ガキン、ゴギンと金属同士がぶつかり合う音が、辺りを包み込む。
それは決して一つではなく、二つ三つ、という数でもなく、それこそ数千といったほどが、その場を支配していた。
戦場。
黄色の群集と、青とも黒とも取れる集団。
数だけで言えば圧倒的なほどに黄色の群集の方が多いのだが、しかして対する集団は徐々にではあるがそれを切り崩していった。
その先頭に、一人の女性を走らせて。
「黄匪など、この夏候元譲の敵ではないわぁぁッ! 敵将、何処だ、出てこいッ!」
腰まで届くであろう黒髪を靡かせ、その手に持つ片刃の剣を振るう女性は、その姿だけならば美女として謳われる類の容姿であったのだが、その言葉遣い、その獲物にこびり付いた血、そしてその武威から見てみれば、それも到底遠いものであった。
だが、そんな評も彼女からしてみれば不要か。
黄色の群集を切り崩していく黒髪の女性――夏候惇を横目で見やりながら、水色の髪の女性が夏候惇の突撃によって集中の剃れた黄色の群集の横へと部隊を進める。
「全く……姉者も少しは軍としての戦術を学んで欲しいものだ。いつもいつも突撃では、軍の損害も大きくなるし、何より華琳様をお守りするのに苦労するではないか。……まあ、そんな何も考えていない姉者も、可愛いのだが」
水色の髪の女性――夏侯淵はそう呟いて、自らが率いる部隊へと指示を下す。
放て。
その一言で全てが通じるように伝達してあったのか、部隊の半数が構えていた弓から、次々と矢が放たれていく。
まるでそれ自体が一つの群れであるかのように飛来していく矢は、狙い澄まされたかのように、夏候惇の行く末へと吸い込まれていった。
しかし、夏侯惇に当たることはついぞ無い。
まるでそれが当然とでも言うかのように、夏侯惇はその走る速度を上げた。
それでもなお放たれる矢は、その進路へと放たれていっては、彼女の行く先に立つ黄色の布を付けた賊徒を、一人また一人と崩していく。
姉である夏侯惇を信じて、また、夏侯惇も妹である夏候淵を信じて、それを緩めることはせずに、一気呵成に切り込んでいった。
そして、その穿たれた穴を切り開くかのように、夏侯惇は再び剣を振るった。
視界の先で自身が憧れる女性が剣を振るったのを確認して、それに伴って吹き飛ばされた首や人を確認する。
七人。
それだけの人が、たったの一振りで命を奪われたり、戦闘の継続が不可能になったのである。
首を飛ばされた者、剣で防ごうとしたがそのまま吹き飛ばされた者、それに巻き添えをくらった者などなど。
その内容に違いはあれど、それを成すことの出来る武威は、少女――許緒にとって憧れより強いものであった。
「はぁ……やっぱり春蘭様は凄いなぁ。僕なんか、まだ多くて五人ぐらいしか倒せないのに」
「それだけ倒せれば十分だってのよ。そもそも、あの馬鹿猪を前提に考えているのがおかしいって気付きなさいよ、季衣」
「うーん、僕、頭悪いからそれが普通だと思ってたんだけど……やっぱり桂花は凄いなぁ」
憧れの女性は夏候惇ではあるが、幼いがゆえに自らが持たないものを持つ桂花と呼ばれた猫の耳のような頭巾を被った少女――荀彧に向けられた無垢な視線に、知らず向けられた本人は息を呑んでしまう。
そもそも許緒にとって、今の軍に入ったのは全くの偶然であり、それまではただの農民として生きてきた。
黄巾賊が蔓延るようになってからは、その人並み外れた膂力によってそれらを撃退してきたのだが、それも所詮は素人のものであった。
だが、今目の前で繰り広げられるものは、彼女が知っているものとは一線を画していた――遙かに違うのだ。
許緒が住んでいた村の人よりも多い人数でありながら、その動きは実に機敏で、的確で、軍として機能していた。
それを成す将軍として、また武人としても自分より強い夏侯惇に憧れてはいるが、自分より頭のいい荀彧、その両方を兼ね備える夏侯淵にも憧れるし、そんな彼女達を束ねる自らの主にも憧れているのである。
