「きょ、姜維と申しましゅ! わ、わ、私を董卓様の軍に入れて頂きぇましぇんきゃッ!? はわはわ……また噛んじゃった」
「へぅ……だ、大丈夫ですか?」
姜維とその母親を助けた俺は、騒ぎで目立った彼女達を城へと連れて行った。
姜維が望んだ董卓軍参入、という話とも関係はあるのだが、ひとまずとして、彼女の母親の状態を気にしてのことだった。
城へと帰った後に残って仕事を片付けていた王方へと話を通し、夕方の董卓達への面会と医者の手配を取り付けてもらった。
というのも、安定に董卓軍が本拠を移すとなって石城で董卓を慕う豪族や民、また安定に住んでいた豪族などがこぞって董卓へ面会を求めていたのだ。
これは、戦国時代にもよく見られた光景らしく、その地の領主や大名が変わる度に己の権利を主張したり確認したりするため、ということらしいのだが。
そんなこともあって董卓への面会までの時間、俺は姜維とその母親を客室へと案内していた。
医者の話では、姜維の母親は病ではなくただの疲労ということもあり、とりあえず昼時だったということもあってか食事を取らせた。
消化によさそうなものを、ということで食堂のおばちゃん達に作ってもらった食事は意外と好評だったみたいで、そのことにおばちゃん達も喜んでいた。
一休みした姜維の母親は顔色もよくなり、面会の時間となって広間へと彼女達を案内したのだが。
「なんだ、この空間は……?」
未だ仕事から帰ってこない人物をのぞいて、この広間には董卓と賈駆、俺を含む三人と姜維とその母親の計五人がそこにいた。
一応面会という形ということで、俺の位置としては連れてきた推挙人というよりも、董卓軍の一員としてその場にいることになったのだが。
目の前で繰り広げられるカミカミの姜維と、ほわほわの董卓の応酬に、俺は知らず視線を逸らしていた。
「ちょっと、あんたがあれ連れてきたんだから、目逸らすんじゃないわよ。……そもそも、あれ使えるんでしょうね?」
「あ、それは大丈夫だと思う。見る目は確かな方だと思うから」
見る目、というよりも持っている知識か。
姜維といえば、初め魏に仕えていながらもあの諸葛亮にその才を見出され、蜀に下った後にはその後継となって蜀を支えた武将なのだから。
老いたとはいえ五虎将軍の一人であった趙雲と互角以上に戦い、あの諸葛亮の策を逆手にとって彼を危機に陥らせたりと、才覚溢れる将であったという。
惜しむらくは諸葛亮ほど内政を重視しなかったことか、度重なる北伐は蜀の国力を疲弊させていき、内外に問わず不信感を募らせてしまう結果となったのだから。
全てという訳ではないが、後に蜀漢が滅亡した一因とも言えよう。
だからと言って、それが目の前にいる姜維の評になるかと言われれば否であるのだが。
「……」
「な、なんだよ?」
「別になんでもないわよ」
恐らくは董卓軍の助けとなるであろう人物、と姜維を評してみれば何故だか賈駆から睨まれてしまった。
姜維の評に何か問題でもあったのか、と問いかけてみても特に何かを言われるふうでもなく、一つ鼻を鳴らした後は顔を逸らされてしまった。
「……ふふ、賈駆様は拗ねておいでなのですよ、北郷様」
一体なんなんだ、と頭を抱えてみても答えが浮かぶはずもなく――それで答えが浮けば、元の世界でもう少し見える世界が違ったかもしれないのに、主に赤ペンで書かれる数字が。
何だ何だと悩んでみれば、答えが飛んできたのは思わぬ方向からであった。
「拗ねているとは…………えーと、お名前何でしたっけ?」
「ああ、これは申し遅れました。亡き姜冏が妻、姜維が母で姜明と申します。赤瑠――娘がお世話になれば、北郷様とも末永いお付き合いとなりそうですね」
くすくす、と。
たよやかに笑うその表情は女性特有のもので、不意にドキリとしてしまうほどに綺麗だった。
そんな俺を見てますます笑みを浮かべる姜明に恐縮しながらも、いつの間にか董卓の隣へと進んでいた賈駆へと視線を促す彼女を見ていた。
「赤瑠――他の娘ばかり褒められては、殿方の近くにいる女子からすれば拗ねるのも当然ですよ。見れば、賈駆様を一度も褒めたことがないのでは?」
「む……まぁ、その通りですが」
