山城国二条御所
その日、足利幕府第十三代将軍 足利義輝は一人の臣下を引見していた。
名を和田惟政といい、細川藤孝、幽斎の姉妹に並ぶ義輝の直臣の一人である。征夷大将軍の御前で、小柄な身体を精一杯縮めてかしこまる惟政の姿は、いまだ髪結いの儀を済ませていない女童のようにも見えた。しかし、実際はとうに成人の儀を終えており、義輝の直命を仰ぐようになって二年近くが経過している。
「遠国での任、まことに大儀であったの、惟政」
「あ、ありがたき御言葉でございます、殿下。報告が予定より遅れましたこと、まことに申し訳のしようも……」
「ああ、よいよい。中国はおろか九国まで行っていたのだ。そうそう予定どおりにはいかぬであろうよ」
惟政の深謝に対し、義輝はあっさりとかぶりを振ってみせる。
だが、主君が気にせぬと言明しても、惟政は内心の忸怩たる思いを拭えずにいるようであった。
「し、しかし、お姉様がたであれば、このような不手際は……」
「なに、藤孝にせよ幽斎にせよ、お主くらいの年の頃は派手な失敗をしていたものよ。しくじったと思うたなら、繰り返さぬように努めよ。唐では過ちを改めぬことを過ちというそうじゃが、つまりそれは、過ちを犯しても改めれば過ちではない、ということであろう」
「……? そ、それはちょっと違うような気が……?」
惟政が思わず首を傾げると、首のあたりで綺麗に切りそろえられた黒髪がさらりと揺れる。そんな惟政の姿を見て、義輝はからからと大笑した。
「細かいことを気にするでないわ。それよりも、はよう報告を聞かせてくれ」
「は、はい、承知いたしました。それでは、毛利の動向ですが、先日、書状でもお知らせしましたとおり、殿下の御意向に従うつもりはまったくないようで――」
……惟政の報告を聞き終えた義輝は、やや不機嫌そうに手に持っていた扇で、トン、と床を突く。
「やはり、毛利はあくまで大友を討つ心算、ということか」
「御意。秋月家の援護という形をとっておりますが、此度の筑前侵攻が毛利の策謀によるものであったこと、疑いございません」
「ふむ。まあわらわが遣わした上使を真っ向から退けた以上、今さら翻意するはずもなかろうが……」
義輝は厳しい表情を浮かべつつ、しずかに目を閉ざす。
日の本の各地で闘争を続ける戦国大名たち。彼らの力はいまや名目上の主筋である足利家を大きく凌駕していた。
かつては日の本全土を統べた足利幕府も、今では膝元である山城一国の支配さえ危うい有様である。義輝は剣聖将軍と謳われるほどの卓越した剣の力量を有していたが、個の力で戦に勝つことなぞできるはずもない。将軍家を圧迫する三好家をはじめとした周辺諸国を、武力をもって斬り従え、将軍家の栄光を取り戻すなど夢のまた夢であった。
それゆえ、将軍家の復興を志す義輝は異なる方法を採らなければならない。その一つが紛争を繰り返す諸国の大名たちを調停することであった。
これは大名たちの争いを静めてみせることで、将軍家の威光がいまだ健在であることを天下の人々に知らしめると同時に、調停に尽力した双方の家から謝礼の品や金銭をせびり――もとい、受け取ることもできるという非常に有用な方策であった。領地からの収入がろくに得られない現在の状況にあって、諸大名からの進物は足利将軍家の貴重な財源となっているのである。
さらに、義輝にとって諸国の有力大名との繋がりを深めることには別の意味合いもある。すなわち将軍家に手を出せば、それら大名たちが敵にまわるという状況をつくりあげておけば、不遜な野心を抱く者を掣肘することが出来るのである。
毛利家が見抜いていたように、北九州を巡る毛利、大友両家の争いに義輝が介入したのは、大友家からの要請を受けてのものであった。しかし、仮に大友家が何も言ってこなかったとしても義輝は動いたであろう。
ともあれ、門司城の返還を条件として伝えた以上、毛利があっさりと肯うとは義輝も考えていなかった。しかし、さすがに正面から拒絶してくるとは予想の外にあった。
当然、これを座視できるはずがない。毎年のように多額の献金と進物を欠かさない大友家は、将軍家にとってなくてはならない大切な家である。その苦境を傍観しているわけにはいかなかった。
だがその一方で。
毛利家の申し条に理がないわけではない、とも義輝は考えていたのである。
近年、大友家に関する情報の中には、義輝が眉をひそめる類のものが少なからず含まれている。そして、その多くが南蛮神教に関わる事柄であった。
上使に対して毛利隆元が述べ立てた言葉は的確にそこを衝いており、無礼の一言で斬り捨てることを許さないだけの説得力を有していたのである。
南蛮神教に関しては京の都でも意見が分かれている。その教えの急速な広がりに危惧の念を抱いている者たちは幕臣や朝廷の中にも少なくない。
