日向国 ムジカ
夜半。
日が西の彼方に沈み、夜空を彩る星々が輝きを増す時刻。常であれば、とうに寝入っているはずのムジカの街並みは、いまだ騒擾の只中にあった。
道端で力なく腰を下ろしているのは、先の島津軍との戦いに敗れた兵たちであろう。多くは手傷を負っているのだが、彼らは傷の手当さえ受けられずにいた。島津軍の奇襲により、ムジカは人と物とを問わず甚大な被害が生じており、負傷兵の治療さえままならない状況が続いているのである。
彼らが発する苦痛の声は、あたかも呪詛のごとくに街の各処にたゆたい、昼夜を問わず人々の神経にやすりをかけていた。
深夜、屋敷の廊下を歩いていた俺は、遠くから響いてくる馬蹄の音に気がついた。おそらく戦況報告の伝令が、街路を駆け抜けて大聖堂へと向かっているのだろう。屋敷の中にいれば、かすかに耳朶をふるわす程度の物音に過ぎないが、焼け出された兵や信徒にとっては、眠りを妨げる騒音以外の何物でもないはずだ。傷の手当ては受けられず、ただ休むことさえもままならないとあっては、体力はもちろん気力も衰えていくばかり。このまま時が推移すれば、ムジカの人々は戦うことはおろか逃げることさえ出来なくなってしまうかもしれない。
知らず、道雪どのの部屋へと向かう足の運びが速くなっていた。
秀綱どのからすべてを伝え聞いてから、まだ四半刻と経っていない。平時であれば、すべては明日になってから、ということで早々に床についたかもしれないが、今の戦況を鑑みれば、一刻の遅れが致命的なものとなる可能性は否定できない。ゆえに、非礼にもこんな時刻に道雪どのの部屋を訪ねようとしているのである。
幸いにも、道雪どのの部屋からはまだ灯りがもれていた。のみならず、わざわざ道雪どののお付きの侍女の方が出迎えてくれた。どうやら道雪どのは俺の訪問を予期していたらしい。うかがいを立てる必要もなく、俺は室内に招じ入れられた。
◆◆
「――そうですか。名高い剣聖どのの来訪からおおよそは察したつもりでしたが、颯馬どのが勅使とは予測の外でした」
俺を室内に迎え入れた道雪どのの顔には、眠気や疲れを感じさせるものはまったくなかった。その瞳は思慮深い光を湛えて揺るぎなく、明眸という表現が違和感なくあてはまる。
怖いほどまっすぐな眼差しを向けてくる道雪どのは「予測の外」と口にしながら、特に驚いた様子はなく、また俺が勅使に任じられたことに関しても、それ以上言及しようとはしなかった。
軽口の一つも口にしないのは、そのためのわずかな時間さえ惜しんでのことだろう。この点、俺と道雪どのは認識を共有しているようであった。
……まあ、今の大友家に余裕がないことは誰の目にも明々白々な事実であるが。
ともあれ、認識が共有できているとわかれば、余計な前置きに時間を費やすこともない。俺は単刀直入に本題を口にすることにした。
「むろんのこと、勅使の一語だけで島津が軽々に講和を承知することはありますまい。ですが、そちらはそれがしがなんとかいたします。少なくとも、筑前の戦況を鎮めるまで、島津家が大友家の後背をつくことがないよう義久さまたちを説き伏せましょう。ただ、どのように話が進むとしても、島津が大友家の日向からの撤退という条件を取り下げることはないでしょう。そのことはご承知おきくださいますよう」
道雪どのはしっかりとうなずいて応じた。
「承知しております。現状、当家にムジカを保持する力はなく、たとえ島津との講和が成らずとも放棄せざるをえないところです。島津との交渉において、ムジカのことに意を用いていただく必要はございません」
「かしこまりました。では明日、朝一番に宗麟さまにお目にかかり、此度のことについてそれがしの口から説明を……」
そう言う俺に対し、道雪どのはゆっくりとかぶりを振った。
「颯馬どのは島津との交渉に専念してください。宗麟さまへはわたくしがお伝え申し上げます」
俺は驚いて口を開きかけたが、道雪どのの真剣な眼差しに見据えられた瞬間、発しようとしていた言葉は喉の奥に引っ込んでしまった。
