豫州、洛陽から涼州に入る手前を、数百ほどの騎馬が駆け抜けていた。
男ばかりのそれは、皆一様に急かすように馬を手繰り、その器用さをもって彼らの目指す処へと駆けていた。
その一団の先頭、一際巨大な剣を背負う男が傍らに従う副官へと問いかける。
「安定までの道のりは、あとどれぐらいある?!」
「どんなに急いでも、あと三刻は下らないかと! 隊長、少し落ち着かれては……」
三刻。
古代中国において、一刻は一日を十二等分した時間であり、現代で訳せば二時間になる。
つまりは、どんなに馬を急がせても六時間はかかるということになるのだが、それは馬が保てばである。
休息を入れれば、もう一刻は増えるであろう。
そしてそれは、脅威にさらされている安定の街が、それだけ危機を享受しなければならないということでもあった。
自分が生まれ、育てられてきた安定がそのようになっている状況で、男はさらに馬の速度を上げる。
それを戒める副官の言葉に耳をかすこともなく、である。
仕方なく、副官も馬の速度を上げるのだが、それに残りの数百の者も従う。
彼ら、涼州安定軍の中でも最精鋭を誇る騎馬隊は、皆一様に安定で生まれ、育ってきたのだ。
その隊長である男が急かさなくても、駆けつけたいのは彼らも同じであった。
そして、そんな彼らが何故洛陽から安定を目指さなければならないのか。
その理由を思い出して、男は忌々しげに吐き捨てる。
「あのくそ太守、これで壊滅などしてみろ! あの脂肪に埋まった首、叩き斬ってやるッ!」
「それには全く同意ですが……馬に無理をさせすぎれば、間に合うものも間に合わなくなります。ここはひとまず落ち着かれてください」
「ぐぅ……。ちっ、分かったよ! これより四半刻の小休止を入れる、後は休まんぞ! 今のうちに腹でも満たしておけ!」
副官のまったくの意見に、男は仕方なしに休息の指示を出す。
確かに、馬を潰してしまえば本末転倒である。
即座に馬の状態と安定までの距離、必要な時間を計算して指示を出す男に、副官は人知れず息を吐いていた。
皆思い思いに洛陽から、と言うよりは援軍要請という名目で洛陽に一人だけ避難した太守から分捕ってきた兵量を腹に入れていた。
その護衛に安定のほぼ全兵力を持ち出すなど馬鹿げた太守だったのだが、事もあろうに洛陽に戻ったとあって奴は喜んだのだ。
結果、あっ虫が、と嘯きながら一発ぶん殴った後に、名乗り出た数百人で安定の救出へと向かっているのだ。
しかし、安定に押し寄せていた黄巾賊は、当初の情報では数千、下手をすれば万に届こうかという数だと聞いていた。
安定に残してきた兵力はたったの三百であり、指揮官たる人物もいない。
普通に考えれば、間に合う筈もないのだが。
男、牛輔は、安定を出る前に後を託した人物へと思いを馳せる。
「…………頼むぞ、陽菜」
牛輔の言葉は距離を埋めることは無かったが。
その言葉から、彼の者への信頼が見て取れた。
**
「さて……此度の安定への救援、これに依存ある者はおるまいな?」
安定からの使者を別室にて休ませた後、俺達は広間へと集っていた。
議題はもちろん、安定を襲撃する黄巾賊の対処についてである。
襲撃する、というのは使者の話によるのだが。
安定は地理的に安定の南西に黄巾賊を確認したということに他ならないのだが、その総数が一万を超えるほどのものであるという。
洛陽と西涼を結ぶ交通の要所であり、また西涼が異民族に落とされた時の最終防衛線という意味合いもあってか、後漢軍の一部が駐留していた。
一部とは言ってもその数は二千は下らなく、その数があれば籠城の末の援軍によって勝利も容易いだろうというのではあったが。
使者の口から放たれた言葉は、俺達の予想を遙かに上回るものだったのだ。
曰く、朝廷から派遣されていた安定の太守は、援軍要請の名目をもってして洛陽へと逃げた。
その際に安定に駐留していた後漢軍の実に九割を自身の護衛にと当てたために、現在安定にいる兵は三百ほどだと言うのだ。
また明確な指揮官もなく、最高指揮官であった男もその護衛に連れ出されてしまったために、安定は滅亡必至の目前へと叩き込まれている。
「北郷殿……安定救援に兵を出す理由、分かりますかな?」
「……安定はここ石城からも近く、また洛陽と涼州を結ぶ要所でもあります。また、以前黄巾賊を撃退したが故に石城には食料財貨があると勘違いさせてしまい、安定が落ちた後はこちらへとその矛先を向けてくるでしょう。ならば、注意が安定に向いている今、安定と協力して黄巾賊を打ち払うが上策。そういう意味ではないでしょうか」
