「オオオオォォォォッ!」
「ふむ……何と力強い声のことか。……ただ、もう少し雅やかにはならんものか」
それは勝利の歓喜からくる雄叫びか、或いは次戦に備えて自らを奮い立たせる声か。
そのどちらでも無い――しかしてどちら共とも言える歓声に包まれる汜水関の中を、趙雲は歩いていた。
結果だけで言えば、連合軍は後退した。
火計と二度の奇襲によって散々に陣形と連携を乱され、さらには軍を維持する上でも重要な事項である兵糧の大部分を焼失した連合軍は、趙雲率いる第二波の奇襲部隊に呼応して動き出した汜水関からの董卓軍によって挟撃されることを恐れ後退した。
二度の奇襲の直撃を受けた袁紹や、火計奇襲といった事変に迅速に対処し始めた孫策に置いてけぼりを食う形だった袁術らの軍が連合軍の動きを阻害したために、その被害はこちらが当初予定していたよりも甚大であった、と郭嘉が話していたことを思い出す。
数多の将兵を討ち取り、多くの兵糧を焼失させ、その陣形を乱して多大な戦果を挙げた。
なるほど、これが常と変わらぬ普通の戦であったならば、この戦いが既に終結してもおかしくはない戦果である。
郭嘉が言うこともあながち間違いではない、と趙雲は思う。
だが。
「それだけで勝てるのなら苦労はせぬ、か……もっとも、二倍以上の兵力差があるのだから仕方のないことなのかもしれんがな」
二十万対七万、その兵力差を思い出して趙雲は知らず眉間に皺を寄せる。
元々汜水関に籠もっていた兵力は四万、そこに張遼が率いた奇襲部隊五千と趙雲が率いた五千が加わって現在は五万にまで膨れあがっている。
いくら二十万の連合軍とはいえ、少なからずの打撃を受け兵糧を焼失した状態であっては、これを打ち崩すことなど到底不可能である――普通ならば、そう考えるものだ。
「だが……兵糧を失った連合軍がここを落とすためにどれほど躍起になるか。こればかりは、私では容易に想像出来んな……」
軍を維持するために、兵糧は必要不可欠なものである。
それは、兵を食わしていくために必要なものであるし、兵の士気を鼓舞したり、報酬にと与えるためにも必要であった。
後のことを考えれば戦によって得た地への補償とも使える兵糧ではあるが、それを焼失させたということは、言うなれば軍の時間的余裕ともいえるものを削り取ったとうことであった。
「……となれば、次に来るのは……」
力攻めか、しかも極端なほどの。
そう口の中だけで呟いた趙雲は、ぶるりと背筋を振るわせる。
兵糧の損失を補うために、連合軍二十万その全てにおいて汜水関を力攻めし出陣にかかる期間を短縮する。
汜水関の城壁、そしてその眼下に夥しいほどの人が群がるであろうその光景に、趙雲は肌の上を虫が這うような感覚を抱きながら腕を掻いた。
「ふふ……はてさて、あの御仁は一体いかがされるのやら。痛撃を与えた今であれば、多少警戒されてはいようが更なる打撃を与えることも可能だが……ふむ、しかし夜襲の指示も無しであるし……」
「……お、おい」
時は既に、陽が傾き景色を紅く染め上げていく頃である。
汜水関の城壁の上や兵が集う場所には篝火が既に焚かれており、いつ連合軍が攻めてきても迎え撃てると表示しているかのようでもあった。
となれば安心して眠ることも出来そうだが、それでは面白くないと趙雲は思う。
どうせならば、連合軍の混乱に乗じて更なる打撃を、とも思うのだが、しかし、現状において北郷預かりの客将であるのならその指示が無ければ好きに動くこともままならない。
「さて……となれば、一刀殿の元にでも訪れてみるか。稟や風とも話をしてみれば、どういった考えなのかも分かるであろうし」
「おい……ちょ、趙雲ッ!」
ならば、北郷から指示をもらうか。
北郷のことはよく分からないが、趙雲が知る程昱と郭嘉ならばこのぐらいのことは既に考察済みであろう。
その彼女らが何の指示をも出さないのであるならばそれは現状がそこまでのものではない、と趙雲に思わせるものであったが、まあ、かといってこちらが勝手に動く分にはさしたる問題があるわけでもないだろう。
