「むー」
「……」
洛陽の街中。
先の大火において荒廃していた街中の一部は、洛陽に駐屯することになった董卓や西園八校尉である曹操からの物資によって徐々にではあるが、元の形となるべく復興が始まっていた。
あれだけの大火に襲われながらも既に復興、そしてその先を見据えて生きている洛陽の民達へ視線をやりながら、その女性は――その女性達は歩いていた。
豊かに流れる黒髪は先端だけを軽く纏められ、その艶かしい輝きを含めてみれば、ともすれば漆黒の宝玉とも取れる見栄えであった。
その髪が流れるは浅黒く日に焼けた肌であり、肌の大部分を露出する服に身を包まれていながらも下品な所は一つも無く、その肌と髪は一つの至宝のようでもあった。
瞳を覆う眼鏡が、日光を反射してきらりと光る。
「むー」
「……」
そんな女性の隣を歩く女性も、また同じように黒く日に焼けた肌をしていた。
違う点といえば、その肌を流れるのが漆黒の髪ではなく桃色の髪といったところか。
先の女性のように纏めることはせず流せるに任せた桃色の髪は、その豊満な肉体の曲線を惜しみなく現している服の上を流れていた。
桃色の髪の女性は、睨むかのように黒髪の女性を見ていた。
「むー」
「……はぁ。いい加減、納得してくれると助かるのだけれど、雪蓮? 今この時に騒ぎを起こす訳にはいかないのよ――」
「――んっもう、冥琳ったらそればっかりじゃない! あーあ、私も暴れたかったなぁ」
「……暴れて袁紹に目をつけられたらどうするの? 今の私達の勢力ではそれに太刀打ち出来る筈もないし、袁術までもがそれに付け入ってしまえば、孫呉の復興など夢のまた夢よ」
「むー……それは分かってるんだけどさぁ」
そうむくれるように呟いて、雪蓮と呼ばれた桃色の髪の女性――孫策は視線を街へと移した。
彼女が視線を向けた先では、木材を肩に担ぐ男達が一山に詰まれた木材の上に次から次へと木材を置いていた。
その後に汗を拭った彼らは、笑い合いながら昼食に何を食べようかなどと話をして雑踏へと姿を消していく。
さらに視線を移せば、昼の掻き入れ時ということもあってか、飯店の恰幅のいい女性が声を上げて客を呼び込んでいた。
その横で照れながらも声を上げている少女は娘だろうか、彼女目当てで通っていそうな少年達が店へと入っていった。
そうやって視線を移せばそこら中に活気が――笑顔が見られた。
その光景を少し見つめた孫策はくるりと体ごと黒髪の女性へと向けると、不満を隠すことなく表した。
「だってさぁ、いくら袁術ちゃんからの命令とはいえ、洛陽で朝廷や民を助けるのは後々の私達にとって有益なことなのに、冥琳ったら軍を洛陽目前で止めるんだもん。しかもその理由が面倒事に巻き込まれないようにするためだなんて、そりゃ不満も溜まるわよ。祭だってそうみたいだったし」
「あの方はいつもああではなかったか?」
「あー……まあ、それは否定しないけど」
そう言って孫策は、洛陽から少しばかり離れた地にて構築された陣地に置き去りにしてきた祭という女性――黄蓋のことを思い出した。
確かに彼女も自分と同じく軍を止めた冥淋に文句を言っていた筈だ、と孫策は苦笑した。
「……それに、雪蓮や祭殿の不満も分かるが、今回洛陽に来た最大の理由は橋公に会うことなのを忘れないで頂戴。彼は――」
「――洛陽においての母様、ひいては孫呉にとって最大の協力者、でしょ? それぐらいは私だって分かるわよ」
「ならその不満を橋公には見せないで頂戴ね。あちらに敵愾心を持たれてしまっては私達の――陽蓮様の願いが遠のいてしまうのだから」
「むー……仕方ない、か。今回は冥琳の言うとおりにしてあげるわ」
「これからもずっと私の言うことを少しでも聞いてくれればとても助かるんだけど――」
「何かあっちの方が騒がしくない、冥琳? ちょっと見てくるわ」
「――って、人の話を聞きなさい、雪蓮ッ! ……ッ、ああもうッ!?」
そうして彼女達の歩む先の方、人の頭によって構成された黒いざわめきに孫策が気づいた。
