渭水。
中華において長江の次点に位置する黄河の支流であり、その流域の盆地は関中と呼ばれ、その土壌によって黄河下流域における中原に次ぐ生産力を誇っていた。
古くには秦や前漢がこの地を支配し、その生産力と、四方を険しい山々で囲まれた天然の利によって、その支配力を高めていった。
この地を支配したことが、彼の国が天下を統一出来た要因とも言える程に、戦略上において渭水は大変重要な河川だったと言える。
王城の地、百の敵に対して一の兵で戦える、との評がそれを物語っていよう。
ううむ、もしかしたらこの光景を始皇帝も見たのだろうか、とも思ってみれば、そんなわけでもないのに何だか偉くなった気がした――無論、しただけである。
断じて今現在の俺の役割を勘違いしたわけではないのだと、先に言い切っておく。
それでも、三国志の歴史を、中華の歴史を囓った者からしてみれば、数多の戦場となり歴史を刻んできた地を望むのはいかにも感慨深い。
このまま渭水を下って長安、果ては洛陽にまで行ってみたい気もするが、今現在の状況と役割からして、それは無理かと思い直した。
「出陣の準備が済んだよ、お兄様」
「い、いつでも出られるぞ、ご、ご、ご主、ご……」
きっと今それを成そうとすれば、次こそ本気で斬られそうな気がする――そう確信させるに至る、それを成すであろう人物である馬超は、顔を真っ赤にして盛大に狼狽していた。
その光景を見る馬岱の笑顔がやたら爽やか過ぎて、それに馬超が反応して睨んできて――一体全体、俺にどうしろと言うのだろう。
とは言うものの、馬超がそこまで狼狽するのに、俺が全く関係が無いのかと言えば嘘になる。
むしろ、盛大に関係していた。
「ありがとうございます、伯瞻(はくせん、馬岱の字)殿。後は指示があるまで待機、と兵達に伝えておいてください。……孟起殿は、少し落ち着かれてください。言いたく無ければ無理をしなくてもいいと思いますし」
「ぐっ……あ、あんたのせいでこうなったって言うのに……」
「あれはお姉様が悪いと蒲公英は思うんだけどなー。おば様もそう言ってたし」
ぐぬぬぅ、と馬岱によって攻められた馬超のなんと可愛いこと――と言えば、すぐさまその槍が飛んできそうなので口には出さないが、それと同時に同情を抱くのを禁じ得ない。
あの叔母あってこの従妹ありか、とは一部始終を見ていた牛輔の談ではあるが、なるほど、こうして近くでその様を見ていれば、あながち間違ってもいないと思えてくるから不思議だ。
「ほらほらー、お兄様のこと何て呼ぶんだったけー? ちゃんと言わないとおば様に言いつけちゃうよー?」
「ぐぅ……そ、そしたらこいつと……ま、毎晩…………駄目だ駄目だ、それだけは駄目だッ!」
勢いよく頭を振る馬超に、一体どんな想像をしたのか、と意地悪な気持ちで問いかけてもみたいのだが、そんなことをすれば今度こそ首が飛びそうな気がしてそれを諦める。
だが、馬岱はそんなことを気にすることもなく、一体何が駄目なのかなー、なんて聞くものだから、いよいよもって馬超の顔が真っ赤へと染まる。
そしてその皺寄せは俺に来るのか、と出来れば認めたくないその事実から目を背けつつ、何でこんなことになっているんだろう、とふと思い至ることとなった。
まあ、全ては馬騰の一言から始まったんだけどね。
「くっ…………ええい、ご主人様ッ! これでいいんだろう、蒲公英ッ?!」
「きゃは、お姉様ったら顔真っ赤にしちゃって可愛いんだから、もう。ほらほら、お兄様もお姉様に何か言わなきゃ!」
そして、その姪はどうあっても俺を巻き込みたいらしい。
片や期待と好奇心に瞳踊らせ、片や呪いやら恨みやらが籠もった視線をそれぞれ向けられつつ、最近多くなったなぁ、と思える溜息を俺はついた。
いやはや、本当、いったい何でこんなことになったのだろう
ただ、言葉にするのは簡単なのである。
馬騰が発したのは実に単純明快なものであった。
馬超と俺が夫婦になれ、たったそれだけである。
**
「……共闘、やて?」
「はい。此度の来訪、我々馬家は黄巾賊への対応策として、共闘の意を伝える使者としてまかりこしました」
安定の城の一室。
様々な騒動――主に馬騰に始まり、馬三姉妹に関することばかりなのだが、それらを経て俺を含む董卓軍の面々と、馬騰達はそこへと集うこととなった。
先ほどまで軍議をしていた部屋よりは広めに間取られたその部屋は、馬騰達に加え、先ほどまで軍議に参加していなかった王方や徐晃などが入ってなお十分な広さがあった。
そして、その部屋の中央で董卓軍と馬騰達を隔てる机を挟んだ俺達であったのだが、何故かチラチラと感じ取れる視線にくすぐったさを感じながら、どうしてだろうと首を傾げる。
