第一次南蛮戦争――またの名を錦江湾の戦い。
島津軍と南蛮軍との決戦は、後にそう記されることになる。
しかし、前者はともかく後者の名称に関しては若干事実とは異なった。両軍の戦いは錦江湾――海だけでなく、内城やその城下をはじめとした陸地でも激しく行われたからである。
この決戦の火蓋が切られたのは、その陸においてであった。
刻は黎明。処は内城。東の空が明るみ、この日最初の陽光が錦江湾を照らした、まさにその瞬間、島津軍の銃火が城に立てこもる南蛮軍に向けて咆哮を発したのである。
これに対し、城内の南蛮軍も筒先を揃えた一斉射撃で反撃を行った。
陽光が闇夜を払い、銃声が静寂を破る。奔騰する戦意は喊声となって迸り、もう幾度目のことか、薩摩の大地は日本と南蛮、二つの国の人血を浴びることになったのである。
この時の両軍の配置を見れば、南蛮軍は陸戦兵力千三百をもって城に篭り、十八隻の艦隊を港近くに展開させ、砲門を城の方角へと向けていた。
指揮官であるニコライ・コエルホの作戦は、島津軍が城に攻め寄せるならば、城内から反撃を加えつつ、港からの艦砲射撃でその側面を襲う、というものであった。
逆に島津軍が艦隊の方に矛先を向けるのであれば、艦隊は沖合いに避難しつつこれに砲撃を加え、城内の兵は突出して島津軍の後背を衝いて海に叩き落とせば良い。
これは奇策でも何でもない。多少なりとも兵を率いた経験があれば、ニコライと同じ戦法を考え付くことは容易いだろう。
ましてこの時、島津軍を率いるのは島津家久である。ニコライの狙いを察しないはずがなかった。
家久は城内に立てこもる南蛮軍に対し、兵力を西門に集中させた。島津軍が西門に攻めかかれば、城自体が障害となって、東の湾内に展開している艦隊は援護射撃を行えない。城の上を通り越して正確に島津軍を狙う、などという曲芸じみた真似が不可能である以上、艦隊は遊兵とならざるを得ないのである。
だが、家久がニコライを読んだように、ニコライも家久を読んでいた。より正確に言えば、島津軍にこの戦法を採らせることこそニコライの目的だったのである。
攻め手が西門に集中するということは、守り手もそちらに兵力を集中できるということである。
島津軍の兵力は各地から駆けつけた援兵をあわせ、この時点で二千を越えており、南蛮軍を凌駕している。しかし、城という拠点を得ている以上、戦局は五分と五分――否、むしろ南蛮軍の方が有利といって差し支えあるまい。
まして西からしか攻めてこないとわかっているのだ。いかに島津軍が勇猛であっても、これを撃退することは不可能ではない。
しかもこの時、南蛮軍の目的は島津軍の撃退ではなく、ただの時間稼ぎであった。間もなく姿をあらわすであろう主力艦隊――ドアルテ・ペレイラ率いる精鋭が参戦するまで耐え抜けば、おのずと勝利は南蛮軍の手に転がり込んでくるのである。
ニコライが迫り来る敵軍の猛攻を前に、むしろ余裕さえもって対処することが出来たのはその事実ゆえであった。
時間稼ぎを目的としたニコライの作戦は、決して間違ってはいなかったろう。
だが、戦況はニコライの思い通りには進まなかった。ニコライ麾下の南蛮軍将兵の動きが、予想以上に重かったからである。
南蛮兵にしてみれば、今日までの連戦で犠牲と疲労は蓄積しており、しかも何の成果も出せていない。勝てるはずの敵に負け、負けるはずのない戦に勝てず、無様に城にこもって援軍を待つ。みずからを神の使徒と任じる彼らにとって、徒労感は耐え難いものがあった。
いかに指揮官であるニコライが必勝を説いたとしても、これまでの敗戦が彼らの記憶から消え去るわけではない。また負けるのではないか、との思いを、特に下級の兵士たちは禁じえなかった。
ニコライにとって、みずからの指揮に将兵が追随してこれないことは誤算であった。
確固たる勝算を示しさえすれば、敗戦で落ち込んだ兵の士気は回復すると踏んでいたニコライであったが、打ち続いた敗戦は予測以上に兵の心を蝕んでいたのである。敗戦を知らぬ将と兵は、それゆえに敗戦から立ち直る術を知らなかった。
それでも敵が攻めてくる以上は戦わざるを得ない。
降伏など論外であるし、仮に降伏したとしても、相手は神の存在を理解できぬ蛮族ども。まとめて首を切られて終わりだろう。
