小鳥さえずる朝焼けの中、俺は手に持った木刀を正眼に構えた。
木刀、とはいっても手頃な重さと長さを兼ね備えた木を削りだしたものなので、俺のよく知る木刀よりは些か形が悪い。
持ち手の部分こそヤスリの代用として砂で削ったのだが、完全には慣らせなかった。
それでも、この木刀を用いて数日もすればそのボコボコも手に馴染むものではあったのだが。
一度木刀を振るえば空気を切り裂く音が聞こえるのだが、その感触は俺が求めたものとは違った――それも当然ではあるのだが。
あの冬の一件以来、俺は剣を置き力を持とうとはしなかった。
それまで日課としていた鍛錬も止め、必要最低限の体力維持しかしてこなかったのだ。
半年近く剣を振るい技を磨いていないのだから、鈍っているのも無理はないのだ。
「かと言って……これはちょっと予想外だな」
振り落とした木刀を、見せ付けるかのように右足を引きながら下段へと構える。
タイ捨剣術は右半開を始として左半開で終とする、それは北郷流でも変わることはなかった。
その構えこそ様々にあるが、その根底は揺るぐことはない。
下段に構えた木刀を、右足を踏み込みながら上へと切り上げる。
仮想敵を作り出すことはせず、ただひたすらに疾く鋭く振るう。
振り上げた木刀をそのままに振り下ろせば、左半開にして袈裟斬りというタイ捨剣術の基本となる。
そこから振り下ろしたバネで前方に突きを繰り出す、日本刀での刃の部分を上にして。
突き出した木刀を刃の方に、すなわち上へとさらに切り上げると、伸びた体を縮めるかのように身体を回転させて左足で蹴りを放つ。
誰にも、何にも当たることはないその蹴りはそのまま空気を切り裂いたが、俺は特に気にすることなくそのままの勢いでさらに身体を回転させる。
そして、右足を軸にして回転させた身体は左半開になるように足を付き、右手に持っていた木刀を、俺は目線の高さで一気に振り切った。
あたかもそれは、居合いで抜き終わった形となっていて、俺は木刀を鞘に納めるかのように腰へと移した。
そして、呼吸とも、溜息とも取れるものを吐き出す。
木刀を作って数日、鍛錬の時間を取ることが出来なかった俺としては、今日久しぶりに本気で剣を振るったのだが。
そのあまりの衰えぶりに、少しばかり肩を落とした。
傷ついてでも、苦しんででも守ると決めたのだからまずは己の身を守れるだけの力を付けねば、と思い立って始めた早朝鍛錬だが、思いの外、前途は多難である。
筋力と体力のトレーニング、そうして作られた身体に北郷流の技を思い出させる鍛錬、そしてそれを実用可能な段階まで鍛え上げる実施、と数え上げればきりがなかった。
実施を行うための相手が不足しないのが幸いなのだが、何よりも必要なものが今は不足がちであるからいつになれば元に戻すことが出来るのか、と俺は溜息をついた。
「まあ……焦らずに一歩ずつしていくしかないんだし、やるしかないんだけど」
分かりやすい目標としては張遼や呂布、華雄に勝つことだが、この腕の錆びっぷりでは打ち合うことさえ難しいかもしれない。
剣術だけが北郷流ではないのだが、一武人としては正々堂々勝ちたいものではあるのだが――無理だろうか。
仕方がない、と諦めることは簡単なのだが、それを認めるのは少し早い気がした――いつまでもつかは分からないが。
とりあえずは、と汗をかく程度に柔軟だけした俺は、手ぬぐいで汗を拭いながら食堂へ行くことにした。
安定で寝泊まりを始めて数日ではあるが、ここの厨房の人達は朗らかに笑う人達ばかりで好感がもてる。
今日もまた、互いに笑顔を交えながら、やれ麻婆豆腐が上手いだの、青椒牛肉絲が辛いだの言い合いながら朝食を終えた俺は、食堂を出て廊下を歩くのだが。
朝の出仕を控えて、侍女や文官達が竹簡やら書類やらを携えて歩く姿を見て、先ほどとは違う溜息をつく。
「……きっと今日もなんだろうなぁ」
遠い視線で遙か彼方の故郷を思う俺を、ある者は訝しげに、ある者は気の毒そうに見ては廊下を歩いていく。
