「今ここで追撃せねば、勝ち逃げという形で虎牢関に篭られることになりましょうぞッ」
「しかし、それが罠だとすれば如何する? 二度も罠にかかり、あまつさえそれを言い訳に洛陽に迫ることなく撤退などしてみよ、連合軍は全ての民から侮られることとなるぞ」
「だが、董卓軍が汜水関を退いたことは事実。今は、汜水関を取り状況確認と情報を集めることが先ではないか?」
「兵糧という時間の制限がある中で、それがどれだけ可能になることやら。……多少、兵に苦労を強いることになるが、ここは南から迂回して洛陽を目指したほうが良いのではないか? 董卓軍との兵力差であれば、正面からぶつかれば勝てるだろう」
「ここで我々が反転した隙を突かれたらどうするッ!? ここは、罠を恐れることなく虎牢関を目指し進軍したほうが――」
「じゃが、それで兵糧を狙われてしまえば、連合軍の存続どころか我々が領地へ帰ることもままならぬことになると――」
無意味ね、と。
曹操は眼前の光景に痛みだしたこめかみを押さえながら、溜息をついた。
董卓と反董卓連合軍との間で起きた緒戦。
洛陽へと至る道程にて立ちふさがる汜水関を巡っての攻防は、とりあえずのところ、連合軍の敗北と言ってもよい状況で初日を終えた。
罠、火計、奇襲。
それらの董卓軍が施した策略によって士気、兵糧、指揮系統を散々に掻き乱された連合軍は、董卓軍の追撃を振り切って後方へと撤退したのであった。
曹操が率いていた軍は、他の将が率いる軍とは違い、それほどの被害を受けていない。
元々、長期化することが予測されていた今回の連合軍の出征において、多くの軍が用意出来る限りの兵糧を運ぶためにと総大将たる袁紹に過剰分の兵糧の輸送を任せていたのに反し、曹操はそれを良しとせずに自らの軍で輸送を行っていたからなのだが。
さらには、ほぼ最前列にいたこともあって、さして変わらない位置にいた張莫と共に、大きな被害とはならなかったのである。
ならば、自分達と同じように前列へと出ていた他の将――陶謙と孫策はどうなのか、と思いながら、曹操は彼の者達へと視線を向ける。
さすが名高き徐州牧と言うべきか、陶謙は様々な意見が飛び交う軍議に慌てるふうもなく、落ち着いた視線をそこに向けていた。
荀彧からの報告によれば、陶謙は自軍の兵糧は自軍で輸送していたらしい。
さらには、州牧という役からなる大軍を巧く指揮することによって、董卓軍の攻勢を被害を最小限にして繰り抜けたとのことであった。
対して、孫策からはそんな余裕のような印象は抱けない。
様々な方面へ迷走する軍議に興味無く退屈だとでもいうように振舞ってはいるものの、その視線に映る中身はギラリと表現できるほどに鋭い。
孫策は、江東の虎として名を馳せた孫文台の娘であるが、母親が死んだどさくさに紛れて暗躍した袁術の手によって、現在はその客将という立場になっている――客将と言えば聞こえはいいが、実際にはその麾下という扱いで、扱き使われているといった方が正しいのだが。
猿が龍を飼っているのか、と溜息をついたことを今でも覚えている。
そんな立場にあって多くの兵を集めることが出来なかった孫策は、他の軍と同じように兵糧の大半を袁術に任せていたらしいのだが、それが仇となった形か。
荀彧からあがっていた袁術が被った被害を思い出し、曹操は英傑とも呼べる人材の不遇を憂いた。
そんなこともあって、誰が味方で敵なのか、孫策がそれを判別しようとしているのが理解出来た。
「……とはいえ、このままだと本当に誰が味方なんて分からなくなるわね」
そして、それを同じように理解しているのか、張莫が呟いた言葉に曹操も頷く。
追撃を主張する者、罠を恐れる者、状況把握を一にしようとする者、汜水関を諦め別策を取ろうとする者。
その他にも様々な意見が目の前で放たれていくが、そのどれもが実現は難しくないものの、酷くあやふやであった。
何しろ、連合軍が先手を取って主動しているわけでなく、董卓軍の先手で戦況が動いているのである。
