「……」
「……」
賈駆を手近な岩へと座らせた俺は、その傍らに立ちながら必死に思考を回転させていた。
自分の意志で人を殺し、その精神的苦痛から一人外れて吐いているところを背中をさすってもらった。
そこまでであれば俺を心配してくれて、とも取れるのだが。
どうしてここに、と問いかけてみれば無言の返答が返ってくるのみで、さらにはギロリと睨まれてしまえば口の挟みようもない。
結果、小川のせせらぎと葉擦れの音だけがその場を満たしていた。
どうしたものかと視線を賈駆に移せば、いまだ聖フランチェスカの制服を羽織っており、その前は手によって閉ざされている。
そのことからその下は先ほどのまま、と気づくことは出来るのだが、同時になんて危険なとも思ってしまう。
生死をかけた戦いは、人の生存本能を刺激すると聞いたことがある。
命を失う可能性がある場合、己のDNAを後世に残すための行動、ということらしいのだが。
俺が歩いた場所、言い換えれば賈駆が歩いた場所はそんな戦いを済ませた兵達の真っ直中であり、その論からすれば、彼女は生存本能に餓えた男達の間を抜けてきたことになる。
加えて、董卓の評に隠れがちであるが、賈駆自信もその厳しい部分を省けば所謂美少女に分類されるのだ。
民の間でもそれは噂されており、彼女に好意を抱く兵や民もいると聞く。
もう少し自分のことを考えればいいのに、と知らず溜息をついてしまうのだが、どうやら別の意図として思われてしまったらしい。
「……何よ、人の顔を見て溜息なんて吐いて。さっきの質問といい、ボクがここにいちゃいけないわけ?」
「いや、そういうわけではないんですが……」
「じゃあ、どういうわけよ?」
と言われましても。
まさか、文和殿は可愛らしく兵からも人気がありますのでそのような劣情を抱かれても文句の言えない格好で歩かないで下さい、とは言える筈もない。
その白く艶めかしい首筋とか、ちらりと覗く鎖骨とか少しは気にして下さい、などと言えるわけがないのだ。
なんとなくだが、言った瞬間に首が飛びそうな気がした……今この瞬間にも飛びそうな感じではあるが。
何故だか不機嫌な顔で問われれば、それに答えられる筈もなく口を閉ざし。
そんな問答が、先ほどと同じ沈黙を作り出していた。
しかし、そんな沈黙は意外にも賈駆によって破られる。
「その……本当に大丈夫なの?」
途端に先ほどまでの雰囲気はなく、こちらを心配する視線と共に吐き出された言葉は、本当に俺を思ってのものだった。
下から眼鏡越しの上目遣いとか、上から見えそうになるその胸元とか、その他諸々に意識がいくのを必至で引き留めている俺を、である。
なんだか申し訳ない気持ちで一杯なのだが、そんな俺に気づくはずもなく、賈駆は続けた。
「引きつった顔で笑われても、説得力は無いわね。月も霞も、心配してたわよ」
「……心配かけて申し訳ありません。でも、本当に俺は大丈夫ですよ」
引きつった顔、と言われても俺に自覚はないのだが、そう言われたのならと精一杯に笑えるように顔を動かすのだが。
「……はぁ」
溜息つかれました。
言っても分からないのかこの馬鹿は、みたいな顔されて、何故だか唐突に手を引かれた。
視線でその理由を尋ねても、いいからそこに座れと視線で脅さ――促されてはそれに断る理由も無く、賈駆が座るその対面に座ることになった。
先ほどまで俺が上から見下ろす形だったのが逆になったのであるが、俺を上から見下ろす賈駆の視線には何故だか威圧感が備わっていた。
「……引きつった顔で何言われても大丈夫には見えないって、何度言えば分かるの? それとも何、みんなが心配してくれるのは無用の長物とか言いたいわけ?」
「い、いや、決してそういうわけでは……」
威圧感を備えながら上から怒られる、そのけがある人ならば大喜びの状況であろうが、あいにくと俺にはそのような属性は備わっていない。
加えて口ではなんと言おうが俺自身、自分が大丈夫だとは思っていないのだから、心配してくれているという申し訳なさも含めて、反論の余地さえ無かった。
怒られてはそういうわけでは、とはぐらかしていると、不意に賈駆からのお叱りという名の罵倒がぴたりと止んだ。
これはもしかしてアレか噴火前の火山の沈黙みたいなものか、とその噴火に備えて心中を正し身構えるのだが、予想に反してぽつりと零された言葉には、涙声が混じっていた。
……って、涙声ッ?!