訝しげに見られるのは別段構わないのだが、気の毒そうに見ていく人達の多くはその目的地はきっと一緒なのだと思う。
気の毒そうに、申し訳なさそうに大量の竹簡を運んでいく文官達からの視線に、なら運ぶなよ、と言いたいところではあるのだが、それをすれば多くの人に迷惑がかかると思えばそれも出来ない。
仕方なく、とここだけは諦めて自室へと脚を進めるのだが、どうにもここ数日で見覚えた光景が待ち構えていそうで憂鬱になってくる――自室に所狭しと詰まれた竹簡やら書類が待っているであろう、俺の自室へ。
そうして廊下を曲がればその先に自室があるのだが、そこから出てきた侍女と視線が合えば、ふい、と申し訳なさそうに視線を逸らされてしまい、否が応にも覚悟を決めねばならなかった。
そして、動悸する鼓動に手は震え、頭の中が真っ白になる程の緊張感を携えながら部屋の扉を開けてみれば。
机には書類が積まれ、部屋の壁には竹簡が堆く詰まれた想像通りの部屋が視界に映った――しかも昨日より多いし。
「やっぱりかぁぁぁ……」
がっくし、と肩を落とした俺は、その惨状に今一度視線を向けると本日三度目の溜息をついた。
あれだな、もっと文官欲しいな、じゃないと死ねるぞマジで。
**
安定を麾下にすることとなった董卓軍は、本拠をそれまでの石城から安定へ移すこととなった。
それには諸々の理由があるのだが、大きなものとしては董家軍としての機能の拡充と、対外交渉に関する世間体というものが上げられる。
小さい勢力ながらも五千もの兵力を持った董卓軍ではあったが、石城は少し手狭であったのだ。
というのも、董卓と賈駆の指示の元に涼州でも比類無きほどに栄えた石城ではあるが、元々大きな都市では無かった。
しかし、治安もよく黄巾賊にも勝った、という情報から人口数は上昇を続けそこに元黄巾賊の兵が加えられたのである。
そして多くの人は自分の領域に足を踏み込まれると不快感を抱くといいますか、民衆は黄巾賊への嫌悪から、元黄巾賊はそれへの反発から大小様々ないざこざは後を絶たなかった。
そこで今回、安定を麾下にしたこともあって、大多数の兵力は安定へと移されることになった。
元々石城にいた兵二千を残し、新しく参入した元黄巾賊を加えた五千の兵が安定へ入ることになったのだ。
石城より大きい安定ならば、五千の兵が入っても十分な広さがあった。
石城と同じように元黄巾賊という身柄からいざこざは起きるであろうが、とりあえずの所は解決出来たと言えよう。
もう一つの理由は案外簡単なもので、本拠よりも麾下の都市の方が大きいのは如何なものだろう、という理由である。
正直なところを言えば、石城はそれほど綺麗という程ではない。
以前に李確から聞いた話だが、石城は地方都市ということもあって後漢王朝からあまり気にとめられていないらしい。
治世支援金という名目での王朝からの資金も、石城には殆ど入ってこないらしい――もっとも、その実態の多くは賄賂や贈賄などである、とのことだが。
そんなこともあって、常に慢性的な資金不足に陥っていた石城は、董卓の代になって賈駆が軍師になっても解消されることはなく、半ば自転車操業な運営となっていたのだ。
それでも、元黄巾賊を参入させて人口を増やして、と着実に成果は上げているのだが。
だが、そんな石城も安定の大きさには敵わず、これから朝廷や諸侯と相対するにあって安定の方が何かと便利、ということで本拠を移すことになったのだ。
となると、石城に誰を残すかということになるのだが、これは防衛指揮に残った李確がそのまま残ることになった。
先代からの忠臣でもある李確は石城のことをよく知り、また民も李確のことをよく知っている。
これ以上の適任はおらず、満場一致で李確に使者を出すことになったのだが、そこで一つ問題が起きた。
もし黄巾賊が襲来した際に、李確一人では迎撃から防衛に至るまでの指揮が執れないということだ。
