仮殿とはいえ、案内されたムジカの聖堂は荘重な造りと荘厳な雰囲気をかもし出す立派な建物であった。
その中に居並ぶ者の多くは南蛮神教の信徒たち。南蛮神教を奉じていない大友家の家臣の姿はほとんど見当たらない。
大友家当主たる大友フランシス宗麟と、南蛮神教日本布教長のフランシスコ・カブラエルは、信徒たちに守られるように、あるいは従えるように彼らの中央に立ち、歩を進める俺たちにそれぞれ異なる色合いの視線を向けていた。
当初、聖堂内の空気は穏やかなものだった。
宗麟が高千穂における別働隊の功績を称賛し、俺たちがかしこまってそれを聞く。周囲から向けられる視線には敵意も害意もなかった。
変化が生じたのは、カブラエルが口を開いてからである。
中崎城を陥とし、高千穂の東部を制した功績は功績として、別働隊のやりように不審な点がある、というのがカブラエルの主張であった。
それは要約すれば、高千穂における別働隊の行動――なかんずく異教徒に対する手緩い対応を問いただすものであった。
問いただすといっても、カブラエルの口調それ自体は穏やかなもので、声高に相手を非難するような真似はしない。
あくまで丁寧に語りかけてくるカブラエルだが、その内容は露骨なまでに俺を排除する意思があらわであった。
「此度の聖戦は、何の罪もない我らが同胞を殺めた者たちへ神罰を下すためのもの。聖戦に従う我らは神の剣となり槍となりて、非道なる異教徒に神の怒りをしらしめねばなりません。しかるにあなたは高千穂において、同胞の行動を妨害し、あまつさえ異教徒を助けることさえしたとか。それも一度や二度ではないと聞き及びます。かの地における戦果がはかばかしくない理由の一つは、大友軍の頭だった武将の一人であるあなたの非協力、さらに異教徒を利するがごとき不可解な行動によるところが大きい、というのがそちらに同道した十字軍の軍監の報告です。信徒たちの間でも不満と不審の声が公然と立ち昇っているとも聞きました」
無論、とカブラエルは穏やかな語調を崩さぬままに言葉を続ける。
「フランシスが信を置くあなたが、理由もなくそのような行いをするとは思っていません。なにがしかの理由があると推察します。実のところ、これまでもそちらの同胞からはあなたに対する数々の糾弾が送られてきていたのです。しかし、私はそれらを送ってきた者たちに対し、等しくあなたへの理解と協力を求めました。我らは同じ神の軍団に属する者同士、不和よりも親愛を、疑惑よりも信頼を重んじるべきと考えたからです」
そこでカブラエルはかすかに表情をかげらせた。
「しかし、不明なる私には今にいたってなお、あなたの行いの内にある理由が見えてこないのです。このままでは湧き上がる不審の声をおさえることが出来なくなってしまうでしょう。こうしてあなたがムジカに来られたことこそ幸い、どうかここに居る私たちに、救世主殿の大いなる英知と妙なる思案をお聞かせいただきたいのですよ」
しんと静まり返るムジカの大聖堂に、ただカブラエルの声だけが響き渡る。
その声が途絶えるや、宗麟の左右に居並ぶ者たちが一斉に俺に視線を向けてくる。彼らの外見からしてほとんどが南蛮神教の関係者――つまりはカブラエルの子飼いの者たちなのだろう。
当然といえば当然だが、彼らはいずれも体格や顔つきが異なっている。少数ながら女性もいるようだ。しかし、それぞれに異なる外見と人格を持っている彼らは、不思議なことに表情だけは等しく同じに見えた。つまりは皆が操られたように無表情だったのである。
その画一性はどこか機械を思わせる。そんな彼らが一斉に視線を向けてきたのだ。その異様な光景は、ちょっとしたホラー体験であった。俺を威圧することがカブラエルの目的であったならば、十分に目的を達成できたといえるだろう。
「……お義父様」
そんなことを考えていると、右隣で跪く吉継が小声で呼びかけてきた。
ちなみに俺と吉継の前には誾がおり、この場にいるのはこの三人だけである。長恵は中に入ることを許されなかった――まあ、素性がばれても困るので、仮に許されたとしても、ここにはいられなかっただろうが、ともあれそういうわけで長恵は各処を見てまわっているはずだった。
