怒声、そして喚声。
やれ董卓が来ただの、騎馬隊が来ただの、呂奉先や華葉由が来ただのと騒ぎ立てる黄巾賊の中にあって、俺は無意識に剣の所在を確認していた。
敵の中にあって力の拠り所を探すなど心が弱い証拠じゃ、と祖父ならば言うだろうが、いざその状況に放り込まれればそれどころでは無かったりするので、許して貰いたいものである。
「……大丈夫でござるよ、旦那様。拙者達が付いているでござれば、何ら心配は無用に」
そんな俺の心中を察してか、馬超様の婿を死なせる訳にもいかぬしな、とカラカラと笑う庖徳に、幾分か力が抜けていくと共に未だにその話を引きずるのか、ここが戦場であってもとついつい脱力してしまう。
そういうわけではない、と反論しても良かったのだが、それをすれば噂を広めつつある馬岱、その先で彼女へと指示を出しているであろう馬騰が余計に噂を広めてしまったりして被害が増えるだけなのだが――これはあれか、本人達を置いておいて外堀から埋めていこうという作戦なのか、とつい疑ってしまう。
それを庖徳に問えば、正にその通りでござる、と俺の知る限りでは武者やら侍やらが使っていそうな言葉遣いで断言されそうで、怖くて聞けないのだが。
本当、何故にこんな歳で神経をすり減らしているのでしょうかね、俺は。
「そうだよお兄様、令明の言うとおり。蒲公英達がいれば大丈夫なんだから」
「……そもそも、その伯瞻殿が何故ここにいるのかが問題なのですが? いくら、その……男の格好をしている、とはいえ」
そして、先ほどまで怖くて見ることが出来なかった方向から声が聞こえれば、いよいよに諦めてそちらへと視線を移す。
普段頭頂部の横で纏められている栗色の髪は後頭部で止められており、彼女が敬愛する馬超の如き髪型で。
橙を基調とした可愛らしい服装に身を纏うことなく、普通の男性の民が纏う平服のようなものを着ている。
態とらしく汚された頬や服から見てみれば、村や町の中を元気に走り回る少年――磨けば光るとでも言えそうな少年が、そこにいた。
とはいえ、その着替えの一部始終を――というよりは、その少年に扮した馬岱に無理矢理に同じ天幕で着替えさせられただけであり、見たというよりは見られたに近いのだが――共にした俺も、馬岱と同じような服を纏っていた。
とは言っても、俺の場合は聖フランチェスカの制服を脱いでその上から平服を羽織っただけであるが。
「男の格好をしているとはいえ、伯瞻殿は女の子なんですよ? もしばれてしまえば、如何様な目に遭うかは理解しているでしょうに……」
「蒲公英が襲われちゃうって? んふふ、心配してくれてるんだー?」
「勿論、心配ですよ。伯瞻殿は可愛いんですから、自分の価値をもう少し認識して下さい」
端から見れば美少年というほどではないが、悪戯っぽく笑うその表情やコロコロと笑う表情には妖しさはなく、一種清純な色気があった。
砂泥に塗れたその頬や肌の上を汗が一筋つたっていく、その光景に不覚にもドキリとしてしまうのを、俺は周囲を警戒するように頭を巡らせて何とかこうとかに誤魔化した。
そもそも、馬岱は女の子であると自分で言ったばかりなのだ。
男の格好をしていても女の子であって決して男としての馬岱に見惚れたわけではなくてでもその馬岱は可愛い女の子で男の格好をしていて、と一体何が考えたかったのかと思考が茹で上がりそうになるまでに思考していた俺は、いよいよ苦しくなって周囲の警戒へと意識を移した。
あのままであれば、頭に血が巡って倒れるか鼻血が出るか、どっちにしろ馬岱にからかわれそうな状態であるのだ。
馬超との嫁婿の問題をだしにして、今また先ほどまでの俺の葛藤もネタにされては敵わないのだが、しかして一言もそういったことに言及してこない馬岱に気を取られれば、周囲の警戒など出来ようはずもなく、俺は馬岱へと視線を移したのだが。
「……」
「…………伯瞻殿?」
