「救急車を……っ! 救急車を喚べ!」
しんと静まりかえった聖フランチェスカ学園武道場において、眼下に倒れる男を置きながらも己の呼吸だけが聞こえるその世界は、審判役を務めていた顧問によって唐突に終焉を迎えた。
数人の大人が慌てふためきながら目の前の男へと殺到する。
何事かを怒鳴りながら男の頬を叩いたり、その首に手を当て、さらに慌てふためくのをただただ呆然と眺めていた。
不意に。
名を呼ばれた気がして振り返る。
こちらを見る剣道部の面々は、その瞳に驚愕と畏怖の感情を張り付かせ、俺が振り返るとその身をびくりと震わせた。
中には、ただ起こった事柄に困惑しながらも、俺を心配する視線も少なくは無かったが、俺を見る殆どの視線は刃物を扱うかの如く恐れていた。
若干冷静になった思考が、素足から送られてくる肌が張り付くほど冷えた武道場の冷たさを感知し、面から漏れ出る吐息が白く染まっているのを認識する。
ああ、そう言えば今は冬休みなんだなと、不意に思い出し、今なお自室の机に積まれ聳え立つ宿題がふと脳裏に現れる。
「――」
武道場に取られた小さな窓からは、白い結晶がちらちらと覗き見え、それが雪なのだと思い出すまでにそれほど時間はかからなかった。
その間にも、大人達は声を荒げながら辺りを行ったり来たりしている。
誰もがこちらを見ることはせず、ただ一人忘れ去られたのではないかと勘違いするほどの孤独。
懐かしく、そして味わいたくはなかったその感情は、再び聞こえた気のする己の名に、緩やかに霧散した。
「か――、起き――! ――ずぴー!」
徐々に大きくなっていく己の名を呼び声。
それにかき消されるかのように武道場の景色は闇へと消え、肌から感じる寒さと、肉を抉った感触だけが手に残る。
そして――
「かずぴー! ええ加減に起きいやっ!」
後頭部を襲う鈍い痛みに、俺の意識は闇から引きずり出された。
**
甲高く、それでいてどこか抜けたようにその存在を知らしめるチャイムを背景に、授業が終了した教室がにわかに活気立つ。
聖フランチェスカ学園。
元超お嬢様学校であり、男女共学となった今なおそこに在学する生徒の大半は超お嬢様であり、俺こと北郷一刀や、叩いてきた及川佑は圧倒的少数な男子なのである。
……や、通ってた高校が少子化から廃校となって、編入させられただけだから、俺自身は至って普通な一般人だから。
そんな誰にとも分からない弁解をしながら、痛む後頭部を押さえて目の前の及川を睨み付ける。
「うっ……そう睨むなやかずぴー。ほら、不動先輩が呼んでるで?」
叩いたことに罪悪感があるのか、或いは俺の顔が怖いのか。
後者は全力で否定したいところではあるが、それを追求することはなく及川が指し示した方向を見やる。
開け放たれた扉から、こちらを伺うように教室を覗く姿。
黒く、光沢のある絹のような髪を腰にまで達せ、引き締まりながらも自己主張する部位は制服の上からでも分かるほどで、その女子高校生としては高い身長によく映えていた。
不動如耶。
聖フランチェスカ学園剣道部主将。
男子の人数不足から男子女子合同の剣道部を取り纏める少女が、そこにいた。
「不動先輩、何か用ですか?」
「単刀直入に言おう、剣道部に帰ってこい、北郷」
「本当に単刀直入ですね」
恐らく、多分。
言われることが大体予想できていたためか、言われる覚悟をしていた寸分違わぬ台詞に、くすりと苦笑し、心の奥底が軋む。
ああ、そう言えば正々堂々を心がける人だったな、と思い出し、その声色が以前聞いていた厳しいものでも、意地の悪いものでも無く、ただただこちらを心配するものだったことに、感謝の念を浮かべながら頭を振る。
「すみません……、何度も誘っていただいて悪いとは思っていますが、戻ることは出来ません」
「しかし、部の者も先生方も、お前が咎を背負う必要はないと言っている。私自身も、あれは事故だと思っているんだ」
謝罪を込めて下げた頭の上から、まるで触れたら壊れるかモノを扱うような声色が降り注ぐ。
事故。
一ヶ月ほど前に、ここ聖フランチェスカ学園内にて起きた、ある一つの事件。
それを引き起こしたのが俺で、なおかつ剣道部に関わりがあることだから、こんなにも不動先輩は気にかけてくれている。
「俺は……戻ることは出来ません」
それでも。
失礼します、と声をかけ、こちらを伺っていた及川を誘って帰宅の準備を済ませる。
何か言い足そうな顔をしていたが、無理矢理に引っ張って足を進ませる。
後ろから呼び止められる声を無視して――
すみません、不動先輩。
剣道部のみんなも、先生達も、あの事故を知るみんなが俺が悪い訳じゃないと言ってくれても。
俺は、自分自身が許せないんです。
――言葉に出来ない答えを胸に、俺は駆け出していた。
*
「はぁ? デート?」
「そや。だからかずぴー、悪いんやけど博物館はまた明日ちゅうことで!」
「そりゃまあ……いいけど」
