錦江湾の戦いにおいて、島津軍と南蛮軍の戦力差は隔絶していた。
島津軍が幾度も奇策を繰り出し、その都度、南蛮軍に被害を強いながら、それでも戦の帰趨そのものを覆すにはいたらなかったことからも、その事実は明らかであったろう。
島津軍が切り札たる『その船』を出した時点での南蛮軍の被害は、撃沈された船が一隻、間もなく拿捕されるであろう船が二隻――それがすべてであった。
併せれば八十八隻にも及ぶ第三艦隊の中の、たった三隻。勝敗の天秤がいずれの側に傾くかは誰の目にも明らかであると思われた。
だが。
この時、すでに数字に表れないところで、戦況は密やかに動きつつあった。
数字に表れないところとは、すなわち人心――将兵の士気である。
南蛮軍、ことにガルシア・デ・ノローニャ麾下の将兵の多くは、一つの想念にとりつかれつつあった。
それは、敵軍への恐怖や不安、あるいはそれにともなう動揺といった類のものではない。
繰り返すが、このまま戦況が推移すれば南蛮軍の勝利は動かない。多少の被害を受けたとはいえ、それは南蛮軍の将兵が動揺をきたす理由にはならなかった。
この時、ガルシア麾下の将兵の心に巣食っていたのは警戒心だった。
圧倒的に不利な戦況にありながら、予期せぬ奇手を繰り出し、恐れげもなく立ち向かってくる敵軍に対して、南蛮軍は慢心を戒め、油断を禁じ、対等の敵手として警戒を抱くようになっていたのである。
――本来、それは称揚に値する出来事であったろう。
南蛮軍の兵士たちが敵軍に対する蔑視を捨て、眼前の戦の勝利を真剣に求めだしたということなのだから。しかも、指揮官であるガルシアの指図によらずに。
島津軍にしてみれば、ただでさえ強大無比である南蛮軍が、より一層付け入る隙のなくなった強固な軍勢になってしまったのである。もはやガルシアの艦隊の油断に乗じるのは不可能。その事実は、今後の作戦の幅を著しく狭める要素となるであろうと思われた。
だが、それゆえに、というべきだろうか。
島津軍の次の一手を目の当たりにした時、南蛮軍はためらってしまったのである。
それは一隻の船だった。
より正確に言えば、二隻の関船を強引に一隻に仕立て直し、船体総てを黒一色で塗り固めた船だった。
通常の関船は船の上を垣楯(敵の矢玉を防ぐため、楯や板を垣のように並べたもの)で囲み、将兵を守るのだが、この船はその垣楯の材料に木ではなく鉄を用いるなどの工夫を加え、さらに垣楯の大きさそのものを拡げていた。
それはもう単なる垣楯というより、ある種の兵車を無理やり船に据え付けたといった方が良いかもしれない。二隻の船をつなぎ合わせたのは、その重量と大きさを一隻で支えるのは難しいという判断からであったろう。
奇怪な船体が黒々と海上を進む様は、見る者の目を惹く意外性に満ちていたが、しかし、軍船としての機能を比べれば、この黒船が南蛮船に遠く及ばないのは明らかであった。それどころか、元となった関船にすら届かないかもしれない。
なぜなら、二隻の関船を一隻に仕立て直したことで、関船の長所であった機動性が大いに損なわれてしまったからである。
機動性の代わりに船体強度が増したと言えなくもないが、垣楯を鉄で強化したといっても、それで守れるのは垣楯部分のみ。垣楯の下――船体部分はこれまでと同じ木造船が用いられているのだから、たいした意味はない。
そもそも、大砲の直撃を食らえば鉄の楯だろうが木の楯だろうが容赦なく撃ち抜かれてしまうのだから、機動性を犠牲にした意味はほぼ皆無であると言える。
それ以外の利点といえば、垣楯部分を拡げたことで、その内に収容できる兵士の数が増えたことか。
だが、それは大砲を主力武器とする南蛮船が相手である場合、たいした意味を持たないのは前述したとおりである。
すなわち、南蛮軍の前に現れたこの奇怪な船は、追い詰められた島津軍の児戯に等しく、到底脅威とするに足るものではなかったのである。
突如あらわれた奇怪な黒の船。