義輝自身は、各々がその責務を果たしているのであれば、誰が何を信仰しようと気にかけたりはしない。義輝の眼前にいる和田惟政にしてからが、熱心な南蛮神教の信者なのである。
だが、誰もが義輝のように考えているわけではないことも承知しており、そういった諸々の情勢を鑑みた末に、側近の一人である惟政を西へと遣わした。毛利家の真意、大友家の現状を確かめるために。忍びの技術を持ち、南蛮神教に通じている惟政は格好の人材だったのである。
まさか豊前の乱が終わって二月と経たぬうちに、筑前における争乱が始まろうとは、さすがの義輝も予想だにしていなかったが、結果として惟政は毛利、大友両軍の動きを克明に観察することが出来た。
義輝は、惟政の報告を頭の中で整理しつつ、ゆっくりと目を開く。
「……此度の筑前での戦、結果だけを見れば、大友軍の勝ち戦であるが、それにしてはちと妙だとわらわは思う。惟政、そちはどうだ?」
「は、仰るとおりかと存じます」
義輝の疑念を、惟政は首肯する。
義輝は惟政の同意を得て、自身の考えをまとめるように、ゆっくりと言葉を紡いでいった。
「立花鑑載、高橋鑑種といえば筑前の雄、大友家にあっては重鎮として隠れなき者どもである。これがそろって裏切るなど尋常なことではない。筑前の大友軍は、苦戦はおろか、全軍潰走にいたってもおかしくはなかったであろう」
今でこそ将軍として二条御所に落ち着いている義輝であるが、以前は三好、六角、細川といった大名たちとの間で和戦を繰り返し、矢石の中で兵を指揮したことも一度や二度ではない。戦の最中に、先刻まで味方であった国人衆から後背を衝かれたこともあった。
その経験から推し量れば、今回の筑前争乱の結果は義輝の目には奇妙なものに映るのだ。
「にも関わらず、戸次道雪らはまことに見事な機転を見せて対処しておる。あたかも、あらかじめ両名の離反を見抜いていたかのように、な」
「御意にございます。毛利の調略を、大友の策謀が上回っていた、ということではないかと愚考いたしますが」
「まあ、そういうことになるのかのう……? しかし、毛利の調略を見抜いていたのであれば、それに先んじて手を打つこともできたと思うのだが。謀叛を思いとどまらせるなり、いっそ府内に呼び寄せて蟄居させてしまってもよかろう。あえて謀叛に踏み切らせる理由でもあったのか?」
惟政の眼前で、むむむ、と頭をひねる義輝。しかし、解答は杳として出てこない様子である。
それゆえ、惟政は僭越かと思いつつも口を開くことにした。
「恐れながら申し上げます」
「うむ?」
普段は控えめすぎるほどに控えめな惟政が、自分から口を開いたことに義輝はわずかに驚きを示す。
「愚見でございますが、大友フランシス宗麟殿、手を打たなかったというより、打てなかったのではないか、と思われます。毛利元就殿であれば、謀叛を使嗾したとて証拠になるような物を残すはずがありません。先の豊前の叛乱から幾ばくも経っておらず、大友家臣の動揺は明らか。そこに証拠もなく、ただ謀叛の気配ありとて『西の大友』とも称される大身の家臣を捕らえるような真似をすれば、他の家臣の動揺は、たちまち反感へと変じましょう」
「なるほどのう、それゆえ戦場において備えることは出来ても、先んじて未然に手を打つことはできなかった、というわけか」
「はい。そこまで考えた上で立花、高橋らを選んだのだとすれば――いえ、おそらくはそのとおりなのでしょう。やはり恐るべきは毛利元就殿であるかと」
惟政の言葉に、義輝は、ふむ、と頷いた。
それを見て、わずかに安堵を見せる惟政。すると義輝はその惟政の反応を見計らったかのように、不意ににやりと笑ってみせた。
「――と、申すように義秋に言われたか?」
「うえッ?!」
思わぬ主君の問いかけに、惟政の口から奇声がこぼれる。慌てて口を押さえたものの、義輝の表情を見れば、今さら言い繕っても無駄であることは明らかであった。
悄然と俯きながら、惟政はおそるおそる口を開く。
「……うう、お見通しでいらっしゃいましたか」
「万事控えめなそちが、こうも滔々と、自信満々で語るのはめずらしいゆえな。何者からか、知恵を拝借してきたのではないか、と考えるのは当然であろう」
かっかっか、と笑う将軍の御前にあって、惟政は、あうう、とひたすら身を縮めるしかなかった。
惟政は情報を集めることに長けているが、分析に関しては並の域を出ない。筑前の争乱に関して、奇妙に思う点は多々あったが、それが何に由来するかまでは洞察できなかった。
惟政がただの忍であれば情報だけ届ければ良い。しかし、惟政は幕臣の一人である。報告をした後、義輝から諮問があることは間違いない。義輝を失望させたくない惟政としては、自身の疑問の答えを何としても得なければならなかった。