不意に、クスクスと笑い声が聞こえると、許緒も荀彧も、その声の方へと身体を向けた。
「ふふ、桂花も季衣の前では形無しね。――いい、季衣? 今のあなたは私の親衛隊だけど、いつかは軍を率いてもらわなければならない時が来るわ。そのためにも、これからも桂花からいろいろと学んでいきなさい。早きに越したことはないのだから」
「はい、分かりました、華琳様! これからもよろしくね、桂花!」
「うッ!? か、華琳様~!?」
金髪を二つに纏めた髪の少女が、椅子に座りながら頬杖をついていたのだが、何が面白いのやらとクスクスと笑う。
その笑いを好意的とっている許緒は屈託無く笑うのだが、その笑顔を向けられた荀彧としては、己の主が一体どういうつもりでそのようなことを言ったのかが理解出来ていた――つまりは、自分を虐めて楽しんでいるのだ、その微笑みの裏に閨でしか見せないあの意地悪な微笑みを隠して。
敵意や畏怖、侮辱を向けられることは、荀彧としても慣れてはいるのだが、どうにも純粋な好意を受けるのは尻込みしてしまうのである。
今に至る前、袁紹の所にいた時は才能ゆえの嫉妬から、ここに来てからは主の寵愛を取り合って夏侯惇などから敵意――というか羨ましがられるたりもするのだが、純粋な好意を受けた記憶というのは、両親縁者などの少数しかいない。
ようするには受け慣れていないのだが、かと言って、いつも夏侯惇に対するように口を開くのもどうかと思うし、いざそれを成した時に許緒がどう取るかが想像出来ない。
笑って流すか、泣くか――もし夏侯惇のように怒ってしまえば、あの膂力によって自分がどうなるかは、用意に想像出来てしまった。
ニコニコと笑う許緒、その視線を受けて何故か泣き出しそうな荀彧、その光景を見てクスクスと笑う――その中身はニヤニヤと笑っている金髪の少女の後背、一人の女性が歩み寄った。
燃えるような朱い髪を緩く纏めたその女性は、汚泥と血泥塗れる戦場にいながらも、その佇まいは凜としていた。
衣服は文官風ではあったが、その歩みに一切の隙は無く、腰にぶら下げられた剣は質素な装飾でありながらも、どこか使い慣れたようであった。
「華琳、各地で蜂起した黄巾賊の報告、届いたわよ――また桂花を虐めて楽しんでいたの? いい加減、その性癖直した方がいいと思うんだけど」
「ありがとう、紅瞬(こうしゅん)。それと、私の性癖に口を出さないでくれる? もっとも、あなたが閨に付き合ってくれるのなら考えても――」
「――ごめん、桂花。諦めて」
「そ、そんな、紅瞬様ー!?」
閨で虐められるのは大歓迎だが、人前で虐められるのはあまり嬉しくない荀彧は、それを言っても逆に嬉々として虐め出すであろう主よりも、彼女に唯一対等に意見出来るであろう人物へと期待を寄せた。
だが、そんな荀彧の希望も虚しく、紅瞬――張莫は、閨に誘われるのはご免だ、と言わんばかりに荀彧へ向けて謝罪した。
幼い頃からの親友である金髪の少女の性癖はよく知っている――何度か危ない目に遭っているのだが、張莫自身は至って普通の性癖を自負していた。
親友に負けない男を婿に、と考えている張莫に、本当に残念そうに溜息をついたその親友――曹操は、張莫が持ってきた報告書へと目を通す。
既に勝敗は決している。
如何に黄巾賊が大軍であろうとも、それは指揮系統がまとまっていればの状態であり、今現在はそのようではない。
すでに大方と呼ばれていた将軍は、夏侯惇によって討ち取られているし、もしそれが無事であり指揮系統がまとまっていても負ける気などしなかった。
夏侯惇の武、夏侯淵の部隊運用、荀彧の戦術と智、許緒の護衛があって、それで負けるのであるならば、自分の主としての才などただそれまでのことなのだ。
だから、負ける気はしない。
自分の才は、自分が信じられるものなのだから。