俺の沈黙をいぶかしむように、カブラエルが再度口を開く。
「どうされました、別働隊の指揮官であるイザヤ殿に遠慮しておられるのですか? しかし、策の根幹を定めたのは雲居殿なのでしょう? まさかフランシスより特にイザヤ殿を助けるように命じられて無為無策であったはずもありますまい。であれば、その遠慮は不要のもの。あるいは、もしやと思いますが、ゆえなく異教の者どもをかばうような真似をしていたわけではないでしょうね?」
その言葉に、吉継だけでなく誾までも気遣わしげにこちらをうかがってくる。
吉継も誾も、この大聖堂に満ちる敵意を総身で感じ取ったのだろう。特に誾は戸惑いを隠せない様子だった。南蛮神教がなにかしら企んでいるだろうことは伝えておいたのだが、ここまであからさまに排斥を企んでくるとは考えていなかったのかもしれない。
それも指揮官である誾自身ではなく、その下に配された俺を標的にしていることは、カブラエルの言葉からも明らかであったから、誾の戸惑いもむべなるかな。
見れば、宗麟の顔にも戸惑いが感じられた。
その一方で、周囲に居並ぶ者たちは先刻とかわらず無表情のままである。
それら諸々の観察から、今回、カブラエルがどの程度まで踏み込んでくるつもりであったのかを推し量る。
まあ、さして難しくもない。標的はあくまで俺、そしておそらくは吉継まで。現段階で誾を――ひいては宗麟との対立までもっていくつもりはない。
島津がいまだ健在である以上、これは十分に予測できたことであった。
ゆえに、俺は胸の内に温めておいた台詞を口にする。
「少し、驚きました」
俺の言葉に、カブラエルが怪訝そうに目を細める。内容はもちろんのこと、俺が少しも動じた様子を見せないのが意外であったのかもしれない。しかし、すぐにその表情は微笑の下に隠れてしまう。
「驚いた、とは何に対してですか?」
「布教長に、そしてここにいる方々に、それがしの意図が伝わっていなかったことが、です。そこまで不満が高まっていることを知らずにいたはそれがしの責。布教長には要らぬ迷惑をかけてしまったようで申し訳ありませんでした」
「ふむ、ではやはりしかるべき理由があったということですね。説明していただけますか?」
「無論にございます。確かにそれがしは戦地にて、たとえ異教徒といえど無闇に殺さぬよう努めました。報復に猛る者たちをおさえるように戸次様に申し出たこともございます。それが大友家のためになり、ひいては宗麟様や布教長が説かれる神の教えに沿う行いであると考えていたからです」
その言葉に、一瞬、聖堂内にざわめきがはしった。
それは半ば怒りの声であったように思われる。同胞を殺めた異教徒への慈悲が、神の教えに沿うものである、という俺の言葉は彼らには到底受け容れがたいものであったのだろう。当然といえば当然の反応であった。
彼らの中の何人かは声を荒げようとする素振りを見せたが、カブラエルが片手をあげると、それらの者たちはぴたりと口を噤んだ。
「……これは異なことを仰いますね。此度の聖戦の発端、忘れたわけではないでしょう?」
「無論、おぼえております。罪なき者たちを殺めた者どもには相応の報いを与えねばなりますまい」
「それがわかっているのであれば、異教徒への慈悲、という今のあなたの言葉は出てこないはずなのですが?」
俺はわずかの沈黙の後、口を開いた。ただしそれはカブラエルに答えるためではない。
「布教長、それについてお答えする前に、一つお教えいただきたいことがございます」
「問いに問いで応じるのは褒められた行いではないと思いますが……しかし、雲居殿にとってそれが必要だというのであればお答えしましょう」
「感謝いたします。では――知らぬ、ということは罪なのでしょうか?」
俺はそう言いつつ、懐から一冊の本――聖書を取り出してみせる。
いちはやく反応したのは、カブラエルではなく、宗麟だった。
「雲居様、それは……」
「少しでも大友家と宗麟様のお役に立つべく、携えるようにしております」
驚く宗麟に、平然と嘘をつく俺。
隣では吉継が慎み深く、頭を下げて表情を隠していた。
そうとは知らない宗麟は、胸の前で両手を組んで、素直に感動をあらわにしていた。疑う素振りも見せないその様子に、少しばかり胸が痛んだが、とりあえず今は気にしないようにする。