敬愛する細川姉妹がいてくれればと思ったが、二人は今、別命を帯びて堺と近江に行っている最中である。幕臣の中に智者がいないわけではなかったが、三好、松永、六角といった諸大名の息がかかっているかもしれないと思えば、安易に情報をもらすわけにもいかない。
困じ果てた挙句、惟政が考え付いたのは足利義秋――大和興福寺に籍を置く女僧、覚慶を頼ることであった。
義輝はみずからにはない謀画の才を持つ義秋を信用しており、様々な相談事を持ちかけている。惟政はその繋ぎを任の一つとしていた。
当然、覚慶との間に面識はある。くわえて、これは惟政の自惚れかもしれないが、覚慶に目をかけてもらっているとも感じていた。その証拠に、今回の任に関しても、今代の南蛮神教布教長への書状を認めてもらったりと様々に便宜をはかってもらっていたのである。
覚慶の口からそのことを聞いたときは惟政も驚いた。興福寺に籍を置く覚慶が、南蛮神教と関わりを持っているとは思いもよらないことだった。
だが、聞けば先代の布教長が南蛮神教布教の許可を得るために京を訪れた折、覚慶は興福寺の代表として布教長と語り合う機会があったのだという。異なる教えを信じる者同士、反発を覚えても不思議ではなかったが、両者は互いに相手の見識に感銘を受け、それ以来、幾度か手紙のやりとりをしていたとのことだった。
「まあ、あやつのことだから、ただそれだけでもあるまいがの」
そう言って笑う義輝は、当然そのことを知っていた。知っていて、自由にさせているところを見ても、妹に対する義輝の信頼の厚さが見て取れる。惟政にしても、妹に対するこの義輝の信頼を、事あるごとに目の当たりにしていなければ、義輝への報告に先んじて覚慶に会うような真似は慎んだであろう。
ともあれ、覚慶からの助言は惟政はもちろん、義輝をも納得させるものであった。
覚慶のいうとおり、毛利元就の謀略の冴えは警戒してしかるべきである。彼の家が将軍の上使を退けた上は相応の対策を練っていることだろう。
同時に、その毛利の謀略と攻勢を凌いでのけた大友家も、やはり大したものと言わねばならない。
惟政の報告によれば、当主である宗麟は南蛮神教に傾倒すること甚だしく、それが家臣たちの不満と不審を煽り、うちつづく謀叛の一因となっているとのことだが、それでも毛利を退けることが出来るあたりに大友家の底力がうかがえた。
南蛮神教のことも含め、当分の間、西の情勢から目を離せぬ。幕臣の中から人を選んで――いや、いっそ惟政を西国の情報収集の専任に充てようか、などと義輝が考えた時だった。
惟政が懐から一通の書状を取り出してみせた。それは覚慶から義輝にあてたものだった。
書状を差し出しながら、惟政はそれを預かった時のことを思い起こす。
覚慶からの書状を差し出せば、義輝に報告する前に覚慶に会ったことを見抜かれてしまう。それを心配する惟政に、覚慶は口元に薄い笑みを浮かべてあっさりと言ったものだった。
『案ずることはない。あの姉君なら、そちの報告を聞くなりすぐに見抜くであろうよ』
それを聞いた惟政は、それならはじめから覚慶の意見として具申すべきだ、と考えたのだが、それは覚慶に止められた。
覚慶は手元の黒い筒に視線を向ける。それはカブラエルという名の布教長から覚慶にあてられた返書であった。
『今の助言は、これを届けてくれた礼でもある。とりあえずそちの意見として具申してみよ。通れば幸い、通らずとも姉君は笑うてお許しくださるわ』
そう言ってくすりと微笑む姿は正しく嫣然という言葉そのもの、僧形にも関わらず奇妙に艶やかであり、惟政の目には姉たる将軍よりもはるかに大人びて映っていた……
◆◆◆
河内国 飯盛山城
その家は日の本でも屈指の大勢力を誇っていた。
畿内にあっては摂津、河内、和泉の三国に加え、大和の北半分、山城の一部、丹波の一部を支配下に置き、海を挟んだ四国の阿波、讃岐、そして淡路島をも領有する。
その広大な領土に支えられた豊富な財力と強大な武力は、事実上、この国における最大勢力といっても過言ではないだろう。その証拠に、近江、紀伊、土佐をはじめとした周辺諸国はもとより、武家の棟梁たる足利将軍家さえ、その意向をおろそかにすることは出来なかった。
――阿波の守護代より始まり、戦国の動乱を駆け抜け、幾多の戦いを勝ち抜いて現在の栄華を掴み取ったその家の名を、三好家、といった。
飯盛山城は三好家が阿波より移した本拠地である。それは同時に、三好家の天下経略の策源地であることをも意味する。
今、飯盛山城の一室に集っている者たちは、まさにその中枢に位置する者たちであった。
上座に座るのは三好家の現当主である三好長慶(みよし ちょうけい)である。