「北郷の言うとおりよ。安定が落ちれば、次はこっち。さらにはその勢いに乗って、各地に潜む不穏分子まで動きかねない。そうなれば、如何にこちらに優れた将がいても、持ちこたえることは不可能に近いわ」
「さらには、西涼において馬太守が異民族に押されている、という情報もあるのです。もし詠殿の言う通りになってしまえば、そちらにも勢いを渡すことになり、ねね達は文字通り四面楚歌となってしまうのです」
故に、残された手は援軍に赴きそれを討つしかない、それは誰も口に出すことは無かったが、誰もが理解していること。
かと言って、言うほど簡単なものではなかった。
「前回とは違い、今回の戦は所謂攻めになる。恐らく、黄巾賊は安定を囲んでおる、見方を変えれば布陣しているとも言う。となればこれを攻めるになるが、相手はまたしてもこちらの数倍、簡単にいく相手でもあるまい」
徐栄の言うとおり、以前攻めてきた黄巾賊には、地の利を活かした待ちの戦法を用いることが出来たが、今回はそんな悠長なことを言っている場合でもなく、さらにはこちらから進まなければならないため、黄巾賊に準備する時間を与えることになる。
周囲の情報を得、策を練り、罠を用いて、万全の体勢を整えることが出来るのだ。
いかに賊軍とはいえ、それぐらいに考えられる人物はいるだろう。
なばらこそ、それに当たるにはこちらも万全を期さなければならないのだ。
「今回、稚然殿は石城に残って、もしもの場合の防衛準備。残りは出撃するにあたり、恋と華雄と霞を先陣にした鋒矢の陣でまずは安定の北東を目指す。長期戦になることも考えて、本陣をそこにある山裾にて構築し、指示はそこから出すわ」
「詠殿、私と父上は如何しましょうか?」
「琴音と玄菟殿は、鋒矢にて安定に近づいた後は別働隊となって、迫るであろう黄巾賊の足を止めてちょうだい。こっちを狙う数は少ないだろうけど、もし全軍動けば私達が踏みつぶされるのは目に見えているもの」
「なるほど……その隙に本陣築いて、腰を構えようちゅーわけやな」
こちらに来て学んだことだが、防衛側の救援は、まず城門前を確保することから始まるらしい。
これは、救援側と防衛側によって攻め手を挟撃するために、とのことらしいのだが、今回のように防衛側の兵力が低い場合、それはあまり意味を持たさない。
少数の防衛側が城門を開いた場合、多数の攻め手にそれを突破される恐れがあるからだ。
黄巾賊を追い払い、ある程度の治安が約束され、そして俺がもたらした知識によって、少しずつではあるが石城は富んでいった。
それによって人口は増加し、伴って兵に志願してくる人々も増えて、今や石城の兵力は五千にも及ぶ。
太守である董卓が争いを好まないために、兵の徴募は大々的に行われることは無いのだが、それでも石城を守るという志で志願する人は多かった。
よって、いざという場合の防衛兵力である千を残しても、四千によって救援へと駆けつけることが出来るのだが、安定の兵力が三百ほどしかない状態では、挟撃を行うことは難しいと言えた。
だがしかし、賈駆はそれでもなお城門前の確保を第一目標と掲げたのである。
「三百では万の黄巾賊は防げないわ。そこで、城門前が開けたら玄菟殿と琴音は千を率いて安定に入城して。そこで指示を出している人と話をして、協力して当たれるように」
「はっ、この徐公明、承知致しました」
「華雄達は、琴音達が入城した後に安定を囲む黄巾賊を各個撃破すること。城壁に取り付いているということは、その方向は塞がれているということ。三隊にて三方向を囲めば包囲となって、戦いやすくなるでしょう。霞は、足の速いのも探しておいて」
「そんなもん、どうするんや?」
「黄色の布を付けて、賊の中を走り回らせて。安定はもうすぐ陥落する、っていうのと、援軍が来た、って叫ばせてちょうだい。逃げるのと固執するのとに分けられれば、こちらの負担もかなり減る筈だから」
要するに、分裂させることが出来ればいい、ということだ。
確かに、黄巾賊の最大の驚異はその数にある。
如何に訓練を積んで、それこそ一騎当千の域にまで及んでも、一度に対処できる人数はたかが知れている。
それを超えた人数を相手にすれば無事では済まず、もしそれを凌いでも次が来ればまたそれを相手にし、負傷する。
それを繰り返していけばどんなに精鋭でも、たちまち徒花として戦場に散ることとなるだろう。
だからこそ賈駆は、黄巾賊を逃げる者となお戦おうとする者に分けることによって分裂させ、一度に戦わなければならない人数を減らすという策を用いることにしたのだ。
「……それでは、詠ちゃんの策でいきましょう。兵四千にて安定に接近後、本陣を構築。しかる後に、安定の城門を確保して各個撃破。それでいいですか?」
