薩摩島津家は代々、名君を輩出することで知られている。
先々代日新斎忠良、先代貴久、今代義久と続く近年の島津家当主を眺め渡せば、世に「島津に暗君なし」と称される評は、幾分かの誇張が含まれているにしても、虚偽であるとはとうてい言えまい。
もっとも今代に関しては、名君という評に首を傾げる者がいないわけではない。しかし、名君とはなにも政治に長け、軍事に秀で、策略に通じた当主を指すのではない。それぞれに長じた一族や家臣権限を委ね、その成果を活かし、家の繁栄に繋げることが出来るならば、それは十分に名君たりえる資格を満たしているといえるのではなかろうか。
その意味では、島津家第十六代当主、島津義久はまぎれもなく歴代当主に劣らぬ名君であったといえる。
それは同時に義久が多くの人材に恵まれていたことを意味していた。
ことに義久の妹たちの声価はきわめて高い。
将兵から寄せられる声望は姉をも越えるといわれる「鬼島津」こと島津義弘。
島津家の戦略を総攬し、頼りない姉に代わって領国の統治をも司っているとされる島津歳久。
そして長女の仁、次女の武、三女の智、それらすべてを一身に兼ね備えるとまで言われる末姫島津家久。
この三人の妹の存在だけでも、周辺諸国から見れば羨望の的であったことは想像に難くない。
事実、薩摩統一、またその後の大隅侵攻において彼女らの活躍は他を圧しており、それ以外の家臣の名が外に知られることはほとんどなかったのである。
とはいえ、当然といえば当然ながら、島津家にも優れた人材は存在する。そうでなければ、いかに宗家の姫たちが優秀な将帥であっても、ああも見事に勝利を得ることは出来なかったに違いない。
そんな島津の家臣の一人に「親指武蔵」と呼ばれる者がいる。その官職である武蔵守から「鬼武蔵」とも称されるその人物、名を新納忠元(にいろ ただもと)といい、智勇に優れた剛の者として家中に知らぬ者はいなかった。
異名の「親指武蔵」とは、島津家中において、家臣の中から剛勇の士を挙げるとき、誰もがまず最初に「まずは新納殿」といって親指を曲げることに由来する――決して、男性にしては小柄な体格がおとぎ話の親指姫とか、親指太郎とかを連想させるからではない、とは本人が熱心に主張するところである。
新納忠元の所領は薩摩の大口城である。
忠元は先の北薩侵攻において、若い家久の副将として奮戦、この城を守る国人衆や相良、肝付との援軍と激しく干戈を交えている。
忠元が大口城を任されたのはその武功ゆえであったが、大口城は薩摩の北の玄関口、肥後相良家との最前線でもある。
ただ戦働きに優れているから、という理由だけで任せることができる場所ではない。この城の守りを委ねられたということは、武のみならず、文の面においても忠元が主家から信頼されていたことを意味する。
つまるところ。
衆目の一致するところ(明確にそう定められているわけではないにせよ)新納武蔵守忠元は薩摩島津家における家臣の筆頭だったのである。
その新納忠元は、今とても不機嫌であった。
理由の一つは今も耳に響く笛の音色である。が、これを音色というのは、他の奏者に対してあまりに無礼ではあるまいか。室内から響いてくる笛の音は、それくらい酷いものであった。
豊後や肥前の者どもは、島津など南隅の蛮人に過ぎぬとでも思っているかもしれないが、実際のところ島津家は先々代の日新斎が詩歌芸術に深く通じていたこともあって、その後の当主や一族も教養をおろそかにはしていない。
家臣たちもそんな主家の恵風に浴しており、忠元も戦場にあって歌の一つ二つは詠める程度の嗜みは持っていた。さすがに笛や琴のような楽器を極めるまでには至っていないが、それでもこの奏者よりは自分の方がよほど上だ、と忠元は苦々しく考えていた。
そして、それはなにも忠元一人の考えではなかったようで。
「……お義父様、そろそろ耳をおさえているのも疲れてきたのですが」
その声と共にぴたりと音が止まり、奏者とおぼしき男性の声が応じた。
「では長恵みたいに今からはちゃんと耳を傾けてみる、というのはどうだろう?」
「……耳を傾けているのは確かなようですが、長恵殿の場合、お義父様が求めていることとは違った意味で笛の音を聴いているように思えてなりません」
