「うーん……これだとちょっと大きいのか? 木の方が軽いけど、でも戦場で使うことを考えると鉄の方が確かだし……でもそれだと費用もかかるんだよなぁ」
直属の諜報機関――忍を設立してから一週間ほどが経過したある日の昼下がり、俺は執務室にて届けられた荷物を前に頭を捻っていた。
机の上にて広げられた一枚の紙――忍に調べてもらった洛陽近辺の地図である。
その荷物が届くまでその地図を見ていた俺は、俺の知る歴史では存在していなかったとされる汜水関が存在していることを知った。
これで反董卓連合が結成された時に頼りになる壁が虎牢関と併せて二つになったと言える。
表向きは俺の直属部隊とは言っても、その実、そういった人物達を――明確に言えば、賊と呼ばれていた人物達を雇ったことは、既に董卓や賈駆、その他の董卓軍の中心でもある将達には報告してある。
それまで個々人で用いてきた細作を纏めて一つの組織とし、それを部隊単位で運用する。
その説明をしたときの賈駆や陳宮の顔は今でも忘れられないが――呆れたような、馬鹿にする視線であったのだが、それでも鬼謀と呼ばれる彼女達にとってその有用性は認めざるを得なかったようである。
一つの情報を細作によって得、それの信憑性を増すために新たに細作を放つことは、情報の確実性を増すことは出来てもある程度の時間が必要だったりするのだが。
それを部隊単位で運用するということは、大まかな指示を出しておくことで独自に判断する指揮官がいるということなのだ。
今回はそれが楊奉と韓暹なのだが、彼女達はそういったことに慣れているのか、はたまた適正であったのかは知らぬが、俺が指示した以上の情報を仕入れてくれていたりする。
そして、そういった部隊を創設するにあたって、細作の用い方を熟知している賈駆と陳宮がその指導をすることは当然のことだと言える。
さらにはその諜報機関の出来具合で他国に対しての優劣が決まってくるのであれば、その指導に熱が入るのも、また当然のことと言えた。
さすがに諜報関係のことは祖父には習うことも無かったし――習う機会があったらあったで中々に不気味なものだが、そういったこともあれば俺としては手出し出来ないのであった。
俺としてもいろいろと口を出したかったんだけどなあ。
みんな黒色の衣を纏う、という俺の提案は即断で却下されたし、女性の細作はくのいちと呼ぼうとしたり、そういった提案の悉くが却下されたのだから少し悲しいものがあったりするのだが。
そんなものを着たら逆に目立つだろう、とは韓暹の言であるし、楊奉に至っては働き過ぎて頭が、と心配されるようなこともあった。
そもそも、部隊の――機関の名前は忍となったものの、結局のところは細作の集まりであり、俺が想像しているような忍者とはほど遠いものであったりするのだから仕方のないことなのだが――でも俺は諦めない。
水蜘蛛だとか、木の葉隠れの術とか、そういった忍術を使用出来るようになるにはどれぐらいの時が必要か。
いつかは俺色に染めてやるよ、とちょっとにやにやする俺であった――うむ、実に変人っぽい。
まあ、そんなこともあって忍の有用性が認められてきたその頃に、それらは届いたのであった。
木製と鉄製。
二つ作られたそれは見た目は円形であり、その大きさは人の胴体ほどであろうか。
木製の方は、板を束ねたような形になっており、その端は崩れないように鉄で固定されていた。
鉄製はというと、とりあえず試作をということだったので、表面にはさしたる装飾も無いままであった。
「ふむ……まあ装飾は無いほうがいいかな。その分、重たくなるし金もかかるし……いや、千人長ぐらいならそれも必要か。うーん……その辺は月と詠に相談してみるか」
そう呟きながら、俺はその二つを裏返した。
