「武官の方々は各諸侯の軍を駐屯出来る土地の確保を、文官の皆様は諸侯達への召喚に応じたことへの謝礼と駐屯中の兵糧の確保をお願いいたします」
てきぱきと的確な指示を出していく己の臣下――司馬懿の背中を見つめながら、何進はふと思考に耽った。
司馬懿が洛陽に、何進の元に来たのはたまたまの偶然であった。
たまには、と思い軍の調練へと顔を出したその帰り、城の門付近で見かけた男が目についた。
その男は何とか入れないだろうかと思案しており、話を聞けば朝廷に仕えたかったが宦官には馬鹿にされて相手にされなかったと言うのだ。
常の何進であればそれだけで切り上げただろうが、その頃は宦官の勢力が増していたこともあって、その通りにはならなかった。
宦官が話も聞かなかった男を自分が取り上げるのも悪くない。
それで宦官が動揺すればそれでよし、男が使えなくてもただ捨てればよいのだと、その時は思っていた。
だが、男は予想に反して優秀であった。
文を読み解き万人にも分かりやすいように整え。
剣を握らせば軍兵の誰よりも優れた使い手であった。
そんなものだから男の存在は瞬く間に大きなものとなっていき、何進にとっても漢王朝にとっても、いつしか無くてはならないものとなっていた。
宦官共の――張譲のあの苦虫を噛み潰したかのような顔はいつになっても忘れられん、と何進は笑いを堪えた。
「何大将軍は、宦官にこちらの思惑を気取られぬよう、細心の注意を……何を笑われておいでで?」
「いやすまぬ、なんでもない。して、注意だったな、宦官共が気づくとは思えんが仲達がそう言うのなら気をつけておこう。――して、仲達?」
「はっ、何用で?」
「いや何、袁紹や丁原などを呼び寄せるのは分かるのだが、宦官の孫である曹操や、地方の役人の娘である董卓などという小娘を呼び寄せる必要があるのか、と思ってな。西園八校尉の曹操はともかく、董卓など役に立つのか?」
たかだか黄巾賊の一軍を撃退した程度、何進にとって董卓というのはその程度の認識であった。
自軍の倍以上の賊軍を相手に勝利を収めてはいたようだが、それも練度も低く明確な指揮官のいない黄巾賊相手のことであって、さして評価を上げるようなものでもない。
また、荊州方面の一軍が勢力を拡大しながら涼州へと侵攻したのを撃退したとはいえ、それも涼州連合の一派として名を馳せる馬騰の軍が助勢したからであり、その功は殆どがそちらのものであろうとも考えていた。
だからこそ、何進は何故に司馬懿が董卓を呼び寄せようとするのかが理解できなかったのだが。
「何大将軍の言うことはもっともでございます。ですが、石城安定を勢力下とする董卓を御するということは、ここ洛陽において西方の守りを固めるということと同義でございます。董卓に西方を任せ、宦官に味方しようとする者共への抑えとする。彼の者の父親は洛陽にても名の知れた者であったとのこと、その娘である董卓ならばきっと任を全うすることも出来るでしょう」
信頼する司馬懿にそう言われてしまえば、うむむ、と何進は頭を抱えた。
今回呼び寄せる多くの諸侯は――というよりも、董卓以外の諸侯は洛陽より東方に割拠している者達である。
これは、黄河と長江の下流域が肥沃なためでもあるのだが、そういった理由もあって肥沃とはほど遠い地を勢力とする董卓に期待するというのは難しいものであった。
だが。
「……それに、彼の地には近頃民の間でも噂される天の御遣いとやらがいるとか。嘘か真か、一人で万もの黄巾賊を相手にしたとあっては、目を付けぬ訳にもいきますまい。それに、董卓を御するということは彼の者をも御するということ。民の指示を受け、宦官を討つ名分を得られることでしょう」
信頼する臣が笑みをたたえながらそう言えば、何進としては頷く他ないのである。
自身の女の部分が冷静な思考を邪魔する筈もない、そう言えば嘘になることは何進とて十分に理解している。
端正な顔立ちに鋭利な眼差し、そんな中見せる笑みに乙女のように顔が熱くなるのを止めることが出来ない何進は、ふい、と視線の中に司馬懿を入れぬようにと顔ごと動かした。
「……お主の言を信じよう。よきにはからえ」
「仰せのままに」
