はここ洛陽であるのだが、その件に関しても彼女達が洛陽に関わる案件が思いつかない。
唯一思いつくとすれば、以前洛陽大火の際に問われた俺が曹操陣営に参加しないかということであるのだが、それだと即座に対応という言葉に合わない。
重大な案件なら事が起こる前、或いは大きくなる前に対応したいものであるのだが、こうも分からなくてはそれも叶わないものだ。
「さて、曹操殿達が帰られるならば、私達も帰るとしましょうか、雪蓮」
「えー、まだ洛陽の街を見て回ってないじゃなーい。もっとのんびりしてから帰りましょうよー」
「馬鹿を言わないで。元々のんびり出来るような状況ではないのだし、そろそろ祭殿や穏達だけでは対処に困る案件も出て来るでしょう。それに……あなたが見て回りたいのは洛陽の酒屋でしょう、伯符殿?」
「え、えへへー」
「さあ、帰るわよ」
「わー、ちょ、ちょっと待ってよ冥琳ッ。帰る前に蓮華を北郷に紹介しなきゃ……、って痛い痛い耳引っ張らないでッ!?」
「はあ、仕方がないわね……」
仕方がないと言いつつも孫策の耳を離さない周喩に促されるように、彼女達の後背に控えていた二人の少女が前へと――俺の目前へと歩いてくる。
褐色の肌に桃色の髪を持つ少女は恐らく孫権であろうが、姉である孫策に負けず劣らず、随分と整った容姿である。
孫策ほどでは無いにしろ豊かな胸は歩く度に程よく揺れ動き、そこから紡がれる曲線は細すぎないほどにくびれていた。
服から覗かれる腹部は実に艶やかであり、そしてきめ細やかで、すらりと伸びる手足もまたそうなのであろうという期待を抱かせるものであった。
そんな少女が目の前に来るのだ、男としてはどきどきせずにはいられない――のだが。
「ッ……孫権、字は仲謀だ……」
「……甘寧だ」
「う……」
ギンッ、と。
まるで剣が如き鋭い視線に、自然に声が零れてしまう。
こちらを殺そうとする害意とも、汜水関にて関羽に向けられた憎しみに似た感情とも違う、純粋な敵意に知らず気圧されてしまう。
孫権の隣の少女――やはり彼女が甘寧らしいのだが、こちらからも随分と凄みを含ませて睨まれてしまえば、いよいよ何が原因で彼女達に敵視されるのか全くもって理解出来ない。
だが、孫策達との出会いの時に――その時孫策から言われた言葉を思い返してみれば、まさか、と思い至るものもあることにはあるのだが。
「姉様ッ、帰りますよッ!」
「あーん冥琳、蓮華が帰るって言うのよ。まだまだ、お酒呑んで無いのにー」
「帰るぞ」
「んもー、みんなして意地悪なんだから――ああ嘘、嘘だから耳は引っ張らないでって言ってるじゃないのー!」
「……」
「……あんた、孫策達に何をやったの?」
「……さあ?」
怒っているのが見て分かる孫権に続く形で周喩が、彼女に耳を引かれていく孫策の後ろ、部屋を退出する直前に甘寧がもう一度だけ、俺へと敵意を――厳しく客観的に言えば殺意を飛ばしてくるのを、口端を引く付かせながら見送れば、賈駆からは事の次第を問いかける声が聞こえてくるのだが。
まあ、正直に――天の子を宿した天軍が作りたいから胤を寄越せと言われた等と――言える筈もなく、俺としては苦笑しながらはぐらかす他無かったりする。
というか、孫策は本気であの言葉を実践しようと考え、そして妹である孫権にそれを伝えたのだろうか。
天の御遣いとか自分で言うのも何だが胡散臭い男の胤で孕めとか、そりゃ怒るだろうと思うものである。
「ふーん……何があったのかしら、ねえ……?」
まあそれはそれとして。
何故か向けられる曹操の探るような視線と張莫のニヤニヤとした視線に、俺は寒気を感じずにはいられなかった。
そして。
「……では桃香様、我らもそろそろ」
「あっ……でも愛紗ちゃん、私、北郷さんと――」
「桃香……とりあえずここでの用事は終わったんだから、一度退出はしないと不味いと思うぞ? 北郷殿のことは後でも出来るだろうし、公式なことならともかくとして、私事ともなればそちらの方がいいことは分かっているだろう?」
「……うん、そうだね。愛紗ちゃんと白蓮ちゃんの言うとおりだね」
不承不承といった感じで頷く劉備の視線に、俺はさしたる動きを見せることもなく返す。
彼女が言いかけた部分から考えてみれば、劉備が望むのは俺との対話なのだろうが、現状――というよりも今この場においては、それは難しいものがある。
