しんと静まった部屋の中。
蝋燭のみが唯一の灯りであるその部屋に、二つの人影が存在した。
『……行くのね?』
『……起きてたのか』
衣服を整えていた一人に対し、その背後に寝台から声がかかる。
何も身につけていない身躯の上に薄布をかけただけの人物は、むくりと起き上がった。
『……死ぬわよ?』
『分かってるさ』
『……後悔するわよ?』
『承知の上だ』
『…………私、泣いちゃうわよ?』
『あー、それが一番つらいかもなあ』
でも、笑って送り出してくれると嬉しい。
そう言って笑う青年に対し、寝台の人物――漢女は、少しだけ悔しそうに笑った。
『劉備ちゃんも曹操ちゃんも孫策ちゃんも、みんなご主人様の首だけを狙ってくるわ。対して、ご主人様の軍勢はほぼ壊滅状態。……戦えることすら奇跡に近いのに』
『……まあ俺も悪逆非道の暴君で通っているからな、それも仕方のないことさ。……それでも、そんな俺を信じて付き従ってくれて、最後まで共に戦ってくれる兵達がいる。俺だけ逃げる訳にはいかにさ』
『……ねえ、私も――』
『――駄目だ』
自分も共に戦いたい、最後のその時まで傍にいたい。
そう願った漢女の想いを、青年は一言で切り捨てた。
漢女が青年を大切に想うのならば、青年もまた漢女が大切なのだと言わんばかりに。
無論、漢女もそれを知っているからこそ、それ以上の追求を青年に延ばすことは無かった。
戦いに出向く男を黙って見送るのも女の嗜みよ、そう言わんばかりに微笑みながら。
ふわりと薄布を纏っただけの裸身で――鍛え上げられた筋肉の上に薄布を滑らせながら起き上がった漢女は、青年へと歩み寄っていく。
『……信じてるから』
『はは、その信頼さえあれば百人力だな』
『……待ってるから』
『ああ、待っていてくれ。必ず帰ってくるから』
『……愛してるわ、ご主人様……いえ、一刀』
悲しさを表に出すことは無く――これから青年がどれだけ絶望的な戦いに身を投じるのだとしても、必ず帰ってくるのだと信じて、漢女は言葉を紡ぐ。
溢れ落ちそうになる涙も嗚咽も押さえ込んで、彼女は微笑んだ。
抱きつきたい。
抱きつき抱きしめて、青年が戦いに――死に場所を求めに行こうとするのを引き留めたいと願いながらも。
それでも小さな意地で、漢女は青年の服の裾を握った。
そして、そんな彼女の心配りを――想いを知っているからこそ、青年は微笑みながらそっと漢女の頬へと手を添える。
少しだけ頬を滑らす手は漢女の温もりを――存在を己が魂に刻み込むために。
しっとりと濡れる唇に指を這わすはその思い出を――漢女を愛した過去を刻み込むために。
『ああ……俺も愛してるよ、貂蝉』
そして。
漢女――貂蝉という存在、その全てが自分のものであると魂に刻み込むために。
青年――北郷一刀という英雄になり損ねた者の存在を刻み込むために。
瞳を閉じて、桃色に彩られた唇を突き出すようにしている貂蝉へと、北郷一刀はそっと触れるように自らの唇を落として――
*
「――って、そんな訳あるかぁぁぁぁッ!?」
「ぶるうぁぁぁぁッ?!」
呆然としていた意識にうっすらと見えた映像は、途端に俺の叫び声で打ち切られることとなった。
いや、桃色の口紅――口桃と言うのかどうでもいい悩みだが、そんなものをした漢女(おとめ、と読むらしい)の顔が気づいた時には至近距離にあったりするものだから、反射的に叫び声が出たとしても何らおかしくはないと思うのだが。
それと同時に手まで出てしまったのは、申し訳ないと思う。
「しくしく、ご主人様にぶたれちゃった……これって、愛の鞭かしら?」
訂正、やっぱり思わないし思いたくもない。
勢い余って――というよりは生命的危機を感じた本能のままに本気で殴ったにも関わらず、特に問題なと無いと言わんばかりにぶたれた部分を愛しそうに撫でながら、むふふ、と桃色に彩られた唇を歪めて笑う筋骨隆々でビキニパンツのみの人物なんかに申し訳無いと思ったこと自体が間違いだったか。
しなを作りながら地面に座り込み、あまつさえいじらしげに指を床に這わせる仕草は、見目麗しい女性ならいざしらず、目の前の人物がすると気持ち悪さで寒気が走るものであった。
