「では、改めまして。ようこそお出で下さいました、連合軍諸侯の方々よ。俺は北郷一刀、汜水関と虎牢関防衛の指揮を任されています」
およそこれから戦場になるであろう地には相応しくない円卓に腰を落ち着かせながら、俺は卓上にて拳を組み合わせたままに視線を飛ばす。
手を自らの前で組むのは拒絶の現れ、なんて何かしらで聞いたことがある気もするが、個人的にいえばそれが一番落ち着ける体勢なのではないか、と思う。
何より手持ち無沙汰にならないのがいいよね、と特に関係のないことを考えていた俺の耳に、凛として、そしてどこか――というかどう聞いても自分が偉いのだと隠そうとしない声が聞こえてきた。
「お出迎えご苦労ですわ、ほ…えっと、ほ、ほん…?」
「……姫様、北郷一刀です」
「そう、それですわっ! よく出迎えました、北郷とやら。わたくしは連合軍総大将、総・大・将にして名門袁家の棟梁である袁紹、字は本初ですわ!」
俺のいた世界において――実物を見たことがある訳でもないが――あからさまにお嬢様であると強調するかのような長い金髪をくるくると縦に巻いた少女が、それはもう潔いといった形で胸を張りながら口を開く。
鎧に覆われてその実物は想像の中でしかないが、豊かな曲線に形取られた鎧から想像される豊満な肉体を恥じることも惜しむこともなく前に出す彼女――袁紹の姿勢に、何となくだが彼女の性格を見た気がした。
その両隣に立つ大人しめな黒髪の少女が顔良、活発そうな水色の髪の少女が文醜と名乗れば、袁紹を筆頭としたその三人は卓へと落ち着いた。
顔良と文醜といえば、袁紹陣営の中でも軍師である田豊に次いで実力を持つ二人である。
博学多才、そう田豊が呼ばれているのは忍の諜報網を伝って届いているが、彼――この世界の名の知れた人物には珍しく男性らしい――が袁紹と共に可愛がっているのがこの二人であるらしい。
何より、袁紹自身も幼い頃から一緒の二人とあっては、その信は田豊に負けずとも劣らず、といった具合らしいのだが。
それでも、智に優れた田豊がいるにしても、袁紹含めた三人が智に優れているという話は聞いたことが無い。
将兵としては優れているらしいが、智に優れていないのであれば特に気にする事でもないか。
考えることを苦手としていればそれだけこっちとしても思惑を進められるしな、と俺は知られることなく笑む。
まあ、田豊がこの場にいないのはこっちとしても助かるけど、一応油断はしないでおこう、報告だけで判断するわけにはいかないしな。
なんてことを考えながら、俺は袁紹より視線をずらして四人の少女――劉備と他の少女たちを見やる。
忍からの報告で再編連合軍に参加したままだということは知っていたが、まさかこの局面で出てくるとは思わなかったというのが本音である――それと同時に、出てきてくれればと思っていたのも本音だ。
そんな本音を出すこともなく視線を動かして、劉備の隣に立つ赤髪の少女を見やる。
大きな装飾もない鎧の胸部は緩やかな曲線を描いており、その下にてひらめく腰布を見れば彼女が女性であることは間違い無いだろう。
ポニーテールのように上げた髪からはきめ細かな肌が覗き、その落ち着いて雰囲気とは別に少女らしさを見せていた。
その容姿もそれに違わず……えっと、その容姿も……その、ふ、普通……いやいや、普通より可愛らしいと言える……と思う。
「……おい。今なんか失礼なこと考えただろ?」
「……い、いえいえ、そのようなことは決して」
だと言うのに。
心中だけで零した言葉に反応するかのようなその少女の唐突でいて的を得た言葉に、俺は内心ドキリとする。
むしろ、その驚愕を隠すことが出来ずにビクリと体が跳ねれば、冷や汗ものであるのだが。
そんな俺を一瞥した赤髪の少女は、一つため息をついた。
「まあ、別にいいか。私の名は公孫賛、字は伯珪だ。北郷ということは……お前が天の御遣いということか?」