その船首部分に翻る、これは船体とは対照的な白一色の大白旗。
白旗が降伏を示すものとして認知されるのは、はるか後年のことであり、この時、この場にあって、南蛮軍に攻撃を躊躇わせる理由にはなりえない。
結果からいえば、この時、南蛮軍はさっさと砲門を開き、この船を沈めてしまうべきであった。南蛮軍の火力を持ってすれば、それは容易なことであったろう。
だが、ここまで繰り広げられた戦いが。
島津軍の繰り出す奇策に対する警戒心が。
南蛮軍を躊躇わせた。
この時、ガルシア麾下の艦隊は、先の関船による火船突撃を潜り抜け、戦場外縁部で梅北国兼率いる島津軍に苦戦している味方艦を援護するべく動き始めていた。
黒船はその南蛮艦隊の中央に割り込むように船足を速めていく。
大砲による砲撃はおろか、鉄砲による銃撃も、弓矢による攻撃もなく、ただ静かに進んでくる黒船に対し、各船の船長たちは対応に迷い、ガルシアからの指示を待った。
味方からの援護もなく、ただ一隻で突っ込んでくる敵船への不審と、そしてわずかな不安は、将と兵とを問わず南蛮軍に共通する感情だったのである。
◆◆◆
「隊長、どうしますか?」
こころなしか、ガルシアの耳に届いた副長の声はいつもより低いように思われた。
その理由は問うまでもない。ガルシアはそう考え、とんとんとこめかみのあたりを人差し指で叩く。
いかに早く、いかに正確な判断を下せるかが将帥としての資質の一つだとすれば、ガルシアは疑いなくその資質を有しているのだが、この戦に限ってはそれがなかなかに通用しない。
開戦前から胸中にたゆたっていた奇妙な予感もあいまって、ガルシアも慎重にならざるを得なかった。
「苦しまぎれの悪あがき……ってわけじゃなかろうな」
「……そう、ですね。そういう敵ではないと、俺も思います」
「では、あのけったいな船の狙いは何だ?」
ガルシアの問いに、副長はわずかに首を傾げる。
「皆目、検討がつきませんね」
「俺もだ」
あっさりとうなずくガルシアを見て、副長は目を丸くする。
「隊長?」
「だが、俺とお前が考えても狙いがわからん――それがもう答えなのかもしれん」
その言葉の意味を副長はすぐに悟った。
「……つまり、いかにもな船を持ち出して、こちらの攻撃をためらわせる為、ですか?」
「そうだ。このままあの船に割り込まれると、艦隊行動が乱される。敵の攻撃にさらされている二船への援護も遅れる。無論、わずかな時間だが……それが奴らの狙いかもしれん」
そう言いながらも、ガルシアの眼差しはいささかも緩まない。
自分の考えが楽観に基づくものであることを承知しているからだろう。ほんのわずかな時間を稼ぐためだけに、ああも大げさな船を仕立てるというのは、ガルシアならずとも解せないことであった。
しかし、では他にいかなる目的があるのか、と問われれば答えに詰まってしまうのも事実である。
常のガルシアであれば、迷うにしてももっと早く決断を下していただろう。
たとえその決断が間違っていたとしても、南蛮軍の戦力をもってすれば挽回の余力は十二分に存在する。
しかし、今回の敵は得体が知れぬ。一つの悪手が、戦局すべての趨勢を決してしまいかねない――その考えが根幹にあるため、ガルシアは常になく慎重に事を進めようとしていた。
ここまでの戦況を鑑みれば、このガルシアの考えは至当であったといえよう。
ただ、ガルシアと間近で接する副長や、旗艦の他の兵たちはそのことを理解していたが、旗艦から送られる命令にそって動く他の船の将兵がそこまで察することは難しかったかもしれない。
彼らにしてみれば、すでに三隻の被害が出ており、今なお敵軍の動きはやまない。常になく遅い旗艦からの命令は、提督であるガルシアの不安と迷いをあらわしているように思われたのだ。
そんな彼らの眼前には、漆黒の船が刻一刻と迫ってくる。
決して急ぐことなく、しかし確実に南蛮艦隊との距離をつめてくる黒船を撃沈して良いのか。それとも手を出さずに避けるのか。
