「さて……予定通りに陣を構えることは出来たわね」
そう言って胸を張る賈駆に連れられ、視線を前方、安定の方へと向ける。
高く聳え立つ城壁に群がる黄巾賊は、遠目から見ると大きな虫へと群がる蟻に見えた。
それと違う点と言えば、その動きには統一性が無いことか。
まるで生き物ように動き、蠢くそれを見て、不意に背筋が震えた。
偵察からの報告によれば、安定を襲う黄巾賊には明確な指揮官がいないらしい。
どうも、小規模な集団が合流して出来た群衆らしく、組織だった行動はしていないのだ。
董卓軍が陣を構える前でもそうで、大多数は安定を囲み続けたが、一部は董卓軍へと標的を変え襲いかかってきたのである。
もっとも、それらの殆どは天下無双の呂布を始めとした豪傑に討たれることになったのだが。
そんな彼女達の働きにより、董卓軍は大して損害も無く本陣を構えることが出来た。
その指揮を執ったのは賈駆であり、攻め込みにくく守りやすい、と手本のような陣が出来上がったのだが。
そんな彼女達の傍らで、それを手伝った俺は疲労困憊だった。
否、手伝わされたと言ったほうが正しいか。
その指示を出したのは、もちろん賈駆である。
「大丈夫ですか、一刀さん?」
「はは、大丈夫……だと思いますよ仲頴殿? 二の腕が震えて物が持てなかったり、立ち上がる時に膝が笑ったりするのが大丈夫と言うのならば、ですが」
「……何よ、何か文句でもあんの?」
心癒される董卓にほんわかしながら、ぎろりと賈駆に睨まれて慌てて首を振る、もちろん横に。
そんな俺にふんと鼻を鳴らして再び前を見据える賈駆の横顔を眺めながら、生まれたての子鹿のように足を振るわせながら、なんとかこうにか立ち上がる。
「大体、あんた貧弱すぎんのよ。同じ仕事した兵がぴんぴんしてんのに、へばってるのあんただけよ」
「いやー、これでも少しは鍛えてたんですが……。大変面目ない次第で」
確かに、見れば兵糧を確認する兵や、武具の予備を確認する兵などは共に木を運んだ仲なのだが、その歩きや佇まいには疲労の色は少ししかなく、それは賈駆の言葉を正当化するだけのものがあった。
しかも、二人とも女性だったりするのだから、なお質が悪い。
なんて言うか、泣きたくなってくる。
女尊男卑ではないが、膂力にしろ権力にしろ、やはり女性が力を得る時代なのだと改めて実感する。
男からすれば、ちっぽけな自尊心でも悲しいものではあるのだが。
もしかしたら、遙か未来の先には女性主導による国際連合なんかがあったりするのかな、とふと思ったり。
そんな暢気なことを考えていると、賈駆の視線の先、前衛から一騎の騎馬が駆けつけてくる。
俺の提案で実現した、とは言っても部隊を色ごとに分けただけのものだが、袖口に縫われた紺の布から張遼の部隊からだというのが分かる。
「伝令! 張文遠様、呂奉先様、華葉由様、部隊の再編成終了とのこと! 加えて、徐玄菟様、徐公明様の両名とも出撃準備が整ったとのことです!」
「そう、ご苦労様」
伝令に労いの言葉をかけ、賈駆は厳しい顔で董卓へと向く。
董卓もまた真剣な表情で賈駆を見据え、ただ一つだけ頷く。
「……行こう、詠ちゃん。安定の人達を、救うために」
安定救援戦の、開幕である。
**
「およ、向こうさんも動き出したみたいだね」
突き出された槍を蹴飛ばすことによって矛先を変えた後に、それをなした黄巾賊の目線を切り裂く。
痛みと、己の視界を奪われたことによって暴れる黄巾賊の胸ぐらを掴んだかと思うと、李粛はそれを城壁の外へと放り投げた。
数人か巻き込んだのか、幾重にも重なった悲鳴を聞きながら、援軍に駆けつけたのであろう董卓軍を見やる。
先頭にそびえる張、呂、華の旗から見るに、董卓配下でも豪傑として名を馳せる張文遠、呂奉先、華葉由だろう。
陣を構える先に黄巾賊を蹴散らしたその戦いぶりから、音に聞こえる噂に違いは無いらしい。
