一閃。
白銀の煌めきが僅かばかりながらその場を支配すると、少女の周りにいた数人の男達が叫び声を上げながら吹き飛んでいく。
一閃。
剣を振り上げて襲いかかろうとする男の喉元へと槍を突き出した少女は、すぐさまにそれを引き抜き同じように、続いてそれを横へと振るう。
一閃。
繰り出される剣を槍の腹で器用に受け止めた少女は、くるりと槍を回し剣を絡め取ると、槍を振るい男の首を刎ねた。
幾重にも重なる骸を前にして、またその骸から流れ出た血溜まりを前にして、纏う白き衣を朱に濡らすこともなく、少女は眼前に迫り来る男達を一瞥した。
数十人の男を相手にしながらその息づかいは乱れた所無く、その視線には一切の疲労の色も無かった。
白き衣と蒼穹の髪を風に流せるままにするその姿は、およそ戦場という地においてはあまりにも不似合いなものであった。
「ふむ、大将軍子飼いの兵というからどれほどのものかと思えば……ただの夜盗崩れではないか。そのようなもので私が討ち取れるなどと、片腹痛い」
ふふ、と。
まるで女が男を誘うかのように艶やかに笑った少女は、静かに槍を構えた。
いや、実際に誘っているのかもしれない。
その違う所は、それが閨か槍の範囲か、というだけのものであるが。
そうして誘われた一人の男が、横に振るわれた槍の穂先に捉まってその首を宙へと放り出した。
自らが死んだことすら知覚出来ずに倒れ伏した男を前にして、その少女は声高らかに名乗りを上げた。
「我が名は趙子龍、常山の昇り龍なりッ! 我が愛槍、龍牙の露になりたい者はかかってくるがいいッ!」
「おおー、星ちゃんのりのりですねー。あのまま追い払ってくれないでしょうか」
「いくら星殿でも、さすがに三百程の相手は難しいと思うぞ、風。もっとも、ここまで派手にやらかしたんだ、そろそろ助けが来てもおかしくはない筈だが……」
名乗りを上げる少女――趙雲から少し離れた場所で、二人の少女は趙雲を視界に収めていた。
水色を基調とした服を身に纏い、ふわふわとした金色の髪の上に人形らしきものを載せた少女は、眠たげな口調で期待を口にした。
だがそれも、紺色を基調とした服を纏う少女に覆されてしまう。
きらり、と光を反射する眼鏡の奥に見える瞳は冷静な色を称えており、趙雲一人対三百人という絶望的な状況でも何ら心配などしてはいなさそうではあるが。
前か後ろか、そうぼそりと呟いた眼鏡の少女の背後から声が発せられた。
「あ、あの、あの方は大丈夫なのですか? いくらあの方が武芸に秀でていても、あれだけの数を相手にすればいくらなんでも……」
「……助けてもらったことには感謝していますが、彼女が引きつけている内に逃げることは叶わぬのですか? 見たところ、彼女は武芸に秀でているのでしょうが、あなた方はどうにもその域ではない様子。逃げるなら今では?」
先の眠たげな少女に劣らぬふわふわとした髪に隠れながら、気弱な声がぼそぼそと紡がれる。
音量だけで聞くのなら小さいとも言える声であるが、いざ実際に聞くことになれば驚くほどにすんなりと耳に入るものであった。
それに眼鏡の少女が驚いていれば、そんな声を遮るかのように冷徹な声が発せられた。
同じような眼鏡をかけていながら、その奥から覗く双眸は酷く冷たい。
明らかに警戒されている、と眼鏡の少女が気付くほどにであるのだが、背後に守るようにしている先の少女を見る時だけは、その中にも温かさが灯るみたいであった。
文官風の身なりながら、用いられている布や装飾が絢爛なことから鑑みるに、どうやら朝廷の関係者であるらしいのは、初め見たときから知れたことであった。
そのような者が一人の少女――それも自分達より遙かに身なりのいい彼女を守るということは、その少女がどれだけの地位にいるのかがよく分かる。
実際にはどのような身分なのかは知らぬが、それも戦場ではあまり関係のないことだと、眼鏡の少女は視線を戻した。
ただまあ、いくら朝廷の関係者が守るとは言っても皇族でもあるまいし、と考えながら。
「稟ちゃん、ぼちぼち下がりますですよー。どうにも、星ちゃんが押され気味みたいですし」
そう言われて眼鏡の少女が視線を移せば、先ほどまで趙雲に切り崩されていた固まりが、徐々にではあるが彼女を――自分達を覆い尽くすかのように蠢いているのが確認出来た。
指揮官らしき人物は確認出来ないため、彼らが適当に命令された一団だと言うのは分かるものだが、どうやら多くの仲間を討たれていよいよに頭を使い始めたらしい。