表面と同じような加工が施されている裏面だが、表面とは違い、その中心に皮で作られた輪っかみたいなものが付いてある。
そこに手を――握るように通した手を握りながら、俺は木製のそれを持ち上げた。
「やっぱり木の方が軽いか……それに安いし、大量に持たせるんならこっちの方がいいんだけどなぁ……。でも耐久力の話もあるし……そもそもこれ、葉由殿とか恋の攻撃止められるのか?」
ぶつぶつと言いながら木製のそれを持った腕を振り回す俺であったが、自分で放った言葉にぴたりと止まる。
訓練用とはいえ、まがりなりにも鉄で出来た模擬刀を折るほどの膂力で振られる戟を、それより耐久力が低い木製で止めることが出来るのか。
そこまで考えた俺は、どうやってもそれごと両断された俺しか想像出来ずに、頭を振ってその想像を頭から追い払った。
「う、うん……やっぱり鉄の方がいいかな。木よりは重たいけど、それも慣れれば問題無くなるだろうし……。よしっ、こっちでいってみるか」
そうして、木製の代わりに鉄製のそれ――盾を手に取りながら、俺はうんと頷いた。
ここ最近、将の面々と鍛錬をしていて思ったことだが、一撃必殺の勢いで繰り出される攻撃を受けきれるほど、俺の武の能力は高くない。
一撃二撃を凌いだとしても、それによって受け手が追いつかなくなったところを叩かれることが最近の負けパターンだったりするのだから、それへの対抗策を考えるのは当然のことであるのだが。
だからといって、将達が数年以上――人によっては十数年かけて培ってきた技術や力を、短期間で追いつけるほど武の道は甘くないのである。
そこで考えたのが、盾を用いて戦う、ということであった。
一撃を防ぎ、それによって生じた隙を突いて勝つ。
そう祖父に教えられたこともあり、また一通りの使い方なども教わったりもしたものだが、いざ実際に使えと言われれば即時対応は難しいものがあった。
それまで補助的にしか用いなかった利き手の反対側の手――俺の場合は左手なのだが、それを防御とはいえ主で使うのだから慣れの問題もあったし、何よりそれを想定しての鍛錬も必要であった。
戦場では刀は言うに及ばず、矢や槍、はてには石なども飛んできたりするのだから、それらに対する手段を覚えなければならないのだ。
さすがの祖父もそこまでは想定していなかったらしい――普通はしないけど。
「鍛錬の件は、葉由殿が北郷流とやらを見せてくれ、と言っていたからその時にでも行うとして……どうするかな、これ。兵も使うことが出来れば少しは……」
そうして俺は、先ほどから思案していることに再び思考を埋めていった。
一般の兵――百人長や千人長などの階級ではなく、雑兵にまで盾を持たせることが出来れば、戦力の向上にならないか。
盾の使い方を熟知し、それによって敵兵との打ち合いに勝ち残る兵になることが出来れば、その積み重ねは確実に勝利へと近づくことになる。
その戦場を勝つことも出来るし、そうして生き残った兵はさらに盾の使い方を熟知し、次回からの戦いにおいても敵兵に対して優位に戦えることが出来るのである。
そうしてさらに次の勝利へと繋ぐことが出来れば――盾の優位性を確かにすることが出来れば。
そうなってくると大型の盾を使って……。
そうして思考にふけっていた俺であったが、ふと開けられた扉によって、急速に意識は表へと引っ張り出された。
「北郷殿、そろそろ件の刻限に近づいてきておりますが」
「ああ郭嘉殿、わざわざありがとうございます。……そうですか、もうそんな時間ですか」
「はい。そろそろ時間も近づいてきたので呼んできてくれ、と賈駆殿が言われましたのでお迎えにあがりました」
「分かりました。すぐに準備をするので、しばし待って下さい」