足利将軍家さえその顔色をうかがう大家の当主は、直ぐな黒髪が印象的な女性であった。
ただ、逆に言えば黒髪以外にあまり印象に残るものがない顔立ちであるともいえた。整った目鼻立ちは十分に美しいといえるのだが、化粧らしい化粧をしておらず、身にまとう衣装も華美や瀟洒という言葉とは縁遠いものである。
三好家の当主であれば、それこそ全身に金銀珠玉をちりばめることも可能なのだが、長慶はそういった装いを好まない――というよりも興味を持たなかった。今も半ば俯くように目を閉じ、配下の報告に聞き入るのみであり、そこに見る者の目を惹くような華は感じられない。本人の穏やかで物静かな気性も手伝い、長慶と対面したとしても、鮮烈な印象を受ける者はまずいないといってよいだろう。
華美、瀟洒、あるいは鮮烈という言葉を用いるのであれば、今、その長慶の前で報告を行っている松永久秀の方がよほど相応しいに違いない。
語る言葉の一つ一つに、あるいは何気ない仕草の端々に、滴り落ちるほどの色香を漂わせながら、しかしそれらは決してその人物の気品を損なうことがない。それは当代一とも噂される久秀の教養と儀礼があって、はじめてなしえる業であるのだろう。
教養や儀礼に関する造詣の深さでは長慶とて決して久秀に劣るものではない。しかし、両者を見比べれば、少なくとも外見の秀麗さに関しては久秀に軍配があがるに違いなかった。
部下が当主を凌ぐのは僭越であるとはいえ、事が容貌や技能に関わるのであればいたしかたない面もある。まして女性が己を飾り立てるのは、男性が武具や茶器を磨き上げるようなもの、咎めだてするなど無粋も極まるというものだろう。
しかし。
久秀本人がそのことを自覚し、のみならずその事実を利用して三好家の中で権力を増大させているのであれば、それは僭越を越えて不遜というべきである――この場に集った者たちの中には、そう考える者もいた。
そして、久秀が報告を終えるや口を開いたのは、その筆頭たる人物であった。
「――越後上杉家に管領職を与える、とはまた奇妙なこと。管領殿(細川氏綱)は淀城に健在ではないか。その情報はまことなのか、久秀?」
重々しい声と特徴的な髪型の主は十河一存(そごう かずまさ)という。
三好長慶の弟であるが、幾筋も戦傷がはしる剛強な面構えは、どう見ても一存の方が年嵩に見えた。精強を謳われる四国の讃岐衆を率い『鬼十河』の異名を冠する三好家随一の猛将である。『十河額』とも称されるその髪型を真似する者が三好家中に絶えないのは、一存の武勇にあやかるためであると同時に、それだけ一存が将兵の信望を集めていることの証左でもあった。
三好家中にあって、近年とみに影響力を強めている松永久秀。一存は味方であるはずの眼前の少女に対して、警戒心を消すことが出来ずにいた。
とはいえ、久秀の言動にすべて噛み付くほど一存の視野は狭くない。その言に理があるならば、いくらでも耳を傾けたであろう。
しかし、今回の報告に関しては一存は疑義を挟まずにはいられなかった。
その一存の疑問を受け、久秀は微笑みながら頷く。
「ええ、十河様の仰るとおり、管領様は淀城にて健在です。ゆえに上杉に与えるは管領相当の待遇であるとか。仄聞したところ、将軍家は上杉に対し、文の裏書、塗輿、菊桐の紋章、朱柄の傘、屋形号の使用を許すつもりであるらしゅうございます。上杉家当主謙信は先の上洛の後、越後守護として白傘袋、毛氈の鞍覆の使用を許されていますので、これで七つもの免許を得ることになりますわね」
その久秀の言葉に周囲から驚きの声があがる。
久秀は「仄聞」などと言ったが、それを文字通りの意味でとる者はこの場にいない。将軍の身辺に潜ませた諜者からの情報であろう。久秀の情報の精度は余人の追随を許さず、限りなく事実に近い。それはこれまでの実績からも明らかであった。
ここで別の人物が新たに口を開いた。
「……それが真であれば、確かに管領職に任じたも同じことですね。しかし、何故に殿下は急にそのようなことを仰られたのか?」
呟くように口を開いたのは安宅冬康(あたぎ ふゆやす)といい、一存と同じく三好長慶の弟である。一存が讃岐の十河家の家督を継いだように、冬康は淡路の領主である安宅家の家督を継いだ。
武勇や政略は姉兄に及ばず、線の細い外見は繊細さすら感じさせる。だが、冬康は繊細ではあっても決して柔弱ではなかった。その誠実にして実直な為人は他家にも高く評価されており、将兵の信望も厚い。
戦にあっては沈着で粘り強い指揮をとり、兄である一存のような派手な戦功こそないものの、堅実な戦ぶりでこれまで幾度も三好家の勝利に貢献してきた。また、そうでなくては冬康のような若年の棟梁が、荒くれ者の集団である安宅の水軍衆を束ねることなど出来るはずもなかった。
