「――筑後での戦のため、参るのが遅くなってしまいました。石宗様には、なお多くの教えを授かりたく思っておりましたのに……此度のこと、まことに残念でなりません」
そう言って、戸次道雪は哀悼の意を込めて、深々と頭を垂れた。
漆黒の髪が流れるように零れ落ちる様は、思わず息をのむほどに鮮麗で、同性である吉継も感嘆の吐息がこぼれるのを抑えられなかった。
幸い、その吐息は頭巾に遮られて道雪の耳に届くまでに宙に溶けてしまったが、吉継は慌てて礼を返した。
大友家の重臣中の重臣である道雪と、角隈石宗の家臣――つまりは陪臣である吉継とでは、身分に天地の開きがある。ましてや、相手は雷神、鬼の異名を持つ九国最高の名将である。緊張するなという方が無理な話であったかもしれない。
そんな吉継の強張りを見抜いたのか、道雪は吉継と視線をあわせ、穏やかに微笑んだ。
「そして――お久しぶりですね、吉継殿。石宗様のことは残念ですが、あなたが壮健であることは、とても嬉しく思います」
「は、はい。道雪様にもご健勝の様子、嬉しく存じます。石宗様も、道雪様の令名を耳にするたび、頬をほころばせておられました。出藍の誉れである、と」
吉継の言葉を聞き、道雪の笑みは苦笑にかわる。
「石宗様の先を見通す洞察、深い思慮に支えられた明晰な判断、いずれも私は遠く及びません。その評はいささか買いかぶりであると思いますが――師の期待に応えることが出来るよう、努力を怠らないようにいたしましょう」
「決して、買いかぶりなどでは……」
買いかぶりではない、と言おうとした吉継だったが、道雪がとおりいっぺんの謙遜をしているわけではないことは、その眼差しを見れば明らかで、少なくとも道雪自身がそう考えていることは確かであった。
ここで道雪の言葉を否定し、師の言葉を肯定するだけの見識と経験を持たない吉継は、まわらぬ舌に内心で苛立ちながらも、口を噤むしかなかった。
だから。
次に吉継が口にした言葉は、吉継自身が考えた言葉ではなかった。
「これより戦に赴かんとなされる身で、ここまでお出でくださり、そして事態を収拾していただいた。そのことを考えれば、石宗様のお言葉は決して買いかぶりなどではないと存じます」
その吉継の言葉を聞いた途端、道雪の目が、それとわからないくらい、かすかに細まった。
「ふふ、驚きました。此度の出陣は極秘に進められており、府内の城でも、私は石宗様の霊前に花を捧げるために参ったと考えている者がほとんどでしょう。それをわずかの刻で見抜くとは……さすが石宗様の薫陶をもっとも近くで受けた方ですね」
そう言ってから、道雪は小さく首を傾げる。
「後学のために聞かせていただきたいのですが、どのあたりで見抜きましたか? 兵を率いてきたこと自体は、護衛として不自然ではないと思うのですけれど」
「……は。その、確かにその通りなのですが……」
吉継は束の間、ためらった末に、先刻のある人物とのやりとりを思い起こす。
『ただの護衛にしては兵の数が多いですし、率いる将が精強すぎます。石宗様の霊前に花を捧げるにしても、現在の大友家の状況を考えれば、これだけの将兵が一時に府内を離れるとは考えにくい。あるいは南蛮神教の横暴に対抗するためかとも思いましたが、それにしては府内からここまで、来るのが早すぎる』
そういって、かすかに首をひねりながら、その人物はさらに言葉を続けた。
『であれば、おそらく、あれだけの兵と将が必要となる戦があり、その途中で立ち寄られたというところでしょう。あるいはたまたま近くを進軍中、先夜の出来事を聞きつけ、駆けつけてくれたのか。いずれにせよ、運が良かったとしか言いようがないですね――あるいは、角隈殿のお導きかもしれません』
しごく真面目な顔で、そんなことを言ったその人物、名を雲居筑前といった。
◆◆◆
うららかな陽射しの下、心地良い薫風に頬を撫でられながら、俺は縁側に腰を下ろしていた。
緑が萌えるこの季節、元々、好きな季節の一つであったが、かつての体験を経て、今では一番好きな季節になっていた。
激しくも華やかな二年間、その始まりと終わりは、この季節であったから。
そして再び始まったのもこの季節。かつて居た場所は遠く、焦がれるほどに再会を望んだ人たちの姿はない。それでも、皆が踏む大地を踏み、皆が見上げている空を見上げることが出来る。その事実に比すれば、再会までの時を待つことなど難事と呼ぶにも値しない。
