「ふう……」
カーン、と小高い音を立てて木槌を振るっていた李粛は、額を伝う汗を肩に回していた手拭いで拭うと、腰に手を当てて周囲を見渡す。
ぷるん、と揺れる豊かな胸部と、首から胸元にかけて流れ伝う汗を本人が気にすることはないが、周囲の人物はそうは思っていないのか。
ちらちらとこちらへと視線を向けながらも背を伸ばすことなく――正確に言えば前かがみにならざるを得ないのだが――仕事に打ち込む兵士達に誇らしげに頷きながら、李粛は視線を虎牢関へと向けた。
とはいっても、今いる地点は既に虎牢関より数里。
近くにいればあれだけ大きく見える虎牢関がここから見れば拳大ぐらいなことと、今の地点から虎牢関に至るまでに木材で築き上げた幾つかの陣が、今ここにいる理由を――連合軍を迎え撃たんとするために即席の陣を築き上げていることを思い出させた。
汜水関防衛に当たっていた北郷率いる董卓軍が虎牢関へと入ってから、既に三日が経過した。
始めこそ連合軍の追撃を警戒してか、北郷ら汜水関防衛の面々を交えての軍議が終了してなお続けられていた兵達の収容を急がせてはいたのだが、それでもそれが終了し、そして連合軍がいつ来てもいいようにと気を張り声を挙げてなお来ないとあれば、それも拍子抜けというものであった。
否、拍子抜けというよりは、やっぱりか、と李粛は感情を抱く。
今なお連合軍内に潜む忍からの報告によって、再び総大将をどうするかと袁紹袁術で揉めていたり、兵糧の不足をどうするのかといったことで揉めているということが知らされてしまえば、李粛が抱いた感情こそが正常のような気もするのであった。
「元々予想していたこととはいえ、こうもこっちの読み通りだと気も抜けちゃうんだけどなあ……」
そうぽつりと呟いた言葉は、それでもなお高く響く木材を打つ音によってかき消される。
自身の言葉が遮られたような機会に若干膨れそうになる自身の頬に、李粛はそれを二度手のひらで打つことによって意識を切り替える。
そもそも、今ここにいるのは虎牢関を――ひいては洛陽の民や石城安定を守ることに繋がるのだ。
これが洛陽だけを守るのであれば、安定の街において名家とされる李家をまとめる者としては、ぶっちゃけどうでもいい。
自身が生まれ育ち守る街である安定が無事であれば洛陽など、と董卓軍に関わっていない状況下であれば言えたことだろう。
だが。
「そういう訳にもいかないんだよねー、やっぱり……」
自分は既に董卓軍の将の一人である。
安定の街は既に董卓軍の勢力に無くてはならない地となっているし、安定の民は黄巾賊襲来の折に救ってもらった恩を忘れることは無いだろう。
姉である李需は漢王朝皇帝であり董卓の擁護を受ける劉協の傍仕えを、安定の軍兵を纏め上げ正規軍の指揮を経験したことのある牛輔もまた董卓軍においても兵を纏め上げるなど、安定に関わり深い者達もまた、董卓軍になくてはならない存在であった。
「お姉ちゃんも子夫も頑張ってるしなあ……こりゃ僕も頑張るっきゃないね!」
李粛にとって、董卓軍というものはさして忠誠を感じるものでは無い――というよりは、そこに集う人々にこそ忠誠を感じている、と言った方が正しい。
董卓、賈駆に始まり、その下に集う武官文官、それに連なる李需や牛輔、そしてそういった者達が守るべき存在である民達。
そういった人達こそ守るべき存在であり、そして忠誠――というよりは、守るという戦う理由こそが大切であると思っている李粛にとって、さほど難しいことは必要無い。
まあ、難しいことを考えるのが苦手であることは否定しないが。
「だからまあ……こっちに対するっていうんなら、僕は手加減なんかしないからね――連合軍」
だからこそ、守るべき存在とその戦う理由を害そうとする者は何者であろうとも容赦はしない。
その姿を遠く確認出来、そして斥候へと出向いていた騎馬がもたらした報――袁紹袁術を中心とした連合再編軍の接近に、李粛はそう気合を入れるために再び自らの頬を叩いた。
もっとも、その際に揺れる豊満な胸に兵士の注意が若干それかけたのは致し方の無いことなのかどうか。
そんなことを意識する暇もなく、李粛は連合軍が起こす土煙を確認した後に、かねてからの予定通りに――虎牢関前にて連合軍を待ち受けるある一人の人物にあとを任せるためにと口を開いた。
「総員、作業を中止してッ! 必要なもの以外をこの場に捨てて、すぐ虎牢関まで逃げるよッ!」
**
「いいのか、桃香……?」
「うん……。ごめんね白蓮ちゃん、迷惑かけちゃって」