貶されることはしょっちゅうあるんですけど、なんてここで言おうものなら、もし聞こえたなら、と考えてしまい慌てて口を塞ぐ。
それを見られればまた笑われてしまい、俺はどうにも居心地が悪い思いだった。
「女子は殿方には褒められたいもの、それが気になる方とあれば特に、ね。……あら、お話が終わったようですね」
そう言われて見れば、なるほど確かに。
視線を移してみれば、お願いしぇまひゅ、とどうやったら出来るのか聞きたいぐらいに噛みながら頭を下げる姜維がいて、それをまた心配している董卓がいた。
俺連れてきただけなんだけど、将を加えるのってこんなに簡単でいいのかなぁなんて考えてしまう――でも牛輔と李粛もいつの間にか参入しているのを見ると、案外そんなものなのかもしれない。
「それに――褒めておけば、貶されることも少なくなるかもしれませんよ?」
となると、今の俺の仕事量を減らすために文官をどこかから捜してきてもいいなあ、とついつい考えてしまう。
いやだって、王方だけじゃ足りないのよ圧倒的に。
いくら俺が慣れてないとは言っても、さすがに連日深夜まで仕事をすれば身も心もすり減ってしまうのよ。
やっぱり文官、或いは軍師とか欲しいよね、この時期なら徐庶とか荊州にいそうだし、探してみれば諸葛亮とか龐統とかいないだろうか。
そんなことをちょっとワクワクしながら考えていると、姜維の元へと行こうとしていた姜明がすれ違い様に囁いていった言葉に、俺はピタリと動きを止めてしまう。
そんな俺を訝しげに見る董卓と賈駆、姜維の視線の裏腹で、くすくすと笑う姜明に敵わないと思うと同時に感謝した。
そう、この時をもって俺の行動思考の順位は文官を捜すことから董卓軍の姫達を褒めることへと変わったのだから。
賈駆は当然として、陳宮も褒めたほうがいいのかな、主に俺の心身共の安寧を得るために。
でもやっぱり文官も欲しいよな、と思う今日この頃であった。
**
それでも、少しでも気遣ってくれていることに感謝して、打算抜きで褒めるべきであろうか。
ううむ、悩むところである。
「北郷様ー! 持って行ってきました!」
「ありがとう、伯約。ちゃんと詠に渡してくれたか?」
「はい! 相変わらず汚い字って言われてました!」
「ぐふっ! そ、そう……そんなに字汚いかな」
董卓軍に参入した姜維であったが、彼女が初め上司と仰いだのが、何を隠そう俺ということになった。
そこに至るまでに様々な問題――主に、張遼が俺に女の部下を付けることを反対したり、董卓もそれに倣ったり――があったが、概ね大きな混乱もなく姜維は董卓軍へと馴染んでいった。
まあその理由は少々複雑ではあったりするのだが、根本的なものとしては俺を将軍へと押し上げようというものであった。
功として評価されることは無かったとはいえ、董卓と賈駆を二度も守り、その武は並の兵士では及ばぬが如し、文官の仕事をさせればなんだかんだでやりこなす。
極めつけが先の姜維と兵士との一件であり、それを治めた俺に対して民の評価が上がったということもあり、また兵士の失陥から不信感を抱かれないように、という理由があった。
ようするには、安定支配のための御輿、という肩書きである。
そして、そういった俺の下に姜維が付く、という事実がそれを堅固にした。
「伯約を北郷殿の下に付かせることで、董卓様の度量の深さを民に知らしめる。……賈駆様も、中々に厭らしい策を考えるものです」
「はは、詠らしいと言えばらしいけどね。むしろ月の名を落とさないという点に関していえば、詠以上の適役はいないと思うよ」
結果として、姜維を従えた俺が董卓の下で働けば働くほど董卓の名が上がって民心が定まる、という好循環が生まれることとなり、安定の街は董卓軍が入って早二週間ほどで現状に馴染むかたちとなったのである。
「まあ、こういったのは詠や公台殿のほうが得意だし、俺は自分に出来ることをしないとな」
「その意気ですよ、北郷殿。……そういえば、伯約?」
「はい、何でしょう?」
「お願いしていた昼食は、如何なさいました?」
「…………は、はわはわはわッ! わ、忘れてましたぁぁ! 取ってきまじゅ!」
「はぁ……」
そして、結論から言えば姜維は優秀だった。