幽州、荊州、揚州で立った黄巾賊の報告を読んでいた視線が、ある一つの項目で止まる。
涼州。
その州は別段構いはしない、各地で蜂起した黄巾賊がそこに行かないという理由もないのだから。
だが、そこで起きた黄巾賊を鎮圧した軍の名前に、聞き慣れない名を見つけたのだから、どうしても気になってしまう。
「ねえ、紅瞬?」
「ん、何か用かしら、華琳? 言っておくけど、閨には行かないわよ」
「ああ、別にそれは今はいいの。それよりもこれ、これは本当のことなの?」
「……ああ、それは私も気になって再度調べさせたんだけど、事実みたいよ。――涼州方面の黄巾賊が、董卓という人物の軍に鎮圧された、っていうのはね」
董卓。
その名前に聞き覚えは無いのだが、董家は知っている。
優秀な官僚を輩出したのだが、彼がなまじ優秀で清廉であったがために疎まれて、涼州の僻地とでも言える石城の太守として飛ばされたということなのだが。
よほど優秀であるのなら、いつかは召し抱えたいと思っていたのだが、彼の名は董卓だっただろうか、と疑問に思えば、報告によればどうやら少女――娘らしい。
と、そこまで考えたところで、ふと思い出すことがあった。
確か、安定に黄巾賊が攻め寄せたのを撃退し、末には安定を勢力へと取り込んでしまった太守。
その者が、董卓という名前では無かったか、と。
そこまで思い出して合点がいったのだが、それでもどうにも不思議なことがある。
報告によれば、董卓の軍勢は総数が七千ほどだということである。
普通、太守にもよるが一つの街に駐屯する兵は一万程度なのだが、二つの街を勢力とする董卓にとってこれは少なすぎる。
まあ、その理由などはどうでもいいのだが、これでは防備の兵を残しても動かせる兵は五千ほどでしかない。
如何に馬騰が救援を差し向けたとは言っても、一万対六万でよくもまあこれだけ損害が少なく勝てたものだと感心する。
「優秀な軍師でもいるのかしら?」
そう思ってみれば、軍師の欄には賈文和の名があった。
だが、その名よりも一つ下の欄、そこに記されていた名に、曹操は視線を取られた。
天将、北郷一刀。
**
「……ふぅ」
一つ溜息をついて、女性は眼鏡を外して磨き始める。
艶やかな身躯を沿うように流れる黒髪を掻き上げて眼鏡を掛け直した女性は、先ほどまで行っていた報告書の確認へと再び戻ろうとした。
「冥琳、お酒呑まない?」
「……見て分からないかしら? 私は今、仕事をしているのだけれど」
しかも、あなたの分までね。
そう言外に視線で投げつけたのだが、それを気にする風でもなく部屋へと入ってきた女性に、冥琳――周喩は、再び溜息をついた。
呑まないか、と問いかけをしてきたのに、杯が二つあるのはどういうことなのか。
断られると思っていなかったのか、或いは断られても呑まそうと思っていたのか――恐らくは後者であろうことを思考しながらも、どうにも目の前の女性がしでかすことには流されてしまうことを、周喩は自覚していた。
だからこそ、無言で注がれた杯を受け取る。
「もーう、そんな気むずかしい顔でお酒を呑んだって、美味しくなんかないんだから。ほらほら、そんなに睨むと眉間に皺が寄ったままになっちゃうわよ?」
「なるわけないでしょう。そもそも、戦が終わった途端にふらふらと何処かへ消えていたあなたに言われたくないわね、雪蓮?」
「あー、それね……ちょっと、ね」
「あなたが消えることなんかいつものことだから気にしていないけど、戦が終わったあなたは危ないんだから、一言言ってから消えて頂戴。いつ民から陳情が来ないかと、ヒヤヒヤしてたのよ」
うんまあね、と笑う雪蓮――孫策に対して、彼女にしては曖昧な笑みだな、と周喩は杯を空けながらにして思う。
常であれば笑みを絶やさないという印象がある孫策であるが、今日みたいな笑みは周喩の記憶の中でも、さして見た記憶はない。
あるとすれば、陽蓮(ようれん)様――孫堅様が病で亡くなった時ぐらい、か。