その後ろに並ぶ異なる徐の旗は、おそらく古参の徐栄に、その娘となる徐晃のものだろう。
戦巧者の徐栄に、これまた豪傑と知られる徐晃とあっては、董卓軍がいかにこの安定救援に力を入れているのかが手に取るように理解出来る。
その心意気に感謝しつつ、それでもなお攻めを緩めようとしない黄巾賊に焦りを抱く。
今回、安定防衛のための兵力は三百と、それこそ董卓軍にて確認されていた数と同じものだったのだが、その援護として数百人の街の人々が名乗りを上げていた。
これは、古くから街の有力者として李家が名を知られており、今回の防衛戦において安定指揮官である牛輔に後を託され、その李家の代表として李粛が指揮を執るためでもあった。
防衛戦に用いられる兵力とは、何も城壁の上にいるだけが全てではない。
矢を揃え、油を煮炊き、食事を作り、武具を磨く。
投石用の岩を砕く者もいれば、街で不安に怯える人達を宥める者もいるのだ。
それらに従事する者達も兵力とするのであらば、この時の安定の兵力は実に千を超えていることになる。
李粛は、それこそが安定が未だ陥落しない理由だと思っていた。
「それでも大変なのには変わりないんだけどねー」
振り向きさまに黄巾賊の顎を断ち切ろうとするが、半ばで刃が止まってしまう。
見れば、人の血と脂によって切れ味を落とした剣が、それでもなお斬ろうとして幾箇所か欠けていた。
仕方なく、黄巾賊の男が持っていた剣を奪い取り、その胸を蹴飛ばす。
手に持った剣だけで既に六本目で、それ以前のはどれもが切れ味を失い、刃こぼれによって切れ味を失ったために破棄したのだ。
愛用、と言うほどでもないが日頃から使い慣れてきた剣などは、既に半ばから折れて使い物にはならなくなっている。
名家にあって贅沢をせず、一般の兵と同じ剣を使っていたためか。
唯一、李家に伝わる家宝の中国刀『虎狼剣』は、その切れ味を落とすことは無かったが、それでも幾人をも斬ったために、その刀身には陰りが見えていた。
しかし、それでもなお攻めを緩める気配の無い黄巾賊に、心底うんざりしてしまう。
戦うことは好きだけど、こう続くと面倒なんだよね。
「お姉ちゃんがいれば、もう少し楽だったかも……」
智に優れ、李家の麒麟児として名を知られる姉ならば、この劣勢の中でも勝機を作り出せるかもしれない。
そう愚痴りながら、剣を投擲する。
一人の兵を斬ろうとしていた黄巾賊に向けられたそれは、見事に後頭部に刺さった後に口から剣を生やすこととなった。
胸が揺れるのを気にすることなく駆け寄ると、それから剣を抜いて血を払う。
「あ、ありがとうございます李粛様!」
「ほらほら、もう少し頑張れば援軍が来るんだから。頑張れ頑張れ」
ばしばしと背中を叩いて次に向かおうとすると、ふと城壁の上の黄巾賊が少ないことに気付く。
ここ安定は古くからこの地にあり、その太守は概ね朝廷から派遣された者がしてきた。
しかし、そういった者達の大体は朝廷から左遷された者ばかりであり、彼らは再び朝廷に返り咲くためにと金銭を民から搾り取って、賄賂をすることにしか興味は無かった。
そして、もちろん城壁が老朽化しているからと補修をする筈もなく、安定の城壁はそれこそ指をかけられる隙間が出来るほどまで荒れていたのである。
故に、防衛戦が開始した直後から黄巾賊は城壁を伝って上ってきていたのだが。
李粛は不思議に思い、城壁の下を覗くと、そこには――
「どけどけぇぇぇぇぇ! この徐公明の大斧、貴様ら賊如きに止められるものではないわァァァ!」
――蒼銀の長い髪を振り乱させて、両手に構えた大斧を振りかざす鬼がいた。
「……いやいや、鬼じゃないって」
一瞬、そのあまりにも的確な表現に意識を持って行かれそうになるが、寸でのところでなんとか留まる。
木を切る斧よりも刃を巨大にさせて、かつその武器自体をも大きくさせた大斧を両手に構える。
