「これでッ!」
「うわっとぉっ?!」
防御のために構えていた剣を腕ごとはじき飛ばされた俺は、それを成してこちらの懐へと飛び込もうとする少女に向けて勢いに流されるままに蹴りを放つ。
軸足に力が入っている訳でもなく、腰の回転を使わない、まさに膝から先だけを使っての蹴りではあったが、懐へと潜り追撃を仕掛けようとした少女はそれを嫌ってか一歩距離を取る。
その隙を突いて体勢を整えた俺は、無理矢理に動かした身体の鈍い痛みと荒い息が整うのを待って、少女――魏続へと構えた。
「……やはり、中々やりますね北郷殿。恋様が褒めるだけのことはあります」
「それはどうも――って、恋が褒めてくれるの? 俺を?」
「ええ、それはもう。口を開けば北郷殿は凄いとばかりに……ねね様と、もげればいいのに、と日々口に出すほどです」
「……き、聞かなかったことにしよう、うん」
「……もげればいいのに」
「ヒィッ?! や、止めて怖いッ、っていうか無表情でそんな怖いこと呟かないでッ!?」
そんな魏続の言葉に、衝撃を与えられた訳でもないのにキュンと軽い痛みが襲うのを頬を引く付かせながら受け入れ、得体の知れない殺気からくる寒気を抑え込みながら、俺はチキリと剣を構え直す。
魏続との――実力が拮抗している相手との鍛錬にて、盾を用いて守りを固めるというのは些か鍛錬の意味合いとして違うのではないか、として彼女との鍛錬においては盾を用いてはいなかったのだが。
そんな魏続との鍛錬が見たいといった呂布と華雄の言葉に踊らされた俺と彼女の打ち合いも、そろそろ数えるのが面倒くさいほどになってきていた。
というか、やはりこの世界の女の子達――まあ全年齢的に女性とも言うが、彼女達は強い。
それは武力であり智力であり魅力であり財力であり、まあ色々な面でなのだが、そう知っていてなお、目の前でそれをまざまざと見せつけられてしまえば、それも顕著である。
今まさに相対する魏続もそうだ。
黄巾賊が安定の街を襲撃した時に呂布達が助けた少女。
それまでは戦うことはおろか、剣を持ったことすら無いと言っていた彼女が、今こうして剣を持って俺と鍛錬をしている――しかも実力は拮抗――その事実は、やはり俺の中の常識とは違っていた。
「一刀ー、男のくせに勝てへんとか情けない思わんのかいなー」
「いやいや、張遼よ。あれでいて一刀殿は十分に男らしいかもしれぬぞ? つい先日とて、鍛錬中にいきなり私を――」
「……一刀も、ぎーも、どっちもがんばれ」
「ぎー殿よ、ここで勝って北郷をもぐのですぞ!」
「ふえー、二人ともやるもんだねー。ねえねえ、子夫、あの二人とやって勝てると思う?」
「ふむ……まあ、動きを見た限りではまだ負けるとは思えんな。だが、どちらも成長の速度は速いから、後々には分からんかもしれん」
そんな俺と魏続を囲むように居座る面々から様々な声がかかるが、こちらとしてはそれに意識を取られるような隙は見せられる筈もない。
俺と魏続の鍛錬を肴に酒を飲む張遼と趙雲はニヤニヤとこちらに視線を送り――ていうか子龍殿、それは言わないで恥ずかしいからお願いします――饅頭を咀嚼しながら応援の声を上げる呂布と何をもぐのかと怖くて聞けない陳宮に、至って真面目に状況を分析する李粛と牛輔。
気が抜けるのか抜けないのか、よく分からない面々の声に促されるに反し、俺は口を開いていた。
「さて……今日はこの辺にしておきましょう」
「む。北郷殿が一勝、私が未勝……勝ち逃げですか?」
「いや、そんなつもりは無いんですけど……そろそろ警邏の時間ですし。これでも中々に忙しかったりしますし」
「うむむぅ……仕方が無い、ですね」
今日はこれまで。
その俺の言葉に巻き起こる不満の声――主に酒の肴が足りぬという張遼と趙雲だが――を無視して、俺は剣を鞘へと納め地面に置いていた盾を拾う。
そんな俺の行動に従って魏続もこれまでかと剣を収めるが、その顔に張遼や趙雲とは違うものの、そこにはありありと不満の色が浮かんでいた。
まあ、今日は鍛錬だけで一刻ほどしかしていないし、その中で魏続に一度勝っていたがための勝ち逃げである、と理由は分かるものなのだが。