「……何よ、ボク達の心配なんか、やっぱりいらないんじゃない。何を言っても大丈夫って……助けてくれた人を心配するのがそんなにお節介なわけ? これじゃあ、感謝したくっても出来ないじゃない……」
「えぇっ?! ちょ、そんなつもりじゃないんですってば! ぶ、文和殿、泣かないでくださいよ……」
あれだな、女の涙は武器、とか言われているけど、された方からすれば破壊兵器だな。
俯き、溢れる涙と嗚咽を堪えるように肩を振るわす賈駆の前で、俺はわたわたと慌てるしかなかった。
常に自身と勝気に溢れ、董卓軍の頭脳とも言える賈駆が泣いているということもあるし、彼女自身も先ほどまで襲われそうになっていたのだ。
男に押さえつけられ乱暴される寸前だったとはいえ、衣服を剥ぎ取られた賈駆の不安は如何ほどのものだったのか。
女性にしか分からないその恐怖と不安を抱えながら、それでも俺を心配してくれた彼女は一人でここまで来てくれた。
そのことに有り難さと申し訳なさを感じながら、俺は自身を恥じた。
だからこそ、そんな賈駆に少しでも報いるために、俺は決意したのかもしれない。
「……文和殿、俺はね――」
この世界に来て、忘れることが出来るかもしれないと思った。
この世界で、その罪を抱いたまま死んでいくのもいいのかもしれないと思った。
だけど今、目の前の少女が俺を心配してくれるのであらば、今の俺自身を構成するその罪をも話さなければいけないのだろう。
それを聞いた彼女はどう思うだろう。
軽蔑する?
気持ち悪がる?
恐れる?
そういった感情を向けられれば、俺はまた傷つくのだろう、それを表に出すことはなく、決して癒えることのない傷を抱えるのだろう。
だけど今、目の前で俺を心配してくれる少女ならば、俺は信頼出来るのかもしれない。
だからこそ、俺はあの冬の日のことを話すことにした。
「……文和殿、俺はね――人を殺したことがあるんです」
**
事故で両親を亡くした俺だったが、祖父の稽古という名の血反吐を吐くような修行と、親しくしていた近所の人達の助けもあり、無事に高校へ入学しようかという歳まで成長した。
そして、入学する高校を厳選しようかという頃に、俺は当時の担任からある情報を聞くことになったのだ。
亡き母親が通っていた女子校の聖フランチェスカ学園が、翌年度から共学になると言うのだ。
元々想定していたお嬢様などの生徒数減少による門戸開放、ということらしいのだが、俺はそれを聞いてすぐさまに第一志望をそこへと決めた。
幼い頃に亡くなった両親は写真こそ大量に残してあったものの、俺自身そこまで彼ら達のことを覚えているわけではなかった。
極限状態下での一種の記憶喪失、と医者に言われた俺は、両親との思い出が欠如していたのだ。
そんなこともあって、祖父は俺が母親の母校である聖フランチェスカ学園に入学することを渋々了承してくれた。
渋々、というのはそこに至るまでが山有り谷有りの決して平坦な道ではなかった、ということなのだが……内容は察してくれたまえ。
儂の屍を超えて行け、と言われた時には本当にどうしてやろうかと思うものである、とだけ知らせておこう。
……何、父親の母校?
市町村の合併の余波で、影も形も跡地も無かったよ。
そんなこんなで聖フランチェスカ学園に入学した俺は、剣道部に入部した。
男子の第一期生ということで同級生には数えるほどしか男子がおらず、そのうちの一人である及川などはハーレムだ、と喜んでいたのだが……まぁ現実はそれほど甘くはなかった、とだけあいつの名誉のためにしておこう。
とまあ、同級生の男子と仲良くなったり、そのうちの一人が何故か主人公属性でフラグを立てまくって、それを及川が悔しんだり。
剣道部の主将である不動先輩を超えたい壁としながらも、そんな彼女も友人によってフラグを立てられたり。
そんな毎日を過ごしながら迎えた高校初めての冬。
数日後に控えた近隣の剣道強豪校との練習試合を控えたある日の夜、部活動の帰りで遅くなった俺は、その暗闇の中で声を聞いた。
少し高めの、近づけば女性のもとだと分かるそれはどこか助けを求めているようであり、さらに近づけば別にくぐもった声も聞こえた。
近くにあった公園、その茂みの中から聞こえたその二つの声に、俺は部活動で使っていた竹刀を取り出して近づいていった。
暗闇で若干目が慣れていなかったが、茂みを抜けた先には、フルフェイスのヘルメットを被った黒ずくめの人物と、その衣服を破り取られてそのヘルメットの人物にのし掛かられている女性の姿があった。