なら数人が戻れば、ということになるのだが、安定の兵はその殆どを元黄巾賊で構成されており、その訓練のためには武官文官ともに数がいる。
かといって、石城に文官たる仕事が出来る人間が李確だけという訳にもいかない。
そこで出た結論が、徐栄であった。
李確と共に先代より仕えてきた徐栄ならば彼と共に石城を任せられる、という話になったのだが、それで終わりというわけにもいかなかった。
智勇兼備の将が二人ともいなくなるということは、その武官と文官の間に立つ人間がいなくなるということでもある。
いちいち董卓や賈駆伝いに指示を仰ぐわけにもいかないのだから、その重要性は言わずともしれた。
そのため、彼らの後任となる人物が早急に必要だったわけであるが――ここまでくれば分かるだろう、お察しの通り俺が任命されたのである。
理由は至極単純――俺だけが暇だった、ただそれだけ。
張遼と華雄は軍兵の訓練を、徐晃は城壁の修復箇所の確認、呂布と陳宮と李粛は警邏で、牛輔は安定の民衆の混乱を治める、董卓と賈駆は当たり前のように忙しい。
結果、それまで賈駆の手伝いをしていただけの俺が、急遽として文官と武官の橋渡しをするはめになったのだ。
とは言っても、それほど難解な事象が待っているわけでもない。
それぞれに対する指示や不満、要求などを分類ごとに分別し、それを担当の場所へ送ったり返事をしたり、といった仕事である。
ただ唯一、新任の武官や文官が増えたことによってその数が膨大な量に及ぶことを抜きにすれば、であるが。
そのため、ある人物が俺の補佐となった――安定に残った唯一の文官である王方、字は白儀、その人である。
王方といえば、董卓配下として名を上げて、後に李確らと共に挙兵して長安を占拠する将だったと覚えている。
それだけであれば武官だと思っていたのだが、俺が向き合う机の端に積み重なる竹簡を片っ端から読んでいくその王方は、とてもそうは見えなかった。
竹簡を開く指は白く細く、それを見つめる眦は切れ長で少し冷たい印象を受ける。
少し色の抜けた髪は異民族の血が混じっているのか――と、そういえば俺の知る限りでも色んな人がいるんだった、気にしないでおこう。
文字を書き終えた竹簡を脇へと避けて一つ伸びをする、体中の骨が盛大な音を立てて軋んだ――おおぅ、いい音。
それこそ鳴らない箇所は無いぐらいに体中が鳴ると、傍らで竹簡を纏めていた王方がくすりと笑った。
「お疲れ様です、北郷殿。少し休憩されては如何ですか?」
「お心遣い感謝します、白儀殿。けど、まだまだ残ってますから」
そう言って視線を移せば、未だ開くこともされていない手付かずの竹簡が目に入る。
量? はははは……はぁ。
俺の視線の先にあるものを見て俺の心配していることが理解出来たのか、再びくすりと笑って王方は口を開いた。
「ああ、それなら大丈夫ですよ。とりあえず先ほど纏めたものをあるべき所へと返して、残りは分別しなければいけませんので。そうですね……半刻ほどなら時間もありますから」
そう言う王方につられて部屋に視線を走らせれば、なるほど、確かに分別さえしていないものが多い。
ですからどうぞ、と促されては断る理由もない。
俺としても、ずっと座りっぱなしで尻が痛いので少し歩きたい、と思っていたので丁度良かった。
「……それでは済みません、少し出来てきます。何か食べるものでも買ってきますので」
「ああ、それなら龍泉庵の肉まんがいいですねぇ。まあ、期待して待っておりますので」
……普通そこは期待しないで、ではなかろうか。
そんなこと言われたら買ってこないと何か怖い気がしたので、俺は慌てて無言で頷いた後に部屋を飛び出していった。
出際に、そういえば今日の警邏は華雄と牛輔だったか、と確認して、道中見つけることが出来れば誘おうか、とも考えていた。
それではいってらっしゃいませ、と背中に声を受けて送り出されたが、ふと思い至ることがあった――龍泉庵って何処にあるのだろう?