いくら趙雲の武が優れているとは言っても、それにも限度がある。
さらには、自らのみならば趙雲でも身を守ることは叶うかもしれないが、この場にいる四人を守ることは難しいことは自明の理であった。
故に、敵がこちらを囲もうとするのなら囲まれないように退く。
こちらが後方へ退いていけば敵はまず趙雲を囲んで討とうと動くのだが、少し動けばこちらへと手が届きそうな距離を保つことでそれを防ぐ。
いざこちらへと動こうとした者がいたとしても、それを優先して討つ趙雲の前に、敵もそれが成せない状況であった。
まあ、一度に全部がこちらへと来れば防ぎようなどないに等しいのだが。
「ふむ……そろそろ本気で逃げた方がよさそうですね」
それでも、そのような状況が続くはずもなく。
敵の中でも機動力に優れた騎兵が、こちらの前方を塞ごうと動き始める。
護身用にと馬に乗せてあった弓を放つが、元々武芸に秀でるわけでもない自分ではそれもどれだけの効果があるのか、と思う。
だが、やらないよりはまし、とばかりに眼鏡の少女は弓を引き絞っていた。
「ちぃッ!?」
徐々に、徐々に。
じりじりと押されてきていることが分かっているのにどうしようもない現実に、趙雲は知らず舌打ちした。
五十を斬った後からは面倒くさくなって数えていないが、それでもまだ脅威となる数が残っているのは見て取れる。
さすがに疲れが出始めているのか、と趙雲は槍をしっかりと持ち直して眼前の敵を見やった。
女だから、と甘く見て一人ずつで襲いかかってくることが無くなった敵は、途中から三人或いは四人の組で斬りかかってくるようになった。
それだけの数で負けるとも趙雲は思っていなかったが、それが積み重なってくれば直接の負けには繋がらなくても、どうしても疲労は積んでしまう。
その時こそが勝負の時だろうな、と趙雲はその時に向けて出来うる限り体力を回復させたいと思っていた。
だが。
それを敵が見逃す筈もない。
「くぅッ! あっ、待てぃッ!?」
一瞬ばかり思考を別のことに用いた隙を突いて、三人の男達が一気に趙雲へと襲いかかってきたのだ。
疲労がなければ、それだけの数は恐るるに足りないものであるが、今この時としてはそれもままならない。
一人は斬りつけ、一人はその首へと槍を突き立てたものの、最後の一人に穂先を撫でらすまでには至らなかった。
振り落とされた剣をかろうじて受け止めた趙雲は、視界の端を走り去っていく騎馬へと声を荒げるが、彼らがそれを聞き入れることもない。
すぐさまに追いかけたいものではあるが、体重を加算して力の限りに押しつぶさんとする男の剣を今は押しとどめるので精一杯であった。
そんな趙雲を見て、次々と男の背後から騎馬が飛び出していく。
先に逃げる少女達を狙っているのは明確であったが、そんな趙雲の思惑とは裏腹に、数人の男達が趙雲を囲むように動き始めた。
剣を押しとどめるので精一杯ではあったが、男達から聞こえる下卑た笑い声に、彼らがどのような顔をしているのか容易に想像できる。
それを表すかのように、身体の各所――胸や太腿、その奥までを舐めるかのような視線を感じ、趙雲はぞくりと背筋を振るわせた。
逃げるか。
瞬時に脳裏に浮かんだ選択肢を、趙雲は頭を振って否定する。
今ここで逃げることは十分に可能である。
目の前の男を蹴飛ばし、槍を一気に振るってこちらの武に怖じ気づいている所を突破する。
それだけならば、いくら疲労に塗れたとはいっても十分に実現可能な手段であった。
だが、騎馬が駆けていった方向にはこれまで共に旅してきた同士がいる。
今ここで自らが逃げ出せば、彼女達が自分の変わりに男達の標的なることは当然のことであり、周りにいる男達から見ても汚辱にまみれることもまた当然のことであった。
だからこそ逃げる訳にはいかない、と趙雲は四肢に力を込めた――
「げへへへ、綺麗な肌してやがるぜぇ」
「ひゃぅっ!?」
――その瞬間、趙雲の剥き出しの二の腕が、不意にさわりと撫でられた。
不意の感覚に不覚を取った趙雲は、慌てて抜けていく四肢の緊張に力を込めるが、力の抜けた瞬間を狙われて、地面に押し倒されるかのように剣を突きつけられる。
最早こうなってしまえば、単純に体重と力の強い男の方が優勢であって、蹴飛ばしたからといってどうなる風でもない。
さらには、視線を動かせば先ほど腕を触った男のみならず、反対側や頭の上からも男達が近づいてくるのが確認出来た。
不覚。