懸念があるとすれば、いまだ激しい戦が続くこの地にあって、皆が無事でいてくれるかどうか。だが、それは俺が案じたところで致し方ないことである。ついでに言えば、俺程度に案じられるほど、やわな人たちではない、という気もしたりする。
それに、気になるのなら、さっさと彼の地に戻れば良い。それで、すべて解決するのだから。
オンベイシラマンダヤソワカ、と毘沙門天の真言を呟く――いや、まあ呟いても出てくるのは神様ではないのだが。こういったことを考える時の口癖になってしまっているが、けっこう罰当たりなことをしているのかもしれない。
「いま少しだけ、お待ちくださいませ……」
その呟きは、春風に溶け、誰の耳にも入らずに終わる――そのはずだったのだが。
「オンベイシラマンダヤソワカ……毘沙門天の真言、ですね」
不意にかけられた言葉に、俺は思わず驚きの声をあげてしまう。慌てて振り返れば、その人物は意外なほど近くにいた。
車椅子に乗った妙齢の女性。
息をのむほどに艶やかな黒髪と、穏やかでいながら確かな芯を感じさせる深い眼差し。一瞬、胸裏に思い描いていた人が、現実に現れたのかと錯覚しそうになる。
だが、無論、そうではない。
遠目とはいえ、その人物を見たのは先刻のこと。眼前の女性が誰であるかを、俺は知っていた。
一瞬の自失から立ち直るや、俺はすぐに姿勢を正してその女性――戸次道雪殿と向かい合う。
「これは、大変失礼いたしました、戸次様」
車椅子であるからには、足音を忍ばせて近づくなど不可能である。であれば、俺が道雪殿が近づく音に気付かなかったのだろう。いささか過去に遡りすぎていたようであった。
しかし、どうして道雪殿がここにいるのか。屋敷を訪れていたのは知っているが、俺がいるのは客間ではなく、家人が寝起きする奥の棟である。客人がふと立ち寄るような場所ではないはずだが。
そんな俺の訝しげな眼差しに気付いているのか、いないのか。道雪殿は微笑んで会釈した。
「こちらこそ、驚かせてしまったようで申し訳ありません。お察しのとおり、私は戸次道雪。この屋敷の主であられた角隈石宗様には、軍略の師として、また大友家の先達として、大変お世話になった者です」
「雲居筑前と申します。角隈殿に危ういところを救っていただき、屋敷で世話になっている者です」
そう言って頭を下げながら、俺は内心で呟く。
言えない。
いきなり九国の山中に放り出され、途方に暮れつつ空腹と乾きに耐えて歩き回り、挙句、少女の水浴びを覗いて斬られそうになったところを救われた、なんて目の前の人には絶対言えない。
「雲居、筑前殿……」
舌で転がすように俺の名を呟く道雪殿は、先刻、境内で見た厳しい姿とはうってかわって、どこか可愛らしく映る。俺より年上の女性に抱くには失礼な感想かもしんないが。
予期せぬ出会いに、実は内心で結構慌てている俺の目を覗き込むようにしながら、道雪殿はくすりと微笑んだ。
「紹運から容姿は聞いていたので、半ば確信してはいましたが――やはり、あなたが私の命の恩人殿だったのですね。遅ればせながら、心よりお礼を申し上げます」
「う……あ、い、いえ、命の恩人などと、そのような……」
道雪殿が言っているのは、あの境内での出来事を指している、というのはすぐにわかった。だから、俺が言葉を詰まらせたのはそのせいではない。では、何故なのかといえば。
薫風になびく髪を片手でそっと押さえながら、微笑する道雪殿。
風に揺れる一輪挿し、間近で見るその姿があまりにもたおやかで――率直に言って、俺は道雪殿に見惚れていたのである。
多分、今、俺の顔は真っ赤に染まっているだろう、などと他人事のように考えていると。
「おや、どうしました、恩人殿。なにやら顔が赤いようですが……」
「あ、いや、それは……ですね」
あなたに見惚れていました、などと言えるはずもなく、俺はもごもごと口を動かすことしか出来ぬ。
すると、そんな俺を、なにやら楽しげに見ていた道雪殿が不意に俺の顔に手を伸ばし――
「――え、あの、戸次様?!」
そっと頬に手をあててきたのである。恐慌の頂点に達した俺は、咄嗟に身体を引こうとしたのだが、その動きは道雪殿の一言であっさりと押しとどめられた。
「そのままで」
「あ、いや、でもですね……ッ?!」
物心ついた時から今日まで、これだけ動揺したのは初めて――とは言わないが、片手で数えられるくらいしかない。