「ははっ。白馬長史殿にまで名を知られているとあれば、悪い気はしませんね」
「私も、董卓の下に落ちし天からの御遣い殿に渾名を知られていれば悪い気はしないな」
互いにニヤリ、と。
その人の実績や偉業を褒め称えるという渾名の本来の意味とは全く違うのではないかと思われる挑発とも取れる言葉に、俺と公孫賛は瞳を逸らさぬままに口端を上げる。
先ほどの袁紹のような強烈な個性は無いものの、真面目というか至って普通そうな公孫賛がそのような挑発に乗るとは思ってもいなかったのだが、よくよく考えてみれば彼女も諸侯の一人にして幽州を治めている一人である、その普通そうな外見に反して負けん気は強いのかもしれないとふと思った。
「は、はは……あまり普通普通って連呼しないでくれると嬉しいんだけどな」
「……えッ?! 俺、声に出してましたか!?」
「そりゃもう……ばっちりと……は、はは」
……それと同時に少し打たれ弱い――というか、普通という言葉に弱いのか。
その、随分と普通ぽい外見やら性格やら人となりを気にしているみたいで、乾いた笑い声が何となく怖い。
どことなく瞳も虚ろで、その落ち込んだ雰囲気も合わされば軽くホラーである。
ひくり、と軽く頬が引きつるのを覚えつつ、俺は公孫賛から視線を外してその隣――劉備と残りの二人へと視線を向けた。
「お久しぶりです、劉備殿――といっても、汜水関以来ですからほんの少しの時間しか経っていませんけど。それと……二人の方々も汜水関でお会いしていた、でよろしかったでしょうか?」
「……はい、天の御遣い様の――いえ、北郷さんの言い分で間違いないです。申し遅れました、私の名は諸葛亮、字は孔明と申しましゅっ……申します」
あ、噛んだ。
はぶにゅ、とか、がぶしゅ、とか聞こえてきたような気がしないでもないのだが、少し涙目ながらも言葉を続ける少女――諸葛亮にそれを突っ込むのも野暮な気がする。
というか、この諸葛亮という少女、どうにも知り合いに似ている気がするのだが、はてさて誰であったか。
背の低い少女でよく噛む、そこに当てはまる人物を思い探って、ふとそういえば姜維に似ているのか、と思い至る。
確か元の世界において諸葛亮と姜維は師と弟子の関係のようであったと記憶しているが、まさかこんなところまで――少女という点と噛み癖まで似ているのか。
そう頭を悩ませようとした俺の耳に、諸葛亮の隣に佇む少女からさらなる声が飛び込んでくる。
「……田豫、字は国譲。……」
「……?」
静かであっても凛とよく届く声。
知らずと耳に残る不思議な声色の少女――田豫は、しかしてその声と雰囲気とはかけ離れた視線をこちらへと向けていた。
こちらを見据えるように、そして俺という人物を図るかのように向けられた視線を受け止めるも、それに気づいた田豫はすぐさまに顔をそむける。
その彼女の意図を得ることが出来ずに首をかしげるが、それで答えが出るほど甘い人物であるのなら、俺という人となりを知る劉備に付いてこのような場所になどいないだろう。
田豫が何を考えているのかを知ることが出来ればこの先においても優位に立てるだろうが、あいにく、状況はそれほど緩くない。
俺の視線の先には、席についた袁紹とその配下である文醜と顔良の二人、そして公孫賛と劉備、劉備の配下である諸葛亮と田豫である。
ということは、待機している軍勢の中には袁紹と再編された連合軍の指揮権を争った袁術がいるままだ。
袁紹と共に秀逸という噂は聞いたことがないが、その噂もどれだけの信憑性があることやら。
自分への評価を過剰にするわけではないが、突如として軍勢を動かした後に俺を確保し、天の御遣いという人質を利用して、董卓軍に降伏を求めないとも限らない――まあ、それも狙いの一つであったりするのだが。
そんなことを顔に出すでもなく、虎牢関にて待機する郭嘉や程昱らとの打ち合わせ通りに、俺は出来うる限りの作り笑いを顔に張り付かせて口を開いた。