そう口の中で呟くが、そう言ったから状況が好転するわけでもない。
迫り来る男という脅威と汚辱される瞬間を前にして、趙雲はいよいよここまでか、と諦めかけていた。
願わくば、共に旅してきた二人と助けようとした二人が無事に逃げ切れることを。
そうして、趙雲は全ての絶望を受け入れようと力を抜こうとした――
――その視界に、一本の矢が飛来する。
**
一本の矢が一つの命を今まさに奪わんとしている頃。
皇帝がおわす洛陽の城、その一室において、三つの命の灯火が今まさに消えようとしていた――否、一つは既に消えていた。
先ほどまで痛み、苦しんでいたソレが最早物言わぬ骸となって転がっているのを、司馬懿は冷徹な瞳で見据えていた。
痛みから逃れようと伸ばされた腕は二度と持ち上がることもなく、何かを掴むように開かれた指はぴくりとも動く気配はない。
口から吐かれた血が床と口周りを赤黒く変色させており、ソレが纏っている輝かんばかりの衣服をも所々汚していた。
「輝かんばかりの服……これがあの男の骸であったならば、どれだけ助かることか。まあ、そんなに簡単に事が済むのなら、左慈も于吉も手こずったりはせん、か……」
「ごほッ! かっ、かはっ」
「ぐふっ。き、貴様……ッ!?」
実に残念だ、とばかりに溜息をつく司馬懿だったが、ふと思い出したかのように視線を動かした。
ソレから少し離れた所、二人並ぶように地に伏せるソレを司馬懿は見やる。
ごほごほ、と咳き込めば息と同時に血を吐き出し、その豪華絢爛な衣服をも朱に染めていく白銀の髪を持つ女性。
その豊かな肢体は男の情欲の行く先になるには十分なものである――が、それも胸の谷間に突き入れられている剣がどうにも邪魔なものであった。
少しだけ心の臓をそれた剣の切っ先は、しかして肺や気管支を傷つけたのか、彼女が呼吸をする度に空気の抜けていく音がするようであった。
もう一人も、先の者ほどではないにしろ絢爛風靡な衣服を纏い地に伏せていた。
ただ、その腹部には剣が深々と突き入れられており、彼女が痛みに蠢く度にカチャカチャと不愉快な音を立てて鳴っていた。
背中まで突き抜けていた剣をどうにかしようにも、力を入れるごとに痙攣するかのようにビクリと動くものだから、余計に耳障りである。
それでも、その瞳から覗く気概は、さすが朝廷の権力の殆どを手にした宦官ならではか、と司馬懿はソレ――張譲へと視線を向けた。
「何かご用ですか、張譲殿? もっとも、その傷では話すことはおろか、息をすることさえも苦しいでしょうが」
「ぐっ……がふっ……き、さま、何をしたの、ガ……ぐふっ」
「ええもちろん、分かっていますよ。あなたに幻術を見せ、殺すように仕向けただけですよ――あそこに転がっている、霊帝をね」
そう言って、司馬懿はソレ――霊帝の骸に視線を向けることなく答えた。
何進が各諸侯へ軍勢を率いて洛陽に来い、との命令を出したことによって、多くの宦官はそれを恐れることとなった。
何進と対外的にも対立しているのは張譲であるが、自分達宦官が幽帝亡き後の次期皇帝として擁立しているのは何進が擁立している劉弁では無く、劉協なのである。
この機会を好機として対立する自分達へと矛を向けることは至極当然のことであり、宦官達からとってみれば絶体絶命の危機でもあった。
各宦官が保有する私兵をもって何進と一戦交えればそれでもよいが、宦官の全兵力を集めたとて五万がいいほどであった。
何進が保持する兵力は二万と、宦官の勢力には遠く及ばないものであるが、それも各諸侯が加わればその限りではない。
謀略で手に入れた大将軍とはいえ、その名は絶大であり、その命とすれば従わぬ訳にはいかないのだ。
故に、たった三万ほどの戦力差では不十分なものがあるし、いざ一戦となった所で、百戦錬磨の各諸侯の軍と、ならず者やら黄巾賊崩れやらを金で雇っただけの宦官の私兵では明らかに練度の差があるのだ。
軍事での決着が付かないのであれば、もはや宦官としては主格たる張譲に期待するしか他はない。
張譲もそれを理解しているからこそ、彼女は信頼出来る手の者によって人払いの済んだ城の一室に司馬懿を呼び出し、何進の首を取れと囁いたのであった。
「もっとも、あなたが私――いや、俺を疑っているからこそ、容易に幻術にかけることが出来たのだがな。力を十分に発揮出来るのならそのような面倒くさいこともないのだが……まあ、上手くいったからとやかくは言うまい」
だが。
張譲の予想を大きく裏切って、司馬懿は張譲へと剣を向けた。