これで通算成績が十二勝十一敗と勝ち越ししたことにはなるのだが、断じて負けて引き分けに持ち込まれるのが嫌で切り上げたという訳ではないことをここに断言しておきたい、俺はそんなに心の狭い人間では無い、と。
とはいえ、俺が忙しいのも事実であった。
反董卓連合軍との戦いにおける報告や事後処理等はつい先日に終わりを迎えたのだが、仕事はそれだけでは無いし、やらなければいけないことや進めなければいけない進捗は山ほどある。
これからで言えば、警邏に繰り出した後には兵の調練に顔を出し、兵長たちから意見やその他諸々を聞いて回り、軍備拡充における問題点を報告するなど、今から考えるだけでも夜が更けるまで仕事を終えることが出来ないのは想像に難くない。
それを知っているからこそ、魏続も唇を尖らせながらも仕方ないと言葉を零したのである。
「北郷殿が忙しいことは承知していますので、まあ、仕方がありません……ですが、次回は私が勝ち越して通算成績も抜かせてもらいます」
「はは、抜かれないように次回も勝たせてもらいますよ」
とはいえ、武人に近い動きをし始めた魏続に一体どこまで勝つことが出来るであろうか。
離れた途端に牛輔に頼んで打ち合いを始めた魏続の動きの節々に、呂布や華雄に似たものが見え始めたことに背筋を震わせつつ、俺は警邏へと向かう前に腹ごしらえにしておくか、と厨房へと足を向けていた。
**
「いやー、今日も良いお天気ですねー」
「そろそろ夏も近いからちょっと暑いけどな」
「それが良いのですよ、宝譿。お昼寝にはちょうど良いのです」
「いや、仕事しろよ」
てくてく、と。
人の生活の声と音で賑わう街並みの中、緩やかに流れる金髪を揺らしながら程昱は宝譿と共に歩いていた。
宝譿はいつもの如く程昱の頭上にあり、共にと言うのは些か間違いではあるのだが、程昱はそんなことを露程も気にせずに、昼食の後に訪れる柔らかな眠気を抑えながら特に何するでもなく視線を動かす。
「それにしても、洛陽も人が増えましたねー。ついこの間まで権力争いの末に人がいなかったのが嘘みたいです」
「まあ、その辺は月や詠、それに北郷なんかが頑張った成果だろ。それに、そんなことはお前の方が詳しいんじゃないのか、風?」
「いやいや、そこは口に出さずに感慨深そうに口にするのが風なのですよ、宝譿」
宝譿は人形である。
掌に収まるほどの、到底人には見えない容貌の人形であるが、まるでその人形が喋っているかのようなその言葉の応酬は、驚愕のものがあるのだが。
だが、得てして人とは慣れてしまうものである。
洛陽に来た当初こそ、程昱の頭上にある人形が喋っている、などと話題を集め、子供などからは人気を得ていたものだが、その頃から共にいた人物に色々と喋られてしまえばそれはすぐさまに収まったのである。
ふくわじゅつ、と天の国では呼ぶらしい程昱のその技術を街の人々に教えていった人物を脳裏にと浮かべながら、程昱はふふっと微笑んだ。
「全く……お兄さんには困ったものなのですよ。あれでは風の自分らしさが現れないというのに」
「それにしちゃあ嬉しそうな顔してるじゃねえか」
「そこはそれ。やはり風も女の子ということですよー」
「へっ、自分で女の子と言うのもどうかと――」
「ちょ、ちょっと凄いよ地和ちゃん、人和ちゃんッ!? お、お人形さんが喋ってるッ?!」
ふくわじゅつ――腹話術という天の国に伝わる技術の詳細を後に聞いたことを思い出しながら、その詳細の出所である人物の北郷のことを、ふと程昱は思う。
洛陽に来てから――というよりは、程昱や趙雲と郭嘉が董卓軍に救われる形で客将となり、諸々あって程昱は真名を預ける形で反董卓連合軍を相手取り、そしてそれに勝利はしたものの後処理に忙殺されてきたとあって、自分達が絡んでいるとは言っても彼は本当に忙しい人物であった。
その思考、頭脳、技量はどれをとっても平々凡々の域を出ないが、そんな彼が軍政、内政、治世において董卓軍に大きな影響を与えていることは事実である。
