涼州安定、その城壁の外。
崩れかけた城壁は苔と堆く積もれた汚れによって緑と黒に彩られているのだが、そこへ新たに鮮血による朱が混じる。
その朱の持ち主であった男はその下顎から上を失った身体を城壁へと叩き付けられながら、今また新たな朱をまき散らした。
「はぁぁぁぁぁぁッ!」
そしてまた一人。
その腸を斬り裂かれながら、その中身を城壁へとぶちまけていく。
気づいていなかったのだろうか、己の腹を見たその男は、気を失うかのように倒れたかと思うと、二度と動く気配は無かった。
それを成した人物、華雄は次の獲物を探して周囲を見極め。
同僚の背中を襲おうとしていた黄巾賊の首を、大斧の一降りにして刎ねる。
徐晃のように片手で振るうことを想定している手斧とは違い、華雄のそれは両手で振るうためにかなり大きなものとなっている。
戦斧(せんぷ)やハルバードみたい、とは北郷一刀の談だが、言うなればそれだけ自身の武が異国の者が知っているほど有名なのだと華雄は捉えていた――春婆度というものはよく分からなかったが。
「貴様ら匪賊如きの武で、私が討ち取れると思うなよッ! 我が名は華葉由、董仲頴の臣下なり!」
そんな華雄の裂帛の気迫に、彼女の周囲にいた黄巾賊はたじろいだ。
その大斧で、幾人もの同志が城壁に朱を散らしていったのだ。
その仇を取ろうと思いつつも、元は農民という出自からか、己の命を優先とするものは我先にと逃げ始める者が出始め、それでもと挑みかかってくる者は新たに城壁の色彩となった。
「……来るなら、容赦しない」
「オラァァァァ! うちの偃月刀の血錆になりたい奴は、名乗りでぇ! この張文遠、逃げも隠れもせんでぇ!」
そして、そんな華雄の周りでも多くの黄巾賊がその命を散らしていた。
天下無双の士、呂奉先。
神速の将軍、張文遠。
ある時は突き、ある時は薙ぎ、ある時は柄で数人まとめて吹き飛ばし。
そんな彼女達の前に、命を賭けて挑む者は減っていった。
元々、生きるにも食うにも困った人々が多い黄巾賊である。
安定を襲撃したのもそのためであり、命を捨ててまでという志はないのである。
これが、黄巾賊首領である張角の教えに感銘した者達ならば別ではあろうが、華雄達が蹴散らした黄巾賊の殆どはそういった者達であった。
故に、安定を包囲する一角を撃滅した時、その他の黄巾賊が逃散を始めたのは当然だったのかもしれない。
総数の上でいけば、未だ安定を包囲する黄巾賊の方が多いのだが、それを解放しに来た董卓軍の強さは、その優位を忘れさせるほどのものがあった。
陣を構える前の前哨戦、そして城壁外での戦闘で黄巾賊の多くは討ち取られた。
その事実が己の死という恐怖となって全体に廻るころには、安定を包囲していた黄巾賊はその殆どが逃げ出していたのだ。
「……なんや、張り合いの無い。まあええわ、思ったよりもはよー済んだしな。損害は軽微、戦果は上々。うちらの勝ち、ちゅうわけやな」
「上々? お腹一杯食べられる?」
「んあ? ああ、恋はそればっかやなぁ。まあ宴はするやろうし、いざなったら一刀にでもたかれば飯奢ってくれるやろ」
「……ん、たかる」
城壁と地が血に濡れ、周囲に転がる骸が付ける黄巾を朱へと染める中で、呂布のお腹から可愛らしい音が鳴り響く。
見る者が見れば異質なそれは、この戦乱の世では至極ありふれたものであり、他家であっても当然のものであった。
この時、遙か幽州涿県では、義兄弟の契りを結んだ末妹がくしゃみをしたとかしないとか。
「……文遠、妙だとは思わんか?」
「なんや華雄、何か気になることでもあるんか?」
「勝敗がほぼ決し、追撃するか否かという時に、文和からの伝令が来ない。いつものあいつならば、有り得まい」
「……そいや確かにそうやな」
華雄の言葉に、そう言われれば、と張遼は思い当たる。
普段は偉そうに口を聞いても、それでもその智は華雄は当然として、張遼自身も到底及ぶものではない。
唯一、呂布付きの軍師である陳宮ならば、その足下ぐらいには辿り着くであろうが、そんな彼女がここに至って指示を出さない筈がないのだ。
董卓を信奉していても、己がするべき任を忘れるような人物ではない筈なのだ。
ならば、何故ということになるのだが――
そこまで思い至って、張遼は馬へと飛び乗る。
「ちょっと様子を見てくるわ! 華雄はうちの部隊も使って残敵を潰しといて!」