その冬康の問いに、久秀はよどみなく応じる。
「表向きは先の上洛、さらにその後の東国平定の功績によって、というところでしょうか。越後の存在が現在の東国の平穏に一役も二役も買っていることは確かでございますから。しかし、まことの目的は越後に逃げたままの関東管領の存在かと」
久秀の言葉に、冬康と一存は知らず視線を合わせていた。
◆◆
関東管領上杉憲政が北条家に逐われ、越後へ逃げ込んで数年が経つ。
居城である平井城はとうの昔に関東管領家に復していたが、当主である憲政はよほどに越後の風物が気に入ったのか、上野に帰国しようとせず、越後で建築や造園、あるいは歌舞音曲に勤しんでいるという噂であった。
上野の統治は重臣である長野業正によってつつがなく行われているものの、関東管領が越後にいるという事実は、関東の情勢にねじれをもたらすに十分な要素である。
ことに関東経略に主眼を置く北条家にとって、関東管領が越後に滞在している事実は到底黙視できるものではなかった。
北条家が関東支配のために各地に兵を出せば、攻められた相手は他の関東国人衆に助けを求める。当然、関東管領を庇護する上杉家にも使者はおとずれる。
越後上杉家の当主である謙信は、他者に助けを求められれば否とはいえない為人であるが、こと関東の情勢に関しては、憲政の意思に拠らずして介入することは極力避けていた。
これは関東管領の庇護という大義名分を濫用せぬように、という謙信の自制の結果であったが、とある人物が遺した『関東に一歩踏み込めば、京より一歩遠ざかることをくれぐれもお忘れなきように』という進言に拠るところも大きかった――無論、それを知る者はごく限られていたが。
とはいえ、その進言は関東に兵を出すことを否定するものではない。上杉憲政が関東管領として北条家と決戦するつもりであれば、謙信はこれに合力し、北条家と決戦することにためらわなかったであろう。
しかし、憲政にそれだけの覇気はなく、関東からの救援を求める使者は厄介事として春日山城にまわされ、謙信以下越後諸将の困惑の種になっていた。
弱小大名同士の争いであれば、あえて兵を出さずとも、越後守護の威をもって承伏せしめることも出来たであろうが、北条家は内治、外征、いずれの面をとってみても越後と同等以上の強大国である。示威だけで矛をおさめるはずもなかった。
一方、北条家としても困惑の度合いは越後上杉家とさほどかわりはない。
北条家は関東管領家――というよりも上杉憲政に対して尽きぬ恨みがある。憲政は関東一の美姫と名高い氏康に執心し、古くは関東管領の威をふりかざして相模に乱入してきたこともある。
この時は氏康みずからが最前線で槍をふるい、敵の大軍を撃退せしめたのだが(憲政軍の放火により、収穫前だった小田原城下の沃野がことごとく灰燼と化したことに氏康が激怒した)、その被害は無視できるものではなかった。
それ以後も事あるごとに北条家に圧迫を加え、氏康を手中にせんとしてきたのが上杉憲政という男である。北条家は、上は当主から、下は農民に至るまで、これを討つことに何のためらいもなかった。今は越後でのほほんと過ごしているとしても、いつ気が変わって再び北条家に敵対してくるか知れたものではないのである。
その一方で、北条家は越後に対してはそこまで深い恨みがあるわけではなかった。
無論、これまで憲政に与してきた上杉家に好意など持ちようもない。上野では実際に矛を交え、互いに少なからぬ被害を出している。
しかし、それは戦国の世であればめずらしくもないこと、越後が憲政に与することを止め、関東から手を引けば、あえてこれ以上矛を交える理由はない。
それどころか、出来れば越後とは戦いたくない、というのが北条家の主だった者たちの偽らざる心境であった。
越後の軍神と真っ向からぶつかれば、その被害が甚大なものとなることは誰の目にも明らかである。越後が関東支配を望んで兵を出す、というのであれば、無論これと戦うことに否やはない。しかし、上杉謙信の目的が上杉憲政の援護にあることは周知の事実。憲政を討つために、越後の精鋭とぶつかるなど一利を得るために百害を受けるようなものである。
くわえて、甲斐の武田家の動向も気にかかる。
今川、武田、北条の間に結ばれた先の三国同盟は、今川家の滅亡によって事実上崩壊した。武田と北条の間の盟約が正式に破約になったわけではないのだが、東西に二分された駿河の支配権を巡って、両家は緊張が絶えない関係にある。破約は時間の問題であった。
それに比べると、越後と甲斐の盟約は動乱後に結ばれただけあって、より強固であるといえる。北条が関東で上杉と戦っている間に、武田が駿河に兵をいれる可能性は少なくない。あるいは、直接に本国である相模を衝いてくるかもしれない。