紅くなっているであろう顔を隠すように、その事実が目の前の男のせいでなっているという気恥ずかしさを隠すように、何進は顔を背ける――司馬懿が考えることならば、決して間違いはないのだという信頼をも隠すように。
だからこそ。
顔に張り付いたままの笑みの裏側に隠された司馬懿の思惑に、何進はついぞ気づくことは無かった。
**
「一体全体、どういうことなのか説明してもらおうかしら? あんたが反対って言う、その理由を」
俺の一言で空気が固まった部屋を解すように、賈駆が言葉を発する。
その表情には、こいつは何を言っているの、という感情が張り付いており、下手な受け答えでは感情を逆撫でするということは容易に想像出来た。
見渡せば、他の面々も同じように――こちらは俺が反対した理由を探っているものではあったが、各々に感情を貼り付けて、俺の言葉を待ち構えていた。
「……まあ、理由としてはですが、石城安定の復興に勢いが出始めたとはいえ、その完了までは未だ遠い道のりであります。そんな中、洛陽にまで軍を発し黄巾賊残党を掃討する、そんなことをすれば政を圧迫し民にも被害が及ぶ恐れがあります」
そもそも、黄巾賊に破壊された安定の城壁の修復は未だに終了していないのだ。
捕らえた元黄巾賊を従事させているとはいえ、街一つの城壁を直すのにどれだけの数がいようとも瞬時に直る訳でもないのだ。
結果として、未だ六割ほどの修復しか済んでいない安定の街が、洛陽に軍を発している間に黄巾賊残党に襲われてしまえば持ち堪えられるかは微妙な所である。
さらには、渭水周辺地域への対応、対策もある。
黄巾賊に促されたとは言え、あの地から多くの民達が黄巾賊に参加し安定に攻めたこともあって、警戒はしておかなければいけない事案であった。
今は牛輔の指揮の下、統率された偵察隊がその動きを監視している所であるが、それもいつ爆発するかは分からない。
それこそ、黄巾賊残党と共謀して安定を攻める可能性も否定出来ないのである。
それ以外にも新兵の調練、馬家との連携の強化、収穫物の見込み収入などなど、多くの懸念すべき事案があってどうして軍を発することが出来ようか、などと思ってしまうのであった。
もちろん、俺が考えつくことなのだから賈駆も当然予想はしているだろうし、先手や対策を打っているであろうことは想像に難くない。
だからといって、それだけならば反対などすることも無かったのだが。
「……なるほど、あんたの言いたいことは理解出来たわ。ようするに、時期尚早、そう言いたいわけね?」
「話が早くて助かるよ。確かに洛陽まで軍を率いれば、漢王朝はもとより何進、果てには各諸侯の覚えもよくなるだろう。だけど、それは目先にぶら下がっている勲に過ぎないんだ。それよりは、先に待つ大功を得るために今は力を蓄えるべきだと、俺は思う」
「だけど、それで時代のうねりに取り残されてしまえば? いずれ都で権力と財力と兵力を携えた勢力によって、私達は飲み込まれてしまうのは目に見えているわ。ならばこそ、そうなる前に出来るだけうねりに取り残されないように動いて、先手を打つ必要があるの。こうしている間にも、何進の呼びかけに応じた諸侯は出立しているでしょう。時を、一刻を争うのよ」
「だけど、そのために民を苦しめたら元も子もないだろう。民あっての国ならば、今は兵を鍛え国を富ませることが――」
「――もういいわ。あんたの言いたいことは分かるけど、だからといってボクも引くつもりはない。決して妥協点の見つかりそうにない議論をしたところで、時間の無駄だもの」
だから。
そう言って賈駆は、主たる董卓へと視線を移した。
それに合わせて、俺と賈駆の成り行きを見守っていた面々のみならず、俺の視線までもが董卓へと注がれた。
「月が決めてちょうだい。洛陽に軍を出すか、出さずに力を蓄えるか。どちらになったにしろ、ボクは全力を尽くすよ。……あんたも、それでいい?」
「……分かった、俺もそれでいいよ。悪い、月。面倒を押しつける形になっちゃったけど」
「へ、へぅ……い、いえ、一刀さんの言うことも理解出来ますし、詠ちゃんの言うことも分かるんです……」
だけど道筋は決めなければならない。
そう小さく呟いた董卓は、ふと思案するように瞳を閉じた。