とりあえず、馬超に睨まれるのは無理もないと思う――彼女の誤解だということは既に説明済みであるが、そうすぐに思考を切り替えられる筈もないだろうし、そもそもそれが出来る人なら誤解などしないだろう。
だからその分には目を瞑る。
もちろん董卓や賈駆、張遼の視線にも耐えてみせよう。
姜維がお茶を運んで来た後に、いつまでたっても帰ってこない俺を心配し、なおかつ金属音が響いたと思ったら俺が危うく斬られそうになっていた、となれば心配して損したばかりか、この火急の時に何をしているんだ、と思われても仕方がないものだと思う――張遼のはどことなく違う感じもするが。
こう、玩具を見つけた子供か猫か、みたいな感じ。
ならば誰の視線か、ということになるのだが。
考えるまでもない、俺の目の前に座る馬家の面々のものだった。
無表情の馬休は他として、何故かニヤニヤと笑いながらのものではあったが。
そんな視線を感じつついると、ふと馬休と視線が合う。
その無表情さに、今なお本当に馬鉄と双子なのかと疑心してしまうのだが、隣の馬岱と何か楽しそうに密談する馬鉄を見れば、いよいよもって疑心が確信へと変化しそうである。
性格が違うとか問題ではなく、全くの別人ではないのだろうかとも思えるその表情を眺めていれば、ふいに俺から視線を逸らした馬休が口を開く。
そして、その唇から漏れ出た言葉こそ、董卓軍に対する共闘の要請――すなわち、同盟の言葉であったのだ。
「なるほど。西涼を治めるそちらにとって、ボク達が破れることになれば、黄巾賊が西涼に雪崩れ込む可能性は捨てきれない。ならば、先に共闘して事に当たることによって、その可能性を少しでも減らしたい――そんなところかしら?」
「……さすがは董仲頴が鬼謀、賈文和殿です。その見解に相違ありません。万に満たない董家の軍が、六万にも及ぶ黄巾賊に当たるにはあまりにも脆弱です。そして、もし董家が破れた場合、その勢いに乗って黄巾賊が石城はおろか、益州ならびに涼州へ雪崩れ込むであろうことは必定と言えましょう。ならば――そう思い至ることは、自明の理でありましょう」
外に異民族を迎え、内に火種を抱える我々にとって、両者を共に相手すること、それだけは避けねばならないことなのです。
そう続けた馬休は、ちらり、と俺を見やった後に、その視線と馬騰へと移した。
その視線に込められた意味が理解出来るはずもなく、首を傾げる俺をちらりと見た馬騰は口を開いた。
――と言うより、さっきからなんでこんなに見られているんだ、と俺は内心更に首を傾げるのだが、その理由が判明するのはもう少し後だったりする。
「ぶっちゃけて言えば、こちらの兵を貸すから黄巾賊を倒してくださいってことさ。騎馬千、弓兵千、歩兵三千の計五千。こちらも色々と事情があるからこれ以上は出せないが、それでもこれだけの兵力がいれば十倍以上の戦力差が五倍近くにまで減るんだ。……まぁ、受ける受けないは董太守の決断次第だろうけどね」
そう言う馬騰に促されて董卓へと視線を移せば、なにやら考えているようで。
おそらく、ではあるが結論がほぼ決まっているであろう董卓の思考をわざわざ邪魔する必要もなかろう、と声をかけることはしなかった。
と言うよりも、それしか道がなければそれをしなければならないことは明白であり、董卓が否と言っても説得するしか他にないのだが。
そして、みんなもそれを知っているからこそ董卓の思考に口を挟むことはしない――それよりも、皆一様に疑問を抱えているからでもあった。
華雄だけは、馬家の兵力など無くても、といつも通りではあったが。
「手ぇ組んで、黄巾賊をぶちのめそう、そう言うのは分かるんやけど、それにわざわざ西涼の太守様が出張るっちゅー理由が分からん。その辺きちんとしとかんと、信頼せぇちゅう方が難しい話や」
「……さらに解せんこともある。馬太守のみならず、その娘達まで来る必要があるのかどうか、とな。事情があるならば、文官一人、来ても馬家の一人で十分事足りるだろうに。それが馬家の面々総出で来た――その理由は一体何だ?」
その疑問を問いかける張遼と牛輔の声に、知らず緊張が場を支配する。
思考していた董卓もそれが気になっていたのか、それを中断してまでその理由を知るであろう人物――馬騰へと視線を向ける。
そしてその理由は馬家の面々も知らなかったのか、馬超のみならず馬岱や馬休までもがその視線に加わる。
唯一、馬鉄だけがそれに加わらなかった――どころか、何故か俺へと視線を向けているのである。
一体何故に?