「みずからのことは、みずからの口で。その颯馬どのの気持ちは理解できますし、常であればそうするのが筋だとわたくしも思います。しかし、今は一刻の猶予もないこと、颯馬どのも承知しておられましょう。颯馬どのを勅使として認めるよう宗麟さまを説くのはわたくしでも出来ますが、島津を説くことができるのは颯馬どのを措いて他にございません。何故なら、勅使に任じられたのは他の誰でもない、颯馬どの、あなたなのですから」
そこまで言って、道雪どのは一転して柔らかく微笑んだ。
「上泉どのがお越しになる以前にもお話しいたしましたが、ムジカの放棄については宗麟さまも了承しておられます。今になって意見を翻されることはないでしょう」
だから、こちらは気にせずに島津との交渉に専念してほしい。道雪どのは再びそう言った。
確かに、島津との講和が一刻遅れれば、その分だけ大友家を取り巻く戦況は厳しくなっていく。宗麟さまに頭を下げるのは、この戦いを乗り切ってからでも遅くはない。
そう自分に言い聞かせた俺が、次に口にしたのは、筑前の戦況をいかにして好転させるかであった。
筑前大友勢力の要は、立花山城と岩屋城のふたつ。
立花山城は毛利隆元、吉川元春らの毛利軍を主力とした五万以上の軍勢に包囲されており、岩屋城は竜造寺隆信みずから率いる竜造寺軍、そして大友家に叛旗を翻した高橋鑑種らの軍勢を含めた四万近い軍勢の攻撃にさらされている。
立花山城に関しては、道雪どのがあらかじめ備えを固めており、城代たる戸次誾の配下には小野鎮幸、由布惟信ら立花家の精鋭が控えている。相手が相手なので油断はできないが、すぐにも落城、ということはないだろう。というより、早々に立花山城が陥落するような事態になれば、もう万事休す、ということである。誾たちの奮戦に期待するしかない、というのが正直なところだった。
立花山城の状況も十分に憂慮すべきであるが、さらに問題なのは岩屋城の方だった。
こちらは道雪どのの義妹である高橋紹運どのがたてこもっており、紹運どのの将としての資質はいまさら俺が語るまでもない。どれほどの大敵が攻め寄せようと、城を堅守してくれるだろう――後方が万全でさえあれば。
岩屋城は宝満城の出城であり、城自体の規模は小さい。さしたる特徴もない山城である。その威はあくまで後方に宝満城があってこそ発揮されるのだが、その宝満城が先の高橋家当主であった高橋鑑種に奪取されてしまった。
このため、現在、紹運どのは岩屋城にて孤立無援の戦いを余儀なくされてしまっている。いかに紹運どのが名将とはいえ、この状態ではながく城を保つことは難しいだろう。一刻も早く、救援に向かわなければならなかった。
竜造寺らの大軍に囲まれた岩屋城を救援するためには、千や二千の兵では到底たりない。かなうならば敵と同数、最低でも一万以上の兵を集めなければならない。そして、その規模の軍を編成するためには、どうしても大友家中の意思をまとめなければならない。当主に対する不満と不審に揺れる家臣たちの心を、再び宗麟さまのもとで一つに束ねなければならないのである。
こればかりは道雪どのひとりではいかんともしがたく、宗麟さま自身の克目が必要となる。それについては道雪どのに託すしかないのだが、俺には一つの気がかりがあった。
ほかでもない、俺が連れてきた志賀親次という少女に関わることである。
道雪どのは、カブラエルを深く信頼する宗麟さまの心情をおもんぱかり、細心の注意を払ってあの宣教師を放逐した。そのため、宗麟さまの中ではいまだカブラエルは誠実な宣教師として重きをなしているはずである。しかし、遣欧使節団の一員として南蛮国に赴いた親次が、バルトロメウで小アルブケルケに隷属していたという事実は、この宗麟さまのカブラエル像を砕いてしまう可能性があった。
なにしろ、カブラエルはこれまで遣欧使節団の派遣を主導してきた人物であり、南蛮に赴いた少年少女たちについての報告は、カブラエルの口から宗麟さまに伝わっていたはず。当然、事実をそのままに伝えていたわけがない。
信頼していたカブラエルが、妹とも思っていた親次を奴隷同然に扱う小アルブケルケの所業を隠していたこと。その上で、幾度もの遣欧使節団を主導し、多くの少年少女たちを南蛮国へと送り込み続けたこと。
