喉という急所を貫かれた男は、雪が降る日だったことも相まって救急車が遅れ、そのまま死亡した。
当然、俺は罪を問われるものと思っていたのだが、男が剣道部のみならず多くの女生徒を陵辱していたこと、特待生である男を守るために学校側がそれをひた隠しにしていたこと、部活動中だったことと聖フランチェスカ学園という名から、俺はお咎め無しということになった。
結果的に、俺は守りたかったものを守ったのだ。
しかし、それは音を立てて崩壊した。
事故として処理されたとは言え、俺が人を殺したという事実に変わりはなく、そんな俺から多くの生徒や教師達は次第に近づかなくなっていった。
及川や一部の男子生徒、不動先輩なんかは以前と変わりなく接してくれたのだが、守りたかった居場所は俺がいることで壊れ始め、俺がいることで剣道部は機能しなくなり始めていた。
ならば、と俺は剣道部から去った。
人を殺すという重罪を犯してまで守ろうとしたものを、俺自身がこの手で壊してしまったのだ。
それまで育んできたものも、それから育むものも。
両親の過去と未来を奪ってまで生き永らえたのに、俺はまたしても過ちを犯してしまった。
だからこそ俺は剣を置いた――守れぬ力は過ぎたものだから。
だからこそ俺は力を捨てた――力があればまた傷つくだけだから。
だからこそ俺は――こんなにも恐れているのだ、この世界で得た居場所を失うことを。
警邏に廻ると飯を奢らされた。
書類仕事をしていると仕合に駆り出された。
飯を食べると酒を呑まされた。
何もしていないのに跳び蹴りを喰らった。
大変な日々だったけど、そこには確かに笑顔があって、俺がいた。
両親を亡くして失い、人を殺めて失った日々が、確かにそこにはあったのだ。
だからこそ、その日々を守りたくて、俺は三度この手を血に染めた。
「だからと言って、後悔してるわけじゃないんです。確かに、あの場所は俺が壊してしまいましたけど、守りたかった人達は守ることが出来たんです。だから、そんなに心配して頂かなくても結構ですよ」
あの日々を失うことになっても、俺は満足です。
文和殿と、仲頴殿を守ることが出来たんですから。
守りたかったモノは、大切な居場所か、大切な人達か。
自分が笑える居場所があった、自分が自分でいられる日々があった、それは確かにとても尊いものだと思う。
だけど、戦乱渦巻くこの世界で、それに負けず笑う人達に出会って――俺はその笑顔を守りたいと思ったんだ。
きっとそれは、他の誰でもない董卓だからこそ生み出せるもの。
彼女だからこそ、みんな自然に笑いあえるのだと思う。
だから、そんな董卓と彼女を補佐する賈駆を助けたことに、何の悔いもないのだ。
自分がいてもいいのだと思える居場所を失ったとしても、きっと後悔はしない。
例えそれが、無理矢理に固めた決心だとしても。
だがしかし、目の前の彼女はそれを許してはくれないらしい。
「あんた……馬鹿でしょ?」
さて、とその場を立とうとした俺へ、その頭上から、というよりは目の前からの何故だか呆れたかのような声がかかる。
否、正確に表現するのであれば、あんた、の部分は呆れて、馬鹿でしょ、の部分は若干怒りが込められている感じである。
気のせいであって欲しいけど、きっと気のせいではないんだろうな、と視線を前へ移せば、眦をつり上げた賈駆の表情に、気のせいではないのだと理解してしまう。
また泣かせてしまうだろうか、などと考えてみるのだが、賈駆の雰囲気はそんな感じではなさそうである。
言うなれば静かな怒りとでも言おうか、噴火前の火山、という表現が厭に似合う。
ふと、そういやポンペイってこの時代には火山灰で既に埋まってるんだよな、とか思ってしまう。
現実逃避? その通りだ。
「あんたが過去に人を殺してしまって、それで周囲が変わって、あんたの立ち位置までもが変わってしまったっていうのは分かるわ」
賈駆の言葉に一つ頷く。
自分の罪を人に言われ心中動揺してしまうが、それを顔へと出さないように努めて平静を装う。
とは言っても、賈駆ほどになればそれでもばれてしまいそうではあるが、気づいてか気づかずか、彼女はそのまま続けた。
「そして、今またボク達を守るため、黄巾賊とはいえ人を殺めてしまい、同じように居場所がなくなると思っている。……大体そんなとこね」