「では、各々方も席につかれたようなので本題にと参りましょう。降伏も撤退もいりません、ただ和議を結んで欲しい、それだけです」
**
「……ふう」
遥か前方――虎牢関城壁の上から見れば眼下にもなるその地において、さらに向こうに待機する軍勢から歩み出た数人が席に着いたのを確認してから、郭嘉は息を一つ吐いた。
怪しむ雰囲気のままの数人に対し、先に席に着く白き衣をまとった人物のなんと落ち着きようか。
もっとも、その本人の心中はどれだけの緊張に占められているだろうか、と郭嘉は知れず口元を緩める。
「出来うる限りに両軍の被害を抑える……中々面白いことを仰る御仁だな、稟よ?」
「智策と謀略を考える軍師からしてみれば、あれだけ扱いづらい上司もいないと思いますけどね。むしろ、我々よりも副官として共に戦場をかけたそちらの方がその想いも強いのではないですか、星殿?」
「はっはっはっ、確かに違いない」
そんな郭嘉の隣に、カツンと一度槍を鳴らした趙雲が並ぶ。
ふわりと仄かに香る酒類の匂いに、彼女が先ほどまで呑んでいたことが窺い知れる。
その横顔を見る限りでは大した量でもなく、また酔っているわけでもないことが見て取れるが、それにしてもこのような状況でと郭嘉はじろりとした視線を趙雲に向ける。
そんな郭嘉の視線を気にすることもなく趙雲は口を開いた。
「……さて、稟よ。一刀殿の案、どのように進むと思う?」
「……そうですね、ほぼ間違いなく予定通りに。ここに至るまでの汜水関においての策でも思いましたが、北郷殿は軍師の才があるのかもしれませんね」
「ふむ……私から見れば、近頃の上達具合から武官の才もあると思っていたのだが……なるほど、お主がそう言うのであれば中々面白いことになるのやもしれぬな」
「さて、それは北郷殿の努力次第というところですが……ひとまずは、あの場を生きて帰れるかによるでしょうね」
そうして動かされる趙雲の視線に、郭嘉は同じように視線を動かして呟く――まったく、と。
北郷一刀があの地――再編された連合軍から見ていくつかの陣を抜けて虎牢関を仰ごうかという地において、意味有り気に用意された卓で一人連合軍を待っていたのは、簡潔に言えば和議を結ぶためである。
和議という言葉を借りるとはいえ、反董卓という名目を掲げた連合軍に対して董卓軍からそれを勧めるというのは、傍から見れば降伏以外の何物にも見えないであろう。
事実、北郷と共に虎牢関へと入城した直後に行われた軍議において――郭嘉自身はそこに至るまでに彼と共に歩いた廊下で先んじて聞いてはいたが――華雄や元々虎牢関防衛の任を受けていた将兵らから反対の声は上がった。
郭嘉としても、先に話を聞いていなければ反対の声を上げていただろうと思うが。
和議――その名を借りた一種の降伏勧告であるなどということを聞いていれば、話はまた別になる。
董卓軍と反董卓連合軍。
洛陽と漢王朝を擁する側とそこに付随する権力やその他諸々を欲した側の戦いにおいて、どちらが優勢であるかと聞かれたならば大多数の人々は連合軍と答えるだろう。
事実、当初の兵力において二十万を擁する連合軍は圧倒的であり、多くとも十万を超えないであろうとされていた董卓軍は汜水関虎牢関を用いて籠城防衛に専するしかないと、誰もが思っていた。
郭嘉に至っても、北郷や董卓に協力することになった時でもそれらの策しか取り様が無く、手を出すにしても情報操作や、連合軍が油断した時に向けての策を練るしかないとばかりに思っていた。
だが結果として、董卓軍はそれらの予想を大きく裏切る形で連合軍を一度後退にまで追い込んだ。
それどころか、その兵糧を大きく損じさせることに成功したのだ。
士気は大きく損なわれ、鼓舞するためにと振るわれる兵糧もその全体を欠けさせ、ともすればそのままであれば勝利など見込める筈も無い状況――再度の後退をも考えなければいけない状況下の中で、連合軍におけるどれだけの人間が冷静に物事を考えることが出来るであろうか。