ざわざわと聞こえる声の中に、少女やら老人やら兵やらの言葉が聞こえた孫策は、ふと思いつくものがあって――彼女の堪に引っかかるものがあって、背後からの声を無視してそちらのほうへと足を速めた。
そんな孫策の背中を見送った黒髪の女性――周喩は、明らかに面倒事っぽいそのざわめきを数瞬呆然としながら見た後、先に飛び込んだ孫策の後を追って自らもその面倒事へと身を投げた――
――そして、今の現状による頭痛に眉を顰めた。
「控えなさいッ! 帝都洛陽での狼藉、この孫伯符が許さないわッ! そも、民を守るべき兵がその矛先を無力な老人と女子供に向けるとは何事かッ、恥を知りなさいッ!」
痛む頭を抑えて横になりたい気分だが、周喩はその魅力的な考えを即座に頭を振って捨て、前へと視線を向けた。
視線の先には孫策の背が、その向こう――孫策の前左右を囲むようにいる三人の兵は、その装備からどこの軍かを知ることは出来なかったが、袖口に巻かれた布に『董』の一文字が書かれているのを見るに洛陽に駐屯する董卓軍のものか。
洛陽という大拠点ともいえる地を制した驕りか、にやにやと笑う兵達の視線はいやに下卑ており、その視線が自分や孫策に注がれているのが理解出来た。
そして、自分達を通り越して、その背中にまでも。
「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すためにと自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」
そう言いながらその笑みを深める正面の兵に、周喩は嫌悪感を――生理的な拒否感を抱いた。
ちらりと背中を――そこに匿う一人の老人と二人の少女へと視線を移せば、老人こそ好々爺という印象を抱ける人物であるが、その孫娘という二人の少女は酷く幼かった。
白を基調とした服を纏う少女達は、双子であるのか髪の一本からその目立ち鼻、体型に至るまでの全てがそっくりであった。
幼いながらの美を備えたその風貌は、将来成長した姿を楽しみにさせた。
そして、そういった趣味を持つ人物からしてみれば酷く甘い果実に見えるのだろう。
後ろの少女達へ視線を向ける兵達は、これから待ち受けているであろう狂宴を待ち望むかのように一層笑みを深めた。
「ちょっとあんたッ、御爺ちゃんはそんなこと言ってないもんッ! それに、あんた達の相手なんかこっちから願い下さげなんだからッ、勝手に自分達で勃ててなさいよッ!」
「しょ、小橋、それに大橋や、わしのことはいいから、早くここから離れなさい……孫策殿と周喩殿も早く。あなた方にもしものことがあれば、わしはあの世で文台様に顔向け出来ぬ……ッ!」
「残念ですが橋公よ、あなたのそのお言葉は、例えあなたが陽蓮様――文台様の古くからのお知り合いとはいえ聞くことは出来ませんな。そもそも、そこの馬鹿娘のせいで我々も無関係では無くなりましたですし」
「ちょっとー、冥琳は私ばかりが悪いって言うの? 明らかに悪いのはこいつらじゃない」
「それはそうだけど、事をここまで大きくしたのはあなたのせいでしょう、雪蓮? 一発もぶん殴らずに事を収めてくれれば、こんな面倒なことにならずにすんだのに……」
ぶーぶー、と文句をたれる孫策から視線をずらせば、正面に陣取る兵の頬には赤く腫れた痕が見える。
嫌がる少女達――小橋と大橋と呼ばれた少女達の腕を取り、あまつさえ彼女達の祖父であり自分達孫呉の協力者でもある橋公を蹴飛ばしたのを、ちょうど駆けつけた孫策が殴ったのだ。
吹っ飛んでいく兵と、明らかに殴ったであろう体勢で止まる孫策に、周喩は頭痛を抑えることが出来なかった――それと共に、少しだけ安堵した。
これが戦場で昂ぶっていた孫策でなくてよかった、と。
昂ぶっていた彼女であったならば、その殴った威力で兵の首がもげていた可能性もあったのかもしれない。
もしそうなってしまえば、他国の――しかも、洛陽を実質勢力下においた董卓軍の兵を殺したということでどんな圧力がかかるか、とても判断出来るものではなかったのだ。
少しだけ、殴られた兵には悪いが安堵した。