汜水関を巡る攻防における、董卓軍先導による策略によっての連合軍の後退。
そして、優勢でありながらも汜水関を放棄したその行動。
現状、董卓軍がどういった目的を持って動きを成しているのか不明な以上、安易な策に頼ることは避けねばならないのである。
だが、連合軍の指針は纏まらない。
「ふう……何にしろ、ここで意見を纏めなければいけないことは事実。多少不味くとも動く場面かしらね?」
「そう、ね……。……麗羽、少しいいかしら?」
「な、なんですの、華琳さんっ? 何か良い案でも――」
しかし。
今こうして時間を浪費している間にも、董卓軍は虎牢関へと戻りその防備を調えていることだろう。
もしやすれば、このような連合軍の様相に高笑いしながら、今か今かと奇襲の準備を進めているかもしれないのだ。
となれば、どれだけの損害が出るかは分からないにしろ、早急に連合軍としての策略を固めなければならない。
必要とあれば、洛陽を諦める訳ではないにしろ、一度陳留付近まで後退することも視野に入れなければならないのだ。
袁紹自身もそう思っていたのか、それとも先の見えぬほどに曲がり始めていた軍議に焦っていたのかは知れないが、そんな曹操の言葉をこれ幸いとばかりに取り上げようとした。
「も、申し上げますッ。兵の一人がこのようなものを持って参りましたが……」
だが。
それも、唐突に軍議の間にへと入り込んできた兵によって遮られることとなる。
その兵が手に持つモノ――紙を結び付けられた矢文に、諸侯達の意識は集められることとなった。
**
「……追撃してきませぬな」
幾重にも重なる馬と人が大地を駆ける音に混じらせながら、ぽつりと趙雲が呟くのを俺は耳に入れていた。
駆けていく――虎牢関へと駆ける兵達から少し離れた彼女の横へと馬を進めた俺は、その視線の先へと同じように視線を飛ばす。
「汜水関を空けていることはそろそろ連合軍も確認している頃でしょうけど、初めに罠があったからそれを疑っているのでしょう」
「なるほど。こちらの意図も分からぬままに攻めるのは危険、と……?」
「恐らくは」
汜水関からの撤退。
城門すらも開け放って行われたそれは、董卓軍からすれば当初からの予定ではあったものの、突如としてそれを突きつけられた連合軍からすれば十分に困惑するものであったことだろう。
何しろ、汜水関を巡っての攻防、その第一戦とも言える戦いは董卓軍勝利と言っても間違いではないものであったのだ。
散々に連合軍を混乱させ、消耗させたとあっては、堅城とされる汜水関においての籠城は十分に勝機を掴めるものであるのだ。
だが。
汜水関での籠城をさらに固くするであろうと予測していた董卓軍の、突然の汜水関からの撤退。
先の戦いで連合軍が勝利したとは到底思えない連合軍からしてみれば、こちらの意図を掴むことは難しいことだろう。
ともすれば、それは緒戦を――そこに施された罠によって被った、手痛い被害を思い出すものかもしれない。
となれば、如何に汜水関を被害無く通れる状況にあろうとも、董卓軍の意図も分からず、再び罠が待ち構えているかもしれないとあっては、連合軍の動きが鈍くなるのも致し方のないことであった。
「今頃は、こちらの意図を推測する軍議でも開いている頃か……」
「或いは、責任の押し付け合いか、出来るだけ自分の被害を抑えようと腹の探り合いか……まあ、どちらにしてもすぐには追撃の手は来ないでしょう」
「ふむ……これは予想されていたことですかな?」
そんな趙雲の問いかけに、俺は肩を竦めるにとどめる。
この連合軍の動きを予想、或いは予測していなかったと言えば嘘になるが、それでも、ここまで予想の通りに動くとは思いもしなかった。
ともすれば、殿として虎牢関へと駆ける董卓軍の最後尾に当たる自身と趙雲が、もう一働きをせねばいけないかもしれない、と覚悟していたぐらいなのだ。