「あらあら、貂蝉ったら……こんな人目があるところでなんて、若いわねえ。でもね、そういった密事は閨でするほうが効くと思うわよ?」
「ふーむ、幼女でも無く熟女でも無く……北郷よ、お主の趣味に儂がとやかく言うのも筋違いというものじゃが……男色と言うのは儂としてもちと勧めにくいものが――」
「――あらん、どこをどう見たら私が男に見えるって言うの、張司空? 私は漢女、れっきとした女なんだから」
「……どこをどう見たら女に見えるんじゃ」
「どこをどう見ても漢女じゃないのよ」
「……はぁ」
そんな張温と貂蝉の不毛な争い――俺個人としては明らかに張温支持なのだが、そんな争いを続ける二人に視線をやりながら、俺は溜息が止まらなかった。
王允から客人だと会わされた人物――自らを漢女と呼ぶ貂蝉と言う名の人物は、俺の予想の遙かに斜め上をいくような人物であった。
絶世の美女や美男子だと待ち構えていたのが嘘のような人物であった、と言えば話も早かろうが、しかしその言葉を口にしてしまえばどういうふうに思ったのか、という追求がありそうなので自重しておいた。
あの顔が至近距離に迫るなど、二度とご免被りたい。
これが美女美男子ならまだまし――いや、それもそれで微妙に困るな、主に王允と張温の態度とか。
まあ、それはともかく。
俺の予想の斜め上どころか全く予想だにしていなかった人物が現れた衝撃から若干ながらも回復した俺は、恐る恐る口を開いた。
微妙に逃げ腰なのは許して貰いたい。
「……それで、あー、貂蝉殿……でしたっけ? 俺へ何か用があるのですか?」
「うふんっ、天の御遣い様たるご主人様に、私の漢女としての全てを貰って――」
「断固として拒否します」
「――って、ちょっとー、いきなり拒否は酷いじゃないの、ご主人様ったら。……うふふ、でも、焦らされるのってちょっと素敵……」
何だか全てを言わせたらとても不味いような言葉を発しようとする貂蝉であったが、それをきっぱりと断った俺に対して隠すことなく不満を漏らす。
いきなり拒否は酷い、と言われてはいるが、かと言って全てを言わせてしまったら有無を言わさずに問題が起きそうな――直接的に言えば襲われそうな気がしては、それも仕方がないというものだろう。
獲物を仕留めようとする視線を向けられれば、誰だってそうなってしまうよな、うん。
だが、そんな突き放した言葉すら快感に変えるのか。
恍惚とした視線を空へと向けながら、頬を紅く染め小指を軽く口に含む貂蝉の仕草に背筋を振るわせつつ、俺は口を開いた。
「……ところで、何で貂蝉殿は俺のことをご主人様と呼んでいるんですかね?」
「あらんっ、貂蝉殿、なんて他人行儀みたいなこと言わないで。貂蝉、って呼んで頂戴、ご主人様?」
「……なら貂蝉、直に聞くけど、何で俺のことをご主人様なんて呼んでるんだ?」
「うふん、それはね……ご主人様がご主人様だから、よ」
王允へ向けた質問は、しかしその内容の本人である貂蝉に返されてしまう。
しかも、呼んで頂戴、の部分でバチンと片眼をつぶってくるものだから、再び飛びそうになる意識を堪えるのは実に大変であった。
何て言うかあれだ、見えない何かで叩きのめされたようだ――何て言おうものなら、私の魅力でご主人様のハートを射抜いた、なんて言いそうな貂蝉が何故か容易に想像出来てしまった。
そして、意味の分からない貂蝉の答えに頭を傾げていると、ふふ、と笑った貂蝉は俺から王允へと視線を向けた。
「さて、ご主人様にも会えたことだし……王司徒、そろそろ劉協ちゃんに伴っての会談の時間じゃないかしら? 張司空も、董卓ちゃんと軍の編成って言ってなかったかしら?」
「あらあら……もうそんな時間かしら? 天の御遣いちゃんとお話しするのは楽しかったのに……残念ねえ」
「むう……まあ致し方あるまい。お静ちゃん、儂は行くが……」
「ええ、私も行きますよ。……それではね、天の御遣いちゃん。今日はここまでだけど、また今度、お茶でもしながらお話ししましょうね」
「うむ、では儂とは酒でも呑みながら話し合おうではないか」
「は、はあ、それは構わないのですが……え、貂蝉の用事ってそれで終わり?」
「そうよ、ご主人様。……まさかご主人様、私と離ればなれになるのが寂し――」
「いや、それは無い」