そう考えるゆえに、彼らは傷ついた手で武器をとり、重苦しい心を奮い起こして敵に立ち向かっていったのである。
しかし、やはりその足は重く、動きは鈍い。
ニコライがいかに戦況に即した指示を送っても、兵がそのとおりに動けなければ意味はない。むしろ、その動きによって味方同士の連携が崩れてしまう分、有害ですらあった。
上と下、南蛮軍の指揮官と兵士の不調和によって生じた混乱は、すなわち島津軍にとっては乗ずべき隙である。
戦闘開始からおよそ一刻後、家久率いる島津軍は西門を突破する。
これに対し、ニコライはなお本丸に立てこもって抗戦しようとしたが、島津軍にとっては勝手知ったる城の中である。その展開の速さはとうてい南蛮軍の及ぶところではなく、南蛮軍は城内の各処で分断されては各個撃破されていった。
湾内で砲門を城に向けていた艦隊の砲手は、東門から味方の将兵が溢れるように押し出される光景を見て、驚きのあまり声を失った。
戦況が芳しくないことは、城内から立ち上る火の手を見てわかっていたが、まさか隊列を組むこともできず、一方的に自軍が押されているとは予想だにしなかったのだ。
とはいえ、砲手たちが自失していたのは一時のこと。逃げ崩れる味方を援護しようと、彼らは飛びつくように砲に取り付いたのだが、すぐにその口からは焦慮と狼狽の声がこぼれでた。
彼らの視線の先では、島津軍が逃げ崩れる南蛮兵の後尾に食らい付き、両軍が入り乱れるように港になだれ込もうとしていた。
島津軍に砲撃を加えようとすれば、自軍にも被害が及ぶ可能性が高い。否、ほぼ確実に巻き込むだろう。
元々、大砲は精緻に狙いを定める類の火器ではない。入り乱れる敵味方の将兵を前に、巧妙に敵だけを狙い打つような技は、いかに訓練を受けた砲兵たちであっても持ち得ないものであった。
いまや島津軍の狙いは南蛮軍の目にも明らかであった。
混戦を維持したまま港に迫れば、海上からの攻撃をためらわせることが出来る。
艦隊が味方を収容しようとすれば、それに乗じて船に切り込む。彼らが味方を見捨てる決断をしたならば、そのまま南蛮兵を冬の海に叩き落とす。無論、叩き落とした後は、一転して敵軍の砲火に晒されることになるのだが、島津軍の将兵は城下の構造を知悉している。分散して撤退すれば、致命的な損害を被ることはないだろう。
この時、ニコライ・コエルホは南蛮軍の後尾にあって、島津軍の猛追を必死に防ぎとめている最中であり、各船の船長らは指揮官を置きざりにして撤退する決断を下すことが出来ずにいた。
ここにおいて、勝敗の秤は一方の側に大きく傾いたように思われた。
しかし。
次の瞬間、天地を震わせる砲撃音が鳴り響き、島津軍、南蛮軍が入り乱れて矛を交える戦場に鋼鉄の雨が降り注いだことで、戦況は再び混沌としはじめる。
無論、この砲撃は南蛮艦隊からのものであった。これにより島津軍の勢いは明らかに鈍り、各処で混乱が生じた。まさか味方もろとも撃ってくるとは、との驚きがあらわであった。
この時、南蛮軍が一斉に矛先を揃えて逆撃に転じれば、あるいは島津軍を撃ち破ることが出来たかもしれない。
しかし、突然の砲撃による動揺と混乱は、島津軍のみならず南蛮軍をも飲み込んでいた。あるいは混乱は南蛮軍の方がより深刻であったかもしれない。島津軍は敵の砲撃に晒されているのだが、南蛮軍は味方の砲弾が頭上から降り注ぐ戦況なのだ。その戦況で、なお平静を保てる兵士はほとんどいなかった。
味方の損害覚悟で島津軍を撃ち破る――否、むしろこの程度の敵に苦戦し、神の栄光を汚す惰弱な僚軍など、敵もろとも葬り去ってくれる。
そんな苛烈に過ぎる意思を感じ取り、指揮官であるニコライの背に氷片がすべりおちた。
同時に、ニコライはこの砲撃が自分の麾下の艦隊によるものではないことを瞬時に悟る。それはすなわちニコライが待ち望んでいた援軍の到着を意味するのだが、その到着は安堵ではなく戦慄をともなった。
この砲撃を実行した指揮官の為人を知るニコライは本気で思ったのだ。これ以上、この場でまごまごしていると、冗談でなく僚軍に粉砕されてしまいかねない、と。
幸い――というのも妙な話だが――島津軍は味方もろとも砲撃してきた南蛮軍のやり方に戸惑いを見せている。