もっと言えば、自分達を打ち負かした筈の董卓軍からの和議の提案において、その裏に隠された狙いに気づけるだけの人物が権力を良しとした再編連合軍の中にいるであろうか、と。
答えは否だ――もっと言えば、否であると当初は思っていた。
聡明な頭脳を持つのであれば、大きく不利を背負うことになった連合軍にそれ以上付くことは無駄だと知り得るだろう。
さっさと手を切った後に董卓軍と結んだ方がいい、そう考える者も出てくるかもしれないのだ。
事実、忍からの報告で確認出来るだけでも名の知れた諸侯達は連合軍から去っており、そこに居残るのは再編連合軍の主戦力となる袁紹と袁術に群がってそのお零れを預かろうかという者達ばかりであったのだから、ここまで推測していた郭嘉や程昱、賈駆や陳宮の考えは当然のことであったのかも知れない。
だが。
「よもや公孫賛殿が残られることになるとはな。加えてあの『劉』の旗、あれは汜水関にて一刀殿と戟を合わせた関羽殿がおられるところだな」
「……劉備の義姉妹である関羽と張飛は共に優れた武人と聞きます。確かに、汜水関においての戦いを見る限りではそれも頷けるものではありましたが……武の力だけで、義勇軍が黄巾賊相手に名を馳せることは出来なかったでしょう」
「……それ即ち、智に優れた将がいる、そう言いたいのか?」
「……」
趙雲の言葉に郭嘉は言葉を返すことも頷くこともせずに北郷へと――彼が座る卓へと視線を飛ばす。
遠くからのためかそこにいる連合軍の将兵の判別は難しいが、金色の鎧を纏う三人は袁紹とその配下である顔良文醜だろう。
袁紹より小柄とされる袁術らしき姿が見えないことから、恐らくは軍勢の中に残ったままか、或いは汜水関と同じ轍を踏ままいと奇襲を警戒しているのか。
そんなことはさておいて、その他に見える桃色の髪が劉備だとすると少しばかり気品の見える鎧が公孫賛か。
まあ、公孫賛においてはそれほど危険視することは無いだろう。
白馬長史とは呼ばれていてもそれは戦場のこと、幽州の治め方が普通ということを取ってもそういった智の方には詳しくはないのだろうから。
しかし。
劉備と公孫賛の近く、卓に隠れてしまうのではないかと思われるほどにちんまりとした人の形に、郭嘉はふと背筋を振るわせる。
「……星殿、風はどこに?」
「下で華雄殿と兵らを纏めておるよ。予てより定めておいた反応あるまで、虎牢関を出ることは罷り成らんという一刀殿の言葉を守ろうとしている華雄殿のお目付と共にな」
「ふっ、餌を前にされた馬のように鼻息を荒らして、ですか?」
「なになに、そこは猪という表現が妥当であろうよ……もっとも、猪は待つことなど考えはしないであろうがな」
「違いありません。しかし、そう言う星殿も些か力が入っているようですが……?」
「そう言う稟の方こそ、幾ばかりか口端とこめかみが震えているような気がするが? ……もっとも、今回ばかりは一刀殿の神経と頭を疑わざるを得ないと思うがな」
「それには同意です……はあ」
先ほど感じた直感を――軍師を目指す者としてはこれほど曖昧なものは無いのだが――信じるのであれば、劉備と共にする背の低い二人は、恐らく北郷では太刀打ち出来ないほど智に優れているであろう。
軍師として敵わないと思う人物とは未だ出会ったことは無いが、それに準ずる者であるならばそれなりの数を上げられる。
程昱にしたってそうであるし、経験を含めれば賈駆には至らないし、時をおけば陳宮もそこに至るであろう。
曹魏の荀彧、孫呉の周喩のように他国においてもそういった人物を覚えてきた郭嘉にとって、あの二人はそこに加えるに十分なほどの人物であると郭嘉は半ば確信していた。
だが、と思う。
今回ばかりはこちらの勝ちだと、郭嘉は口端を歪め――それと同時に微かな憤りを覚える。
勝つということは何にもまして嬉しいものであるが、かといって憤りを覚えるようなものではないし、郭嘉としても覚えようとも思わないのだが。