緒戦のことを思い出せば、そういった血気に盛る将が突出するやもしれないと思っていたのだが、どうにも肩すかしを受けた気分であった。
撤退戦などを経験したことが無い俺にとっては想像し難いものであるが、郭嘉曰く、撤退戦というのは非常に困難であるらしい。
著しい士気の低下、物資の運搬による速度の低下、そして何よりも退きながら戦うということがどれだけ大変なことなのかは、洛陽にいた時から――もっと言えば、この策を思いついた時から言われ続けたことであった。
そのため、出来るだけ難易度を上げる要素は減らすべきだとして、先の罠においては使い捨て出来る陣地を構築した余りの木材で槍を造ったり、一応の勝利を収めたその時に撤退したり、追撃を防ぐためにと罠があるかのように汜水関を空けたり、と様々な手段を講じたのだ。
賈駆に陳宮、程昱に郭嘉というずば抜けた知略の持ち主達が手と口を貸してくれたからこそ、今ここまで問題無く事が進んでいるのだと思うと、感謝してもしきれないものである。
とはいえ、ここで感謝をしているだけでは先に進まない。
そう思った俺は、口を開いた。
「……このまま行けば、どれぐらいに着きますかね?」
「虎牢関にですか? そうですな……まあ、予定の明朝よりは少しばかり遅くなるぐらいかと」
「そうですか……よし、なら少し急ぎましょう。今は追撃が無いにしても、いつ来るか分からないですから。出来るだけ距離を稼いでおきたい」
「ふむ……そうですな。では、私は牛輔殿を急かしてくるとまいりましょうか」
「はい、頼みます、子龍殿」
任されましょうぞ。
そう言ってニヤリと笑った趙雲が馬を駆けさせて兵の向こうへと消えたのを見送って、俺は再び汜水関がある方角へと視線を向ける。
夜という闇の中にあって、先ほどまでうっすらとその輪郭が確認出来ていた汜水関は、もはや完全に闇の中へと埋まっていた。
連合軍が汜水関を一時的にも占拠して人と火でも入れば少しは違う――もっといえば、闇の中にいるこちらからが一方的にその動きを知ることが出来たのだが、そうは問屋が卸さないらしい。
やっぱりそれぐらいには頭が回る人物がいるか、と俺は一人納得していた。
まあ、あの曹操とか孫策辺りなら普通に気づきそうではあるのだがそれは黙ったままにしておいた。
もし全て気づいて行動していたら、と考えると少し怖い。
「……ま、まあ、あまり気にしないようにしよう、うん。いくら曹操殿と孫策殿とはいえ、まさか連合軍を放って動くことも無いと思うし……」
連合軍が連合軍として行動している以上、それを構築する軍の一画である曹操と孫策は独断で軍を動かすことは出来ない筈なのだが、どうにも自分の中にある彼女達の像はそれを容易に納得させてくれない。
というか、である。
兵は拙速を尊ぶ、全軍進め。
んー、何となくだけど今進んでおかないと駄目かな、と思って。
そう兵に指示を下していそうな二人は容易に想像出来るものだから、どうしても不安は膨らんでいくばかりであった。
うう、考えただけで胃がきりきりする。
「……まあ、簡単に動くことが出来ないように楔は打った――いや、この場合は射った訳だし、そう連合軍自体がすぐに動ける筈も無いだろうし……とりあえずは大丈夫だと思うけど」
とはいえ。
俺が今ここで不安がっても、状況が動くはずもない。
ならば今俺に出来ることは、少しでも連合軍が考える先のことを考えて策を考えることである、としてその策へと思考を巡らせていく。
罠。
火計。
奇襲。
空城の計。
そして、火計と奇襲の混乱の最中に放った数十の矢文。
そこまで確認して、俺は言葉に出すことなく一つ頷く。
条件は全て揃った。
後は連合軍が――その中に蠢く私利私欲が動き出すのを待つばかりである。
**
「……これは一体どういうことかしら?」
「ひぅっ?!」
自身の横で孫策が声も小さく――その実溢れんばかりの殺気を漲らせながらそう呟くのを冷静に聞き取りながら、周喩は先ほどまでの軍議の流れに自分達に非は無いという結論を自身に打ち出した。