とりあえずは程昱と郭嘉と話をする、それが不可であった場合は北郷でも――酒でも持って――尋ねてみるか。
そうした思考を中断して、酒と共に楽しめる肴でも探しに行こうかとした趙雲の耳に、自らの名を呼ぶ声が飛び込んできたのである。
「む……おお、華雄殿か。如何なされた?」
「う、む……その、だな……済まないが、聞きたいことがあってだな……」
声に反応して振り向いた先に、その声の人物――華雄を見つけた趙雲であったが、その後に続いた言葉にふと違和感を覚えた。
それほど話をした間柄でもないが、常の華雄は威風も堂々に胸を張っていた。
今回の戦いにおいて失態をおかした、というのは耳にしていたが、それでも、その沙汰が出るまではこれまた堂々と言わんばかりに待っているものと思っていたのだが。
その人目をはばかるように影から趙雲に話しかける姿に、そのような欠片は微塵も無かった。
かといって、罰せられることを恐れているふうでもない。
どことなく狼狽しているような、それでいて気恥ずかしそうに振る舞う華雄に、趙雲はぴくりと違和感とは違う何かを感じていた。
「はてさて……では、聞きたいこととは何ですかな?」
「う……その、ええっと……」
その感じた何かを信じるままに――良い肴になりそうだという直感を信じた趙雲は、華雄が尋ねようとした内容について問いただす。
恐らくは先の戦いについてのことか。
汜水関前の攻防戦において退くと偽装した連合軍の釣り出しに合い、劉備軍の関羽によって華雄は討ち取られる寸前であったと聞く。
間一髪で北郷が助けたとは聞くが、恐らくはその礼に関してというところだろう。
ただ、もしそうだとしても何故礼をするだけでそこまでに気恥ずかしそうになるのだろうか。
その疑問を頭に浮かべた趙雲であったが、次いで放たれた華雄の言葉になるほどと納得した。
「わ、私は北郷に助けられたのだが、な……その礼に、真名を預けたいと思ってるんだ……。だが、命を助けられたという礼に真名一つで良いものなのかどうかと思って……」
要するに。
関羽に討たれそうなところを北郷に助けてもらい、その礼に真名を預けようと思っているが、北郷自身の命をも危険にさらしてしまったことを考えてそれだけで足りるのだろうか、と華雄は悩んでいるようであった。
華雄のような人間が自らの失態を認め、そしてそのことに関しての助言を求めるなど到底認められることではないのだろうが、それでもなお助言を聞こうとする姿勢に好感が持てた。
であるからこそ、趙雲は華雄の問いかけにふむ、と真面目に考えてみた。
結果として。
まああの北郷ならばそれで良い、と言いそうな気もするという答えに落ち着くのだが。
しかして、それだけでは実に面白くな――いや、華雄への答えには不足であろう。
ふむ、と腕を組んで華雄を見てみれば、いやはや中々にして可愛らしい。
いつもの覇気はなりを潜めており、見る者からすれば可憐な乙女とも言えるほどであろう。
となれば。
ニヤリ、と口端に表すことなく嗤った趙雲は、自らが考え出した最高の肴――いや、華雄から北郷へ出来る最高の礼を、誰に聞こえるでもなく華雄の耳元で囁いたのであった。
**
「――それじゃあ、当初の予定通りということで」
「そうですね……それが一番良いでしょうね。では、すぐに動かなければならないので、私は指示を出してきましょう。先に失礼します」
「はい、頼みます、奉孝殿。持ち運びが難しそうなものは置いていくことも視野に入れて頂いても構いませんので……えと、その辺は奉孝殿にお任せします」
「お任せですか……分かりました、その辺は適当にしてみることにします。……では」
ふむ、と腕を組んでいた郭嘉が眼鏡を光らせながら退出していったのを確認しながら、俺はふうと一つ息を吐いて椅子に深くもたれかかる。
汜水関での戦いにおける一つの区切りがついたことと、色々と当初の予定とは違うことがあったにせよ、ここまでに策を進められたことに対する安堵からであった。
