ギィン、と。
振り下ろした剣を弾かれた俺は、その勢いを利用してその場で身体を回転、そのまま反対側から斬りつけるように腰に力を入れる。
普通に考えれば隙だらけのその行動も、相手の獲物が槍なことからその懐へと迫り、さらには動きを阻害するかのように身体を密着させれば、転じて威力を増した斬撃となる。
「ははッ、ご主人様も中々やるじゃないかッ!? だけど、まだまだ甘いッ!」
「錦馬超にそう言われるとは嬉しい限り――って、グフォォォォァァァッ!」
そう言って、右半身を前にするかのように槍を突き出していた相手――馬超は、その槍を振るおうともせずに、右脚を軸にして身体を回転させていく。
それに俺が気付いた時には既に遅く、まるで鞭とでも言えるしなりを響かせて、馬超が放った横蹴りは俺の横っ腹へと直撃した。
ミシッ、とか、メキッ、とか聞こえたのはきっと気のせいではないと思う。
その染み一つ無い綺麗な脚のどこにそんな力があるのか、そう思えるほどの蹴りを受けた俺は、肺から空気を押し出されて、本日一度目の気絶を味わった。
ふと、花畑の向こうで父親と母親が手を振っていた――光景が見えた気がする。
「はっはっはッ! 北郷よ、この私の一撃を受け止めることが出来るかッ!? 受け止めたら全力で叩き斬るがなッ!」
「ちょッ! それって、俺に一体どうしろと言うんですか葉由殿ッ!?」
ゴウッ、と空気を切り裂いて迫り来る戟を受け止めようと腕を動かすが、受け止めたらと言う以前にそんなことをすれば剣が折れると思った俺は、慌てて横っ飛びでそれを回避する。
訓練用に刃を潰している筈なのに、それを感じさせない音を発しながら地面にめり込んだ戟に冷や汗を流しつつ、体勢を整えて華雄が次の動作に移る前に勝負を仕掛けるために、脚に力を入れた。
「これでッ!」
「――甘いわぁぁッ!」
普段は片手で持つ剣を両手で構えて、力の限りに横に――華雄の横腹へと薙ぐ。
常であれば女性に傷を付ける行為など、とも思うのだが、華雄や呂布にそれをすればこちらの命が危うかったりするので、彼女達に対してはそれも別、本気でいかなければならない。
だが、たとえ俺が本気を出したからといって、その実力の差が埋まるのかと問われれば――断じて否であるのだが。
そんな俺との実力差を表すかのように、俺の横薙ぎの攻撃は――そこまでを予測していたのか、はたまた臨機応変に対応したのかは分からぬが――地面にめり込んだ戟を無理矢理に縦にすることによって、受け止められることとなった。
「げッ!?」
「中々に良い判断だったが、受け止められた後のことも考えておかねば、その時点でお前は死ぬぞ? ふんッ!」
「ぐふぅぅぅっ?!」
ガァン、と鈍い音を響かせて止まった俺の剣に視線をやりながら、実に楽しそうに笑う華雄であったが、相対する俺としては呆然とするしかなかった。
地面にめり込んだ戟を無理矢理に立たせて防ぐとか、無茶苦茶過ぎるだろ。
まさかあの体勢から防がれるとは思わなかった俺は、心の底から楽しそうに笑う華雄が目の前にいるにも関わらず、呆然としすぎて次への動作が遅れてしまっていた。
冷静になってみれば、剣を防がれたからといって攻撃の手を緩めることにはならないのである――まあ、剣を受け止められたという隙を華雄が見逃してくれればの話であるが。
だが、それとしても俺がいた世界での歴史でも、この世界に来て見た限りでも、華雄を含めこの世界の武人達が俺の常識に入りきらないのだと思い出すべきであった。
思い出せなかったからこそ、俺は華雄が横腹へと繰り出した蹴りを避けることが出来ずに、地面を転がっていった――馬超とは反対の方である、内臓大丈夫かな俺。
膝を打ち、頭を打ち、胸を打ち。
ようやく止まった時には打ち付けていない箇所はない、と言えるほどにズタボロになった俺は、擦れゆく意識の中で笑う華雄を見たのを最後に二度目の気絶を味わった。
「翠も華雄もちょっと本気だった。……恋もちょっとだけ本気出す」
