「も、申し上げますッ! 張莫、及び、陶謙、両軍とも……後退していきますッ!」
「く、加えて申し上げますッ!? 曹操、孫策の両軍も共に後退すると共に、それを追撃せんと汜水関から董卓軍が打って出てきましたッ! 旗印は『華』……華雄と思われますッ!」
「ふぇっ!? な、何が起きてるの?!」
汜水関攻略。
董卓の悪逆非道に苦しむ洛陽の民を救うためにと集った連合軍において、かの街に進軍するための文字通り最初の関門として聳え立つ汜水関を攻略するためにと軍議が行われた。
その結果による編成によって、汜水関に迫る先鋒は張莫と陶謙の軍勢ということになっていた。
関羽が諸葛亮や庖統から聞いた話では、張莫も陶謙もその配下には武勇に優れる猛将といった人物はいないということであったが、それでも指揮統率に優れた名将はいるということであった。
それを証明するかのような汜水関への接近や攻撃という行動、そして彼の軍の練度は、劉備軍の指揮を取り纏める関羽の身からすれば感嘆に達するものであったのだ。
しかし、である。
感嘆するほどに精強で統率の取れた張莫と陶謙の軍勢は、今現在袁紹が纏める本陣に向けて後退していた。
その様子こそ整然としてはいないが、かといって乱れているというわけでもない。
その張莫と陶謙の軍に巻き込まれる形で共に後退していく曹操と孫策の軍もまるで図っていたかのように、また同様に後退していたのであった。
その光景を見ていた諸葛亮が何かに気づいたようにハッと顔を上げた。
「ま、まずいでしゅッ! このままでは、私達の軍が一番前に出ちゃいます!」
「張莫さん達が後退して、董卓軍が打って出てきた今、一番前にいる私達が迎え撃たなければ後方にいる連合軍の人達に多くの被害が出ることになりましゅ! そうなってしまえば、連合軍の維持が難しくなるかもしれません」
「ええッ!? で、でもでも、私達は七百ほどしか兵の人達はいないんだよ?! あんな一杯の董卓さんの兵を、どうやって迎え撃てば――」
「ッ!? 桃香様ッ、お下がり下さいッ!」
ヒュン、と。
一筋の軌跡を導きながら飛来した矢を、その進路上にいた劉備を守る形に身を投げ出しながら関羽は偃月刀で叩き落とした。
董卓軍の距離は未だ遠く、放たれた矢がたまたま風か何かしらに乗ってここまで届いただけのことであろうが、それでも、董卓軍の意識がこちらに移ったことを知るには十分なものであった。
後退する張莫らの軍ではなく、進路を阻むように動かない劉備軍を障害だと思ったのか。
その真意こそ与り知らぬことであるが、そんなことは現状では特に関係ない。
これからどうするか、それだけが意識を占めていく中で、田豫が呟いた言葉が関羽の耳を打つ。
「……多分、包囲するための時間を稼ぐために利用された。なら、こっちもそれを利用すればいい」
「? どーいうことなのだ、たよ?」
「……敵将を討ち取ってしまえば、そこで終わり。包囲するまでもなく董卓軍は汜水関に退くだろうし、その時は包囲じゃなくて追撃すればいい。それに乗じて汜水関に一番乗りすることが出来れば、敵将を討ち取ったことと汜水関を落とした功名は頂いたも同然」
「敵将と言うと……華雄、という将のことか?」
「……うん。董卓軍の中でも猛将として知られてるけど、こっちには愛沙お姉さんと鈴々お姉さんがいる。……将の質とすればこっちの方が数段上」
「にゃははー、そんなふうに言われると照れるのだ」
なるほど確かに、と関羽は田豫の言葉に頷いた。
華雄という将がどれほどの武勇を誇るのかは実際に見てみないと分からないが、彼の将を討ち取ることが出来れば、田豫の言うとおり、董卓軍は汜水関へ退くことだろう。
『華』の旗しかないことを見るに、恐らくではあるが、華雄が打って出た軍を率いているのだと思う。
指揮する将を討てば、どれだけの大軍であろうとも少数の劉備軍を覆い尽くすことは出来はすまい。
自らの武勇がどれだけのものを誇るのかは分からないが、自信はある。
出来ないことではない、と思い、関羽はニヤリと口端を歪ませた。
「ふふ……たよにそう言われてしまえば、期待に応えぬ訳にはいかないな。何より、他に手立ては無いのだろう?」