このふたつはカブラエルが宗麟さまを利用していたことのこの上ない証左であり、それを知った宗麟さまが狂乱の果てに自失してしまっても何の不思議もないと思われた。
今の大友家に宗麟さまの傷心を癒している余裕はなく、立ち直るのを待っている時間もない。
ゆえに、今しばらくは親次を道雪どのにかくまってもらわねばならない。いずれ宗麟さまに真実を伝えなければならないとしても、それはこの戦いが終わった後でもよいのである。
ただ、そこまで俺が口にするのは、明らかに行き過ぎであろう。また、俺が考える程度のことは道雪どのも承知しているに違いなく、俺はこの件に関しては口を噤むことにした。
かわりに口にしたのは、岩屋城救援に関する方策である。
「援軍がどれだけの数になるにせよ、開戦から今日までの岩屋城の消耗を考えれば、援軍が向かっているという『事実』を一刻も早く城中に報せる必要がございます。それがし、島津との講和が成立した後、その足で岩屋城に向かいましょう」
それを聞いた道雪どのは、思わず、という感じで目を瞠った。
「岩屋城はさして大きくもない出城です。わたくしたちが戦った休松城よりも、規模としては小さいでしょう。敵軍の数を考えれば、包囲は文字通り十重二十重のものとなっているはず。まとまった数の兵もなく、これを通り抜けることは至難の業ではありませんか?」
「それに関しては、腹案がございますのでお任せを。うまくいけば、援軍が岩屋城に着くまでに包囲を解くこともできるでしょう」
――ほかの人間の耳に入れば、間違いなく身の程知らずの大言壮語と笑われたことだろう。あるいは、この危急の際に戯言を、と怒られても文句はいえないところだ。俺自身、大言を吐いているという自覚がないわけではない。
だが、道雪どのは俺の言葉を笑うこともなく、怒ることもしなかった。さすがに、少し困惑した表情は浮かべていらっしゃるが――いや、これは困惑とは少し違うかもしれない。ではなにか、と問われると答えづらいのだが。
俺がそんなことを考えていると、道雪どのが口を開く。
「――徒手空拳の身で四万の軍勢に包囲されている城に赴き、包囲を抜けて城中に入ることさえ至難であるというのに、さらに包囲を解いてみせるとおっしゃいますか?」
その声音は不思議なくらい静かであった。だが、眼差しの鋭さは道雪どのの佩刀である『雷切』にも劣らない。偽りを口にするのはもちろんのこと、はぐらかすことも許されないだろう。
もっとも、俺はそのどちらを選ぶつもりもない。どのように問われようと、正直に答えるだけである。
「はい、まさしくそう申し上げました」
小さく、しかしはっきりとうなずいて、自らの言葉が虚言でも戯言でもないことを宣言する。
このとき、俺は自身の策を確実に成功させる自信があったわけではない。だが、それでも俺の胸中に気負いはなかった。自分でも不思議に思うほどに、気負いはなく、焦慮もなく、そして発した言葉には揺らぎがなかった。
そのことを、道雪どのは感じ取ったのだろう。俺を見据える視線から鋭さが失われ、かわりにいつもの穏やかな微笑がその顔を覆っていく。
ただ、そこに何故だか哀しげな色合いが混ざっているように思えたのだが――それは、俺の気のせいであったのかもしれない。
◆◆◆
「男児、三日逢わざれば……とはいいますが」
立花道雪はそう呟き、ついさきほどまで天城が座していた場所に視線を向ける。
すでに天城は退室し、侍女も下がらせたので、室内にいるのは道雪だけ。ただひとり残った室内で、道雪は先刻の天城の姿を思い起こしていた。
天城が志賀親次を伴って油津港より戻ってから、まだ半日たらずの時しか経っていない。にも関わらず、今しがたまで向き合っていた人物は、半日前の姿とは大きく異なっているように道雪の目には映っていたのである。
おそらく、本人は自覚どころか意識さえしていないだろう。
道雪にしても、具体的にどこがどう異なるのかを指摘することは難しい。別段、見違えるように凛々しくなったとか、あふれんばかりの覇気を感じさせるようになったとか、そういった変化ではないのだ。
将軍家より勅使の任を授けられ、いまや誰はばかることなく天城颯馬を名乗れるになったことが、天城の心持ちに大きな影響を与えているであろうことは想像に難くない。