忙しいながらも諸将と良く顔を合わせては鍛錬を行い、暇を見つけては街へと警邏に出て民の不満を聞き、兵と話しては軍備に真面目に取り組む。
なるほど、一つ一つの仕事こそ程昱などの軍師や文官の方が早いだろうし、武官や華雄などの将の方が軍備には精通しているだろう。
ともすれば、北郷はただ指示をすれば良いのでは無いか、そう思うことも当然のことであろう。
彼はそれだけのことが出来る地位を任されていると言っても過言では無いのだから。
だが、と同時に程昱は思う。
それこそが北郷らしいと言えるのでは無いか、と。
技量と技術、能力が足りていないことは北郷とて理解しているだろう。
でなければ、趙雲に鍛錬を請い、王方の補佐を受けて文事をこなし、郭嘉や自身に助言を求めることなど無いのだが、北郷はそれらに対して特な葛藤も無くそれらを行うのだ――まるで、初めから自らの力量が自分達に届かないのだということを理解しているかのように。
だからこそ不思議に思い、そして惹かれた。
彼が彼らしくあろうとする行動とその理由、そして、そんなふうにまでして董卓や賈駆、その周りに至る全てを守ろうとする彼を支えたいと思う感情と共に、何か不思議な感情が胸の奥で動くのを感じながら――。
無論この感情がらしくない、そして自分には似つかわしくないものであると、程昱自身も理解している。
だが、この戦乱の世において、そんな理由で仕えるのも悪くはないと思う。
一度郭嘉に語った言葉――月を支えようとする北郷に太陽を見たことは事実ではあるが、ふと、彼の行先を見てみたいとも思った。
ああ駄目だ、本当にらしくなく、似つかわしくない。
そうして。
似つかわしくないとした感情によって回されていた思考は、不意の言葉に停止したのである。
**
「いやー、食った食った。それにしても、まさかメンマを丼物にしたものがあるなんてな……洛陽もまだまだ知らないことが多い」
膨れた腹をさすりながら、俺はつい先ほど口にした料理――メンマ丼なるものを思い返しながら、警邏という名目で街を練り歩いていた。
メンマ丼――まあ、ご飯にメンマを盛りつけただけのものであったのだが、そこに柔らかくとろとろになるまで煮られたチャーシューや半熟卵、牛丼でいうつゆだく程度にかけられた醤油味の出汁に、腹は一杯ながらも思い出すだけで口の中に唾液が広がっていく。
まあ、冷静に考えてみれば醤油ラーメンとご飯を付け合わせただけのものと言えなくも無いが、メンマ丼という名に恥ずかしく無い量のメンマが載っていれば全く別の物と考えることができるのだろうか。
今度メンマ好きの副官殿にでも聞いてみるか、と思考を働かせた所で、俺はふと視線の先――街中で賑わう人の中で、見慣れた少女が角を曲がるのを見つけた。
「あれは……風、か? 何だってあんな所に……?」
ひらひらと揺れる服や、金の長い髪、そしてその常に眠たげそうな瞳は風――程昱で見間違いは無いだろう。
何よりも、ちらりとその頭上に見えた人型の人形は、彼女の相棒である宝譿であった。
そこまで考えて、俺はふむと言葉を漏らす。
洛陽も漢王朝の代行として董卓軍が治安改善や維持に努めているとはいえ、その実態はやはり裏まで手が回らないのが現状である。
何より、ここ最近人の数が膨れたからか、裏のみならず表の通りであっても些細な喧嘩や喧噪は後を絶たないのであれば、手を打たなければならない段階なのだが。
ただ、現状においての董卓軍は反董卓連合軍における影響への対応と、肥大した軍勢の再編成に追われてそこまで手が回っていない。
仕方なしに警備隊における警邏範囲拡大で対応しているものの、それが隅々にまで行き届いているかと言われれば怪しいものがあるのだ。
つまり何が言いたいかと言うと。
「うーむ……あの奥はちょっと危ないならず者が多いから、出来るだけ近づかないようにって通達してたんだけどなあ。風に限って問題は無いと思うんだけど……んー……仕方がない、ちょっと様子を見に行ってみるか」