「ええッ?! いや奉先殿に手合わせしてもらえるだけでも嬉しいのに本気まで出して貰ったら何と言いますかとりあえずまずは俺が死にますよねッ!?」
「いく」
「話を聞いて――うわおぉぉぉぅぅぅッ!?」
馬超の神速の戟も、華雄の破壊力満点の戟も凄まじいものがあったけど。
さすが三国無双と謳われる呂奉先であって、その戟は凄まじく――先ほども痛感したことだが、俺の常識の中では有り得ないものであった。
自分が反応出来たのが信じられないぐらいの速度で振るわれたそれは、呂布にとってはまるでそれが自然であるかのように、右から左へと振るわれただけ。
だと言うのに、その動作が全く見えなかったのは俺の技量が低かっただけなのか、それとも知らずのうちに目を瞑っていただけなのか――いや十中八九前者だけれども、或いは両方という可能性もなきにしもあらず。
ふと何かの匂いを感じて鼻を動かせば、何となく焦げ臭い感じがした。
「……避けられた。一刀、凄い」
「お褒めに与り光栄ですけどももう少し手加減を――ひゃわぁぁぁぁッ!?」
「……また避けた。もうちょっと、本気出してみる。……一刀?」
「な、何でしょうか、奉先殿? ええっと、何故そんなに楽しそうで――」
「死んじゃダメ」
「えっ、ちょっ、ぎゃあああああぁぁぁぁぁっ!?」
避けられるとは思っていなかったのか、いつもの感情の変化に乏しい表情を若干驚きに変えた呂布は、俺の言葉を待たずに再び戟を繰り出してくる。
幸いというか何というか再び避けることには成功したのだが、そんな俺の行動が何かしらに火を付けたのか、再び戟を構えた呂布から感じる気は先ほどまでとは違っていた。
何て言えばいいのか――獲物を前にした獣、そう表現するのが一番正しい気がする。
結局の所、少しだけながらも本気になった呂布の一撃を防ぐことなど俺の武力で出来るはずもなく、当初の予想通りに、気づいたときには強烈な衝撃と共に俺は空を飛んでいた。
実に、本日三度目の気絶である。
数刻のうちに三度も気絶するなんて身体の健康上何の問題も無いのだろうか、なんて考えながら、真っ暗な意識のまま俺は地面へと着地――もとい、激突した。
**
黄巾賊との戦闘の後処理がほぼ終わり、残る所とすれば民を受け入れるとの噂を聞きつけた人々の受け入れのための施策を考えなければならないという頃。
事務仕事に忙殺された二週間によって、俺はそれらを完結させることが出来た。
まあ、戦後処理を済ませることが出来ただけであって、他の仕事は未だ健在であったりするのだが。
それでも、一応に肩の荷が下りたことにほっと息をつくぐらいには落ち着いた状況を、俺は満喫していた。
だがまあ神様――と言うよりは現状、或いは周囲か、まあそういったものはどうにも俺を休ませたくはないらしい。
俺の仕事が一段落したのを見計らってか、はたまた見張ってたのかは知らぬが、問答無用とばかりに馬超に連れて行かれれば、そこは中庭であり、華雄と呂布、張遼が待ち構えていたのである。
結果は、まあ言わずもがななのであまり触れないで欲しい。
天下無双クラスの豪傑とはいえ、女の子相手に三戦全敗はさすがに俺でも落ち込んでしまうのですよ。
「……うぅん。…………あれ、霞?」
「おっ、やっと起きたんか、一刀。うちとやる前に気絶されたらかなわんで」
呂布との一戦からどれだけの時間が経ったのか。
神速の横薙ぎに文字通り吹き飛ばされたのまでは覚えているのだが、そこからの記憶が無い辺り、どうやら気絶していたらしい。
痛む節々やら横腹やらを確認して、おや、と頭を抱える。
思いっきり後頭部を打ち付けたと思っていたのだが、それほど痛くはないのだ。
それどころか、妙にふわふわとして――むしろ柔らかい。
さらに気になるのは、何故に張遼の顔が俺の上にあるのか。
いやいや、俺が寝ているのを覗き込んでいるのかもしれない――のだが、横目に見えるは剥き出しの臍、軽く視界を覆うのはサラシに巻かれた張遼の胸という光景に、どうにもこうにもある一つの事柄――というよりは、一つの体勢しか思いつかない。
「ええっと、霞……?これは一体――」