「――んもうっ、つれないんだからぁ」
それでこそご主人様だけどね、そう微笑みながら言う貂蝉は、いつのまにか俺の横を通っていた王允と張温の後を付いていくように、俺の横をすり抜けていく。
筋骨隆々の大男――貂蝉風に言えば、大漢女が横を通っていく様は中々に強烈なものがあったが、それもすれ違いざまに彼女が耳元で囁いた言葉によって、微塵も無く吹き飛ばされてしまった。
「……気をつけてね、ご主人様。……嵐が、来るわ」
「ッ!?」
本当に消えるように囁かれた言葉は、しかし確かに俺の耳から意識へと届いていて。
その言葉の意味を考える前に、俺は貂蝉の背を確かめるために反射的に振り返っていた。
しかし。
既にそこには貂蝉の姿は無く。
いつの間にか遠くまで離れていた王允と張温の背中だけが、視界の中にあった。
「……気をつけろ、か。分かってるさ、そんなことは……」
分かっている、貂蝉が一体何に対して気をつけろと言ってくれたのかを。
王允に近い彼女のことだ、きっとこれから起きるであろう騒動がどういったものなのかを知っているに違いない。
そして、そのことを知らせてくれたことに感謝しつつ、俺は無意識のうちに見つめていた己の掌を固く握りしめた。
「……やって、やるさ」
そうして。
ぽつり、と呟かれた俺の言葉は誰に聞かれるでもなく、静寂の中へと消えていた。
**
「お兄ーさん、お兄ーさん。飲み屋のつけがこんなに来てるですよー?」
「はーい……って、飲み屋のつけッ?! ……これ糧食事情に関する案件じゃないですか……程立殿、紛らわしいので止めてくださいよ」
「いやいや、お兄ーさんの反応が面白くてつい。ついでですがー、まぎらわしいとまぎわらしい、どちらが正しいんですかねー?」
「え? ええ、っと……まぎわらしい、かな? あれでも、まぎらわしい……って、ああもうッ、紛らわしくなるので止めてくださいよッ!?」
「……ぐう」
「寝るなッ!?」
「おおっ……中々にのりがいいですね、お兄ーさんは」
「……北郷殿、お楽しみのところ悪いのですが、賈駆殿よりこの案件について、早急に意見が聞きたいとのことですが……如何なさいますか、今返事をお書きしますか?」
「え、ああ、郭嘉殿。誰も楽しんでなんかはいないんですけど……まあいいや。ええっと……すぐに見ますので少し待っててください」
そうして。
貂蝉と初めての邂逅から数日後、俺は多忙の中にいた。
最近では常日頃から多忙であることに変わりはなかったのだが、先日の貂蝉と出会った頃からさらに拍車がかかったように思う。
まあ、それも劉協が献帝として即位し、それによって滞っていた諸々が一気に流れ始めたため、というのが俺の見方ではあったが。
それだけ忙しくなってもどうにか問題無く日々を過ごせているのは、各将の働きはもとより、やはり郭嘉と程立のものが大きいかな、と思ってしまう。
至極真面目に相対する郭嘉と、何処かふざけながらもその実きちんと仕事をこなす程立。
そのどう見ても相反しそうな二人が実に上手く関係しているのは不思議であるのだが、それでも知謀に長けた者同士、どことなく惹かれ合うものがあるのかな、なんて思う。
これに趙雲が交じればまたさらに不思議に思ってしまうのだが、まあそれは黙っておこう。
ことさらに話を――聞かれれば面倒事に発展しかねない話題は広げない方がいいだろう。
そうして、うんとばかりに頷いた俺は、再び目の前の案件を処理するために机上へと集中していった。
「はっはっは、中々にやるようですな、北郷殿! だが、この趙子龍、その程度の腕では仕留めることは叶いませぬぞッ!」
「ッと……それは分かりませんよ、趙雲殿。それに、負けるにしても簡単にはやられはしません」
「ふふふ、ならばその言葉、偽りではないことをお示しなされ……それでは、いざ参るッ!」
そして。
仕事に段落がつけば――とりあえず届いている案件を片付けた俺は、趙雲を伴って中庭にて鍛錬を行っていた。
いつも相手をしてくれる呂布や華雄が今日は多忙なために、たまたま――趙雲本人がそう言うのだからそうなのだろうが、たまたま手の空いた彼女が相手してくれることになった。
よくよく考えてみれば、趙雲一人と相対して鍛錬などしたことがないな、と思う。