近頃騒ぎをよく起こしているならず者や、商人相手に警護の仕事で糧を得ている荒くれ者達などが多く確認されている裏通りに知り合いの少女――しかも一般的に美が付くほど――が向かったのであれば、その知り合いとして、上官として、そして警邏をする者としては様子を見に行く以外に選択肢は無かったのであった。
「にゃ、にゃあ……?」
「にゃーにゃー、にゃおう」
「……にゃー」
「なうなう、にゃおーなのですよ」
「……」
言葉を失うということは、このことだったのか。
そうしてまあ、程昱は見つかった――うん、結論から言えば見つかったで合っているし、怪我もなく楽しそうにしているのであれば、さしたる問題は無い。
ただまあ、猫鳴き声で数匹の猫を相手にしていたり、何故か程昱以外に三人の少女がいることを除けば、であるのだが。
というか、視界というか、視線の先――まあようするには程昱を含めた四人の少女であるのだが、色々とやばいという問題が唯一そこにあった。
猫の視線に合わせるためなのか、四つんばいになった姿勢をさらに低くするために下半身――主に尻――を持ち上げる形となっていて、四人共に短めの腰布から除く情景に視線を向けることが出来なかったりするのである。
正面や横から見るのであれば、それはほのぼのとした可愛らしい光景が広がっているのであろうが、生憎とそこは壁に囲まれており、可愛らしい光景を見るに回り込むということは能わない。
その変わりというか何というか、にゃーにゃーと言いながら尻尾でも付いているとか思っているのか、彼女達の一部がふりふりと揺れてその度に腰布がちらちら動くものだから、視線を逸らしてもその動く気配によって、知らずに唾を飲み込んでしまうのだから始末に負えない。
やばいやばいと思いながらも、ちらちらとした視線が段々と正面に向き始めようとしていたことに危機感を抱いた俺は、少し勿体ないと――仕方ないと――思いながらも口を開くことに決めた。
本音と建て前が逆であるのには、この際、目を瞑ろう。
「……えー……あー……ふ、風さんや?」
「にゃ? ……にゃっ、にゃによ、あんた誰にゃッ?!」
「にゃー……おにーさんは誰?」
「……にゃー?」
「にゃおん? ……おお、何ですかな、お兄さんや? もう風達を後ろから見てはぁはぁするのには飽きたのですかな?」
「いや、気付いてたなら声をかけてよ?! っていうかはぁはぁとかしてないし!」
「いやいや、正直に喋った方が身のためだぜ、一刀よ? 我慢は身体に毒だろうしよ」
何を言うんだ宝譿。
はぁはぁなんてしていないし、そもそも、もししていたとしてもここで言えと言うのか、この程昱以外の三人があんた誰とかいう視線を向けている状況で、俺後ろからあなた達見ててはぁはぁしてました、と。
……いやいや、無理無理、絶対無理、そんなことしたら俺変態じゃんか。
と、そんな俺の葛藤を知ってか知らずか――明らかに知っているふうなニヤニヤとした笑みの程昱から視線を外して、俺はふと彼女の周りにいる三人の少女に視線を向けた。
大きなりぼんを止めた桃色の髪の長い少女、水色の髪を頭の横でとめた活発そうな少女、眼鏡の奥から冷静な視線を除かせる少女、その三人もこちらを見ていたのか、ふと視線がぶつかり合う。
まあ、それも後ろから声をかけたらこっちに視線を向けるから当然のことか、と一人納得しつつ、俺は口を開いた。
「えーと……俺は北郷と言うんだけど、その、いきなり邪魔して、それで驚かせてごめんね」
「……おおー、もしかしてこの辺りが治安が悪いということを思い出して、心配して来てくれたのですか、お兄さんは?」
「そうだけどさ……てか、治安が悪いことをちゃんと聞いてたんなら、近寄るのよそうよ……」
「いやー、照れますなー」
「いや、褒めてねえだろ」
「……あんた、何、漫才でもしにきたの?」
「違います」
俺の心配は無意味だったのか。
いつもと変わらぬ様子でほのぼのと口を開く程昱にがっくりと肩を落としていると、活発そうな少女が明らかな警戒の色を瞳に宿しながら口を開く。
ふと気付けば、程昱より少し離れた状態で三人は固まっており、逃げる時のことを考えているのか、眼鏡の少女の視線が俺や周囲の路地などに向けられていた。