……いや、それだけではないかもしれない。敵将兵の目には、いまや戸惑いを凌駕する驚愕と恐怖が浮かびあがりつつあった。
彼らの目にも、波を蹴立てて接近してくる新たな艦隊の姿が映し出されたのであろう。
その数が眼前の南蛮軍の何倍にも達する規模であることも理解できたはずだ。これまで必死に戦ってきた相手がただの先遣隊であるとわかれば、いかに勇猛な軍といえど動揺を禁じえまい。
今ならば、南蛮軍が背を向けて逃げ出しても彼らは追ってこれないだろう。
あるいは先の容赦ない砲撃は、この状況を生み出す目的もあったのだろうか。
ニコライはそんなことを考えつつ、うろたえ騒ぐ兵を叱咤して、港で待つ艦隊と合流すべく後退を開始したのである。
この時、海上に姿を見せたのはロレンソ・デ・アルメイダ率いる無傷の南蛮船二十隻であった。
その後方には元帥ドアルテ率いる三十隻、さらに後ろにはガルシア率いる二十隻が接近しており、これらすべての船の陸戦兵力を上陸させれば、一万を越える軍勢が出来上がる。
当初、ニコライが率いていた兵力の三倍以上。しかも、当然、この一万は未だ無傷にして無敗、士気軒昂たる南蛮軍の精鋭である。幾多の策を弄し、ようやく南蛮軍を追い詰めようとしていた島津軍にとって、あまりにも予想外の援軍であるはずだった。
もっとも、ロレンソは後続の到着を待っているような悠長なことはしなかった。陸の様子を見て、たちまち戦況を察するや、迷う素振りも見せずに砲撃を命じたのである。
半ば無理やり敵味方の陣列を引き裂いたロレンソは、そのまま麾下の艦隊を港に寄せると、自ら率先して異国の大地に降り立った。
上陸するや、わずかの遅滞もなく隊形を整え、兵を展開する手腕は水際だったもので、その一事だけでもロレンソの指揮官としての能力を知るには十分であったろう。
港に堅陣をつくりあげたロレンソは、ニコライ麾下の敗兵を吸収しつつ、島津軍の動向に目を向けた。
損害覚悟で押し寄せてくるようならば、テルシオによってはじき返す。鉄砲の運用に妙があるとニコライは報告してきたが、重装兵の展開が難しい山中であればともかく、港のような開けた場所で悠長に漸進射撃などさせるつもりはなかった。
距離を置いて対峙してくるようなら、遠慮なく海からの砲撃で壊滅させる。
かなわじと見て逃げ出すなら、やはりその背に向けて砲撃を放つ。
島津軍は逃げ出した。突撃しても、あるいは対峙しても勝てない相手なら逃げ出すしかない。その判断の早さは、ロレンソをして「ほう」と驚きの声を発させるほどであった。
しかし、逃げ出したところで戦況が好転するわけではない。急速に後退していく島津軍に向けて、ロレンソは全艦隊に砲撃を命じる。今回はニコライ麾下の艦隊が躊躇する理由もなく、僚軍に追随した。
圧倒的なまでの砲火を浴びながら、此方に背を向けて逃げ出す敵軍の姿を見て、ロレンソはどこか見る者の心を冷たくする微笑を口元に浮かべる。
この時点で、ロレンソは勝敗の天秤が完璧に自軍に傾いたことを確信していた。別に喜びはない。勝って当然の相手に勝っただけなのだから。ロレンソが冷笑を向けたのは、この程度の敵相手に慎重論を唱えた忌々しい僚将に対してであった。
その僚将――ガルシアは千里眼ではなかったから、ロレンソが此方に冷笑を向けていることを知るよしもない。仮に知ったとしても、肩をすくめるだけで済ませたと思われる。
この時、ガルシアが気にしていたのは、僚将の心の動きではなく、この海域の潮の方であったから。
◆◆◆
「どうみる?」
「厄介というほどではないけれど――という感じですね」
ガルシアの問いに、副長を務める人物はそう答えた。
「潮流の速さはたいした問題にはなりませんが、所々で面倒な動きを見せてますね。とくにあの島あたりでは」
そういって副長が指さしたのは、湾内に浮かぶ巨大な島であった。
とはいえ、と副長は船長そっくりの仕草で肩をすくめる。
「艦隊の動きを乱すほど厄介なものじゃありませんよ。コエルホ提督やアルメイダ提督の船が出来たんです。俺らに出来ないわけはありませんて」
ガルシアはそれを聞き、にやりと精悍な笑みを浮かべる。
「ほう、頼もしいな」
「どうせ隊長だってそう思ってるんでしょうが。ま、念には念を、と隊長が考えているのはわかってますがね。まったく、宣教師どもが海のことをもっと詳しく調べてくりゃ、こんな面倒なことはしないで済むってのに」