「ん? なんや、一刀はそんなことも知らんのんか? 男の夢、膝枕やないか」
いやむしろ太腿枕か、何ていつもの笑顔で言う張遼に、ああやっぱりか、と自分の現状がどうなっているのかなんてすぐさまにでも理解出来た。
あまりの恥ずかしさにそこから抜けだそうとしても、先の馬超やら華雄やら呂布やらとの一戦においてこっぴどくやられた身体は言うことを聞かず、ずきずきと来る痛みに叫ぼうとしても、張遼を驚かすわけにもいかずにそれを耐える。
そんな俺の心中を知ってか知らずか、何故か嬉しそうな笑みで張遼はさらさらと俺の髪を梳いていった。
……何か周囲が桃色に見えて、恥ずかしくて死にそうです。
せめてばかりもの抵抗として顔を横に背けようにも、にこにこと張遼に額を抑えられてしまえばそれも出来ず。
張遼の臍やら胸に視線が行くのを誤魔化すために、俺は瞳を閉じた。
「……なんや、一刀はうちの胸を見るのが嫌なんか? 整っとる、とまでは言わんけど、崩れてる訳でもないんやけどなぁ」
「……いや、そんなこと聞かれても返答に困る」
「それもそか。まあ、その真っ赤な顔が既に答えになっとるけどな」
「うぐっ……分かってるなら聞くなよ」
「いやいや、その反応が可愛くてなぁ」
可愛い、などと言われたことも無い――と思うのだけれども、そんな俺にとってその言葉は十分に照れるものであった。
なおかつ、どんな意図があるにせよ、張遼のような美人、美女に分類される女性に可愛いなどと言われてしまっては、無性に恥ずかしい。
何故だか実に楽しそうに髪やら頬、鼻や終いには唇を触ってくる張遼の拘束を解くことが出来ず、俺は仕方なしにそれを諦めて力を抜く――そこ、もっと堪能したいだけとかいうなよ、悪いか、開き直るぞ。
そんな俺の心中に気づいてか、からからと笑う張遼の声に決して不快感を感じるわけでもなく、俺は張遼のなすがままになっていた。
勿論、馬超がそれを見咎めて、ご主人様のスケベ変態、とか何とか騒いだのは当然のことである。
その騒ぎを聞きつけて、呂布とか華雄が私もしてやろう、とか、賈駆にすっごく冷たい視線で射抜かれたりとか、董卓が何故か涙目になったりとかも、当然のこと――じゃないと思うんだけどなあ、どうなんだろ。
だけどまあ、仕事が落ち着いたからといってものんびりしている訳にもいかない。
戦後処理は一通りの落ち着きを見せたが、今度はこれからの対策やら対応をしていかなければならないのだ。
一戦も出来ないことに文句を言う張遼に今度酒を奢るということを約束して宥めた俺は、痛む身体を引きずりながらどうにか自室へと戻った――戻ることが出来た。
俺凄え、と自分の身体に感謝である。
用意していた手ぬぐいで汗を拭いて服を着替えると、新たに将軍となって董卓と賈駆に用意された執務室へと赴いた。
ただ、である。
用意してくれたことには感謝するし、それに応えるために頑張ろうとは思うのだが――もう少し質素なものは無かったのだろうか。
何も董卓や賈駆と同じ規模じゃなくてもよかったのに、とは秘密である。
「北郷様、おはようございます! あ、あの、今日からまたよろしくお願いしますッ!」
「張り切りすぎて、また書類にお茶を零さないようにしてくださいよ、赤瑠。北郷殿、私もまたお世話になります」
「おはようございます、伯約殿、白儀殿。遠慮無く頼りにさせてもらいます」
部屋へ入ると、そこで仕事の準備をしていた二人――姜維と王方からの挨拶に応える。
戦後処理の時は人手が足りないこともあって他方の補助へと廻っていた二人であったが、それも落ち着いたとあって再び俺の補助へと戻ってきてくれることとなったのである。
感謝感激、というものだ。
「……そう言えば、馬超殿は何処へ? 軍事での副官だとお聞きしていたのですが」
「ああ、翠は葉由殿と霞から騎馬隊の調練に付き合って欲しいって言われて、そっちに行ったよ。結局のところ、こっちにいても意味はあまり無いし」
「護衛、という任もあるでしょうに。そもそも、錦馬超と名高い馬超殿が副官とは……」
「ああそれは……うん、無駄遣いだよね」