「あ、あの……ここは私が引き受けますので、周喩様達は小橋ちゃんと御爺ちゃんを連れてここから離れてください。元はといえば、私があの人達にぶつかったのが悪いんですから……」
「あー、大橋ちゃんだっけ? ごめん、それ無理っぽいわ」
そんな孫策の言葉と共にそちらへと視線を向ければ、先ほどまでこちらを眺めていただけだった三人の兵達がじりじりと距離を詰め始めていた。
その動きに孫策も腰の剣――南海覇王に手を伸ばすが、敵地ともいえる洛陽の街ということを理解しているのか、それを抜くという行為を戸惑っているようであった。
それが自分達を恐れていると勘違いしたのか、兵達は一層笑みを深くしてこちらへと近づいてきていた。
そして、その腕がこちらへ向けて伸ばされ――
「はい、そこまで」
――孫策に触れる直前、鞘に納まれた剣によって防がれることとなった。
**
「あっ、おっちゃん! 一体何の騒ぎだい?」
曹操達を見送った後、昼食を取ろうとしていた時に聞こえた怒声が気になった俺は、その声の出所を探していると顔見知りに出くわした。
目星を付けていた店――先日食べた重厚な肉まんを出している店の店主であるのだが、俺はその後姿へと声をかけてその横へと並んだ。
「あ、ああ、北郷様じゃないですか!? 北郷様、どうにかなりませんかねぇ、あの娘達を助けてあげて下さいよ」
「一体何の騒ぎ――」
「はっはっは、孫だか伯符だか知らんが、我々は何も矛先を向けたわけではないぞ。そこな老人が我々を酒へと誘い、その肴――おっと、我々を持て成すために自らの孫娘共に酌をさせようとしたに過ぎん。お主の言葉こそが間違いだと何故気づかん?」
そこまで言いかけた俺の言葉を遮って、おっちゃんの言葉と共に向けていた視線の先で兵の格好をした一人が声を上げる。
その言葉を聴いてようやく全体を見てみれば、どうやら三人の兵士達が二人の女性と二人の少女――その容姿から双子の少女と老人を囲んでいる、ということであった。
それだけを見るのならば、不穏分子の可能性がある女性達を兵士達が追い詰めた、と見ることも出来るのだが……兵士の言葉を聞く限りどうにもその通りではないらしい。
腕に『董』の文字が入った布を巻きつけているあたり、俺達が洛陽に入った後に董卓軍に参入した――吸収した宦官か何進の勢力の残党であるらしい。
その多くを吸収することによって爆発的に増えた兵士の全てに鎧が配給出来ないこともあって、俺が黄巾から思いついた案であったのだが、今回はそれが仇になる形か。
あれだけこれ見よがしに見せてしまえば、こちらは無関係であると言うことも出来なかった。
「――あー、了解、何となく事態は把握出来たかも」
「だったら北郷様、あの娘達を助けてやってあげて下さいよ。あの娘達、あのままだとどうなっちまうことか……」
そう言って呟くおっちゃんから視線を外してみれば、周囲の人々もみな同じように悔しそうな顔をしていた。
力がない、だから彼女達を助けられない。
それが悔しくて、そして董卓軍への感情が悪化する、と。
そこまで想像出来た俺は、おっちゃんに気づかれないように密かに溜息をついた。
本当に、こういう輩はどこにでも湧いて出るものなんだな、と。
前回は姜維が巻き込まれていた場面に遭遇したが、今度は一体どうなってしまうのか。
再び溜息をついた俺は、着ていた聖フランチェスカの制服を脱いでおっちゃんへと渡した。
「おっちゃん、これを持って城の門まで兵を呼びに行ってきてくれないか? 俺のこれなら話が通じると思うから」
確か今日の門の警備は徐晃だったはずだ。
俺が天の御遣いとも呼ばれる要素でもあるこの制服であれば、きっと徐晃も気づいてくれるだろうし、俺が赴けるほど余裕がない状況なのだと彼女なら理解してくれるだろう。
そんな俺のことを信じてくれたのか、おっちゃんはやや慌てるようにその服を受け取ると、一目散に城へと向けて駆けていった。
「さて……はい、そこまで」
それを見送った俺は、くるりと身体の向きを変える。
その視線の先では、女性達を囲んでいた兵士達がじりじりとその距離を詰めていた。