その言葉にさらに頷く俺に、賈駆はついっと俺から視線を外すと、意味有り気に溜息を吐く。
あれかな、さっき吐いたのが顔で凄いことになっちゃってたりするのかな……顔洗いたくなってきたな。
そう思って、もぞりと動いてみれば、何故だか強烈に睨み付けられて。
一体俺はいつまでこうしていればいいのだろう、なんてことを考えていると、賈駆から再びぽつりと、それでいて先ほどよりも大きく感情を込められているであろう言葉を投げつけられる。
「あんた……馬鹿でしょ?」
「二度も馬鹿って言われた!?」
親父にも言われたことない――と思う、覚えがないだけかもしれないけど。
そんな俺を見ながら、やれやれといった風に頭を振った賈駆にギロリと睨み付けられて、内心気圧されてしまう。
「そもそもが、どうして過去と今を同じこととして扱っているのかが、理解に苦しむわ。あんたのいた場所ってのがこことは違うとはいえ、人を殺めることが罪っていうことは分かる。この大陸でもそう、平時で人を殺めるのは罪に当たるわ。――だけど、それが何? それと居場所をなくすことが、どんな関係が在るって言うの?」
「えっ、いやでも……、罪人が近くにいるのは気分がいいものでは――」
「そうね、いいものではないと思う。でもそれは、あんたの周囲であって、あんた本人が決めるものではないのよ。過去に、あんたから周囲が遠ざかっていったのはそいつらがそう思ったから。――だからと言って、過去と今は違うのよ。一緒にしないでもらいたいわ」
こんなことも分からないの、と言われては口を慎むしかないのだが、賈駆の言いたいことは何となく理解出来る。
結局は怒っているのだ、俺が過去のみんなと賈駆達を同じだと決めつけているから。
過去がこうだったから今でもきっとそうなる、そうなる前に、傷付く前に。
そうやって逃げている俺にも、彼女は怒っているのだ。
「それに、そんな顔で悔いは無いって言われても信じられる訳ないでしょう――今にも泣きそうな、そんな顔で」
そんな訳はない、違う。
そう口にするのは簡単なことなのに、何故だかこの時ばかりはそれが出来なくて。
ぽろり、と。
溢れ出たものは言葉を紡ぐことはなく、一筋の軌跡を俺の頬に残した。
いつからだろう、人との関わりあいを諦めるようになったのは。
いつからだろう、再び居場所を失うのを恐れて人と関わるのを求めなくなったのは。
いつからだろう、俺が悪いのだから仕方がないと自分を騙してきたのは。
いつからだろう――きっと、両親を死なせてしまった、あの幼き日から――
――俺は、自分自身が許せなかったんだ。
両親の命の上に座り込み、人の命を犠牲にしてまで守ろうとしていながら、全てを諦めていた自分を。
居場所を求めているのに、結局はすぐ失うとそこにいる人達を信じようとはしなかった自分を。
心配してくれる人達に、俺のことなんか分かるはずもないと決めつけていた自分を。
「間違ってもいい、失敗してもいい。悩み藻掻いて、理想に近づいていけばそれでいい。そう言ったのは、他でもないあんたじゃない。だから――」
ぽつりぽつり、と。
自分の中で答えを結んでいく度に増えていく、頬を伝う雫。
止めることも、堪えることも出来ないその涙は、たちまち地面へと吸い込まれていき、小さくない湿った点を作っていく。
溢れ出る感情のままの涙を流すというのは、いつぶりだろうか。
だからこそだろう、いつの間にか賈駆に抱きしめられていたのに気付かなかったのは。
ふわりと香る女性特有の匂いが、古い記憶にある母親のものと似ていて――
――俺は、両親が死んでから初めて声を上げて泣いたのだ。
「――今は泣いてもいい。自分を許して、また笑える時が来れば、それでいいわよ」
と、一通り泣いて感情を流し終えた俺は、ふと冷静になった。
今現在賈駆は俺を腕の中に抱いたままであり、どうして、とその理由は不明ながらもとってもいい匂いの中に俺は包まれている。
女性特有の甘い匂いとか、少しだけ混ざる汗の匂いとか、ちょっと心拍数を上げるものではあったのだが。
途端、先ほどまでの彼女の状況が脳裏をかすめた。
えーと、黄巾賊に服をはぎ取られて、その上から俺の制服を掛けてあげたんだよな。
俺と話しをしているときは前を手で押さえていたのだけど、その手は今や俺を覆うように抱きしめられている。
ああだからか、と達観、言い換えれば諦めてしまった。