「はわはわ……そ、そんなはっきりと」
王方が積み重ねていく竹簡の一つを抜き取って開く。
軍部から来た徴兵の要望であったが、この件に関しては俺の独断で決定するわけにはいかない。
自領を守る戦の準備のために兵を集めるとはいえ、そこで集められ戦うのは俺達と同じ人であり、剣や矢を受ければ死んでしまうのだ。
そういった人達が増えるのを、董卓は酷く悲しむのである。
よって、これに関しては董卓へ上奏する分に纏めておく。
「まあ、俺としても自分の身を守れるだけの武があるとも思えないし、軍事関係――特に騎馬隊のことに関しては本当に助かっているんだし。その辺は大目に見てくれると助かるなあ」
「北郷殿の言うことは分かっているつもりですよ。我々としても、あなたに――天の御遣い殿に死なれると非常に困りますからね。各諸侯、民、漢王朝、どれをとってもその名は効果的に用いることが出来るでしょうし」
そう言ってニヤリと笑う王方に苦笑で答えつつ、目につく竹簡やら書類を片付けていく。
俺は戦後処理でどたばたと忙しくあまり関わることは無かった――いやまあ、俺に関することなんだけども、黄巾賊との戦いが終わり各地での黄巾賊もほぼが鎮圧されたとの報を受け、賈駆は真っ先に天の御遣いの名を前面へと押し出したのである。
勿論、董卓の下に天の御遣いがいて、という前提は崩さなかったものの、天から遣わされた御遣いの知謀によって匪賊を打ち倒し、そんな彼を従えて復興の指揮を執った董卓という構図は、おおよその民に受け入れられることとなったのである。
天の御遣いという名は、彼を従える董卓という名は、暗く混迷とした時代を生きる人々にとって、光輝く希望となりつつあった。
だがまあ、そんな恐れ多い希望を向けられても、何の実感も湧かない本人からすれば特に気にするものでもないのだが。
勿論出来うる限りのことはしたいと思っているし、期待に応えたいとも思ってはいるのだが、何分つい先日まではただの高校生だったのだ、いきなり英雄になれと言われても実感も湧かなければその道のりを描くことも出来やしないのである。
だから、実感を持って自分を天の御遣いと呼べるようになるまでは、利用価値のあるその名を利用するだけしてもらおうなんて考えていたのである。
それに賈駆なら悪いようにはしない――だろうと思うんだけど、どうだろうなあ。
そんなこんなで、久方ぶりに王方や姜維との会話を楽しみながらも、手と目は休めることなく出来るだけ要領良く仕事を片付けるように努力する。
俺で裁量出来るものは俺で、各方面の専門の方が詳しいことはそちらに、徴兵の件みたいに董卓の意見が必要なものは上奏するものへと纏めて。
戦後処理が済んだからこそ特に問題もなく仕事が進んでいくし、何より仕事の量が少ない。
壁を覆い隠し、机を潰すのではないかと思え、部屋を浸食していた竹簡と書類はなりを潜め、その数は机の上に積み重ねるぐらいであるのだ。
俺は、心中で安堵の涙を流していた。
安定の城壁の修復、食料事情の改善、来たる難民の受け入れ措置、周辺地域の賊討伐、などなど。
黄巾賊の脅威が一応の終結を見せたとはいえ、やらなければならないことはまだまだ山積みであり、時間などいくらあっても足りないほどであった。
事務を片付けて、姜維がお茶をひっくり返して、軍の調練に顔を出して、華雄にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返して、呂布にぶっ飛ばされて、張遼にぶっ飛ばされて、姜維がお茶をひっくり返す。
本人に言えば、そんなに零していません、などと可愛らしく文句を言いそうだが、如何せん一日一回ひっくり返されれば、擁護のしようが無かったりするのですよ姜維さん。
そうして、俺が何とかこうにか牛輔と打ち合えるぐらいには成長したころ。
名目のみとはいえ中華の支配者である幽帝がおわす洛陽から発せられた文書は、俺が知る歴史へと――彼女達にとっては悲劇へと、現状を進ませるには十分なものであった。