孫堅、字は文台、真名は陽蓮。
その名にふさわしく太陽のように輝いたかの御仁は、その武威によって名を広め、その治世によって徳を成した。
江東の虎、それが彼女を表す二つ名ではあったが、連戦連勝を築き上げてきた虎も病に勝つことは出来なかったのである。
母の亡骸に縋り、泣き喚く小蓮――孫尚香。
王たるもの、喚くことをよしとせずに嗚咽を堪えた蓮華――孫権。
そんな二人の妹を控えて、姉たる孫策はどういった心境だったのだろう。
当主交代という混乱の中にあって、機を狙った袁術の手によって孫家は衰退、袁術の客将という形となってしまったのだが、その時の笑顔に似ている、と周喩は思った。
不安、決意、困惑、自虐、そういったものが混在した笑いであった。
黄巾賊を撃退したことによって孫家が再び名を売ることが、それを思い出させたのか、もしそうであるならば如何様にすればそれを取り除くことが出来るのか。
そう思考を始めていた周喩であったが、いつものニコーとした笑顔で孫策が覗き込んでくれば、ふと不思議に思った。
「うふふ、心配してくれるのは有り難いけど、今回の分はちょっと違うの。なんて言えばいいのかな、ええっと……覚悟、うん、覚悟を決めてきたの」
「覚悟? なんだ、まだ決めていなかったというのか、孫伯符ともあろう者が?」
「うーん、と……冥琳の言う覚悟とはちょっと違う、かな。楽しみなの、きっと天下は乱れるわ。それこそ、私達が飛躍出来る時が来るぐらいに。その時に、私はきっと楽しいことがあると思うの。それを、迎え入れる覚悟」
「楽しいことと言ったって……結局は雪蓮の勘でしかないのでしょう? あなたの勘は信じられるものだけど、いくらなんでもそんな先のことまでは――」
「――ううん、絶対来るわ。それも、とてつもないものが、ね」
そう言って、くい、と杯を空けた孫策は、酒に酔ったのか、はたまた心中を吐露したからかは分からないが、いたく上機嫌で周喩の部屋を出て行った。
出際に、祭は何処かな、と言っていたあたり、厨房で酒を貰っては再び飲み直す気なのであろうが。
しかも、祭――黄蓋も孫策を止めずに呑もうとするから、余計に質が悪い。
一度でも止めようとしてくれるのならまだしも、自らも嬉々としているのだから、なんとも頭の痛いことだと、周喩は眉を顰めた。
「全く、雪蓮にも祭殿にも困ったものだ。今度見つけたら、何かしらの罰を与えねばな」
そう言って、周喩は再び――五度目になるが、報告書へと視線を落とした。
荊州方面の黄巾賊は、孫家が壊滅させた。
袁術からの命令ではあったが、救援に向かった先々の村々の有力者に顔を通すことが出来たし、いざという時の約束をも取り付けた。
幽州方面は、公孫賛と袁紹がお互いを利用する形で壊滅させていた。
まさか、公孫賛の本隊が黄巾賊を引き留めている間に、別働隊が袁紹を引きつけて――もとい、釣り上げて黄巾賊の後方へと廻ったなどという策とは思わなかったが。
袁紹が軍を出すことを知り得たこと、公孫賛の軍が黄巾賊を引き留められると考えついたこと、そして袁紹を釣り上げた後に黄巾賊の中を突っ切って公孫賛の軍に合流出来るだけの武威を備えた将がいたこと。
その全てに驚き、それを成した劉備なる将に、周喩は注目していたのだが。
涼州の報告書で、どうしても視線が止まってしまう。
何度見ても、内容が変わることはない。
だというのに何故だろう、何度でも読んでしまう、何度でも視線を止めてしまうのは。
董卓という人物と、西涼騎馬隊を率いて有名な馬騰との連合軍は、その数五倍以上の黄巾賊を相手に勝利したというものである。
董卓、馬騰、共に損害は軽微。
それはいい、策が予想通りにはまればそういったことは多々あるし、あの近くは渭水がある。
水を引き入れて水計が出来れば、軍が衝突しての損害などほぼないであろう。