「……恐らくですが、たよちゃんの言う策が一番現実的かと。何より、今から後退するには時間が足りません」
「ふむ……雛里、軍の指揮を頼むぞ。朱里とたよは桃香様を頼む。では桃香様……行って参ります」
「うん……怪我には気をつけてね」
「御意」
そうして。
心配そうながらも、それしか道の無いことを理解する自らの主である劉備の声に背を押され、関羽は前へと進み出た。
それに同調するように隣に立つ張飛と視線を交わしあった後、一つ頷いて関羽はさらに前へと進み出て、口上を述べた。
「聞けい、洛陽にて圧政を敷き私利私欲を貪る董卓の兵らよッ! 我が名は関雲長、劉玄徳が一の家臣にて一の剣なりッ! 我が偃月刀の血錆に成りたくなければ、退くがいいッ!」
「鈴々は張飛なのだッ! 華雄とかいう奴、勝負するのだー!」
**
「どうやら、劉備は董卓軍を迎え撃つみたいですね」
「当然よ、秋蘭。普通に考えるのであれば、そうせざるを得ないわ。……もっとも、それすら分からぬ愚か者だったのなら、戦う以前の問題でしょうけど」
董卓軍を迎え撃つためにと展開を始めた劉備軍の少し後方から見える光景に、曹操は知らず口端を歪めて、夏候淵の言葉に答えていた。
数百程度の劉備軍が二万ほどを超えるであろう董卓軍を如何にして押しとどめるかは分からず、そして楽しみではある。
かと言って、その見学だけに興じるほど戦況が許しているわけでもないとした曹操は、ちらりと周囲を確認した。
共に後退した張莫の軍は既に立て直しを行っており、あと半刻もしないままにその全てを終えるだろう。
今回の策は――張莫と曹操が考え出した策は、撤退の迅速さが鍵であった。
遅ければ董卓軍に捉えられてそれなりの被害を出すし、かといって早すぎれば策だと見破られてしまう。
となれば、策を弄するまでは全力で汜水関を攻め、頃合いになった時には全力で後退するといった切り替えが重要であったのだ。
その点はさすが張莫という他しかなく、困難であったであろうその切り替えも、さしたる大きな混乱もなくやってのけたのである。
視線を遠くに――劉備軍を超えて反対側へと移せば、張莫と協同して汜水関を攻めていた陶謙の軍がある。
州牧にまで昇り詰めるだけの器量があるからか、遠くからで確信はもてないもののそれなりの被害に抑えているようであった。
なるほど、一部の兵だけで汜水関を攻めたのね。
どうやら、軍の一部――陶謙軍は一万五千ほどであると荀彧からの報告であったが、その内の三千ほどを汜水関攻撃に当てていたらしい。
それらの負傷者を後方へと下がらせ、残りの無傷な一万二千ほどで董卓軍の包囲に回ろうとする陶謙に、曹操は感嘆を抱かずにはいられなかった。
そして、そのさらに後方にいる孫策の軍は、こちらと同じくほぼ無傷である。
弓矢などの後方支援こそしてはいたが、実際に大きな被害はなく、董卓軍の包囲に回るらしい。
先代の孫堅が病で倒れた後からその娘である孫策が軍の指揮を執っていると報告を受けてはいたが、なるほど、中々に優秀な者であるようだ。
いずれ天下覇道のための障壁となるか。
孫策の才能を実に楽しみと感じながら、曹操は視線を前へと戻した。
「どうやら、劉備は関羽を前面へと押し出すようね。ふふ……中々、将の使いどころを弁えているようね、劉備は」
「劉備の下には関羽と張飛という豪傑がいるとのことですので、恐らくは将である華雄を討ち取る算段ではないかと……。如何に二万という数であっても将を討ち取られてしまえば、数百の劉備軍を押しつぶすことも敵わないでしょう……理にかなっております」
「それが目的でしょうね。劉備の知恵か、或いは知略の士がいるのか……どちらにせよ、関羽を動かすのであれば劉備は華雄を討ち取るでしょう。その時こそ私達も軍を動かすわ、秋蘭。紅瞬と春蘭、桂花にその旨を伝えておいて頂戴」
「はっ、心得ました」
勇猛の将として名を知られている華雄であるが、それも、黄巾賊相手によって功を上げたものによるものと判断していた曹操は、きっと関羽が華雄を討ち取ると確信していた。
かつて黄巾賊との戦いの場において見惚れたあの武力であるのなら、それも容易いことであろうことは十分に理解しているつもりである。