この時代――とはいえ俺も元々の歴史は知らないのだが、董卓軍の面々に聞いても盾というものはどうにも存在しないらしい。
古代ローマの陣形に盾を用いたものがある、ということは俺とて知っているのだが、その発祥の歴史を知らない身としてはそういうことなのかと納得する他は無かった。
となってくると、盾の存在はそれほどではないにしろ機密となってくるのである。
頼んだ加工屋のおっちゃんも不思議そうな顔をしていたことから、その辺は大丈夫だと思うのだが、それでも必要最低限として隠すぐらいはしておかなければ、と俺は盾を机の陰へと置いた。
そうした後に、俺は服に汚れがないかと確認して部屋を出た。
「すみません、お待たせしました」
「いえ……それでは参りましょう。事前に立ち寄るところはありますか?」
「えーと……いえ、ありませんね。このまま向かいましょう」
そうして頷いた郭嘉の隣に並びながら、俺と彼女は城のある一室を目指して歩いて行った。
女の子の隣を歩くなんてデートみたいだ、と思わないでもないのだが、見た目真面目そうな郭嘉ではそういった話も出来そうにない――いや、誰にでも気軽に話すようなものでもないけどさ。
これが馬超なら大いに照れてくれるだろうし、張遼あたりならノリで同意してくれるだろうか。
華雄は何だそれみたいな反応で、呂布は分からずといったふうに小首を傾げて、賈駆と陳宮の両軍師なら冷たい反応が返ってきそうだな、と。
そんなことを考えながら、俺は目的の場所へと歩いて行った。
そうしてたどり着いた一室。
董卓軍のみならず、漢王朝に使える役人や将などが――宦官はその殆どが袁紹と曹操によって討たれており、生き残った面々もこれ以上の厄介は御免だとばかりに隠れているためか、常より比較的がらんとしているであろうその部屋で、中華全土に影響を及ぼす発表が成されたのであった。
新たな時代を築くはずのそれは、俺が待ち望むことのないものであって。
それでもそれを直視するという現実に、俺は意外にも冷静にその発表を見ていたのである。
すなわち――
「では、本日この時をもって、漢王朝第十三代皇帝に劉協様が即位されることになった! 皆の者、これからも忠をもって漢王朝へと仕えるのだッ!」
――後漢王朝最後の皇帝となり、また幾多もの権謀術数に巻き込まれることになる献帝の誕生であった。
**
「さてどうするか……」
歩きながらそう呟いて、俺は先ほどの事を――劉協の皇帝即位の式のことを思い出していた。
董卓軍が洛陽に駐屯してしばらく経つが、劉協より年上ということもあってか、先の帝位継承権を持つ劉弁の捜索は欠かしたことがない。
洛陽周辺は言うに及ばず、長安から涼州は石城安定に至るまでの捜索は続けていたのだが、その姿はおろか、死んだにしても亡骸さえ見つかりはしなかった。
劉協によく似た美少女である、という話から賊に捕らえられ慰み物にと思わないでも無かったのだが、忍の情報ではその線も無いらしいのだ。
霊帝、何進、張讓の死は隠すことなく発表されたため、その後任を決めることは急務であった。
幸い――とはいってもこれは賈駆が想定して誘導したのだが、軍政の長でもあった何進と張讓の後は董卓が継ぐことになり、後は霊帝の次代を決めるだけであったのだが。
その真っ先の候補である劉協が、劉弁を探して皇帝に据えるようにと押したのであった。
帝位継承の順を覆すことは出来ない。
劉弁の生死が確認出来ていない以上、そういって皇帝に即位するのを突っぱねる劉協は何処か痛々しいほどであった。
李儒から話を聞くと、何進と宦官、果てには親による権謀術数が王朝を占めていく中で、劉弁は以前と変わらず劉協と接してくれていたのだという。