何故だか遠くを――それこそ、ボーともポーとも表現出来そうな感じで見ていれば、段々と朱に染まっていく頬に首をかかげる。
敵に囲まれているという状況で興奮でもして熱が出たか、と思って庖徳へと視線を移せば、面と向かって溜息をつかれてしまった。
くそう、俺年上なのに、威厳なんか微塵も――まあ、初めから存在しないけどもさ。
そうして、付き合いきれませんな、とばかりに肩を竦めた庖徳は、呆れた視線を俺から外すと、周囲で騒ぎ立てる黄巾賊を警戒していた涼州兵の元へと歩いていった。
遠くを見れば、既に予定通りに董卓と賈駆がいる本隊がこちらからも見える位置にまで動いてきており、その動きに合わせるかのように馬超率いる涼州軍と一応華雄が将軍となっている董卓軍が、黄巾賊を挟撃するようにと動き始めていた。
その動きはまるで生き物の如く脈動しているかのようで、食いついたら離れることのない獣のもののようにも見えた。
なるほど、味方である俺でさえその動きに圧されるのだから、敵である黄巾賊の恐怖は計り知れないものだろう。
よくよく聞いてみれば、周囲からも、降伏の言葉が聞こえ始めていた。
タイミング的には今、か。
兵と状況を確認していた庖徳もまたそう気付いたのか、つい、と動かした俺の視線に頷くことで応えてくれた。
あとは馬岱だけなのだが……如何せん、未だ虚空を見つめていた。
元に戻るのを待ってもいいのだが、どれだけの時間がかかるかも分からない――さらには、庖徳やら涼州の兵やらが、さっさと動かせよ、と視線で催促してくるものだから、そのままにするわけにもいかなかったりもする。
かといってどうすれば――と思った俺は、とりあえずその頭を撫で回してみることに決めた。
うん、砂泥に汚れていても、サラサラの髪って触ってみたくなるよね。
きっと及川なら、髪フェチか、と突っ込むとこだと思う。
「きゃわっ!? お、お兄様一体何を……ッ?! にゃふん!?」
「ぐーるぐーるぐるぐる。……どうですか、伯瞻殿? 目は覚めましたか?」
「むー……起きてるよー」
撫で回す、というか、どっちかというと頭を振り回すに近いことをしてみれば、くるくると目を回したという何となく珍しい馬岱を見ることが出来た。
サラサラの髪は十分に堪能出来たし――って違う違う、虚空を見つめることを止めた馬岱は、目を回したという不快感に顔を顰めて、乱れた髪を整え始める。
唇を尖らせて不満をぶつけてくるその様が年相応のようで――いやまあ、普段の悪戯をする様も年相応、もしくは若く見えるものではあるが、そんな馬岱に知らず頬が我慢出来ずに微笑んでしまえば、何故だか再び頬を朱くされてしまう。
再び呆然とされては不味いと、俺は反射的に口を開いた。
「伯瞻殿、時は今、です。行動を今起こすことによって、この戦の最後の一手となります。……準備はよろしいですか?」
「……うん、お兄様に掻き回されちゃってガクガクだけど、蒲公英はいつでもいいよ」
そう言う俺に、息を整えた馬岱が至極真面目な顔をして頷く――その言葉遣いがどことなく蠱惑的ではあるのだが、まああまり気にしないでおいた方がいいだろう、主に俺のために。
それを証明するかのように、すぐに庖徳へと視線を移した俺の背後で面白くなさそうな呻き声が聞こえるあたり、先ほどの台詞回しが態とであると暗に示していたのだが、とりあえず今はそれに構っている場合ではないので無視しておく。
俺の意図と同じであった庖徳が頷くのに俺も頷きで返すと、俺は勢いよく剣を引き抜いて空へと掲げた。
「生を求め、糧を求め、彼方から付き従ってきたがそれもままならぬとあれば、未だ黄巾の教えに縋り付く理由は無し! かくなる上は、黄巾の教えを捨て敗兵なれど降伏し、この命救う他にしか道はない! 我と共に来る者は、黄巾を捨てて我に続けぇぇ!」
似合わない口上――賈駆と陳宮が俺でも様になるようにと考えられたそれを、覚えた通りに声へと出すのだが、なんというかあれである、自分でも似合わないと思うよ。