北条家は関東随一ともいえる富強を誇るが、越後の竜と甲斐の虎を同時に相手取ればどうなるか。結果は火を見るより明らかであった。
つまるところ。
関東情勢の焦点は、上杉憲政が何を望むか。その一点にかかっていたのである。
あくまで関東管領として戦うのか。越後で一人の風流人として生きるのか。
憲政に個としての力はない。あるのはあくまで関東管領という名のみである。これを手放せば、北条家の敵意も緩むであろう。
ただ関東管領は幕府の顕職であって容易に代われるものではなく、なにより憲政にはその座を離れるつもりが全くなかった。
かといって、関東管領の職分を果たす意思は薄い。越後の重臣である直江兼続などは、憲政に物申したいことが山脈一つ分ほども溜まっているのだが、主君である謙信をおしのけて、その配下が苦言を申し立てるわけにもいかなかったのである。
無論、謙信とて盲目的に憲政に従ってきたわけではない。これまでも事あるごとに憲政に決断を願ってきた。
しかし憲政は、謙信が口を開けば迷う素振りを見せるものの、やはり地位に執着を見せた。あるいは憲政としては、歴史ある関東管領の家を自分の代で途切れさせることに忍びず、我が子が元服するまでは、と考えているのかもしれない。
しかし、現在の関東情勢を鑑みれば、憲政の悠長な考えを容れることは難しい。謙信はそれをも説いたのだが、謙信の性格上、どうしても目上の憲政に対して口にできることには限りがあった。
結果、憲政は関東管領職にありつづけ、関東の情勢は発火にはいたらぬまでも、火種は各地でくすぶり続けているのである……
◆◆
「……つまりは謙信に対して、関東管領を掣肘し得る権限を与え、関東の情勢を鎮めること。それが公方様の狙いなのでしょう。関東が乱れれば、事あったときに越後や甲斐を動かしにくいですから」
そう言って、久秀は意味ありげにくすりと微笑む。
その言葉が先の両家の上洛を意味していることは、三好家の者にとってはあからさまなくらいに明らかなことであった。
同席していた三好政康ら三人衆などからは「我ら三好家を差し置いて」という怒りの声も聞こえたが、長慶、一存、冬康らは騒ぎ立てることなく、何事か考えにしずんでいた。
そんな三好一族を等分に見やりながら、久秀は核心となる報告を口にする。
「長慶様、公方様はこの件にことよせて、今一度、謙信を京に招きよせる心算らしゅうございます。すでに使者は京を発った頃でございましょう。あの律義者が公方様の意向を無視するとは思えませぬゆえ、上杉軍は間違いなく上洛して参りましょう。その対応を定めるべく、此度、皆様をお呼びたてした次第なのです」
その久秀の言葉に、一存がぎろりと鋭い視線を久秀に向けた。
「……久秀、使者が出るとわかって、それをそのままにしたのか?」
捕らえるなり始末するなり出来たのではないか、と一存が詰問する。
それに対し、久秀は小さく小首を傾げてみせた。
「長慶様の指図を仰ぐことなく、将軍家の御使者に手を出すような真似が出来るはずがありませんわ、十河様。それは越権というものです」
そう言って無邪気に微笑みかけてくる久秀の顔を見て、一存はそれとわかるくらいにはっきりと顔をしかめてみせる。ぬけぬけとよくも言うものだ、との内心の思いがあらわであった。
その一存に向けて、久秀が口を開こうとした時。
はじめて上座にいる長慶が言葉を発した。
「久秀の申すことはわかった。でも、対応を話し合うのは義賢が着いてからにしようと思う」
義賢、というのはこの場にいない三好姉弟の最後の一人である。
智謀においては長慶に劣り、武勇においては一存に下回り、家中の信望においては冬康に及ばない――義賢はそんな人物であった。これだけ述べると役立たずの観を拭えないが、別の言い方をすれば、武勇においては長慶に優り、智謀においては一存を上回り、文武両面において冬康を凌駕する、とも表現できる。
突出した長所がないかわりに、突出した欠点も見当たらない。それが義賢の世評であるのだが、弟の一存などから見れば、あらゆる面で平均をはるかに上回る義賢の器用さは立派な長所であるとしか思えない。
だからこそ、長慶が畿内に進出した後、本国である阿波の統治を委ねられたのであり、三好家の後方を磐石たらしめるという難事をいとも軽々とこなすことも出来たのである、と。
もっとも義賢当人はとある理由で、己の役職に不満たらたらであることを一存は知っている。
何故そんなことを知っているのかといえば。
一存は讃岐衆を率い、事あるごとに海を渡って畿内で戦っている。当然、その命令は四国方面の責任者である兄を通じて届けられる。腰の軽い兄は往々にして自ら馬を飛ばして十河城にやってくるのだが、長慶からの命令を伝える時の兄の顔は、誰の目にも明らかなほどに不満の塊であった。一存にしてみれば、海を渡って敵と戦うよりも、兄の不満をなだめるほうがよほど難事であるといってよい。