一を聞いて十を知る、とまではいかないが、それでもその働きは十分に感嘆するものであり、このままいけば俺が抜かれるのもそう遠い未来ではなかった。
ただ、彼女の一点だけが、それに霞をかけているのだが。
「またですか……。どうにも、伯約は一つの事しか見えないみたいですね。将になろうかという人間があれでは、先が思いやられると言いますか……」
「は、ははは。まあでも、見えている一つの事に関して言えば優秀なんだしさ、白儀殿もそう言わないであげて下さい」
ぱたぱたと慌てて廊下を駆けていく姜維を見送れば、それを見計らって王方の口から零れ出た評に、俺も内心同意してしまう。
集中する、といえば聞こえがいいが、どうにも彼女は一つのことにかかると気がいかなくなるらしい。
以前も、竹簡を陳宮の所に持っていって、ついでに先日の警邏の際に発生した問題の詳細を聞いてきてくれ、と頼んだものなのだが。
何故か詳細を聞いて帰ってきた姜維の腕の中には渡すべき竹簡が残ったままで、急ぎだったそれは王方が慌てて持っていったのである。
今回もそう、賈駆へと竹簡を持っていたついでに、昼食を三人前持ってくる、それが出来なければ姜維が先に食べた後に俺と王方の分を持ってきてくれと頼んでいたのだが。
結果は先の通りである。
そして今また。
ドンガラガッシャン、とお約束的な音が廊下から伝わってきて、それを誰が起こしたかも知れぬというのに王方は天を仰いだ。
「姜維様ッ! またあなたですかッ!?」
「はわはわはわーッ! ご、ごめんなしゃいでしゅぶッ!」
しかししてその後に、食堂で厨房を仕切っているおばちゃんの怒声と、姜維の慌てた謝罪が聞こえてくれば誰が起こしたかは明白なのだが。
がっくり、と肩を落とした王方は、一言俺に謝るととぼとぼと食堂への道を歩いていった。
……なんで王方が姜維の世話を焼くのかって?
それはね、彼が姜維の一応の教育係に任命されたからだよ。
彼のこれからに、俺は祈りを捧げたかった。
**
司隷河南省に位置する都、洛陽。
雒陽とも、洛邑とも呼ばれるこの都は古来からの王朝にとって政治経済の中心とも言える場所であり、兵家必争の地でもあった。
前漢王朝の皇族でもあった光武帝によって後漢王朝が立てられると、洛陽はその都とされ歴代皇帝の治める地としてきた。
しかし、叛乱を防ぐために光武帝によって権力が皇帝へと集められると皇帝に取り入るための権力争いが起き始め、結果として外威と宦官によって政治は混乱していくこととなる。
そんな混乱の最中、時の皇帝である幽帝が寵愛を注ぐことによって権力を得た人物が、洛陽の城を闊歩していた。
「仲達! 仲達はおらんのかッ!?」
「……御呼びでしょうか、何大将軍様?」
何進、字は遂高。
妹である何皇太后が霊帝に見初められたことが彼女の栄達に繋がると、黄巾の乱以前に大将軍となった人物である。
月光の如くの銀髪を艶やかに流しており、それを映えさせるかのように豪華な簪が挿されていた。
着物をはだけさせ、豊満な肉体は局所を隠すだけに留めた彼女は、己が呼びつけた男へと怒鳴り散らした。
「お主は言った筈だ、宦官を害することによってわらわへの忠誠を誓うとな?!」
「確かに。何大将軍様の言うとおりにございます」
「ならばなぜ、いつになっても動こうとはせんのだッ!? 張譲を始め、宦官共は皆わらわを害そうとしておる! このままでは、やつらの前にわらわが殺されてしまうではないかッ?!」
その美貌を怒りによって歪める何進に慌てる風でもなく、仲達と呼ばれた男――司馬懿は一つ呼吸を置いた。
「何大将軍様、物事を成すには成すべき時――すなわち、天運というものがあります。今はまだその時ではないのですよ」
「そんなことは分かっておるわッ! だが、このままではわらわは……ッ!」
「私をお信じ下さい、何進様。このような風体の私を、あなたは重用して下さった。その信に報いるために、私はこの命、何進様のために用いる所存です」
初め、司馬懿が洛陽に赴いたとき、朝廷の者達は彼を用いようとはしなかった。
寒気さえ感じさせる白い衣、顔半分を覆う白き仮面からは怜悧な瞳が覗き、自分達の裏側を見られているようだという。