「あ……た、助けてくださッ!?」
「おい、あんた! 何をしているんだッ?!」
ヘルメットの人物越しに俺を確認したその女性は、すぐさま助けを呼ぼうと声を上げるのだが、それをその人物が見過ごすはずもなくに口を塞ぐ。
だが、助けを呼ぼうとした事実のみでいえば、目の前の二人は恋人などと甘いものではなく、襲い襲われる二人なのだと理解する。
そう理解した俺は、すぐさまに竹刀を構えてヘルメットの人物へと詰問した。
ビクリ、と肩を振るわせたヘルメットの人物は背後の俺を確認すると、周囲をきょろきょろとしたかと思うと、一度だけこちらへと視線を向け、そのまま逃げ出したのだ。
襲いかかってくると思っていた俺は意表を突かれそいつを追いかけることは出来なかったが、女性、着ていた制服から今度練習試合に来る学校の女生徒ということが分かり、警察に事情を説明してその日は終わった。
数日後、俺を含めた一年生の実力試しも兼ねた練習試合を行うために、前日に助けた少女も通う高校の一団が聖フランチェスカ学園の門を潜る。
一年生唯一、というよりは剣道部唯一の男子生徒として出迎えにかり出された俺は、一人の男子生徒と視線を合わせた。
茶色に染められた髪は適度に揃えられており、きつめ、というよりかはどこか肉食系とでも呼べそうな雰囲気を持つ少年は、何故だか俺を睨み付けていた。
他校の生徒に目を付けられる覚えのない俺は、その時には既にそれを忘れて練習試合へと思いを移していたのだが。
その男の視線が、頭から離れなかった。
「胴ォォォォォ!」
「一本!」
不動先輩の抜き胴が相手の胴を叩いて音を立てる。
……通常ならばパシーンとかバシッとか聞こえるはずなのに、ドゴンッとか聞こえるのは何故なんだろう。
何か崩れ落ちるように床へとへたる相手が、気を失っているのではないかと思えてしまう。
「大丈夫だ、峰打ちでござる」
とは当の本人である不動先輩の談ではあるのだが……先輩、一つだけ言いたい。
竹刀に峰はありません。
そもそも、剣道であろうと峰打ちであろうと、あんな音が出るはずはないんですけど。
「ふっ、私が強かった。ただそれだけでござる」
いや、それで済ませるにはあまりにも相手が不憫なんですが、と続ける暇もなく、不動先輩は後ろに控える女生徒軍団の中へと埋もれていった。
この女子校時代はお嬢様が集う聖フランチェスカ学園の中で、不動先輩はお嬢様の中のお嬢様でありながら、他の女生徒からはお姉様と呼ばれたりもしているらしい。
あれだけ綺麗で強くて、お家柄も優秀とあればそれも分かるものである――語尾のござるは意味不明だが。
ともあれ、順調に勝ち星を重ねていく部活仲間を前に、俺も興奮していることが分かる。
なんでも、俺の相手は相手校で一番強い男子であり、それがあの時視線を合わせたやつだということらしい。
そんなやつを対面に礼をして身構えれば、確かに、その動作に隙は無く、強いということがよく分かる。
もっとも、不動先輩には及ばないが。
しかし、そんな中でふと気づいたことがある。
目の前の男を見る、相手校の女生徒の視線が異常なことに。
憎悪、嫌悪、恍惚、様々な色が含まれているのだ。
「始めっ!」
その正体が何なのか、と考える暇もなく審判のかけ声をかけられる。
それと共に脚を動かして距離を乱す俺に特に気にすることもなく、その男はどっしりと構えていた。
さながら山のようではあるのだが、その面の奥から感じる視線は威圧したものであり、大型の肉食獣を前にしているようでもある。
動き回ることの無意味と体力の消耗を考えた俺はそれを止め、相手と同じようにどっしりと構える。
中段、至って普通の構えからなるそれは攻撃防御ともに展開が早く次へと繋げやすい。
祖父の北郷流タイ捨剣術ではあまり用いられないが、剣道とならば別である。
それを表すかの如く面を打ち込もうとした矢先、一瞬早く相手が動く。
「くぅっ!」
喉元を狙って突きを繰り出してくるのを、竹刀を滑らすことでなんとか防ぎそのまま鍔迫り合いへと持ち込む。
とはいっても、体格で言えば相手の方が上であり、このままでは不利となってしまう。
北郷流を用いれば抜け出し、なおかつその頭部に一刀を叩き入れることは可能であるが、それは祖父から止められている。
曰く、守るものがないのに力を用いる無かれ。
仕方なく、剣道という競技の中で勝つことを模索するのだが、不意に声がかけられる。