「すばらしいことですわ。雲居様がみずから神の教えに触れてくださるなんて……道雪からは、雲居様は別の教えを奉じていると聞いていましたから」
俺はそれには直接こたえず、話を進める。
「それがしは宗麟様や布教長にお会いして、こうして真の神の教えに触れることが出来ました。これはとても幸運なことです。逆に言えば、世の人々の多くは、それがしのような幸運に浴することが出来ずにいる。宗麟様も神の教えに触れられる以前は、異なる教えを奉じておられたかと存じます」
かつて宗麟が父の影響を受けた熱心な仏教信者であったことは有名な事実である。
俺の言葉に、宗麟はカブラエルの方をうかがいつつも小さく頷いてみせた。
俺は聖書を懐にしまいながら、なおも言葉を紡ぎ続ける。
「生に苦しむ者の目の前に、聖書と異教の書物が二つながらに置かれ、その双方を読み比べた上で異教を選ぶのならば、それは非難されてしかるべきなのかもしれません。しかし、その者の前に異教の書物しか置かれていなかった時、苦しみに耐えかねた者が異教に救いを求めること――神は、これを罪と断じるのでしょうか。その命を奪うに足る罪業とされているのでしょうか?」
俺の問いに対し、カブラエルはやや目を細めつつ、ゆっくりと答えた。
「……それを罪と断じるならば、私たちのような宣教師は海を越えようとはしなかったでしょう。神の存在を知らぬ地に、神の教えを広め、迷い苦しむ人々を一人でも多く救うこと。それこそが私たちが神から与えられた試練であり、同時に喜びでもあるのです」
「返す返すも見事な志、布教長をはじめとした皆様がこの国に来てくださったことに、それがしは感謝の念を禁じ得ません」
俺はそう言って、宗麟の顔に視線を据える。
「――もう、それがしの答えはおわかりになられたかと存じます。それがしが高千穂の地で守ろうとしたのは、まことの神を知らざるがゆえに異教を信じてしまった者たち――それはすなわち、宗麟様や布教長に出会う以前のそれがしに他なりません。彼らは、神に叛いたのではなく、ただ知らなかっただけなのです。まして高千穂の民が、此度の虐殺と無関係であることは地理的に見ても明らか。宣教師の方々がかの地に赴き、南蛮神教の教えを広めたならば、彼らはそれがしと同じように神の教えに従い、大友家のために尽くしてくれるものと考えております」
一息でそう言い切ってから、俺はあらためて深々と頭を下げる。
「以上が、それがしが高千穂でとった行動の理由でございます。狭く拙い見識で、己を愛するごとく隣人たる彼らを愛したつもりになり、他の方々への説明を不要と判断したのはそれがしの責。その結果、要らざる混乱と不審を招いてしまったこと、まことに申し訳のしようもございません。いかような罰もお受けする所存にございます」
俺の言葉が途切れるや、聖堂内は再び静まり返った。
俺はことさらカブラエルや南蛮神教に対して異議を唱えたわけではなく、あくまで自身の行いを南蛮神教の教義に即して説明しただけであり、付け焼刃とはいえ、一応それらしく聞こえるように工夫した。
この沈黙は得心や諒解にはほど遠かったが、少なくとも俺に向けられる敵意の量が増えたようには感じられなかった。
とはいえ、所詮は付け焼刃。俺の言動を心得違いだと否定して、今この場で処断することは不可能ではない。なにせ聖書の解釈、神の教えの本義を判断する第一人者はカブラエルなのである。もしカブラエルがなりふりかまわす俺を始末するつもりで今日のことを仕組んでいたとしたら、俺が神の教えを歪めて聖戦を汚したなどと言い立て、この場で始末しようとしたに違いない。
しかし、この場には宗麟がいる。南蛮神教に触れる以前は宗麟も異教徒であった、という俺の指摘はまぎれもない事実であり、カブラエルはこれを罪とする論調を用いることが出来ない。
無論、それを避けて俺を処罰することも出来るが、今の宗麟の様子を見るかぎり、俺の言葉に反感を抱いた様子はなく、むしろ共感を抱いた節さえ見て取れる。俺は高千穂の人々を過去の自分に重ねたと口にしたが、それはつまり宗麟にも同様のことが言える――そのことに思い至ったのだろう。