「……ああ、そっちは任せるぞ」
恐らく華雄も同じ考えに至ったのか、同じように馬へと乗るその雰囲気はそれを物語っていた。
――本陣において、何か問題が起こったのではないか。
元黄巾賊の反乱か、あるいはもっと別の、他のことか。
何にせよ、伝令が送られてこない状態であるのは間違いないのだ。
信用に足らない兵や、怪我人ばかりではそれに対処するのは難しいのかもしれない。
ならばこそ、神速をもって駆けつけなければならないのだ。
かくして、張遼は本陣へと馬を走らせた。
丁度同じ頃、一人の男が覚悟を決めた頃に。
**
ゾリッ、とも、ゴリッとも取れる音とともに剣を振り抜いた後に、俺は倒れゆくデブの前から身体をずらす。
数瞬後、忘れていたとでも言うかのようにその喉元から大量の血が噴き出される。
噴水のように噴き出された血は、いくらかの後にその勢いを弱めた後でも止まることはなく。
あの冬の日にも聞いた空気と血が混じった呼吸は、既に聞こえなくなっていた。
呆然。
董卓も、賈駆も。
黄巾賊の男達でさえ何が起こったのか理解出来ていないのか、賈駆の服を破り割き、彼女にのし掛かろうとしていた男は、震える声で呟いた。
「…………デブ……?」
しかし、その言葉に応えるべきである男は既に物言わぬ骸と化しており、その言葉が耳に届いた途端に俺は剣を握る拳を振るわせた。
俺が殺した。
俺が断った。
俺が斬り割いた。
その感触は未だ手に残っており、食肉でも、魚を切ったものでもなく、命を斬ったそれに、知らず俺は震えていた。
だからと言って、それに震え続けている訳にもいくはずもない。
男の拘束から抜け出せたとはいえ、未だ董卓と賈駆は捕らわれており、危険なことには変わりないのだ。
加えて、彼らの仲間を殺したのだから、逆上されて董卓と賈駆が害される恐れもあった。
そんな心配もあって、彼らの注意をこちらに向けるために剣を向けようとするのだが。
「……あ、ああああアアアアァァァァッ!」
しかし、そんな心配も虚しく、董卓を押さえつけていた男がその剣を振りかぶりながら斬りかかってきたのだ。
小柄な体型を活かして切り込んでくるその男は、縦に横にと剣を振るう。
そのどれもに殺気が籠もっており、男が本気で俺を殺してきているのだと嫌でも理解出来た。
殺されるかもしれない。
その事実に、剣を避けながらでも背筋が震えてしまう。
避けきれない剣戟は剣で叩き落とすも、器用に突きを混じえるために突破口が見つからないのだから、それも時間の問題かもしれないのだが、だからといって殺されたいわけでもない。
ならばどうするか。
殺すしか、それでしか俺も董卓達も救うことが出来ないならば、俺はそれをしなければならないのだろう。
俺が一歩後退して距離を取るのを図ってか、男が突きを繰り出してくる。
正確に俺の眉間を狙ったそれを最小限の身体の動きと頭を動かすことによってギリギリに避ける、少しばかり左目の下を斬られたが。
そして、がら空きになった胴部へと潜り込みながら、俺は抜き胴の要領で剣を振り切った。
皮を。
肉を。
そして臓物を。
振り抜かれた剣は腹から背までを斬り割いており、その剣には血と脂と汚物がこびり付いていた。
その濃厚な臭いに気が遠くまで飛ばしそうになるが、唇を噛みしめることで何とか耐える。
そして、胴を切り裂かれた男は、自身の傷口から溢れ出る血と臓物を押さえようとして――
――そのまま息絶えて、地へと倒れ伏した。
「チ、チビッ!? この野郎、よくもデブとチビを殺り――ヒッ?!」
自身の部下を二人とも殺され頭にきたのか、捉えていた賈駆を放り投げで斬りかかってきた男へと、俺は剣の切っ先を向けた。
その喉へと刺さる直前男はなんとか踏みとどまるが、それ以上動こうとはしなかった。
恐らくではあるが、その喉元に突きつけられた剣で殺されてしまうとでも思っているのだろう。
しかし、そのまま一歩でも前に進めば男の喉へと突き刺さるであろう剣を、俺は下ろした。
そして、董卓と賈駆に出会った時と同じ言葉を、口にする。
「まだ来るのであらば、それ相応の覚悟を持ってこい。手加減は、出来んぞ」
「ッ?! く、くそぉぉぉぉ!」
その俺の言葉に、男は剣を投げ捨てたかと思うと、一目散に軍幕をくぐりその場から姿を消した。