「なあに、別に気にすることはないさ。私だって洛陽の現状は気になるところだし、麗羽達が洛陽で何かしやしないかと心配なのもあるしな。桃香の言う通り、董卓と一度話をしてみるのも悪くはないさ」
「でも……ううん、ありがとう、白蓮ちゃん」
「よ、よせよッ、照れるじゃないか」
ぱたぱたと照れを隠すように手を振る白蓮――公孫賛に感謝の念を抱きつつ、劉備は前方に聳える虎牢関へと視線を飛ばす。
堅牢、堅固、難攻不落、金城鉄壁。
交通路を抑える関には不釣り合いなほどに高くそびえる城壁と、重く固く閉ざされた城門は、ともすれば関と呼ぶよりも要塞と呼ぶに近い。
泗水関と並び洛陽を守護する東の守り、虎牢関。
その全貌と威容、そしてそこに籠るであろう董卓軍が醸し出す迫力に、劉備は知れず緊張する喉を鳴らしていた。
袁紹と袁術、袁家を中心として再編された――主だった名高い諸侯たちが抜けた連合軍は、その矛先を揺らすことなく虎牢関への進撃を決める。
陶謙や張莫ら多くの諸侯が抜けたにも関わらず、未だ十万の軍勢を誇る連合軍に劉備は公孫賛と共にその姿を残していた。
だがその行動は、袁家について栄華と権力のお零れにありつこうとする者達とは違う感情から来ていた。
洛陽にいるであろう董卓と話をしたいから洛陽を目指す、そう放たれた自らの言葉によって呆気に取られていた公孫賛の顔を思い出して、劉備は笑みを含む。
初め、劉備は檄文に書かれた董卓の行いに義憤を覚えて反董卓連合軍へと参加した。
董卓の圧政と暴虐に苦しむ洛陽の街と民を、彼の者の手から解放し救おうと想いを抱いてのことであったが、義兄弟である関羽と張飛、それにその知略で軍――と呼ぶにはおこがましいほどに小規模な義勇軍ではあるが――を支える諸葛亮や庖統、田豫と彼女を押し軍を影から支える簡雍など、劉備を慕う義勇軍の多くの者達は、
劉備のその想いに賛同してくれた。
公孫賛もそんな劉備に賛同してくれた一人であり、また、付き合いの長い袁紹が暴走しやしないかと他人事ながらに心配した結果として、劉備と共にその姿を連合軍にと残していた。
泗水関を巡っての攻防の際、関羽の一撃を受け止めた北郷に、劉備は共に戦ってくれないかと声をかけたことがある。
あの混乱と喧騒と戦いの中で声をかけたことは、今落ち着いて考えてみれば何故あのような状況でと思わないでもないのだが、それでも前々から思っていたことを口に出せたときは知らず安堵していたふうに思う――天の御遣いという言葉に何故かしらの懐かしさを感じていたとは、いよいよ気づくことも無いのだが。
関羽に聞いた話であるが、そんな北郷は彼女に聞いたらしい――洛陽の街は先の大火からの復興で活気に溢れて民は平穏無事に暮らしているというのに、一体誰が董卓を悪逆だと謳ったのか、と。
己の目で見、耳で報を聞いたのか。
そう聞かれた関羽はすぐに答えることが出来なかったというが、当然ながらに劉備も即答は出来ない。
義勇軍として小規模に活動する自分達では洛陽にまで細作を飛ばすほどの余力は無いし、義勇軍として確固たる拠点を持たないということは情報を集める拠点も無いということである。
それが洛陽の情報を集めていなかった言い訳になることも無く、またそのことを言い訳にするつもりは劉備には毛頭ないが、かと言って、北郷が関羽に伝えたことの全てを信じるべきかと聞かれればそういうわけでもないだろう。
彼は言ったのだ、洛陽の現状を瞳で確認したり、その報告を耳で受けたのか、と。
それはつまり、自らが見聞きしたことを信じて動けと、そう言っているような気がするのだ。
故に、劉備は北郷が言ったようにまずは真なる情報を得るために洛陽へと――そこにいるであろう董卓と話したいと思ったのである。
そのためには連合軍から脱退して被害無く洛陽を訪れ、目的を達する方法もあるだろう。
だが、連合軍と董卓軍、そのどちらの言い分がはっきりとしない状況の中で見極めようとするために、劉備は連合軍の中から虎牢関を見据えていた。
「……そういえば桃香、董卓と話をするってのはいいとしてだ、董卓が一体どんな奴かってのは知っているのか?」
「えっ……えっと、その……えへへ」
「なんだよ知らないのかよ――って、まあ私も人のことは言えないけどな」
「えっと、白蓮ちゃん……北郷さんに聞く、ってのはどうかな?」
「天の御遣いにか? ……そりゃ、確かにその方が確実ではあるし、それが出来るならその方がいいんだろうけどさ……愛紗がそれを許すのか?」
「えーと……ど、どうだろう?」
そこまで会話が転がったところで、劉備はふと想像してみる。