連合軍が結成された折、戦いに移る前に一度挨拶に向かおうとしていたのだが、それも董卓軍の誘い出しという策によって状況が動いたために結局為し得ていない。
一度状況が落ち着けばその時間を作るか
戦場の中で不釣り合いな思考を頭の中から追い出しつつ、曹操は代わりにある人物の名と顔を脳裏に思い浮かべた。
「さて。このまま汜水関を陥落させることは容易いけど……一体どう動くかしらね、天の御遣いは。願わくば、このまま終わりなんていうつまらない結末にはならないで欲しいけど……私の誘いを断ったのだもの、楽しみにさせてもらうわよ?」
そうして。
曹操は視線を董卓軍を今まさに迎え撃たんとする劉備軍から汜水関へと移す。
恐らく、天の御遣い――北郷一刀は汜水関にいるだろう。
彼の者がどれだけの能力を持つかはあまり知ることではないが、それでも、先の黄巾賊との戦いにおいての策を彼が献策したことは報告にも上がっていた。
となれば、それなりの知略を携えていることは当然だろう。
もしやすれば、先刻の罠も彼の策かもしれない。
もしそうであるなら。
そこまで考えて、曹操はぞくりと背筋を振るわせつつ、実に楽しそうな笑みで汜水関を見つめていた。
**
「ふははははっ、討て討ていッ! 連合軍の雑魚共が何する者ぞッ、ここで息の根を止めてやるのだッ!」
自らの獲物――金剛爆斧を横殴りに振り切って、華雄は周囲にてこちらを伺っていた数人に兵を吹き飛ばす。
その際に首やら手やらを引き千切りながら、それによって飛び散った血液が頬にかかるのも気にせずに、こちらへと槍を突き出してきた兵のそれを弾き飛ばしつつ、跳ね上げられた腕ごとその首を刎ねた。
「北郷も気にし過ぎよ、このような雑魚共が何用な策を弄そうとも汜水関が陥ちるはずもなかろうに。連合軍が退くのに合わせて打って出ていれば、さしたる問題も無く撃退出来ようぞ」
放て。
自らの周囲に敵兵が固まってきたことを看破した華雄は、一度道を切り開いてその場から離れつつ、離れた所で待機していた弓兵へと指示を出す。
兵が打って出た隙を突かれて汜水関を落とされては敵わぬ、と思い連れてきた弓兵はそれほど多くは無いが、それでも、現在戦闘中の敵軍からしてみれば圧倒的に多い。
そもそも、圧倒的少数で二万もの軍を押し止めようしていることこそが愚策ではないのか。
ざっとみても千に満たないであろう敵軍の『劉』の旗に、華雄は心底つまらなさそうに溜息をついた。
このまま『劉』の旗の軍を――幽州で黄巾賊討伐に功の挙げたと報告にあった劉備軍を一蹴することは容易いだろう。
義勇軍ということであったが、装備がまちまちな所を見るとどうやらそのようであった。
その練度こそ一義勇軍とは思えないものであったが、かといって、驚愕するものでも、こちらが被害を覚悟するほどのものでもない。
となれば、劉備軍を瞬く間に抜いた後に連合軍本陣を急襲するべきか。
そこで連合軍総大将である袁紹を討つことが出来れば――いや、討つことは叶わなくともその陣容に多大な被害を与えることが出来れば、数の多い連合軍だ、必ずや内から瓦解することだろう。
このまま劉備軍を散々に蹴散らした後に、一度汜水関に退くか。
それとも、このまま突き進み連合軍本陣に控えているであろう袁紹を討つか。
「貴様が華雄かッ!?」
その半ばまで答えの出ている問いに――自らの武勇と率いる精鋭達を信じて袁紹を討つ、そう判断を下し、指示を出そうと口を開いた華雄であったが、それも不意に呼ばれた自らの名によって閉じられることとなる。
その声に応じてみれば、視線の先には一人の女が――少女といっても差し支えのない人物が、そこにいた。
白と緑を基調とした衣服を身に纏う姿は、洛陽の街でときたまに見かける豊かな商家や豪族の娘のように華やかである。
その豊かで女性らしい曲線と愛くるしい容貌があれば、果てはどこかの郡の太守や上手くやれば王朝の下に召し抱えられることも不可能ではないだろう。
しかし、動きやすいようにと纏められた上質な絹のように煌めく漆黒の髪と、その手に握られる無骨ながらも確かな作りの偃月刀を携えていれば、その印象も武人のものと見て取れた。