この時代、船と船との連絡はおもに手旗で行われ、それを任とする兵士がいる。
黒船からもっとも近いところに位置する南蛮船の上で、船長が苛立たしげに声を張り上げた。
「提督から命令は届かぬのかッ?!」
「いまだ旗艦に動きはありませんッ」
かえってきた報告に、船長が思わず舌打ちした矢先であった。
突如、黒船に動きが起きる。
漕ぎ手と思しき者たちが次々に海に飛び込み始めたのである。
それも整然とした動きではなく、尻に火がついたような、という表現そのままの慌しさであった。
この船長は決して無能ではなかった。無能者が、ガルシアの麾下で船長を務めることが出来るはずもない。
この時、眼前の光景が意味するところを正確に読み取ったわけでもないのに、とっさに独断で動いたことは、結果が伴えば臨機応変の判断であったと称されたであろう。
だが、そういった理屈を抜きにして船長の心底を探れば、そこにはこれまで抱えていた焦慮が、行動による発散を望んだという一面が確かに存在した。
様子を見る。命令を待つ。そういった選択肢を飛び越え、明確な攻撃を指示してしまったのである。
「砲手、敵船に照準! 準備が出来た者から撃ち始めよッ!」
その船長の命令に不服を示した者はいなかった。兵もまた不安と緊張を掃うために行動を欲していたのである。
照準などとうに終わっていたのだろう。次々と砲門が火を吹き、黒船の周囲に水柱が立ち上る。一発が右側の船首部分に命中し、黒船が目に見えて揺れ動くと、船中から歓声が沸きあがった。
それを見て、周囲の船も次々に砲撃を始めた。
砲撃の密度があがれば命中する弾が増えるのは当然である。
まして黒船は今なおこちらに近づいているのだ。直撃弾が出るのは時間の問題であった。
船長が勝利を確信した笑みを口元に浮かべた時、先の兵士が慌てた様子で報告を行った。
「せ、船長ッ! 旗艦より通達ですッ! 『ただちに砲撃を中止せよ』と!」
「なに? な――」
何故だ、と船長は口にしようとしたのだろう。
だが、その声が口をついて出ることはなかった――永遠に。
砲弾の一つが黒船の中心部を撃ち抜いたその瞬間、黒船が爆ぜたからである。
砲撃によって船体が壊れたのではない。黒船が内に蓄えていた多量の火薬が、砲撃によって引火したのである。
爆発は凄まじい規模であった。
もっとも近くにいた南蛮船は、船体そのものが海面から浮かび上がるほどの衝撃を横腹に受け、たちまちのうちに転覆してしまう。船上にいた船長や兵士たちは、何が起きたかもわからないうちに海面に叩きつけられ、命を落としていた。
大砲の砲声とは比較にならぬ轟音は、南蛮軍のみならず、島津軍の将兵の耳をも引き裂いた。この戦で生き残った兵士の多くが、後に「頭上に雷が落ちたかのよう」とそろって表現したほどの大音響であり、余波は遠く離れた場所を航行していたドアルテ麾下の艦隊にまで及んだという。
しかし。
いかに火薬を満たしていたとはいえ、ガルシアの艦隊すべてを覆すほどの破壊力は望むべくもない。事実、爆発にあおられて転覆したのは至近の一隻のみであった。
だが、島津軍は巧妙であった。あるいは狡猾であった、というべきか。
爆発の直接的な被害はわずか一隻に留まったが、その周囲の船にも甚大な損害を与えていたのである――爆風によって弾き飛ばされた破片によって。
原理としては特に難しいものではない。先に使用された焙烙玉と同じく、爆発によって生じる力を利用したに過ぎない。
違いがあるとすれば、焙烙玉の爆発によってはじけ飛ぶのは焼き物の破片であり、黒船の爆発によってはじけ飛ぶのは垣楯に用いられていた鉄の欠片である、という点だけだろう。
島津軍が黒船の垣楯に鉄を用いたのは、船体の強度を上げるためではなく、爆破によって生じる破壊力を引き上げるためであった。
これは南蛮兵を討つための工夫ではなかった。