……まあ何とかなるか、などと冷や汗を流しながら、とりあえずは飯が食えるところを探そうと街を歩く。
石城ほどではないが、それなりに賑わう街を歩けばそこら中からいい匂いが漂ってくるので、ついつい腹が鳴ってしまう。
幸い、賑やかな街並みに埋もれて衆人に聞かれることは無かったが、それでも小っ恥ずかしくなった俺は慌てて近くにあった店へ入ろうとしたところで――視界の端にあるざわめきを見つけた。
「なんだ、あれ?」
安定の中心、城門から城へと伸びる主要道の外れ、一本裏道へと入ろうかとする場所で騒然としている人垣を見つけた俺は、そこへと近づいてみた。
野次馬根性発揮である。
「あーあー、あの子も可哀想に……」
「ちょっとすみません、何かあったんですか?」
とは言っても、見えるのは人の頭で出来た山だけである。
何か言い争っているのは聞こえるのだが、何分野次馬の数が多すぎて、ざわめきで今いち聞き取れない。
仕方なく、人垣に近づいた俺は近くにいた男性へと何があったのかを問いかけた。
「ん? いやなに、あの子の母親が兵士達にぶつかっちまったらしくてね。それだけならいいんだけど、兵士の奴ら、何を思ったかあの子達を黄巾賊の密偵だと言って取り調べるとか言いやがったのよ」
「黄巾賊の密偵って……。証拠はあるんですか?」
「そんなもん、あるわけないよ。ありゃああれだね、詰め所につれて帰っておいしく頂かれちゃうね」
ここは昔から行商人なんかが多いからね、ああやって難癖つけてはってのが多いんだよ。
それだけ言って居心地悪げにその場を離れていく男性から視線を外し、人並みの中心へと視線を向ければ――見えた。
長く伸ばした蒼穹の髪を頭の斜め横で二つに束ね、土埃で汚れた面差しは幼いながらもしっかりと芯があるように見える。
体型こそ小柄ではあるが、それでも武芸に関しては素人ではないだろう、その立ち振る舞いがそう感じさせた。
対して母親であるが、同じ色の髪を腰まで伸ばしており、その豊満な肢体を覆う服に沿うかのように艶やかに流れている。
病でも抱えているのか、上気した頬に潤んだ瞳、と色気を感じさせるセットに、なるほど、先ほどの男性の言が当たっていると確信した。
「母上に触らないでッ!」
だからこそ、少女の叫びに反応してしまい気付いたときには人垣を掻き分けていた俺は、少女の母親に手を伸ばす兵士の手を掴んでいた。
「誰だ、貴様はッ!? 邪魔だてするなら容赦はせんぞッ!」
「まあまあ、この方達が何かしたという訳でもないんでしょう? ここは一度引かれた方がよろしいのではないですかね?」
己の母親に手を伸ばす兵士に対して、今にも噛み付かんとばかりにいきり立っていた少女を背中へと回し、兵士の前へと躍り出る。
三人、兵士の数ではあるが、いざ揉め事となったときにギリギリ相手出来る数ではあるか。
服を調えるふりをして懐にあるモノを確認した俺は、こちらを睨み付ける兵士達に視線を向けた。
「民如きが我らに諫言すると言うのかッ!? 我らはこのたび安定を支配することとなった董卓軍だぞ、領主の子息如きが口を聞ける立場ではないのだッ!」
だからそこを退け、と三者三様に怒鳴る兵士達に、こめかみに痛みを覚えてしまう。
董卓軍だ、と名乗る彼らに見覚えがないことから、今回の件で新たに参入した元黄巾賊か安定の兵士だということが分かる。
少なくとも、石城のころからの兵士達とは調練や警邏で一度顔を合わせているのだから、何かしら見覚えがあってもいいはずである。
「そも、黄巾賊の密偵と疑わしきだけで取調べとは、些か早急ではありませんか? まずは指揮を執る将に確認をとって、指示を仰ぐべきでしょう」
「ふん、我らは既に指示を仰いでおるわッ、疑わしきは罰せよ、とな」
「……指示を出した将を聞いても?」
「貴様如きがそれを聞いたところでどうなる訳でもなかろうが、特別に教えてやろうッ! 董卓軍にその人在りと謳われた華将軍よ!」
その言葉を聞いて、俺の中ではああなるほど、という理解と、そんなわけがないだろう、という確信が生まれていた。
華雄は、そりゃ確かに猪のところはあるし人の話は聞かないしちょっとばかり考えるのが苦手だったりするが、それでも疑わしいというだけで罰することはないと言い切れる。
まずは己で確かめ、それから動くということぐらいは俺にだって分かるのだから、華雄にだって分かる筈だ――と言い切れるかどうかは人それぞれだけども。