その疑問は、直後氷解することとなる。
馬騰が放った、その一言で。
「んー、まあ隠してても意味が無いんで言っておくけど、元々はそこの天の御遣い殿――天将殿だったっけ? まあどっちでもいいけど、彼を見たかった、っていうのが一番の理由ね」
「……俺?」
「……そもそも何、その御遣いとか天将って? こいつにそんな価値があるとか思えないんだけど?」
そう言って指を差された後に、他にも治安とか市の繁盛具合とかまあいろいろあるけど、と言う馬騰の言葉に、むしろそっちが本命ではなかろか、などと勘ぐりたくなってくる――というかしてしまう。
それは賈駆も同じだったらしく、それを疑問に思う声に同意を隠せないのだが。
だが、その疑問は予想していた馬家の面々ではなく、意外な人物――牛輔が解いてくれた、というかさらに驚いてしまったとも言えるが。
「……知らなかったのですか? 安定の民の間で噂されているのですよ――石城、董仲頴の下に一人の青年現る、天下にて能わぬ衣を纏いし彼の者、天下に比類無き智を以て涼州の地を富ませる天からの御遣い也、と。最近では姜維殿を配下に加え将となった、ということから天将とも呼ばれているそうですが……。馬騰殿の言をみるに、恐らく涼州中に広まっているのでしょうな」
「む……だが兵からも民からも、そのような北郷が御遣いなどという噂は聞いたことがないぞ? 確かに武はそれなりかもしれぬが、天将などと……」
「……恐らくですが、ここ安定には漢王朝から派遣されていた太守がいました。龍と言われる皇帝にとって、天とはその拠り所、そのものでもあります。その名が一個人に付けられる――それがどれだけ危険なことか、民は理解していたのでしょう」
馬休は言う。
後漢王朝の皇帝が龍であり天であるならば、その名で民に慕われる俺が後漢王朝にとって邪魔になるのは目に見えている――それこそ、民にも理解出来るぐらいに。
だから、民は知られず知らせず、密かにその名に縋っていたのだろう。
だがそれも終わりを告げた――安定を董卓が有することによって。
「だからこそ、天の御遣い、天将の名は堰を切ったかのように密かに、そして確かに広がり始めた。西涼の民が知っているぐらいですから、恐らくは長安はもとより洛陽、遠くは徐州、揚州まで広がっていたとしても不思議ではありません。となればこそ、その人物に興味を抱くのは無理らしかぬことなのですよ」
そう言って俺に視線を移す馬休を見れば、馬騰と馬鉄、それにそれまで興味の無さそうだった馬超までもが俺へと視線を注いでいた。
その視線の裏に、この時代に生きる民やまだ見ぬ英雄豪傑の視線を見つけ、知らず身体を震わせていた。
恐怖でもなく、武者震いでもなく、自分を見極めようとするその視線。
決して気持ちのいいものではなく、だが知らず手を握りしめるその感覚は不思議と気分を落ち着かせた。
となると同時に、ふとその名についてに思考が及ぶ。
天の御遣い、その名が持つ意味がどうであれ、自分がそう呼ばれているということは事実なのである――多少恥ずかしいものはあるが、それでもその名は民の拠り所になろうとしている。
自分にそれだけの価値と魅力があるとは思えないし、思うこともないが、それでもこの名を求める人々がいるのであれば、それを利用することも視野に入れなければいけないのかもしれない――丁度、黄巾賊が襲来しようかという今みたいな状況ならばこそ、である。
俺の思考と同じ考えに至ったのか、ふと視線が賈駆と合う。
それは覚悟を求める類のもの、それこそ、初めて自分から強くなりたいと願った時の祖父のものと似ていた。
見渡してみれば、賈駆以外にも、張遼や牛輔、華雄に至るまでが同じ視線であった――姜維だけが、俺を心配してくれるものではあったが。
そして視線を移してみれば、董卓もまた、俺へと視線を向けていて。
俺は、その視線に答えるように深く頷いた。
そして、俺の覚悟を飲み込むかのように、董卓が口を開いた。
「……分かりました。共闘――同盟の件、お願いします」
と。
「さて……じゃあ共闘の件はそれで終い。実は、境界まで兵を連れてきてるんだよ。右瑠、ちょいと早馬になっておくれ」
「了解だよー、母様。それじゃお兄さん、またねー」
そうと決まれば、と手を鳴らした馬騰は、傍らにいた馬鉄へ早馬として指示を出す。
境界にまで兵を連れてきている辺り、もしかしたら拒否された場合攻め入ろうとも、なんて思ったものだが、馬休から違うと言われればそうですかと答えるしかなかった。
というか、拒否と答えていればどうなっていたのだろう、とふと疑問に思ったのだが。
無表情を崩して、くす、と笑った馬休に恐怖しか感じ得ないのは、俺がただ臆病なだけなのだろうか?