ゆらゆらと揺らめく灯りの炎を見つめてボーとしているとそのまま眠りにつきたくなる衝動にかられるが、とりあえずはその衝動をこれから行うことが一段落付くまでは、と心の奥底へと仕舞い込んだ。
「さて……それじゃあ、俺達も準備をしようか?」
「そうですねー……風達は持ってきているものも少ないのでそれほど大変ではありませんが、兵の人達はそういう訳にもいかないですしー。星ちゃんを探すついでに、風も稟ちゃんを手伝ってきますよー」
「ん……何で子龍殿を?」
「いやー、星ちゃん洛陽に着いてからあちこちに動いていたからですね、これからのことは話してなかったりするのですよー」
「……ええぇっ?!」
だが。
段々と眠たげになっていた意識は、程昱の言葉で途端に覚醒することとなった。
これからのことを――汜水関での戦いにおける一つの区切りがついたこと、そしてそこに至るまでに散らした数々の策を一気に発動させるための策を行うことを、趙雲に話していないとい内容に何故、とも思うのだが。
そういえば、とふと思い当たるものがあって、俺はがっくりと肩の力を抜いた。
「あー……そういえば、最近忙しそうだったもんな」
「おや、お兄さんは気付いていたので?」
「あれに気付かない方が凄いと思うんだよ、俺は」
華蝶仮面。
最近洛陽の街を沸き立たせる人物で、華のように美しく、蝶のように舞う、美と正義の使者の名――であるらしい。
俺が考案した警備隊による治安維持によってある程度の治安が守られているとはいえ、やはりそこは人の営みと言うべきか、多くの人々が暮らすだけに大小様々な喧噪は日々生まれる。
警備隊が警邏するとはいえ、その全てに対処するのも難しく、場所によっては後日になると思われるのもあったりすれば、その対策を早急に考えねばならない――そんな時に、華蝶仮面の名は洛陽の街に広がり始めたのである。
だが、それは俺にとって懸念するべき事項であった。
何しろ、正義の使者にしろ何にしろ、街を騒がせる人物であることには変わりない。
もしやすれば、正義を名乗って人々の信頼を得つつ裏では、という可能性すら否定出来ないのだ。
ともなれば、その人となりを確認して、最悪の場合には罰せねばならない。
そうして華蝶仮面に会うためにと警邏に参加していた俺の元へ、華蝶仮面現るとの報が入る。
そして、その現場へと向かった先にいたのは、戟を振り回す華雄と、その一撃一撃を華やかに舞って避ける華蝶仮面――蝶の趣向を凝らした仮面を付けた、趙雲その人であったのである。
「あー……本当ならそこは厳しくいかなきゃいけないんだろうけど、今は時間が惜しいことだし……仕方ない、また今度確認するからとりあえずは早く伝えておいてくれ、風」
「了解ですよー」
「何か説明するようなことがあれば、部屋を訪ねてもらっても構わないから。……それじゃ、先に失礼するよ」
問い質してみても趙雲は認めようとしないし、更には華雄やらその他諸々の人達が全くと言っていいほどに華蝶仮面は趙雲である、と理解しないために、趙雲自身もばれていないと思っているらしい。
猪突気味な武人の人達が顕著だろうか、などと考えてはみるものの、まあ趙雲自身のことは俺も知っていることだし、未だよく知る仲では無いにしろ悪い人物でも無いだろうし、と俺はとりあえずに思考をそこで遮って、自身の荷物を纏めるためにと程昱に手を振りながらその場を退出していったのである。
「さて……と言っても、俺も何にも持ってきてないからなあ」
そうして。
宛がわれていた自室へと帰ってきた俺は、ぐるりと部屋を見渡して一つ息を吐く。
元々用意されていた机に椅子、寝台の他には特に何かが置いてあるわけでもなく、それ以外に置いてあるものといえば、郭嘉達との軍議の前にと置いていった剣と盾、そして数枚の着替えが机の上にあるだけだった。
見事に何も無いな、と苦笑した俺は、さてどうするかと腕を組んで――そんな時に、控えめにコンコンと扉が叩かれる音を聞いたのであった。
「はい? 誰ですか?」
「……」
早速程昱が来たか。