「さすが姫様、鋭いです。師兄の奏でる音は平静を保つための修行にちょうど良いんですよ。こう、いかなる騒音、叫声にも動じない不動の心を養う、みたいな意味で」
「……一国の命運を懸けて国を出でた身で、敵城の一室に閉じ込められ、半刻後の生死も知れない。不動の心を養うには、この状況だけで十分すぎるほどです」
きわめて素っ気無い言い草だが、聞いていた忠元が思わず頷いてしまうくらい説得力に満ちた台詞であった。
しかし、言われた当人はそうは思わなかったらしい。
「とはいえ、他にすることもないしなあ」
奏者の声がのんびりと応じる。
「だからといって、他者の心をささくれ立たせてどうするんですか」
「下手だからといって、すぐに投げ出しては上達するものもしないだろう」
「その意見を否定するつもりはありませんが、時と場所を選んでください、という此方の意見もご考慮くださいませ、親愛なるお義父様」
「承知した、親愛なる娘よ。というわけで長恵、すまないがここで終わりだな」
「はい、師兄。まあ、ないならないで全然構いませんし」
「二人から、そこはかとなく非難されているような気もするが、細かいことは気にしないようにしよう」
その声に娘とやらの声がかぶさった。
「まったく細かくないし、そこはかとなくもないんですが……まあいいです」
語尾に混じったため息に、自然と同情の念を覚える忠元であった。
「ともあれ、どうするのですか、これから。下手の横好きに耽っている暇に、弁疏の一つもしておけば、今頃は島津の者も聞く耳をもってくれたかもしれませんのに。大友の軍旗を掲げていたとは言いますが、大筒を備えた船など明らかに南蛮人のもの。大友の使者が訪れている間に彼らが島津を攻撃したという事実は、見方をかえればお義父様の言葉を証明するものになりえると思いますが」
「――と、こちらが考える程度のことは向こうも承知しているだろうさ」
相変わらずの覇気のない言葉に、忠元は小さく舌打ちする。
大友家からの使者(といっても三人だけだが)は刀を取り上げられた上で一室に閉じ込められている。とはいえ、女性二人もいること、縛り上げているわけではないし、笛を奏していたことからもわかるように、刀以外の品には手を出していない。おそらく彼らは短刀の一つ二つは秘していると忠元は考えていた。つまり、いつでも脱出のための行動を採ることができるのである。
今、こうして自由に会話させていることも含めて、それらはすべて主家の指図による。彼ら使者の会話や行動から、すこしでも情報を得るための策であった。
もっとも、室外で控える小姓の役割を忠元が務めているのは、忠元自身の意思によるものであった。小柄な体格と童顔も、こんな時には役に立つ。他者からそれを指摘されるのは業腹だが、自身の特徴を利用しないのももったいない、というのが忠元の考えであった。
忠元がここまでしたのは、なにも大友家に義理があったからではない。それどころか、他の多くの家臣と同様、日向の伊東家の後ろ盾となって島津家を圧迫してきた大友家を忠元は嫌いぬいている。 忠元が気にしたのは、その大友家に付き従ってきた相良家家臣、丸目長恵の方であった。
九国に名高き剣聖。先の戦では島津家久の釣り野伏に敗れたとはいえ、女性とは思えぬ勇猛な戦ぶりと冷静な指揮に、忠元は深く感嘆したものだった。敗れたりとはいえ、その器量は主家の姫君たちに優り劣りなしと見た忠元は、隣国の相良義陽が敗戦の責を長恵に求め、逼塞を命じたと聞いて鼻で哂ったものだった。
長恵なればこそ、薩摩に入った相良家の軍兵の半ばは帰還できたのである。余の武将であれば全滅したとて不思議はない。島津の猛攻はそれほどまでに凄まじいものであった。
その長恵を逼塞させて、義陽はどうやってこれから島津家と相対していくつもりであろうか。
あるいは、彼の剣聖を島津家に招く一助にならんか、とも密かに考えていた忠元は、その長恵が、どのような紆余曲折を経たのやら、大友の使者と共に薩摩に訪れるときいて仰天した。しかも大友の使者の雲居とやらに師事しているという。大友嫌いの忠元としては到底黙ってはいられない。
長恵の真意、そして雲居とやらの為人をわが目で確かめてくれん、と鼻息あらく小姓に扮したのであるが――