だけれでも、華雄がそう言わないことだけは確信出来る。
それと同時に、目の前の兵士達がどういった人物なのかも理解出来た。
ようするには――
「――なるほど、虎の威を借る狐、ではなく小者と言ったところか」
「なッ!? き、貴様ァァッ!」
「おや、お気に召さなかった? ならば言い直しましょうか、下郎、とでも」
故事成語である虎の威を借る狐であるが、そのエピソードは戦国時代、楚の宣王とされる。
この時代では学を得ることは難しいため知らない人の方が多いとも思ったのだが、俺の言に頭にきたのを見る限りでは目の前の兵士も知っていたらしい。
真っ赤に染めた顔で怒りを表した兵士は、こともあろうにその腰に構えた剣を抜いた。
途端、それまでざわめきが支配していた空間は、絶叫と悲鳴が塗りつぶした。
ある者は慌てて逃げ出し、ある者はとばっちりを避けて知らぬ顔をし、ある者は助けを呼びために兵士を呼びに行った。
そんな周囲の変化を気にする風でもなく、一人につられて他の兵士も慌てて剣を抜いた。
「小僧ォ、貴様も同罪だッ! 今ここで、その首刎ねてくれるわァァァッ!」
なるほど、どうにも俺が丸腰と思って強気なのか、その切っ先を俺へと向けて兵士が怒鳴りつけてくる。
後ろの二人が剣を抜いたという事実に愕然としているのにも気づかず、兵士は俺の首を刎ねるために剣を振るった。
だが。
「なっ?!」
「悪いけど、簡単にやるわけにはいかないんだよ、この首は。守らなきゃいけないものもあるしな」
それも、俺が懐から出したモノによって受け止められてしまう――甲高い音を響かせながら。
木刀を作るとき、俺は何も最初から自作しようとは思ってはいなかった。
まず初めに武具を扱う店や鍛冶屋に行ってみたのだが、木刀という概念がないのか、どこにもありはしなかった。
仕方なく自作しようということになったのだが、そう決めた鍛冶屋にて俺はあることを聞いてみたのだ。
木刀――木の中に鉄を流し込むことはできるのか、と。
鉛を仕込んだ木刀というのは、意外のほか重たいのだが、鉛が精製出来るか怪しいこの時代でそれに代わるものとして鉄ではどうか、と尋ねてみたのだ。
結果としては不明ということではあったが、その発想が面白いと言ってくれた鍛冶屋のおっちゃんに、俺はさらに頼み込んであるモノを貰い受けた。
それが今まさに俺の手の中にあるモノ――兵士の剣戟を止めた、鉄の棒である。
ただの鉄の棒であるのだが侮ることなかれ、チャッチャッチャーンと土曜日夜九時から始まる番組で多くの凶器となったそれは、十分に実用可能なことを証明しているのだ――脚色が含まれてはいるが。
こんなもので良かったら、と結構な量をもらった内の一本をいざという時のために懐に忍ばせておいたのだが、まさしく想定した通りに用いてしまった。
「ぐゥッ! 刃向かうというのなら容赦はせんぞ、おい、こいつを囲めッ!」
「あ、ああ!」
俺が防ぐとは思ってもみなかったのか、呆然として力が緩んだところで押し返された兵士は、後ろの二人へも声をかけて前と横の三方から俺を囲んだ。
そのどれもが剣を抜いており、普通に考えれば剣と鉄の棒では相手にならないのは当然であるのだが、俺は至って冷静の内にいた。
二人の女性を背に、三人の男と相対する。
それはこの世界に来て初めての時と同じで、それがもう遥か昔のことのように思えながら、顔に出さないように笑う。
懐かしさを感じるという、その場にそぐわない異質な感情を抱きながら、俺は鉄の棒を兵士へと差し向けた。
「虎の威を借り、それが通じぬ相手とみるや武威を見せ付ける、か。小者ここに極まり、だな」
やれやれ、と肩を竦めた俺に、兵士はさらに顔を朱に染めていく。
それは羞恥か、それとも怒りか、あるいは両方か。
どれとも取れる色に染まった顔を見やりながら、自分でも驚くほどに淡々と言葉が口から出てくる。
「数多の血を散らし、多くの犠牲の上に成し得た勝利の中で、貴様らがしようとしていることがどれだけ影響を及ぼすのか――思い至らぬようなら、少しでも考えろ」
そこまで発して、ああ俺は怒っているのか、と理解した。
安定を支配する――李粛と牛輔は自ら下ってくれた、それを侮辱する言葉。
華雄が指示をした――それは彼女という存在を貶し、侮辱する言葉。
そして何より――その行いは、生きるために、勝利のために命を散らしていった多くの兵を侮辱するもの。