そもそも、つい先ほどまで目の前で推移していた軍議の内容はどう董卓軍に対するか――簡潔に言えば、自分が自分がといった私利私欲の投げかけあいであったのだ。
それが何を思えばなのか、一人の兵が持ってきた一本の矢がその状況を一変させた。
否、その矢に結ばれていた文であろう一片の紙が、であったか。
それに何かが書かれているのだろうということは、血相を変えていた兵の顔を見れば即座に理解出来た。
名立たる諸侯達における軍議に割り込まなければいけないほどの内容であれば、それも当然のことであろう。
もっとも、その書かれている内容を知らない周喩からすれば、そういった兵の動きなど気にする必要もなかった――その文に書かれている内容が、自らの懐に入れている文と同じ内容ならばその限りではないのだが。
気づかれぬように懐にある一紙を確認した周喩は、ちらりと周囲を――自らと孫策を取り囲む兵達をも確認したのであった。
「……一体どういうことかと聞いているの、袁紹殿。一体いかなる理由があって、兵をけしかけ我らを取り囲むのか。それを聞いているのだけれど?」
「ひっ……り、理由、理由ですわね……えと……それは、ですわね……」
十と少しぐらいか。
顔と視線に出さぬままに周囲に展開する兵を数えた周喩は、孫策の殺気に怯える袁紹から視線を外す。
いきなりの袁紹の命令に――文を読んだ途端に天幕の内と外に控えていた兵に声をかけて孫策と自分を取り囲ませたという状況に、多くの諸侯が狼狽していた。
その状況だけでみれば、恐らくではあるが袁紹が読んだ文と自分の懐にある文は同じ内容であるのだろう。
孫策の殺気に震えながらもこちらを見やる袁紹に、それが確信へと変わっていた。
それと同時に、ふと疑問も生じる。
多くの諸侯が狼狽している、とは言ったが、それに漏れた少数の諸侯はただ成り行きを見守っているのだ。
自身とは関係が無い、としているのだとしたらそれも当然ではあるかもしれないのだが、その表情からするにそれは違うであろう。
となると、どういった意図があって、ということになるのだが。
ある種の推測によって――孫策から言えば直感に当たる部分で、周喩は確信していた。
彼らも、自分の懐にあるモノと同じものを持っているのだ、と。
「ッ!? 孫伯符殿に告げる、予てよりの約定通りに、連合軍全軍を引き付けている間にこれを後方より襲撃せよ、だと……これは……」
「き、貴様らッ、これは明確な謀反ではないかッ!?」
そして。
袁紹が取り落とした文を読んだ諸侯の口から語られたその内容に、周喩は自らの懐にあるモノ――文と全く同じ内容であると認識することとなる。
それと同時に、先ほどの直感を信じるのであれば、それと同じ文が少なくとも幾つかは存在することにも気付くこととなり。
ここに至って、嵌められた、と周喩は気付くが時既に遅い。
周喩は誰に気付かれるでもなく呟いていた。
連合軍内における意識の散逸――これが目的か、と。
**
「罠と火計と奇襲で散々に警戒心やら気勢やらを掻き乱しておいて、その実、通じているかのような文をわざと見つけさせることによって内部から攻めるか……中々にやるわね、董卓軍も」
「華琳、そんなに嬉しそうにしないでちょうだいよ……」
目の前で繰り広げられる騒動――孫策と董卓が通じていたとされる文の発見による孫策摘発を視界に入れながら、思わず呟いた言葉に張莫が苦言を零すが、曹操はそれを耳に入れようとすることなく思考を働かせていく。
思わずゾクリと背筋が震えた。
自らの懐には、先ほど読み上げられた内容と一字一句間違いのないことが書かれている文がある。
汜水関から後退した後に、自軍の兵が拾ったということで持ってきたものであったが、初め目にした時は驚きこそすれ、声高に孫策を攻めるつもりもなかった。
通常、内通を示す文というのは直に取り合うものである。