だが、雲居筑前と名乗っていた頃の言動が、現在のそれに比べて見劣りするわけでは断じてない。道雪は、自分の声なき声を聞き取り、ためらいなく手を差し伸べてくれた雲居の姿を心に刻み込んでいる。感謝と共にその手をとった時の安堵を、昨日のことのように覚えている。ゆえに『天城颯馬』をして『雲居筑前』に優る人物だ、などとはつゆ思わなかった。
ならば、どうして自分は先ほどの天城の姿を見て感じ入ってしまったのか。
道雪が知る『雲居筑前』は持っておらず、さきほどの『天城颯馬』は持っていたもの。それはきっと――
「人の真価は危地にたって初めて明らかになるといいますが、能力、人品が等しいのならば、生じる差異は覚悟の強さに求められます。そして、覚悟とは他者の信頼によってより強く、より固くなるもの。まして、それが敬愛する主君からのものであれば尚更、ということなのでしょうね」
さきほどの姿こそ、上杉家家臣としての天城颯馬、その本来の姿なのだろうと道雪は思う。主君たる上杉謙信から全幅の信頼を受け、その妙なる智略を存分にふるってきた上杉家の軍師。
本人に向かって口にしたならば笑い飛ばされてしまったろうが、先刻、道雪は半ば以上、天城に見惚れていたのである。
より正確に言えば、主君を心から信じる臣下と、そして臣下を心から信じる主君の絆に見惚れていた。君臣の姿とは、本来、こんなにも美しく、力強いものなのか、と。
知らず、道雪は小さく息を吐く。
そして、面差しを伏せ、両の手で強く胸をおさえた。
先刻からずっと胸のうずきが消えないのだ。胸奥からわきいでる哀切な感情は尽きることなく、その一方で心の臓はうるさいほどに脈打っている。
その原因が何であるのか、道雪はとうに気がついていた。
目の当たりにした越後の君臣の絆を見て、痛切な憧れを抱いたから――という理由ではない。
憧れとは手に届かないものに対して抱く感情である。道雪には信頼する主君がおり、その主君は道雪を信頼してくれている。ゆえに、道雪には他国の君臣に憧れを抱く理由はない。むろんのこと、得がたい主君を持った天城を羨んだから、などという理由ではさらにない。
滾々とわきいでる感情は、天城や宗麟、あるいは謙信といった他者に向けられたものではなく、道雪自身に向けられたものであった。
これまで、道雪は一度として宗麟に失望したことはなかった。
苦言を呈したことはある。強諫したこともある。南蛮神教に耽溺していく宗麟の姿を見て、時に焦りにも似た感情を抱いたこともある。
だが、道雪はどのようなときも宗麟を見捨てることなく、宗麟を、そして大友家を支えてきた。いずれ必ず。そう思い、そう信じて。
先にカブラエルを放逐した際も、道雪は宗麟を信じて事を為し、また宗麟のためを思ってその心に波風が立たないよう計らったのである。
いずれ必ず宗麟は克目してくれる。その時までは、とそう考えて。
――だが、それは
――本当に宗麟のためを思ってのことだったのか
今日の今日まで、自らに問いかけることさえしなかった疑問が、道雪の胸中を騒がしている。
繰り返すが、道雪は宗麟に失望したことはないし、今になって急に不満を抱いたわけでもない。
ただ、いずれ必ずと胸中で繰り返しながら、いつかそれが当たり前になってしまった自分自身に対して、道雪は問いかけたのである。
主君の心中をおもんぱかり、その限界を推し量り、将来に問題を先送りする。果たしてそれは、本当に信頼の名に値する行動なのか、と。
道雪は黒髪に挿した桜の花飾りに手を伸ばす。
脳裏に浮かぶのは、遠い昔、涙を流しながら、それでも懸命に笑顔を浮かべ、みずからの手で折った桜の枝を差し出してきた幼い宗麟の顔。そして、そんな宗麟に対し、こちらも涙を流しながら、桜の木は傷に弱いのだ、としかめ面でお説教をしている幼い自分の姿だった。
ややあって顔をあげた道雪は、哀しげな表情はそのままに、呟くように声を発した。
「不思議なものです。誰が望んだわけでもなく、誰が計らったわけでもないのに、古きも新しきも問わず、すべての因縁がより合わされていく。すべてに決着をつけるべきは、今この時を措いて他にないのかもしれませんね……」