その足音が消え去り、気配さえもが感じ取れなくなるのを確認して、俺は剣から手を離した。
自分の掌が強張っているのを無理矢理に開くと、カラン、という音とともに地へと落ちた剣はその切っ先に付いた血脂を地面へと染みこませる。
一つ深呼吸をして董卓と賈駆の方を見やると、未だ呆然としながらも確かに生きている彼女達が、そこにはいた。
守れた、守ることが出来たという想いが自分を覆うのを感じ、知らず緊張していたのだと理解する。
俺は、聖フランチェスカの制服を脱ぐと、それを賈駆へと羽織らせた。
「申し訳ありませんでした、文和殿。仲頴殿も、危険に晒してしまい――」
「いえ、一刀さんがいなければ、今の私達はありませんでした。本当にありがとうございます」
俺の謝罪の言葉を遮るようにして董卓が発した言葉に、幾分か救われた気がした。
一つ深呼吸をして賈駆に視線を移せば、何処か申し訳なさそうにする彼女がそこにはいて、俺は我が目を疑った。
かと思えば、その胸元に白く輝く下着が見えて慌ててあさっての方へと顔を向けたが。
「あ、あの……あんたのおかげで助かったから……。あ、ありがと」
そんな俺の視線に気付いたのか、俺が羽織らせた聖フランチェスカの制服の前を隠すように合わせて、賈駆はぽつりと感謝の言葉を口にした。
俺としては、どこ見てんのよ、と怒られるかもと思っていたのだが、いやはや助かった。
深呼吸しながらそんなことを思っていると、勢いよく軍幕が開けられ俺は再び黄巾賊が来たのかと身構えながら賈駆を背中へと回す。
董卓を手招きでこちらへと寄せて、不意の事態にも備えたのだが。
「月、詠、ついでに一刀、無事かッ?!」
「俺ついでッ!?」
慌てて駆け込んできたのは張遼であった。
その目は獲物を狙う肉食動物のように研ぎ澄まされており、放つ気はまさしくそれのものであった。
その気に当てられてビクリと身を震わせてしまうが、こちらの無事を確認出来たからか張遼はそれを解いて普段の彼女へと変わっていた。
一つ呼吸をして、何があったんや、と悩む張遼に事の顛末を教えた。
「つまり、黄巾賊のが護衛を倒して月と詠を襲った、ちゅうわけやな?」
「多分そうだと思います、文遠殿。あいつらは仲頴殿と文和殿が目的だったみたいで、一人は逃げました」
「ふーむ、黄巾賊のが奇襲はあっても本陣を狙うっちゅうのは聞いたことはないけどなぁ」
「……そうね、ボクの知る限りだと無いと思うわ。恐らくは、そう指示を出した人物がいるはずだけど……今からじゃ追いつくのは無理だろうし」
こちらの情報を教えれば、向こうの情報を得るのは当然のこと。
安定を包囲する黄巾賊と相手をしているはずの張遼が何故ここに、という疑問を解消すべくどうなっているのか、と問いかけたのだが。
一方向の黄巾賊を撃退したら他のまで逃げ始めた、とは思わなかった。
「なら、とりあえずは安定に入りましょう。指揮をしていた人と話をしなくちゃ駄目でしょうし、琴音さん達とも合流しないといけないし」
「そう、ね。ここで考えても仕方がないわ。霞は華雄達を一旦読んできてちょうだい。一軍として入る以上、系統を纏めておかないと甘く見られちゃ困るからね。ええっと、あんたは――」
「すみませんが、少し外れます。安定に入る前には帰りますので」
どうする、と賈駆が聞き終わる前に一言断りを入れ軍幕をくぐってその場を後にする。
一つ呼吸を入れて周囲を見渡せば、少し歩いた所に森が見えたので、出来るだけ早足でそこへと向かう。
向かう途中、元黄巾賊や怪我人の合間を縫っていくのだが、その周囲には血と脂の臭いが立ちこめていた。
そして、森へと入った俺は、丁度いいところに小川を見つけ――
――そこが、我慢の限界だった。
「ぐぶぅっ! おえっ、おえぇぇ……げぇぇ、ガハッゴホッ」
ビチャビチャ、と胃の中から食物やら水分やらよく分からないものを逆流させて、俺は派手にぶちまけた。
内容物が全て出た後も胃酸らしきものが逆流して、喉が焼けるかのように熱い。
鼻水と涙が嘔吐に連鎖するように零れ落ち、俺の顔をぐしゃぐしゃにしていった。
どれだけ覚悟を決めても、俺の手で人を殺したことには変わりない。
どれだけ立派な理由を持っても、俺が人を殺したことに変わりはないのだ。
深呼吸すれば意外と吐き気も楽になる、とは何かで読んだ気がするのだが、それが事実だったかどうかは今いち立証出来なかった。