吉継たちにも話したが、おそらくカブラエルは、その気になれば宗麟を排斥できるだけの準備をととのえている。それはこの時期にムジカの名があらわれていることからも推測できた。
しかしその一方で、島津をはじめとした敵国が健在な今、まだ大友家の力が利用できることも事実である。
であれば、カブラエルは有用な戦力を敵にまわすような真似は出来るかぎり避けたいはず。もし俺を容易ならざる相手だと警戒しているのであれば、そういった不利益を覚悟の上で潰しにかかってきただろうが――まあその心配はなさそうだ。その表情や口調からは警戒のけの字も窺えない。もしやすると、石宗殿の屋敷で顔をあわせたことさえ覚えていないのかもしれん。
カブラエルにとって、今の俺はうるさくたかる蝿のようなもの。ならば、これを追い払うために腰の刀を抜きはなつ必要はない。南蛮神教の教義を持ち出すまでもなく、俺の言動の矛盾を衝くことはできるのだから。
俺のその考えは、次のカブラエルの言葉で現実となる。
「雲居殿のお話、とてもよくわかりました――そう申し上げたいところなのですが、残念ながらそれはできません」
宗麟が驚いたように目を瞠ってカブラエルを見るが、カブラエルは視線を俺に据えたまま、言葉を続けた。
「何故なら、それを認めれば、他ならぬフランシスが大いなる罪を負うことになるからです。高千穂において異教の者たちに情けをかけた雲居殿の行いが、神の慈悲にそった正しいものであるとするならば、このムジカにおいて、同胞の無念を晴らし、邪教を殲滅すべく命がけで戦った信徒たちと、それを率いたフランシスの戦いが誤ったものであり、神の教えにそむくものである、ということになってしまうからです。雲居殿は主君であるフランシスが涜神の行いをしたと主張されているに等しいのですよ」
これを諒とすることは、私には出来かねるのです。
沈痛な表情で語るカブラエル。確かに高千穂の別働隊のやり方を是とするなら、ムジカの本隊のやり方は非とならざるを得ない。
それはつまり、この場にいる者たちを否定することである。周囲からの視線の圧力が一気に増したように思われた。
しかし――
「布教長。それがしはこの場に参ってより一度たりとも、みずからの行いが正しかったと主張してはおりません。口にしたのはただ驚いたという一事のみ。もとよりこの身は洗礼すら受けておらぬ凡夫に過ぎず、宗麟様と布教長らの深慮におよぶはずもないのです。ゆえに誤っていたは、疑いなくそれがしでありましょう。聖戦の一翼を担う栄誉を賜りながら、その責務を果たしえなかったことはどれだけ詫びても足りるものではなく、いかなる罰も謹んでこの身で受ける所存にございます――先刻申し上げたように」
俺はあっさりとみずからの非を認め、再び深く頭を下げた。
頭を下げたため、宗麟の表情も、カブラエルの様子も窺うことができなかったが、確かなのは俺の頭上に降ってきたのは沈黙のみである、ということであった。
カブラエルが俺の反応をどう予測していたにせよ、ここまであっさりと非を認めるとは思っていなかったのか。あるいは、あまりにも予測どおりで、かえって手ごたえの無さにあきれ果てているのかもしれない。
まあ正直どちらでもかまわない。
もしカブラエルを論破する必要があったなら、俺はここで聖戦とやらの醜行がどれだけ大友家の害になっているのかを高らかに主張しただろう。
しかし、今ここでそれをすれば、カブラエルを筆頭とする南蛮勢力との関係が敵対の方向で尖鋭化してしまう。カブラエルが今の段階で大友家を敵にするつもりがないように、俺もまた今の段階でカブラエルらを敵とするつもりはなかった――より正確に言えば、敵対するとしても、それを衆目に明らかにするつもりはなかった。
その挙に出るのは、もう少し後――南蛮勢力がその野心をあらわにしてからである。
つまりは、俺ははじめからカブラエルを相手取って宗教論を競うつもりなどなかったのだ。
正直、それをしたところで勝ち目もない。カブラエルは曲がりなりにも石宗殿と論を戦わせたほどの見識の持ち主、おまけにこの場は完全に敵地であるから尚更である。
ならば、何のためにわざわざ危地に足を踏み入れたのか。
それは南蛮神教という名の神殿の奥深くにこもる人物――大友フランシス宗麟に声を届けるためであった。