関羽は泗水関における先の一件から、北郷をまるで親の仇であるかのように振る舞っている。
華雄との戦いに水を差されたこともあるし、何より自らの信念に口を出され、あまつさえ劉備の誘いが断られたことがよっぽど気に障ったのだろう。
あの者の首を取るのはこの私だ。
そう言って憚らない義妹が北郷に会うことがあればどういった行動を起こすのか。
そこまで容易に想像出来た劉備は、知らず冷や汗を流しながら苦笑していた。
というよりも、関羽のみならず張飛も北郷にはいい感情を抱いていない。
むしろ関羽より精神的に幼いためにか敵対心敵愾心を隠すことも隠そうともしないその姿は、見た目だけならば可愛らしく映るものであるのだろうが、その中身はそれどころではない。
劉備が知る中でも最上級に位置する武人の二人から敵対視される北郷に、劉備は同情を抱かずにはいられなかった。
「……さすがに会った瞬間に斬りかかったりはしないよな、いくら愛紗や鈴々でも、さすがにそれは無いよな?」
「えーと……う、うん。無いと思う、よ……多分」
「……は、はは。ま、まあ、そこら辺のことはおいおい考えるとするか。まずは虎牢関をどうやって――」
「――も、申し上げますッ」
劉備が一体どんな想像をしたのか、それとも同じ考えに至ったのか、共に苦笑する公孫賛が口を開こうとしたとき、不意に慌てたような声が耳へと入る。
それに視線を動かしてみれば、先行して虎牢関の様子を探っていた斥候の一人が慌てたようにこちらへと駆けてきていた。
だが、その様子と表情に劉備はふと疑問を抱く。
驚愕というよりも狼狽と不安に近い色がその斥候に見えるのに公孫賛も気づいたのか、硬い声で何があったのかと問いかける。
そして。
斥候の口から放たれた報は、逆に劉備と公孫賛を驚愕させるに十分なものであった。
そうして。
斥候が持ち帰った報告――董卓軍からの和睦の提案という言葉に従って連合軍は歩を進める。
作りかけの陣を一つ越え、整えられていながらも兵の一人もいない陣を二つ越えた向こう、円卓が設けられたその傍に一人佇む姿があった。
「連合軍諸侯の方々、我が声と和睦の提案を聞き入れての来訪、心より感謝申し上げます。そして、和睦の席へ、ようこそ御出で下さいました」
天の御遣い、北郷一刀。
劉備と公孫賛が――そして、彼の者が連合軍を迎えるという先の泗水関敗走にも似た状況の焼き直しに、北郷の柔らかい笑みと礼とは裏腹に、見えざる緊張がその場を包もうとしていた。
**
北郷が連合軍を迎えようかという頃より少しばかり前、ある暗闇の中に一人の姿がゆらりと浮かぶ。
「……反董卓連合を覆す、か。やはり、あのような不確定な事象では抑えることは出来んということか」
洛陽、そして現在において彼の地を抑える董卓軍とその後釜を狙う反董卓連合軍との争いが虎牢関にて始まるという緊迫した状況の中において、その人物の声はなんと淡々としたことか。
彼の戦場から遠い地であることがその由縁か、そんなことを知らせるふうでもなく、再び暗闇の中ぽつりと言葉が紡がれる。
「元より、董卓の行動によって反董卓連合の勝敗は動いてきたからな。此度のこと、考えられることであったということか……」
暗闇の中にあってなお白く艶めかしい顔の半分を覆う仮面は、それを伴う者の声に反応してか形を変えないままに口元を嗤わせる。
くく、と。
それをつける人物――司馬懿が喉を鳴らすのに反応してさらにその口元を歪めていくのは、暗闇の中での幻か。
それを知ってか知らずか、気にするふうでもなく司馬懿はさらに言葉を紡いでいく。
「やはり、北郷より先に董卓を討つべきか……」
北郷。
その名を呟いた時、司馬懿の仮面が酷く歪む。
それは怒りか、あるいは恨みか、はたまた別の感情か。
その全てであると言われても納得出来るような感情を覚える司馬懿であったが、ふと人が近づいてくる気配にそれを即座に消失させる。
それと同時に、仮面と同じく無機質な笑みをその顔に張り付けて、司馬懿は近づいてきた人物をその暗闇に迎え入れた。
「……ふむふむ。お主が司馬仲達かの?」
「左様にございます、西涼連合が雄、韓遂殿。お目にかかれて恐悦至極に存じます」
洛陽の西に位置する涼州。
その大半を勢力下に抑える西涼連合に属する一人にして、馬騰と双雄と称される韓遂、字は文約。
緩み弛む腹と顎を持つ、ともすれば好々爺とも呼べる見た目でありながらも、その実、その瞳の奥からこちらを見据え自身にとって有益か否かを見定めようとする韓遂の視線に、司馬懿はますます笑みを深めていた。