では何に対して憤りを覚えているのかて聞かれれば、郭嘉は――否、この虎牢関において憤りを覚えている多くの人物はこう答えることだろう。
己の命を犠牲にすることすら勘定に入れた策を考え出した青年――北郷一刀に対して憤っている、と。
それと同時に、郭嘉はふと思う。
彼がここまで身を削ろうとする理由は、やはり董卓や賈駆のためなのだろう、と。
**
「和議締結における即時撤退、汜水関の放棄、そして反董卓連合軍の解散……こちらの用件はそれだけですね。無論、撤退の時に追撃等はしませんのでご安心下さい」
「あら、随分と生ぬるい和議の条件ですのね。許しを請おうという立場の言葉とは思えませんわ」
では紹介も済ませたところで。
まるで見合いの席のような言葉を交じえた後、開口した俺の言葉をこれまた開口一番に袁紹は切り伏せた。
それと同時に俺は――某汎用人型決戦兵器が出てくる話の主人公の父親の如く机に腕をつけたその影で――ニヤリと口端を歪ませる。
何を勘違いしているのか、等とは思わない。
和議を持ちかけられた側としては当然の対応であると思うし、俺としてもこういった対応をしてくれることを予測していた。
「ふむ、まあそう言われるであろうことは予想していましたが……しかし、考えてもみてください。士気、兵糧、兵力は開戦当初の半分以下となって、汜水関よりさらに堅固な虎牢関を攻め、そして洛陽を目指す……それは険しき道だとは思いませんか?」
「おーほっほっほっ! 庶民はそう思うのが常かもしれませんが、完璧究極完全な我が軍勢――そして連合軍に、そのような障害はハでもありませんわ」
「ひ、姫様、ハではなく、屁です、屁」
「そんな些細なことどちらでも構いませんわ、斗詩さん。さあ北郷さんとやら、これでわたくし達の有利とそちらの不利がよく分かったことでしょう! 今降伏するのなら許して差し上げなくも無くは無いですわっ!」
結局許してくれないのかはたまたくれるのかどっちなんだ、とか、それで不利有利が分かる奴は凄いだろ、とか。
緊張と興奮に塗れていない素の俺であったならば反射的に飛び出ていたであろう言葉を何とか押しとどめつつ、俺はさも残念と言うかのように溜息をつく。
バックンバックンと喧しい心臓が体温を上げているのか、乾き始めていた唇を舌で湿らせた俺は、態とらしい微かな笑みを頬に貼り付けながら右腕を上げた――これが第一の合図。
「? 一体右手を上げて何を……」
「ちょっ!? ひ、姫様、斗詩、あれッ!」
いきなりの俺の行動に頭に疑問符を浮かべていた袁紹であったが、ふと文醜が気付いた事実にその顔は先ほどとは打って変わって余裕の色が消え失せていく。
ただまあ、それも当然のことであろう。
汜水関における奇襲の時と同じく、虎牢関の城壁の上で旗が――しかも、同じ『十』の旗が振られているのであるから、その気持ちもよく分かる。
しかも、少し時間が経てば他の旗も振るように指示していたものだから、目の前にいる袁紹達は当然として、何より彼女達を挟んで遙か遠くにいる連合軍の動揺までもが確認出来たのであれば、こちらとしては万々歳である。
火計か、奇襲か、はたまたどちらもか。
汜水関での脅威を覚えているのか、そんな混乱と驚愕に彩られていく袁紹三人組ににこりと微笑んで、俺は右腕を下ろす。
それと同時に袁紹達が安堵した――恐らくは虎牢関の旗が止まったのだろう――のを確認すると、俺は再び口を開いた。
「……さて、こちらとしてはこれ以上無駄な犠牲を出したいとは思わないのですがね。焔によって焼かれる痛みも、兵糧を失って餓える辛さも、それらによって生じる苦労も無理強いはしたくは無いのですが……」
それと同時に、自らに対して反吐が出るのをぐっと堪える。
何が無理強いはしたくないだ、ならばそういう策を取らなければいいだけの話なのに、これを選んだのは俺なのだ。