どこの林檎かトマトか、という感じで真っ赤になっている俺は、鬼道雪の猛攻の前に陥落寸前であった。そして、さすがは音に聞こえた九国の名将、そんな俺の動揺を見逃すことなく、しっかりと、とどめをさしに参られました。
頬にあてた手を、今度は髪にまわしてきたのである。
「――ッ?!」
もう言葉も出ません。
髪に手をあてた、といっても大人が子供の髪をよしよしと撫でるような体勢なら、ここまでは動揺しなかった。
道雪殿は俺の頬にあてていた手をそのまま後頭部に伸ばしてきたのである。そして、おそらくは撫でにくかったのだろう。俺の頭を少し自分の胸元に引き寄せることまでしたのである。
多分、傍から見れば、俺は道雪殿に抱き寄せられているようにしか見えないのではあるまいか。
治、極まれば乱に入り、乱、極まれば治に至るという。
それは時代ではなく、個人についても同じことが言えるらしい。混乱の極みに達した俺の頭の一部は、かえって冷静になった。
この体勢で、下手に動けば、それこそもっとまずい状況になりかねない。そう判断し、道雪殿に抗うのをやめたのである。
決して、髪を梳く道雪殿の手が気持ちよいから、とか、道雪殿から漂う甘い芳香をもう少し堪能していたかったから、とかいう邪まな理由では――いや、まったく無いと言ったら嘘になるのだけども。もちろん、俺も男だからして少しはそんな理由もあった。いや、半ばくらいはその理由であったかもしれない。否、たとえすべてその理由だったとしても、何を恥じることがあろうか!
と、内心で玩具箱をひっくり返したような大混乱に陥っていた俺の耳に、優しげで、どこか楽しげな道雪殿の声が響いた。
「少々強情なところはありますが、硬く張りのある髪をしていますね……ふふ、男児たる者、こうでなくてはなりません」
ただ、少々長すぎますね、と道雪殿は呟いた。
言われてみれば、確かに、少し伸ばし過ぎたかもしれない。こちらに戻って一ヶ月あまり。髪を切る余裕なんてあるはずもなかったからなあ。頼めるような人もいないし、金もなかったから尚更だ。
そんなことを考えていると、不意に、俺の耳元で、短刀が鞘から抜かれる音がした。
道雪殿が自身の短刀を抜き放ったのだということはすぐにわかったが、俺の心にはほんのわずかの危惧も宿らなかった。
それは、このわずかな時間の邂逅で、道雪殿の人柄を感じたゆえか、あるいはその色香に惑わされたゆえか。さて、どっちだろうか。
ただ、たとえ警戒していたとしても、何一つ為せなかっただろう。
刃の煌きはわずかに一度。道雪殿はただそれだけで短刀を鞘に戻し、無造作に伸ばしていた俺の髪の先端、指一本分ほどの部分は道雪殿の手の中に収められていた。
「さあ、これですっきりしました。男の身であっても、身だしなみには気をつけるべきと思いますよ、雲居殿」
そう言って、道雪殿はようやく俺を解放してくれたのである。
小さな安堵と、大きな未練を感じながら、俺は今さらのように道雪殿から距離を置くと、くすくすと笑う道雪殿にこくこくと頷いてみせる。
「は、はい、向後は気をつけることにいたします」
いまだ熱の覚めやらない顔で、そういうだけが、この時の俺の精一杯であった。
◆◆◆
幸いというべきか、当然というべきか。
道雪殿が訪れてから、南蛮神教側が手を出してくることは一度もなかった。もっとも、南蛮寺院の建設は、寺の跡地ですでに始められてしまっている。これは大友宗麟の決定によるものであったので、道雪殿には如何ともし難かったのである。
住民からは相変わらず不満の声があがり続けていたが、その都度、住職が穏やかに諭し、小競り合いもあの日以後起こることはなかった。
ちなみに短筒を持った女性の件に関しては、道雪殿は何も口にしていないそうだ。
カブラエルが失敗した時のことを考えていないはずもなく、藪をつついて蛇を出すよりは、あえて無言を貫くことで相手の猜疑を煽ろうとしているのかもしれない。
戸次道雪、なかなかに食えない方である――などと考えていたら。
「あら、花も盛りの女性に向かって、その評はあんまりではありませんか」
「な、何も言ってませんでしょう?!」
道雪殿にあっさりと見破られてしまった。釈明を試みるが、道雪殿はつんと澄まして顔をそむけるばかり。その姿が、また悶えるほどに可愛らしいものだから、もう本当にどうしてくれようこんちくしょう、という感じである。
「ふはは、道雪様が会って間もない者を、かほどに気に入られるのもめずらしい」
小野鎮幸が酒盃を呷りながらそう言うと、その隣にいた由布惟信も、めずらしく素直に同意した。