まあ元々は降伏勧告のための口上なのであって、降伏の同志を増やすためのものではないのだから、それも当たり前なのかもしれないが。
天の御遣いという俺の肩書きを最大限に利用して、降伏する数を増やすのが最大の目的ではあったのに、外からよりは内からの声の方が降伏の勧めが効くだろうという俺の独断によって、それも泡へと消えた――きっと本隊では賈駆が烈火の如く怒っているのだろうと思うと、ゾクリと視線で射抜かれた気がして、背筋を振るわせた。
「なッ!? き、貴様、大賢良師様の教えに逆らうと――ガフッ!?」
「拙者、黄巾を捨てるでござるよ! 黄巾の教えでは腹も膨れぬ、家族も養えぬでござれば長いは無用、早く降伏するでござるー!」
「蒲公――じゃなかった、ぼくも降伏するぞー! 黄巾なんかもうたくさんだー!」
そして、俺の声を反乱分子と受け取ったのか、黄巾賊の部隊指揮官らしき将が俺へと近づいてくる。
その手は既に剣の柄へと伸びていて、俺の受け答えによってはすぐさまに引き抜かれるであろうことは予想出来た。
だがそれも、その将がそれまで黙っていた庖徳の傍を通る時に、彼によって叩きのめされることで裏切られることとなる。
その庖徳の行動は、先ほどまで俺の提案に付くかどうかを考えていた面々の気持ちを方向付けたらしく、彼の後へと続くかのように声が上がっていく。
俺も、我も、僕も。
それらの声は、互いが互いを増長させるようにどんどんと増えていき、俺の周囲を覆い尽くすまでになっていたのである。
庖徳の声に反応して周囲へとそちらの方がいいのでは、と思わせる予定であった――つまりはサクラであった馬岱や同じように潜伏中の涼州の兵達もこれには驚いていたが、それでも自分達の任をこなさなければ、と慌てて声を上げ始める。
そしてそういった声に、黄巾の教えにではなく、生きる糧を求めて仕方なく黄巾を纏っていた人達がそれに呼応することによって、さらに大きな声へとなって賛同者を集めていったのである。
そういった人達の多くが、渭水から黄巾賊に参加した人達だ、と戦いが終わってから気付くことになる。
黄巾に頼るな、降伏すれば飯が食えるぞ、等々。
黄巾に縋り付くよりも降伏した方が糧を得られる、その意味を含めた言葉を騒ぎたてながら、周囲でそれに抵抗しようとする黄巾賊の兵を切り伏せていく。
その途中にも呼びかけていけば、外から迫り来る軍と、内から食らい破らんとする反乱兵に気圧されてか、徐々にと賛同する人達が増えていった。
数万――先だって万程度の部隊を二つ潰し、ある程度の兵を削ったことから四万程度と考えられるが、その黄色の群の中で生まれた小さな固まりは、徐々に、そして確かに脈動しながらその規模を広げていった。
そして、その数が数百、数千を超えて万に届こうかという時になって、開戦当初にあった戦力差はその殆どが消え去り、今や覆ったと言ってもよいほどであった。
そして今――
「生きるため、食うために、まずは董卓軍本隊と合流するために道を切り開く! 続けぇぇぇぇぇ!」
――勝敗が、決しようとしていた。
**
「くっ! まだ負けてはおらん、懸命に押し返せと伝えろ! 数はまだこちらの方が上なのだ、一気呵成に押しつぶせッ!」
臨時の指揮官である韓忠の指示に圧され、それまで押されていた黄巾賊は一時的に優位へと立つことが出来たが、しかし相手の勢いに飲まれれば再び押し返されることとなった。
その光景に再び声を荒げるが、今度は相手を押すことはなく、後ろへ後ろへと押し込まれることとなる。
どれだけ声を荒げても、口では何と言おうとも、この戦い、黄巾賊が破れることを韓忠は理解していた。
元々南陽黄巾賊において部隊を指揮していた韓忠であったが、共に張曼成の配下であった趙弘に涼州方面軍の指揮権が移ってからは、さらにその下で部隊を指揮するという役目に当たっていた。
