日向国 ムジカ
道雪どのから聞いたところによると、ムジカを巡る攻防が始まってからこちら、島津軍は昼夜の別なく攻撃を仕掛け、大友軍に緊張と疲労を強いる戦術をとってきたという。
だが、この日に限っていえば、島津軍の動きはきわめて静かだった。襲撃は夜明け前の一度のみ。陽が昇ってからも鉄砲一つ撃ちかけてこようとせず、島津の陣営は森厳と静まり返って動かない。
これはきわめてめずらしいことであり、かえって大友軍の警戒を誘う結果となった。島津軍の沈黙は大規模な軍事行動の前触れではないか、と大友軍の各武将が疑ったのだ。
その危惧が正鵠を射ているのかどうかはわからない。あるいは島津軍の沈黙にはもっと別の意図があったのかもしれない。ただ事実としてこの日、島津軍は動かず、これによって俺は秀綱と腰を据えて話をする時間を得ることができたのである。
今、室内にいるのは俺と秀綱、それに吉継と長恵だけである。道雪どのは別室で臼杵鑑速と話し合っているはずだ。これは秀綱が道雪どのに請うたことでもあり、道雪どのはこの請いを快く受け容れた。秀綱の名乗りを聞き、感得するところがあったのだろう。
俺の傍らでは長恵が背筋を正したまま、借りてきた猫のようにおとなしくしている。こんな長恵は実にめずらしい。まあ俺も似たような状態なのだが。
そして、そんな俺たちの雰囲気にあてられたのか、吉継も緊張しきりの様子だった。剣聖に対して礼を失すると考えたのか、すでに頭巾は取り去っており、銀色の髪と赤い目はあらわになっている。ただ、秀綱は吉継の素顔を見ても驚く素振りすら見せず、その緊張をほぐすかのように柔らかく微笑みかけていた。
照れたように頬を染めてうつむく吉継を見て、秀綱が男でなくて良かったと思ったのは完全な余談である。
「さて」
秀綱が口を開いた途端、俺と長恵の背筋が同時に伸びた。
そんな俺たちを見て、秀綱はわずかに目を細める。
「人の姿を見て怯えるは、心にやましいことがある証です。今日まで歩んできた道のりに恥じるところがないのであれば、胸を張ってしかるべきでしょう。私はあなたたちを咎めるために来たわけではありません。しかし、そのような態度をとられれば、咎めるべき何かがあるのではないかと考えてしまいそうになる。借問します。あなたたちは、この地で私に咎められる行いを為したのですか?」
ほんの一片のやましさすら見抜いてしまいそうな透徹した秀綱の視線を受け、長恵はぶんぶんと首を左右に振る。
一方、俺は咄嗟にためらってしまった。
九国に来てから今日までの行いを悔いたことなど一度もない。ただ、それが越後の人たちにとって、なんの免罪符にもならないことは承知していた。突然にいなくなった俺の身を案じてくれた人や、俺の不在で迷惑をこうむった人の数はかぞえ切れないだろう。彼らには幾重にも詫びなければならない。その意味で、俺が秀綱の咎めを受ける立場にいることは間違いない。
だが、もし秀綱がそのために来たのであれば「あなたたちを咎めるために来たわけではない」とは口にするまい。秀綱は今、あくまで九国で何を為したかを問うている。それは秀綱の問いかけからも明らかであった。
であれば、答えは一つしかない。
俺は長恵にならい、静かにかぶりを振った。
俺と長恵の答えを確認した秀綱は眼差しを緩め、穏やかな声音で言った。
「であれば、そうかたくなる必要はないでしょう。久方ぶりに会った知己から、そのように緊張と不安に苛まれた目で見られれば、私とて心が冷えてしまいます」
そう言われて、俺はようやく自分の態度が秀綱に対して礼を失することはなはだしいことに思い至った。慌てて姿勢を正して頭を下げる。
「た、たしかに秀綱どのには失礼な態度をとってしまいました。申し訳ありません。つい、わが身のことばかり考えてしまって……」
「あ、わ、私も申し訳ありませんでした、お師様! あまりに突然のことだったので、心の準備が整っていませんでしたッ」
ぺこりと同時に頭を下げる俺と長恵。秀綱はそんな俺たちの姿をしばしの間、じっと見つめていたが、やがてたえかねたように小さくふきだした。