父親しか血のつながらない二人ではあるが、本当の姉妹のように仲良く連れ添って歩き、そんな劉弁を劉協は姉と慕っていたというのだ。
そんな劉協の小さな抵抗は――劉弁が生きていると信じていた彼女の行いは、しかして皇帝不在の悪影響がちらほらと見えるに従って徐々に収まっていった。
姉と慕った劉弁の方が皇帝に相応しい。
それだけでなく、継承の順を違えることは後々に漢王朝にとって災いとなる可能性があると理解していた劉協にとって、自らがこねる駄々がどれだけ影響を与えるかを知っていたのだろう。
そうして。
いよいよをもって劉協は皇帝へ――漢王朝第十三代皇帝である献帝へと即位した。
俺が知る歴史では十三代と言えば劉弁であったのだが、その彼女を追い越して即位したとあってはそれも納得出来た。
なんせ将の大半が女性なのだ――しかも皇帝も女性だし――それぐらいの差異は受け入れられるものである。
「それにしても……」
呟いて足を止めた俺は、開けた中庭から空を仰いだ。
ふと胸をよぎるのは、即位の式の間、無表情のままでいた劉協のことであった。
隣に控える李儒が即位における諸々を読み上げている間だけでなく、皇帝を補佐する三公である司徒の王允と、司空の張温が――王允は穏やかそうなお婆ちゃん、張温は厳格そうなお爺ちゃんであった――即位の讃辞を述べていても、その表情は変わることは無かったのである。
それが実に痛々しく、悲しみを見せないようとしていた子供の精一杯の我慢であることは、俺とて理解しているつもりであった。
「本当に……悲しいなら、素直に泣いたりすればいいのにな」
そうぽつりと呟いた言葉は空へと消えた。
それが出来ぬからこそ皇帝だと言うのに。
皇帝だからこそ個人の存在を嘆かずに、民のことを第一にしなければならないというのに。
「本当に……」
どうすれば劉協を――人のために悲しむことの出来る少女を助けることが出来るだろうか。
思いを乗せた呟きは空へと消え――
「一刀お兄様ーーー!」
「うぐぼぁぁっ!?」
――否、意中の少女の声によってかき消されることになるのであった。
何故か抱きつきという名を借りた腰への突撃も一緒であったが。
「す、すみませんでした、一刀お兄様……大丈夫ですか?」
「だ、大丈夫……ですよ、劉協様――ではなく、献帝様。伊達に鍛えてはいませんからね」
男には、耐えねばならん時があるのです。
それが幼い少女が涙目で見上げてくれば、どんなに痛みで苦しみ悶絶しようとも耐えるのが男であると、俺はそう思います――でも痛いものは痛い。
「北郷殿がこう言われているのですから大丈夫ですよ、伯和様。彼も将の一人でありそして男性です、伯和様のような可憐な女子に抱きつかれては逆に喜ぶことでしょう」
「あぅ……そ、そうなのですか、一刀お兄様?」
「いやまあ……はは、ははは……はぁ」
劉協を泣かせることは許さない、と言外に示す李儒に、俺はうやむやに誤魔化しながら知られないように溜息をつく。
李儒も劉協も、先ほどまで纏っていた豪華絢爛を表現したかのような服装ではなく、最低限の装飾が施されたすっきりとした服を纏っていた。
ふわふわと揺れる豊かな髪に紅く染まった顔を埋めていくのは実に可愛らしいものなのだが――隣の人物から放たれる何かしらの気配に気づいてほしい、と思うのは俺の身勝手だろうか。
聡明な部分もあるけどやはりまだ少女か、と思っていた俺は、ふと劉協から見つめられていることに気づいた。
「伏寿、と。そう呼んで下さいとお願いしたではありませんか、一刀お兄様。様、などを付けなくとも、私はそう呼んでいただいて構いませんのに……」
「えー、っと……献帝様のお言葉は嬉しいのですが――」
「伏寿、です」
「漢王朝の臣である董仲頴のさらに臣の立場の私がですね、献帝様の御真名を呼ぶことはですね――」