だが、報告書にはそんな策が書かれてはおらず、その変わりとして単純な文が書かれていた。
北郷一刀の献策により、村々を囮にしての各個撃破、と。
**
「ふう、雛里ちゃん、こっちは終わったよ」
「あっ、もうちょっと待って……ん、しょ、と……朱里ちゃん、私も終わったよ」
カラカラ、と乾いた音を立てながら墨の乾いた竹簡を巻いて、既に出来上がっている山へと載せる。
崩さないように載せたその山以外にも部屋の中に鎮座する竹簡や書類やらの山に、二人の少女は知らず溜息をついていた。
「あぅ……やっぱり文官さんがいないのは、厳しいよね」
「仕方ないよ、朱里ちゃん。今の私達は白蓮さんの好意で城を間取りしているだけで、根拠地なんてものはないんだよ。白蓮さんにお給料を貰っているのに、劉家として文官を雇うわけにもいかないし……」
そう言いながら、腕一杯に抱え込んだ竹簡を一カ所に集めていく。
一つ一つであればそこまで重たくはないものだが、数が集まれば存外に重い。
こういうときに男手があれば、とは朱里――諸葛亮も思うが、彼女が仕える劉家軍で男性は簡擁ぐらいしかおらず、彼も彼で多忙を極めておりこれだけのことで呼び出す訳にもいかないのだ。
仕方がない、と諸葛亮はまた一抱えの書類を山へと積み重ねた。
「ん、しょと……ふう、これで終わり、かな。また兵の皆さんに頼んで、運んで貰わなきゃ」
「そうだね。……じゃあ朱里ちゃん、ちょっと今の状況でも確認しておく?」
そう言いながら雛里――庖統は、先の黄巾賊戦の報告が書かれた竹簡を数個取り出した。
五百ほどでしかない劉家軍の中から騎馬の扱いがそれなりの者や、諜報活動が得意な者を選りすぐって――内実としては元農民の兵からでは出来うる者の数が少ないだけなのだが、それでもそうやって選ばれた者達から送られてきた報告書には、必要な分だけの情報が書かれていた。
幽州方面の黄巾賊は、主である劉備の友人でもある公孫賛との協力で、庖統と諸葛亮が考案した策によって壊滅させることが出来た。
まさか、黄巾賊撃退に出撃していた袁紹の軍勢を挑発して黄巾賊の後背を突かせる、という策とは思いもしなかったのか、主たる面々が驚愕していた――劉備だけは、よく分かっていなさそうではあったが。
だが、主君たる袁紹の力量、実質軍勢を率いる顔良、文醜の力関係など、公孫賛からの情報の提供もあって予測した通りに袁紹軍が動いてくれたおかげで勝利し得たのだから、彼女達にも感謝はしなければならない。
結果として、黄巾賊に襲われた村々の復興やその後始末などを押しつけられる形となったことは仕方がないのである。
荊州方面は、その大部分を占める劉表ではなく、その地方の支配を目論む袁術が戦果を欲して軍勢を起こし、壊滅させたとある。
ただその実情としては、かつて江東の虎と呼ばれた孫堅亡き後に袁術の客将となった孫家軍が、討伐軍の主力であったとのことだが。
客将とはいっても、一勢力を保持するだけの実力を持つ孫家軍が執った策は、策無しという極めて無謀なものであった。
涼州を攻めるために割いた二万の兵がなくなったとはいえ、荊州方面に蔓延る黄巾賊は七万にも及んだ。
これは、孫家軍八千、袁術七千の一万五千で立ち向かうにはあまりにも多い数であり、それに策無しで攻めるなど勝利を取らぬ所業とも思えたのだが。
報告書を読めば、その謎も氷解した。
孫家軍が攻めたのは、涼州方面を攻めるために二万の兵が発った、その直後であったのである。
元々荊州南部を攻める予定の軍を動かしたとはいえ、それをそっくりそのままという訳にはいかない。
道程の糧食のこともあれば、装備のこともある。
荊州南部は山岳が多いことから騎馬は使いづらいが、涼州へ攻めるには騎馬は必需である。
そういった再編成を終え、涼州を攻めるために二万が減ったその直後に攻められた黄巾賊は、大混乱を喫した。