問題は、その神殿には常に柔和な微笑を湛えた司祭がおり、どれほど必死な声でも、どれほど真摯な願いでも、彼にとって都合の悪いものは掻き消されてしまい、神殿の中にいる人には届かないことである。
しかし、どんな物事にも例外というものは存在する。
たとえば今の俺の立場がそうであった。
これまで宗麟に向けられた声はみな南蛮神教という枠の外からかけられたものだった。これは石宗殿にしても、道雪殿にしてもかわらない。どれだけ道理に即し、現実を見据えた意見であっても、枠の外からの声は宗麟には届かない。これに関してはカブラエルのせい、というよりも、宗麟自身に耳を傾ける意思が薄いのだ。
その点、今の俺は洗礼こそ受けていないが南蛮神教という枠の中にいる。少なくとも、宗麟の目からはそう映っているだろう。
そしてカブラエルと異なり、南蛮神教の枠の中で俺は宗麟の下に位置している。
地位や立場に関係なく、ただ一介の信徒として、宗麟に信仰の何たるかについて教えを請うことが出来るのだ。それをするのは、おそらく俺がはじめてではないだろうか。なにしろ宗麟のすぐ近くにはカブラエルがいる。大抵の人間は、信仰について悩みがあったときはそちらに縋るだろう。
個人としての宗麟が抱く神への思い。あるいは道雪殿であれば、過去にそこに触れようとしたことがあったかもしれない。しかし、やはり道雪殿は南蛮神教の外にいる人物である。宗麟としても虚心に語るわけにはいかなかっただろう。
あるいは宗麟が道雪殿に幾度も改宗をすすめたのは、そういった意味も含んでいたのかもしれない。
道雪殿が改宗すれば、宗麟は大友家当主としてではなく、一人の人間として、共に語ることのできる相手を得ることができるのである。
……無論、それらは俺の勝手な推測であり、真偽は定かではない。
だが、今この場にあって、俺の問いかけは過去の誰よりも宗麟の耳に響くであろうという考えは揺らがない。
「宗麟様、先刻、私は知らぬことは罪なのかと布教長にお訊ねしました。今、もう一つの問いを、宗麟様に向けることをお許しいただけましょうか?」
「どうぞ、なんなりと。ここにはカブラエル様もいらっしゃいます。訊ねたいことはすべて明らかにしてくださいませ」
「ありがたき幸せ」
俺は宗麟の許しを得て、ゆっくりと口を開いた。
「さきほど布教長は仰いました。『神の存在を知らぬ地に、その教えを広め、迷い苦しむ人々を一人でも多く救うこと』こそ神が与えた試練であり、幸福である、と。神は望むと望まぬと、好むと好まざるとに関わらず人に試練を与えられると聞きますが、宗麟様にとって試練とは何なのでしょうか?」
俺の問いに対し、宗麟は静かに瞼を閉ざし、胸の前で両手を組む。
その姿には力みも戸惑いもなく、あるいは俺の問いを予期していたのかもしれない――そんな考えさえ浮かんでくる。
しかし、おそらくそれは違うのだろう。宗麟の答えを聞き、俺はそう思った。おそらく俺の問いに対する答えは、宗麟にとって今さら考えるまでもないほどに自然に胸に抱いているものだったのだ。
すなわち、宗麟はこう答えたのである。
「……わたくしは咎人です。この身に背負う罪はあまりに重かった。そんな時、カブラエル様に出会い、真の神の教えを知り、慈悲を受け、わたくしは救われました。もしあの時、カブラエル様にお会いしていなければ、わたくしは遠からず罪の重さに耐えかね、押し潰されていたことでしょう」
そう言って宗麟は信頼と親愛に満ちた視線をカブラエルに向ける。
カブラエルはそれを笑顔で受け止め、そっと宗麟に手を差し伸べた。
差し伸べられた手にそっと自分の手を重ねながら、宗麟は俺を見て言葉を続けた。
「わたくしは神とカブラエル様によって赦され、救われました。そうしてフランシスという洗礼名を授けられた時、思ったのです。この幸福と安寧を、わたくしだけでなく、より多くの人たちに与えたい、と。大友という大家に生を受け、多くの苦しみを経て当主となったのは、まさしくそのためなのではないか、と」
柔らかい微笑を俺に向けながら、宗麟は問いへの答えを口にする。