そう思いつつもとりあえずはと口を開いた俺の問いは、しかして無言で返されることとなる。
はて、と首を傾げつつ名乗りを待つが、それでも続く沈黙を訝しんで机に近づいて剣と盾を即座に掴めるようにした。
まさか連合軍の刺客か。
その可能性は低いであろうと思っていたものであったが、それでも絶対無いとは言い切れない類のものである。
こちらが常に先手を取る形で推し進めていったあの状況の中で、汜水関に退く董卓軍に紛れ込んで将兵を討とうとする人物が扉の向こうにいるのであれば、もしやすればこちらがこれから取る策を知られている場合もあるかもしれない。
そう思った俺は、音に出さずに剣を握ろうとして――
「……そ、その、北郷……か?」
――扉の向こう、声が小さいのかやや聞き取りにくく、そして少し緊張したかのような華雄の声に俺は息を吐いていた。
「葉由殿、ですか?」
「う、うむッ……その、入っても……いい、か?」
霊の正体見やり枯れ柳、というわけでもないが、些か緊張していたのが馬鹿らしくなる己の勘違いに、知らず顔が熱くなるのを頭を振ってどうにか冷やす。
こちらの緊張が伝わったのか、どこか固い華雄の声に申し訳無いと感じつつ、俺はその扉を開けた。
「すみません、気付かなくて。どうぞお入り下さい、葉由殿」
「……う……」
「……葉由殿?」
あー本当に緊張とか馬鹿らしい、と気恥ずかしさを感じつつ扉を開けた先には、やはりというか華雄が立っていた――立ってはいたのだが。
縮こまるように少しだけ身を屈めた彼女は、俺の言葉を聞くや否や、はっと顔を上げたかと思うとそのまま萎縮するように再び縮こまってしまったのだ。
はて、と首を傾げて華雄と視線を合わせようにも、こちらと視線が合った途端に逸らされて、かと思えばちらちらと上目遣いでこちらを窺う彼女に、今いち何が何だか分からない状態であった。
「……ほ、北郷ッ!」
「え――って、んむぅッ?!」
とはいえ、何かしらの用事があって訪ねてきたことには変わりはないのだろう。
そう思った俺は、とりあえずは部屋に上がってくださいと口を――開こうとして、その唇が急に柔らかい感触と共に塞がれたことに気付いたのである。
そうして。
半ば飛びかかるように顔を近づけた華雄の反動からか、押し倒される形で床へと転がった俺の目の前に彼女の顔と何かを決意したような、それでいてとてつもなく恥ずかしそうなその視線によって、俺は現状を理解することが出来たのである。
すなわち。
華雄自身の唇によって唇を塞がれながら、彼女に押し倒されたのだ、ということであった。
**
「おや……星ちゃん、こんなとこにいたのですかー」
「ん……おお、風か。どうした、何か私に用でもあったのか?」
「まあ、そんなとこなのですがー……一つ聞きたいんですけど星ちゃん、その手に持っているものは?」
「うむ、持ってきていた酒を少しな」
酒が満たされているであろう壷を、ちゃぽん、と微かな水音と共に掲げた趙雲に、程昱は知らず漏れでそうになる息を押し殺す。
元々伝え切れていなかった自分の落ち度から来ているとはいえ、ここまで予測通りに動いていた趙雲にじと目の視線を送ってはみるが、不思議そうに首を傾げる彼女に仕方ないとばかりに苦笑していた。
まあ、それでも酒を楽しむ時間などは無いのだ、と趙雲に説明しようとしていた程昱は、ふと違和感に気づく。
「そういえば、星ちゃん……いつものあれは持っていないのですねー?」
「む……おおっ、メンマのことか」
「ったくよ、メンマ好きもここまで来ると病気みたいなもんだぜ。けど不思議だな、星が酒を持っててメンマを持ってないなんてよ?」
宝彗の言う通りだ、とばかりに程昱は首を傾げる。
飯を食べればメンマ、間食にはメンマ、酒の肴にはメンマ、といつでもメンマ尽くしが当然のことである趙雲が、酒を片手にしながらもメンマを持っていないとはどういうことなのか。
ここ汜水関には持ってきていない、という考えが一瞬頭をよぎるが、そんなことは無いと趙雲に知られないようにと頭を振る。