「……北郷ということは、天の御遣いとも呼ばれている?」
「まあ、そうなるかな……」
「……」
「まあ北郷という名は珍しいですしねー。お兄さんは一度、自分がどれだけ物珍しいのかを知る必要がありそうですね」
まるで人を珍品か珍獣のように扱う程昱と深く話し合うことは後にしておいて、俺はふと少女達――といっても活発そうな少女と眼鏡の少女だけで、桃色髪の少女はぽけーと猫を見ているのだが――の視線が緩く歪んだことに気付く。
警戒の色を濃くした、と言えばそれまでなのだが、その色の中には明らかに敵意とも取れる類も含まれており、俺は反射的に自らが所持している武装を脳裏に浮かべていた。
腰には剣、懐には先を尖らせている鉄の棒が二本。
程昱も彼女達の反応に気付いているのか、先ほどまでの戯けた雰囲気は鳴りを潜めており、何かしらの行動があれば即座に動けるようにとしているのが分かる。
そんな彼女を守りつつ、目の前の三人から逃れることが出来るだろうか。
桃色髪の少女こそほけーと猫と遊び出してはいるが、活発そうな少女と眼鏡の少女がどれだけの武力を誇るのかは、俺には理解出来そうもない。
そもそも、俺より背も小さく華奢な少女と先ほどまで打ち合っていたり、さらには俺より強い少女にぼこぼこにされていたのだから、俺の判断が露ほどに役に立たないことが分かる――少し悲しいけど。
まあそれはさておき。
見たところ武器を持ってるふうでもないし、こちらを警戒するだけで特に動く気配の無い少女達にどうするかなと思案してみる。
とは言っても、とりあえずは表の通りに出た後に程昱を連れてそこで分かれれば良いだけの話なのだが。
この警戒のしようではそれも難しいと思われたが、かといって治安が安定していないこの場に少女達だけを残して去る訳にもいかない。
そこまで考えた俺の耳に、意を決したかのように、眼鏡の少女の声が飛び込んできた。
「ふむ……天の御遣い殿」
「いや、北郷でいいけど……何かな?」
「……いきなり唐突ではありますが、私達を雇っては頂けませんか?」
「…………は?」
「ちょ、ちょって何言ってるの、人和ッ?!」
「えー、お姉ちゃん働くのやだなー。歌だけ歌ってたいのにー」
「……初めて会った女性であろうと口説くなんて……やはり、お兄さんはお兄さんですねー」
「ちょっと待て、風。そして君もだ」
何かスイッチが入ったのか、何処かしらが切り替わったのか。
突然の言葉に意外と俺が冷静だったのかを好機と見たのかは知らないが、警戒一色であった眼鏡の少女は、本当に唐突だなという返答を待つこともなく、その眼鏡をきらりと輝かせながら一歩こちらへと近づく。
ふと、何処かしらの店員みたいだと感想を抱くが、そんなことを知るはずもない少女は、さらに一歩こちらへと近づく。
「私達、今日洛陽についたばかりなんですが、頼れる人もなく、途方に暮れているところをそちらの女性に誘われてここに来たんです」
「うーん……おお、そちらのお胸の大きいお姉さんが宝譿を気に入って、それこれな流れで風のお友達である猫さん達に会いに来たのでした」
「天の御遣いと呼ばれる貴殿であれば、私としても、私達としても初めて来た街の他人を信じるよりは少なからず信用出来ます。無論、雇われるだけの仕事はしてみせましょう……如何ですか?」
「いや、ちょっと待ってよ。いきなり雇えと言われても、はいそうですかと言う訳には……」
「では、もう一度言いましょう……雇って頂きたい。はい、これでいきなりではありませんね」
「いや、そういう意味じゃないんだけど……ちょ、ちょっと待って、考えてみるから」
はてさて困った。
もう一歩――いつの間にか手を伸ばせば届きそうな位置にまで近づいていた眼鏡の少女を前にして、俺はそう思う。
初見からの感想であれば、彼女達は特別な訓練や鍛錬を詰んだような特殊な人物などではなく、至って普通の人種である。
誰かしらの暗殺を目的とした暗器の類を用いる人種はそういったふうに見せるのが得意ではあろうが、彼女達が今ここにいるということは、城門前後で警戒している忍の目を潜ったということでもある。