◆◆◆
「さて、謀略の時間だ」
道雪どのの部屋を辞し、自分に与えられた部屋に戻る途中のこと。俺は冬の冷水で顔を洗い流しながら、そんな言葉を呟き、ぱしんと両の頬を叩いた。
時刻は深更、草木も眠る丑三つ時というやつであるが、眠気はまったくといっていいほど感じない。それどころか、丹田のあたりから活力が尽きることなく溢れてきて、俺の頭脳はかつてないほどに冴え渡っていた。
「今の師兄ならば、雲の果てにある天の城を陥とせと命じられても、鼻歌まじりで実行してしまいそうですね」
部屋に戻ってきた俺を出迎えた長恵が、俺の顔をしげしげと見つめてそんなことを口走る。さすがにそれは無理だ、長恵。
念のために付け加えておくと、いくら俺自身は心身ともに絶好調とはいえ、他者にまで無理を強いるつもりはなかったので、道雪どのの部屋に向かう際「では今日のところはこれで」と言い置いていったのである。
だが、部屋に戻った俺が見たのは、当然のように座に居続ける人たちの姿だった。具体的に名をあげれば、吉継と長恵、そして秀綱どのも当然のような顔でこの場にいらっしゃった。
俺の視線に気づいた秀綱どのが口を開く。
「どうかしましたか、天城どの?」
「あ、いえ、この後、秀綱どのはどうなさるのか、と思いまして」
「謙信さまと政景さまの願い、私の望みに従い、天城どのが存分に働けるよう、かなう限りの手助けをするつもりです」
黒髪の剣聖は、長旅の疲れなど微塵も感じさせない澄んだ表情でそう言うと、ふと何かに心づいたように小さく首を傾げた。
「不要、とは言いませんよね?」
その言葉を聞いた俺に「どうかよろしくお願いいたします」とかしこまって頭を下げる以外に何が出来たというのだろう?
そんなこんなで始まった作戦会議INムジカ。
ただし、すでに俺の中で作戦の骨子は出来上がっていたので、実際には命令の伝達と説明の場になった。
その席で、俺はまずはじめに長恵と吉継に、夜が明け次第、すぐに豊後に向かうよう命じた。
それを聞いた長恵が、不思議そうに首をかしげる。
「筑前ならばわかりますが、豊後に向かうのですか、師兄?」
「ああ。豊後に着いたら、盛大に島津との講和について宣伝してくれ。将軍家が大友家のために勅使を派遣してくれた、将軍は宗麟さまの味方だ、とな」
今度は吉継が、戸惑いもあらわに口を開く。
「容易いことですが、それはあえて広める必要があることなのですか? れっきとした事実なのですから、ことさら広めずとも自然と人々に伝わりましょう。仮にすばやく広める必要があるにしても、なにも私や長恵どのが赴くことはありません。それこそ道雪さまに頼んで豊後の方々に使者を遣わしてもらえば済むことです」
どこか不服そうな吉継の顔を見て、俺はあっさりとうなずいた。たしかに吉継の言うことは正しいのだ。ただ話を広めるためだけであれば、なにも二人に豊後まで足を運んでもらう必要はない。
長恵がぽんと両手を叩いた。
「ふむ、つまり師兄はこれから、大友家の方々には頼めない、否、聞かれることさえはばからねばならないような謀略を披露なさるということですね? さぞ後ろ暗く、卑怯未練で、それを聞いた者が一様に眉をひそめるような、そんな謀略を」
「やや装飾が過剰なような気もするが、大筋において間違いではないな。なにしろ将軍殿下の真意を故意に歪めて、大友家の人たちをだまくらかそうというのだから」
「……殿下の真意を故意に歪める、と仰いましたか?」
静かな吉継の問いかけ(怒りをこらえているのだろう)に対し、俺は簡潔に応じる。
「義輝さまは、今回のムジカ建設はもちろん、過去にさかのぼって宗麟さまが行った政策のすべてについて、これをさし許した。大友家の危急に際し、勅使を派遣したことこそその証左である。大友家は今なお将軍家の大切な藩屏にして、宗麟さまは幕府の重臣のひとり。宗麟さまに逆らう者は、すなわち足利幕府に逆らう者である。まあ、そんなところか」
現在の大友家臣団の動揺は、極言してしまえば当主である宗麟さまへの不審と不信にその原因が求められる。当主が異教のために都市を築き、そこに本拠を移して、本国たる豊後に帰還する素振りも見せぬ。宗麟さまのこれまでの振る舞いによる不満、さらには戦況の悪化がこれに重なって、豊後三老ですら静めがたい騒擾となってしまった。