船上の兵を討つために、わざわざ木製の楯を鉄のそれに切り替える必要はない。
島津軍が狙ったのは、人ではなく物。すなわち四散した鉄片が周囲の南蛮船に被害を与えるように計算していたのである。
船体、帆柱、ことに帆船の命である帆に対して損傷を与えれば、その機動力を根こそぎ奪うことが出来る。帆船の戦において、帆を狙うのは定石であった。
無論、南蛮軍もそれは承知している。南蛮船は帆柱が複数あり、張られている帆も一枚や二枚ではない。多少の損傷では航行に支障はない上に、帆自体も燃えにくく、傷つきにくいよう工夫がなされている。
しかし、どれだけ丈夫につくられていようとも、爆発によって目にも留まらぬ勢いで飛来する鉄の欠片をはじき返すほどの強度は望むべくもない。それは当然のことであった。
とはいえ。
この破片とても、そうそう都合よく帆に向かってくれるわけではない。四散した鉄片の大半は海面へと沈み、中には先に逃げていた島津兵を襲う形となったものまであった。
それでも、転覆した船の近くを航行していた南蛮船は、船体といわず、帆柱といわず、無数の破片を正面から受け止める形となり、航行不能に追い込まれる。
たった一隻であったが、島津軍の目論見は最低限は達されたといえるかもしれない。
この船に転覆した船を含めて二隻――それが島津軍の切り札の戦果であった。
残る南蛮船は十五隻。中には今の爆発で損傷を負った船もあるが、航行に支障が出るほどのものではない。
数字だけを見れば、まだ南蛮軍には余力が残っている。しかし、今の爆発は船よりも、むしろ将兵の心に多大な影響を与えていた。
先の大砲による奇襲や、焙烙玉の攻撃はまだ理解できる範疇の出来事だった。しかし、今の爆発とその損害に関してはまったく想像の外だったのである。
時間さえあれば、あるいは状況を理解し、立ち直ることが出来たかもしれない。しかし、島津軍はその時間を与えなかった。
半ば呆然として海面を見つめる南蛮兵の目に映ったのは、海上に黒々と浮かび上がる新たな黒船であった。
その数は七隻。
先の一隻が二隻の南蛮船を航行不能に追いやったと考えれば、新たに現れた七隻の船はガルシアの艦隊に致命傷を与えるに十分な数字である。
あの船を近づかせてはならない。
裏返る寸前まで高められた船長たちの口から、砲撃の指示が下された。
◆◆◆
時を少しだけ遡る。
島津軍の基本戦略は、薩摩、桜島間の海域に南蛮艦隊を押し込み、殲滅することである。
南からは島津水軍を統べる梅北国兼が襲い掛かる予定だったが、一方からの攻撃だけでは、たとえ国兼が南蛮軍を破ったとしても、南蛮軍はそのまま北側を抜けて戦域を脱出してしまい、敵の大半を取り逃がす結果に終わるだろう。
ゆえに島津軍は北側にも水軍を配置していた。
北と南から攻めかかり、逃げ場のない南蛮艦隊を殲滅して、はじめてこの戦に勝利したといえるのである。
無論、逆に敗れる可能性も少なくない。むしろ、その可能性の方が高いくらいだろう。両軍の戦力を見比べれば、そう考えざるを得ない。
少なくとも、この方面の水軍を率いる島津歳久はそのように考えていた。
歳久の前に広がる情景は、南側よりもさらに厳しい。
ニコライ率いる十八隻、ロレンソ率いる二十隻に加え、ドアルテ率いる本隊さえほど近い位置にいるのである。
救いがあるとすれば、ニコライ、ロレンソの艦隊の多くが上陸のために停泊していることであろうか。つけくわえれば、こちらの艦隊の多くは後背――すなわち海側からの奇襲に注意を払っておらず、火攻めを仕掛けるには適した条件が揃っていた。
問題となるのは、やはりドアルテ率いる本隊三十隻であった。
先鋒部隊とは異なり、あらゆる方面に注意を向けているのが見て取れるのだ。先鋒を援護するために湾内に展開しつつ、ぬかりなく奇襲にも備えている。
この時点で歳久は南蛮軍の陣容を知らないが、それでも最も注意すべき敵がこの敵であることは即座に読み取ることが出来た。