とりあえず董卓や賈駆の前で吐くことは我慢出来たのだから、あまり求めてもいけないのだが。
董卓とか絶対気にするしな、自分のせいで人を殺したからとか言って。
収まったわけでもないが、胃の中も空っぽになって幾分か落ち着くことが出来た。
そうすると周囲の音や気配も感じ取れるようになってくるのだが、ふと背中をさすられていることに気付く。
優しく、それでいて気遣うかのようなそれは暖かく、安心出来るものではあるのだが。
一体誰が、と疑問に思ってしまう。
よもや、熊とかパンダとは言わないだろうな。
川の妖精だとか言って、筋骨隆々のビキニ一丁の男だとかだったらどうしよう……何となく逃げなきゃいけない気がした。
「ちょっとあんた大丈夫!? 医者を呼んだ方がいい?!」
まだ見ぬ、というよりは決して見たくはない人物像を頭から追い出していると、不意に耳元で覚えのある声を聞く。
いつもの強気なものでも、先ほどの弱々しいものでもないその声は、純粋に俺を心配してくれているもので、しかし俺はその声の持ち主が何故そこにいるのかということしか聞け無かったのだ。
「文和殿、どうしてここへ?」
**
「聞いてねぇ、聞いてねぇぞあんなのがいるなんてッ!?」
涼州安定から少し外れた山奥。
彼の地にて構築されていた董卓軍本陣から逃げ出したアニキと呼ばれていた男は、生い茂る木々を払いのけながら疾走していた。
思えば、最初から何処か怪しかったのかもしれない。
白く光る衣を纏った男に邪魔をされた後、特に行く宛もなく黄巾賊の集団に紛れていた時に誘われた一つの依頼。
石城太守である董卓とその軍師である賈駆の暗殺。
偶々黄巾賊に襲われる安定救援のために出撃し、偶々長期戦を辞さない構えから本陣を構築し、偶々本陣周辺にいるのが元黄巾賊や怪我人だからという理由で、行われたその依頼は結果から言えば失敗となった。
直属の護衛は引き受ける、しかし董卓と賈駆、騒ぎを聞きつけた者の相手は任せると当初は言われたのだが、どうにもおかしいことだらけだったのだ。
何故、護衛のみで董卓と賈駆に手を下すことは無かったのか。
何故、あの男が本陣にいる時に引き受けなかったのか。
そもそも、何故自分達だったのだろうか。
他にも武に優れている同志がいる中で、何故自分達が声を掛けられたのか、理解出来ないのである。
自分達があいつらを知っているから。
否、それが何か意味をなすのか。
自分達が適任だった。
否、武智に優れる同志、それこそ将軍でもそれはなせる。
自分達三人のうち誰かがいなければならなかった。
否、自分もチビもデブも天涯孤独から黄巾賊に身をやつしたのである、そういった関係は全くと言っていいほど無いと言い切れる。
ならば何故、ということになるのだが、自分が上げた考察の一つが正鵠の射ているとは、男はその命果てる時まで思うことは無かった。
そして木々を抜けた先、少し開けた広場にて男は目当ての人物を見つける。
その辺りだけ木々が生い茂っていないのか、夜が訪れる前の夕暮れに男は染められていた。
先ほどのあいつとは違う病的なまでに白い衣を纏い、所々には紋様が見える。
その立ち振る舞いには一分の隙もなく、ほんの少しの武を持つ自分にさえその実力は図れた。
そして、顔の右半分を覆うその白い仮面は、それ単体で見れば無表情ながらも、夕暮れに染まる様は血に濡れているようであり、口元は微笑んでいるようにも見えた。
ぞくり、と背筋が震えるが特に構うことはないと足を踏み出そうとして――
「おい、あんたッ! あんたが言ったから俺達は――って……え?」
――違和感を感じたかと思うと、自分の左胸に刃物が刺さっていた。
その刃物から視線を移せば、それを手に持っているのは自分達に話を持ってきた女がいた。
ひらひらとした腰布を巻き、その胸部は深蒼の鎧の上からでも分かるほど膨らんでおり、彼女がれっきとした女性であることを知らせていた。
蒼銀の髪は後頭部で纏められており、その輝きをもってその肉体に映えていた。
ただ、惜しむらくは目鼻整った端正な顔立ちの左半分を白い仮面で覆われていることか。
そこまで考えて、自分の意識がだんだんと闇に呑まれていくのを認識して。
意識を失う直前、自身の血に濡れた無表情な仮面が、嗤った気がした。