以前趙雲の私物を拝見したことがあったが、そのときに多種多様に分類されたメンマの壷には来るべき出征用というものがあったはずだ。
肴用と布教用がかなりの数だったことが一番印象に残ってはいるが、その事実にも間違いはないはずだった。
となれば持ってきていてもおかしくはないのだが。
そんな程昱の疑問に感づいてか、趙雲はにんまりと口端を歪めながら笑った。
「なに、単に面白――いや、実に良き肴を見つけただけということよ、宝彗」
「ほう……?」
そんな趙雲の笑みに、程昱は何かしらをぴくりと感じ取った――彼女がこんな顔をするのは、本当に面白そうなことが目の前にある時だということを。
それと同時にやっかいなことになった、とも思う。
戦勝したとはいえそれは一時的なものであり、今現在も汜水関より離れた地において連合軍は体勢の立て直しを図っていることだろう。
数に劣る董卓軍において、数に大きく差をつけられている連合軍を相手に勝利を積み重ねていくには、出来うる限り先手を取って有利な状況へと持ち込まなければいけないのだ。
故に、程昱はここでの動き如何によって連合軍との勝敗がつくものと思っているのだが。
今ここでそれを口にしたとこで状況に変わりはないだろう。
そう結論付けた程昱は、それを表に出すことなく口を開いた。
「ではでは、星ちゃんのいう面白いこととは一体何なのですかー?」
「ふむ……まあ、隠すようなことでもない、か……」
だが。
程昱は、その後に続く趙雲の言葉に先ほどの己を――もっと言うのなら、以前の自分を悔いることとなる。
事前にきちんと話をしていたのなら、こんな面倒なことにはならなかったものを、と。
「なに、簡単なことよ。一刀殿に助けられた華雄殿が礼には何が良いか、と問うてきたのでな、殿方に真名と共に礼を尽くすのであれば、文字通り身命を捧げるがよろしかろうと言ったまでのこと。まあ、さすがの華雄殿でもそこまで真面目には取っておらんだろうが、如何様に狼狽するのかを肴に、こちらも楽しませてもらおうと思ったまでよ」
**
「――ということなのだ……し、しかし……その、だな……くっ、本当にこの身体を捧げねば礼にならぬのか……いや、北郷が嫌だというわけでは……」
「……なるほど」
つまり今の状況は――華雄に唇を奪われて押し倒されて挙句、可愛らしく頬を赤く染めるその顔が目の前にあるのは趙雲の仕業か、と俺は華雄の言葉で納得した。
短い付き合いゆえに確信は持てないながらも彼女のことだ、華雄が真面目に受け取ることは無いと思ってその狼狽する様を肴に楽しもうという魂胆であったのだろうが。
そこで真面目に受け取らないような人物なら先の戦いで連合軍の策によって打って出なかったということに気づいて欲しかった、と華雄の言葉を右から左に流しながら俺は切に願っていた。
というか、無理矢理にでも冷静に物事を考えるようにしないと、色々と本気でやばかったりするので、思考をどうにかそちらへと向かわせる。
汜水関から退くときにも感じたことだが、華雄の身体は武人という印象を裏切って意外と軽い。
その身体は引き締まっていながらも筋肉を鍛え上げたような硬さもなく、ふわふわと柔らかいものであった。
そこに女性特有の柔らかさと温もり、そして拭ってなお残る甘い印象を受ける微かな汗の香りに、心臓が高鳴ると共に顔が熱くなるのを感じてしまう。
さらには、生物的危機に瀕した際の種の保存の影響が――ぶっちゃけ本能的なもんもあって、自然と喉が鳴るのを必死で押しとどめながら、いかんいかんと俺は呼吸を深くした。
「……事情は大体分かりました」
「う、うむッ……」
事情は大体分かった、だから落ち着こう。
言葉の外にそう意味を込めてみたものの、よほど緊張しているのか、華雄はそれに気づくことなく落ち着きなく頷く。
その動きのたびに胸部に押し付けられる柔らかい感触や、ほのかに甘い匂いのする熱の篭った吐息に心臓が高鳴って仕方がない。
まあ、押し付けられた身体から伝わる華雄の鼓動の方が早いもんだから、こちらとしては冷静にそれを確認出来るだけ幾分か落ち着いていられるのだが。