目の前に、きめ細かく煌めく肌が描く緩やかな曲線と、それを覆う白い下着が見えるのは。
ふむ、これはあれですな、いわゆる女性のバストですかな。
はっはっはー……賈駆の性格を考えれば、ぶん殴られるパターンですよねー。
俺が泣きやんで自分の現状に気づいたのか、わなわなと俺を覆う腕が震えだし、視界に入る肌が段々と赤みを帯びていく。
いる場所が違えば色気があるであろうその変化も、陥っている危機では些かも嬉しくない。
我慢出来なくなったのか、唐突に離れた賈駆から、平手が来ると読んだ俺は歯を食いしばってその時を待つのだが――
「……? えーと、文和……殿?」
「…………何よ?」
「い、いえっ! 何でもありませんです、ハイッ!」
ギロリ、とも、じろり、とも違う、それこそギョロリ、と表現してもいいんじゃないかと言える視線に、俺は反射的に背筋を正してしまう。
悩んで悔やんで泣いて、と精神的に落ち込んでいるためにどうしても弱気になってしまうんではあるが、その賈駆の視線はそれを抜きにしても、十分に怖かった。
賈駆のほうも何か悩んでいるらしく、あれは違うあれは違う、とか、泣いてるのが可愛いだなんて思ってなんかないんだから、って言っているのか、今いち聞き取りにくい声でぶつぶつと呟いていた。
突いたら藪蛇な気がした。
「その……ありがとうございました、文和殿。大変ご迷惑をかけた次第で――」
「……詠よ」
だからと言って俺を心配してくれて、あまつさえ俺の答えまで導いてくれたのだから、そこは感謝をしなければならない。
賈駆に自覚があろうとなかろうと、俺は彼女のおかげで先へ進むことが出来たのだ。
そうしたら、何故だか賈駆の真名が返ってきた。
「え、えーと、文和殿? 一体どういう理由で――」
「詠でいいって言ってるのよ。二度も助けてもらって、それで信頼しないほど狭量な人間じゃないわ。け、けど勘違いしないで! あんたって人間を信じたのであって、男としては信頼してないんだからねっ! 月に手出したら、ただじゃおかないんだからっ!」
ふん、と鼻を鳴らしながらそっぽを向く賈駆の顔が赤いことには触れないでおいた。
今となっては俺が信じられなかったから、という理由も理解出来るのだが、元々初めて会った時に真名を許すと言った董卓や張遼などの中で、賈駆が自分のは許すことは出来ない、と言ったことが今まで字で呼んできたもう一つの理由である。
確かに、黄巾賊とはいえ男に襲われそうになっておいて、男に真名を許すのには抵抗があるだろうなとは思っていたのだが、当然の如く当初は酷いものだったのだ。
それが、今や真名を許してくれるというのだから凄い変化である。
俺自身も自分を偽ることはもう止めた、とそれを甘んじて受け取ることにした。
「分かったよ……ありがとう、詠」
「ふん……どういたしまして」
敬語も禁止、あんたの敬語気味悪いもの、と先に釘をさされたので友達に話す感覚だったのだが、それほど気にはならなかったのか、至って普通に返されてしまった。
それでも、ここからまた始めていこう。
そう思った俺は、安定の街へ向かおうと腰を上げた――
――もちろん、ここで終わらないのがお約束ではあるのだが。
「へぅ、詠ちゃんばっかりずるい。一刀さん、私のことも月って呼んでください」
「一刀、うちのことも霞って呼んでーな」
「ふむ、お二方が許されるのであれば、私のことも琴音、とお呼びください」
がさがさ、と背後の茂みが鳴ると、何故だか董卓と張遼がむくれた顔で現れて、その後ろにやれやれといった徐晃がいた。
黄巾賊が返ってきたか、と一瞬強ばってしまうが、唐突に現れた三人に俺は開いた口が塞がらず、賈駆に至っては董卓に言われたことを反覆して一人動転していた。
「え…………と、もしかして聞いてた?」
「大丈夫やて、詠が泣いたへんからしか知らんから」
めっちゃ最初のへんじゃんか。
賈駆が泣いて、俺が泣いて、抱きしめられて、あわわとしているのを見られて。
……なるほど、穴があったら入りたいとはこういう心境を言うのか。
「なッ! ちょっと霞、誰も泣いてなんかいないわよ!?」
「へぅ、泣いてた詠ちゃん可愛かったよ。一刀さんも、そう思いますよね?」
「えっ? あ、ああ、可愛かった……かな」
「ひぅ! あ、あんたまで何言ってんのよッ?! ッ……ああもう、先に安定に行ってるからねッ!」