「……伏寿、です」
「いらぬ誤解や争いを生み出すでしょうし、献帝様や李儒殿までそれに巻き込んでしまうのは忍びないというか――」
「……一刀お兄様は、私のことお嫌いですか?」
「……伯和様で勘弁して下さい」
徐々に涙が溜まっていく瞳に見つめられると、何も悪いことなどしていないのに罪悪感にかられるのは一体何故なんだろう。
それは女の涙がイケナイ薬やからや、なんて及川なら言いそうなものだが、いざ目の前にしてみるとどうする手だてもなく、俺は頭を垂れるしか無かった。
どうしても真名で呼んで欲しかったのか、字で呼ばれたことにしばしば考えていた劉協であったが、俺の言ったことを理解してにこりと笑った。
「それでも、私や時雨のことを心配してくれたことは嬉しいです。ありがとうございますね、一刀お兄様」
そう言って笑う何処か無理した笑顔に、俺は何とも言えない感覚を抱きながら、知らずにその頭へと手を伸ばし――そうになったのを必至に自重した。
目の前の女の子は如何に可愛くとも漢王朝の皇帝であり、この時代においては大陸の頂点であるとも言っていい。
そんな子の頭を撫でるなどと恐れ多いことを、と必至に己の中で何かしらと戦っている俺を、劉協は不思議そうに首を傾げていた。
「伯和様、そろそろ急ぎませんと今日中に案件が終えることが出来ませんが……」
「ああ、もうそんな時間ですか……。一刀お兄様、また今度、お茶でも一緒に如何ですか?」
「え、ええ、よろしいですよ、伯和様。時間を見つけましたらお誘いさせてもらいます」
そんな劉協からの誘いに、必至に何かと戦っていた俺は少しばかり慌てながらもそれに応える。
まあ忙しすぎてその機会は作れないかもしれないが、それでも初めから出来ないと思っていては無理であろうから、時間が出来た時にでも誘ってみるのもいいかもしれない。
そんな俺の言葉に本当に嬉しそうに笑った劉協は、李儒を伴ってその場から離れていったのである。
* *
「やれやれ……天の御遣いちゃんも中々に女の敵みたいだねぇ」
「がっはっはっは。その相手が劉協様というのが、北郷が並みの人物では無いと言っているようなものだがな」
そうして劉協と李儒を見送って俺であったが、不意に背後から聞こえた声に振り返った。
かつては色鮮やかに艶やかであった白髪を頭頂部で纏め上げ、その雰囲気と髪の色から合わせて柔らかい印象を抱く。
身体は声から想像したものよりも幾分か小さく、ともすれば触れれば折れてしまうのではないかという感覚を覚えさせた。
皺が深く刻まれた口元は緩みながらも、こちらを見るその双眸はどこか油断ならないものであり、その人物が――老女が並みならぬ人物であることを知らしていた。
対して、彼女の隣を歩くのは、いかにも武人と言うような鎧を纏う男性であった。
鎧の装飾は絢爛ながらも、その実大小様々な傷で覆われており、醸し出す雰囲気と相まって男性が歴戦の戦士だということが窺い知れた。
それを示すかのように、皺が刻まれた頬や額には傷が走っており、白髪に隠れた首筋などにもそれらが見て取れた。
「……俺は別段女性に仇成してはいないと思いますよ、王司徒?」
「あらあら、あのような幼い女子を泣かせる寸前までいかせ、あまつさえそんな女子に獣欲に塗れた視線を投げつけるような人物が、女の敵ではないと言われるのですか? ……ああ、天の御遣いちゃんは幼女趣――」
「――断じて違いますッ!」
「がっはっはっは、良いではないか、北郷よ。英雄色を好むと言う。それが劉協様が相手であろうとも変えぬというのは、中々に剛胆であるぞ。……まあ、お主が幼女に興奮するような趣味を持っていたとしても儂は何も――」
「――そんな趣味持ってませんよッ!? ああもうッ、王司徒も張司空も俺を変態みたいな言い方しないで下さいッ!」