義賢はなにも戦功が欲しいとか、都にあこがれているとか、そういった理由で四国を出たがっているのではない。むしろ畿内や都よりも、阿波の方がよほど落ち着けると広言してやまない性格である。
現状、その望みが満たされている義賢は、では何に不満を抱いているのか。
それは――
そこまで一存が考えた時だった。
不意に、その場にどたどたと慌しい足音が響き渡った。
そして、室内にいた者たちが怪訝に思う間もなく、足音の主が姿をあらわす。
「おお、姉上、お久しゅうございますッ!」
そう言うや、歴戦の一存の目にもそれとわからぬくらいの素早さで、その人物は長慶の眼前に畏まって座っていた。
小太りの体格からは信じられないほどの身の軽さである。よほど慌てて来たのか、その額にはじっとりと汗が滲み出ているが、当人も、向かいあう長慶もそんなことは気にしていないようだ。
めずらしく長慶の顔には、はっきりとそれとわかる笑みが湛えられていた。
「義賢、久しぶり」
「まっこと久しぶりでござる。最後にお会いしてから幾星霜の時が過ぎ去ったことか。この弟めは、一日千秋の思いでこの日をお待ちしておりましたぞッ」
そう言って三好義賢はにじり寄って姉の手をしっかりと握る。
長慶は汗で湿ったその手を厭う様子もなく、微笑んでされるがままに任せていた。
しばらく姉の手を握りしめていた義賢であったが、ようやく満足したのか、その手を離すと、今度はすぐに一存のところにやってきた。
「おお、一存、少し見ぬ間にますます厳しい顔つきになった。もうすっかりお主の方が年上にしか見えんな」
わはは、と笑いながら親しげに肩を叩いてくる義賢に、一存は苦笑まじりに頭をさげた。
「お久しゅうござる、兄上。海が荒れているゆえ、到着は遅れるだろうと冬康から聞いておりましたが」
「ふん、久方ぶりに姉上や弟たちに会えるというに、嵐ごときで足止めされてたまるものかよ。阿波の船乗りは荒天ごときに屈しはせぬぞ」
義賢が笑うと、ここで冬康が、すぐ上の兄と似たような表情を浮かべながら話に加わった。
「また家臣に無茶を言ったりはしていませんよね、大兄」
「おお冬康も久しいな、それと案ずるな。無事に堺に着けたら金十両と申したら、みな喜び勇んでやってくれたよ」
「世間では、それを無茶というのですよ、大兄」
そう言いつつも、冬康は愉しげに笑うばかりであった。この兄の気性は、それこそ生まれた時から知っている。姉に会いたさに相当な無茶をしてきたに違いない。
姉弟たちに挨拶を終えた義賢が、次に声をかけたのは松永久秀であった。
「おう、弾正。今回はよう皆を集めてくれた。お陰で久方ぶりに家族がこうして顔をあわせることが出来た。礼を申すぞ」
そういって笑いかけてくる義賢に対し、久秀は小さく微笑んでみせる。しかし、それは長慶らのそれと異なり、儀礼以外の意味を持たない乾いた微笑であった。
「義賢様のためにしたことではございませんが……結果として義賢様のためになったのであれば重畳でございますわ」
「うむ、なったなった。また何事かあれば頼むぞ。何なら毎月――いや、半月――いやいや、十日に一度くらいでもわしは一向にかまわんッ。報告がないのであれば、そなた主催の茶会でもいいのでな」
「ふふ……まあ戯言はその程度にしておいてくださいな。義賢様にも報告を聞いていただかねばなりませんの。それにしても、堺から使者の一人でも出していただければ、御到着までお待ちしていたのですけれど」
「無論、使者は出したぞ。たんにわしが使者より早く着いてしまっただけだ」
義賢はそういって、再びからからと笑う。
しかし、その周囲では久秀に対して厳しい視線が向けられていた。特に一存のそれは、気弱な者なら震え上がるほどである。
義賢は主君である長慶の弟であり、四国方面の政治と軍事の全権を握っている。その義賢に対し、面と向かって「戯言」などと口にすれば、その無礼を咎められてもおかしくはない。弟たちや家臣が色めきたつのは当然であった。
しかし、義賢は気にする素振りも見せず、久秀に話を促す。
そして、先刻の話を聞き終えるや、あっさりとこう言った。
「放っておけばよかろう」
その言葉に、久秀はわずかに目を細め、他の者たちは義賢に驚きの視線を集中させた。
一存が周囲の疑念を代表する形で口を開く。
「しかし、兄上、越後の者どもが管領に任じられ、京にのぼってくれば、我らとしても困ったことになるのではありませんか?」
「それはまあ面倒なことにはなるだろうな。しかし正式に淀城の管領殿が任を解かれるわけではない。であれば上杉が何を言ってきたとて手のうちようはいくらでもあろう。まあ、仮に上杉が正式に管領になったとて、雪に閉ざされし越後からでは京は遠すぎる。我らの優位は揺るがぬよ」