それでも、このままでは不味いと――時間的にも本能的にも――と思った俺は、きょろきょろとせわしなく視線を動かす華雄に苦笑しながら口を開いた。
「……強かったですね、関羽は」
「ッ……そう、だな」
「不意を突いた形でなければ、俺は相対すら出来ませんでした……」
「それでもお前は、私を救ってくれたさ……それに引き換え、お前の指示を無視し一人勝手に突き進んだ私がこの様だ……月様に顔向けも出来ぬ」
関羽の話題を出すのはずるいかな、と思いつつも口にしてみれば、案の定というか、それまでの空気はどこへやらというほどに華雄は落ち込んだ。
その変わりように苦笑しつつも、自らも先ほど話題に出した関羽のことを想う。
わざとらしく挑発したためにまともに打ち合うことは無かったが、それでも、感情のままに振るわれたその戟は俺にとって必殺の類であった。
呂布や張遼、徐晃や華雄といった俺の知る中でも最高位に存在するであろう武人達と鍛錬を繰り返してきたとはいえ、やはりというか、俺が関羽と相対するにはあまりにも荷が重いものであったのだ。
こちらの技能に合わせて手加減をしてくれる呂布達とは違う、本気をもってこちらの首を――命を刈り取るためにと振るわれた戟。
ほんの一瞬でさえ判断を間違えたなら即座に剣ごと身体を断っていたであろう一撃を思い出して、俺は先ほどとは違う意味のつばを無意識のままに飲み込んでいた。
戦い勝利を得たことの高揚よりも、死を目前にしていたという恐怖が今更になって身体の奥底からこみ上げてくるが、震えそうになる身体と心を無理矢理に静めこんで、俺は口を開いた。
「……葉由殿はそれでいいんですか?」
「……何だと?」
「一度敗れたからといってそれだけで全てを諦めるのか、と聞いています」
「そんなことあるわけがないだろうッ!」
関羽とは違う、しかして同質であろう怒りにも似た気を眼前から受けながら意識を保つことが出来たのは、関羽のそれによって慣れが生じたからか。
その理由は分からないが、向けられる華雄の視線に応えられるのであれば、今はどうでもよいと思えた。
「だがッ……どうすればいい、私は……将として敗れ、武人としても敗れたのだ……どのような顔で兵に向き合えばいい……どのようにして――」
「……俺は、進み続けました」
「――……なに?」
だが、怒気を発したから、それともそれが蓋となっていたのかは知れないが、俺の胸に顔を埋めるままに言葉を放つ華雄はどこか悲痛で、ともなれば目指す先を見失った迷い子のようでもあった。
自らが目指した先は遥か遠くで、そして自信を持っていた自らの武は義勇軍の将にも及ばないものであって。
その本質と内容こそ違えど、両親の命を犠牲にしてまで生き残っていたと思っていた俺にとって、華雄がそう思うことは理解出来るものであった。
だが。
もしそれを俺が認めてしまえば、実の息子を失ってなお俺と過ごしてくれた祖父や、俺の過去を知ってなお変わらず付き合ってくれた及川を裏切る形となってしまう。
俺を信じてくれた人達を。
俺が信じてきた人達を。
決して裏切ることなど出来やしない――その意思と共に、俺は華雄の瞳をまっすぐに見つめた。
「悲しむこと、苦しむこと、悔やむこと、それらがあってなお進み続けるのだと教えられました。どうすればいいのか分からなくてただ従っただけ、とも言えますが、俺はその言葉を信じて今があります。……葉由殿も、例えどんなに悔やむことがあろうとも、まずは自分に出来ることを探して、そして進んでいくが大切なんだと俺は思います」
「……自分に、出来ること……だと? しかし、だな……今の私に出来ることなど、何も無いだろう? ましてや、敗軍の将などには……」
「なら、また一から武の道を進めばいい。敗れたこと、悔やんだこと、その全てを忘れぬように進んでいって、また武の頂を目指していく……そうして、これまで辿ってきた道を抜くことが出来たのなら、今日敗れたことも決して無駄にはならないでしょう?」
ね?