あらあら。
がっはっはっは。
それらの笑い声が辺りを包む中、一向にフォローを受けることはない俺は、ただただ肩を落とすばかりであった。
老女の名は王允、字は子師。
男性の名は張温、字は伯愼。
皇帝を補佐する司徒、司空、太尉と呼ばれる三公のうち、その司徒と司空の任を与えられた人物が彼女達であった。
司徒が国内外の政治の統括を、司空が民事に関わる統括を行うということから、彼女達がどれだけ重要人物であるのかが窺い知れる。
特に王允に至っては、俺の知る歴史の中では董卓暗殺の原因ともなる美女連環の計を施した人物であって、俺の立場としては要注意人物である――筈なのだが。
「うむむ、幼女を愛でる趣味ではないとすると……熟した方が好きということかッ!? おのれぃ北郷、お静ちゃんはやらんぞッ! 欲しければ力尽くで来るがいいわッ!」
「あらあら、伯愼ちゃんにそう言ってもらえるなんてとても嬉しいわねぇ。……だけどその言い方だと、私が年老いて熟したお婆ちゃんであると、そう言いたいのかしらね?」
「うぐぅッ……い、いや、その、だな、お静ちゃん? その、何て言うか、先ほどのは言葉のあやと言うか何と言うか……ええい、北郷、何とかしろいやして下さいッ!」
あらあら、と言いながら笑みを絶やさず、しかしてその背後に怒の感情が醸し出されているような王允と。
そんな王允を前にして先ほどまでの威勢は何処へやら、その年老いた風貌からは想像も出来ないほどに機敏な動きで頭を下げてきた張温を前にして、俺はあれと首を傾げたのであった。
この二人が本当に皇帝に次ぐ実力者で、董卓を破滅へと追い込んでいく人物達なのか、と。
王允と張温に出会ったのはつい昨日のこと――その名を知ったのは洛陽に駐屯するようになって数日後のことなのだが、その時のことは忘れることが出来ないかもしれない。
会うや否や、あらまあいい男だねえ、と言われてしまえばそれも仕方のないことなのかもしれないのだが、まさかそれを発言した人物が王允であることなど、その時の俺は名を教えられるまで気づくことは無かったのである。
老女とはいえ男として誉められること無かったのだから、色々と察して欲しい。
張温はそのことを聞いていたのか、出会うなり勝負しろなんて言ってきたのだが、そちらは既に慣れたので大した問題では無かった――まあ、ぼこぼこにされたけどさ。
まあそんなこんなで初顔合わせを終え、即位式の打ち合わせや警備状況を話し合った俺達は、さしたる話をすることもなく今日に至った訳である。
それでも、その短い話し合いの中だけでも王允と張温がどういった人間かを窺い知ることが出来たのは、これからのことを考える上で儲けものだったと言えよう――まあこちらがいることお構いなしに先ほどの調子なのだから、嫌でも知れていたのだろうが。
何進と張譲が死に、皇帝に即位したばかりの劉協がさしたる影響力を持っていない現状の中で、朝廷一の権力と実力を持っているとは思えない二人であることは確信出来た。
「おい、北郷ッ、貴様、儂とお静ちゃんのことをそんなふうに思っていたのかッ!? 一体どういう了見で――」
「伯愼ちゃん? お話しはまだ終わっていませんよ?」
「――もいいから儂を助けろッ、いや助けてくれ助けてくださいッ!?」
「あらあら、威厳も何もありゃしないわねぇ、伯愼ちゃん? ……さて、そろそろ私のことをどう思っているのか、洗いざらい白状して――」
「あー……そろそろ許してあげて下さいませんか、王司徒? 張司空もこう言って反省しているみたいですし……」
「よくぞ言った北郷ッ! そうだぞお静ちゃん、いい加減に儂を虐めるのは止めろと常から言っておるだろうがッ!」