「ええ、本当に。このごろは気の滅入ることばかりでしたから、道雪様もどこか沈みがちであったのですが」
「うむ、雲居殿をからかう義姉様は、実に楽しそうで、見ていて微笑ましいな」
二人に続いたのは、隣でにこやかに俺と道雪殿を眺めていた吉弘紹運殿である。あの時、俺が短筒を渡した人物だ。
角隈殿の四十九日の法要が終わったのは先日のこと。
今はその労を互いにねぎらっているところである。
道雪殿をはじめ、小野殿も由布殿も、もちろん紹運殿も、実に人間として出来た方々であった。九州探題たる大友家の武威の源泉とでも言うべき将たちと面識を得られたのは、稀有な幸運であったといえる。
まあ、もっぱら道雪殿にからかわれる俺を、他の人たちが肴にして楽しむだけなんですけどね、ええ。
道雪殿には、いきなり初対面の時に弱点を見抜かれてしまったようで、以後、事あるごとにからかわれてばっかりなのである。
ただ、そんな光景を見ていたせいであろうか。道雪殿らと、屋敷にいる人たちとの関係も良好で、法要も滞りなく終えることが出来た――というのは、こじつけかな、やはり。
ただ、全員が全員、良好な関係を築けたかというと、そういうわけでもないようで。
ふと周りを見渡せば、いつのまにか吉継の姿が消えていた。
こういう席に、あまり長居しない人であることは承知していたが、吉継は角隈殿亡き後の屋敷を切り盛りしてきた人である。すすんで口を開かずとも、場にいなければ差しさわりがあると思うのだが――
「どうぞ、行ってあげてください」
俺の視線に気付いたのか。あるいは、そもそもはじめから、吉継が去ったことに気付いていたのだろうか。
「――はい、申し訳ありません」
「お気になさらずに」
立ち上がる俺に向けて、道雪殿は微笑んでそう言ったのである。
◆◆
吉継の姿を見つけたのは、意外なことに中庭であった。
いつもの白い頭巾をかぶった姿のまま、吉継は空を見上げていた。今宵の空には雲ひとつなく、黄金色に輝く月と、銀砂のごとき星々が煌いている。
吉継の視線を追いながら、満月に到るまでには、まだ二、三日かかるだろうか、などと俺が考えていると、不意に吉継が口を開いた。
「……もうじき、月が満ちます」
「はい、あと二日、三日、そのくらいでしょうか」
「でも、月は満ちたその時から、欠けていく。欠けていって、また満ちて。果てなくそれを繰り返す。その営みに、私たちは魅せられる。父上も――」
そこで、吉継はわずかに言葉を切った。
吉継はこちらを向いていない。俺が見ているのは、吉継の後姿だけである。その姿に、かすかなためらいを感じたのは気のせいではあるまい。
だが、吉継は再び口を開いた。
「父上も、月をこよなく愛していました。歌の一つも詠めない自分の武骨さを笑いながら、月を見上げて酒盃を傾けていた姿を、今もはっきりと思い出せます」
そう言った後、吉継はこちらを振り向いた。頭巾に覆われた口元からかすかに苦笑めいた呟きがもれる。
「だから、私は月が嫌いでした。月なんかより、私にかまってほしかった。そう口にすれば、父上は困った顔で相手をしてくれましたが、だからこそ、そう口にすることは子供心に憚られて……」
今、思えば、と口にする吉継の声は低く、俺に向けて話しているというよりは、独り言を言っているようにも思われた。
「月を見上げていた時だけ、父上は心安らぐことが出来たのかもしれません。まわりに目を向ければ、異形の私と、病弱な母が、ただ父上を頼りに暮らしている。父上がそれを厭っていたなどとは思いません。それでも、私たちが父上の荷であったことは事実なんだと思うんです。私たちがいなければ、父上は――いえ、私がいなければ、父上と母上は、もっと別の……」
その声は震えておらず、吉継が、いつかの夜のように激情にかられているわけではないことは明らかであった。明らかであったからこそ、俺は返す言葉がなかった。
そんなことはない、と否定することは簡単である。だが、その言葉に説得力を持たせるだけの重みが、俺にはないと思えたから。
正直なところ。
吉継が何を思って、そんなことを言い出したのか、俺にはわからない。否定してほしいのか、肯定してほしいのか、それともただ聞いてほしいだけなのか。多分、吉継自身もわかっていないのではないだろうか。
だが、その言葉は否定しなければならない。そんな確信だけは、確かに俺の中にあったのである。