「貴様は?」
「我が名は関羽ッ、劉玄徳が一の家臣にして、一の矛なりッ! いざ尋常に勝負を願い出るッ!」
「ふん……貴様が幽州の美髪公とかいう奴か。どんな奴かと思っていれば、このような小娘であったとはな。去れ、貴様などに用はない」
「ふん……怖じ気付いたのか?」
「くっ……言わせておけばッ! いいだろう……我が金剛爆斧の切れ味、その身と首で味わうがいいッ!」
にやり、と笑いながら武器の構えを解いた関羽に、華雄はそれまで構えることの無かった自らの武器を構える。
ずしりとした印象を受ける華雄の武器に、関羽はそれまで歪めていた口端を正して、華雄と同じように武器を構えた相対した。
「董仲頴が臣にて、彼の軍最強の武人、華葉由ッ! 貴様如きに止められるかッ!?」
それを確認した華雄は、一気に関羽に肉薄するために駆け出した。
武器を構えぬ相手に斬りかかり勝った所で、それは褒められるものではない。
その武を認める呂布を相手にする時でこそ、自然体という構えのままにいる呂布に打ちかかることはあるが、それ以外の者が相手ならば同じ状況で戦わねば意味が無い。
それを関羽も捉えているのか、華雄が駆け出した時を同じくして、彼女もまた華雄に肉薄しようとしていた。
肉薄するためにと駆けた勢いのまま、華雄は石突きにて突き出された関羽の偃月刀を弾き上げる。
鉄と鉄が勢いよくぶつかる鈍い音が途絶える前に、華雄は偃月刀を弾かれてがら空きになった関羽の横腹へと金剛爆斧を振り切った。
「これで終わりよッ!」
「させるかッ!?」
そのままでいけば、数瞬の後には上半身と下半身を切り離された関羽の死体が転がるだろう。
そう確信しかけた華雄であったが、弾き上げた偃月刀を金剛爆斧の切っ先を止めるようにと突き立てた関羽によって、それも為し得なかった。
しかし、振り切ろうとした金剛爆斧は止まることは無い。
相当な強度を持つ偃月刀ごと関羽は斬ることは叶わないことを判断した華雄は、そのままの勢いで偃月刀ごと関羽は振り飛ばした。
「グゥッ!? くそっ、なんて馬鹿力だッ?!」
「ふはははは、まだまだだぞ、関羽ッ!」
「ちぃ!」
脚に力を込めてもなお地を滑り吹き飛ばされていく関羽であったが、華雄はそれを見逃しはしなかった。
関羽が体勢を整える前に、再び彼女へと肉薄していく。
踏ん張るためにと立てられていた偃月刀を再び構えた関羽へと、あえてその構えた偃月刀に華雄は金剛爆斧を振るった。
ガギン、と固い鉄の音を響かせて若干弾かれた金剛爆斧を、華雄は次々と振るっていく。
その首を狙うために右から、頭頂部から叩き割るために上から、偃月刀を持つ手を切るために左から、再び偃月刀を跳ね上げ胴体を狙うために下から。
だが。
そのたびに鈍く固い音をかもしながら防がれる斬撃に、華雄は若干苛立ちながら身体を回転させての蹴りを放った。
「中々しぶとい奴だ……形は違えど北郷のような奴だな、貴様は」
「……何だと?」
「む。いや何でもない、気にするな。……しかし、何を不服そうに顔を歪めている? それほどまでに私に負けることが悔しいのか?」
「……いやなに、不服にもなると思ってな。董卓軍最強と謳う貴様がこれしきの武なのだ、強者と戦えるだろうと思っていたのだが、これでは董卓軍も恐るるに足らずだとな」
「貴様ぁぁッ! 我が武のみならず、他の者の武まで愚弄する気かッ!? 死を以てその罪、償うがいいッ!」
再び吹き飛ばす形で関羽との距離を取った華雄であったが、そこは追撃をしなかった。
思ったより距離が離れたために追撃に転じても体勢を整えられる、というのもあったが、何より、相対する関羽の武が思ったより自身に切迫していることが上げられた。
切迫している、と感じるということは、つまり自らの方が強いと感じているからである。
勿論それだけではないだろうが、それを認識できるほどに落ち着いていた華雄の精神は、関羽の言葉に一気に沸点までと引き上げられることになった。
許さん。
それは自らが自身をもつ武を侮られた怒り。
許さん。
それは自らが認めるほどに強者の武をも侮られた怒り。
許さん!