「わたくしは日の本のすべてに神の教えを広めたい。それがどれだけ困難なことであるかは重々承知しています。それでも、わたくしは歩みを止めるつもりはありません。その困難こそが、神がこの身に与えたもうた試練であり、その試練を乗り越えることこそがわたくしにとっての幸福に他ならないからです」
その言葉に込められた深い決意と確信に、俺は知らず息をのんでいた。
思いがけない言葉――ではなかった。むしろ予想どおりといってよい。宗麟が盲信と呼べるほどに南蛮神教に耽溺していることは、誰知らぬ者とてない事実である。
にも関わらず、俺は宗麟の真摯な眼差しに気圧されるものを感じていた。血と泥で水底さえ見えない川も、源流まで遡れば澄んだ水が湧き出しているもの。現在の大友家は内外に血泥を撒き散らす惨禍に等しいが、その源は宗麟のこの思いであったのか。
無論、だからといってこれまでの宗麟の行動や選択が正当化されるものではない。悔い改めて、めでたしめでたしで終える術は、たぶん九国のどこを探しても見つからないだろう。
しかし。
宗麟がその妙なる意思と酷なる現実の乖離を正すことが出来たなら、それは大友家のみならず、九国、ひいては日の本にとっても佳良であろう――少なくとも、このまま宗麟が彷徨を続け、大友家が南蛮勢力に食いつぶされるよりは、はるかにましであるはずだ。
そんなましな未来にたどり着くためにはどうするべきか。
南蛮神教から離れるように口にしたところで、宗麟は決して肯わない。
ならば、その信じる教えにそって問いかければ良い。宗麟のこれまでのすべてを覆すためではなく、省みることが出来るように。
「お答えいただき感謝いたします。フランシス様の御心を知るを得て、安堵いたしました」
俺が「フランシス」と口にした時、宗麟はわずかに背筋を伸ばしたように見えた。宗麟が自身を「宗麟」ではなく「フランシス」と呼ばれることを望んでいることは幾人かの人たちから聞いている。
「雲居様……安堵、とは?」
「それがしの行いが、決して間違いではなかったとわかったからです」
先のカブラエルの発言を思いっきり無視して、俺はそう言い放つ。視界の隅でカブラエルが口元を引きつらせているのが見えたが、横槍をいれる隙なぞ与えない。
「布教長は知らぬことは罪ではないと仰った。フランシス様は赦しと救いをもって、民の幸福と安寧を求めると仰った。高千穂において、まつろわぬ者たちをことごとく討ち滅ぼすがごとき行いをしていれば、それはお二人のいと高き心を汚し、千載に大友の悪名を残す結果となっていたことでございましょう」
俺はそう言ってから表情を陰らせる。
「無論、裁かれねばならない罪というものは存在するのでしょう。神は幾度もまつろわぬ者たちを討ち果たしたと聖書には記されてありました。しかし、フランシス様も布教長も神ならぬ人の身、この地において神罰の代行者となられ、やむをえず多くの咎人を討ち果たし……そのことで、慈愛の心持つお二人がどれだけ心を痛められたのか、それがしには想像すら出来ませぬ」
……なんというか、心にもない言葉をこうも滑らかに発している自分に、我がことながら戦慄を禁じえない。
右隣から頬を刺してくる視線が痛かった。が、ここで口ごもれば、わざわざムジカまで出向いた理由の一つが失われてしまう。あと少し、羞恥心に蓋をしておこう。
「ゆえにそれがしが出来るのは、これ以上、お二人がその心を痛めることのないように努めることのみ。まつろわぬ者たちを討つはそれがしにお任せください。フランシス様がなさるべきはそのような小事ではなく、己の敵すら赦し、慈しむこと。それはフランシス様でなければかなわぬことです。此度の戦で、大友軍は大いなる罰を体現いたしました。一罰百戒、もはや同胞がゆえなく害されることはなくなったと見て良いでしょう。これより後は、フランシス様の赦しと救いをもって、この地の民に神の慈悲の何たるかをお示しくださいませ。さすれば、布教長もいらっしゃること、皆、喜んで神の栄光をたたえ、その教えにひれ伏すことでございましょう」
それはとても困難なことである。言うは易し、とは誰もが思うところだ。
しかし、宗麟自身が口にしたではないか。
日の本に神の教えを広めるための困難こそが、神から与えられた自分の試練である、と。