見た感じ、大の大人が両手でようやく振れそうなそれを、その徐公明と名乗った少女は片手ずつに持って事も無げに振り回しているのだ。
安定において、指揮官である牛輔にこそ負けるが、一般の兵に負けたことのない李粛にとって、己の武は自慢出来る類のものであったのだが。
さすがに、あれに敵うとは微塵にも思わなかった。
「いやはや……大陸は広いよ、子夫、お姉ちゃん」
安定に生まれ、安定で育ち、安定で学んだ李粛にとって、武と智の頂きはそれまで牛輔と姉だった。
兵となり、めきめきと頭角を現して将となった牛輔と。
書物を読み、古き叡智と新しき知識を得ることによって朝廷の文官にまで上り詰めた姉と。
その二人に学んだ李粛だったが、眼下で繰り広げられる徐公明の舞とも呼べる武は、全く知り得ないものであったのだ。
だからこそ、惹かれた。
董卓軍の布陣を見るに、恐らくはあの徐公明でさえ頂では無いのだろう。
あの先陣を駆けた張、呂、華の旗を持つ者こそが。
徐公明でさえ敵わぬと感じるのに、さらに上がいる。
そして、そんな人物を纏め使いこなす董仲頴という人物がいることに。
その事実に背筋が震え、心臓の鼓動が跳ね上がる。
故に。
「安定の指揮を執る者よ! 我が名は徐晃! 我が主、董仲頴様の命により馳せ参じた! 開門を願う!」
徐公明からの呼びかけに、李粛は疑うことなく諾、と答えていた。
**
「……琴音達は、無事に安定に入れたみたいね」
「琴音さんと玄菟は無事なのかな?」
「大丈夫でしょう、あの二人なら。玄菟殿も公明殿も、賊程度に遅れを取りはしないでしょうし」
視界の向こう、安定の城門が開かれ、その合間を縫って徐栄と徐晃の部隊が入城するのを確認して、俺を含めた三人は大きく息を吐く。
先に城門前の黄巾賊を払ってはいたのだが、それでも城門が開くとなると殺到するもので、周囲に展開していた黄巾賊は城門を目指した。
その大半は呂布達の部隊に阻まれることになるのだが、ある程度はそれをすり抜けてしまった。
そのまま城門から中へと入られる、そう思ったのも束の間、城門から飛び出してきた赤い髪の人物がそれを叩き伏せてしまったのだ。
遠くからでよく見えなかったのだが、何か揺れていたと思うのだが、きっと気のせいだろう。
うん、胸の辺りで揺れるのが見えただなんて、ありえないってそんなこと。
「第一段階は完了、ってところね。……よし、退き銅鑼を鳴らせ!」
「はっ!」
じゃーん、と銅鑼特有の音を三回鳴らす。
待機は一回、突撃は二回、撤退は三回と前日に教わったのだが、この音の大きさまでは学んでおらず。
近い、それこそ目と鼻の先で鳴らされたそれを、耳を塞ぎながら睨む。
とは言っても鳴らされたものは最早どうしようもないので、仕方なく撤退してくる張遼達の方へと視線を向ける。
三部隊が一列に並んで撤退してくるのだが、その後ろには黄巾賊が迫ってきている。
もっとも、少しだけ高位置にあるここからならよく見えるが、撤退してくる進路の先には既に賈駆の指示によって兵が伏せられており、その旨は張遼達には伝えてある。
文字通り、本当に伏せているんだけれども。
土の色に合わせた服を纏って、土色に塗られた鎧を着込んだ兵が、今か今かとその時を、文字通り伏せて待っているのだ。
なんて単純な、とはそれを聞いた俺の言葉だが、それを聞いて賈駆は自信満々に言い切った。
曰く、単純なほど効果は高い、と。
それでもなお、俺はその効果を疑ってしまうのだが。
「あそこまで近づいて、気付かないなんて……」
「人間、目の前に意識を集中させれば、大きく動かない限り気になんてしないわよ。恐らく、大きめの岩でもあると思ってんじゃない?」
今度は俺の目を疑うことになってしまった。
予定地点として撤退経路の両脇に伏せていた伏兵部隊の間を、黄巾賊は特に意識することもなく移動していくのだ。
確かに距離があるって言っても、それでも五十メートル程か。