時間的にも場的にもそうであるし、何よりこの場は公式正式な漢王朝の臣としての場であって――その相手が皇帝ではなく董卓であったとしても――私的なことに用いる訳にはいかないのだ。
もっとも、そのような時間が取れるかどうかすら怪しい俺としては、話がしたいという視線を向けてくる劉備においそれと応えることが出来ないのが一番の理由であるのだが。
まあそれはともかくとして。
中王靖山の末裔と謳うその血がなさせることなのか、義勇軍大将という位の低さなど微塵も感じさせないほどに堂々とした立ち振る舞いのまま公孫賛と退出する劉備を――その後ろに控えていた関羽も含め――見送った俺は、誰に知られぬようにほっと息を吐く。
反董卓連合軍に参戦していた勢力の頂点がつい先ほどまで集っていたことへの緊張感からは当然のこととして、なによりも、曹操、孫策と孫権、そして劉備と、後の時代に名を馳せる人物達が一度に邂逅するということの緊張からであった。
三国志、或いは三国時代と呼ばれる基である三傑。
魏王の覇業、蜀王の人徳、呉王の悲願が連なり、重なり、絡み合って出来たその時代を知っている身からすれば、彼女達が一度に邂逅することに緊張するなという方が難しいと思う。
そして何よりも。
知っている時代とは既に違う、董卓が洛陽から撤退することなく反董卓連合軍に勝利したという事実を前にして、董卓と三人の王との邂逅は、俺に緊張と同時に警戒を抱かせるには十分なものだったのである。
**
「――では、道中気をつけてお帰り下さい」
そんな三人の王との邂逅から数日後。
漢臣として宮中で数日を過ごした曹操や孫策、劉備達は洛陽視察と街の有力者との会談を終えて、帰路に付こうとしていた。
漢臣として洛陽に赴いていたということで、漢王朝皇帝である劉協から――というよりは李需から董卓に彼女達を見送るようにと命じられ、董卓が忙しいがために俺にとその役目が回ってきたのだ。
故に、今いる場所は洛陽城門。
そして目の前にいるのは、曹操と夏候姉妹、張莫、孫策孫権姉妹に周瑜と甘寧、劉備と関羽に公孫賛という、名前だけを見ればまるで三国時代を築いた人らの夢の競演であり、姿だけを見るならば見目麗しい少女達の集いであった――まあ、その内については触れないでおこう。
「ふふ。以前に洛陽であった時も、こうやって北郷に見送ってもらったわね」
「えー、そうなのー。私達の時には見送りなんか無かったのになー」
「いや……気づいた時には帰っていた人が言うことじゃありませんよね、それ」
「はは、まあそれは許してくれ、北郷よ。我らも色々としがらみの中にいる故な、そうそう自由には動けんのだよ」
「まあ、周瑜殿がそう言われるならば確かにその通りなのでしょうが……っと、そういえば、橋公殿やあの姉妹――大橋や小橋はお元気で?」
「ああ、北郷に会うことがあればよろしく頼む、と橋公殿がな。大橋と小橋も――小橋はぶつぶつ言っていたが――よろしく、と」
なんで冥琳の言うことばかり聞くのよ、なんて孫策が隣でぶつくさ言うのに耳を――袖を引っ張られて身体ごと傾けられながら、橋公やその孫である姉妹が無事であると聞き幾分かほっとする。
実は孫策達が橋公達を連れて帰った後に、賈駆に橋公は有力者だったのになんで引き止めなかったのか、と怒られることになったのだが、まあ今では余談であろう。
「へえ……橋公は孫策の所へ行っていたのね。会っておこうと思ったのにいなかったものだから、どこに行ったのかと不思議だったのだけれど」
「あら、それはすまないことをしたわね。そうね、どうせならこのまま会いに来る? 歓迎するわよ」
「いえ……それはまた今度にしておくわ。そのような暇も無ければ、猶予も余裕も無いしね。……そういえば気になっていたのだけれど、何故あなたの妹――とその付き――は北郷を睨んでいるの?」
お酒とか一緒に呑んでみない、と誘う孫策に対して、少しばかり考えた曹操はまた今度と断るのだが、その後にふと不思議そうな表情を浮かべた曹操は孫策へと問うた。
そうして視線を動かせば――というよりは最初から気づいてはいたのだが――こちらを睨む視線があり、それが孫権と甘寧からだと認識出来る。