「えせ神父や熱血修道女がそんな細かいことに気を回すわけないだろうが。仮に回したところで、海を知らない連中の情報なぞあてにならんよ」
「確かに、それはその通りなんですがね」
ガルシアの言い回しに、副長は思わずという感じで笑みをもらした。
南蛮軍のすべてが聖戦に意義を感じているわけではない。ことにガルシアの船は、船長であるガルシア自身をはじめ傭兵からの叩き上げの兵が多く、宣教師たちが事あるごとに戦の火種を持ち込んでくることを苦々しく思っていたのである。
その時、ふとガルシアが何かに気づいたように口を開いた。
「それと『隊長』はいいかげんやめられないものか? もう俺もお前も傭兵じゃないんだぞ」
「おや、それでは『南蛮軍にその名も高き偉大なるノローニャ提督閣下』とお呼びすべきですか? 承知いたしました。この船に乗っている全員にただちに伝え――」
「ああ、わかったわかった。隊長でかまわん」
わざとらしく敬礼する部下に、ガルシアはうんざりしたように右手を左右に振る。
その姿を見て、副長が何事か口にしかけた時だった。
甲板にたたずむ二人の耳が、遠方で響く砲声をとらえた。先鋒のロレンソの部隊が接敵したのだろう。
「始まったようですね。この国にとっては終わりの始まり、というやつですか」
「さて、そうなれば俺たちにとってはめでたしめでたしなんだが……」
めずらしく洒落た言い回しが成功して、どこか得意げな様子の副長に対し、ガルシアは苦笑まじりに応じる。
その様子を見て、副長は小さく首を傾げた。
「そううまくはいかないとお考えで?」
「ああ。だが、今回の相手はどうもよくわからんからな。ただの考えすぎかもしれんが……ま、もうじき答えは出る」
そう言ったガルシアは砲声轟く前方ではなく、穏やかな海面が広がる後方を見据えた。まるで、そちらから何者かが襲来してくるのを待っているかのように。
ガルシアは思う。
もしも、島津とやらが今回の南蛮艦隊襲来を予見していたのだとしたら。
(俺が連中なら、ここで叩く)
今、ガルシアら南蛮艦隊は、薩摩本土と湾内に浮かぶ桜島に挟まれた海域に侵入している。
地理的に見て、敵の本拠地である内城を制圧するためには、ここに侵入するのがもっとも効率的であり、現にニコライもそのようにした。
相手から見れば、南蛮艦隊がこの海域に攻め寄せてくることが高い確度で予測できるのである。仕掛ける場所としては絶好の位置だろう。
それと承知してなお、ガルシアやドアルテらが艦隊を進めた理由は、大別して二つ。
一つは、敵に南蛮艦隊とまともに戦える海戦能力がないと推定されるからである。つまりは、そもそもこの海域での奇襲はほぼ確実にない、と南蛮軍首脳は考えていたのである。実際のところ、ガルシアもこの考えに与していた。
ガルシアの考えは一見して矛盾しているように見えるが、実際はそうではない。
来るならばここだろう。そう考えてはいても、必ず来る、と考えているわけではない。いってみれば、万一に備えて警戒しているだけのことだった。
無論、そう考えるにいたった理由は存在する。
敵に備えがあるならば、ニコライが攻め寄せてきた時に動かなかった理由が説明できないのだ。
島津軍は南蛮軍の戦力を知らない。彼らにとっては、ニコライ麾下の戦力でも十分すぎるほどに脅威だったはずであり、湾内に侵入してきたニコライの艦隊を見た瞬間「少なすぎる」と判断して、後続の本隊に備えて静観を保つ、などという決断ができるはずはないのである。
副長は目を瞬かせた。
「そうお考えなら、あるはずのない奇襲なんて別に気にする必要はないでしょうに」
「まあ、な。だが、こういう考えも出来る。つまり坊やの艦隊を見た敵はこう判断するわけだ。『これが敵の全力なら、陸にひきずりこめば勝てる』とな。船の大きさを見れば、乗ってる兵力も大体推測できるだろう。連中にとったら、俺たちの総兵力はわからない。目の前にいるのがすべてかもしれないし、後続に主力部隊が控えているかもしれない。もし、陸に引き込んでも勝てないような相手だったら動かざるを得なかっただろうが、そうじゃなかった」
だから、あえて海では戦いを挑まなかった。