頼む、と手を合わせる及川の勢いに押される形で、了承の言葉を発する。
聖フランチェスカ学園に付随する博物館。
元々、学園長が趣味で集めていた骨董品を展示し、生徒達に見てもらおうと建てられたものだが、その意図に反してその利用数は極端に少ないものだった。
その事実を認めたくない学園長は、その権限を利用してある課題を全生徒に課す。
すなわち、骨董品が展示されている博物館を展覧した感想文の提出。
課題と言う名の強制的な権力によって、俺たち生徒は博物館へと足を運ばざるを得なかったのだ。
数少ない男子同級生である及川と、その博物館を見に行こうと言っていたのが今日だったのだが、その及川がデートである。
口を開けばフェチニズムを話し、女の子を見ればまず匂いを嗅ぐ及川が、である。
及川だけは同類だと思っていたのに、と俺は空を仰ぐことしか出来なかった。
「かずぴー……匂い嗅ぐとかさすがにそれはないわ……。……絶対領域のは嗅ぎたいけど」
「おま、変態か!?」
「そや、変態や!」
心からのツッコミを華麗に返され、あまつさえ断言された。
まぁ、それでもこいつはいい奴、よく言えば親友、悪く言えば汚染源だから、特に気にすることもなかったが。
とりあえず、思考を読まれたことはこの際スルーしておく、俺も変態に毒されかねん。
この変態野郎と言いながら荒ぶる鷹のポーズを取る俺と、変態じゃない萌の求道師やと喚きながら獲物を狙う蟷螂のポーズを取る及川。
どちらが毒されているのか、言うまでもないだろう。
「んじゃ、デート行ってくるわ!」
「さっさと行け、んでもって別れちまえコンチクショー!」
街へ向かう交差点にて、そう言いながら満面の笑みで手を振ってくる及川に石を投げつける。
及川が向かう方へ行けば、聖フランチェスカ学園男子寮もあるのだが、今現在俺は少し離れた祖父の家から通っている。
まあ、歩いて一時間ほどだけど足腰の鍛錬にもなるし、バスとか電車は面倒くさい、あれ分かりにくいし。
……決して、彼女が出来たら一緒に登下校したいとか思ってるわけじゃないぞ、うん。
そんなこんなで及川と別れ、一人寂しく家へと帰ってくる。
寺兼道場兼住居というハチャメチャな家ではあるが、住んでいるのは俺と祖父の二人だけ。
その祖父も、殆ど家に帰ることは無く、もっぱら俺一人で住んでいる状態だ。
寂しい訳じゃないが、結構な階段を経て山の中にある家は静としており、そこだけ世界から切り離されたようで。
少し背筋を震わせながら、返事が帰ってくるわけでもないのに、ただいまと声を上げていた。
*
「げほっごほっ! どんだけ掃除してないんだよ、この倉庫……」
帰宅早々、居間の机と同じぐらいでかい紙に書かれた文字を見つけ、その内容に絶望した。
曰く、倉の掃除よろしく、とのこと。
思い立ったが吉日、それ以外は凶日と声高に言う祖父の命令に、俺は知らず知らず溜息を吐く。
「思い立ったんなら、自分でしてくれりゃいいのに……。しかも、日も暮れようかってのに」
そう言いながらも、蜘蛛の巣を木の棒でグルグルと剥がしていく。
蜘蛛の巣、というよりも蟻塚ならぬ蜘蛛塚のような巣を、棒を取り替えながら掃除していく。
夕暮れが開けた扉から入り込み、倉の中はある程度照らされているが、どうにも暗く見通しが悪い。
しかも、いつから掃除していないのか、堆く積もった埃が足をずるずると滑らせて、危険極まりない。
っていうか祖父よ、倉の掃除はほんの数時間じゃ出来ないと思うんだが如何だろう、まぁ笑って誤魔化されそうなんで話さないとは思うが。
「……今度の休みの日にするか、風も通さなきゃいけんし」
うん、そうだそうしよう、決して面倒くさい訳じゃないぞー。
吉日、要は天命は我には無かったのだ、と一人うんうん納得して、踵を返して倉を後にしようと中を見渡したその視線の先に。
埃を積もらせながらも、陽光に煌めいた銅鏡が、そこにあった。
「うーん……結構古いな、これ」
手のひらで埃を刮ぎ落として、銅鏡を見やる。
装飾こそ教科書に載っているものと大差なく、特に特殊なものには見えない。
ただ、刻まれた傷や罅からそれが古いものなのだと、無意識のうちにそう感じ、その触れる手つきも自然と怖々してしまう。
「何で銅鏡があるのか分からないけど……まあまた今度にしよう」
銅鏡と言えば古代中国、紀元前の戦国時代が始まりではないかと言われている。
使用されていた地域は広大であり、東南アジアから遠くは古代エジプトでも用いられた事例があるらしい。
これ自体がそういったものではないのだろうが、それでもその佇まいは歴史を感じさせるものだった。
ふと。
鏡面部分がきらりと輝く。
外を見れば、日も沈もうとしており、ビルや山の隙間から差し込む陽光がのぞく。
おそらくそれが反射したのだろうと、鏡をのぞき込み――
――全身を覆うほどの目映い光に、俺は包み込まれていたのである