「ふふ、さきほども思ったのですが、二人はずいぶんと親しくなったようですね。共に行動していることも驚きですが、ここまで親密になっていようとは想像の外でした。どのような出会いがあったのか、大変興味がそそられるところですが、その前に――」
秀綱は居住まいを正すと、そっと微笑んだ。ようやく再会の挨拶ができる、とその嬉しげな表情が語っていた。
「久しぶりです、長恵。ずいぶんと腕をあげたようですね」
「お、お久しぶりです、お師様。まだまだお師様には遠く及ばぬとは思いますが、精進は欠かしておりませんッ」
いまだ緊張は抜け切っていないようだが、長恵もまた嬉しげに応じる。秀綱の表情には特にいぶかしげな様子は見て取れない。してみると、どうも長恵は秀綱の前だとこれが普通らしい。
当然のように、次に秀綱の視線が向けられたのは俺である。
ひたと俺の顔に据えられた視線は、怖いほどに真剣であった。まるで心のひだまですくい取ろうとするかのような秀綱の視線を、俺は静かに受け止める。
何を言われても真摯に受け止めよう――そんな俺の内心を知ってか知らずか、秀綱はゆっくりと口を開く。
「咎めるために来たわけではありません。それは先ほど口にしたとおりです。しかし、私個人として、言いたいことがないわけではありません」
「……はい」
粛然とうなずく俺。
対して、秀綱は「ですが」と続けた。
「今が一刻を争う事態であることは承知しています。すべてはこの戦が終わった後のこと、ということにいたしましょう」
だから、この場は素直に再会を寿ぎます。
秀綱はそう言って、にこりと他意のない笑みを浮かべた。
「お久しぶりです、天城どの。ご壮健の様子、とても嬉しく思います」
「――は、お久しぶりです。秀綱どのもお元気そうでなによりです」
秀綱の笑みを見て、胸奥から湧き出る様々な思いにフタをして、俺は深々と頭を下げる。その返答がありきたりなものになってしまったのは仕方のないことだった。気の利いた答えを考える余裕など、俺にはまったくなかったのだから。
◆◆
俺は九国に来てから今日までのことを。
秀綱は俺が去った後の越後および東国の情勢を。
互いに語り終える頃には、陽は西に大きく傾いていた。
俺の話については、要所要所で吉継や長恵の説明が加わったおかげもあり、ほぼ完璧な形で秀綱に伝えることができたと思う。
秀綱は終始真剣に俺たちの話に耳を傾けていた。ときおり、こらえかねたように吐息をこぼす場面があったりしたが、その口から叱声が放たれることはついになかった。
ただ――
「一年に満たぬわずかな間によくぞここまで。人が乱を招くのか、乱が人を招くのか……」
と呟いていたが、その真意は謎である。
一方の俺は、秀綱ほどには平静を保つことができていなかった。
「まさか、久秀どのが勘付いていたとは」
秀綱の口から語られた東国の情勢。越後のこと、甲斐のこと、関東の不穏な動き、越後国内で蠢く陰謀、再度の上洛に至った、その背景。そうしてやってきた京の都で、越後の一行は西国の情勢と雲居筑前の名を聞かされたのだという――あの松永久秀の口から。
交易で栄える堺を牛耳る久秀が、九国や南蛮の情勢について耳目を光らせているのは当然といえば当然のこと。久秀がどのあたりで俺に目をつけたのかは定かではないが、数年来、同紋衆のみを重用してきた宗麟さまが、同紋衆はおろか他紋衆ですらない外様の俺を抜擢し、戸次誾に付けた人事は大友家の内部でも注目を浴びていた。おそらくあの頃だろうと推測できる。
――もしそれ以前にさかのぼるとすると、まだ道雪どのの客将であった頃に俺の存在に勘付いていたことになるわけで、さすがに久秀といえどそこまで精緻な情報網を持っているとは考えにくいのだ。それこそ、元々九国の動静を他地方のそれよりもずっと熱心に調べていた、というならともかく。
それよりも気になるのは、久秀が俺のことを口にしたタイミングである。たまたま越後の一行が上洛したときに久秀が気まぐれを働かせた――ただそれだけのこと、で済ませることもできるだろう。
だが、秀綱から聞いた東国の情勢をつぶさに思いかべてみると、今回の上洛令はいささか気味が悪いほどに時宜にかなっており、そこに何がしかの作為を感じずにはいられないのだ。その上洛の最中、久秀が西の情勢のことを――俺のことを口にする。これらはすべてただの偶然なのだろうか? 俺にはどうしてもそうは思えなかった。余人であればいざ知らず、あの松永久秀がからむこと、考えて考えすぎるということはない。