多くの軍を見て、多くの戦を戦ってきた韓忠にとって、今日この場で黄巾賊が負けることなどは、ある意味自明の理でもあった。
補給の見込めない敵地での戦闘、勢いだけに任せた進軍、現地兵調達での指揮系統の混乱、なにより情報が足りなかったのである。
先にもって偵察の兵を出すなり密偵を出していれば、この戦場で対峙するのが董卓軍だけではないことは知れていたであろうし、相手の策の一部分だけでも知ることが出来たかもしれないのだ。
それを知ることが出来なかった理由はただ一つ、趙弘がそれを知ろうとしなかった、ただこれだけである。
「くそっ、趙弘のやつめ! 面倒ごとを起こしよってからに! これでは儂の命が危ないではないか」
だが、韓忠からしてみればそんな趙弘の指揮下に入ることに、さしたる不満は無かった。
将として、武人として趙弘に劣っていることは己で理解していたし、彼のように強い敵や困難が好きなどということもない。
ただ唯一としてあるのは、自身の欲を叶えて楽しく生きることである。
もしこの場に天の御遣いがいれば、高校生みたい、或いは自己中心的だ、等と言われるであろうその生き方は、しかして韓忠としてみれば特別変わったことではなかった。
そう思うことが自分にとって普通だと思っていたし、であるからこそ、それを叶えることが出来る黄巾賊なんぞで将をしているのだから。
飯を食いたい時に食うことが出来、寝たい時に寝て、女が欲しい時に抱く――それらの行動が他人から奪い取るものであったとしても、さも奪われるのが悪いのだと言わんばかりであった。
だからこそ、現状において自身が陥っている状況を、韓忠は我慢出来なかった。
今回、涼州方面軍に付いてきたのも、噂から董卓の収める石城や安定が富んでいると聞いたためであり、自身が欲するものが出てくるかもしれないと思ってのことだった。
当初の話であれば、董卓の兵は数少なく、正面から踏み潰していけば苦戦することなど何もない、そう聞かされていたのだが――
「――ちっ、趙弘も張曼成も、決して役に立ちはせん。やはり頼れるのは己のみ、ということか……。おい貴様ら、儂のために壁となって死んでいけ。大賢良師様に貴様らの奮戦ぶりを伝えおいてやろう」
「は……はっ! あ、ありがとうございます!」
結局のところ、仮面の男に騙されていたか、と思い至った韓忠ではあったが、それに別段構うこともなくすぐさまに思考を働かせる。
騙し騙され、など戦乱の常であり、それが実際にどうなどと気にする必要もないと感じていたからだった。
現状で考えなければならないことはただ一つ――自身がどうやって生きるかである。
まあ、名も無き兵を壁にして後方へ引けば助かるだろうと閃いた韓忠は、すぐさまにその指示を下す。
初め、暗に死ねと伝えた韓忠に対して怪訝そうな表情を向けた兵達ではあったが、大賢良師――つまりは黄巾賊の頭首である張角に自分達のことを伝えてもらえる、と聞けば、韓忠からの指示はすぐさまに張角からの指示へと変貌したのである。
黄巾賊の中には、その兵達のように張角に崇拝を捧げる者は多い。
韓忠からしてみれば、あのような小娘に――まあ発育は良かったが――命まで捧げるなど考えられないことであった。
だが、とふと考えてみれば、その崇拝は使えるものでもある。
何かしらの手を使って――それこそ、男として張角とその妹達である張宝と張梁を侍らすことでも出来れば、全土において暴虐に暴れ回っている黄巾賊とその頭首である小娘は、自分のものとなるのだ。
それもまた一興だな、と下卑た笑みを浮かべた韓忠は、とりあえずの目的地を黄巾賊本軍がいる華北と定め、近くにいた兵から奪った馬の踵を返し――
「おおっと、逃がさへんで。あんたが指揮官やな? その首、貰いに来たで」
――その進行方向を、一人の女によって塞がれることとなった。