視線が合ってもお構いなしに向けられるその視線には明らかな敵意が混じっており、場所と状況を気にしなければいつでも腰の剣を抜いてきそうであった。
そんな状況なものだから、ふと知らずのうちに腰の剣と懐の鉄棒を意識してしまうのは仕方のないことだろうと思う――盾もあった方が良かったかも、とは後の祭りだな。
「んー。まあ別に難しいことじゃ無いんだけどさ……前に洛陽来たときに北郷に胤を寄越せって言ったら断られちゃってね、それなら外堀から埋めようと蓮華――孫権にそれを伝えたら……」
「知らずの男に身を任せるなどとは何事だ、と言うことになって、その元凶が北郷であると思っているのだよ、蓮華様は」
「へえ……」
「ほう……」
「なっ?!」
「……ん?」
そうして周囲の状況と装備を確認していた俺の耳に、ある意味で予想通りというか、考えていた通りの孫権と甘寧に睨まれる理由が孫策と周瑜の口から語られる。
天の御遣いと呼ばれる男といえど、見ず知らずの男の胤をもって天軍を成すという姉に反し、その果てには姉がそういうことを言い出したのはその天の御遣いと呼ばれる男――つまりは俺が全ての元凶である、としたのだろうということである。
予想通りというか、孫権が俺を睨み敵意を抱く理由などそんなことしか無いだろうと思っていたし、何より、洛陽で問われた孫策の言葉は、孫策と周瑜だけが持つ策であろうと思っていたのだが。
なに外堀から埋めていくとか言っているんですか孫策さん、まだ諦めて無かったんですか周瑜さん。
そうは思ってみたものの、にやりとした笑みを返されてしまえば、がっくりと肩を落とすしか出来ないものであった――孫権と甘寧に関しては、何時か何処かで誤解を解くことも出来るだろうから、今はとりあえず諦めよう。
とまあ、それはともかくとしておいて。
深々とため息によって少しでも心労を減らしておきたいとした俺の耳に、孫策と周瑜の言葉に反応した声が入ってくるのだが。
へえ、とか言っている曹操と張莫は何やら面白いものを見つけたといった顔をしているし。
ほお、とか言った夏侯淵と公孫賛は中々面白いことを考えるものだと納得しているっぽいし。
なっ、とか驚いている劉備と関羽は顔を真っ赤にしてちらちら見たり、こちらも憤慨しているし。
唯一、何を言っているのだろうと首を傾げている夏候惇が実に目に優しい。
俺の知っている歴史であれば呂布を討伐――まあそのようになることもないであろうが――するための戦闘の最中において流れ矢で左目を射抜かれるのだが、まだそのようなことにはなってないらしく、両目とも健在のまま、不思議そうな顔をしていた。
「ふふ。そのようには見えなかったけど、意外と好き者だったのね」
「違います。俺では無く孫策殿が勝手気ままに話を進めているだけのことで」
「どう、紅瞬? 私達も天の胤を求めてみる?」
「んー、まあまず桂花が怒るでしょうけど……なに、本気?」
「まさか。ただ、あなたが婿がどうたら言っていたから、どうかと思っただけよ」
「ああ……その話か。そうねぇ……顔は、まあ悪くはないだろうし、天の御遣いというのも面白いとは思うわね。董卓軍の指揮をある程度任されていることから無能ってことは無いんでしょうけど……んー」
「……あなたこそ、まさか本気だったの?」
とか。
「え……ええっと、孫策さんや曹操さんがそうするって言うんなら、私達も胤を入れるって考えなきゃ駄目なのかな?」
「そんな筈が無いでしょう、桃香様ッ。あのような男の胤など、入りようがありませんッ!」
「そうだぞ、桃香。まあ愛紗の言うことは極端だけどさ、孫策や曹操が話に出したからといって、わざわざしなけりゃいけないなんてことは無いと思うぞ。……そもそもお前、胤を入れるとか意味分かってるのか?」
「えと……その……男の人が女の子の……」
「あー、いい、言わなくていい。それ以上は言うんじゃない、桃香。あと、こんな街中でそんなことを言うな。小恥ずかしいじゃないか」
「くッ。その醜悪な考えを桃香様に向けてみろ。ただでは済まさんぞッ」
とか。
俺が話に出した訳でも無く、俺が悪いことをした訳でも無いのに様々な感情が向けられるのは一体なぜだろう。
関羽に至っては敵意どころか殺気に似た――似たというかそのもののような気もするが――ものを込められた視線を向けられるし、話があちこちで湧き上がれば孫権と甘寧の視線がますます鋭くなった気がする。