(あにはからんや、へたくそな笛を聴かされることになろうとは。おまけに今の苦境を乗り切るために努めるでもなく、流れに身を任せておる。いつ討たれるとも知れぬ状況で泰然としておるところを見れば、肝の太さだけは認めてやらんでもないが……)
主家のために命を惜しまない気性。そんなものは島津家にあって大した美点でもない。忠元にとって、それは目が二つであると相手を褒め、鼻が一つであるとて感嘆するようなものであった。ようは持っていて当然、ということである。
忠元がそんなことを考えている間にも、部屋の中では何事か言葉が交わされていたようだが、忠元はすでに彼らから興味を失いつつあった。本物の小姓たち(無論、彼らは忠元のことを承知している)に顎をしゃくってこの場をかわるように促すと、みずからは音もなくその場から立ち上がった。
無駄な時を費やしてしまったという思いが、忠元の顔を苦々しい表情で覆っている。
「――つまり、このまま黙って島津の気が変わるのを待つ、ということですか?」
その忠元の耳に、雲居の娘とおぼしき者の声が響く。
「まあ、そういうことになるか。あらゆる意味で俺の話が信用ならないという歳久殿の言には、反論の余地がなかったからな。それと承知した上で、こちらの言い分を聞き届けてもらう方策は持ってないよ」
「手土産の件はどうなのです?」
「手土産を渡すには、せめて客として認めてもらってからでないとな。今の状況じゃ逆効果だろう」
はあ、とため息が室外にまでこぼれてきた。
「厄介な使いであることは承知していましたが、いきなり万策尽きた状況になるとは思っていませんでした」
「ま、そう悲観したものでもないだろ」
「……先刻から不思議で仕方ないのですが、お義父様のその楽観はどこから来るのですか?」
「これまでの経験からして、語るべき言葉は聞くべき者の耳に入るもんだ。言葉が届かないなら、それはどっちかが、あるいは両方がその言葉に相応しからぬわけで」
「よく意味がわからないのですけど?」
「つまり二流の聴衆には二流の演奏こそ相応しいということだな」
「やっぱり意味がわからないのですけど?」
「はっはっは」
「……まさか言葉に窮して適当なことを言っただけ、とか言いませんよね?」
わずかの沈黙に続き、何やら騒々しい音が響いてきたが、忠元は後ろを振り向くことさえしなかった。
言葉をひねくりまわすだけの人間に何を求めて師事したのか、長恵の気が知れぬ、と忠元が内心で吐き捨てようとした時。
ふと、忠元の足が止まった。
「二流の聴衆には二流の演奏、か」
そう呟いた後、まさかな、とかぶりを振る。
まさかそんなはずはない。己の拙劣な技量を、聞く耳もたない相手へのあてつけに利用するなど。
あの程度の輩がそこまで手の込んだことをするとは考えにくい。
もし、仮に考えたとしても実行に移すとは思えない。何故なら、その意思が島津に通じたとしても、あてつけられた側の島津家が不快に思うだけで交渉の利にはならないからである。それどころか、余計に態度を硬化させるだけであろう。
そう考え、忠元は再び歩き出す。
古の軍記物語でもあるまいし、島津家が雲居の行動を「見事な機転よ」と褒め称え、交渉の席に座るなどありえない。それを狙っているのだとすれば、あの雲居という男、いささかならず物事を甘く見すぎている。そこまで物事が都合よく進むはずが――
『語るべき言葉は聞くべき者の耳に入るもんだ。言葉が届かないなら、それは――』
「……その時は、島津が語るに足りぬ家、ということになるわけか?」
今度は忠元は足を止めなかった。これ以上考え込んでいては、軍議の間で忠元の報告を待っている姫たちを待たせることになってしまうからであった。
◆◆
忠元が軍議の間にやってきた時、姉妹のうち下三人はすでにそろっており、何通かの書状を片手に何やら話し合っていた。
接見の場では大友の使者の言葉を斬り捨てた――というよりは叩き潰した観のある歳久であったが、その内容をまるきり無視することはせず、幾つかの手を打って確認することにした。万一にも使者の言葉が真実であれば、島津にとっても巨大な災禍となるは必定であったから、それは当然の措置であったろう。
もっとも、大海の彼方を見通すなど人の身には不可能なこと。確かめるといっても島津領内随一の港である坊津に使者を走らせるくらいしか出来ず、当然、その使者はまだ帰って来ていない。そのため、歳久は内城に急使を向かわせ、ここ数ヶ月の海外との交易資料を取り寄せたところであった。