この状況では、島津との講和が成り、宗麟さまがムジカを放棄して豊後に帰還しても、すぐに騒ぎは収まらないだろう。そして、その騒ぎを静めるための時間は、致命的な遅れとなって戦況に反映されてしまう恐れがある。
だから、それを避けるためにも将軍家の意向、というより将軍の威光をそえる。
足利幕府第十三代将軍足利義輝は、これまでの大友宗麟の行い、そのすべてを承知してなお宗麟を頼みとする気持ちを持ち続けているのだ、と――もっといってしまえば、一国の大名として相応しからぬムジカの建設その他の行動を、将軍として不問に付してくれたのだ、と広まれば、動揺する大友家臣たちに対して効果があるだろう。少なくとも、やらないよりはマシである。
俺はそんなことを考えているわけだが、案の定というか何と言うか、吉継、長恵、秀綱、いずれの表情も得心とはほど遠いものであった。
「……お義父さま、確かに今の大友家を取り巻く情勢は厳しいものです。しかし、だからといって、他者から託された信頼を濫用するがごとき行いは……」
吉継の指摘は、俺の痛いところを正確に突いていた。
ムジカのこと一つとっても、義輝が宗麟さまの真意を知らなかったのは明らかである。
宗麟さまはムジカを聖都と呼び、南蛮神教のためにこれを建設した、と公言している。義輝もそれは承知していると思うが、しかし額面どおり受け取ったりはしなかっただろう。南蛮国との交易の利を得るための政略のひとつ、くらいに考えていたはずであり、またそれが常識的な判断というものであった。
もしも宗麟さまの真意を知っていたのなら、つまり宗麟さまが本気でムジカを南蛮神教に献じたことを知っていたのなら、今回のこととてどう転んだかわかったものではない。
そのことに思いをいたせば、今の俺の考えは吉継のいうとおり、託された信頼を濫用することに他ならない。
だが、しかし。
「吉継」
「はいッ」
吉継に視線を向けると、ごまかされないぞ、と言わんばかりの強い視線が跳ね返ってきた。
かまわず、言葉を続ける。
「たしかに、俺が勅使として与えられた任は大友家と島津家を講和させることだ。もっといえば、それだけだ。義輝さまは宗麟どのを信頼しておられる云々と口にするのは越権だろう。まして、勝手にムジカの件をさし許すなぞと口にすれば、勅使として不適格だとして秀綱どのにたたっ斬られても仕方ない。だから、俺はそんなことは言わない。道雪どのや鑑速どのといった重臣方も知らない。これから豊後に広まる噂は、今この時期に大友家のために勅使が訪れた、その事実をどこかの誰かが独自に解釈し、その解釈が広まっていったものなんだ、あくまで自然に」
そう、無責任な噂、というやつである。勅使にも、勅使を派遣された家にも、無責任な噂を取り締まる義務なぞない。結果として、噂がいずこかの大名家の利にいささか結びついたとしても、それはいたしかたのないことなのである。
白々しいというなかれ。昔の人も言っている。溺れる者はわらをもつかむ、あるいは、立っている者は親でも使え、と。せっかく授かった勅使の肩書き、存分に使わねば、かえって義輝に失礼であろう。
なにより、結果として大友家が滅亡を免れれば、将軍家にとっても決して損にはならないはずであった。
そんな俺の説明を聞いた吉継は、無言でかぶりを振った。ほとほとあきれた、と言わんばかりの仕草だったが、次に吉継が口にしたのは、俺への非難ではなく、別の角度から見た危惧であった。
「……そもそも、お義父さまは雲居筑前として大友家に登用された身。皆様に顔も名前も知られております。そのお義父さまが天城颯馬として勅使に任じられたこと、皆の理解を得るのは難しいでしょう。まして、そこから広まった根拠もない解釈に、どれほどの人が耳を傾けてくれるのでしょうか?」
「はっはっは、これは異な事を。そもそも、というなら、そもそも雲居筑前と天城颯馬が同一人物だ、などと公言するわけないじゃないか」
「え?」
眉間のしわが常態化してしまいそうな吉継に向け、俺は爽やかに笑って言った。