何よりも他者に――もっと言えば、裏切る予定である味方に見つからないようにするため、というのが一番の理由ではあるが、そこから考えればわざわざ他者に見つかる可能性のある矢文で指示を下す、といったことは余りにも不自然であったのだ。
となってくれば、これが董卓軍の策略だということは即座に看破出来た。
少なくとも、もし孫策が事実董卓と通じていたとしても、この情報があるだけでそれに対応することは容易になったし、何事も無く黙ったままにしていても孫策に対して恩が売れた。
故に、この軍議では――これから董卓軍に対してどういった戦略をとるべきか、それを話し合うこの場ではさほど気にするものでもないとばかりに思っていたのだが。
まさか、このような手に――わざと内通の文を見つけさせることで連合軍内に疑心を植え付けるとは、予想だにしていなかったのである。
「周喩の顔を見るに、どうやらそういった文があることは知っていたようね……いえ、持っている、と言った方が正しいか」
「私が今ここに持っているもの、そこにあるもの、周喩が持っているもの……少なくとも、十から数十はありそうね。今この場に無くとも、多くの兵が目にしているでしょうし」
「将だけでなく、兵からも突き崩すか……董卓軍の指揮官は中々に強かなようね」
自身の持つもの、軍議の議題を変えてしまったもの、周喩が持っているであろうもの。
その数だけならば三つであるが、あの混乱の中に得たものでこれだけあるのならば、恐らく全部で数十ほどは放たれていることだろう。
そして、もしそれだけの数が放たれているのだとしたら、それはここにいる将だけでなく、一般の兵までもが目にしている可能性も考えられることで。
将が目にしただけでこれである、もし兵が目にしたことを考えれば、個々の兵が――もっと大きく言えば、その兵が所属する軍同士での諍いが起こる可能性も考えられるものであった。
さらに言えば、孫策はあの混乱の最中、いの一番に後退を開始していた。
それまでの動きを見ていた感じでは、恐らくは事前に読んでいたか何かを嗅ぎ取っての行動であったのだろうが、今はその行動こそが文の内容を決定づけるものとなってしまっていた。
「まさか……読んでいた?」
「いえ……恐らくだけれど、名前を入れるだけのものを用意していたのではないかしら。そして、汜水関に近いとこまでに動く将の中で、そういった動きを取りそうな者の名を書いておいて、一番に後退し始めた将の名を書いていた文を放った……こう考えれば、問題なくいけるわ」
「……それはつまり?」
「ええ……私達の名が書かれていたとしてもおかしくはなかった、ということね……」
その事実を口にして、曹操は再びゾクリと背筋を震わせる。
自らもがその策に翻弄されかけていたという事実、相手の掌の上で転がされていたという事実は、常であれば怒りへと動くものであったかもしれない。
だが、今は違う。
怒りよりも何よりも、自らを手玉に取り、そして二十万もの大軍をも翻弄させるだけの智を持つ者が董卓軍にいる。
自身の能力を全て使ってでないと勝てないであろう董卓軍という存在に、曹操は知らず口端を歪めていた。
「あらあら、本当に嬉しそうな顔しちゃってまあ……それほどの相手?」
「ええ、それほどの相手でしょうね……この連合軍では荷が重いぐらいに」
「そう……なら――」
「――ええ……連合軍はこれ以上進めないわね。士気、兵糧、気勢の低下に加え、将兵同士に疑心が生じてしまえば、二十万という大軍は足の引っ張り合いをする上でこそ優位に働けども、董卓軍を相手にして優位に働くことは有り得ないわ」
「唯一の有利だった二十万が不利に働くんだったら、そりゃ勝てるわけないわね……連合軍という意識の多さが仇になった、か……」
連合軍という状況において、利はその参加する軍勢における大兵力と指揮する将の多さにおける多方面行軍である。
例えば、これが洛陽を南から、北から、東から目指して攻め上がるのであれば、兵数でも将の数においても劣る董卓軍は、対抗の手段は限られてくる。