だが、今はそれについて考えるときではない。大友家を取り巻く情勢のこともあるが、なにより秀綱が九国まで来た事情がいまだ明らかになっていないからだ。
咎めるために来たわけではない、と秀綱は口にした。かといって無理やり連れ戻すためでもあるまい。秀綱がそのつもりなら、九国の事情など気にする必要はないからだ。
今が一刻を争う状況であることを承知している秀綱が、それでもこれだけの時間をかけて西国の情勢を訊き出し、また東国の情勢を説明した。当然、そこには相応の理由があるはずだった。
「こちらを」
そういって、秀綱は懐から二通の書状を取り出した。汚れないように包んでいた油紙を取り払うと、秀綱はそのなかの一通をうやうやしく俺に向けて差し出す。
「これは?」
かしこまって受け取りつつ問いかけると、秀綱は真剣な眼差しで応じた。
「さるお方より、天城どのに渡してほしいと頼まれたものです」
俺は考える。
さるお方。わざわざ俺宛に書状を書く人間、しかも秀綱を九国に派遣できるだけの人物とくれば、該当する人物は片手の指で数えられる。おそらくは、否、間違いなく――
と、胸中でその名をつぶやきかけた俺は、しかし、書状の表に記されている家紋を見て思わず息をのんだ。
そこに記されていた家紋は上杉家の『竹に雀』――ではなかった。むろん、長尾家の『九曜巴』でもない。山名や今川といった足利一門が用いる『二つ引両』……にしては少し形が違う。
――というかこれ、将軍家が用いる『足利二つ引』ではないか?!
なんで俺がそんなことを知っているかといえば、以前上洛したときに兼続から叩き込まれた諸々の作法や知識の一つに、家紋のことも含まれていたからである。
俺が驚いて秀綱に視線を向けると、秀綱はあえて何もいわず、ゆっくり頷いてみせた。
それを見て、俺は自分の考えが正しいことを悟る。つまり、秀綱が口にしたさるお方というのは――足利幕府第十三代将軍、足利義輝。
「どうして、殿下が……?」
「まずはその中身をご覧ください。天城どのならば、おおよそのことは推察できると思います」
秀綱に促され、俺はおそるおそる書状の内容を確かめる。
そして、そこに記された内容を見て、今度こそ完全に言葉を失ってしまった。
「お、お義父さま……?」
「師兄、大丈夫ですか?」
尋常ではない俺の様子を見て、吉継と長恵が気遣わしげに声をかけてくる。だが、俺には二人に応じる余裕はなかった。というか、あまりにも驚きすぎて、息を吸い込むことさえうまくできず、口から喘鳴じみた音がこぼれてしまう。
それを聞いた吉継が慌てたように俺の背中をさする。それで、ようやく少しだけ落ち着くことができた。
「師兄、いったいどうしたのですか?」
俺の様子があまりにも不審だったのだろう。長恵が再度問いかけてくる。長恵は俺の隣にいるので、書状を見ようと思えば見ることもできるのだが、なにせ将軍家からの書状だ、これを勝手に読むようなまねをすれば、秀綱が黙ってはいないとわかっているのだろう。
吉継にしても内心は長恵と同様のようで、長恵の問いを耳にするや、俺の背をさする手にわずかに力がこもった。
俺は一つ息を吐き出すと、書状に記されている内容を端的に二人に教えた。別に他聞をはばかる内容が記してあったわけではない。文面自体はとおりいっぺんのものだった。
「将軍の名の下に、大友家と島津家の争いを調停する――大意としてはそういうことだな。これは義久どのにあてたものだから、秀綱どのが持っているもう一通の方は……」
「はい。大友家の当主どのにあてたものです」
吉継と長恵の口から驚きの声がこぼれた。それも当然であろう。秀綱がもたらした将軍家からの書状は、今の大友家にとって天佑に等しいとさえいえるのだから。
かつて北信濃をめぐる上杉家と武田家の争いを調停したように、義輝は諸国の大名の抗争に積極的に介入し、これを治めることで将軍家の権威を高からしめるべく努めてきた。今回の件もその一環と考えれば、これはさして不自然なことではない。