そう口に出した俺の言葉に、華雄は初めこそ自らを拒否するように言葉を紡いでいたが、徐々に思考が定まってきたのか、ぶれていたその視線が一点へと定まり始めていた。
縋るように俺の服を掴んでいた彼女の手も、徐々に力が解かれたかと思えば、それは自らの拳を握る決意のようになっていって。
目に見えて変わりだしだ華雄に、俺は知らず微笑んでいた。
「……また、戦ってもいいのか?」
「言ったでしょう? 今ここで罰するような余裕も無いし、そもそも俺にそこまでの権限は与えられていませんから。それに、この戦時中において葉由殿のような武人を失うことは手痛いものとなりますからね」
「……また、戦うことが出来るのか?」
「それは葉由殿次第ということになるでしょうが……まあ、俺個人としては武の師がいなくなるのは勘弁願いたいですしね。葉由殿が心折れても目指す頂から手を離さぬのであれば、俺としても出来る限りお手伝いさせていただきますから」
「……この、馬鹿者めが……」
押し倒されたままにおどけたように肩をすくめてみれば、幾分か力が抜けたのか、ごく自然に力の抜けた笑みのままに、華雄は俺の胸へと頭を預けてきた。
体勢は変わらないはずなのに、先ほどの酷く緊張していた時とは違う柔らかくも心地よい重さに、トクントクン、と自然に互いの鼓動が重なっていくのが分かる。
人の温かさと柔らかさ、そしてその鼓動にふと意識が別のところへと飛びそうな俺の耳に華雄の声が入り込んできた。
「…………だ」
「……え? 何か言われましたか?」
「だ、だからッ、その、だな……美麗(みれい)、が、私の真名、だ……」
「へー……可愛らしいですね」
「ぐぅっ……このような女々しい真名は、は、恥ずかしいんだからな……その、人前では呼ぶなよッ! ……華雄、で構わないから」
ぷいっ、と。
いつもの彼女からは考えられないぐらいに赤く染めた表情を逸らした華雄は、ぽつり、と表現するかのように自らの真名をその口から吐き出した。
その様子が本当に恥ずかしそうで、彼女の言葉通りに恥ずかしがっていることが理解出来た。
美しく麗しい、で美麗。
戦場を駆け抜け戟を振るうその姿から見れば実に良く似合っていると思われるのだが、まあ人前では呼ぶなと言う以上はそれに従わねばならないだろう。
「……分かったよ、美麗」
「ふ、ふん……分かればいい」
俺を訪ねたそもそもの理由――助けてもらった礼をする、というのが済んだからか、押し倒されたままの俺が感じるほどに華雄の身体から力が抜けていくのが分かる。
だが、即座に趙雲の言葉を思い出したのか、すぐさまに身体を緊張させて顔を赤らめる華雄に苦笑しながら、それには及ばないと応えていた。
「その、だな……そもそも美麗は子龍殿に騙されたんだよ。俺も色々なことがあってそれなりに真名を預けられているけど、そういった人達は一人もいなかったよ」
「なッ……ほ、本当か、それは……?」
こくり、と頷いてみれば、酷く衝撃を受けたような顔で華雄は見るからに落ち込んでしまう。
騙された、ということよりも、関羽に続いて趙雲にまで口で負けたとでも思っているのか、わなわなと振るえる手と、ぶつぶつと呟かれる言葉にそういった色が見えて俺としては非常に怖いものがある。
一度ならず二度までも、とか、この悔しさ晴らさずでおくべきか、とか。
なんか呪いみたいだ、と内心思いながらも、決して口に出すことはないが一つだけ言っておきたいことがあった。
きっと趙雲には叶わないよ、と。
ともあれ。
華雄が俺の部屋を訪れた理由が判明し、その大半が達成されたとあって、俺は知らず強ばっていた身体から力を抜いた。
戦場のものとは違う、果てなどないほどに緊張していたのか、脱力感が妙に心地良かった。
そうしてくると、既に自然と体重をかけていた華雄の感覚を実に鮮明に感じ取ることになるのだが、ぞくり、と振るえそうになる柔らかい感触を思考から追い出して、俺は口を開いた。
「美麗? その……上からどけてもらえると――」
「一刀ッ、虎牢関行くまでには時間あるやろ、酒でも一緒、に……呑まへん……か?」
だが。
この世は実に無情に出来ているのか、はたまた、これが天命なのか。
助かるんだけど。