そもそも、軍を動かすという知識に欠ける賊軍なのである、やれ騎馬が無い、武具が無いという事態になるのは目に見えていた。
そこを、孫家軍は的確に突いたのである。
結果として、その半数を討った孫家軍はその名を荊州のみならず各地に轟かせることとなり、好機と見た袁術は孫家を引かせた後に総軍を動かして、体勢を整え直した黄巾賊によって少なからずの痛撃を受けたのである。
諸葛亮は、その報告書に自然と息をついた。
攻める時機、引く時機、さらには策無しとも言える突撃にもかかわらず、その采配の巧みさに見ほれてしまう。
中軍と左軍が攻め、右軍と後軍がそれを補佐する。
それぞれがそれぞれを引き立てるように攻めることによって、予想以上の戦果を出していたのだ。
今の劉家軍に、それが出来る将は少ない。
主軸たる張飛はもとより、関羽でさえそういった細かな采配は未だ無理であろう。
かといって、諸葛亮や庖統が補佐をするにしても、孫家軍のように連携して、というのは難しいものがあった。
相手に出来て、自分には出来ない。
そのことが、実に悔しかった。
周喩。
諸葛亮は、その名を胸に刻み込んだ。
そして、視線を動かせばふと涼州のものでそれも止まる。
董卓と馬騰連合による協同戦、それはいい。
自分達劉家軍も公孫賛と協同したのであるし、荊州から発った涼州方面の黄巾賊は、渭水の地にて二万から六万にまで膨れあがったのであるから、そういった策を取ることもやむを得なかったであろう。
だが、どうにもこうにも、黄巾賊に対する策こそが不思議で――そして不気味でならない。
村々を囮として黄巾賊を引きつけつつ分割し、それを各個撃破する。
文に、言葉にすればいたく簡単なものであるが、いざそれを行おうとすればそれが難しいことは理解出来る。
もしその通りに黄巾賊が動かなければ、壊滅していたのは連合軍の方だったのだから。
だが、結局のところ、勝利したのは連合軍である。
それはさして問題ではない、戦うということは勝利を求めるということであって、それを成したことを特に気に留めることでもない。
だが、その後のことはそれどころではない。
村々を囮にしたということは、そこで戦闘があった場合は荒れるということである。
勿論、それの復興のために策を出した董卓軍が財貨を放出することになるのだろうが、それはすなわち、そういった村々は董卓の下に庇護される――言い換えれば、その勢力として組み込まれるということではないのか。
村を襲うであろう黄巾賊を撃退し、その復興のために尽力する。
そこに住まう民が、董卓軍を歓迎し、その勢力となるのは想像に難くないのである。
無論、そういった村ばかりではないだろうが、そういったことがあっても、復興の名目で無理矢理勢力に組み込むことが出来るとあっては、その考えも殆ど意味はないだろう。
戦に勝つための策を導き出し、戦後において勢力を拡大することをも視野に入れたその策。
自分でも考えつくと諸葛亮は思うが、それはすなわち自分と同じだけの智を持つ者がいるということでもあった。
もし。
その者と戦い、智を競わせることがあれば、自分は勝つことが出来るのであろうか。
自分より優れた戦術眼を持つ庖統ならば、勝つことは出来るのであろうか。
それが不気味で――言い知れない恐怖でもあった。
そして、視線は自然とその策を献策した者の名を探す。
何度も探したからか、すぐさまに諸葛亮はその名を見つけた。
天の御遣い、北郷一刀。
**
曹操。
周喩。
諸葛亮。
正史の三国志において、秀逸とされる知謀を持つとされる三者が、一様にその名を脳裏に刻みこむ。
ある者は、自らの覇道の強敵となることを喜び勇んで。
ある者は、友の夢を邪魔するであろう障害として。
ある者は、自らの才に匹敵、凌駕せんとする壁として。
その思惑はそれぞれ違えど、その思うところは同じであった。
天将、或いは天の御遣いと呼ばれる男、北郷一刀。
彼は一体何者なのか、と。