俺としては、ここで諦めてくれた方が都合が良い――というよりは、諦めてくれればおおよそのことに決着が付くのだ。
俺の知る歴史において、細かい理由は多々あれど董卓が帝を、洛陽を手中に収めた最大の要因はその行動の速さであったと思う。
機を見るに敏となる――それこそ、今の賈駆であれば俺が危惧する通りに事が進むであろうことを想像するのは容易であった。
だが、先の話を思い出しても、董卓自身は洛陽へ軍を出すことには前向きなのだ。
黄巾賊残党によって苦しめられる可能性のある民を助けたい、そう思う志は立派であると思うし、守っていきたいと思う。
ならば、最早力を蓄えるようと説得するのは諦めて、俺は次の打開策を考えることに決めた。
一番に考えつくことは、出来うる限り遅めに行くということだ。
それならば俺の知る歴史とは差違を生じさせることが出来るし、その差違からいざ戦いが始まったとしてもこちらの損害は少なくすることが出来るだろう。
そのためには、この軍議を出来るだけ延ばすこと――最良なのは諦めて洛陽には行かないことなのだが、もし洛陽へ軍を出すにしても無理のない範囲で時間を延ばしたい所である。
賈駆が本気で準備の指揮をすれば瞬く間に洛陽へ発する準備は整うだろうが、それでも細かい所を延ばせば結構な時間となる。
要するには、だ。
俺は甘く見ていたのかもしれない――歴史が、そんなに簡単に変わるはずもないのに。
結局の所、董卓は俺の案を聞き入れることは無く、洛陽へ出征するための準備の任をその場にいた面々に下した。
無論その中には俺も含まれる訳で、俺の案をとらなかったことを董卓は酷く恐縮していた。
賈駆からの刺すような視線にさらされながら董卓を宥めた俺は、早速とばかりに出征の準備と平行して打開策を模索、検討していったのである。
**
そして、五日後。
涼州から洛陽に至るまでのいくつかの道筋の一つ、その入口にて俺は馬へと跨っていた。
この世界に来たばかりで馬に乗ったこともなく、またそういった知識も無かった俺を、唯一乗せてくれた馬――真っ白な毛並みを持つ白毛であることから、俺は白(はく)と呼んでいるのだが、初めて乗れた時には感無量であったのは、記憶に新しい。
そこ、名付けが安直とか言わない。
そして、訓練の時は気にしたことは無かったのだが、俺が天の御遣いと言われる理由でもある聖フランチェスカの制服を纏って跨れば、上も白、下も白という非常に目に痛い色になっていたりもした。
これは、董卓やら姜維やらが綺麗と言ってくれたりもしたので嬉しかったりもするのだが、俺としてはどうだろうなと頭を掲げるばかりであった。
そんな俺の隣に、一人の騎馬が近づいてきた。
「はっはっは、中々にお久しぶりですな、北郷殿。中々苦労されていると聞きましたが、いやはや、いい顔をするようになられた」
「お久しぶりです、稚然殿。稚然殿や玄菟殿の苦労が、ようやく分かった気がしますよ――っていうか、凄いと尊敬さえ出来ます」
「おおう、中々に言ってくれるわ」
無骨ながらも所々にある傷が歴戦を匂わせる鎧を纏った李確を隣にして、俺達はその形態を整えていく軍勢を、少しだけ小高い丘の上から眺めていた。
洛陽に出征する、という董卓の決には従った俺であったが、それでも石城と安定の守りの主張を翻すことはなく、結果として董卓軍総数の半分で洛陽へと赴くこととなったのである。
その数、実に五千。
黄巾賊戦において総数七千ほどであったのが、黄巾賊からの降兵や新規に参加した兵などを含め、多少の出たり入ったり――出た兵の多くの理由は華雄達武臣の訓練が厳しいというものであったが、そんなことをがあって董卓軍はようやく一万とも言える兵力を整えたのである。
そして、その内の四千を有する石城から二千の軍を任されたのが、李確であった。
とは言っても、任されたというよりは奪い合いで勝った、というのは本人の談である。
「いやなに、玄菟の奴も儂に行かせろと五月蠅くての。仕方なく剣で決着を付けてやったのよ、なっはっはっは」
「なっはっはっはっ、ではありませんよ、稚然様。董家の御重鎮ともあろうお二人が、子供のような理由で剣など振らないで下さい。下の者に示しがつかないではありませんか」