董卓に問いかけられて、ふと賈駆の泣き顔を思い出してみる。
眼鏡の奥で潤む瞳、頬には紅が差し、常の賈駆からは想像出来ない崩れ落ちそうな儚い印象の少女。
うん、十分に可愛いよね。
と思った時には本音が漏れており、それを聞いた賈駆は瞬間的に湯を沸かしたかのように真っ赤になった。
それがまた可愛くて、にこにこと笑みを浮かべる董卓の無言のプレッシャーに負けて、賈駆は一人安定への道を走っていった。
「さて……俺達も行かないと。……ああ、そうだ。月、霞、琴音、心配かけてごめん。ありがとうな」
いくら黄巾賊に勝って安全を手に入れたとはいえ、賈駆一人で行かせるのは些か危険である。
服に付いた土を払って歩く直前、そういえばと董卓達三人の真名を呼ぶ。
許されるのならば、出来るだけその信頼に応えたい。
真名を呼ばれて、さらには先ほどの俺の話を聞いていた三人は、みな笑みを浮かべて頷いてくれた。
「はい。一刀さん、これからもよろしくお願いしますね」
「そやで、一刀。うちらも頼るさかい、一刀もうちらを頼ってや」
「ふっ、気になさらないでください。私達は同志であり、仲間であり、家族ですから。心配するのは当然です」
「……うん、これからもよろしくな」
だから俺も、出来うる限りの笑顔でそれに答えたかった。
今はまだ自然に笑うのは難しいかもしれないけど、賈駆が言ってくれたように、いつか自分を許して笑えると時が来ると信じて。
「……へぅ」
「……反則や、そんな笑顔」
「……なるほど、これは中々破壊力が高いですね。あの詠様がおちたのも、無理は無いかもしれません」
小さく呟かれた三人の言葉を聞き取ることは出来なかったが、とりあえず追求はせずに、俺は安定への道を歩き出した。
三人とも顔が赤いから疲れたのかもしれないな、そんなことを考えながら。
**
安定より少し離れた山奥。
先ほどまで痙攣していた黄巾の男は既に動くことはなく、その傍らに立つ男の後ろには一人の少女が跪いていた。
その両者ともに白い仮面を顔半分へと付け、男は右半分を、少女は左半分をそれによって覆い隠している。
ひとつを半分にしたほどの対照的なそれは、闇夜へと移り変わっていく時の中で、笑みを増していくかのようであった。
「……これで予定通り、北郷は董卓の下を離れることはないだろう。このままいけば、戦火を免れることは出来まい」
「しかし仲達様、北郷が董仲頴の下を離れないなどと、確信はあるのですか? わたしからすれば、些かあり得ないと思うのですが……」
「なるほど、確かに儁乂がそう危惧するのも無理はない。しかしな、北郷ならば間違いはあるまいよ」
遙か視線の先、小さな森から数名の一団が安定を目指すのを見やりながら、仲達と呼ばれた男は口端を歪めた。
「……儁乂、貴様は予定通りに袁紹の元へと赴け。指示はおって下す」
「はっ! ……仲達様、いつになったら真名で呼んで下さるのですか?」
「……外史の定めた名など、俺が呼ぶはずがなかろう。疾くいけ」
刹那、項垂れた儁乂と呼ばれた少女だったが、己が主と定めた男の命に逆らうはずもなく、一度だけ頭を下げたかと思うと、暗闇が広がり始めた森に溶けるようにその場から姿を消した。
その場には仲達と呼ばれた男のみとなったのだが、不意に、その場に響くように声が現れた。
『……なるほど、それがあなたの策ですか。……今は司馬懿、と名乗っているのでしたね』
「……何が言いたい、于吉。他の外史で手一杯なお前と左慈を手伝ってやろうとしてるんじゃないか。感謝こそすれ、口を出される謂われは無い筈だが?」
『ふふ、あなたがそう言うのであればその通りなのでしょうが……。私も左慈が怖いのでね、余計な詮索をしなければならないのですよ』
ああ、でも怒った左慈に感情をぶつけられるのならば、それはそれでいいですね。
恍惚とした声が自分の周囲を覆おうのに顔を歪めながら、仲達と呼ばれた男、司馬懿は舌打ちした。
「ふん、話がそれだけならば俺も行くぞ。生憎と、暇じゃないんでな」
『それは申し訳ない。それで、参考までにどちらへと行かれるのですか?』
「……お前なら気づいているんだろう? まあ、別に構わないがな――」
そう言って、儁乂と呼ばれた少女――張恰(ちょうこう)と同じように暗闇に溶ける直前。
司馬懿は、己の行き先をぽつりとだけ呟いた。
「――何進だ」