時は今、と張譲が囁いた後、司馬懿は突然に剣を抜いて張譲へと襲いかかった――張譲にはこう見えていたのだ。
それゆえ、張譲はとっさに懐に潜ませていた短剣にて司馬懿――と見せられていた霊帝の胸を突いたのだった。
そして、その騒ぎを聞きつけて――というよりも、元々その張譲の動きを待ち構えていたであろう司馬懿によって連れてこられた何進によって、自らも剣によって突かれることになったのだが。
しかも、その何進は背後から司馬懿によって剣を突き刺されるといった始末であった。
ここまで来れば――ここまで流暢に物事が進んだのならば。
そう考えると、張譲もようやくそこへ思い至った。
「がふっ……ま、まざが、初めからそのためだけ、に……ッ!?」
「ご名答。貴様らが俺を追い返すことも、何進が俺を拾うことも、今この場で貴様らが死ぬことも、すべては俺の手の上だ。もっとも、貴様らがこうなることはただの通過点――いや、始まりに過ぎぬがな。その基点として、貴様らには洛陽大火の礎となってもらおうか」
司馬懿はそう言って、部屋を照らす蝋燭の燭台を倒した。
途端、まるで初めから油でもまいていたかのように瞬く間に火は炎と化して、部屋の中を蹂躙していく。
倉庫として使われていたのか、部屋の隅に置かれていた竹簡や書類は瞬く間に炎を広げるための燃焼剤となり、それは当然の如く張譲の近くにも積もれているものであった。
まるで腹を空かした獣のように燃えるものを探す炎は、そこを経由して張譲へとその牙を剥いたのであった。
「ぐぅっ……おのれぇ……おのれぇぇぇぇぇッ…………」
炎に包まれる直前、張譲は床に落ちていた剣へと必死に腕を伸ばした。
このまま――司馬懿だけに一人勝ちをさせる訳にはいかない、と自らの中で警鐘を打ち鳴らす後漢王朝の臣としての自分の意に従って。
司馬懿をこのまま世に放てば、後漢王朝が――しいては中華の大地がきっと未曾有の事態に巻き込まれるであろうことを懸念して。
そして。
あと少し、という所で炎は張譲の身体を覆い尽くし、延ばされた手が剣を掴むと彼女は二度と動くことは無かった。
「さて……何か言い残すことはあるか?」
「ひゅー……ひゅー……」
動かなくなった張譲から何進へと司馬懿が視線を移すと、話す気力も体力もないのか、彼女の気管から漏れる空気の音だけがその場を支配する。
二人の周囲ではごうごうと炎が燃え上がり、張譲に続いて幽帝の骸をも飲み込もうとしていた。
このままであれば、いずれそれは何進をも飲み込むことは必至である。
胸の傷から見て、それが骸であるか否か、の違いはあるが。
「まあ、気管が傷付いていれば話すことどころか、息をするのもつらいだろうがな。……一息に殺すわけにはいかんのでな、炎に巻かれながら死んでいくがいい」
そう言って何進から視線を外して背を向ける司馬懿に、何進は何も言わない。
もはや司馬懿の声が聞こえているのかも怪しく、もはやその姿を確認できているのかどうかも、生気のない瞳では怪しいものがあった。
ただただ苦しそうな息づかいとそれによって零れる空気の音を聞きながら、司馬懿の姿は炎にまかれたかのようにその場から掻き消えた。
「ひゅー……ごほッ……ふふっ」
司馬懿の消えた部屋の中、肺へと入り込んだ血にむせながら何進は知らず微笑んでいた。
彼女自身とすれば微笑んでいるのかどうかも知覚出来ないほど血が流れているのだが、確かに頬の筋肉は動き笑みの形を作っている。
だんだんと朧気に――黒とも白とも言い表せぬ色の思考を塗りつぶされて息ながら、何進は知らずの内に口を開いていた。
「――れて、信頼した男に殺される、か……かはっ。金と贔屓で権力を取ったわらわにしては、実に似合わぬ、死に方じゃな……。……のう仲達、お主は気づかなかったであろうが……わらわはお主のことを…………」
**
そして。
部屋から零れる声が途切れた頃。
部屋の中を蹂躙し燃やし尽くした炎は、いよいよを持って世へと放たれる。
扉から溢れる炎を朝廷に仕える文官が見つけた時には、既に遅く。
まるでそれが決められていた事のように、炎は部屋を飛び出し瞬く間に城を燃やし尽くさんとした。
そして、天高く立ち上る煙は衆目――洛陽の人々にも知れ渡ることになり。
まるで示し合わせたかのように、街は騒乱の渦へと叩き込まれることとなった。
そしてまた。
これを機に動き始める者達も、確かに存在した。
何進の命令によって洛陽を目指していた、諸侯達である。