ああ、今回はどんな面倒になるのだろう、と。
そんなことを考えながら、俺は女性達へと手を伸ばしている兵士達の間へと、鞘をはめたまま剣を突き出していた。
「ああ? 何なんだ、あんたは? 関係無い奴は口出ししないでもらいたいねぇ」
いきなり突きつけられた剣に唖然としていた女性と兵士達だったが、先に兵士達の方が復活したか、それまで女性と少女達へと向いていた視線と意識が俺へと向けられる。
邪魔をするな、という意思と明らかな敵意を向けられるが、それを極力無視する方向に努めて俺は口を開いた。
「まあ確かにこの現場にはあまり関係無いけどさ、かといって目の前で女の子達が困っているのを見逃すことも出来なくてね。悪いんだけど、ここいらで手打ちにしてもらえないかな?」
「くっ……くくく、ふはっはっはッ! 聞いたかよ、おい。この小僧、それで俺達が引くと思ってやがるぜ。一丁前に剣など持ちよって、英雄気取りか小僧よ? ほら、命が惜しくばさっさと消えるがいい」
「そうだぜ、坊ちゃんはお家に帰って母ちゃんのおっぱいでも吸ってりゃいい」
「この女共のおっぱいは、俺らが万遍無く吸ってやるからな。お前にゃ分け前はねえのよ」
「……駄目だこりゃ」
ひゃはは、と下卑た笑みを浮かべる兵士達に、俺は頭が痛むのを抑えられなかった。
こいつらは本当に董卓軍の兵士なのだろうか、と思わずにはいられないほど崩れた兵士達に、俺はふとコクが吸収した宦官と何進の残党は賊崩れや元黄巾賊が多いと言っていたのを思い出した。
確かに、目の前で笑い声を上げる兵士達を見ていればそれが事実である、と理解することが出来た。
だが。
この時の俺は、目の前の兵士達へと意識は向いていなかった。
その意識は後ろ――先ほどからずっと黙っている桃色の髪の女性へと向かっていたのだ。
兵士達が笑い声を上げた頃から背後の彼女から受ける重圧がまるで何かの生き物――それこそ龍に心臓を掴まれているのではないか、と思えるほどの重圧に、俺は知らず剣を握る手に力を入れていた。
ここに着いてからその顔やら服装はちらっとしか確認出来ていないが、うろ覚えのそれだけでもそういった重圧を感じるような女性では無いと思っていたのだが。
そこまで考えて、俺はふと首を傾げ――るわけにはいかないので、疑問だけ心の中で浮かべた。
そう言えば、はじめここに辿り着いた時に兵士が呼んでいた女性の名はなんだったか、と。
「ほら小僧、命が欲しくば早くそこをどけるがいい。今なら我々に意見したことを不問にしておいてやろ――う? ッ、グハァァァッ!?」
そんなことを考えていた俺は、いよいよ俺をどかそうと伸ばされた兵士の腕に対応出来なかった――否、反射で動いてしまった。
まあつまりはである。
こう、伸ばされた腕をそのまま手前に引き寄せてですね、肩に担ぐようにした勢いのままにぶん投げた――これまた見事に一本背負いを決め込んでしまったのである。
「……」
「うっわー、これまた見事に決めちゃったわねえ。完璧に目回しているわよ、これ」
「……あぁ、やっちまった」
ドシンッ、と地面に強かに打ちつけることになった兵士は、その不意の衝撃に耐えることなく意識を手放すこととなった。
剣術だけでなく体術も鍛えておいたほうがいい。
そういう李粛と呂布の言葉に従って鍛えておいたおかげか、特に意識したわけでもなく技が出てくるあたりそれも正解と言えよう。
そう思えば彼女達には感謝しても感謝しきれない――組み手の時にふよんふよんと揺れる李粛の胸とか、いつもと同じく無防備に身体を押し付けてくる呂布に精神的に四苦八苦したことを除けば、だが。
「こ……こ、この野郎ッ、やりやがったなッ!?」
「か、構わねぇッ、この小僧を殺して女共を無理矢理にでも連れていっちまおうぜッ!」
仲間をのされて逆上した残りの兵士が、共にその腰にある剣を抜く。
ジャキン、と歪な音をもって抜かれたそれは、日の光を反射して鈍い光を放っていた。
「なあッ、ぬ、抜きやがったッ!?」
「き……きゃあああぁぁぁっ!」