「……やっぱり、テメエはあん時の奴か」
「……あの時? 一体何を……?」
「ああ、俺はヘルメットしてたから分からねえか。あの夜にテメエに邪魔された暴漢魔とでも言えば分かるか?」
面の奥からにやりと歪められた顔から発せられた言葉に、俺は知らずのうちに距離を取っていた。
ヘルメット、夜、俺が邪魔した、暴漢魔。
それらの単語が俺の頭へ染みこんでいくと、一つの過去を思い出した。
あの日のヘルメットの人物が、目の前のこいつなのか。
そう思った矢先、再び突きを繰り出してくるのを何とか防ぐ。
「くく、こいつは運がいい。俺に楯突いた女を犯す邪魔したやつがこの学校にいるとはな。おいテメエ、この勝負、俺が勝ったらあの不動とかいう女を人気のない所へ呼び出せ。ああいう気の強え女には跪かせるに限る」
「なっ! あんた、巫山戯てんのかッ!?」
「巫山戯てなんかいないさ。ああ、あいつが無理なら別の女でもいいぜ? 元お嬢様学校なだけあって、随分とレベルが高えしな。お嬢様がどんな声で鳴くのか、興味がある」
俺を無理矢理にはじき飛ばした男は、俺の体勢が整わないうちに竹刀を振り下ろす。
このまま反応出来ずに一本を取られれば、言葉少なではあるが、こいつなら言ったことをするだろう。
その視線、その口調、その雰囲気はそれを黙に表していた。
だから、俺は即座に男との距離を詰める。
その空いている胴へと打ち込もうとするが、即座に判断して防御へと回された竹刀によって、三度鍔迫り合いとなる。
「へえ、意外とやるじゃねえか。やっぱり自分のペットは守ろうとするんだな」
「お前と一緒にするんじゃねえ。俺は誰ともそんなんじゃねえんだよ」
「なるほど。だが、テメエがそうでも、誰かしらそういう奴がいてもおかしくはねえな。AVでもよくあるだろ、愛玩動物にされたお嬢様ってなぁ」
「ッ! みんながそんなことをする筈がないだろう、巫山戯るな!」
「いい子ちゃんぶってんじゃねえよっ! 所詮女、つっこんじまえばヒィヒィ言う雌豚に過ぎねえんだ。お嬢様という皮を被ったな!」
――その一言に、俺の思考は先ほどまで逆上していたにも関わらず冷静になる。
――つまりそれは俺の母親もそうだったと言いたいのか、と。
――文字通り命をかけて救ってくれた母親を、お前は雌豚と言うのか。
――俺という人を理解して、迎えてくれた不動先輩や同級生のみんなを、雌豚と言うのか。
――そんな居心地のいい場所を、お前の欲望のみで怖そうとするのか。
ならば、負けるわけにはいかないんだよ。
爺ちゃん、言いつけ守るけどゴメン。
心の中で一言祖父へと謝罪した後に、俺は男を押しのける。
「はっ! ようやくやる気になっ――ブフゥッ!」
かと思うと、すぐさまにその頭上へと竹刀を振り落とす。
通常、身体を正面へと向けて手で竹刀を動かす剣道では、その振りの早さは身体の使い方や腕の筋力に因るところが大きい。
それは剣術にも言えることであるが、ならば、と祖父は身体を引くことを考えついた。
即ち、振り落とすと同時に身体を左に引くのである。
右利きなれば左手が下、右手が上になるその構造を利用することによって、身体を左に引けば必然的に左手も引かれることになり、身体全体を使った振りは従来よりも速度が増すのである。
もちろん練習は不可欠であるが、北郷流タイ捨剣術じゃ、とか言われながら祖父に叩き込まれてきた俺にとっては、造作もないことである。
不動先輩と同じような音がなった面はその勢いにて若干ずれ、勢いよく振り落とした竹刀は勢い余って床へと叩き付けてしまう。
そのためか、バキリ、と竹刀が割れてしまったのだが、俺は気にするわけでもなく次の動作へと移る。
否、都合がいいと思っていた自分がいた。
横に割れた竹刀は多くのささくれを造りながら、一つの刃物でもあった。
その柔軟性を見いだして竹刀に用いられる竹ではあるが、折れた時の断面は人を刺すには十分なものである。
古来から竹で造られた罠だったり、竹槍などその実績は十分なのだ。
面がずれて防具に隙間が出来た男の喉元。
叩き付けて折れた、十分な殺傷能力を持つであろう竹刀。
そして、油断したところを叩かれて呆けてしまっている男。
それらの好条件が重なってしまった時、俺は思ってはいけないことを思ってしまったのだ――
――俺の今を壊すのであらば先に壊してしまえ、と。
「なっ! テメエ、それは……ッ!」
だから、男の喉元へとその竹刀を突き出すことに、その時の俺はなんの抵抗も感じなかったのである。