「人心未だ収まらず、何れ再び崩れる束の間の平穏とはいえ、それを先んじて壊そうとするなど――恥を知れ、下郎」
ちょっと前まではその下郎の中に俺もいたけどな、と心の中で付け足す。
だらだらと引きずりたいわけではないが、それでもこうやって引き出すあたり、今いち覚悟が足りていないのか。
「ぐっ……貴様ァァァァァッ!」
人知れず苦笑した俺だったが、その笑みが自分達を小馬鹿にでもしたと思ったのか、兵士達が一斉に剣を振りかざして襲い掛かってくる。
前、左右の三方からの襲撃に、後ろへ控える少女とその母親が息を呑んだ気配がしたが、俺はさして気にすることもなく油断無く構えた。
時間稼ぎは十分、それは段々と大きくなるざわめきが教えてくれた。
来る役者は十二分、それはざわめきに混じるその名が教えてくれた。
それを知らしめるように、いつもの武芸に励むものとは違う、己の職務を全うする声が響き渡る。
「――ふん、よくぞ言った北郷」
董卓軍にその人在りと言われた華将軍その人が、その場へと現れたのである。
**
そこからはあっという間だったので、割愛しておく。
ただ一つだけ、お前らは特別調練だ、と言われた兵士達に向けられた警邏の兵士達の哀れそうな視線だけが、脳裏にこびりついていた。
未だに聞こえる叫びだけが、その内容を物語っていると言えよう。
「ありがとうございました、葉由殿。お陰で俺も彼女達も怪我はありません」
「なに、警邏の任であれば当然のことだ。私としても、兵が徒に騒ぎを起こさなくて助かった。礼を言おう、北郷」
どうも安定に残っていた兵が弛んでいるみたいでな、と頭を上げた華雄の言葉に、それも無理らしかぬことかと思ってしまう。
安定を守り、その立役者である董卓軍に参入が決まったのだから、己が大きく見えてしまうのも仕方がないのかもしれない。
特に、安定に残っていたのは新兵ばかりだからこそ、その現実に酔っていてもおかしくはないのだ。
此度の件にしても、華雄が出した指示は疑わしい者がいれば逐一報告するように、とだけだったのだ。
一体何がどうやってあのような勘違いをしたものになるのか、一度じっくり聞いてみたい気もした。
「今回の件でまだまだしごきようが足りないことが良く分かった。悪さが出来ないようにしてしまうのも、悪くはないな」
どうやって、と言及するには余りにも憚られる雰囲気の華雄に、背筋に冷たいものが通り過ぎると同時に、周囲で騒ぎを鎮める兵士達に同情の念を拭えない。
連帯責任、いい言葉ではあるが無情の言葉でもある、そう思わないだろうか。
「……ふむ、いい顔をするようになったな北郷。武人のものだ」
「葉由殿に言ってもらえれば、嬉しいものですね。……心配をお掛けしました」
「べ、別に心配などしてはいないッ! 未だぐじぐじ言っているようなら、叩きのめしてやろうとは思っていたが、それも杞憂だったな。…………ちっ、仕損じたか」
ありがとう、の感謝を笑顔と共に送る。
未だぎこちないものではあったが、自分では意外と上手く笑えたと思ったのだが、それを見て不意に逸らされた華雄の視線に、もしかして俺の笑顔って気持ち悪いのかな、なんて思ってしまう。
そう言えば張遼達も逸らしてたし、賈駆に至っては敬語使いが気持ち悪いとさえ言われたのだから、それも間違いではないのかもしれない。
ズーン、と落ち込んでしまい華雄が最後に呟いた言葉を聞くことは無かったが、不意に引かれた服に、後ろを振り向く。
「はぅっ! はわはわ……」
ああそういえば、と出来る限り怖がらせないように、と笑顔で振り向いたのだが――即効で視線を逸らされてしまった。
はわはわ、と可愛い慌て方に一瞬和みかけるが、その事実が俺をさらにどん底に陥れてしまう。
そか、気持ち悪いか俺の顔……ははは、俺もう疲れたよ。
ああ、でも、はわはわと慌てる少女の横で、ズーン、とも、どよーん、とも取れる落ち込みをしている俺。
傍から見ればどれだけシュールなことか、と思っていると、睨まれるように少女に見つめられた俺は、些か慌ててしまう。
あれかな、俺もはわはわと言った方がいいのかな、なんて思いながら。
そして、少女の小さな口から名乗りが出た時、この世界に来て何度目かは知らない驚きによって、俺は開いた口が塞がらなかった。
「せ、姓は姜、名は維、字は伯約と申します! わ、わたしを董卓様の軍に参加しゃせてくだしゃにゅッ! はわはわ……また噛んじゃったよぅ」
――カミカミである。