それは趙雲も同じなのか、はたまた身体を動かしたいだけなのか、いつもの飄々とした雰囲気は鳴りを潜め、武人らしい雰囲気で満ち溢れているようであった。
準備運動ということで数合打ち合った俺達は、適当な距離をとって武器を構えて相対した。
趙雲は模造槍、俺は模造刀に盾を用いて。
始め盾を見て不思議そうな顔をしていた趙雲だったが、それでもそれを構える俺を見てか、すぐさまに気を入れなおして槍を構えた。
その辺はさすが武人というところか、その対応力はさすがと言えよう。
「シッ!」
そんなことに感心していると、すぐさまに趙雲から槍が繰り出される。
構えた体勢から一息に繰り出されたそれは、いくら先を潰したものとはいえ、まともに喰らえばただではすまないだろう。
ゆえに、俺は外へ流すようにと迫りくる槍の穂先を盾によって受け流していく。
削るような金属の音と気迫を乗せているかのような槍を横目で確認しながら、俺は槍に盾を滑らせて振るわせないように固定しながら、前へ前へと進んでいった。
「おおおぉぉッ!」
「ッ!? ……なるほど、その形状からでは受け止めるだけのもののように見えますが……ただ受け止めるだけでなく、受け流すことも考えられてのものとは……」
「こういうものを使うのは卑怯かな?」
「いいえ。何を用いようとも強く、という気持ちは蔑ろには出来ぬものでしょう。それも武の一部、とも言える。……それに」
「それに?」
「自らに勝とうと手を尽くされることに――そして、それによって強くなっていく武を前にして、武人として昂ぶらない訳が無い」
故に、もっと昂ぶらせてくだされ。
迫りくる剣を槍の持ち手部分で器用に受け止めた趙雲と至近距離で視線を交わしながら、彼女は口端を歪めながら実に楽しそうにそう言った。
俺との鍛錬を楽しんでくれることは嬉しいのだが、ぶっちゃけ言うと少し怖いものがある。
まるで獲物を待ち望むかのような視線を受けて、俺はぞくりと背筋を振るわせた。
「なら……行かせてもらいますッ!」
「ふふ……参られいッ!」
圧迫するかのような視線に、長期戦は不利と判断。
ならば、と俺は盾を前面に押し出したまま、趙雲へと向かって走りだした。
顔や腕は出来るだけ盾で隠し、趙雲の攻撃の選択肢を減らす。
そうすることによって次に来るであろう攻撃を予測しその先の先を取る、そう祖父に教えられた盾を用いた戦術のまま、俺は突撃していった。
「くっ……なるほど、これでは槍が入らんか……。ならばこれでッ!」
そして。
趙雲はこちらの思惑通りに、幾度か突きを放つ。
その尽くは盾によって防がれることとなり、趙雲の悔しそうな声を耳に入れながらなおも突き進む。
恐らく、趙雲の次の行動は横へ動いてのものになるだろう。
正面が駄目ならば横から、その考えは普通のものであり、今の趙雲の心境を語っていると言っても過言ではないのかもしれない。
となると、それに対応するために身体の向きを変えなければならないのだが。
右か、左か。
そう悩んでいた俺の視界――その右端で、不意に何かしらが動く気配がした。
「右かッ!?」
その動きに、俺は反射的に盾を自身の身体の前から右へと動かし、身体の向きをも変えようとして――
「ふふ……それしきのことで揺れ動くとは、まだまだ甘いですぞ?」
――動かした盾の向こう、先ほどの位置から全く動いていない趙雲と視線があった。
それにギクリと反応して盾と身体の動きを停止させても時既に遅く。
神速に突き出された槍によって、俺の意識は刈り取られていた。
**
「あー……まだずきずきする」
「おや、それほど強くはないと思ったのですが……ふむ、少々昂ぶって力加減を間違えましたかな」
「……それは少しでも本気を出してもらった、と受け取ってもいいのかな?」
「おやおや、北郷殿は私の本気があれほどであると思いか? この趙子龍の本気があの程度であると?」
「……いえ、全然思えません」
「ふふ……本気を出して欲しいのならば、その盾とかいうものの扱い方ももう少し勉強されておけばよろしいかと。相対してみたところ、あまり扱いにも慣れておらぬのでしょう?」
「うぅ……その通りです」
意識を取り戻した俺は、趙雲と連れ添って城の廊下を歩いていた。