無論、そこを通らなかったという可能性もあるのだが、その場合はその旨が忍から伝えられる筈であろうし、そもそも程昱が気付きそうなものである。
いくら常から寝ぼけ眼とは言っても彼女とて軍師、人の機敏と動きは俺よりも詳しいのだから、そんな少女達を自らの領域に招くことは無いだろう。
とすると、反董卓連合軍が終結し、洛陽が安全だと知って増えだした難民に紛れ込んだ細作であろうか。
涼州の端に位置する石城安定から長安洛陽を勢力下におく董卓軍は、今や戦乱の大陸において一大勢力となっている。
さらには数倍にも至った反董卓連合軍に勝利したこともあって、多くの諸侯が注意し警戒するのは当然のことであろう。
事実、ここ最近で入り込もうとする細作は増え続けていると報告があり、賈駆もまたそれが当然と言っていたのだから、その可能性は否定出来なかった。
だが、である。
それもまた好機であろう、と俺は思うことにした。
「……まあ、いいだろう。君達を雇おう」
「ええッ、本気で?! ちぃが言うのもなんだけど、あんた頭おかしいんじゃないの!?」
「んもー、駄目だよ、地和ちゃん。人和ちゃんが頑張ったおかげでせっかく雇ってくれるって言うんだから、ここは変なこと言っちゃ駄目なの」
「お姉ちゃん、でもこいつがおかしいのは……って、あれ? 猫は?」
「んーとね、ご飯食べに行ったみたい」
「……ありがとうございます」
まさか承諾されるとは思っていなかったのか、活発そうな少女――地和というのが真名らしい――が驚きの声を上げ、それと同じ色を宿して眼鏡の少女が目を白黒させる。
先ほどまで静かで落ち着いた雰囲気を纏っていた人和と呼ばれていた眼鏡の少女が、どことなく可笑しく、そして可愛らしい反応を返してくれたことに若干の嬉しさを覚えたものだが、自らが取った行動を気にするでもなく、眼鏡の少女は礼と共に頭を下げた。
それにしても、後ろにいる桃色髪の少女は見ていて和むな。
猫とじゃれていた時もそうであるし、彼女が本来持つ雰囲気も十分に和めるものがある。
だと言うのに、その雰囲気には不釣り合いなほどの凶悪なむ――程昱さんや、何故にそんな鋭い視線を飛ばしてくるのでしょうか。
ま、まあともかく、和む、うん和む。
「さて、では契約内容を話し合いたいと思うのですが……ここでは何でしょうし、どこか良い場所を知りませんか?」
「おお、では風がお気に入りの飲茶店へと連れて行きますよー。勿論、お代はお兄さん持ちですが」
「おい……まあ、別にいいけど」
俺の言葉にやったやったと喜ぶ桃色髪の少女――名前を聞いていなかったが、関係的に彼女が長姉らしい――に引っ張られていく活発な少女と眼鏡の少女について、俺と程昱も歩き出す。
「……お兄さんも、中々に悪ですねー」
「いえいえ、風さんほどではありませんが……まあ、何とかなるかな」
「そですねー……まあ、お兄さん次第かと」
「はは、努力するよ」
はっきりと言って、彼女達は情報源として――そして、操作した情報を渡す混乱役にすればいいと、俺は思っていた。
もちろん、それは彼女達が細作――もしくはそれと同等の人物達であったとしての場合であるが、そのどちらにしても忍による監視は必要であろう。
細作なら機密に触れないように警戒し、違う場合は純粋に客人として護衛させれば良いのだ。
何かしらの事情がありそうな彼女達のことだ、どんな形になれど護衛は必要であろう。
細作であった場合は、誰が敵であるかという判断が実にしやすくなる。
もっとも、それは厳密に彼女達を監視出来た場合になるのだが、その辺は忍を――楊奉達を信じるしかないだろう。
さらには、得させる情報についても、監視がいればある程度の誘導は可能になるだろう。
そうなれば彼女達を潜ませた勢力に対して嘘の情報を与えることも可能となるし、情報の操作加減では二虎競食もあり得るだろうと思う。
そこに至ったからこそ、程昱もまた俺の決断に口を挟まなかったのかもしれない――なお、これは後日間違いではなかったと知ることになるのだが、それぐらいはすぐに至って欲しかった、という程昱の言葉に打ちのめされるのは全くの余談である。