それと同時に、周囲から悲鳴とも怒声とも取れる声が上がり始める。
我知らずとその場を離れていく者。
巻き込まれるのを嫌がり距離をとる者。
それすら関せず動かずに事の次第を見守る者。
そういった風に周囲が動き始めていく中で、俺は鞘をつけたまま剣を構えた。
「ちょ、ちょっとあなた、そのままで戦うつもりッ!?」
「無論ですよ。こんな些細なことで徒に命を散らすものでもないでしょう。叩きのめして、城へ届ければそれで解決です」
そんな俺に戸惑ったのか、はたまた不思議に思ったのかは分からないが、背後にいた桃色の髪の女性から上げられた声に、俺は努めて冷静に振舞った。
まあ、冷静に振舞ったところで、その中身である心臓などはバクバクと早鐘を鳴らしているし、背中にはいやな汗もかいているのだが。
死の恐怖が目の前に迫っているとしても、女性やら女の子にいいところを見せたいと思うのは男の性なのか、と空気も読まずに疑問に思ってしまった。
「……んふふー、なら私も助太刀しちゃうわね? これで二対二、全く問題はないわ」
「ちょ、ちょっと雪蓮ッ! 問題を起こさないっていう問題は一体何処へいったのッ!?」
「んもー、冥琳は考えすぎなんだって。向こうは彼と私達が目的、こっちは向こうを止めるのが目的、ならお互いに協力したほうがいいのは考えなくても分かることでしょ? お互いに問題が解決出来ればそれでいいじゃない」
「いいじゃない、じゃないでしょッ、雪蓮ッ! 少しはこちらの話も――」
「――ほら、来るわよ。 あなたも、死なないように頑張ってね?」
「承知、そちらも気をつけて下さいよ?」
「当然ッ!」
「って、話を聞けこの馬鹿娘ッ!? あなたもあおらないで頂戴ッ!」
桃色の髪の女性――雪蓮と呼ばれた女性は、にやりと笑ったかと思うと、その腰にぶら下げていた剣を手にとった。
俺と同じく鞘から刀身を抜き放たない所を見ると、叩きのめすということに賛同してくれたらしい。
その光景に、俺は内心安堵した。
もし俺がこの兵士達を斬ることになれば、それは洛陽の安全を守る側としてそれを乱す者達を成敗した、で片がつく。
だが、見た感じ洛陽の者ではない彼女達がそれを成してしまえば、それで片がつく筈が無いのだ。
それこそ、軍として報復なり攻撃なりを検討しなければいけないのかもしれない。
そういったことを踏まえて事態を見てみれば、殺さずに兵士達を捕らえることが正解なのかもしれないと、そう思ったのである。
黒髪の女性――冥琳と呼ばれていた女性の声を無視して、俺達は斬りかかってくる兵士達と相対した。
その動きは、一騎当千の武人達から鍛えられてきた側からすれば蝿が止まるのではないか、と思えるほどであり、さしたる驚異でも無い。
ただ、その刀身が抜き身であるということに気をやりながら、俺は鞘付きの剣を振るった。
振り下ろされる剣を弾き、そのままの勢いを持ってしてがら空きとなった胴へと剣を振るう。
これが抜き身であるならばそのまま胴を二つに分断していたのであろうが、鞘が付いたままの剣は、鈍い音と何かが軋む音を発してその身体へとめり込んだ。
ドゴッ、という自分であれば出来るだけ――極力貰いたくない音を響かせた兵士は、その痛みに耐えることなく地面へと崩れ落ちていった。
剣が直撃した部分を抑えながら呻いているので、意識はあるようだ。
これならば城へと連れて行った後に事情を聞くことも出来るだろう、と思考した所で、俺は雪蓮と呼ばれた女性の方を見た。
丁度、彼女が下からすくい上げるように振るわれた剣が兵士の顎に直撃したところで、仰け反った兵士はそのまま後ろへ倒れたかと思うと、気絶でもしているのか動くことは無かった。
ふん、と鼻を鳴らした彼女は、くるりと振り向いたかと思うと、にっこりと笑いながら俺と視線を合わせた。
よくよく考えてみれば、今回の騒動で初めて彼女の顔を正面から見た気もする。
その空とも澄み切った湖とも言える深い蒼の瞳に見つめられ――俺は、またも瞳の奥が痛んだ気がした。
*
『はは……母様の顔がちらついているわ』