賈駆の言ったとおり、黄巾賊は目の前で逃げる董卓軍しか見えていないらしく、その先に罠や策が待っているなどとは、微塵も疑っていないみたいである。
視線を移せば、人がいることぐらいは分かってもおかしくはなさそうな距離ではあるのだが、結局黄巾賊は気付くことなく、千五百にも及ぶほどの人員をそこに割くことになった。
追撃してきた黄巾賊の後ろを伏兵によって襲い。
撤退と見せかけていた張遼達の部隊が反転した後に反撃を行い。
結果、大した損害もなく瞬く間に追撃してきた黄巾賊の大半を生け捕りにしてしまったのである。
「という訳で霞達には悪いけど、すぐに行動するわよ」
とりあえず、捕らえた黄巾賊達をそのままにしておくには兵力がもったいなく、またそれだけの余裕もないため全員を逃がすこととなった。
その際に、次刃向かえば命はない、と華雄が脅したために包囲している黄巾賊に合流することはなかったが。
さらには嬉しい誤算として、数十人が董卓軍に協力してくれることとなった。
そして、彼らに聞く話によると、黄巾賊の内部では慢性的な食料不足が目立っており、最早安定に至った時のことで士気を保つしかないと言うのだ。
そこで賈駆は決意する。
安定を救援するには、今しかないと。
「それはええけど、さっきので大分兵力は減ってもうたで? 死んだんは少ないけど」
「私たちが鍛えた兵が賊などに負ける筈がないだろう。皆一騎当千の強者ばかりだ」
「…………お腹空いた」
「予定とは大分、それこそ陣が殆ど無駄になった感じだけど、黄巾賊を打ち払うには今が好機なの。大変だとは思うけど、頼んだわよ」
負傷した兵を本陣へと下がらせ、その減った分を本隊から捻出して前衛の兵力を整える。
信用に足るかどうかは分からないため、元黄巾賊の面々も本陣ということになるが、思ったよりも負傷していたのか、その数は大きく減ってしまう。
結局、本陣の中でも董卓と賈駆の周りには俺を含めて十人ほどだけを残し、負傷兵や元黄巾賊で本隊を形成しなければならない有様だった。
「しゃーないな、ほな華雄、恋行くで」
「ふん、お前に言われなくても分かっている」
「……ご飯」
若干一名士気が上がりきらないのがいるが、それでも張遼と華雄についていく辺り、己のするべきことは理解している……のだと思う。
隊の再編成を行っている陳宮に、期待しよう。
そんなこんなで第二回戦、とも言える戦いに赴くために前衛に再び向かう張遼達を見送って、賈駆はてきぱきと指示を出し始める。
負傷兵の治療だとか、元黄巾賊を偵察に出したりとか、戦闘可能な兵数の確認だとか。
手伝えることがあればいいんだけど、やられても邪魔だから、と言われてしまえば何にも言えない訳で。
結局のところ、董卓と賈駆の傍にいながら戦局を見ることしか、その時の俺には出来なかったのである。
とは言っても、賈駆が慌ただしく指示を出し、周りの護衛を兼ねた人達も伝令に動く中、董卓はいいにしても俺まで動かないってのは、何となく居心地が悪い。
「少しその辺りを見てきます。……って誰も聞いてないな」
ゆえに、暇つぶしというか、いたたまれない空気から逃げ出すというか、そういったこともあって声をかけるのだが。
董卓と俺以外は皆慌ただしく、董卓もまた時々賈駆に問われるものだから誰も返事をしてくれるわけでもない。
仕方なく、本陣の中でも軍幕をかけるそこから抜けだし、山の方へと言ってみるか、と一人呟く。
木々が生えるでもなく、岩肌に覆われたそこに誰かが伏せていないとも限らないし、と先ほどの伏兵の如き兵がいるかもと、そちらの方へと足を運ぼうとし――
「きゃぁっ! あ、あなた達は一体ッ!?」
「くっ、ボク達から手を離しなさいよッ!」
――軍幕の向こうからの叫び声に、思わず来た道を逆走していた。
軍幕をくぐり抜けた向こう。
倒れ伏し、ぴくりとも動かない護衛達と。
黄色の布を頭に巻く男達と。
彼らに捕らわれた董卓と賈駆が、そこにいた。