それはともかく。
ぼそぼそ、と互いに呟いた言葉は三人の少女達に聞こえたふうでもなく。
俺達は表の通りはどっち、と悩む三人に合流するために足を急がせたのである。
**
「――と言うわけで、しばらくは彼女達の身の回りを調べつつ、護衛を頼みます」
「あいよ。大将の頼みだ、十分に心得ているが……何だい何だい、いきなり三人も囲うたあ、大将も隅に置けないねえ」
「……ちなみに、何と勘違いしてるんですか?」
「ん……何だい、あの娘達は妾か、或いはそういう商売の娘達じゃないのかい?」
「違います」
じゃらり、と感触と音でそれなりに入っていると思わせる布袋を楊奉に手渡しつつ、下卑た笑みのままに肘でつついてくる彼女から少し離れる。
人差し指と中指の間に親指を入れるのってこの時代でも有効なんだな、とどうでもいいことを考えつつ、俺は程昱と共に城への道を歩いていく三人の背姿を見やる。
天和と名乗った桃色髪の少女、地和と名乗った活発そうな少女、人和と名乗った眼鏡の少女達は、それが真名であると教えながら、決してその姓名を答えようとはしなかった。
それだけで何か訳有りであると判明するものの、かといって一度雇う約束をした以上、それだけで反故にする訳にもいかない。
だが、真名をいきなり教えられてはいそうですかと呼ぶわけにもいかないとした俺と、真名を呼べと言った彼女達との――主に人和――話し合いの結果、テン、チー、レンというとりあえずの名で俺は呼ぶこととなった。
それに対する不服不満を彼女達は隠すことは無かったが、人和――レンのいきなり信用を得ることは難しいだろうという言葉に、渋々従ってくれた。
なお、程昱は特に気にもせずに真名で呼んでいたのだが……真名ってそんなに軽いもんだったか、俺は首を傾げることとなる。
はてさて、それはさておき。
違うってんならあたしが相手してやろうか、といつの間にか耳元で怪しく囁いた楊奉から慌てて身を離した俺は、とりあえずとして城への案内を頼んだ程昱が見えなくなったことを確認して、当初の予定であった警邏へと戻ることにした。
慌てた俺が面白可笑しかったのか、笑いを堪える楊奉にじと目を向けた後に、さて何処に行こうかと迷った俺は、とりあえず城門に行こうと足を向けた。
「……あら?」
「あら?」
「あっ!」
その過去の俺に、今現在の俺は一言言ってやりたい。
そのまま程昱達と一緒に城の案内をしておけ、と。
洛陽の城門を中に入った地点。
城門からの大通りと、市場や飲食街が並ぶ左右の道と合流するその十字路において、俺はその三人――と数人――に出会うこととなる。
「あら北郷、わざわざ出迎えてくれたの?」
妖しく微笑みつつ二房の金髪を揺らすは、曹孟徳。
その隣には見覚えのない紅蓮の髪を持つ女性が立ち、後背には夏候淵と腹を満たしてか何処か上機嫌な夏侯惇の姿が。
「あら、北郷じゃなーい。何々、わざわざ出迎えに来てくれたのー? そ・れ・と・も、ようやく私達に天の胤を落としてくれる気になったー?」
ちゃぽんと酒瓶を鳴らしながら可愛らしいけもののように表情を動かすは、孫伯符。
その背後には周喩は溜息を漏らし、そんな彼女の隣には明らかな敵意をもってこちらを睨み付ける二人の少女。
「あ、あの、北郷さん……その……あ、遊びに来ちゃいました?」
汜水関の折に邂逅しその理想と思想をぶつけ合ったことからおどおどしつつ、それでもなお笑顔を見せようとする少女、劉玄徳。
そんな劉備の隣に立つは興味を持った視線でこちらを見る赤髪の少女と、敵意とも殺気ともとれる視線を飛ばす黒髪の少女、関羽。
「……何でこう色々と考えたい時に揃うかな?」
片や蠱惑的に。
片やにこにこと。
片やこちらを窺うように。
傍から見ているだけなら可愛い美人綺麗といった感想を抱きそうな、それでいてその裏にある性格と事情が簡単にそれを許してはくれそうもない笑顔と視線をひしひしと受け止めながら、俺は誰に聞かすでもなくぽつりと呟いていた。