――しかし、何を言えばいいのだろう。俺がどれだけ真摯に考え、答えを口にしようとも、口を離れた瞬間、その言葉は薄っぺらいものに変じてしまうような気がして仕方ないのだ。
だから、次にこの場に響いた声は、俺のものではなく。
「――しかり。たしかに重き荷であったことでござろう」
びくり、と吉継の身体が震えた。
俺は驚いて声がしてきた方を見る。そこには――
「……和尚?」
「申し訳ござらん、お二人を探しておったところ、なにやら声が聞こえてきまして。聞くとはなしに聞いてしまいもうした――吉継殿」
吉継の名を呼んだ時。俺ははじめて、厳しく張り詰める住職の声を聞いた。
住職の呼びかけに、吉継は小さく応えた。
「……はい」
「拙僧は、貴殿のご両親を存じませぬ。ゆえに、その人柄も知りもうさん。しかし、今の話を聞いただけでも、おおよそのことはわかります。確かに仰るとおり、貴殿の父御、母御にとって、貴殿は重き荷であったことでございましょう」
それが、俺の発した言葉であれば、おそらく吉継にはなんら堪えなかったであろう。だが、住職の言葉が与えた衝撃は、鉄の槌にも等しかったかもしれない。それを示すかのように、吉継の身体が小さく揺れた。
「……は、はい」
「重き荷を捨てていれば、なるほど、確かに異なる生があったはず。それは、貴殿と共に歩むよりも、はるかに身軽で、そしてはるかに気軽であったことでござろう」
「……う」
容赦のない住職の言葉に、吉継の口からうめきにも似た声がもれる。
だが、住職は構うことなくさらに口を開き。
「――そして、ただそれだけの生を終えられたでござろうよ」
そう、言った。
住職の言わんとするところがわからないのだろう。吉継が戸惑いもあらわに住職を、そして俺に視線を向ける。
だが、俺とて住職の真意がわからない。だから、ただ耳を澄ませ、その言葉を聞くことしかできなかった。
「一生(いっせい)とは重き荷を背負いて、遠き道をゆくが如し」
住職はゆっくりと、聞く者の心に染み入るようにゆっくりと、言葉を紡ぎはじめる。
「多くを背負い、苦しみ、嘆き、それでも荷を捨てずに歩けばこそ、その道は万金にも優る価値をもって、人の心に刻まれましょう。誰かがその道を継ごうと志すことでござろう。人の命は限りあるもの。されど限りある命で為したことは、そうして引き継がれ、磨かれ、後の者たちへと受け継がれていくのではありませんかな」
そう言って、住職はいつもの柔和な、人を包み込むような笑みを浮かべた。
「親と子の絆は、その最たるものであると拙僧は思いますぞ。貴殿のご両親は、最後までその道を歩き通したのでござる。ならば、その道にいかなる価値を見出すかは、吉継殿次第。自らを嘲り、銀を銅とみなすも、自らを誇り、銀を黄金へと高めるも、すべて貴殿のお心一つでござろう。それは大変に困難な道でありましょうが、幸い、貴殿のすぐ傍らには先達がおりもうす」
そう言って、住職が視線を向けた先は――俺に向けられた。
「……和尚」
「これでも、多くの人を見て参りましたでな。石宗殿も、気付いておられた。貴殿が焦がれるように、何かを追い求めていることに。だが、そこに危うげなものは感じられず、深き思慮と、剛毅な心がそれを支えておられる――その若さで、よくぞそこまで」
住職は感嘆もあらわに、俺に告げる。
「良き出会いを、そして良き別れを経てこられたのであろう。それは、これから先の吉継殿になにより必要なことだとは思われませんか」
「……和尚、一体、何を?」
住職の言葉に戸惑いを禁じえず、問いを向けた俺に対し、住職は懐から二通の書を取り出した。
「これは?」
「石宗殿より託された書状でござる。一通は貴殿に、もう一通は吉継殿に。四十九日の法要が終わり、なお二人が屋敷にとどまっていたのなら、その時に渡してほしいと石宗殿は申されておりました」
その言葉に、俺と吉継は驚きを隠せず、互いの顔を見やってしまった。
角隈殿には、直接に思いを託されている。では、書状に書かれていることは何なのだろう。しかも、あえて四十九日が終わるのを待って渡すようにしたのは、何の意図があってのことか。
いずれの答えもわからなかったが、しかし確かなことが一つだけある。それは、住職が差し出した書状は、俺と吉継がここにいなければ火中に投じられることになったであろう、角隈殿の最後の言葉でもある、ということ。
ゆえに、読まないという選択肢だけは有り得なかったのである。