「……反省しているようには見えないわねぇ」
「な、何いぃぃぃッ!? こ、こんなにも儂は反省していると言うのに、お静ちゃんは儂のことを信用――痛い、痛いぞお静ちゃんッ?!」
「あらあら、嘘をつく耳はこの耳かしら? こんないけない耳は引っ張ってしまいましょうかねえ」
「耳ッ!? いやそこは口じゃないのかお静ちゃ――いひゃい、いひゃいひょおひひゅひゃんッ?!」
「……はあ」
ぐいぐいと耳を引っ張っていた手を張温の口に運び、先まで耳を引っ張っていた以上の力を込めて引っ張る王允を見ていて、俺は知らず溜息を零していた。
張温も張温である。
そこで黙って謝っておけば万事解決する筈なのに、何故か不必要な一言を発して場を掻き回してしまうのだから始末に負えない。
しかも張温も王允も何となくその掛け合いを楽しんでいるようであるのならば、俺がわざわざ止めるのも無粋であるだろうと、俺は一歩離れた所から彼らの掛け合いを眺めていた。
……うん、張温が本気で痛がっているような気がするけど、気のせいだということにしておこう。
本気で助けを求めているような涙目で見上げられても、劉協の十分の一ほども可愛くは無かった。
「ああ、そう言えば……」
「ぐおぅッ」
そうしてあらかた張温の頬やら口やら引っ張っていた王允が、ふと思い出したかのように俺へと振り返った。
途端に手を離したもんだから、何やら張温の口から不思議な声が出たような気もするのだが、王允はそんなことお構いなしとばかりににこにこと笑っていた。
「天の御遣いちゃんにお客人いること、すっかり忘れてたわ。貂蝉、という子なんだけど……知っているかい?」
「ッ!」
そうして王允の口から飛び出た言葉は――彼女の口からだけは聞きたくなかったその名前に、俺は知らず反応してしまう。
王允と貂蝉、そして董卓。
これに呂布が加わることが本来であるが、加わるにしろしないにしろ、結局の所はたどり着く先は同じかもしれないのである。
歴史に語られる通りに絶世の美女なのか、はたまたこの世界では絶世の美男子なのか。
董卓と呂布が女性であることを考えると明らかに後者の方が有力ではあるが、それでもいざ会ってみるまでは安易な判断は危険だろう。
そう考えた俺は、震える手を握りしめながら口を開いた。
「……お会いしたことはありません。ですが、その方が俺に何か用事でもあるのですか? 王司徒の言い方では、そのような感じでありましたが……」
「うーん……そうだと思うんだけどねえ。私からは何とも言えないから、実際に会ってみると分かるかもしれないよ? どうだい、会ってみるかね?」
「……はい、お願いします」
「そうかいそうかい。……ではそうだね、貂蝉、出ておいで」
そうして王允の言葉に、不意に人の動く気配がしたのを、俺は手を握りしめながら感じていた。
絶世の美女か、はたまた美男子か――そんなことは関係無い。
俺に客人ということだが、そこからもし董卓に、そして呂布に出会うこととなり、その結果俺が危惧する方へと事態が転がる可能性を――危険性を孕んでいる人物であるのなら。
俺はそう思いながら知らず剣を握っていた。
そして、その人物が――
「ちょばぁぁぁぁッ!」
――貂蝉という名の桃色のビキニのみを身につけた筋骨隆々で揉み上げのおさげだけの頭にこれまた桃色の塗料を唇に塗った人物が、その場へと降り立ったのである。
あれ、と目を解してもその人物がいることに変わりはなく。
どれだけ目をこらしても、その場のどこにも絶世の美女美男子の類が見えることはなく。
その場にいるのは俺と王允、張温を除けば、ムフンッ、と鼻息荒い筋骨隆々の人物だけであった。
「……あれ? …………え?」
事態を把握出来ていない俺の呟きが、ただただその場に響いた。