殺すことと赦すこと。どちらがより困難であるかなど言を俟たない。
ムジカを神の栄光で満たすために、宗麟がすべきことは何なのか、誰よりも宗麟自身がわかっているだろう。
「……それがしがフランシス様にお仕えするに至った奇縁の意味、今ならばわかるように思います。この雲居筑前、フランシス様をお守りする楯となることを改めてここに誓いましょう。どうか御身が信ずる道を往かれますように」
言い終えて、俺はほっと息を吐き出す。沈黙の帳が聖堂を包み込んでいくのを感じながら、俺は言うべきことは言ったと示すために深々と頭を下げた。
◆◆◆
路傍に品物を並べ、道行く人を呼び止める者たちが軒を連ねている。
トリスタンは足早に街路を歩きながらも、その光景を興味深く眺めていた。
並べられている品物は様々だが、主なところは野菜や肉といった食料のようだ。おそらくムジカ周辺の農民たちが金銭の収入を得るために足を運んできているのだろう。
それ以外に目につくのは、寒気をしのぐための衣服や毛皮、あるいは年季の入った刀や槍をはじめとした武器を商っている者たちである。
一方で簪や髪飾りといった装飾品の類はまったくと言っていいほど売られていない。しかし、それは不思議なことではない、とトリスタンは思う。ムジカにおける買い手のほとんどが、聖戦に従事する将兵――つまりは男性なのだ。装飾品なぞ売れるわけはないのである。
その意味で、女性である自分の姿が人目を惹くのもまた致し方ない、とトリスタンは考えていた。
しかし、実際はトリスタンの考えは微妙に的を外している。
確かにムジカにおける男女比は著しく偏っているが、周囲に女性の姿がないわけではない。商いのために軒を連ねている者たちの中にも女性はいるし、少し奥まったところに入り込めば、こういった戦場では付き物の女たちの姿を目にすることもある。
ゆえにトリスタンが注目を集めているのは、ただ女性であるという理由だけではなかった。
今日は聖騎士の証である銀の甲冑は身につけていないが、そうでなくともトリスタンの亜麻色の髪と青い双眸はこの国の人間にとって珍しいもの。くわえて、その腰には精緻な細工の施された長剣がつるされているのだ。
その容貌とあいまって注目が集まるのはむしろ当然といえるのだが、トリスタン本人にはあまり自覚がなかった。たとえ誰かにそれを指摘されたとしても、意に介すこともなかっただろう。
人々の視線のただ中を、トリスタンは律動的な歩みで通り抜けていく。
商人たちの声に混じって、街の各処から家屋敷を建てるための槌の音が響いてくる。三万を越える信徒たちが大聖堂建設に携わっている以上、その生活を成り立たせるための基盤を整えるのは、大友軍としては当然の措置であった。
だが、それを考慮してなおムジカの発展ぶりは瞠目に値する。トリスタンは、事あるごとに五ヶ瀬川河口に停泊中の旗艦と、ムジカの大聖堂を行き来しているのだが、来るたびにそれとわかるほどに発展していく街並みと、それを成し遂げてしまうこの国の民には興趣が尽きなかった。
いつぞやトリスタンはこの国の民の勤勉さと従順さに驚いたものだが、今ではその意見に多少の修正をくわえている。
勤勉であることは間違いない。考えを変えたのは、この国の民が従順であるという点である。武力であれ、財力であれ、あるいは神の教えであれ。この国の民がただ他者に従うことをよしとする者たちであれば、ムジカを包むこの活気はうまれない。
彼らは一見従順に見えるが、その内に驚くほどの狡猾さを秘めているのではないか。神の教えさえ吸収して、自分たちに都合の良いところだけを抜き取って、更なる発展へと繋げていくその様は、狡猾といって悪ければ柔軟と言い変えることも出来るかもしれない。
もっともトリスタンは他の誰にもこの考えを口にしていない。言ったところで、誰の共感も呼べははしないことがわかりきっていたからである。
特にカブラエルをはじめとした宣教師たちは、この国の民を自分たちにとって都合の良い面からだけ見ているように思えるから尚更だ――と、そこまで考え、トリスタンは不意に首を傾げた。
「……あるいは、今ならカブラエルも気がついているかもしれませんね。この国の民が、決して従順なだけの者たちではないということに」