その才には目をむくものがあったが、そういった風体からか誰にも用いられなかったところを、たまたま通りかかった何進が気まぐれに拾ってみたのが始まりだった。
自分の身体を目当てにする者、自分の権力に縋り付こうとする者、大将軍となって多くの者を見てきた何進にとって、己の命を投げ出してでも自分に尽くしてくれようとする司馬懿の存在は、存外に大きなものであった。
例えそこに、女としての気持ちが混ざろうとも、自分を慕い信ずる司馬懿を傍から外すことなど、この時の何進には到底考えられなかった。
「仲達……ならば信じよう、お主のその言を。……わらわを、裏切るではないぞ」
「御意にございます」
だからこそ、何進は自分を信ずる司馬懿ならば、と背中を向けてその場を後にする。
宦官相手ならば、背中から刺されるやもしれぬ、と常に護衛に囲まれていないといけないものだが。
自分を信じ、自分が信じられる者がいるということはこれだけ心地いいものかと、何進は幾許かの暖かい気持ちを抱き始めていた。
「――ふん、ああも騒ぐことが出来るとは。やはり、元は肉屋の娘というところか」
「これは張譲殿。何用で私めに声をかけられたのですか?」
不意に、何進が去ったのを見てか曲がり角から一人の人物が出てくる。
霊帝の寵愛を受け、十常侍と呼ばれる十二人の宦官の一人としてその実力者でもある張譲、その人であり、また何進の最大の敵対者でもあった。
「あの何進がお前の前では女の顔をするとはな……。なるほど、殺す前にお前の目の前で兵に犯させるのも、存外悪くはないのかもしれぬ」
くくく、と喉を鳴らして笑う張譲だったが、それもすぐに飽きたのか鼻を鳴らして司馬懿の顔を見た。
「何進に仕えながら、我ら宦官に通ずる。まさか、朝廷に仕えたいと申していたお前を放り出した我らに、何進の暗殺を持ちかけるとは……」
「あのお方の下では天下は収まりません。力を持つ物、宦官の皆様でしたらそれも可能と思ったまでです」
「……なるほど、お前の言はまこと理に適っておる。だが、さきほどまで何進に甘い言葉を吐いていたお前を、はいそうですか、などと信ずることは出来ん」
――だから問おう、お前が求めるモノは何だ?
そう張譲から問われた司馬懿は、その右半面を仮面に覆われた顔を俯かせた。
その行動に張譲は訝しみながらも身構えた、その懐から懐剣が飛んでこないとも限らないのだ。
司馬懿を信じその背中を預けた何進と、その策略に乗りながらも司馬懿を信じ得ない張譲。
対極にある二人がいがみ合い、そして対立することは当然のことなのかもしれないが、その場にはそれを指摘する者がいる筈も無く。
ただただ、司馬懿の口から問いの答えが出てくるのを待つばかりだった。
そして、その口から答えが発せられた時、張譲はその意味を得ることはなく、ただ頭を掲げるばかりであったのだ。
「私が望むモノ――それは、この世界のあるべき姿ですよ」
**
かくして。
緩やかに、そして着実に進められていく時の針は、たった一人によって定められた点へと歩み進んでいく。
この段階で誰が気づけるわけでも無く、それを変える術を持つ者がいるわけでもない。
抗う者こそいれど、その力は余りにも無力であった――外史の系図を作り得し者と出会うまでは。
そんな彼らは今はまだ廻り逢うことは叶わず。
外史は、新たな段階へと進むこととなる。
**
豫州、荊州、冀州、青州、そして涼州。
小規模な叛乱を収め、黄巾賊を防ぎ、己が牙を研磨する領主や太守達。
それらの人のみならず、その地に住まう人々に取って、その光景は次代の夜明けか、はたまた絶望の深淵か。
中原を覆い、まるでそれ自体が一個の生き物であるかのように蠢く黄色の塊が確認された。
各地を治める領主、または太守達がおざす城に各々の軍兵が駆け込んできたのもそんな時である。
そして、彼らは一様に驚愕をもってしてその報を伝えた。
「こ、黄巾賊が各地にて一斉に蜂起ッ! そ、その数五十万とも百万ともの賊兵によって、各地の郡県が襲撃されておりますッ!」
後漢王朝の腐敗に始まり、中華全土を巻き込みながら燃え上がった黄巾の乱。
その乱において最大の激戦が、各地において繰り広げられようとしていた。