それは――自らを含め、主である董卓に関わる全てのことを侮られた怒り。
その激情のままに、華雄は再び関羽へと斬りかかっていた。
「どうしたどうした。攻めが単調に成っているぞ、図星を突かれて頭へと来たのか?」
「キ……サマァァァ! 許さん……武において我らを愚弄するなど、許さんぞッ!」
首を、顔を、口を――命を止めるべく力の限りに振るわれた金剛爆斧は、しかして関羽の偃月刀によって目的を果たさぬままに防がれていく。
関羽の言うように単調になっていることは自覚していたが、しかし、胸の内を渦巻く激情を発するためにと華雄はさらに力を込めて金剛爆斧を振るっていく。
だが。
「隙だらけだぞッ! これで……終わりだッ!」
「な……に?」
必殺の速度で振るわれていた金剛爆斧は、撃と撃の合間に生じた一瞬の隙を突かれる形で上空へと跳ね上げられてしまった。
力の限り、と振るっていた腕は気付かぬ内に力が弱まっていたようであり、思いの外簡単に華雄は自らの武器を手放していた。
無意識の内に口から零れ出た言葉はその事実に呆けてか。
或いは。
いつの間にか自らの首を刎ねるためにと掲げられていた関羽の偃月刀を前にして、自らの敗北を悟ったが故か。
「――!」
それすら理解出来ぬままに偃月刀が振り下ろされる直前。
これから死ぬのだと、最早武器も失われどうしようもないと理解してしまった華雄の耳に、誰かを呼ぶ声が聞こえた。
**
少年は疾駆する。
後背から呼び止められるのを振り切って、自らに従ってくれる愛馬と共に。
少年は疾駆する。
守りたいと願った大切な人達――その内、死すべき運命にあった一人の女性を守るために。
少年は疾駆する。
遙か前方にて戟を交え、そして自らの武器を吹き飛ばされて死を目の前にした女性を――華雄を守るために。
そして少年は――北郷一刀は、辿り着いた。
後の歴史においてその名を馳せるほどの人物と相対しながら、華雄を背後に守って。
**
ガキン、とも、ゴギン、とも聞こえる固い音を耳から脳へと伝わせながら、華雄はそれを認識出来る程度には首が繋がっていることを理解した。
否、それどころか、自らの首には傷一つ入っていないことに、不思議さを覚えるほどであったのだが。
目の前を覆うその光景に――関羽と自らの間に立ちはだかるその人物に、華雄は驚愕を感じ得なかった。
「誰だ、貴様はッ!?」
それは関羽も同じであったのだろう。
自身と同じく驚愕を含んだ声で、その人物へと問いかけた。
唯一、華雄が関羽と違うことと言えば、その人物が誰かということを知っていることだろうか。
驚愕が張り付いた脳で、華雄はその名を口に出そうとした。
董卓と賈駆が拾い、連れて帰ってきた男。
軍に参加することになり、その能力を遺憾なく発揮させた男。
黄巾賊との戦いの折、董卓と賈駆を守った男。
強くなるためにと、師事してきた男。
――天の御遣いと呼ばれる男。
だが、口に出そうとは思ってもそう簡単にいくわけはない。
死ぬと思い、覚悟し、最後は武人らしくと思い切り詰めていた神経は、しかし、目の前の人物がここにいるという事実によって、散々にと崩されているのだ。
震える唇に音にならない空気をのせて、華雄は呟いた。
何故ここにいる。
何故来た。
何故――助けた。
それらの音にならない問いに答えぬままに、目の前の人物は――陽光に煌めき輝く衣を纏う天の御遣い、北郷一刀は淡々と告げた。
「董仲頴が臣、北郷一刀」