付け加えれば、大友家は九国探題職を得るために将軍家に接近し、その繋がりは今も断たれていない。将軍家にとって、大友家は潰れては困る家だ。そのことは――毛利の拒絶で不調に終わったとはいえ――大友家と毛利家の講和のために動いてくれたことからも明らかである。
ただし、この考えでは説明できない部分がある。それは書状の末尾に記された使者の名前。
通常、こういった重要な案件の使者は、将軍の信任厚い者が選ばれる。書状は将軍の意向と使者の身分を保証するものであり、実際の調停は使者の裁量に任されるのだ。北信濃の例でいえば、義輝の寵臣である細川姉妹が選ばれ、国境の決定などは両家の言い分を聞いた上で彼女らが決定した。
その意味で、外交の使者というのは、ただ書状を届けるだけではなく、当主の代理人としての権限を備えているといえる。
そして、秀綱が差し出した書状の末尾に記された使者の名前はこう記してあった。
天城筑前守颯馬、と。
すなわち、義輝は俺に――雲居筑前ではなく、天城颯馬に対し、将軍家の名のもとに島津家と大友家を講和させよ、と命じてきたのである。
凝然と、彫像のごとく固まった俺の耳に秀綱の声が響いた。
「殿下よりのお言葉です。『正式に殿上人に名を連ねる其方であれば、将軍家の使者として不足はあるまい。まあ正確には色々と問題はあるのじゃが、今は危急のときゆえ細かいことは放っておくが吉なのじゃ。兵は拙速を尊ぶというが、ときに交渉事もこれにならうもの。吉報を待っておるぞ』と」
それはいかにも義輝らしい豪放磊落な伝言で、にかっと笑う義輝の顔が目に浮かぶようだった。磊落すぎて、これでいいのか将軍家、などと思ってしまいそうになるが、しかし、いま気にするべきはそこではない。
確かに俺は従五位下の官位を有し、いわゆる殿上人に名を連ねる身である。その意味で、将軍家の使者を務めることもできないわけではないだろう。
だが、俺は将軍の――義輝の『信任厚い者』ではない。当たり前だ。陪臣の身であるという事実はもとより、俺はろくに義輝と言葉を交わしたこともないのだから。先の上洛の際の諸々で、義輝が俺に対して興味を持ってくれているのは確かだが、それは信任と称するにはほどとおい感情だろう。
にも関わらず、義輝は俺に使者の大任を委ねてくれた。
それが意味するところは明らかなように思われる。
俺に与えられた信任は、俺と義輝を直接に結ぶものではない。両者の間には『誰か』がいるのだ。義輝はその誰かを信頼した。そして、その誰かが信頼する俺を信じてくれたのだろう。
では、その誰かとは誰なのか。
――義輝の信頼を受け、俺を信頼してくれる人。思い当たるのはただ一人だけだ。書状に記された俺の名を見た瞬間から、その名ははっきりと浮かび上がっている。
東国の情勢、久秀の行動、秀綱の来訪、義輝の書状とその内容。今に至る物事の流れを推測することは、俺にとってさして難しいことではなかった。
……だが。
それは俺にとってあまりに都合が良すぎる考えだった。これまでの俺の行動をかえりみれば、それを望むことはもちろん、思い浮かべることさえおこがましい。
そんな俺の内心を、秀綱は掌を指すように理解していたのかもしれない。それ以上、説明に言葉を費やそうとせず、懐からあるものを取り出した。
今度は書状ではない。畳の上に置かれたそれは、黒光りする一本の鉄扇であった。
むろんというべきか、それは先日俺が失ったものではない。歪み、刀傷が目だった俺の鉄扇とは異なり、この鉄扇は使い込まれた様子ながら、趣きのある光沢を放っている。その輝きを見れば、持ち主がこの鉄扇を大切に扱っていたことがうかがいしれた。
何故だろう。俺は手にとって開くまでもなく、そこに記された家紋が何であるかがわかった。わからなかったのは、どうしてこれが、今このとき俺の手元に届けられたのか、その一点。
俺は鉄扇に手を伸ばすこともできず、半ば呆然とつぶやくことしかできなかった。
「どうして……」
「問わずとも、答えは胸の内におありでしょう。謙信さまはあなたを信じた。あなたが謙信さまを信じることができない理由がどこにありますか?」
はっきりとその名を聞き、俺は右手で顔を覆い、うめくように口を開く。