「……何者だ、貴様――まあ、董卓の兵の一人だろうがな、その貴様がここで何をしている? 武功に逸ったか?」
「言うたやろ、あんたの首を貰いに来たってな。大人しく観念する言うんならそれで良し、せんのなら首を貰うで」
まるで、そこらにある物をちょっと借りるとでも言うように韓忠の命を奪うといったその女に対して、シャキン、と韓忠は一般の兵のものよりも遙かに上等な剣を抜いて応えた。
肩に担ぐ獲物こそ畏怖を示すかのように龍を形取っているが、自分を大きく見せたいがためにそのような意向にする者を多く見てきた韓忠にとって、それは大した問題では無かった。
今問題なのは、目の前にいる女がどれだけの使い手なのか、ただそれだけである。
武には少々自信があるとはいえ、それでも趙弘に負けるあたりそれほど才覚が無いことを自覚している韓忠は、無駄な戦いをしようなどと考えはしなかった。
ただ、周囲にいる兵でどれだけの時間稼ぎが出来るほどの武なのか、だけである。
「……ふん、なるほどな。だが、儂とて簡単に死ぬ気もない。おい、お前達! この女を倒せば、好きにしても構わんぞ! 自分の女だろうが、奴隷だろうが、道具だろうがなッ!」
だが、そう考えるのも馬鹿らしい。
如何に豪傑でも、韓忠の周りにいるだけで十人以上いるのだ、これだけの数を相手に出来る筈もない。
胸はサラシを巻いただけ、見たこともない腰巻きから覗く肌や腹のくびれは酷く扇情的であったらしく、韓忠の言葉にその全てが歓声を上げた。
「うげー……やっとれんわ」
そんな兵達に心底からの嫌悪を顔に表した女の言葉を無視して、韓忠は馬の踵を再び返す。
兵に敗れ、押し倒される女の痴態を見ても良かったが、このままここに残れば最終的には董卓によって破れることが決まっているのである。
それこそ自分の命が危険な状況なのだ、わざわざその渦中に残ることもあるまい、と韓忠は馬を駆けさせ始めた。
気の強そうな女を屈服させるのも楽しいが、如何せん胸がでかすぎる――小振りのほうが趣もあるしな、と韓忠は馬の速度を上げた――
「逃がさへんって言うたやろ? 観念しいや」
――その横を、さも当然かのように先ほどの女が馬を駆けらせていた。
「なっ!? き、貴様、どうやって……?!」
「どうも何も、全部叩き伏せたに決まっとるやないか。まあそれはええ、ほな、いくで」
ちらりと先ほどまでいた場所を見てみれば、女の言葉を示す通りに、先ほどまで韓忠の周りにいた兵達が地に倒れているのが見えた。
信じられないことではあるが、女が言っていたことは本当のことらしい――そして、そこでようやく韓忠は女の武がどれほどか、それこそ韓忠からすれば天と地ほどの差があることに気づいた。
それを示すかのように韓忠が女へとむき直した時には、一瞬にして韓忠の視界は白銀へと染まった。
そして、その意識が完全に闇と同化する直前。
女は胸やない、と女の声が聞こえたのは気のせいだったのかもしれないが、もはやそれすらも理解出来ぬままに、韓忠は先ほどまで己の身体であったモノを、生気のない瞳で見つめていた。
**
そして、戦場に一際大きな声が響き渡る。
敵将、張文遠が討ち取ったり、と。
もはや瓦解寸前にまで追い込まれていた黄巾賊は、それによって完全に崩壊を始め、ある者は降伏し、ある者は黄巾の教えに最後まで縋って死んでいった。
当初六万とまでいわれた黄巾賊は、その殆どが散々に打ちのめされることとなり、黄巾を見限って降伏した数千以外は、討ち取られたか、逃散していた。
一方の董卓軍と涼州軍であるが、こちらも連戦による疲弊した者や負傷者などはかなりの数に上り、また戦死者にも多くの名が挙がった。
だが、損害は大きくとも、それでもなお守るべきモノを守ることが出来たのである。
多くの兵はそのことに喜びの声を上げ、いつしかそれは、戦場を覆う勝ち鬨の声へと変わっていった。
後に、渭水安定の戦いと呼ばれることとなる戦いは、こうして幕を閉じたのである。