陸に引きずり込めば勝てるなら、そうすれば良い。あせって虎の子の海戦兵力を投入して、たとえ眼前の艦隊を撃ち破ったとしても、その後ろから主力部隊が攻め込んでくれば、もう成す術がなくなってしまう。
「万一、陸で手間取るようなら、坊やが上陸した後にその後背から襲い掛かることも出来るしな。どうだ、この考えは?」
「どうだも何も、明らかに考えすぎでしょ。敵さんを過大評価しすぎですよ。ま、戦ったことのない相手を過小評価するよりゃましでしょうけど、正直、どっちもどっちですわ」
「……だよなあ」
副長のあきれかえった視線と指摘を受け、ガルシアは乱暴に頭をかいた。
ガルシア自身、考えすぎだとは思うのだ。だが、己の中の何かが囁きかけてくるのである。油断するな、と。
そんな上官の様子を間近で眺めながら、副長はやや表情を改めた。
智将として知られるガルシアではあるが、実のところ戦場における勘の良さにもぬきんでたものを持っている。
理詰めで戦いながら、いざという時は理を越えたところで勝機を掴む。血統や財産と縁のない傭兵上がりが、この若さで一軍を率いることができる立場まで成り上がれたのは、ひとえに武人としては特異なその在りように求められた。
誰よりもそのことを良く知る副長は、ガルシアの煩悶を等閑にはしなかった。
「ですが、気になるなら備えておいた方が良いのでは、隊長。それこそ万が一ということもないわけではないでしょう」
その副長の問いに対し、ガルシアはかぶりを振った。
それはガルシアが罠の存在を疑いながらも、平然と艦隊を進めた二つ目の理由と重なる。
南蛮艦隊が侵入した薩摩と桜島に挟まれた海域は、決して狭隘な海峡ではない。ガルシアやドアルテが麾下の艦隊を横一列に並べても、余裕をもって通過することが出来るだけの幅があり、軍艦が通過するための十分な水深もある。潮流も案じていたほど複雑なものではなかった。
つまり、南蛮艦隊にとって、たとえ敵の奇襲を受けても十分に対処できる戦場なのである。
無論、油断はできぬ。
敵の奇襲に対処できるとはいえ、やはりさえぎるものとてない大海原とは違い、艦隊行動の自由度は大きく損なわれるし、未知の潮、風の動きは時に熟練の南蛮水兵をして戸惑いを覚えさせるものであった。
だが、いってしまえばそれだけのこと。あるかどうかもわからない敵の罠に怯え、他方から上陸するなど論外だし、なにより敵に戦力が残っているのなら、今のうちに叩き潰しておくべきであった。
伏兵はおそらくない。だが、もしあった場合、ここで下手に警戒してしまえば、その戦力が温存され、後々厄介事の種になるかもしれない。
であれば、あえて傲然と進み、敵を暗がりから引きずり出してやれば良い。それが南蛮軍の結論だったのである。
その説明を聞き、なんとまあ、と副長は小さくため息を吐いた。
提督ともなれば、気楽な傭兵時代のようにはいかないことはとうに承知していたが、艦隊一つ進めるだけでも、ここまであれこれと考えねばならないのか。
やはり自分はいいとこ副長どまりの人間なのだな、とひとり内心で頷いていた副長の目が、視界の端に奇妙な黒点を捉えた。
それは南の方角――すなわち南蛮艦隊が進んできた方角からあらわれた。
穏やかな海面を黒々とした物体が埋めていく様は、晴れ渡った夏の空を黒雲が覆っていく様に似ていたかもしれぬ。黒く蠢く地上の雲が、一直線に此方へ向かって突っ込んでくる敵の船であることは明らかであった。
おそらく、何処かの海岸に伏せていた船が、南蛮艦隊の通過を確認して動き出したのだろう。
この時、副長の顔に浮かんだ表情は、苦笑ではなかったが、限りなくそれに近いものだった。
そこにはガルシアの勘の良さに対するあきれ混じりの感嘆があり、南蛮船に比して粗末きわまりない敵船に対する憫笑があった。おそらく軍船だけでは足りず、漁船から何からかき集めてきたのだろう。数だけはたいしたものだが、副長はその軍容に対して一片の脅威も感じなかった。
「……隊長、相変わらず見事な勘ですが、敵があれでは取り越し苦労でしたね」
副長の軽口に、しかし、ガルシアは応じようとしなかった。
敵軍を見つめる眼差しには、長年、その下で働く副長さえ滅多に見たことがない真剣な光が浮かんでいた。