既に一度その無理を強いた俺がそのようなことを言う資格など無いのかも知れないが、そんな弱音を胸の奥底に飲み込んで、俺は再び腕を卓へとつけた。
「くっ……あ、あなた、卑怯とは思いませんのッ?! 天の御遣いとも呼ばれていながら、このような脅し方をするなどと……」
「卑怯……卑怯、ねえ……」
ああそうだ、と認めることは簡単であるのだが。
今は――この後に待つ展開のためにもそれを認める訳にもいかず、俺はさも心外だとばかりに卑怯という単語を数回口で転がす。
卑怯というのは正義という言葉と真逆のようであるが、そもそも正義とは何なのか。
そんな汜水関において関羽そして劉備と繰り広げたような問答の再来か、そう思われた矢先、文醜がぽつりと呟いた言葉によってその場の空気が動き出す。
「……なあ、斗詩? もし、もしもだ、こいつを捕らえて董卓軍の奴らに降伏しろって迫ったら、上手くいかないかな?」
「えっ!? で、でも文ちゃん、それは……」
「……ですわ……」
「えっ、ちょっと姫、まさか……ッ?!」
「それですわ、猪々子さんッ! この北郷さんとやらを捕らえて人質にすれば、董卓軍はきっと降伏するに――」
来た。
待ち望んでいた――郭嘉達に暗愚単純と言われる袁紹達がそう考えるように誘導した展開に、俺は眼前に突きつけられた袁紹の剣先を笑みのままに見る。
少しばかり身を乗り出せばすぐさまに顔に突き刺せる距離にあるそれを見つめつつ、俺はさてこれからどうするかと思考を切り替え――ようとした矢先。
それまで黙っていた人物達――劉備公孫賛達の内、諸葛亮と田豫が声を上げた。
「……私達の負け、ですね」
「……もうどうにも出来ない事実。袁紹のくるくるお姉さん、諦めた方がいい」
実は。
俺が待ち望んでいた展開――袁紹が俺を人質にするうんたらかんたらと同じような展開がもう一つあった。
それは――俺がこの場で傷付けられること。
もっと言えば、殺されることであった。
とは言え、何も死にたくてここにいる訳ではないし、袁紹達を追い込む形でそこに至った訳ではない。
和議の使者を害す、または害しようとする、ただそれだけで良かったのである。
初めの和議の条件を袁紹が――連合軍が呑んでくれるのであればそれで良かった。
二十万もの大軍勢を擁しておきながら董卓軍の罠に嵌り、汜水関において策に嵌り、離間の計に嵌ってその士気兵糧兵力を損なう。
これだけぼろぼろに敗れておきながらも洛陽を目指した連合軍は、これ以上の戦闘は無意味と和議を結ぶ。
再編の前後でその意味合いは色々と違ってくるだろうが、この筋書きだけを見たのであれば、恐らくは多くの人が連合軍は敗れたのだと思うだろう。
董卓軍をよく知る洛陽の民はそれを喜び、知らぬ他の街の民はそれを悲しむであろう――これで洛陽と同じく暴虐と圧政に苦しむことになるのか、と。
だが、洛陽という街が他の街に与える影響力を考えればそれでも良い。
ゆくゆくは洛陽を拠点とする商人や、他の街に移りゆく人々が口によって伝えて行くであろう――洛陽を治める董卓は、連合軍が流した噂のように悪逆非道ではない、と。
この展開になれば、董卓軍としては反董卓連合軍に勝利し、洛陽の民の支持を得、後に他の街までもから支持を得る、いわゆる完全勝利ということになる。
ならば和議を結ばなかった場合――つまりは、今のような状況であればどうか。
これも完全とはいかないまでも、勝利への道筋は見えていた。
要は関羽の時と同じように連合軍の掲げた正義を突いてやればいい。
和議の使者を断ったというだけでもそれなりに話を広げることが出来るし、先ほど文醜と袁紹が導いた答えのように、もし和議の使者を人質なりに取れば連合軍の正義すら問われかねない。
洛陽を開放するためという正義を掲げながら、その実、人質という外道な手段をもって董卓軍を屈服させる連合軍。
なるほど、もし勝利を得ることが出来たとて、民心を離してしまえばどうなるのか。