彼方から響く砲声が、歳久に戦の始まりを告げる。
「国兼が動きましたか。我が隊もまもなく出ますよ」
本来、攻撃は一斉に行われる方が望ましかったのだが、歳久は南蛮軍の布陣を見て考えを変えた。
常道であれば、停泊して身動きのとれない先鋒部隊に火力を集中させるべきなのだが、歳久がそれをすれば、たちまち後背を敵の本隊に衝かれて敗れてしまう。
かといって、敵の本隊に戦力を向ければ、現在は停泊している先鋒部隊の準備が整い、海戦に参加してくるだろう。数だけ見れば、先鋒の方がはるかに多いのだ。そうなればやはり敗戦は免れない。
つまり、今動けばどのみち敗北してしまうのである。
であれば――
「国兼が例の船を使えば、本隊の注意もそちらにそれるでしょう。勝機があるとしたら、そこしかありませんね」
歳久は例の船――火薬を満載した漆黒の船に目を向ける。
船体を黒く塗ったのも、船首に純白の旗を用意したのも、これすべて敵の目を惹くためのこけおどしに過ぎない。
だが、そこに積まれた火薬は本物であった。鉄砲隊を軍の主力とするべく努めてきた歳久が、それこそ精魂込めて蓄えてきたものである。これに、南蛮艦隊の襲来に備え始めた日から、島津家が金に糸目をつけずに買い求めてきた分も加わっている。
当然、そのための金は歳久や姉妹、家臣、領民らが長年苦心して貯めてきたものである。
いまや島津の府庫は空に近い。実のところ、日向方面に侵攻した二人の姉の軍には、鉄砲隊はほとんど含まれていない。本来はそちらにつぎ込まれるはずだった分までが、この海域に集められているのである。
そして。
そこまでしてなお、用意した黒船すべてを満たす量には到底たりなかった。真実、火薬を積みこめたのは二隻のみ。一隻は歳久の見つめる船であり、残る一隻は国兼の部隊に配されていた。
つまり、残りの黒船は敵の動揺を誘う囮に過ぎないのである。
歳久にしてみれば、このような物を切り札にする戦など愚の骨頂であった。
だが彼我の戦力差を鑑みれば、これが採りえる最良の手段であろうとも判断していた。
もう少し猶予があれば、と歳久は思う。南蛮艦隊が襲来するまでいま少し猶予があれば、こんな博打じみた戦に家運を――否、生国の未来を懸ける必要はなくなる。なくしてみせる。
しかし敵の動きは速やかであり、なおかつ腹立たしいことに、歳久はその動きさえ他者に指摘されなければ見つけることが出来なかった。
最悪の場合、何一つ準備のできていない状況で、眼前の強大な艦隊に急襲されていたかもしれないのである。そのことを思えば、歳久も身体の震えを打ち消すことが出来ない。
確実性に欠ける策であったとしても、一握りの勝機を得られるだけの準備を整えることが出来たことに感謝するべきなのだ。その選択肢をもたらしてくれた者たちに感謝するべきなのだ。
妹である家久が事あるごとに口にするその事実を、歳久ももちろん承知していた。実際、感謝もしているのだ――決して口にも表情にも出さないけれども。
『それじゃあ意味がないんじゃないかなー?』
困ったように首を傾げる家久の姿が自然と脳裏に思い浮かび、歳久は慌ててかぶりを振る。
礼云々は戦の後に考えればいい。今は勝つことに集中しなければ。
この時、歳久が動かせる戦力は国兼のそれとほぼ等しい。
もう島津家には予備戦力も、奥の手もない。正真正銘、歳久が最後の戦力である。
ひとたび動けば、あとは島津軍か南蛮軍、どちらかが倒れるまで戦い抜くしかなくなろう。
「――無論、勝つのは島津ですが」
甲冑の胸部に刻まれた『丸に十字』の家紋に手をあて、歳久は静かにそうつぶやく。その眼差しが、ここにはいない誰かを思うようにかすかに伏せられる。
彼方から響くは耳をつんざく炸裂音。国兼が切り札を出したのであろう。
それを聞くや、歳久は決然と顔を上げる。
右手が天を指すように高々と振り上げられ。
次の瞬間、勁烈な号令と共に、まっすぐに振り下ろされた。