戦いを終えた俺達は、――が呼んでいると聞いて彼女の下へと駆けていた。
戦を終えたばかりの疲労など関係無い。
例えこの身が壊れても、俺は一刻も、一秒のみならず一瞬でも早く彼女の下へと駆けていった。
彼女の下へと行けば、いつもと変わらぬ笑顔が俺達を待っていてくれるのだと。
あの出来事……俺の目の前で――が毒矢で撃たれたことなど嘘のように、笑っていてくれるのだと信じて。
そして。
俺達を迎えた彼女は……そう言う――の顔は死人のように青ざめていて。
彼女の言葉と共に、最後はそう遠くないことを告げていた。
『呉の未来は、あなたたち二人に掛かってる……二人仲良く、協力しあって……呉の民を守っていきなさい……』
そう弱々しく、囁くように言葉を発した――は、力の無い俺と――の妹の手を、そっと重ね合わせた。
それに答える彼女の声はどこか震えていて。
共に答えた俺の声も、知らずのうちに震えていた。
『任せとけ……!』
『うん……見守って、ごほっ……おくからね……』
それに満足したのか、咳き込みながらも言葉を発した――の顔はどこか満足気で。
これからその身を、その命を、その魂を失おうとしている者のものとは思えなかった。
『はは……もう……時間が無いみたい……』
『――……!』
だから。
俺は信じることは出来なかった。
信じられなかった。
信じたくなかった。
『一刀……楽しい……日々、だった、ね……』
『ああ……楽しかったよな……! 酒飲んで怒られたり、釣りしたり……! でもさ、――! 俺はもっと、もっとおまえと居たかった! もっと楽しく、笑いあっていたかった! ……なのに……どうしてだよ! なんで……なんで死んじゃうんだよ!』
――が死ぬということ。
――がいなくなるということ。
――が……――の笑顔が、もう二度と見られなくなることを。
いたずらが見つかった時の、子供のような顔も。
民を愛し、民に愛されてきたあの笑顔も。
それを傷つける者にだけ向ける獣のような顔も。
その裏にある、弱々しく甘える少女のような顔も。
もう、二度と。
『人は、いつか死ぬもの……私、幸せだよ……楽しかったこと、思い浮かべて……死んで、いけるから』
だけど、彼女はそれでも満足だと言う。
そう言えば、俺達が悲しまないとでも思っているのだろうか。
それとも。
そう残すことで、俺達の心の中……魂に――が生きていけるように、であろうか。
その真意は、最早伺い知ることは出来ないだろう。
その心の奥は、最早――は話さないだろう。
だけど。
俺は、そう思うことが出来た。
確かに、――の命は失われ、その魂は天へと召されるのだろう。
だが、彼女が生きた証は、確かにここにある。
確かに、俺達の中で生きていくのだ。
『さよ、なら……かず、と……あなたにあえて…………』
『――っ!』
だから、俺は――の死を、――がいなくなることを受け入れよう。
今すぐには無理かもしれないけど、きっとその事実を受け止めようと思う。
だからな、――。
今だけは。
今だけは……泣くことを、許して欲しい。
――のことだ、泣き虫だとか言って俺を笑うかもしれないけど。
今だけは、愛した人が逝くことを、悲しませて欲しい。
『……雪蓮ーーーーーっ!』
そうして俺は、溢れる涙を堪えることなく彼女の名を呼ぶ。
ゆっくりとその命を天へと昇らせる雪蓮の顔は、涙で滲みぼやけていたけど。
最後に名を呼ばれ。
雪蓮は、微笑んでいた気がする。
そして俺は願う。
涙を堪えることなく、ゆっくりとその温もりを失っていく雪蓮の顔を見つめながら。
願わくば、再び笑顔の彼女に出会えるように、と。
*
「一刀殿ッ! 状況は……どうやら、落ち着いているようですね」
「……ッ」
唐突に聞こえた徐晃の声に、俺は沈みかけていた意識を急速に引っ張り上げられる。
まただ。
曹操と初めて出会った時に感じたものと同じ感覚。
見たこともない景色で、見たこともない映像が流れるその感覚は、やはり俺の記憶にはないものであった。
どうして俺が泣いているのかも、どうして目の前にいる女性が死ぬのかも、全く分からない。