「とりあえず、馬鹿娘――馬超と馬岱は置いていくから、扱き使ってやってくれ。生半可な鍛えはしてないから、役立たずではないと思う」
すぐに無表情になった馬休に、どんな思惑があって笑ったのだろうと怖いもの見たさで考えてみれば、馬騰の声に驚くほかなかった。
錦馬超が援軍とか、どんだけ豪勢なんだよ、としたところでふと思い至る。
呂布に始まり、張遼や華雄や徐晃などの豪傑、賈駆や陳宮の軍師に、脇を固める李粛に牛輔。
王方と老いてなお盛んな李確と徐栄は後方支援とし、止めに馬超と馬岱の援軍。
あれだな、ゲームで言えば天下統一出来る戦力だなこれ。
などなど、そんなどうでもいいことで俺が感嘆してみれば、指示を出し終えたのか再び手を鳴らした馬騰が、瞳を爛々と輝かせた。
どう考えても、厭な予感しかしない色である。
「最後になったけど、この馬鹿娘の処遇についてだが、そちらの要望は何かあるかい?」
「ちょ、母様ッ!? 処遇って何だよ、処遇ってッ?!」
「処遇は処遇さ。……それとも何かい? あんたは他所様の将を殺そうとしておいて、何の罪もなく許してくれると思ってんのかい?」
「うぐっ……」
馬騰の言葉に己のことが含まれていたからか、それまで終始不機嫌な顔で黙っていた馬超が、そこで久しぶりに声を上げた。
慌てるように己の母に問いただす馬超ではあったが、母から返されたその解に自分も思い至っているのか、うぐ、と声を詰まらせたかと思うと、何故だか俺を睨んできた。
その頭をパカンと馬騰が叩けば、その視線はそちらへと移ったのだが。
「へぅ……処遇と言われても、これから共闘する方々に罰を与えるというのはちょっと……」
「……それに、それで恨まれて策自体が崩れでもしたら、本末転倒だしね」
「ふぅむ、そう言われてもねぇ……天将殿はどうだい、何かあるかい?」
共闘することになって話し合ったことではあるが、馬家の軍師である馬休と董家の軍師である賈駆と陳宮で考えついた策で、ということになった。
何やら話し込んでいる内容自体は今いち理解しずらいものであったのだが、その顔がいやに悪そうだったことだけ表現しておこうと思う。
お主も悪よの、いえいえお代官様こそ、というレベルだった。
そして、董卓と賈駆が危惧することは、もし馬超を罰した時に起きる誰彼が悪いという恨みによって、その策が機能しないかもしれないというものである。
馬家の軍兵五千が増えたとはいえ、その戦力比こそ減りはしたが絶対的な戦力差が覆ることはない。
黄巾賊の総数が六万なのに対し、こちらが動かせる最大限の兵力は当初より五千増えただけなのである。
石城と安定の防衛戦力を残したとしても、董卓軍が捻り出せるのは五千まで、馬家と併せれば一万ほどでしかない。
戦いは数だ、とは誰かの言葉ではあったが、それからしてみれば実に頼りない数である。
それでも当初の絶望的な状況よりは多少ましになったのであるから、ここでそれに亀裂を入れるわけにはいかないのだ。
「うーん、何もありませんね。そもそも、特に怪我があるわけでもないですし」
だからこそ、俺も当たり障りのない答えに留めておいた。
死にそうになった以外特に実害も無かったので、それでもいいか、と思ったのである。
一応被害者だからということか俺にまで意見を求める辺り、馬騰もその辺は真面目な人らしい――そう思っていた時が、俺にもありました。
「そうか、何もないのか。それは残念だ実に残念だなー」
全然残念そうには聞こえない棒読みの声に、先ほどの厭な予感がふつふつと蘇る。
それは馬超も同じだったのか、或いはそういう時の馬騰がどんな人物なのかを熟知しているからなのか、その額に汗を流しながら怯えたように己が母親へと問いかけた。
「え、えっと母様? そ、そろそろ帰ったら――」