黄巾賊という最たる例をつい最近知った諸侯達からすれば、これほどの打撃は無いであろう。
それに、俺としては人質に取られた時の保険として呂布を虎牢関に配置しておいたのだ。
戦闘の疲労の無い呂布であれば、人質に取られた俺を袁紹達の手から奪い返してくれるであろうし、飛将軍とまで呼ばれる弓の名手であれば、俺を捕らえる将を射るだろうと信じてのことであった――自力での脱出は早々に論外とした、武力九十三と九十四に俺が勝てる訳ないだろ。
「だ……誰がッ、くるくるで――もがもがッ!?」
「ちょ、ちょって麗羽さま、突っ込むところはそこじゃないですけど、ここは抑えてくださいってば」
「しゅ、朱里ちゃん、たよちゃん、私達の――連合軍の負けって、どういうこと?」
ざわりとした卓の空気に煽られてか、虎牢関の空気がにわかにざわめいたことを背中にひしひしと感じる。
恐らくは俺が袁紹に剣を向けられたことを確認してのことだろうが、それも俺が不動の姿勢のままなせいかその場に留まっているようだ。
目の前で揺れる剣先に張り裂けそうになる心臓を口から出さないようにしつつ、俺は言葉を発した諸葛亮と田豫へと視線を向けた。
「恐らくですが、ここで北郷さんを人質に取る、或いは討ち取るようなことがあれば、董卓軍の人達は虎牢関から出陣してこちらを討とうとするでしょう」
「……兵力はこっちの方が二倍近い。けど、士気は低いし、董卓軍が出撃したことで汜水関のように策を疑うことになるし、普通に戦っても勝つことは難しい。……それに、また旗を振られることになればもっと混乱することになる……それじゃあ勝てない」
「となると、自然と連合軍は後退なり撤退なりをしなければいけなくなりますが……汜水関からここに至るまでにあった幾つかの陣――作りかけのものもありましたが、あれは恐らくこちらの逃げ足を塞ぐためのものだと思います……前方の兵の足が少しでも鈍ればそれは全軍の鈍りとなりますから。……そして、これは汜水関の時のように戦力を削るためではなく、連合軍を打ち破るためのものではないかと」
「……戦う前に勝利を収める。この場に――ううん、連合軍が汜水関へと引き寄せられた時から、既に負けてた。……完敗」
どうでしょうか、と。
その容貌からまるで答え合わせを待つ子供のような視線を二人から受けながら、俺は表情に出すことなく感嘆する。
奇襲をして先手を取ってそのままの流れで汜水関と虎牢関の間で何とか討てないかな。
董卓と賈駆から連合軍に対する防衛の指揮を執ってくれと言われた時、俺が進言し、そして董卓軍軍師の面々において詰め合わせた策の全容を、ようもここまで言い当てたものだ、と。
さすがは伏龍、臥龍と呼ばれる諸葛亮と、そんな彼女に従う田豫である。
情報を操作する形で忍に色々と暗躍してもらったが、それが無く、多くの情報が彼女達に流れていればと、遅まきながらにぞっとした。
それと同時に、彼女達が負けを認めたということは、ここまで来て策が全て成ったのだと安心する。
これで、ここからどう状況が転がろうとも董卓軍の負けは無いだろう。
むしろ、諸葛亮と田豫がここで抗えば連合軍の負けであると――それどころか、完膚無きまでに打ち破られてしまうであろうと言ってしまえば、それも確実なものとなる。
もしやすれば俺や董卓軍を騙すための罠かも知れないとも思うが、ここまで気付く彼女達のことだ、そうした時に民衆からどのように思われるかにも考えは至っているだろう。
となれば。
この場で抗えば打ち破られて負ける、抗わなければ負けを認めることになるものの無事に撤退出来る。
そのどちらを取るのかと言わんばかりに、俺は立ち上がって右手を袁紹に差し出した。
「では……和議の締結といきましょうか、反董卓連合軍総大将、袁本初殿?」
「う、ぐ……」
そして。
一度俺の顔を見て。
虎牢関にて風に靡く旗を見て。