既に鍛錬に使った模造の槍と刀は趙雲が片付けてくれたらしく、俺と彼女は特に何を持つわけでもなく歩いていたのだが。
趙雲からの遠慮無しの指摘に、がっくりと肩を落としてしまう。
確かに彼女の言うとおりなのだから仕方が無いのだが、それでも少しぐらいは言い方があるのではないか。
そう思っていた俺を察してか、幾分かにやりとその端整な顔立ちを歪めながら、さも当たり前のように趙雲は口を開いた。
「ならばもってのほかですな。そもそも、慣れておらぬものを使ったぐらいで本気を引き出せると思われていたのが心外です」
「うぐっ……その、怒ってたりは……?」
「ほう……北郷殿は私がそれだけで怒ると――いや、怒っておりますな。それはもう、ぷんすか、という具合に」
「え? 今怒ってなさそうなこと言わなかったですか?」
「北郷殿の気のせいでしょう。それよりも……私の怒りを静めるためにはある物が必要なのですが……」
怒ると思いか、みたいなことを言ったような気もするんだが、そんなことは知らないとばかりにしれっとした趙雲は、にやりと口端を歪めて笑った。
彼女の怒りを静めるために必要なものとは一体何なのか。
これが元いた世界なら、どこ何処の有名ケーキだとか、限定品だとか。
この世界ならば服飾の類か、と思いつつも、俺は何が必要であるのかを尋ねた。
「なに、さほど多くは望みませんが、そうですな……良い酒とメンマを奢ってもらえればそれでよろしい」
「……ほえ? メンマ……ですか?」
「左様。幸いにも、つい先日にその両方を兼ね備えている店を城の近くで見つけましてな。まあ、そこで昼を頂ければ怒りも水に流しましょうぞ」
「うむむ……メンマを奢るというのが今いちよく分かりませんが、まあその程度でよろしいのなら喜んで。すぐに行きますか?」
「うむ。良い酒とメンマは待ってはくれませんですからな。では、早く行きましょう」
しかし。
趙雲の口から飛び出た予想外の言葉に、俺はしばし放心してしまう。
メンマというとあれだよな、ラーメンとかの上に載っている筍のやつだよな。
こりこりとした味わいは美味いものがあるが、かといってそこまで食べようとも思わないものであるのだが。
何処と無くうっとりと、それでいて実に嬉々としてメンマについてを語る趙雲を前にしてはそれも言葉に出せるはずもなく、それで怒りが収まるならと俺は頷いていた。
そして。
早く早くと急かす――まるで散歩を楽しみにする犬のようだ、とまるで言えるはずのない言葉を脳裏に浮かべながら趙雲の背中を追っていた俺は、ふと一人の女官とすれ違った。
「――」
そうして、すれ違い様に耳に吸い込まれた囁きに、俺は一つ溜息をついた。
「……すみません、趙雲殿。急用を思い出したゆえ、奢りは後日でも構いませんか?」
「む……しかし、先も言ったとおり酒とメンマは待っては――」
「俺が用意出来うる最高の酒とメンマを用意しましょう」
「――承知した。では、その儀を楽しみに今日は一人で昼としよう。……では」
俺の言葉に若干残念そうな顔した趙雲であったが、俺の言葉にすぐさまにその表情を満面の笑顔に変えた後に、足取り軽くその場を去っていった。
また余計な出費か、と肩を落とす俺とは対照的な彼女を見送った後、俺は自室へ急ぐことにした。
「大将……」
「……ええ、分かってます」
そうして辿り着いた部屋。
そこで既に待ち構えていた先ほどの女官――楊奉から受け渡された書簡に、俺は身体が強張るのを止めることは出来なかった。
その内容にも既に目を通しているのか。
その情報の意味を知っている楊奉も、俺と同じように顔を強張らせ、その声にも緊張が見て取れた。
それだけのことを確認出来るぐらいには落ち着けている自分に感謝しつつ、俺は一つ溜息をついた。
ついに来たか。
空気に乗せることなく口の中でだけ呟いて、俺はもう一度だけその書簡を――ある細策が持っていたというそれへと視線を落とす。
洛陽に暴政を敷く悪逆、董卓。
漢王朝を己が意のままに操り、洛陽の民に圧政を強い、暴虐の限りを尽くす彼の者から、洛陽の街を解放するために軍を発せよ。
反董卓連合。
その戦いの始まりの合図に、俺は知らず手を握り締めていた。