「よし、ならうちの馬鹿娘の罰はうちで片付けさせてもらうよ」
だがしかし、その問いも虚しく――というよりは思いっきり無視した馬騰は、口を開いた。
俺の視界で、馬休がもの凄く申し訳なさそうに頭を下げる辺り、彼女は何を言うのかを知っているのかと思うと同時に、とてつもなく厭な予感が的中してしまったのを知ってしまった――否、理解してしまった。
つまりである、西涼太守であり西涼連合盟主でもある馬寿成は、己の娘に対してこう言ったのだ。
馬孟起に命ずる、天将、北郷一刀と夫婦となりてその子を成せ、と。
**
は?
馬騰の言葉の後、無言の室内に響いた戸惑いの言葉は一体誰のものだったのか。
俺自身も何を言われたのかが全く理解出来ずに、ただただこちらに申し訳なさそうにする馬鉄と、何やらニコニコと笑う馬騰の視線を受けて困惑していた。
それが刹那のことだったのか、それとも一瞬のことだったのか、あるいは光陰のことだったのか、と全然落ち着けていない思考で考えてみれば、ようやくその意味を理解するに至ったのだ。
古来より、婚姻関係を結んでの同盟強化というものは決して少なくはなかった。
中華の歴史ではよく知らないのだが、日本の戦国時代には極当たり前のようにそれが行われており、有名なとことでは甲駿遠三国同盟や織田と浅井の同盟などがあり、数え上げればきりがない。
家臣団強化というのであればこの時代にもあったのであろうが、まさか共闘が決まったばかりの相手に、しかもその一臣に対してというのは、いくら俺が天の御遣いなどと呼ばれててもありえないだろうとは思ったのだが。
馬騰からしてみれば、それほど荒唐無稽なことではないらしい。
天の血が馬家に入れば、それに縋ろうとする民を治めるには好都合であるし、後漢が続こうと乱世になろうと、どちらにしても意味がある、ということらしいのである。
のであるのだが、こちらにしてみれば全然旨みがない。
そう言った馬騰は、馬超を人質ということにしたのである。
この状況、古今東西でも同じ表現をするのだろうか。
嫁に出す、とはこのことを言うのだろうな、と何故か人ごとのようにそう思っていた。
結局、夫婦となって子を成すなんて、と顔を真っ赤にした馬超の猛抗議によってその馬騰の案は潰えることとなる。
必死になって嫌だと言われてみれば、そんなに嫌われているのかと少し鬱になってしまうのだが、馬超とは別に反応した董卓軍の面々に、それも止めて慌ててフォローすることとなった。
董卓は、夫婦とは恋人の延長であり恋人ということはそういうことをするということでありそういうことをして初めて子が成せて、とぶつぶつ言っていたかと思うと、へぅ、と顔を真っ赤にして煮えたぎり。
賈駆は、しばらくの無言の後に最低、と呟いたきりその不機嫌さを隠すことはなく。
呂布はその意味が分かっていないのか頭を傾げ、陳宮は董卓と同じく顔を真っ赤にさせていた。
姜維も同じく顔を真っ赤にさせている横で、先越されたけどまだ手はあるで、と何やら不穏なことを口走る張遼がいて。
牛輔は我関せずを貫き、華雄だけが空気を読んだのか読んでいないのか、それは目出度いと祝ってくれた――祝われているのにあんまり嬉しくないとはこれ如何に。
馬超の抗議と俺の説得によってお流れとなった案にぶーぶー言いつつも、ならば、と馬騰は代替え案を出してきたのだが。
それが、ご主人様と呼んで俺を慕うこと、とはあまりにも不憫である――誰が? 馬超の感情をぶつけられる俺がに決まっているだろ。
「ま、まぁその……悪かったよ、巻き込んじゃって」
「いやまあ、孟起殿というよりも寿成殿に巻き込まれた感が強いんですけど……」
「その、母様はいつもあんな感じなんだ。周りを巻き込んでは被害を大きくしていく、まるで竜巻だ」