傍にいる顔良と文醜に――ついでに公孫賛と劉備、その傍らにいる諸葛亮と田豫に視線を送った袁紹は、俺の右手を注視した後に勢い良く右手で掴んできた。
「こ、今回の負けは貸し……そう、貸しですわッ! いつか借りるその時まで、この貸し、預けておきますわよッ!」
「……貸しは借りるものではなく、返して貰うものだと思いますが」
「わ、分かってますわよ、そのぐらいッ!? 猪々子さん、斗詩さん、退きますわよ!」
「待ってくださいよ、姫~」
「わわっ、麗羽様、猪々子ちゃん、待ってよう。そ、それではお先に失礼しますッ」
勢い良く俺の右手をはね除けた袁紹は、常の優雅――かどうかは別にして――を気にするふうでもなく肩を怒らせながら歩いていく。
ゆらゆらと揺れる長い金の縦巻きを見送った後に、俺は劉備達へと視線を向けていた。
「今回はこっちの負け、か……。してやられたって感じだな」
「いえ、白馬長史殿がその力を存分に発揮されれば戦況はどうなったか分からないでしょう。今回はこちらの運が良かった、ただそれだけです」
「はっ、よく言う。朱里達の言葉を信じるのなら、そうなるように仕向けていたってことだろうに」
「はてさて何の事やら」
だが次は勝たせて貰うからな。
そう言外に視線で語る公孫賛に苦笑しながら、俺はふと視線を感じて劉備へと顔を向ける。
その傍にいる諸葛亮と田豫の視線も向けられていたことに若干押され気味になるが、それを何とか受け止めていれば、劉備が口を開いた。
「御遣い様……私……」
「劉備殿達も、お疲れ様でした――って、まあ俺が言うのも何だか変ではありますけど」
「……とても変。御遣い様は……変態?」
「いやそこは変人でしょう普通ッ!? そもそも変態と変人では意味合いが全然違うと思うのですがッ!」
「……そう。実に残念」
何が残念なのか、そう迫って問いかけたいのだが相手は見目麗しく、そして幼い女の子である。
そんなことをしてしまえば正真正銘変態という烙印を押されかねないと自制する俺に、田豫は本当に残念そうに肩を落とした――あれ、俺何も悪いことしていないのに何だか悪いことしたみたいになっちゃったぞ。
変態ではないことが残念だと言う田豫の真意も知れずなままに、俺はひくつく頬を押さえ込んで口を開いた。
「共に戦って欲しいという劉備殿の願いに答える訳にはいきませんでしたが、お誘い自体は嬉しいものでありましたよ。願わくば、劉備殿達の武運長久を」
「……はい。私も、御遣い様の武運を祈っています」
何かを言いたそうな顔をした劉備であったが、既に撤退を始めていく袁紹軍のざわめきと、諸葛亮からの撤退の進言を受けて、一度頷いた後に俺へと背を向けて歩き出す。
その隣に公孫賛が、その後ろに諸葛亮と田豫が――本当に残念と言いながら並んでいくのを確認して、俺はいよいよと緊張を解いて椅子の背もたれに深くかけながら空を仰いだ。
権謀術数、陰謀思惑渦巻く地上とは違い何と澄み渡った蒼空のことか。
そんならしくもないことを考えながら、俺は趙雲の槍に小突かれるまで空をぼうっと眺めていた。
**
何進大将軍と宦官の権力争い、洛陽大火において洛陽の権力を得た董卓と、それに対する反董卓連合軍との戦いは、和議という形で終結を向かえた。
策略謀略を駆使した董卓からの一方的な和議は、大陸において董卓軍勝利という事実を広めることとなり、結果として、地方の一太守でしかなかった董卓が群雄の一人として認められることとなった。
反董卓連合軍に参加していた群雄達も敗北からの解散によって各々の領地へと帰還することとなり、これもまた結果として、洛陽を擁し自ら達を撃退した董卓の手から己の領地を守るためにと軍備が拡充されることとなる。
これにより、それまで比較的小規模でしかなかった小競り合いはその意味合いを大きく変えることになる。
多くの諸侯が、己が野望を、欲を、願いを、想いを抱き天下一統を目指す――群雄割拠の時代が、このとき幕を開けたのであった。