大体、上杉と敵対しなければならんという決まりもないしな、と義賢は言葉を続ける。
「先の上洛の時、弾正がそうしたように表向き将軍家に従っておけば、向こうも手出しは出来ん。決め手となるは官位でも軍勢の多寡でもなく、本国と京との距離よ。これに優っている以上、越後は我らに及ばぬわ」
「確かに大兄の仰るとおりかとは思いますが……」
冬康は首を傾げる。
「しかし、何の対策も立てずに放っておくのは、いささかのんびりとしすぎてはおりませんか?」
「放っておけ、とは言ったが、のんびり過ごせとは言っておらぬ。越後なぞより、もっと気をつけねばならぬ者がおろう。まずはそちらの対策が先だということさ」
「気をつけねばならぬ者、でございますか? それは――」
冬康の問いに、義賢はあっさりと応じた。
「尾張の織田信長だよ」
その名に対する反応は、きわめて薄かった。
少なくとも、その名を予測しえた者はこの場でも片手で数えられる数しかいなかったであろう。
桶狭間にて「海道一の弓取り」と謳われた今川義元を討ち取った織田信長。
しかし、当時の今川家に幾多の問題があったことは、桶狭間後に起こった東国の動乱から明らかとなっており、義元を討ち取った信長の功績は怪我勝ちに等しい、との評が多数を占めている。
桶狭間の合戦の後、信長はたちまち尾張を掌握し、間もなく美濃へと侵攻を開始。数年が経過した現在、織田家は美濃のほぼ全土を制圧するに至っているが、これとて油売りに勝っただけであるとして、信長に対する評価はいまだ実績に及んでいないのが現状であった。
しかし、義賢はそんな信長を謙信に勝る脅威だという。
「今も言ったが、謙信は将軍さえ立てておけば敵にまわることはない。仮に戦となったとしても、遠く越後からの出兵では明らかな限界がある。だが尾張の信長はそうはいかぬ。織田家が美濃を制してしまえば、京までは近江一国を余すのみだ。北近江の浅井を抱き込めば、浅井と縁の深い越前の朝倉は容易に動けず、南近江の六角や佐々木なぞ道端の石ころのように織田の軍勢に蹴飛ばされよう。信長の世評を聞くかぎり、謙信とは対極に位置する為人だぞ。我らが将軍を立てたところで、躊躇せずにこちらに兵を向けてくるだろう。謙信と信長、どちらが我らにとって脅威であるかなど考えるまでもあるまいて」
滔々と語る義賢に、諸将はただ黙って聞き入ることしか出来ない。
そんな家臣や弟たちに、義賢は小さく肩をすくめてみせた。
「まあ信長とて美濃を奪ってすぐに上洛、というわけにもいくまいがな。新しい領地が落ち着くまでには時がかかるし、上洛の名分もないのだから」
だが、あるいはそう考えることこそ、信長の思う壷かもしれぬ。義賢はそこまで考えていた。
「ゆえに、今は遠く越後の動向を案じるよりは、近くの美濃、尾張に注意を払うべきであろう。それに西の情勢も気になるしな」
義賢の言葉が終わると、それまで黙って聞き入っていた長慶がゆっくりと口を開いた。
「義賢」
「は、姉上」
「織田のことはわかった。けれど西の情勢、というのは大友と毛利のこと?」
「それも含めた西国の情勢でござる。ここ数年、南蛮船の多くが堺ではなく豊後に向かうようになったのは姉上もご承知でありましょうが、さらに先ごろ、大友はまた新たな港を日向の地に建設いたしました。なんでもムジカとやらいう南蛮神教の城市だとか――弾正、ムジカで間違いなかったか?」
義賢の問いに、久秀は頷いた。
「ええ、間違いございません。越後の件が終わった後に報告するつもりだったのですが……」
「ふはは、早いもの勝ちだ。まあ、それはともかく、ムジカとやらが出来てしまえば、これまで以上に堺に来る南蛮船が減り、海外との交易が難しくなってしまいます。この対策も早急にしておくべきですな。豊後は越後と同じほどの遠国ですが、海で繋がっている分、比較にならぬほどに近いとも申せます。越後への対応を定めるのは、尾張と豊後の後でよろしいかと、姉上」
弟の進言に、長慶はこくりと頷いた。
「わかった……義賢の考えは?」
「まず織田に関しては、これまで以上に諜者を放って情報を集めるべきでしょう。同時に将軍家の監視をより強め、間違っても織田に上洛を促すような真似はさせぬこと。当面はそれでよろしかろうと存じます。西に関しては――これはまあわしよりも、堺を治める弾正の方が詳しゅうござろう。弾正の話を聞いてからにいたしますか。よいか、弾正?」
「承知仕りましたわ、義賢様」
訊ねた者と応じた者。双方の視線がつかの間交わり、互いに刃の気配を宿したが、それはほんの一瞬だけ。当人たち以外にそれと悟れた者はほとんどいなかった。