思い出されるのは、先刻の聖堂での出来事。
あの慇懃無礼を絵に描いたような傲岸な男が、口元を引きつらせているところなど滅多に見られるものではなかった。
もっとも、その姿を見て溜飲を下げるほどトリスタンは小さい人間ではないし、カブラエルにそこまでの関心を払ってもいない。ただみずからの考えが間違っていなかったことの証左を得た、と思っただけである。
あれは戦だった、とあらためてトリスタンは思った。
大声をあげて相手を論難し、自らの主張をぶつけあう――そんな戦ではない。しかし、あれもまた間違いなく戦の一つであった、と。
こと宗教に関する論争において、カブラエルは並外れた力量を誇る。上位の人間に取り入る能力と同じ、あるいはそれ以上の冴えを見せるのだ。それなくして、あの若さで布教長の地位にまで駆け上ることは不可能であったろう。
今回のことも、もし話が宗教に関するものに終始すれば、カブラエルが相手を叩き伏せて終わったであろう。
しかし、相手はそれを知ってか知らずか、カブラエルが得手とする盤面にのぼろうとはしなかった――というより、そもそもカブラエルを相手にしていなかった、という方が正確か。
噂の救世主とやらは、最初から最後までカブラエルではなく、みずからの主君である大友フランシスのみを見ていたように、トリスタンには思われた。
もしカブラエルが、事のはじめから形振り構わずに相手の行動を宗教の面で問い詰めていれば、あるいは押し切ることが出来たかもしれない。
しかし、カブラエルは大友フランシスを憚ってしまった。今の時点で大友家と袂を分かつ心算がないのであれば、それは当然のことである。
相手はそんなカブラエルの反応を予期していたように、その点を執拗に衝いてきた。カブラエルを論破するのではなく、大友フランシスを説き伏せるために。
カブラエルがどれだけ優れた弁舌を持っていようとも、口を開かねば力を発揮しようがないのだから、これは効果的な作戦であったといえるだろう。
もっとも、口舌の徒を好まないトリスタンは、この時点ではまだ雲居という人物を冷めた目で眺めていた。してやられた形のカブラエルが黙っているとも思えなかった。
事実、あの後、雲居はカブラエルから敵地への使いを命じられている。無論、実際に命じたのは雲居の主君である大友フランシスであるが、あれはカブラエルの命令と言っても差し支えないだろう。
そしてその命令とは、これから矛を交えるであろう相手の城に赴き、此方へ従うようにと伝えること――それは事実上「死んでこい」と命じられたに等しい。
トリスタンは、雲居がなんと言ってこの無茶な命令を拒絶するのか、とわずかながら興味を抱いた。その内容如何で、雲居の為人をはかることが出来るだろうと考えたのである。
慌てふためいて拒絶するか。
冷静さを保って理詰めで謝絶するか。
あるいはトリスタンが考え付かない弁舌でもって拒否するか。
答えはそのいずれでもなかった。
――雲居は、いっそ晴れやかに、にこりと笑って頷いたのである。
むしろ命じたカブラエルの方が驚愕を隠しきれていなかったように、トリスタンには思われた。
「ただの口舌の徒、というわけではないようね。あれが虚勢でないとしたら見事なものだけど……ん?」
トリスタンは不意に眉をひそめた。
なにやら騒々しい物音が耳に飛び込んできたからである。しかも、なにやら剣呑な叫び声も聞こえてくる。
発展著しいムジカには多くの人間が流れ込んできている。騒ぎも喧嘩もめずらしいものではないし、トリスタンにはそれを静める義務もない。
しかし、血相を変えて駆け回る者たちが、いずれも同郷のものであれば話は別だ。
まして彼らが追っているのが、見目麗しい黒髪の女性であるならば尚のことである。
トリスタンはその光景を見ても、すぐに駆けつけようとはしなかった。女性の身ごなしや表情を見れば、追われているのか、追わせているのか、悩む必要もないほどに明確だったからである。
「どう見ても、追う者たちより追われる者の方が強いわね。放っておいても問題ないような気もするけれど……そういうわけにもいかない、か」
そう呟くやいなや。
トリスタンは飛鳥のようにその場から駆け出していた。