そう続けようと口を開けていた俺は、酒を片手に扉を開けた人物――張遼を視界に収めたままに次の句を紡げなかった。
対する張遼も、俺が一人で片付けをしているとでも思っていたのか、床に倒れる俺の上に華雄が大人しく乗っている状況に、矢継ぎ早に紡いだ言葉の語尾が自然と最大級の疑問へと変わっていた。
なるほど、その疑問、とてもよく分かる。
渦中でなければ同じ疑問を抱いていただろうと頷く俺であったが、そんな俺の心境を図っていたかのように、新たな声が部屋へと響いた。
「おやおやー、どうやらおいしいとこには間に合わなかったみたいですねー」
「いやいや、これで十分ではないか、風よ? まさかの私もこのような事態になるとは思いもしなかったが、まあ、一刀殿を巡っての争いとは実に面白――良き肴ではないか」
「……言い直しても意味一緒じゃないですか」
「おおっ、これは失礼した一刀殿……それにしても驚きましたな。そのような状況下で、まだそこまで冷静でいられるとは」
「か、華雄に負けてもうた……」
にやにや、と。
その声だけでそういった表情をしていると分かりそうな声の主達――程昱と趙雲に、俺は知らず溜息をついた。
事態がどんどん悪化していくことへの諦めの溜息だったりするが、そんな俺が面白くないのか、挑発するような趙雲の声も、何故か落ち込む張遼の声に覆われた。
「な……な……何なんだ、貴様等ッ?!」
「お、落ち着いて、美……じゃなくて、葉……でもなくて、えっと、華雄?」
「ッ……う、うむ……か、一刀がそう言うのならば……」
「ふむ……中々意外にも甘い空気だな……」
「そうですねー……」
「ぐぅ……うちも撫でてもらたことないのに……」
張遼、趙雲、程昱という想定外の人物の登場に驚いたのか、俺の上で怒気に似た感情を濃くし始めた華雄に俺は内心慌てる。
もし俺の上――ふと及川が卑猥な言い回しやなと言った気がした――で暴れられでもしたらたまったものではないし、そこで感情的に趙雲達に向かってしまっては付け入る隙を与えるだけだと思ったからだ。
だが、華雄に押し倒されている現状であっては、そんな彼女を押し止める手段が見つからない。
そう思った俺は、華雄の頭へと手を伸ばし、その頭を撫でながら言葉を紡いでみたのだが。
如何せん、趙雲と程昱の反応にそれも墓穴であったか、と悔やんだ。
ちなみに、ぽつりと呟かれた張遼の言葉はよく聞き取れなかった。
「まあ、こんなことしている状況ではないので、お兄さん、そろそろ自重して頂ければー」
「……ああ、まあうん、俺が悪いってことでいいよ、もう……」
「む……このような状況とはどういうことだ、一刀? それに、さきほど文遠が言っていた虎牢関というのは……」
ともあれ。
こんなことをしている場合ではないという程昱の言葉に従って華雄を下ろしたのだが、当の華雄からその場合の説明を求められる。
はて、と首を傾げてみれば、そういえば元々汜水関に籠もる予定ではなかった華雄には伝えていなかったな、と気づいて苦笑した。
「あー……まあ、伝えていなかった俺も悪いんだけどさ……」
「おや、駄目駄目ですねー、お兄さんは」
「いや、風には言われたくないから」
「……ぐう」
「寝るなよッ?!」
そして。
説明を求める華雄に視線を向けた俺は、にやり、と口端を歪めながら口を開いたのであった。
「えっと、な……つまりは――」
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そうして夜半。
汜水関を巡る攻防の初戦での敗退によって、連合軍は対汜水関攻略の策を練り直すこととなった。
這々の体で汜水関から後退した各諸侯達は、自軍の混乱を収めその被害状況を踏まえた上で、その軍議においてこれからの行程を述べるつもりでいたことだろう。
事実、多くの諸侯がそのつもりで連合軍総大将たる袁紹が用意していた大天幕への道を歩いていた。
だが。
「も、申し上げますッ。し、汜水関に籠城していた董卓軍、城壁の上にもどこにも、その姿が確認出来ませんッ! 加え、堅く閉ざされていたその城門が開かれておりますッ!」
夜襲に備え放っていた斥候が持ち帰った一つの報により、諸侯達の目論見は崩れることとなるのである。