攻めて引いてを繰り返せば、数に劣る董卓軍はほぼ全力で戦わねばならず、主力が疲労した時を見計らって連合軍全軍で攻めれば勝利を収めることが出来たであろう。
だが、今回のような状況であればその限りではない。
二十万という数でこそ董卓軍を大きく圧倒するものではあるが、それも谷と呼べるところにある汜水関と虎牢関を攻略するために展開するには、些か狭いのである。
となってくると、数多い将が一地点に集うこととなり、それは結果として連合軍の中に思考なり心理なりが増えることとなったのである。
そして、それが連合軍の不利とも弱点とも言えるものであった。
「考える数が多ければ、思考も意識も心理も定まらないのが当然のこと。対して、向こうは事前にそれを考慮に入れて策を考えていた……勝てないのも無理はないわね」
「数十の心理対一の心理……まさしく心理戦、か」
心理戦。
その張莫の言葉に、曹操は言い得て妙だ、と思う。
こちらの心理を乱し策に嵌めようとした董卓軍と、それに見事に嵌り連合軍としての心理を乱されて、あまつさえその内部で足の引っ張り合いと責任の押し付け合いをしようとする反董卓連合軍。
なるほど、こうして考えてみれば確かに心理戦という言葉はよく通じていた。
「まあ、この戦いは連合軍の負けね……最初から最後まで董卓軍の手を読み切れなかったのだから」
「ええ……もっとも、麗羽を含め多くの諸侯がそれを認めるかどうかは分からないけどね。実の被害からしても、兵糧の大半を失っただけで二十万もの兵力は顕在な訳だし」
「兵糧の大半を失っただけでも結構な被害だと思うんだけどねぇ……まあいいわ、その辺は。……それで、これからどうする?」
「そうね……」
そして、その心理戦は――董卓軍と反董卓連合軍の戦いは、反董卓連合軍の敗北で終結することだろう。
敗北まではいかないにしても、勝利を収めることが出来ず、結局のところは内部からの崩壊で解散になることは目に見えていた。
決起人である袁紹や、董卓の地位を求める我欲に塗れた諸侯などはそれでも戦うかもしれないが、ここまでした董卓軍のことだ、恐らくはそれに対する手段も用意していることだろう。
今回の心理戦ほどに大がかりな策は人材的にも時間的にも難しいであろうから、それらに抗することは容易いであろうが、こういった状況になってしまえば、外からではなく内から攻められることも考慮に入れなければならない。
ともなれば、取るべき手段など自然に限られていた。
「ここで話すことではないから、陣に戻って桂花を交えて話をしましょう……まあ、恐らくは撤退ということになるでしょうけど」
「あー……まあ、そうなるわよね。……うん、よし。そうと決まれば、とりあえずはこの場をどうにかして、さっさと戻るとしましょうか」
そうして。
ちょっといいかしら麗羽、と口を開いた張莫の傍で、曹操は顎に手をやる。
董卓軍の指揮官は恐らく北郷だろう。
緒戦における囮の役割によって、彼が汜水関にいるであろうことは想像に難くない。
さらには、神速将軍と謳われる張遼や董卓軍最強の部隊を率いる華雄の旗こそあれど、覚えのない『十』の旗が指揮官と表すが如くそれらの中央で風にたなびいていたことからも、北郷という名が出始めた頃と合わせて考えてみれば彼のものであると容易に想像出来る。
洛陽で少しばかり顔を合わせたほどであったが、彼だけでこれだけの策を考えたことは無いだろうと思う。
天の御遣い、天将という呼び名こそあれど、そこまで優秀そうな人物には見えなかったことから、恐らくよほどの智者が手と智恵を貸したのであろう。
だが、それでもなお北郷がその策の本筋を考えついたのではないか――曹操は自然にそれを理解していた。
何故だかは分からぬが、そう思うことこそが自然であるとする自らの心理に戸惑いながら、曹操は一度頭を振って、これらか自らが取るべき道のことについて、思考を働かせたのであった。