忠元の姿に気づいた姫たちが姿勢をあらためる。その姫たちの前に座り、さて何と報告すべきか、といまだ若干の迷いを抱きながら、それでも忠元が言葉を発そうと口を開きかけた。
しかし。
結論から言えば、忠元がいましがたの使者の言動を主家の姫たちに報告できたのは、一日以上の時間が経過してからとなる。この日に限っては、それどころではなくなってしまったのだ。
大口城を揺るがす爆発音が轟いたのは、次の瞬間であった。
島津家は海外との交易も盛んに行っており、家の規模に比すれば、その鉄砲の保有数は膨大といってもいい。当然、島津家中の者たちは戦場や訓練における鉄砲の爆音――火薬が炸裂する音に慣れている。
その島津軍の頂点に立つ者たちが、そろって腰をあげてしまうほどに、その爆発音は巨大であった。あたかも大筒でも撃ったかのようだ。その上、轟いた場所がいかにも近い。間違いなく城内であると思われた。
「何事かッ?!」
真っ先に声をあげたのは、姫たちではなく、この城の城主である忠元である。
その顔はすでに戦場の雄たる武将のそれに変じていた。
傍仕えの小姓たちが、主や主家の姫たちを守るために駆けつけてくる。ほどなく刀を帯びた城の将兵も姿をあらわしたが、彼らはいずれも事の詳細をいまだ知らずにいた。
軍議の間を、じりじりとした時間が流れていく。
まさかとは思うが南蛮の奇襲であろうか。日向からの急使が来ていないが、相良領内を通れば、大口城を直撃することは不可能ではない。それにしては、砲撃の音が一回きりというのが不審であったけれど。
忠元や姫たちが短い間にそこまで話し合っていると。
「も、も、申し上げますゥッ」
なにやら奇妙に場違いな報告の声が軍議の間に響き渡った。
見れば、そこにはやや年嵩の女中の姿があった。姫武将、というわけではなく、正真正銘、ただの奉公人である。忠元の記憶では、台所を任されている者の一人であったはずだ。
忠元がそう口にした途端、それまで戦場の雰囲気を湛えていた姫たちの顔が、一様に「まさか」と言わんばかりに激しく歪んだ。否、姫たちのみならず、忠元の顔も歪んだ。
彼らは同時に一つの推測を胸中に育んだのである。
「……そういえば、義久様の姿が先刻より見えませぬな……?」と忠元。
「……そうですね、私たちが資料片手に話し合っている間にいつのまにか姿が見えなくなっていました」と歳久。
「……まさかお姉ちゃ――こほん、姉上は……」若干赤面しながら義弘。
「……あはは、そういえば最近、腕を振るってないって不満げだったよねー」と家久。
そんな忠元たちの様子をおそるおそるうかがいながら、女中は先刻、台所に島津家当主が姿をあらわしたことを告げる。
なんでも久方ぶりに腕をふるいたいので、しばし場を借りたい、と申し出たらしい。
「お止めしなかったのか、おぬしらッ?!」
「は、は、はいッ?! ご、御当主様のお言いつけにそ、そむくなど、と、とんでもないことでございますからッ」
思わず声を高めた忠元に、女中は首をすくめ、床に頭をこすりつけながら弁明する。
その弁明に、忠元はじめ姉妹たちは、はかったように一斉に額に手をあてた。
「本城(薩摩内城)だったら、皆、すでに姉上の腕前のことは承知しています。台所を明け渡すなど決してしませんが」と義弘。
「この城の者たちにそれを求めるのは酷というものですね……」と歳久。
「申し訳ござらん。それがしの配慮が足りませなんだ」と忠元。
「んー、でもいつもの義姉(よしねえ)なら、料理できたらすぐに持ってくるよね? さっきの完成音(爆発音)から、もうかなり経ってるんだけど」と家久。
家久の言葉に、一同、そういえばそうだな、と顔を見合わせる。
皆、若干、腰が浮き気味なのは、すぐにでも退避できるようにという戦場巧者の習性のようなものであった。
そして、家久の疑問の答えは、女中の次の言葉で明らかとなった。
「御当主様が仰るには『結果がどうなるにせよ、せっかく遠国からはるばるいらっしゃったのだから、せめて手ずからおもてなしをするのが礼儀というもの』とのことでしたが……」
◆◆◆