**
洛陽の中でも一際豪勢な装飾が施された――帝が住まう城の廊下を、一人の女性が歩いていた。
歩く度にカツカツと杖をつく音が鳴り、杖をつかなければならないほどに丸められた背中からみるに、女性というよりも老婆と表した方が正しいようであった。
「……やれやれ、わたしも年かねぇ。あれしきのことを止められないだなんて」
質素な服を纏いながらもかもされる上品な佇まいは、擦れながらもはっきりとした口調も相まって、確かな人物を感じさせるものである。
その足取りは見た目に反して力強く、彼女が年をくろうとも決して衰えたわけではないことを表していたのだが、その一言と共に急に弱々しくなる。
一つついた溜息には、どれだけの感情が込められていたのか。
年はくいたくないねえ、と頭を振った彼女だったが、ふと何かに気付いたように顔を上げた。
「うふん、王司徒ともあろうお方が、物憂げに息を吐く。私が男なら、保護欲を刺激されてきっと放っておかないわん」
「ふふ、若い頃ならそういった男もいただろうけどね、今はただのしわくちゃ婆さ。……あんたの忠告があったにも関わらず、あんたが危惧する方へと事態は動いてしまった。……本当に、申し訳ないねえ」
「うふ、それはいいのよ、別に。元々避けようがないことなんだし、私としても、助けて貰った恩を返したかっただけなのよ。気にする必要はないわ」
「ふふ、あんたも存外優しいねえ。漢女なんかじゃなく、ただの男だったならわたしも放ってはおかなかったよ」
幾分か軽くなった感情をもって振り向いた王司徒と呼ばれた老婆――王允は、先ほどまで誰もいなかった空間に人がいることを確認した。
筋骨隆々、長く朝廷に関わってきた王允でさえ見たこともない鋼の肉体とも呼べるそれは、この場にいない天の御遣いならばピンクのビキニ、と称するであろうものだけを履いていた。
それだけを見るのであれば、筋肉自慢の男が自己主張のためにそういったものを履いている、と解釈することも出来るのだが、それが実に女らしく身体を動かすのであれば、そういう訳でもなかった。
二房の三つ編みには桃色の布が可愛らしく巻かれており、その口元は女っぽく彩られている。
ともすれば、それらと動きを見れば女なのでは、とも思えるのだが、その鋼の肉体と履いている腰布の一部が少しばかり膨れていれば、彼が男だということはすぐさまに分かるものである。
だが、その動きは女。
真に奇っ怪な存在であった。
「王司徒にそこまで言われるなんて、漢女冥利に尽きるものだわ。ご主人様に会った時に、漢女に磨きのかかった私のこと気付いてもらえるかしら?」
「まあ、あんたぐらいなら忘れたくても忘れられはしないだろうねえ。自信を持ちなさいな、貂蝉」
「ありがとう、王司徒。私、頑張るわ」
乙女のように瞳を輝かせるそれ――貂蝉から視線を逸らすと、王允は再び歩き出した。
それに合わせて、貂蝉もくねくねとその後を付いていく。
端から見れば、老婆を襲おうとする刺客――もとい、化け物のようであるが、誰もそれを見咎めることなく、廊下を歩いていく。
そもそも、誰もいないのだから見咎められる筈もないのだが。
謁見の間に集められた文官、武官。
その前に進み出たそれらの纏め役――大将軍である何進が放った命令に右往左往していのであろう。
王允からすれば耳を疑い、命令を発した何進の神経を疑うものであったが、漢王朝に仕える臣としては自身の上役である何進に逆らう訳にもいかないのである。
だからこそ、王允は自身の執務室の扉を開け、長年使っている椅子に座り机を前にした。
如何にそれが愚策と思えども、主君たる皇帝が認めたことならば従わぬわけにもいかぬ。
ならば自分が出来ることは、その愚策によって漢王朝が被る被害を出来るだけ少なくすること。
そう思いながら、王允は筆をとった。
**
『黄巾の匪賊ここに殲滅し、その祝いを洛陽にて行うものとする。ついては、その後に黄巾の残党をも殲滅させるために、各々軍を率いて洛陽に来られたし』
そう書かれた文書が、大将軍何進の名で各諸侯へと送られたのは、その数日後のことであった。