ますます重くなる無言の重圧と、向けられる敵意と殺意に胃で感じていた鈍い痛みが途端に鋭くなった気がするが、まあ精神の安寧のために気のせいということにしておこう。
じゃないと、穴が開きかねん。
「さ、さて……そろそろ出立の時間だと思われるのですが」
「ふむ……北郷の言う通りのようだな。雪蓮、そろそろ」
「えー、まだこの面白い光景を見ていたいんだけどなー」
「そうは言うが、北郷があまりにも辛そうであるしな。それに、我らも色々としなければいけないことは山とあるだろう? さっさと帰りましょう」
「んー……まっ、仕方ないか。蓮華、思春、北郷に熱い視線を送ってないで、そろそろ行くわよ?」
「……はい」
「……はっ」
ギンッ、と。
まるで刃物のように研ぎ澄まされた視線を最後にもう一つ送った後に、孫権と甘寧は馬へと跨って先に走らせていた孫策と周瑜へと続いて洛陽から出て行った。
直前に孫策の視線がにやりと笑った気がしたのだが、俺としては敵意丸出しの視線が減ったことに安堵していたので、それもあまり気にしてはいなかった。
「あ、あははー……そ、それじゃあ私達も帰ろう、白蓮ちゃん? ほ、ほら愛紗ちゃんも、ね?」
「は。……覚えていろよ、北郷」
「それじゃあ、私達もこの辺でお先に失礼させてもらうよ、張莫殿、曹操殿」
先ほどの胤の話の余韻か、頬を赤く染めた劉備が声をかけると、関羽はそれに即座に頷き、そして俺へと敵意と殺意の視線を向ける。
汜水関の折ではそこまで――まあ色々と否定したりしたので分からないでもないのだが――敵意を向けられてはいなかったのだが、今回のことでいよいよ殺意を向けられるようになってしまったことは誠に遺憾である。
見目麗しくはあるものの、やはり敵意を向けるその姿は関羽の名に恥じぬものであって、内心いつ斬りかかられるかびくびくしていたのだが、まあ何事もなくて良かったと思う。
ただまあ、次に戦場で出会ったならば汜水関の時のような手は使えないな、と思い、また深々とため息をつくことになるのである。
「ふふ。心労が絶えないわね、北郷」
「お陰様で。関羽殿とは汜水関で剣を交えましたが、あの時は策でどうにかなったものの、あの様子では次からは問答無用で来られて使えそうにありませんし。武も無く智も無い俺としては、心労が溜まるというものですよ」
「あら、その割には次に出会った場合、どうやっていなすかを考えている顔をしているけど?」
「はは……まあ、戦わずして勝てることが出来ればいいなあという程度ですけど」
「へえ……孫子も嗜んでいるのね」
俺が知る歴史の中で日ノ本における戦国時代において武田信玄が謳った風林火山――説によれば風林火陰山雷もあるらしいが――は、孫武が著した孫子から取られていることは有名である。
ようするには軍と兵を動かす上での心構えやその他を書いているものなのだが、孫子の中において孫武はあることを多く説いていた。
それが、戦わずにして勝つ、あるいは戦う前に勝つ、ということである。
まあそれは置いておいて。
孫策達と劉備達が帰ったからか、帰り支度の点検を始めた夏侯淵にちらりと視線を送った後に、曹操は不敵な笑みを浮かべつつ口を開いた。
「さて、私達もこれで帰るけれど……以前と同じことをもう一度問うわ。私の元に来ない、北郷? まあ、今なら孫策と同条件を出しても良いけれど?」
「……それは曹操殿でも可と?」
「まあそうね。ただ、嫌がる娘にしては駄目よ。あと、私が可愛がっている娘とかもね」
「……いえ、遠慮しておきましょう」
「そう……」
孫策と同じ条件というと胤を落とせ、ということなのだが、嫌がる相手に駄目というのは分かるにしても、曹操が可愛がっている相手というのはどういうことなのか。
何となくな雰囲気的に夏候惇と夏侯淵がそれに含まれているということは理解出来るのだが、俺が知っている曹操関係と言えば、未だ目の前で婿がどうとか子供がどうとか思考がどこかに飛んでいる張莫ぐらいである。
ぶつぶつぶつぶつ、と何かを声に出すその姿は若干引きそうになるものがあるが、なんといっても俺の近くにはあの郭嘉もいることだし、ある程度の耐性も出来ているのだろう。
表面上特に気にすることも無く、俺は口を開いた。