ああなるほど、言い得て妙である。
今回の布陣にしてもそう、騒ぐ馬超を放っておいて馬鉄と共に淡々と布陣を決めていた時には、何故だか馬超、馬岱と共に俺が西涼部隊へと編入されていたのだから。
賈駆には勝手にすれば、と放り出され、放心していた董卓が助けてくれることも叶わず、しかも唯一の味方である姜維まで取られてしまった。
馬寿成、裏心丸見えである。
そこまでして天の血が欲しいのか、と問いただそうとも思ったのだが、その時はその時で孫の顔が見たい、とか言われそうだ。
結局、その指示通りにするしかなかったのである。
「それになんだ……ご、ご主人様もあたしなんかより、蒲公英とか右瑠や左璃の方が可愛くていいだろ? あたしみたいな可愛くなんか無いのよりさ……」
「うーん、伯瞻殿や草元殿達も可愛らしいですけど、孟起殿も可愛いと俺は思いますよ? あ、だからと言って子が欲しいという訳では無くてですねッ!? その、孟起殿も可愛いんですから何時かいい人がいたら、そんなこと言わずに女の子としてですね――」
自分で自分を可愛くないと言ってシュン、と項垂れる馬超。
こんな武器使ってるしさ、等と乾いた笑いで笑う馬超が痛々しくて、そしてふと可愛いとか思っちゃって、俺は柄にもなく本音を話してみた。
とは言っても、子が欲しいという訳じゃないぞ。
そりゃ俺も健全な男子ではあるからそういったことに興味がないわけじゃないが、それでもそういったのは本当に好きな人とするものだと俺は信じている――そこ、妄想言うな。
だけども本音をこうやって零すのは非常に恥ずかしい。
それに負けて後ろへと振りかえってみれば、何故だかカチャリと音がした。
…………カチャリ?
「あ、あんた――いや、ご主人様は、そうやって女を口説いてるんだな……ッ! 右瑠と左璃もそうやってッ!?」
「い゛い゛ッ!? な、なんでそんなことに――って、銀閃を構えるなぁぁぁッ!」
その音を不審に振り返ってみれば、何かのオーラをまき散らす馬超がいて。
彼女が己の武器を構えた音が、背筋に氷を差し込んだかのように恐怖を倍増させていた。
「あたしが可愛いって嘘ついて……みんなにも可愛いって言って騙して……そんなご主人様、修正してやるー!」
「い、いや嘘じゃないって――ってうわぁぁあぁぁああ! 擦った、ほらパラリって髪が! 下手したら首落ちてたってッ!?」
「…………それもいいな」
「いいわけあるかッ!?」
軽々と空気を切り裂いて振るわれた銀閃を、慌てて後退して何とか避けた。
見極めが甘かったのか、避けきれなかった前髪数本がひらひらと地面へと落ちていったが、首が落ちなかっただけ良しとしておきたい。
ご主人様がいなくなれば、とか不吉なことを呟きながら迫る馬超から、じりじりと距離を離していく。
熊と会ったときは背中を向けず視線を合わせて後退する、だっただろうか、等と一つも関係なさそうで実に今の現状と関係しているその知識に、俺は縋り付いた。
ていうかだ、そんな理由で首落とされてたまるか。
「……あたしの目が黒いうちは、右瑠と左璃に手を出すことは駄目だかんなッ!? もちろん蒲公英にもだッ! あたしのことをか、か、可愛いって言うのも禁止だぁぁぁぁ!」
「真っ赤になるぐらい恥ずかしいなら言うなよッ?!」
とは怒鳴ってみたものの、下手なことを言えば本気で首を落とされかねないと思った俺は、慌てて振り向いて走り出す。
それを逃亡と取ったのか、はたまた自分の命令への拒否だと受け取ったのか。
まるで猛る牛馬の如くで俺を追いかけ始める馬超から逃げ出すために、慌てて足腰に力を入れる。
速度を上げた俺に追いつくために、同じように速度を上げた馬超から本気で逃げ回りつつ――それは、馬岱が出陣の指示が来たと告げに来るまで続けられた。
やっぱり不憫だった。