それまで黙って軍議の行く末を見ていた董卓の言葉に、皆一様に彼女へと視線を向ける。
そこには、先日戦うことを悩んでいた少女の姿は無く。
民を守り、地を守り、兵を守らんとする君主たる董卓の姿があった。
「徐玄菟、月様の指示のままに」
「同じく徐公明、父と同じく月様の命に従います」
「……恋、頑張る」
「ねねも恋殿と共に頑張るのですぞー!」
「この華葉由の武、存分に使うがいい」
「張文遠、出来る限りやったるわ」
「老いぼれながら、この李稚然、励まさせてもらいましょう」
思い思いに頷くみんなを見ながら、ふと視線を感じそちらへと視線を向ける。
董卓と、賈駆がこちらを見ていた。
さらには、いつの間にか他の面々もこちらへと視線を移しており、その場にいる全員に見られていることになっていた。
それらの視線に若干押されてしまうが、ここで退くわけにはいかないのだ。
月夜の城壁で董卓の理想を聞き。
張遼や華雄、呂布らには厳しいながらも、互いに武を話し合い。
賈駆や陳宮と俺の知識について語って。
李確や徐栄、徐晃とともに石城の街を富ませて。
石城の街では、色々な人と触れ合って。
俺は、なによりもそれらを守りたいと思い始めていたのだ。
だからこそ、自分の口からすらりと出た言葉にさして驚くことはなかった。
「……北郷一刀、及ばずながら、尽力させてもらいましょう」
**
「でぇぇぇぇやぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
怒号と喧噪の最中、城壁の出っ張りを用いて上り切った黄巾賊を、一刀のもとに切り捨てる。
頭部を失った身体を城壁から蹴り落とすと、さらに上ってきていた黄巾賊に当たって、被害を拡大しながら悲鳴と共に地へと落ちていった。
「もう一丁!」
背後から斬りかかってきた黄巾賊を、下から上へと斬り上げる。
己に血がかかるを厭わず、股間から頭部へと切り裂かれたそれには目もくれず、兵の一人に襲いかかっていた黄巾賊へと獲物、中国刀を突き出す。
意識を兵に向けていた黄巾賊は、その喉を貫かれたと気づく前に絶命した。
「あ、ありがとうございます李粛様!」
「いいっていいって、困った時はお互い様。今度、僕が大変だった時に助けてくれれば」
「は、はいっ!」
血に染まりながら、それよりなお濃い真紅によって色づいている髪。
それに映えるかのように豊満で、それでいて成熟した身体に、その兵士は見とれていた。
美女、というのは全体の容姿をさして言うものだが、戦場の緊張状態にあってそれは目にとって毒とも言えるものだった。
時が時、その男がもし賊なら放ってはおかないであろうその身体の持ち主は、その容姿も整ってはいるのだが。
「あー、それにしても多すぎだよぅ。まあ、一杯戦えるからいいんだけど、にしし」
こともあろうに、動きやすいという理由から胸と腰回りしかない服装の合間を縫って少女、李武禪は腹をぼりぼりと掻いたのである。
その反動から胸がたゆやかに揺れるのだが、その行動と、色気を感じさせることのない満面の笑みに、兵士はふと現実に戻った。
涼州安定。
今現在、黄巾賊の大軍にて包囲、攻撃されている城壁の上に、自分がいるということに。
「それそれそれぇぇぇぇぇ! この李粛、黄巾賊相手には負けないんだからー!」
そしてそんな悲鳴轟く中、安定において名家とされる李家において、知謀に優れる姉と双璧を成す妹、李武禪は、感情の高ぶりを抑えることなく破顔した。
「だから早く帰ってこないと無くなっちゃうよ、子夫!」
そうして、彼女は己に安定の後を託した青年へと叫ぶ。
愚図太守を洛陽に連れた後に必ず帰ってくる、そういって安定を離れていった青年へと。
普通であれば、圧倒的不利で助かる見込みもないことは決定的なのだが、彼女はそれでも諦めることはしない。
それは、青年の信頼を裏切ること。
彼女自身として、そして名家である李家の代表として、それだけは許されるものでは無かった。
「それにー、どこか知らないけど、助けも来てくれたみたいだしね!」
それゆえに、李粛は視界の先に移った旗印を、さしたる驚きもなく受け入れた。
どことなく、予想していたのかも知れない。
安定に近い石城において、数倍に至る黄巾賊を追い払い。
治安も良く、笑顔に満ちているとされる石城を収め。
そして。
天下において見たこともない衣を纏い、その智は天上のものとも思える深さを有し。
乱世を収めるために天より降り立った御遣い、民の間では天の御遣いと呼ばれているらしいが、その男がいる。
涼州石城が太守、董仲頴。
その御旗が、確認された。