周囲から驚倒とも愕然とも、あるいは憧憬ともとれるような、きわめて特異な視線を向けられつつ、俺は目の前の土鍋の中から、最後の一切れとなった猪の肉を取り出し、口内で噛み砕いた。染み出してくるのは肉汁か、獣血か。
そこらに生えてる雑草と、腐りかけの野菜と、生の猪肉を土鍋にぶちこみ、それを三日三晩、青汁で煮詰めればこんな味になるんじゃないかな的な目の前のリョウリからは、いわく言いがたい芳醇(?)な香りがあふれ出ており、先刻からそれを食し続けている俺の舌は、すでに麻痺同然の状態であった。もしかしたら俺の味蕾は、眼前に鎮座する『青菜と季節の野菜と猪肉の冷製スープ(仮)』のために壊滅的打撃を被ったかもしんない。
「……ご馳走様でした」
「はい、お粗末様でした。あの、お味はどうでしたか? 最近、妹たちは忙しくて、全然食べてくれないので、ちょっと腕が鈍っちゃったかもと心配だったんです」
でも、全部食べていただけてほっとしました、と安堵の息を吐く義久。
俺としては、忙しさを理由に逃げ続けているのであろう妹姫たちの悲痛な思いが手に取るようにわかり、勝手なシンパシーを抱いてしまいそうだった。
リョウリの出来を訊いてくる義久殿は心底嬉しそうである。
きらきらと輝くような笑みを浮かべながら、俺の顔をのぞきこんでくる。普段の俺なら照れてそっぽを向いたかもしれないが、今の俺の心境はといえば、久秀と茶席を同じくした時に等しい。油断したら殺られる(とられる)的な意味で。
よって、その言動からは一切の遠慮が欠如していた。
「――実に不味かったです」
「……え……え…………ええー?」
俺の率直な感想に、義久は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後「がーん」と効果音が轟いてきそうな顔で驚愕した。
「そ、そんなに不味かったですか?」
「なんというか、既存の料理という概念を覆す新たな物質という感じです。このリョウリは料理ではない」
後半の言い回しには義久は首を傾げていたが、俺の評価が芳しいものでないことは理解したらしく、悄然と俯いてしまった。
後から考えれば随分と失礼な言い草であったから、周囲で息をのんで様子をうかがっていた島津家の小姓や女中にとっ捕まってもおかしくなかったのだが、彼らも彼らなりに思うところがあったらしく、俺の評価に異を挟もうとはしなかった。
無論、この時の俺はそこまで頭がまわっていない。脳裏には先刻、自分が口にした言葉がぐるぐるとまわっている。
『下手だからといって、すぐに投げ出しては上達するものもしないだろう』
俺自身の料理の腕は大したものではない。元の世界では一人暮らしであったから、それなりに包丁には触れていたが、それでも他者に振舞えるような料理をつくる腕はない。
だがしかし。
そんな俺でも、眼前の島津家当主殿に対して物申すことは可能だった。
「まず、面倒でも野菜は皮を剥きましょう」
「は、はい」
「あと、味見はしてますか?」
そこからか、みたいな驚愕の視線が周囲から義久に集中する。その雰囲気を感じ取ったのか、義久はやや慌てながら、こくこくと頷いた。
「え、えーと、は、はい――」
「……」
じっと見つめる。陥落は案外早かった。
「……してない、かもしれません」
「ならば今度からは一に皮むき、二に味見。この二つを忘れないようになさると、たぶん義久様も、食べる方も幸せに一歩近づくことになるでしょう」
「わ、わかりました、がんばりますッ」
「はい、がんばってください。ともあれ、当主おんみずからのおもてなしには、感謝の念を禁じえませんでした……ぉぇ」
何とか言い終えた途端、胃から何かよからぬものがはいあがってきそうになったので、慌てて口をおさえようとしたが、それではあまりに義久に失礼だろうと考えた俺は、咄嗟に深々と頭を下げた。
すると。
まるでそれを合図にしたかのように、周囲から感嘆の声と拍手が響き渡る。なにやら涙ぐんでいる者までいるようだ。無論、島津の家臣の中に、である。長恵と吉継はとうに彼方に避難していた。
そして。
「……これ、どういう状況だと思う、歳ちゃ――ではない、歳久?」
「……さあ、私にもさっぱり……?」
「……うー、この匂いだけは、あたし苦手だよぅ……」
「い、家久様、お気を確かにッ?!」
そんな声が聞こえた、と思ったあたりで、俺の記憶はぷつりと途絶えるのだった。