「おお、琴音。玄菟がよろしゅう言っとったぞ。あと土産――洛陽の名物酒もよろしく、とな」
「知りません、そんなことは。信じられますか、一刀殿。父上と稚然様、洛陽の酒を先に呑むのはこの儂だ、という理由で洛陽への出征を希望したんですよ」
「それは、まあ……何と言うか……」
そして、俺を挟んで李確の反対側へと徐晃が馬を進めた。
その表情はどうしていいやら、と何やら諦め顔で、李確を注意する声にもいつもの覇気は無い。
まあ、徐晃にとって李確は幼い頃を知るもう一人の父とも言えるのであろうから、本当の父である徐栄と例え殺さずとはいえ剣を振るわれては、心配なのもしょうがないものではあった。
まあ、彼女の場合はあまり顔に出したりはしないのだけれども。
「準備が出来たみたいだぜ、ご主人様。琴音と李確殿も、早くしないと詠がきれちゃうぜ」
徐晃に責められる李確を苦笑しながら見ていれば、不意に背後から声がかけられる。
声に反応して振り向いてみればそこには馬超がいて、出立の準備が終了したとの報をもたらした。
「ああ、分かったよ、翠。稚然殿も琴音も、早く行きましょう」
「分かりました、翠殿、一刀殿。ほら、稚然様も早く行きますよ」
「分かっておるわい、そう急かすな」
年寄り扱いするでない、と愚痴る李確を徐晃が引っ張っていくのを後方から眺めながら、俺は馬超と馬を並べた。
「翠は洛陽に行ったことはあるのか?」
「洛陽? ああ、あるよ。母様が漢から呼ばれた関係で、一度だけどな」
「寿成殿か……まあ、独立勢力に近い西涼連合の最大勢力だもんな、そう不思議なことではないか。どんな場所だった?」
「どんな場所? んー、簡単に言えば人が多かったな。民も官も、どちらにしてもだけど」
器用に手綱から手を離して腕を組む馬超、腕を組んだことによって主張が激しくなったその胸から視線を外し、俺は首を前へと向けた。
幸いなことに、馬超は気づいていないらしく、横目で窺えば何とも可愛らしく頭を抱えていた――再び胸へといきそうになる視線は、無理矢理に引っぺがした。
「あと飯は美味かったな。安定のも美味かったけど、何かこう……使ってるものから違うというか……」
「当然よ、洛陽は周辺の地域や諸侯から上納として作物などを得ているの。その中には当然、各地域の名産やらが含まれているのだから、翠が感じるようになっても無理はないもの」
整列した軍勢の前。
先ほどまで指示を飛ばしていた将達の中から、俺と馬超の言葉を聞きつけた賈駆が歩み寄ってくる。
その顔色を見るに、先日の口論の影響が残っているようではあったが、俺が特に気にしていない風なのを知ると、あからさまに俺の顔を見ながら溜息をついた。
「……まあ、その違いは洛陽に行ってから確かめて頂戴。今は出立の時、あんた達も早く持ち場に着きなさい」
「はいはい、分かってるよ。疲れたらちゃんと近くの兵に言うんだぞ、月も詠も、体力無いんだから。無理はするなよ?」
「はいはい、あんたの言いたいことは分かってるからさっさと持ち場に行きなさいよ。……全く、本当にお気楽なんだから。…………ボクがあんなに心配したのだって、無駄だったじゃないのよ」
「ん? 何か言ったか、詠?」
「何も言ってなんかないわよッ、さっさと行きなさいッ!」
「ひえっ! ご、ご主人様、早く行こうぜ!」
「ああ――って、翠ちょっと待てよ、俺を置いていくなッ!?」
まるでゴロゴロという音が聞こえるかのように落とされた賈駆の雷に、俺と馬超は慌てて馬を走らせた。
ふん、と賈駆が鼻を鳴らしたのを背中で聞きながら、俺と馬超は与えられた持ち場へと急いだのだった。
**
そして、石城安定を出立してから数日。
途中に数度の休息を入れながらも出来るだけ急いだためか、当初の予定より大幅に早くあと少しで洛陽を遠くに望めようかという距離にまで近づき、俺達は最後の休息をとった。
洛陽に入る前に出来るだけ疲れや汚れを取って体裁を整えた方がいいだろう、ということで簡素な陣地を構築した俺達は、ほんの一時の安らぎを楽しんでいた。
だがそれも、賊や黄巾賊の残党を警戒するために発していた斥候の一人が、ある報を持ち帰るまでのことである。
「洛陽方面にて詳細不明の砂煙を確認ッ! 徐々にこちらへと近づいてきている模様ですッ!」