ただ言えることは、俺と彼女は親しい関係であった、ということぐらいか。
何を馬鹿な、と俺は頭を振った。
今日、この場所で初めて出会った女性を知っていて尚かつ親しい関係であるなどと、どうして言えることが出来よう。
ただの気のせいだ、とばかりに俺は口を開いた。
「お疲れ様、琴音。とりあえず暴れていたのはこいつらだけみたいだけど、こういったことはこれからも起こりうることだから、何か対策を考えないといけないかもな」
「……私が引き受けた兵士の中にも、同じような素行の者がいるとのことですので、それは賛成ですね。早速ですが、こいつらを城へと連行した足で月様と詠様に意見してみます」
「うん、そうしてみてくれ。華雄殿や霞なんかには、俺の方から気をつけるように言っておくよ」
「分かりました、その件はお願いします。……ああ、そういえば」
「うん?」
「これをお返ししておきましょう。ふふ……いきなりこれを持った民が駆け込んできた時には何事かと思いましたが。警邏の時にこういう緊急度が分かるものを持っておけば、駆けつける優先度が分かっていいですね」
「うーん……そうだな、琴音の言うとおりだ。今度、草案を詠に出してみるよ」
そうして徐晃から手渡されたそれ──聖フランチェスカの制服を受け取った。
初めての試みであったのだが、それが上手くいったかと思うとほっとすると同時に、それに気づいてくれた徐晃に感謝する。
とりあえず俺の知る将達なら気づいてくれるものとは思うのだが、一般の兵士や新規の将には難しいものがあるかもしれない。
そう思った俺と徐晃の提案によって、この数日後から洛陽の街の警備体制は一変することとなるのだが、この時の俺には知るよしも無かった。
「へー、あなた、天の御遣いだったんだ」
そうして、捕らえた兵士達──元兵士とも言える彼らを城へと連れて行くにあたっての注意事項を徐晃と話していた俺の背後から、ふと声がかかる。
その声に反応してみれば、桃色の髪の女性とその背後に黒髪の女性、双子の少女と老人がいた。
「あー……うん、まあ、そう一般的にはそう呼ばれてるね。俺の名前は北郷一刀、今回はうちの兵達が迷惑をかけたみたいで……本当に申し訳ない」
「ああ、別にいいわよ。だってあなたは助けてくれたんだし、あのままだと面倒に巻き込まれたのは私達なんだし。おあいこ、ってことでいいと思わない?」
「……面倒に自ら身を投げ入れた人の言葉とは思えないわね、雪蓮? まあ……こちらも、迷惑をかけたようだな、北郷殿。申し遅れた、私は周喩、字は公瑾という」
「ああ、よろしく。……さすがは美周郎、その名は伊達じゃない、か」
「ん? 何か言ったか?」
「いや、何も」
桃色の髪の女性に苦言をしながら、一歩黒髪の女性が前へと出る。
そして名乗られた名前──周喩の名は、少しでも三国志をかじっていれば途端に思い出すものであり、それだけの人物が目の前にいるのだということに知らず俺は身体を強ばらせた。
周喩、字は公瑾。
孫堅の代から仕え、その子である孫策とは断金ともいえるほどの親交を結んだとされる人物である。
その知略武略は数多の英傑が活躍した三国志の時代でも群を抜いており、その才をもって孫策と共に孫呉の礎を築いたとされている。
そして、彼は──まあこの世界では彼女らしいが、その立派な風采から美周郎と呼ばれていたらしい。
その時代の美という感覚は現代人の俺からしてみればどんなものなのかは理解出来ないが、今目の前にいる周喩を見れば、なるほど確かに美周郎だと思えるほどに、彼女は美しいと言えた。
と、そこまで思い出して、俺はふと思った。
周喩がここにいて、かつ彼女が真名を呼んでいることから非常に親しい間柄だと思われる桃色の髪の女性は、一体誰なのか、と。
そんな俺の疑問をかぎ取ったのか、意中の彼女はにこーと笑いながら自ら名乗りを──小覇王と呼ばれるその名を上げた。
「んもー、誰も迷惑なんかかけてないのに、冥琳ったら気にしすぎなんだから。ああ、私の名前は孫策、字は伯符。面倒くさいから敬語は無し、呼び捨てで構わないわよ?」