「講和が成ったら、俺はその足で単身岩屋城に赴く。ムジカからの撤退や、豊後の問題は宗麟さまと道雪どの、それに鑑速どのらにお任せしてな。よって、豊後の人たちが知るのは、天城颯馬という勅使がいたことだけ。それが雲居筑前と同一人物だ、などと知るのはごく一握りの人間だけだ。彼らが口を緘してしまえば、こんなトンデモ話、想像する者さえいないだろうさ」
「ちょっと待ってください。今、噂などよりももっととんでもないことを、さらっと口になさいませんでしたかッ? おひとりで岩屋城に赴く、というのはどういうことですか?!」
「そのままの意味だよ。さっきの続きだが、ただ噂を撒くだけなら、吉継に豊後に行ってもらう理由は薄い。長恵だけで十分だ」
吉継は容姿が容姿だから噂を撒くのに向かない。それでも俺が吉継に豊後に行けと命じた理由は、豊後で噂を撒き終わった後に筑前に行ってもらうためだった。
本来ならば、長恵は豊後に、吉継は筑前に、と別々に行動してもらうべきなのだが、現在の筑前は敵地に等しい。ゆえに、二人には一緒に行動してもらう。筑前にはいった後は長恵は吉継の護衛役になる、という寸法である。
「筑前に入ったら、吉継は岩屋城とその周囲の様子をできるかぎり詳しくしらべてくれ。軍勢の配置、地形の険阻、今後の天候の推移までひっくるめて、できるかぎり、だ。特に天候について。こればかりは吉継自身に行ってもらうほかない」
「……次から次へと、無茶ばかり仰いますね、お義父さま」
「今は無茶をしなければならない時だ。もちろん他人に無茶を強いるつもりはないが、家族と配下には付き合ってもらう。申し訳ないが、否とは言わせないぞ」
だから、事のはじめから、頼みではなく命令という形で口にしたのである。
いやまあ、それでも二人が否と口にすれば、俺にはいかんともしがたいわけだが、幸いというかなんというか、吉継は否とは言わなかった。
それが納得ゆえなのか、諦観ゆえなのか、はたまたそれ以外の理由なのかは定かではない。
吉継の顔をよくみれば、どことなく嬉しそうにも映る。
俺はいつかの吉継の言葉を思い起こしながら、声に出して訊ねてみた。
すると、吉継は瞬く間に表情を取り繕い、ぴしゃりと言い放つ。
「当たり前です。なんで無茶を押し付けられて嬉しく思わないといけないのですか!」
「おや、姫さま、ご無理をなさらずとも。豊後に居たおり『どうか無理をさせてください』と師兄に仰っていたのは、他ならぬ姫さまご自身――」
「しかしながらッ!」
長恵の言葉を遮るように、吉継は一際高い声を張り上げた。
「かりにも父たる御方の命令とあらば、これにさからうは孝道に背きます! ゆえにご命令はつつしんで承りましょう!」
「う、うむ、よろしく頼むが、その、吉継? 時刻が時刻だから、あまり声をはりあげないようにな?」
あと、俺はあの時の吉継の言動を事細かに覚えているので、長恵の発言を遮っても意味はないのだが――まあ、これは黙っておこうか。
注意を受けて我に返ったのか、両の頬を真っ赤に染めて俯く娘を見て、俺はそんなことを考える。
そんな俺と吉継の姿を、長恵が実に良い笑顔で眺めている。
そしてさらに、そんな俺たちの様子を、秀綱どのが穏やかに微笑みながら見守っていた。
◆◆◆
しばし後。
「お師様、将軍殿下の御名を利用し、その信を濫用するような策をお認めになるのですか? 率直に申し上げて、師兄と姫さまが話し合っておられる間、お師様が師兄に斬りつけるのではないかとハラハラしていたのですが」
「謀略とは元々そういうものでしょう。それに、はじめから天城どのがどこに出しても恥ずかしくない、品行方正な策をたてるなどと思ってはいませんでしたよ。私も、謙信さまも――」
そして、義輝さまも、です。
上泉秀綱はこともなげにそう言うと、おやすみなさい、と弟子に告げてから背中を向けた。
その背を見送った長恵は、みずからの修行不足を痛切に感じながら、答えの出ない疑問を抱えてひとりごちる。
「…………いったい、誰が一番の策士なのでしょう?」
そうして頭上を振り仰いだ長恵が見たのは、まるで長恵の疑問の答えから逃げるように雲の向こうへと隠れる月の姿であった。