「曹操殿に対しては二度目の見送りですが、どうかお元気で過ごされますよう」
「ふふ、ありがたく受け取っておくわ。次に会うのはまた戦場かしら、それとも、あなたが私に膝をついてくれる時かしら? 実に楽しみだわ」
「俺はあまり楽しみではありませんが……まあ、戦場で出会わないことだけは祈っておきますよ」
「もう、つれないんだから。……さて、では我らも帰ることにしましょう。紅瞬、いい加減に目を覚ましなさい」
「――でも子供は男の子三人と女の子二人が……って、もう帰るの? 桂花や春蘭みたいに色々と想像したり妄想したりするの楽しかったのに」
「楽しむのはいいのだけれど、場所を弁えて頂戴。……それとも、帰ったら春蘭と秋蘭を交えてみんなで楽しむ?」
「さあ帰りましょう、きびきびと帰りましょう。春蘭何しているの、遅いわよ」
「あっ、ちょッ、待ってくださいよ紅瞬様~!」
「……ふう」
それまで惚けていた人物とは思えないほどの速度で曹操の魔の手――毒牙とも言うが――から逃げる張莫とそれに慌てて続く夏候惇に、全くというふうに曹操がため息をつく。
だが、それにも慣れているのか、すぐさまに表情を切り替えた曹操は、軽やかに馬へと騎乗すると、わずかな笑みを浮かべて声を上げた。
「それではね、北郷。来たくなればいつでも門は開けておくわ。……それじゃあ行くわよ秋蘭、あの二人に追いつくわ」
「御意。……ではな、北郷」
そうして。
影を残さぬのではないかと思えるほどに早い曹操――確か絶影という馬だったか――に続く形で夏侯淵が駆けて行ったのを見送って、俺はようやっと一息つく。
孫権や甘寧、関羽にもしかしたら斬られるかもしれないという不安で気が気ではなかったが、それも過ぎ去ってしまえばとりあえずの所は安心出来た。
それに、なんといっても曹操と孫策、劉備は俺が知る歴史でもそうであったからか、この時代においても中心人物となることは間違いないだろうと思う。
もしやすればすぐさまに勢力が潰れてしまう可能性もあるのだが、俺の直感で言えばそれも無いだろうと思った。
いつかは必ず戟を交える時が来るだろう、その確信だけが、俺の胸中を占めるのであった。
そして。
とりあえずは、三人の王――董卓も含めれば四人の王か――との邂逅が済み、その見送りも済んだ俺は、ここ最近手つかずであった大火によって焼失された区分の視察に赴こうかと考えた。
すでに燃えカスや黒焦げになった木材は撤去され、そこにあるのは更地にされた広場だけなのだが、いかんせん宮城に近いだけに街の人々は店を動かすのにあまり乗り気ではない。
それなりの範囲があるために街一番の商店とか大規模な飲食街とかを考えてはみたものの、洛陽新参の人を宮城の近くにいれる訳にもいかず、かといって以前からの街の人は勧まずで、復興はあまり芳しくなかった。
さてどうするか。
いっそのこと子供が遊べる遊具を入れた公園でも作ってみるかな、とどんな遊具があったかなどと思いながらそこへ向かって歩いていた俺は、背後からの声にその足を止めることになる。
「お兄っ様ーッ!」
「お久しぶりです、北郷殿」
そしてその声が。
この場にいる筈のない――否、いるとは思ってもみなかった少女達のものであれば、俺は驚くことしか出来なかった。
「伯瞻殿に元遷殿ッ!? なんでここにッ?!」
「へへー」
西涼連合が馬騰の次女馬鉄と、その従妹である馬岱。
反董卓連合軍前に董卓軍との同盟を解消して盟主である馬騰の娘を涼州へと戻し、それが終わった後も特に動きの無かったがために半ば放置していた西涼からの突然の訪問に、俺は表面に出すことなく内心身構える。
疑う訳でもなくそのつもりも無いのだが、反董卓連合軍前は同盟を結んでいたにせよ、馬鉄と馬岱は現状は大きな関係もない勢力の将であるのだ。
どのような用向きがあるのかは知らないが、洛陽の民にとって西涼は巻き添えを嫌って同盟を解消した裏切りものと映っており、余り長居はよくないと俺は彼女達を連れて城へと戻ろうとした。
だが。
彼女達が洛陽へと赴いたその理由を聞いた時、俺は彼女達を目にした時より強いさらなる驚愕を覚えることとなる。
即ち。
西涼連合、漢王朝に降伏す。
事実上、それは漢王朝を擁する董卓軍に降伏することと同意義であった。