「名を変え、他家に仕え、連絡一つしなかったのですよ。額突いて釈明したわけでもないというのに……」
「名を変え、他家に仕えたことに関しては、そうしなければならない理由があったのだろう、と仰せでした。便りがなかった件については、政景さまはお冠でしたが、謙信さまはそれをなだめていらっしゃいましたよ」
それを聞くだけで、その時の状況を簡単に思い浮かべることができる。不平そうな政景さまの顔も、それを穏やかになだめる謙信さまの顔も。
思わず笑みがこぼれそうになる想像だったが、実際に俺がしたのは、ともすれば歪みそうになる表情を隠すために、顔を覆う手を一本増やすことだった。
「その上で、将軍殿下にこのようなことを願っていただいたのですか……」
将軍家の調停。たとえ思いついたところで、今からでは到底間に合わず、採ることはできなかった手段である。
謙信さまが九国の情勢をどのように見ていたかはわからないが、この手段に行き着いたということは、おおよその戦況を把握しているはずだ。今の大友家にとって、島津家との和議が成るか否かは、滅亡に直結する大事である。そこに思い至らなければ、こんな一手は考えつきもしないだろう。
ましてやその使者に俺を任じてもらうなど、謙信さま以外の誰にも不可能な業であった。
何故、謙信さまがそこまでしてくれたのか。
その答えはすでに秀綱の口から語られていた――謙信さまはあなたを信じた、と。
それは、願うことはおろか、思うことさえおこがましいと俺が考えていたことであった。だが、秀綱から伝えられた言葉と、眼前の鉄扇は、そんな俺のためらいを羽毛のごとく吹き払う。
両の肩に、謙信さまの暖かい手が置かれたような気がした。
「ぐッ……」
両手で顔を覆いながら、口から零れ落ちそうになる嗚咽を必死でかみ殺す。
吉継と長恵がいてくれてよかった。さもなければ、いい年をして泣き崩れていたかもしれない。
俺と謙信さまが共に過ごした歳月は二年に満たぬ。すでに、共に過ごした以上の時間が、この世界では過ぎ去っているのだ。にも関わらず、春日山で別れを告げたあの時から今日にいたるまで、謙信さまの俺への信頼は髪一筋たりとも揺らいではいないのだ、とはっきりと感じられた。
嬉しくて、懐かしくて、申し訳なくて。様々な感情が入り混じり、もう自分でも今の気持ちが何なのか、はっきりとはわからなくなっている。
「謙信さまよりの言伝です」
そんな俺の耳に秀綱の優しい声が響く。
「――存分に、と」
短くも明晰な意思を、信頼をあらわすその言葉。
ある意味、これがとどめだった。
もはや顔をあげることもならず、俺は壁に――東の方角に向かって正対し、深々と頭を下げる。今このとき、これ以外にとるべき行動を、俺は何一つ思い浮かべることができなかったのである。
◆◆◆
――光は東方より
――九国を包む戦乱は、その最後の幕を開けようとしていた
◆◆◆
以下は余談(?)である。
「と、ところで政景さまからは、何か言伝はございますか?」
しばらく後、ようやく落ち着きを取り戻した俺が、慌ててそう言ったのは、先刻までの照れ隠し以外の何物でもなかった。
ただ、あの政景さまのことだから、何も言っていないということはなかろう、と考えたのも事実である。
すると。
「はい。政景さまからの言伝もございます……」
そこで秀綱は何故かためらうように口を閉ざしてしまう。
だが、すぐに意を決した様子で顔を上げると、剣聖さまはおとがいに手をあて、えらく軽やかな声で――
「『ずんばらりんがいやだったら、早く帰ってきてね、兄上♪』」
そんな言葉を口にされた。
ぶふ、と秀綱以外の者たちの口から同時に妙な声がもれる。内容はもとより、こんな華やいだ秀綱の声は初めて聞いた気がする。というか、間違いなく初めてだった。
当の秀綱は瞬く間に表情や声音をいつものそれに戻し、頬を赤らめるでもなく、淡々と口を開く。
「――とのことです。口調や仕草も含めて正確に伝えてくれ、との政景さまのご要望でしたので、努力してみました」
痛み入るしかなかった。京で色々と奔走してくれたであろう政景の厚意に。そして、その言伝を正確に再現してくれた秀綱の努力に――